長嶋はゴロの種類を九つに分類して捌いていたという。
彼が単なる勘だけで野球をやっていたというのは大きな誤解であることがこの事から垣間見える。
メジャーリーグでは "オズの魔法使い" とまで言われたオジー・スミスをはじめとして守備だけで人を魅了し、ゲームの流れさえ変えてしまう事のできる選手がいる。
守備に堅実さばかりを求めるのは日本人の気質としては無理からぬ事でもあるが、華やかな守備で、それだけでメシが食える程の選手が日本にも出てきてくれると面白いのだが。
オジー・スミス。
これはしかし民族性の問題まで孕んで来る内容といえる。
つまり、集団性が常に日本では個よりも優先されるという心理的な力学の構造である。
これは美質でもあるが、あるときには弱点ともなる。
サッカーなど観ていれば顕著であろう。
史上最強といわれ、高い目標を掲げ、高度なチームプレーを練り上げたはずの日本代表チームが、一勝も出来ずにワールドカップで敗退した理由も結局そこに辿り着くのではないか。
世界のトップレベルにおいて、サッカーという競技で最後の最後で差を分けるモノは個々の突破力であろう。
子どもの頃から高いレベルでチームプレーを叩き込まれた日本人選手は、いつもこの最後のところで弱く、頼りない。
サッカー協会が本気で世界で勝とうとするならば少年サッカーの在り方から見直さなければ、どんなに優秀な外国人監督を招聘してきても難しいのではないかと思う。
もちろん、少年サッカーの主眼が協調性を育み、組織の中で機能させる訓練なんだと、そう言い切れるならば別にそんな必要はない。
話がついついそれたが、ついでに言うと守備という要素において、今一番観ていて面白い内野手はアトランタ ブレーブスのアンドレルトン・シモンズだろう。
彼はオジー並の身体能力と守備の安定感に加えて、球際の強さ、グラブ捌きの上手さ、そして何よりも強烈に強い肩がある。
その送球速度は158キロにも及ぶといわれ、内野手の域を遥かに逸脱している。
何よりも彼はまだ若い。
これからどれだけの選手に進化していくか楽しみな選手である。
ー 話を戻そう。
前田智徳という打者はそういう意味では純血の "野球人" であり、強い個性のうごめく時代の最後の生き残りの一人であった。
それはチームプレーという角度から焦点を合わせれば、必ずしも褒められたモノにならない時もある。
実際、それが理由で前田と感情的に対立していた選手もカープ内にはいた。
だが彼のその姿もプレースタイルも、日本における "野球" の発祥の原初の在り方そのものの顕れであると言っても大袈裟でないかもしれないことを考えれば、やはり私は前田の様なスタイルの選手を擁護したい。
そしてどうしてもそこには "剣士" としての日本人の本能が息づいている気がしてならないのである。
落合の構えもまた剣術の達人の如き空気感を纏っていた。
これは後に「日本人論」としてまとめるつもりであるが、日本人が千年に渡って磨き上げた剣と共にある生活の記憶は ー 、我々現代人の身体にさえまだ染み付いていて消えはしない。
我々が前田やあるいはイチローに、サムライとか剣士としての姿をダブらせてしまうのはその辺に根拠があるのかもしれない。