さてー ここで核兵器について論じるつもりなどさらさらない。
だが、広島東洋カープというチームは、その核兵器による人類史上最初の犠牲となった場所で ー 命がけで生き延び、必死で復興しようと闘った人々の願いから生まれた球団であるという事を知らなければ、カープとはどういう集団なのかを知る事にはならない。
当時は草木も50年は生えないー 、そう言われた絶望の中で広島市民は終戦を迎えたのである。
だが彼らはたくましかった。
放射能という未知の危険も顧みず、その故郷を捨てる事なく、踏みとどまって闘った。
そんな広島市民が、"復興の旗印" として求め、希望の灯火として望んだのが広島カープなのである。
もともと野球が盛んな土地であった。
現在でも広島出身のプロ野球選手は多い。
「廃墟の街に球団を作ろうー。」
人々の思いは熱気を帯び、設立運動は徐々にひろがり、ついに1950年、市民の願いは形となる。
広島城が "鯉城" という雅称を持つ事にあやかって、その球団名は "カープ" と名付けられた。
鯉は滝を這い上がり、やがて龍となるといわれるー 。
廃墟の街で生きる人々にはそんなイメージも託されていたことだろう。
広島市民達は当時、"カープ" という言葉を聞くだけで熱くなり、その話題は熱気に包まれたといわれる。
私は、広島カープが好きという ー ただそれだけの理由で、知り合いの一人もいない広島にふらりと行って4年ほどくらした過去があるが、当時でさえ、広島県民にとってカープは特別な存在であった。
まだ気の荒い、"仁義なきー" の登場人物そのままの様な人間がたくさんいた頃の広島で、例えば巨人軍の帽子をかぶって街を歩こうものなら、ただそれだけで目をつけてケンカをふっかける、広島にはそういう愛すべき土地柄がある。
まして戦争が終わったばかりの混乱期、人々の気はすさんでいた。
そんな頃、カープという球団がどれほどの熱気と共に生まれたか、想像する事はそれほど難しくない。
原爆の罪悪性について語ったが、そんな事を声高に言う広島県民にはあまり出くわさなかった。
彼らは過去は過去として割り切り、明るく逞しく、前に進む事しか考えていない。
どこかの国がいつまでも過去を持ち出し、誇大化し歪曲し、自国民に負の遺産を教育によって刷り込み、捻じ曲がった歴史観と卑屈な民族意識しか与えていない事と比べると、まったくもって見事な人達だと思う。
私が広島カープが好きになっていった理由はこういう所にある。
驚くべきことは、世界の弱小国、特に大国の近くでいつも泣き寝入りを強いられている様な国に広島カープファンがいるということであろう。
彼らにとってカープとは何かなどわかりはしない。野球すらよく知らないだろう。
だが、アメリカという超大国と果敢に戦い、コテンパンに打ちのめされてもなお這い上がった日本人、そして広島市民と広島カープ。
それは彼らにとって生きる勇気をくれるシンボルであるらしい。
日本で唯一の市民球団、広島東洋カープとはそういう球団である。
何よりも嬉しい事はその頃の性格を、組織としてこんにちなお、失っていない点であろう。
だが、広島東洋カープというチームは、その核兵器による人類史上最初の犠牲となった場所で ー 命がけで生き延び、必死で復興しようと闘った人々の願いから生まれた球団であるという事を知らなければ、カープとはどういう集団なのかを知る事にはならない。
当時は草木も50年は生えないー 、そう言われた絶望の中で広島市民は終戦を迎えたのである。
だが彼らはたくましかった。
放射能という未知の危険も顧みず、その故郷を捨てる事なく、踏みとどまって闘った。
そんな広島市民が、"復興の旗印" として求め、希望の灯火として望んだのが広島カープなのである。
もともと野球が盛んな土地であった。
現在でも広島出身のプロ野球選手は多い。
「廃墟の街に球団を作ろうー。」
人々の思いは熱気を帯び、設立運動は徐々にひろがり、ついに1950年、市民の願いは形となる。
広島城が "鯉城" という雅称を持つ事にあやかって、その球団名は "カープ" と名付けられた。
鯉は滝を這い上がり、やがて龍となるといわれるー 。
廃墟の街で生きる人々にはそんなイメージも託されていたことだろう。
広島市民達は当時、"カープ" という言葉を聞くだけで熱くなり、その話題は熱気に包まれたといわれる。
私は、広島カープが好きという ー ただそれだけの理由で、知り合いの一人もいない広島にふらりと行って4年ほどくらした過去があるが、当時でさえ、広島県民にとってカープは特別な存在であった。
まだ気の荒い、"仁義なきー" の登場人物そのままの様な人間がたくさんいた頃の広島で、例えば巨人軍の帽子をかぶって街を歩こうものなら、ただそれだけで目をつけてケンカをふっかける、広島にはそういう愛すべき土地柄がある。
まして戦争が終わったばかりの混乱期、人々の気はすさんでいた。
そんな頃、カープという球団がどれほどの熱気と共に生まれたか、想像する事はそれほど難しくない。
原爆の罪悪性について語ったが、そんな事を声高に言う広島県民にはあまり出くわさなかった。
彼らは過去は過去として割り切り、明るく逞しく、前に進む事しか考えていない。
どこかの国がいつまでも過去を持ち出し、誇大化し歪曲し、自国民に負の遺産を教育によって刷り込み、捻じ曲がった歴史観と卑屈な民族意識しか与えていない事と比べると、まったくもって見事な人達だと思う。
私が広島カープが好きになっていった理由はこういう所にある。
驚くべきことは、世界の弱小国、特に大国の近くでいつも泣き寝入りを強いられている様な国に広島カープファンがいるということであろう。
彼らにとってカープとは何かなどわかりはしない。野球すらよく知らないだろう。
だが、アメリカという超大国と果敢に戦い、コテンパンに打ちのめされてもなお這い上がった日本人、そして広島市民と広島カープ。
それは彼らにとって生きる勇気をくれるシンボルであるらしい。
日本で唯一の市民球団、広島東洋カープとはそういう球団である。
何よりも嬉しい事はその頃の性格を、組織としてこんにちなお、失っていない点であろう。