読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

つづきのつづき

2008-03-26 17:13:10 | 本の感想
 それよりも宮台が危惧するのは世俗のシステムの中に取り込まれていない思想や宗教が反社会的行為を誘発するってことで、オウム真理教の引き起こした事件をみても、社会の道徳、倫理にもはや価値を見いださなくなればテロでも殺人でも平気でできてしまうってところだ。宮台は、宗教のような超越性に触れて社会の外に出てしまった存在を「超越系」と呼んでいる。
 私は宮台真司の本を何度読んでも「超越系」とか「内在系」とか全然わからない。かろうじて思い当たるのは、映画「グラン・ブルー」のモデルになった実在のダイバー、ジャック・マイヨールの話。「グラン・ブルー」では最後のシーンでジャックが何かに取りつかれたようになって、恋人の制止を振り切り、素潜りをするところで終わってしまう。なぜ彼はあんなにも潜水に駆り立てられるのか、海の底にどんなすごいものがあるのか、わからないけれども私はこの人はもう死んでしまったのだと悲痛な思いがした。その後「ガイア・シンフォニー」に出演して無呼吸潜水状態の至福体験を語っているのを見たときにはびっくりした。「ああ、生きていられたのだ」と安心した。でも結局マイヨールは自殺してしまった。死ぬ前に兄に「この世に楽園がないことを悟った人間は生きていても仕方ない」という話をしたそうだ。ああ、「楽園」なんてそんなものを知ってしまったらこんなつまんない世の中に生きている意味がなくなる。マイヨールは〈世界〉と接触する方法を知っていた。だからどんなにお金があって、家や恋人をたくさん持っていたってそんなもの至福体験のすごさに比べたら無意味だと思えば、この世=〈社会〉に帰るべき理由はなくなってしまう。

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にも、井戸の中に落ちてしまった旧日本軍兵士の話が出てくる。一日に一度だけ、太陽の光が特別の角度で井戸の底に射すのだけども、それはこの世のものとは思えない美しい光で、その光の謎を解くためだったら死んでもいいと思うほどそれに恋い焦がれて、飢えも渇きも忘れてそれをひたすら追い求めていた・・・・って老人が話す。どんな光だろう。きっと至高の美のようなものなんだろう。私はそれを読んだとき、自分だったら多分もう戻ってこれないだろうなと思った。そして、だからきっと私は一生そんなものを見ることはないだろうと確信した。私はそのようなものに遭遇しないタイプの人間なのだ。それに、遭遇してしまうことは決して幸福とはいえないじゃないか。交通事故に遭うようなものだ。「超越系」の人が現実の社会と齟齬を来さずに生きるのは難しそうだ。

 〈社会〉の外にある〈世界〉を志向して、行ったまま帰ってこなくなる者と、〈世界〉と一体化する体験を持ちながら戻ってきて〈社会〉の中で生きるという選択肢をあえて取った者との違いは何か。先日の荒川沖駅前通り魔事件のニュースを聞いて、「これってあれだな」と思った。酒鬼薔薇事件の少年と同じ「脱社会的存在」だ。
宮台 凶悪少年犯罪を取材すると、〈社会〉にコミットする理由を持たない連中が増えているのがわかります。〈社会〉にコミットするか否かのメルクマールは「平気で人を殺せるかどうか」。僕らが人を殺さないのは、殺してはいけない理由に納得するからじゃない。殺させないように育ったからです。だから殺そうと思っても殺せず、あるいは殺そうという選択肢を思いつきません。
 これは道徳教育のおかげじゃない。コミュニケーションを通じた他者からの承認抜きに自分が自分であり得ないような成育環境に育ったからです。逆に「脱社会的存在」の増加は道徳教育の失敗じゃない。コミュニケーションを通じた他者からの承認抜きに自己形成を遂げ得る成育環境が拡がったからです。そうした成育環境が拡がれば自動的に〈社会〉より〈世界〉が重要であるような若者たちが増えます。

で、「脱社会化」した者の中にはあの通り魔事件の少年のように人を平気で殺す奴もいるけど、多くのものはそんなことはしない。なぜしないでいられるのか。これは宗教的な問題を含んでいて、宮台は映画や文学の中に答えを見いだしている。それを考察したのが雑誌「ダ・ヴィンチ」での連載で、本にまとめたのが「絶望 断念 福音 映画」(メディアファクトリー)。なるほど映画評ってのはそういう意味があったのか。
宮台 連載では暫定的に答えを出しました。「奇蹟へと開かれた感受性」です。オカルトは関係ありません。(笑)レヴィ=ストロースが「野生の思考(原題:三色スミレ)」の中で、寝ころがって三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。キーワードは「ありそうもなさ」。彼は花に奇蹟を見たけど、人やその営みに奇蹟を見出す感受性が「脱社会的存在」を押し留めるんじゃないか。そういう答案を書く作品が映画や小説に目立ってきました。それだけが正答だとは思わないけど有力な解答です。

うーん、私はその映画評の本を読んでも、「ありそうもなさ」ってのが全然わかんないんできっと感受性なんてとっくの昔にすり減ってしまってるんだろうなと思ったよトホホ。
 だって、「アメリカン・ビューティー」に出てくる隣家のサイコ少年が「鳥の死骸」や「風に踊るビニール袋」に奇蹟のような「スゴイもの」を見出すっていうのだ。全然わかんない。私なんか木の下の魚の骨とか電柱に引っかかってはためく空飛ぶ魔女にそっくりな黒いビニール袋とかしょっちゅう見るけどそんなもんに〈世界〉を感じたりしない。夜、塀のそばに立つ白い着物をきたおじいさんとか、池の傍の草むらに潜む黒い雲とか、そんなんも〈世界〉ですか?たぶん、この世と別の世界がどっかで繋がってるのかもしれないけど私にはそういうむずかしいことはわからないのであんまり考えないようにしてる。怖いし。

 ともかく、「脱社会的存在」の起こした犯罪に対してこれから「戦後民主主義の頽廃」とか「道徳教育の強化」とか「生き方のモデルを示せ」とか言う人はアホ認定ね。で、「ゆとり教育」っていうのはそういう感受性を育てる教育を目指していたんで、結果的に学力低下と格差を引き起こしたのは今までの教育を受けてきた教師や親には「感受性を育てる」なんて芸当ができなかったわけ。うんとお金をかけて優秀な人材を育ててください。
 この本(「生きる意味を教えてください」)、タイトルからしてしんどそうな本だと思ったけどなかなかおもしろかった。先日、NHKの「日曜美術館」で「アウトサイダーアート」の紹介があって、田口ランディさんがしゃべっていたのを思い出して買ったのだけどよかった。私は、あの番組で紹介されたアウトサイダーアートこそ「ありえん」と思う。きっと彼らは神に近いところの〈世界〉で生きているに違いないと思うよ。

つづき

2008-03-25 21:25:10 | 本の感想
 「スピリチュアルなものと護憲との結びつき」に対する批判つづき。
宮台 「九条みたいな世俗の対象に全体性を投射してどうするんだ、おまえ」っていうツッコミは重要です。でも「じゃあ僕たちの超越的志向の妥当な受け皿って何なんだ」と、やはり僕みたいな超越系の人間は考える。精神科を受診する「心理学化した人々」もいるかもしれないけど、僕みたいな領域で仕事をする連中は社会政策的解決を志向します。社会のこういうボタンを押せば歩留り八割―周囲に迷惑をかけずに超越系の八割が満足してもらえるんじゃないか―みたいに考える。ガバナンス志向ですね。その意味で「批判よりも安堵」だと思っています。


 ドイツの人々に比べると、日本の人々は自分たちが何を感じ考えてきたのかという歴史に無自覚です。過去の失敗について反省が甘いから同じ失敗を繰り返す。ボン基本法と日本国憲法の国民的な扱いを見れば差は歴然としています。たとえばフランクフルト学派の反省がすごい。旧枢軸国にありがちな超越的志向。これをダメというだけじゃ始まらない。全体性への志向を持ってしまった超越系の人はどうしたらいいか。危険な全体性の比較的安全な代替物が必要です。代替物として、アドルノならば「美学」を、ハーバーマスならば「理想的コミュニケーション状況」を持ち出します。
 アドルノは「美学」に反するものとして近代に懐疑的で、ハーバーマスは「理想的状況」を実現するためのゲームのプラットフォームとして近代に肯定的です。そうした違いがあっても問題意識は共通で、近代において「美学」や「理想的状況」が不可能であることも先取りされている。不可能性を踏まえるという意味で、後期ロマン派に回帰しています。日本ではそうした問いがありましたか。皆無です。だから憲法九条のような具体物が崇高なものとして立ち現れるのです。後期ロマン派と区別がつかない。

 うーん、きびしい。
 で、ここまで書いたとこでちょっとこれとあれとは違ってる気がしてきた。「イカの哲学」は憲法九条に全体性を投射してるっていうより、地球全体を「ガイア」という一つの生命体と捉えてそこに志向している。って平和憲法を地球規模に広げようってとこはおんなじか。それで私なんかは、唯でさえ地球温暖化対策の国際会議で削減目標や地域格差でもめにもめてるのに「ガイアなんて無理無理」、って思う。それに今度は人間だけじゃなくって動植物の生存権も絡むわけだから、シーシェパードのような過激な環境保護団体がいっぱい出てきて、開発反対とか資源の搾取反対とかって闘争を始めそうで嫌だな。中沢新一氏みたいな俗世を超越してる人ばかりじゃないからかえって紛争のネタが増えて、今だって世界中で悲惨な民族紛争や利権争いが起こってるのにそれが「ガイア」くらいで収まるはずがない。波多野氏がそういう発想になったのはシベリア抑留でソ連の思想教育を受けたからじゃないかな。もちろん絶対に共産党員にはならないと突っぱねたと書かれているけど、これって全体主義的な発想じゃないか?「天皇」とか「社会主義思想」とかに殉じるのは嫌だけど地球のためだったら死んでもいいって思ったのじゃないかな。
 とはいえ、私は中沢新一氏のファンだから中沢氏が言うのならそうなんだろうと思っちゃうんで、これはこれで大事にしまっておこう。

 それから田口ランディさんもそうだけど、宮台は改憲派で、民主党の小沢一郎の言ってる「国連の枠組みの中で紛争解決など国際貢献をするために海外派遣」という方向で改憲をするのに賛成している。というのはこのままいくと、ずるずるとどこまでもアメリカの世界戦略に引きずられるかわからないという心配があるからで、だから決して「日米同盟強化」のための憲法改正ではないのだ。今の自民党が目指しているのはアメリカの傘の下での改憲であるから安部政権が改憲を言い出したときは反対のスタンスをとったということを言っている。ここらへん参照。(2007年11月09日の日記)だから憲法改正を実現するには左翼平和運動家の前にまず「日米同盟堅持」の保守と対決して倒さないといけない。そのための政権交代。だけどまず難しいんじゃないかな。イラク戦争のつけがどっと来てアメリカが極度に衰退するとか、日本も費用負担しろって言われて大不況になるとか、新自由主義の蔓延で貧困層が世界的に増大して世界革命が起こるとか、そんな状況にでもならなければ。

田口ランディ「生きる意味を教えてください」

2008-03-25 11:20:55 | 本の感想
 先日、中沢新一・波多野一郎「イカの哲学」(集英社新書)を読んだのだが、「ああ、これはマズイ」と思った。どこがどうマズイのか、うまく言えないのだが、これじゃあ誤解されるばかりで全然説得力がないと思う。私はライアル・ワトソンの本を何冊か読んでいるから「イカから世界平和へ」という発想はピンとくる。こんなのだ。

ライアル・ワトソン「未知の贈りもの」 (ちくま文庫) 巻末の解説 「地球存亡の危機をのりこえるために」 高橋 巌 から

冒頭から読者は思いもかけぬような問いかけを受ける。はじめてこの島に漂着した夜、海中にからだから光を発しているイカの大群を見て、ワトソンはこう問いかけるのだ。イカの目には虹彩、焦点調節可能なレンズ、色やパターンを識別できる敏感な細胞をもつ網膜などが備わっている。一体、これ程までの情報量をイカはどうするのだろうか。その複雑眼球は莫大な情報量を提供ぢてくれるはずなのに、それを処理する脳はあまりにも原始的なのだ。まるで高価な望遠レンズを靴のあき箱にとりつけたような、気ちがいじみた組み合わせになっている。答えはひとつしかない。海洋観察において、イカにまさるカメラ台があるだろうかイカは俊敏、迅速、しかも神出鬼没。昼も夜もあらゆる深さに、あらゆる水温に、世界の海のどの部分にも、何十億といる。それらは眼に見えない高次の生命存在のための感覚器官として存在させられているのではないだろうか。
 読者は本書全体を通じて、この奇妙な問いの答えを見出す作業に参加させられる。次第に明らかになってくるのは、この高次の生命存在が著者自身でもあれば、読者自身でもあり、そしてその背景にあってわれわれを支えている「地球(ガイア)」でもあるということである。地球というすばらしいシステムの中で、真に魅力的で衝撃的なことは、われわれ一人ひとりの中に「イカ的なもの」がある、ということだ、と著者は語る。「われわれは地球の目であり、耳であり、われわれの考えることは地球的思考である。」(42頁)


 イカの高性能すぎる眼はイカ自身のために存在するのではなくて、「ガイア」という高次の生命存在の感覚器官の一部なのであり、私たちはみなその「ガイア」を構成する生命集合体なのではないか、という発想だ。私は昔ユングの本を読んで感動したものであるし、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の自主上映に協力したクチでもあるので、このような考え方はわかるし中沢新一氏が「イカから世界平和を考えた」早世の哲学者波多野一郎氏の著書にぴんときたのもわかる。だけどもこれはマズイ。アブナイ。第一、言葉が通じないだろう。戦争を起こしたい人を説得するにはポール・ボースト著、山形浩生訳 「戦争の経済学」みたいに「結局はすごく損になる」って言わなきゃだめだろう。・・・って、検索をしていたらこの本の批判もあった。(nandaブログより  「戦争はなぜ起こるか?」  「戦争の経済学」

 

 戦争がなぜ起きるかという問題はさておき、昨日、田口ランディの対談集「生きる意味を教えてください」(バジリコ)を読んでいたら、宮台真司との対談の中で田口さんが憲法九条擁護論の在り方にすごく違和感を感じると言っている部分があって、「ああ、これだな」と思った。つまり、宮台真司が「なぜ悪いのか」と解説していて、それが私の「マズイ」を理論的に説明してるみたいなのだ。
田口 だけど、世界は一つだとか、すべては繋がっているという言葉がなんとなく今の時代はかつての左翼思想と妙な結びつき方をしているように思えます。思想的に破綻したものの断片がスピリチュアルに流れこんでいる・・・・みたいな。なんか怖いんだけど、その延長線上にとても心情的に憲法九条は永遠に守らなければいけないとか、第九条を世界中の憲法にしようとか、すごくそういうことを言う人々が出てくる。「広告批評」という雑誌が憲法改正問題で著名人にアンケートをとったときに、改憲派というのがなんと数人しかいなかったんですよ。100人にアンケートをとって回答率が80人くらいで。

私も消極的な改憲派なんです。だからあたしを含めて改憲派だったのは、しりあがり寿さんと私と橋爪大三郎さんともうひとりくらいなんですよ。あとの人々は、吉本隆明さんも含めてみんな憲法九条は大事だからという考え方なんですね。私はもちろん憲法九条を守ろうという人々のなかにもものすごくグラデーションがあるとは思いますよ。ただ、ある種の人々の意見をずっと読んでいくと、そこに「イマジン」が聞こえてくるんですよ、ジョン・レノンが。それとこの問題とがいっしょくたに語られてしまう気味悪さというのがあって、何かわからないんだけれども、この問題ってニルヴァーナの世界とつながってる気がしているわけです。

宮台 なるほど。田口さんの指摘される「九条擁護」と「スピリチュアルなもの」の結びつきは今後顕在化するでしょう。ランディさんのおっしゃった、現実的なものとスピリチュアルなものとが結びつく危険については、1940年代にドイツのヘルムート・プレスナーという思想家が「ロマン主義の陥穽」という形で指摘しました。ドイツのナチズムがいかにして立ち上がったのかという疑問に対する答えとして述べられています。ただし検閲を恐れてプレナーはナチズムのナの字も用いていませんがね。
 プレナーの答えは、ドイツの初期ロマン派が後期ロマン派へと短絡されてプロセスの延長線上にナチズムが出てきたというものです。

これは「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書)が出る前の対談だ。
 ロマン派的感受性とは、たとえば、峻厳なる山並とか荒れ狂う海原であるとかに、〈社会〉を超えた〈世界〉を見出すような感受性だ。私たちは神が特定の対象(シャーマンだったり自然現象だったり)を依り代にして「降臨」するという考え方になじみがあるが、ロマン派的感受性では降臨するのは「世界を超えた神」ではなく「世界という全体性」であるというのだ。なぜこのような考え方がドイツで起こったかというと、政治的混乱のせいでキリスト教会が世俗の権力に靡くほかなく腐敗堕落してしまったため、人々がキリスト教的なものへの期待を抱けなくなり、宗教の代わりのものを求めた結果だという。
宮台 プレナーは、社会を生きる人々の大半に宗教への志向があり、それを受けとめる宗教が存在しないと、ロマン派的感受性―「峻厳なる山並」や「荒れ狂う海原」が〈社会〉を超えた〈世界〉を示すという類―が生まれるとします。そこは〈世界〉が、我々のアクセスを拒む全体性として―不可能なものとして―想像される。だから「峻厳」であり「怒濤」です。これが初期ロマン派的感受性です。これが短絡されて「ドイツ民族」「アーリア第三帝国」「ヒトラー」が崇高だといった形で、単なる内在に過ぎないものを全体であるかのように想像する作法が拡がります。アクセスできる内在として―可能なものとして―全体を想像する頽落した作法が拡がります。こうした頽落形態が、ナチスにつながる後期ロマン派的な感受性です。


 支えるものと支えられるものとの関係が崩れ、あらゆるものが正統性を欠いた恣意的な事実性として現れるのが、近代成熟期=ポストモダンです。「何か全体的なものに資するべくアレがありコレがある」とは思えなくなる社会です。だからポストモダンは超越系にとって辛い時代です。戦後、大東亜共栄圏がダメになり、天皇陛下もダメになりました。昨今では日本国民であることの意味も分らない。愛国を騙る政治家も安倍晋三のようなクソだらけ。いったい自分たちの全体性に対する志向を何に向けたらいいんだ。そう考えると、三島由紀夫や石原慎太郎ならずとも超越系は苛立たざるを得ません。
 そこで、行き場を失った全体性への志向=超越的志向が、憲法九条や平和主義に向かう。本当は「祈り」の対象にしてはいけない政治的形象を「祈り」の対象にしてしまう。その意味で「受け皿の不在ゆえに頓挫した超越的志向を誤射する」というプレナーのロマン主義的感受性の規定が当てはまります。だからランディさんのおっしゃる「スピリチュアルと憲法九条との結合」は不思議じゃない。旧枢軸国と言われた所では、急速な近代化を達成するために後期ロマン派的な疑似超越の形象を利用した後、敗戦によって疑似超越の形象が除去されて、超越的志向が行き場を失う急性アノミーが襲ったのです。この急性アノミーが、日本では非現実的平和主義や全体主義的左翼運動をもたらしました。


長いので一休み。

林壮一「アメリカ下層教育現場」

2008-03-23 23:09:12 | 本の感想
 「貧困大国アメリカ」(岩波新書)と一緒にアマゾンで買った「アメリカ下層教育現場」(光文社新書)を読んだ。著者はアメリカでスポーツ関係のフリーライターをやっている人らしい。ブログがあった。
 ベガスと並んでカジノで有名なネバダ州リノで、大学の恩師に頼まれて著者は「チャーター・ハイスクール」の非常勤講師を勤めることになる。「チャーター・スクール」とは一般の公立学校よりも少人数制できめ細かく独自性のある指導を行うことのできるよう90年代に全米で作られた新しいタイプの学校であるらしいのだが、著者によると現在は一般の学校で落ちこぼれてしまった子の受け皿的な底辺校になっているという。ウィキペディアにもう記述が・・・。そんな学校で「日本文化」の授業を行うのだ。そりゃー、大変だ。教室にはスナック菓子の空き袋が散乱し、授業中に UNOやハッキー・サック(蹴鞠みたいなもんらしい)をやる者、MP3プレーヤーを聞く者、トイレに行ったきり帰ってこない者・・・(マリファナとかやってる)。著者は生徒たちを張り倒してやろうかと一瞬思うが、アメリカで生徒を殴ると逮捕されてしまう。保釈金でアルバイト料なんか吹っ飛んでしまうのでそこはぐっと我慢。工夫に工夫を重ね、体当たりでぶつかってゆく。生徒の集中力が50分くらいしか持たないから、2限目は公園に行って相撲やサッカーやボクシングなんかをやらせる。文字通り体当たりだ。
 生徒のほとんどは貧困層で家庭も崩壊しているから勉強のモティベーションはひどく低い。そういう子らに何を教えるのか。日本のアニメや漫画、童謡、干支などで興味を引き、文章を書かせたり、ディスカッションをさせたり、彼らも最後には自分の名前(カナ)と簡単な単語くらいは書けるようになる。すごい!
 その授業の具体的な様子に「これは並大抵じゃないなあ」とあきれたが、だんだんわかってくる生徒たちの過酷な家庭環境にも驚く。こんな状況から這い上がるのは厳しいだろう。

 著者の授業はおもしろいと生徒の評判を呼び、他のクラスから勝手に聞きに来る子も出てくるが、どうも偏見のあるらしい校長はそれを快く思わず、半年で授業を打ち切ることに決める。残された時間に生徒たちに何を伝えるかを考え、著者は最後に学歴のため苦しんだ自分の体験と、高校時代の同級生が起こした殺人事件を素材にして語る。学ぶことの大切さ、人を見る目を養うこと、決してあきらめずに努力すること。この本の体験もすごいけど、著者自身のそれまでの人生もすごいと思う。ヤンキー先生とかいう人よりもよっぽどましだ。

 その後著者は教壇に立った経験を活かすため「ユース・メンターリング」というボランティア活動に参加する。これは何らかの問題を抱える子供に対し、親でも教師でもない第三者の大人が1対1でサポートし、「子供の友人になること」を目標に掲げて行う活動らしい。この、BIG BROTHER & BIG SISTERという組織は100年以上もの歴史を持つ由緒あるボランティア団体だという。
 インストラクターは、アメリカ社会の暗部にも触れた。
 「低所得者たちのコミュニティーは、常識はずれの大人が独自のやり方で子供と接しています。だから、トラブルが増える一方です。こういった場所では、10歳になるかならないかの歳でアルコール、ドラッグ、喫煙、凶器の携帯などを覚えてしまいます。
 誰かが支えてあげなければ、善悪の判断ができない子供になってしまうのです。貧困エリアは、ドラッグの売人ギャングのメンバーになってしまう子が後を絶ちません。」

それこそ、まさに著者がチャーター・ハイスクールで感じたことで、こういうトラブルを抱える子どもたちをできるだけ早くにサポートすることがこの団体の目的であるらしい。著者はヒスパニック系の10歳の男の子のBIG BROTHREになって小学校に行き、いっしょに給食を食べたり遊んだりする。私が注目したのはここのところ。著者は小学校の校長に話を聞く。
 「担任教師が授業中に生徒と同じ空間にいるのは当然ですが、この学校ではランチルームにも、昼休みの校庭にも必ず先生が何名か立っています。また、我々ボランティアがブラブラすることで、風通しが良くなっているように感じます。大人の目の届かない所で苛めなどのトラブルを防ごうという策なのですか?」
 
「児童に規律を守らせる、マナーを教え込むためには、離れたところからでも常に大人が見ていなければいけませんからね。大人が沢山いれば、ちょっとした会話からでも教育的指導ができますから」
「今、日本では小中学校生の虐めが深刻な問題になっているのですが、非常にいいサンプルだと思いましたよ」
「ええ。いつもオープンにしておく。苛めは大人の見えないところで発生しますから、効果的な作用を齎しているように感じています。やはり年に数回は、そういう問題と直面しますので目を光らせていますよ。学校全体でチェックしています。」

学校にそのような第三者の大人が常にいるということは、問題のある生徒にいい影響があるだけでなく、学校全体が風通しがよくなっていじめの防止にもなるというのだ。

 それで思い出したが、日本でそういうことをやっているのが「よのなか科」で有名な藤原和博校長の和田中学だ。
 参考(WEBちくま 藤原和博×宮台真司対談・司会:鈴木寛)
 今日の「たかじん」で福岡の中学生が大暴れという事件が取り上げられたが、これも学校に第三者の応援が必要だと思った。ここまでひどいと一時的に隔離はするべきだとは思うが、そこからちゃんと教室に帰れるまでに態度を回復させるには学校の先生だけでは無理だ。校長だろうが教頭だろうが、普通の先生は暴力をふるうような生徒に対応する能力はない。そういうスキルをもった人を応援に呼ぶべきだ。それにこの件の背景には地域の問題もあるようで、地域の人たちの意識の改革や協力も必要不可欠だと思う。それにしても「たかじん」でコメントする人たちの意見の下らないこと。(いや、下らないということがわかるようになっただけでも宮台真司の本を読んだ効果があったってことかな)。宮台真司は「親や教師のバカが感染らない教育」ということを言っている。今までのやり方ではもう全然通用しないんだ。

「イラク戦争、2兆ドルの悪夢」

2008-03-22 15:19:00 | Weblog
 先日の朝日新聞に、ニューヨーク・タイムズのコラムからの引用があった。
 海外の提携紙から コラムニスト ボブ・ハーバート「イラク戦争、2兆ドルの悪夢」(3月4日付) 
 前半を引用してみる。
 
イラク戦争の最終的なコストは、数千億ドル程度では収まらない。2兆ドルか、それ以上という驚異的な額が納税者にのしかかる。だが、こうした出費がもたらす結果について語られることは、ほとんどない。まるで米経済をむしばむガンのようだ。
 米議会の上下両院合同経済委員会は先日、イラク戦争の費用について公聴会を開き、参考人としてノーベル賞受賞の経済学者ジェゼフ・スティグリッツ氏、投資信託ゴールドマン・サックスのロバート・ホーマッツ副会長らが呼ばれた。スティグリッツ氏は、戦費総額は3兆ドルに達すると信じている人物である。
 両者が語ったのは、多額の戦費がつぎ込まれる陰で、失われた機会の数々だ。スティグリッツ氏は「この戦費の一部でもあれば、社会保障制度を今半世紀以上にわたって健全に維持できた」と語った。ホーマッツ氏は同委員会の試算を引用した。1日の戦費があれば、低所得層の子ども5万8千人を1年間、就学援助プログラムに登録でき、あるいは低収入の学生16万人に年間の奨学金を提供でき、もしくは国境警備隊員1万1千人か警察官1万4千人に1年間給与を払えた、というのだ。

 それだけではない。帰還兵の医療費や障害給付など目に見えないところで、今後莫大なコストが継続的にかかるだろうと予測されている。そして、ブッシュ政権はこの戦費に関する情報ができるだけ表に出ないように隠し続けているというのだ。

 ついでに昨日の「貧困大国アメリカ」(岩波新書)の補足。
 イラク戦争のせいで経費が削られ、ひどい目にあった例で有名なのはあのハリケーン・カトリーナの被害。老朽化した堤防が決壊してニューオリンズ市内は大洪水に見舞われたが、その対応の遅れの原因は、連邦緊急事態管理庁(FEMA)のが予算が大幅に削減され、組織が縮小、多くの業務が民間委託された結果だった。災害対策のような、国民の命にかかわる部分は、決して功利主義に走ったり民間委託をしてはいけなかったのにそれをやってしまった。結果があのような大被害につながったわけだ。しかも、避難民の多くは被災以来職を失い、家を再建する力もなく、治安の悪さと公共サービスの低下などから帰る見込みもたっていない。それで家を手放す人が後を絶たず、そのような地域が地均しされて高級コンドミニアムやショッピングモールが建てられているとか。「やっと、(貧困者の住む地域が)片付いた。我々ができなかったことを、神が代わりにやってくださったのだ」だってさ。

 また、しわ寄せを受けている一つが奨学金制度だ。アメリカでは大学に行くために本人が奨学金を借りたり借金したりするのが普通であるが、返済不要な奨学金の枠が狭くなったため学生がクレジット破産する例が増えているという。
 アメリカ国内の若年層における平均カード借金額は4000ドルにのぼるが、その原因の一つが政府による成績優秀な者に返済不要な学資を提供する奨学金制度の予算カットだ。
 たとえばアメリカの代表的な連邦奨学金制度であるペル奨学金は、25年前には学生たちの学費の77%を占めていたが、2005年には平均で40%に低下している。これは二期にわたるブッシュ政権下で、アメリカ教育省が同奨学金の受給資格枠を縮めたことが原因だ。その結果、全米で10万人が受給資格を失い、120万人が受給額を削減されている。また、政府は奨学金以外では一般の金融機関が行う学資ローンに利子のみ補助しているが、2005年12月にアメリカ上院は連邦予算調整のためだといって学生支援計画予算から140億ドルの削減を、加えて下院が教育補助関連予算90億ドルの削減をそれぞれ提案し可決されたために、全米の学資ローン利用者の借金には新たに5800ドルが上乗せされた。

 ああ、目を覆いたくなるようなひどさだ。教育が唯一未来を切り開く手段と歯をくいしばって、借金を背負いながらなんとか大学を卒業しても、過去のようによい職に就けるわけではない。低収入、借金地獄のワーキングプアだ。イラク戦争の影響はこれからも長い間アメリカ社会を蝕んでいくに違いない。

 上記コラムニストの3月11付コラム Sharing the Pain.

 貧困層ばっかりにしわ寄せが行って、生存権を脅かされるほどひどい状況というのはまったく間違ってると思う。

堤未果「ルポ貧困大国アメリカ」

2008-03-21 15:07:31 | 本の感想
 火曜日の「爆笑問題のニッポンの教養」『「ニート」って言うな!』の本田由紀先生だったのだけど、例によって太田光が「自分もニートだった」とか、事あるごとに「自分は自分は」と問題を矮小化し、結局「自己責任」というところに持って行こうとするので「違うだろ!」とテレビの前で思わず怒鳴ってしまった。これは番組制作上の計算づくの煽りか?と半分は疑ったが、太田光がそんな台本に素直に従うとは思えないので多分自分の言いたいことだけを喋っているに違いない。私は、2004年に「日本の若者 20%が無職状態」というNHKの調査結果が出た時2ちゃんねるのスレがすごく伸びたことをおぼえているが、「何十社も受けたが採用されなかった」「好きでニート・フリーターをやってるわけじゃない」という当事者の悲痛な声が投稿に反映されていて、私でもこれはただならぬ事態だと思った。今検索していたら「年収200万円以下が1000万人超す」という記事も出てきた。もはや個人の努力ではどうにもならない深刻な状況で、そういう若年者の失業や過酷な労働状況が構造的に作り出されているということを認めようとしないのはただのアホだ。国を挙げてワークシェアの仕組みや社会保障の強化について考えていかなくてはいけないし、負担すべきものは均等に負担しなきゃいけない。太田さんの挑発じみた言い方は、論点をすり替えるばかりで議論が全然深まらない。新聞あんまり読んでないだろう。番組の「リサーチャー」がまとめてきた情報をナナメ読みしてないか?


 貧困・格差は今や世界的な問題で、しかもグローバリゼーションの中から構造的に生み出されているということを気づかせてくれる本を読んだ。堤未果「ルポ貧困大国アメリカ」(岩波新書)
 驚愕のルポルタージュだった。
 例えば、私が最近のサブプライムローン問題についてどうしてもわからなかったことは「こんなローンの返済額じゃ今の年収で払えるわけないということになんでローン組む人が気がつかなかったのか」ということだったが、そうじゃなかったのだ。低所得者がハメられたのだ。もっと言えば、最初から喰いモノにするつもりで金融機関が知識に乏しい低所得層にローンを組ませたのだ。「持家」を餌にして!最初から自己破産してたりクレジットの信用に問題があるような人をターゲットに勧誘し、高い金利でローンを組ませ、払えるだけ払わせて、払えなくなったら家を取り上げて売却する。不動産価格が上昇を続けていた間はそれで利益が出てうまくいったのだ。不動産バブルがはじけた途端にその仕組みがまわらなくなった。しかし、債権は他の金融商品とうまーく抱き合わせて世界中にばらまかれているから、損失を被ったのは詐欺的勧誘をしたローン会社とは限らないはずだ。クソ!詐欺じゃないか。それで人生をめちゃめちゃにされたのは騙された人たちだ。アメリカでは至るところに、このような貧困層を喰いモノにするシステムがある。

 例えば学校。
 2002年春、ブッシュ政権は新しい教育改革法「落ちこぼれゼロ法」(NO Child Life Behind Act)を打ち出した。その具体的なやり方とは、
 全国一斉学力テストを義務化する。ただし、学力テストの結果については教師および学校側に責任を問うものとする。良い成績を出した学校にはボーナスが出るが、悪い成績を出した学校はしかるべき処置を受ける。たとえば教師は降格か免職、学校の助成金は削減または全額カットで廃校になる。
こういうの、日本でもどっかやってなかったっけ。アホな知事がいるところだったかな。
 しかし、その法律の目的は別のところにあったのだという。「落ちこぼれゼロ法は表向きは教育改革ですが、内容を読むとさりげなくこんな一項があるんです。全米のすべての高校は生徒の個人情報を軍のリクルーターに提出すること、もし拒否したら助成金をカットする、とね」それで、裕福な地域の高校は個人情報の提出や軍の関係者の立ち入りを拒否できるが、助成金に頼っている貧しい地域の高校は提出せざるをえない。それによって貧しい家庭の子どもが軍に勧誘され「大学に行ける」「職業訓練が受けられる」「医療保険に入れる」などとウソ八百の勧誘を受けて続々とイラクに送られるのだ。そして健康を害して帰国しても十分な医療は受けられないで前よりももっとひどい貧困状態に陥る。

 メキシコなど南米から流入する移民は、アメリカ産の穀物との価格競争に敗れた農民が多いという。そりゃあヘリコプターで種を播くような大規模農業に比べたら家族経営の農園なんか負けてしまうのは当然だ。借金を作って土地を手放し、職を求めてアメリカに来るが労働ビザがない移民には低賃金で危険で汚い仕事しかない。家族みんなで働いても年収二万ドルちょっとくらいしかないのだ。大学に行くなんて夢のまた夢だ。それで軍のリクルーターの口車にうかうかと乗ってしまうのだ。

 騙されるのは若者だけではない。イラクなど危険な戦闘地域で軍の仕事を請け負って働かされる派遣労働者、彼らもターゲットになったのだ。クレジットカード会社の多重債務者情報などを入手したこういった派遣会社から直接勧誘の電話があるのだという。そして「高額の収入が得られる外国の仕事」(大ウソ)と偽ってイラクに行かされ、何の安全対策も取られない状態で炎天下の過酷な肉体労働に従事させられる。劣化ウラン弾に汚染された水を飲んで白血病になっても保証もなく医療費も支払われない。アメリカ人だけではない。このような民間の派遣労働者は世界中から集められているという。いったい、それでだれが儲かるのか?派遣の仕組みは入り組んでいて複雑だが、
 たとえば、パブロがフィリピンの新聞広告で見た派遣会社は「ガルフ・ケータリング社」だが、その会社は「アラガン・グループ」という別の会社の下請けをしている。アラガン・グループはユタ州にある「イベント・ソース社」の下請けだが、そこはまたテキサス州のKBR社の下請けをやっている。
「KBR社の親会社はどこなんですか?」
目が回りそうになった私がそう聞くと、そこで始めて新聞などでよく見る会社の名前が出てきた。
「ハリバートン社ですよ」
 ハリバートン社とは、現副大統領であるディック・チェイニーが1995年から2000年までCEOを務めた石油サービス・建設企業だ。

わあ、チェイニーって、この人?そりゃーイラク撤退に反対するはずだわ。どんどんお金が懐に入ってくるわけだから。

 こういう瞠目的な事実が次々と報告される。アメリカ的新自由主義というのは福祉や教育、医療など、本来民営化してはいけない部分まで民営化してしまったため、個人の抱えるリスクがおそろしく増大し、格差と貧困を再生産してしまっているのだ。たとえば医療。
 2005年の統計では、全破産件数208万件のうち企業破産はわずか4万件に過ぎず、残り204万件は個人破産、その原因の半数以上があまりに高額の医療費の負担だった(U.S.Census Bureau 2006)
 ごく普通の電気会社に技師として勤めていたホセも2005年に破産宣告をされた一人だ。
「原因は医療費です。2005年の初めに急性虫垂炎で入院して手術を受けました。たった1日入院しただけなのに郵送されて来た請求書は1万2000ドル(132万円)。会社の保険ではとてもカバーし切れなくてクレジットカードで払っていくうちに、妻の出産と重なってあっという間に借金が膨れ上がったんです」

 日本だと盲腸の手術は6万4200円だ。4,5日入院しても30万を超えることはまずない。出産も、日本では一律35万円の出産育児一時金制度が出るが、アメリカにはなくて、出産費用の相場は1万5000ドルだそうだ。おそろしいことだ。これじゃあ、安い保険しか入れない人はちょっと病気をしたり子どもを産んだりしてたら貯金なんか吹っ飛んでしまう。じゃあ、医者が儲けているのかといえばそうじゃない。訴訟に対応した損害賠償保険の莫大な掛け金、そして会社ごとに違う複雑な保険の事務処理に医者たちも苦しめられている。さらに保険会社が医療機関ごとに出す評価が悪くなるとその病院は契約認定医制度から外され、その会社の保険を受けている患者はそこにかかれなくなるのだそうだ。そんなことってあるか!病院も経営を重視する株式会社型の巨大病院チェーンなるものが急成長しているらしい。おそろしい。
 「市場原理」が競争により質を上げる合理的システムだと言われる一方で、「いのち」を扱う医療現場に導入することは逆の結果を生むのだと、アメリカ国内の多くの医師たちは現場から警告し続けてきた。
 競争市場に放り込まれた病院はそれまでの非営利型から株式会社型の運営に切り替えざるを得ず、その結果サービスの質が目に見えて低下するからだ。
 その顕著な例の一つに、1990年代半ばに全米一の巨大病院チェーンに成長したHCA社がある。同社は現在、全米350の病院を所有、年商200億ドル、従業員数は2万5000人を超える世界最大の医療企業だ。
 同社はコスト削減のために、採算が合わない部門や高賃金の看護師などを次々に切り捨て、患者には高額な請求をして利益を上げてきた。
 同社が所有する病院に課した営業ノルマは利益率15%だが、各病院の平均利益率はそれをはるかに超えた18%という驚異的数字を達成している。

 ノルマを達成した病院の経営責任者は高額のボーナスをもらい、達成できなかった場合はボーナスなしなんだそうだ。経営責任者はころころ変わり、医師と看護師は過重労働でボロボロになっている。そして患者は高額の医療費を請求される。なんでもかんでも民営化すれば経費節減になってうまくいくってわけではない。決して民間の自由競争に任せていてはいけない部門もあるのだ。アメリカが「市場開放」とか「とどまるためには走り続けなくてはいけない」とか言っても聞いてはいけない。その結果みんな不幸になってしまうかもしれないじゃないか。ちゃんと書いてあった。
 現在、在日米国商工会が「病院における株式会社経営参入早期実現」と称する市場原理の導入を日本政府に申し入れているが、それがもたらす結果をいやと言うほど知っているアメリカ国民は、日本の国民皆保険制度を民主主義国家における理想の医療制度だとして賞賛している。

 前会頭のチャールズ・レイク氏はアヒルが出てくるCMの保険会社の日本代表だったじゃないか。そら「市場開放」「グローバル競争」って言うわな。保険会社しか儲からない仕組みなんだから。何が「相利共生」だ!アメリカに帰って貧困者の保険をなんとかしなさい!

 「ニッポンの教養」で本田由紀さんも言っていたが、このアメリカ型の自由競争社会というのは、みんなを石臼みたいなものに入れてごりごり挽いて、一握りの生き残ったものだけが勝ち組になるという過酷な仕組みだ。アメリカンドリームなんていうのは絵空事で、アメリカは世界中から大量の移民を入れて奴隷のように低賃金で働かせ、借金漬けにし、軍に入隊させ、一生浮かび上がれないように使いつぶすのだ。実に巧妙に仕組みができている。そんな国を見習ってどうする!そんな国の軍備拡大の無間地獄に巻き込まれてどうする!結局みんな多国籍企業に富を吸い取られてすっからかんになってしまうんだ。
 もはやアメリカ型の大量生産、大量消費システムは行き詰まりがきているということを自覚して、今の現状を反面教師にして日本の進むべき道をみんなで考えなくてはならない。すごいショックをうけた。この本には。

奥田瑛二監督「長い散歩」

2008-03-16 23:31:27 | 映画
 「尾道に映画館をつくる会」の会員になっている。尾道はわりと映画で有名な土地であるにもかかわらず、現在は映画館が一館もない。映画館を復活させようと市民団体が発足したのだけど苦戦している。まだ募金目標額の半分(1000万)くらいしか集まっていない上に、今年映写機などの機材が火事で焼けてしまうという不幸に見舞われて今春開館の予定が延期になったらしい。


 だけど今日は、「長い散歩」の上映会&奥田瑛二監督のトークショーが開催され、招待券で行ってきた。こういう映画はうちのあたりではミニシアターでほんの1、2週間上映するかしないかなので私は去年見逃していた。見れてよかった。ほんとに感動的で上映中会場のあちこちで泣いている人がいた。私もハンカチでごしごしやったから、おしろいがほとんどはげ落ちてしまった。
 さっちゃん役の子がすごく自然でかわいくていじらしくて、今思い出しても涙が出る。天使の羽根はあの子にとって唯一、幸福だった時の記憶の象徴で、過酷な現実から身を守るものであったのだと思う。一方、家族とうまく接することができず孤独な老後を送ることになった松太郎にとっても、さちの姿はかつて自分の娘を「天使」と思いながらそれを素直に伝えることができなかったという悔恨を思い出させるものだ。だからさちを、自分と家族の唯一幸福な記憶の場所につれて行こうとしたのだ。親の愛に恵まれない子供に「ほんとうにおまえを大事に思っている」ということを伝えるために。
 この映画に出てくる人は、だれもかれも程度の差はあっても傷つき、疲れている。さちを虐待していた母親だって最初からああいう状態だったわけではない。愛情に飢え、男に裏切られ続けたために疲れてしまったのだ。幸福だった記憶がないからストレスに耐えられなくて虐待してしまう。子供を殴るのは自分を殴るのといっしょだ。自分自身の人生を放棄しているのだと思った。アフリカからの帰国子女で学校になじめなくて引きこもりだったというワタル青年も、表面は軽くいろいろなことをしゃべっているがときどき底知れない孤独感をのぞかせる。きっと最初から死に場所を求めて旅をしていたに違いない。ほんとうに死んでしまうなんて・・・・。なぜどっと涙が出てくるのかと思ったら彼の顔は私の悲しい記憶をめちゃめちゃかきたてるのだった。

 トークショーでは奥田監督の映画づくりに賭ける自信とこだわりを聞けた。そもそも演技派俳優である奥田氏が映画監督になったのは、映画「もっとしなやかに、もっとしたたかに」「海と毒薬」「千利休」など、人間の心の葛藤を深く掘り下げた芸術性の高い作品で主役を演じる一方で「男女7人夏物語」「金曜日の妻たち」などTVのトレンディー恋愛ドラマでも有名になってキャーキャー騒がれ、その二つの役柄の間で自我が引き裂かれてめちゃめちゃになってしまった時期があって、「自分ってなんだろう?」と悩んだのがそもそものきっかけとか。酒や女に溺れて家庭が崩壊の危機に瀕したというそのあたりの事情は、奥様の安藤和津さんが新聞か何かに書いておられたような記憶がある。
 また、役者というのは全身全霊でその役になりきるため、その役が終わるとエネルギーを出し切って抜けがらになってしまう。とてもそのまま日常に戻れないから「飲む、打つ、買う」で逸脱してやっと我に返ることができる、そういうマゾみたいなところがあるから自分にはほんとは向いていない職業(!)なんだそうで、逆に監督という仕事は役者の才能やエネルギーを全部吸血鬼のようにチューチュー吸い取れる。こっちの方が楽で向いている。つまりサド、だそうです。ほんとかよ!
 「長い散歩」の主演緒形拳さんと、最初演技に解釈の違いがあったのだけど、「じゃあ、奥田さんやってみてよ」と言われて、さちが虐待される物音を隣の部屋で聞きつけて外へ出るシーンを自分でやって見せたら、「わかった」と一言。あとは全くスムースに撮影が進んだということだ。



 奥田瑛二監督の映画で今までに見たのは「るにん」だ(DVDでだけど)。これはなんと救いのない映画だろうかと思った。「当人勝手次第に渡世すべきこと」が唯一の掟である流人の島だが、何年かおきの飢饉で遅かれ早かれ死んでしまうのだ。一か八かで島抜けをしても外は決して楽園ではない。どこにも出口がないという閉塞感。ちょうど私もその頃「どこにも出口がない」という閉塞感を日々感じていた頃なのでDVDを見ながらオイオイ泣いてしまった。

 唯一笑えたのは、ご禁制の地図を作ったために流罪になったという近藤富蔵役が作家の島田雅彦氏で、これがめちゃめちゃ真面目なのだ。たとえば、女郎にハマってしまって醜態をさらすとか、飢えてヨロヨロしていたとしたら完全に映画の世界に同化しているのだが、徹頭徹尾端正な学者風なので却ってリアルでおかしかった。だって、「なすびの懸賞生活」で丸裸で踊っていたあのなすびがへらへらして出てるし、あの松坂慶子さんの卒倒しそうなほどエロチックなシーン満載だし、もう勃たないのに性に執着する老人とか、女を(干し魚で)買うことのできない男のための陰間とか、もう煩悩にまみれた地獄のような世界で真面目で端正というのは却って冗談みたいでおかしかった。

 忘れていた。奥田監督は下関で閉館した映画館を引き取って支配人をされているのだそうだ。映画館経営までされるに至った経緯や、市民から広く浅く資金援助をもらう秘策などもお話になった。維持費が年間1000万以上かかるとかで、その3分の1を下関市民が支援しているそうだ。尾道でもそういうのがやれるといいなあ。もうアメリカ映画は飽きたし、シネコンがあっても、かかってる映画はわりと貧弱だと最近気がついてきてがっかりだ。大手が掛けないようないい映画を上映してくれたら電車賃払っても見に行こうと思う。
 代表にはがんばってほしい。とりあえずまた献金しよう。

佐藤優「国家の崩壊」メモ その2

2008-03-16 00:09:21 | 本の感想
 なかなかはかどらないけど、とりあえずメモ。

 宮崎学さんは「ソ連を崩壊させた主犯は、ずばりゴルバチョフであった。」と言っている。ゴルバチョフが「アホだった」から、構造改革をしようとして失敗し、結果的に国家を崩壊させてしまったというのだが、「アホ」というのは言い過ぎで、せいぜい「人心を理解できなかった」とか「理想主義に走った」とか「先を読むのが下手だった」という程度で、どっかの国の政治家とは格が違っていると私は思った。そして、硬直化した官僚政治によって停滞した社会を変革しようとして失敗してしまったけれども、その混乱期にエリツィンをはじめとする剛腕でかしこい政治家がポコポコ出てきて、結果的にはなんとか乗り切ったと言えるんじゃないか。もうこの時期から20年後の未来を見据えていた政治家がいるのだから。
 こんなディープな人脈を持つ佐藤氏のような有能な外交官を逮捕した検察は、いったい何を考えていたのかと思う。小説「警官の血」に出てくるように、目先の小さな逸脱を問題にして巨悪を叩くチャンスをパアにしてしまったようなものだ。まさか、国民の注目を何かから逸らすためとか、ロシアと日本が友好を深めてはまずい勢力がいるとか、外務省内部(あるいは政治家)の勢力争いのとばっちりとか、そんな理由じゃないだろうな。あー、まさか、知り過ぎているからマズイとか・・・・。


 エリツィンという人は事故で手に障害があったものだから、軍隊に入れない、技師にもなれない、それで建築現場の監督からスタートした人だという。「そこで、どうやって納期に合わせて完成させるか、手抜きでぶっ壊れないようなものをどう造るか、そういうところから始まって、人の手配、工事の段取りのエキスパートになっていった。そういうふうに、土建からスタートして党の幹部になっていった人なんです。」こういう現場主義の人だから民衆の感情を理解していて一種の「愚民政策」をやったのだそうだ。
 ゴルバチョフは世界革命を考えていたから、ロシア人のモラルを変えなければならないと思っていた。つまり、酒飲んでヘロヘロになっているのはよくないということで、アルコールの規制。タバコも体によくないから、できるだけタバコの値段を上げて、排除する政策を採った。前に申し上げたように、手を付けてはいけない酒、タバコ、ジャガイモ、黒パン、この四つのうちの酒とタバコに手を付けて抑制しようとしたわけです。

 これに対してエリツィン時代は酒とタバコをどんどん開放して、できるだけ安くおさえて、庶民にいいものが届くようにする。密造酒も事実上取り締まらない。ジャガイモ、黒パンは逆ザヤにして、いくらでも安くていいものが手に入るようにする。しかも、ポルノ全面解禁です。簡単にいえば、欲望に関するものは全部OKだった。それから違法ソフトなども取り締まらない。それは、エリツィン自身の民衆観に基づいているもので民衆の欲望に関するところには権力の手で触らない。という基本方針を貫いているんです。

 それからエリツィンは、暴力装置を完全に統制できるとも思っていないんです。暴力装置は国家を維持するために必要である。ただし、要所要所で肝心なときに動かせればいい。権力を維持するために必要最小限の暴力があればいい。その代わり、自分の権力に刃向かってくるんだったら徹底的にやる。そういうやり方です。
 ゴルバチョフはそうじゃなかった。均一な法の支配でやろうとしていたんです。

 現在のプーチンも、法の支配で均一な市民社会を作ろうとするのは、大きな間違いと認識している。プーチンは、そんなやり方では国民が言うことを聞かないのはよくわかっているんです。同じ法律であっても、あるときはやられて、あるときはやられない。今の日本の国策捜査みたいなことをやっていると、人々は権力者を非常に恐れるようになるんですよ。プーチンは、そこをわかっている。

 それから、この民間暴力装置とか教会とかに関係した利権構造にも、プーチンは絶対に手を付けようとしていないです。これも、エリツィンの政策を完全に継承しています。エリツィンプーチンも、裏の世界を統制しようとしないで、裏の世界と表の世界の間にきちんとした棲み分けを確立しているんです。

 「民間暴力装置」というと日本では「ヤクザ」のことですね。これを弾圧すると、拡散して「カタギ」との境界線があいまいになり、一見合法を装うからよけい性質が悪くなるってよくいわれますよね。「手を付けてはいけない領域」に決して手を突っ込まないというのが賢い政治家ってことか。日本ではなんだろうな。道路関連の利権を本気で追及しようとしたら死人が出るってこの前宮崎哲弥さんが言っていたけど、むしろこういうところで検察はがんばってほしいと思う。

 で、このエリツィンのブレーンにブルブリスというめちゃめちゃ頭のいい人がいるのだけど、この人が、「ソ連末期には三種類のエリートがいる」といったのだそうだ。
 一番目のエリートは、〈ソ連共産全体主義制のエリート〉。この人たちは古い組織は動かすことができるけど新しい時代に適応できないし改革の障害になる。
 次に第二のエリートグループがある。これはいわば〈偶然のエリート〉だ。つまりオレのように偶然エリツィンの側にいてエリツィンが勝ってしまったから下の方からいきなり引き上げられた連中。この連中は何かやりたくても組織を動かす能力がない。しかし特権に執着しそれを決して手放したくない。この〈偶然のエリート〉が別の意味で改革の大変な障害になっている。
 第三のエリートは〈未来のエリート〉。「今の十代後半から二十代の連中だ。それより上の世代の連中は、みんな多かれ少なかれ旧いソ連の垢が染みついた過渡期の人間だ。そうした人間たちに代わってもらうために、この十代後半から二十代の連中を、いま勉強させている。西側にも出てもらう。それで、市場経済の仕組みもわかって、民主主義というもののおかしいところも、西側のものの考え方や思想の問題点も全部わかったところで、彼らが表に出てくる。少なくとも10年はかかる。とりあえず、産声が上がるまで5年。どうにか表で働けるまであと5年はかかる。」
 で、この〈未来のエリート〉がロシアの未来を担っているわけだけど、一番目と二番目のエリートはみんな自分も含めて「狼」だからこの三番目のエリートを食ってしまうおそれがある。だから、彼らが無事育つまでの間、狼の腹が減らないようにしておかなくてはいけない。その上で徐々に狼たちを舞台から外に出していかなくてはいけない。「これがいまロシアの政治家にとって最大の課題だよ」と言うのだ。
 なんと賢い!そして今確実にそのエリートが育ちあがって活躍しているのだ。

 日本にあてはめると「これってあれかな」とかいろいろ想像したり、あるいは想像を絶するおそろしい状況だったりして楽しい。いや、ソ連崩壊後の2、3年、日本では「ロシアはハイパーインフレが起こって、年金生活者が窮乏している。この冬が越せるのか」とか「貧富の格差がひろがってマフィアが暗躍してむちゃくちゃ」とかいろいろ言われていたけど佐藤さんはこの時期のロシアはとてもおもしろかったと言っている。はじめて資本主義に触れてうまく立ち回る人と怖がって貧乏になっていく人、知識人階級の百家争鳴、出版ブーム、日本からバッタ品を輸出して大儲けした政治家とか、ここらへんをもっと知りたいものだ。
 
 日本の政治家はよく中国や日本の古典なんかを愛読しているようだけど、そんなのよりも佐藤さんの本を読んで研究するといいと思うな。ソ連崩壊前の国民が「ふにゃー」としている社会の停滞した空気とか改革が掛声倒れになって失敗するところとか早めに手をうっておけばよいことを先延ばしにして流血の大惨事になるところとか、いろんなことが身につまされて勉強になると思うな。

映画「バンテージポイント」

2008-03-13 22:15:54 | 映画
 本を複数読みかけのまま映画に行く。
 「バンテージポイント」を観ながら、「これってなんだっけ?」と思った。同じ時間を繰り返しながら8人の視点で大統領暗殺事件の核心に迫っていくっていう趣向なんだけど、その目新しさ、アクションの派手さに感心しながらも、後で考えると「やっぱりアメリカ映画だね」という感想しか湧かない。

 「これって・・・」と前にも思ったのは「チーム・バチスタの栄光」。心臓バチスタ手術のチームの中に殺人犯がいて、それをキレ者の役人がプロファイリングしながら突き止めていくというストーリー。そうだ、これって「スウィニー・トッド」だ!ちょうど同じ頃、ジョニー・デップ主演で映画が公開されていたが、あれはもともと都市伝説だ。産業革命以降の社会では見知らぬ床屋に喉を晒さなくてはならず、見知らぬ者が作ったミートパイを食べねばならず、もしも、彼らに殺意があったなら私たちはひとたまりもなく殺されてしまうという不安の象徴がそのような都市伝説を生んだのだと宮台真司が書いている。心臓の一部を切り取るなどという大手術をする医師のチームの中に一人でも殺人鬼が、しかも個人的怨恨のようなわかりやすい理由ではなく面白半分に人を殺すような人間が混じっていたとしたら、それこそ患者はひとたまりもなく、殺人の証拠も残りはしない。「チーム・バチスタ」を見ながら「これは社会の他者に対する不安を表わしているのか?」と思った。宮台は「9・11以降、盤石と思われていたアメリカ社会の安全性が、実はきわめて脆いものであることが露呈した。たとえば、飛行機を乗っ取って激突させなくても、長い時間をかけてアメリカ社会に溶け込み、原子力発電所などの職員になって原子炉を爆発させればいいだけの話だ。核などなくても確固とした意思と知能で社会を破壊することが容易にできる。そのような社会の不安を利用してセキュリティー産業が栄え、ネオコンが「テロへの戦い」と人々を煽る。マッチポンプだ。」と言う。

 「バンテージポイント」も、大統領のきわめて近くに敵がいるってことがミソだ。(あー、言っちゃった)。ネタバレ注意!
 テキは実に用意周到。通信傍受(!)によって「暗殺計画」を察知され、替え玉(!)を使われるのも計算内。替え玉を銃撃し会場を爆破、と同時にホンモノのいるホテルで自爆テロをして大混乱に乗じて誘拐。なんと、協力しているのは地元警官、テレビ局員、そしてホテルの従業員(これが自爆テロをする)。銃撃も爆発もコンピューターの小型端末みたいなので遠隔操作だ。大混乱に紛れて救急車で駆けつけ大統領を拉致。実に賢い。予告編に出てくる文句が「誰も信じるな」だ。そりゃあ、普通の人だったら「もう何も信じられない!」って言うよ。こういうことがあり得るとしたら、社会を成り立たせている「他者に対する無条件の信頼」なんてガラガラに崩れてしまうだろう。ギョーザ事件で中国製輸入食品全部に不信が広がったみたいに。

 なんでこんな映画が今作られるんだろうと思った。不安を煽りたてるようなもんじゃないか。それが狙いか?
 

 もひとつアホかよ!と思ったのは、替え玉大統領が銃撃を受けてすぐに側近が「トルコにテロリストの拠点がある。すぐに報復の爆撃命令を・・・」と、ペンタゴンにつながっているらしい電話を大統領に差し出すのだ。大統領は「友好的イスラム圏の国に爆撃をすることはできない」と拒否する。あったりめーだ!大統領が撃たれたからって関係のない国が爆撃されたんじゃたまったもんじゃない。あっ、そういえばもうやってたか。アメリカの常套手段だった。大統領が銃撃されたら即座にミサイルを発射するのかアメリカという国は。
 映画では「首脳会談をつぶすのがテロリストの狙いだ。その手に乗ってはいけない」と大統領は拒否する。そうだ。そもそも首脳会談に「テロとの戦い」なんてテーマをあげた時点で間違いだ。広場外の抗議デモの多さを見ろ。もちろん、テロリストはそれもお見通し。誘拐されてたらどうなっていたかな。そちらを見たいものだ。だけど批判的な意見をアドリブで言ったテレビレポーターは爆発で死んでしまうし(あのくらいも言えないのか今のメディアは)テロリストも皆殺し、傷だらけのヒーローが大統領を救って「ありがとう、バーンズ」で終わりなのだ。めでたし、めでたし・・・・。ケッ!

 なんだかもう、アメリカ映画ってあれだけお金をかけて、派手なカーアクションを披露して、豪華なセットを惜しげもなく破壊して、よくまあ、あんなつまんない映画を撮るものだ。とまた思ってしまった。

訂正その他

2008-03-12 15:31:26 | Weblog
1. 今朝、何気なく「週刊しゃかぽん」49号を読んでいたら、スターリン時代のエピソードが載っていたのでさっそく「新世界より」の記事を訂正
 GO!GO!バビィ!「空気が読めないとヤバイ?」「みんなが空気ばかり読んでいるとヤバイ社会になる!」で、独裁者の例としてヒトラー、金正日、フセイン、スターリンをとりあげてある。
 「スターリンは、反対派はもとより、忠実な部下や一般の民衆まで、数百万もの人を処刑。密告者が町のいたるところにいて「罪」をでっち上げていきました。ある集会でスターリンをたたえる拍手を人々が始めたとき、拍手がいつまでも鳴りやみませんでした。先に拍手をやめるとまわりから忠誠心を疑われるので、だれも自分からやめることができなかったのです。結局、10分以上も拍手が続いたといいます。」そーか、10分だったのか。出典はソルジェニーツィン「収容所群島1」(「とりにくまみれ」さんから)

 「収容所群島」(新潮文庫)を引っ張り出して読んだら、あらためてスターリン時代の粛清のすさまじさにたじろいだ。単に反体制的な思想を持っていたということではないのだ。職業や人種、宗教、ちょっとしたミス、気づかない違反、濡れ衣、密告・・・、収容所送りになってしまった人たちの罪状の理不尽さが延々と具体的に書き連ねてある。こんな一挙手一投足が危険にさらされているような社会では、私などはとても生きていけない。また収容所の生活の過酷さ。どこに書いてあるか見つけられなかったがこんなエピソードを思い出す。収容所は真冬にも隙間風が吹き込むような建物で食事は通常わずかな黒パンと塩漬けのニシン。ある科学者が計算してみて、ニシンを食べてはいけないという。二シンによって得られるカロリーより、塩辛いので雪を食べて失われる熱量の方が大きいというのだ。でもあまりにも空腹だから食べてしまう。それで命を落としてしまうのだ。私は収容所で生き残ることができるだろうかとずっと考えながらこの本を読んでいたが、「きっとだめだな」と思った。
 この本を初めて読んだとき、スターリン時代の独裁体制にはらわたが煮えくりかえるような怒りをおぼえたが、それと同時に、ソ連の経済がうまくいかなかったのも当然だと思った。国民の中でも最も有能で良心的で技術や知識を持っている人たちを無実の罪で数百万も殺してしまったのだから。
 収容所内でうまく生き延びるタイプの人の分析もあったが、それは世俗の地位や教養などとはほとんど関係がなく、このような極限状況においては人間の本性がむき出になるということが興味深かった。


 私の持っている本は現在絶版になっている新潮文庫だが、最近別の出版社から単行本が出たらしい。「収容所群島」を読んだ年の暮れのことだが、夫が年賀状に「家族の愛読書」を書くというので「一番はこれ」と出してくると即、却下された。二番目を言えというのでスティーブン=キングか何かを答えたらそれも却下だった。読書傾向が偏向しているという。「じゃあ、書いてもらわなくてもいいから」と答えると「ダメだ。家族みんなの読書が今年の年賀状のテーマだから」と言い張る。結局何を書いたのだったか忘れてしまったが、あのとき何と答えればよかったのだろうか。きっとほのぼの系にしておけばよかったのだろう。今だったら「ねこ鍋」とかね。やっぱり空気読むって大切だね。命にかかわるじゃん。と、「収容所群島」を再読しながら思ったのであった。


2、 昨夜のNHK「爆笑問題のニッポンの教養」「話せばわかったか ~REMIX 2~」を見ながら「わかってねーじゃん!」と思った。うーん、一見話が噛み合ってるように見えて実は全然別のことを念頭に置いているような会話。私は昔、田中克彦「ことばと国家」(岩波新書)を読んだときの衝撃をよく憶えている。冒頭で、アルフォンス・ドーデ「最後の授業」に出てくる感動の場面が一転、国粋主義的プロパガンダの押し付けであったことが暴かれているのだ。言葉は人々の文化や日常の生活、思想に根ざしているもので、言葉がなくなるということはその背後にあった実体も忘れ去られてしまうということだ。してみると政治的な思惑によって言葉を勝手に変えたり奪ったり、あるいは押し付けたりすることの罪深さもよくわかる。田中先生というのはこのような名著を書かれた方で、「巨乳」を例に挙げたからといって決して「女の子が好きな人」ではありません!(別に怒ってないけど)
 この番組を見て、「おっ、この人の本を読んでみよう」という気になった人がいただろうかな。どうも、「知ってる人はわかるけど、知らない人はわからない」の二極分解のままじゃないかなあという気もした。
 伊勢崎さんの「我々が信じている正義や良識はぜい弱だ。」という言葉が「国家の崩壊」を読んでる途中なので胸に響いた。どうすれば生き延びることができるのか、別々のアプローチでもいいからみんな考えなきゃいけないなあと思った。

佐藤優+宮崎学「国家の崩壊」

2008-03-11 22:47:45 | 本の感想
 まだ途中までしか読めてないのだけどちょっとメモ。この本の概略はアマゾンのレビューやブログ(「喜八ログ」)などで正確に述べられているけども、ロシア方面に関して全く知識のなかった私にとっては佐藤氏のエピソード一つ一つが驚愕ものだった。ソ連邦成立の過程で血みどろのイデオロギー闘争があったということは少しは知っていたが、それだけでなく、民族、宗教などでも複雑極まりない歴史を抱えていたのだ。おおざっぱに言うとソビエトというタガでそういったものをぎゅっと縛っていたものがペレストロイカ以降ばらばらになって手の付けようのない大混乱をきたしたということらしい。アゼルバイジャンとかチェチェンとか、ナゴルノ=カラバフ紛争以降の民族問題は何が何やらさっぱりわからなかったが、わからないはずだ。ものすごく根が深くて支離滅裂なのだ。
 「なぜソ連は崩壊したか」という問いに対する答えの政治的考察もおもしろかったが、私が一番興味をもったのは民族紛争に関するエピソードだった。
 Ⅳ 諸民族のパンドラの箱  「トルキスタン」を五分割したスターリンの狙い
 民族問題というのは、複雑で危険を孕んでいます。いったん噴出すれば、たちまちのうちに数万オーダーの虐殺と百万オーダーの難民を出して、多くの人々を苦しめてしまう。

ナゴルノ=カラバフ紛争のとき、1988年の2月か3月のに、タジクのドゥシャンベにデマが流れるんです。「ナゴルノ=カラバフ紛争で追われてくるアルメニア人が、ドゥシャンベに逃げてくる。そうなると、住宅がなくなるぞ。」それを聞いて、みんなカーッとし始める。街で衝突が起きて、軍隊が出勤することになる。そして、その後、タジクは内戦になって、もう修羅場です。強姦がたくさん起こったり、反対派の連中をぶっ殺して皮を全部剥いで吊り下げるというような殺し方をしたり、メチャクチャなことになった。「アルメニア人が来るぞ」という流言飛語から、一気にそこまで行ってしまった。それで、戒厳令が布かれて、全面的な内戦になってしまう。

この中央アジア地域というのは民族と国と宗教とが複雑にからみあっていてもう、ぐちゃぐちゃな状態だ。
 
アメリカは、民主化だとか言って、この地域に手を突っ込んでマッチ・ポンプをやろうとしたんですが、火を付けたはいいが、消せなくなっちゃったわけです。マッチ・ポンプではなくマッチ・マッチになってしまいました。消えるどころか、イスラーム原理主義者がワァッと動き出しているというのが、キルギスの最近の情勢で、そこから発火して煽られているのが、ウズベクなんです。これは、すべてソ連時代の負の遺産によるものなんです。

 ああ、ソ連のアフガニスタン進攻の際にアメリカがタリバンを支援しておいて、後で手が付けられなくなって放り投げたみたいな・・・。例えば、ウズベキスタンでは、ウズベク人の部族を抑えるために少数派のタジク人の大統領が据えられた。今のカリモフ大統領で、この人はタジク人の多いサマルカンドという都市で育ったもんだから、ウズベク語がしゃべれないんだって。そういう大統領だから民族的な反発も強い。
 そこで、カリモフさんは、後ろ盾にアメリカを使ったんです。アメリカにとっても、ここは石油も出ますし、も埋まっていますし、パイプラインを通す場合も重要ですし、ここを押さえれば中国を後ろから抑えることにもなる、ということで、メリットがある。そこで、カリモフがどんな人種弾圧をやっても、アメリカは目をつぶったんです。
 ところが、2005年になると、アメリカの方が、あまりに行き過ぎだということで、ウズベクに対する見方を変えた。そうしたら、今度はモスクワがそれを支持するということを言った。それと同時に、カリモフの方も、アメリカとの距離を置いて、モスクワの支持だけでは自分たちの身を守れないということがあるから、慌てて中国に行くわけです。こういうことが、いま起きている。

民族問題に石油と金の争奪戦という大国の思惑がからんでめちゃくちゃになるって、アフリカとおんなじじゃないか。(以下、長々と引用)

 民族なんていうファクターが、こんな形で、こんなにも人々の感情を揺り動かすなんて誰も想定していなかったわけです。ソ連の為政者も、共産党も、ジャーナリストも、学者も、世界のメディアも、誰も考えていなかった。

 だからこそ、いま私は、排外主義的ナショナリズムに対して非常に警戒心を強くしているんです。要するに、民族感情、民族意識というのは、ちょっとさわり方を間違えると、物凄く感情を煽って、どんな合理性に反することでも平気で惹き起すということです。こんなことは、利害からいったらマイナスだっていうことは、当事者はみんなわかっていながら、何かわからない力が人を動かしてしまう。その力というのが何なのか、ソ連の民族問題を始め、民族問題をずっと見てきた私にもよくわからないんです。


 ある時期、共産党で民族問題の洗い直しをするというので、ロシア科学アカデミーの民族学人類学研究所が、少数民族の研究を政策的な観点にたって、パンフレットなどをたくさん作ったんです。
 私もそのとき、チームに入れてもらって、いろいろと手伝ったんですが、調べれば調べるほど、どんどん問題は紛糾して、解決の展望が失われていくんです。蓋をしておいて開けなければよかったのに、いったん開けてしまうと、どんどんどんどん出てくる。本当にパンドラの箱とはこういうことなのかと嘆息しました。いい話は何にも出てこないで、悪い話ばかりが出てくるんです。

 「歴史の見直し」というのが、ペレストロイカ時代の主題だったわけですが、このときには楽観主義があったんです。みんなが真実の歴史データを集めてきて誠実に議論をすれば、必ずひとつの単一の歴史観に収まるだろうという楽観的な見通しがあったんです。
 ところが、それを数年やってみて、ロシア人は、そういうことは不可能だと確信したんです。まず、「みんなが誠実になることはない。人間は誠実な生き物ではない」ということを思い知った。次に、データというものは、嘘データを弾くことはできるけれども、本物のデータは山ほどあるわけだから、そのうちのどこを摘むかという点で常に恣意が働くということも思い知った。それから、摘んだ本物のデータが同じでも、摘んだものの関連をつけて物語を作るのは、個々の作家の能力に依存するということもわかってきた。だから、共通の歴史認識を作りだそうとか、そういうことは言わなくなったんです。
 そんなことをやってみても、悪いことしか起きないということがはっきりしたからです。

 そうなのか・・・。

 韓国の新大統領はそういうことを知っていて「未来志向」とか言っているわけだな。だけど、私はやはり日韓の歴史認識問題では日本が謝罪しなきゃいけないし、それを、やれ「反日」だの「売国」だのという人は間違っていると思う。民族の物語がそれぞれ違うのは当然だけど、向こうから見た場合にはこのように見えるかということは理解しなくてはならないと思う。よく、「何度も謝っているのにまた蒸し返す。どれだけ謝ればいいのか」という人がいるけど、それは向こうが納得するまで謝るべきだと思う。公式に謝っておいて、国内では非公式にアッカンベーをするかのような発言をするから激怒されるのだ。もうそういう政治家はすぐやめてほしいと思う。そういったこ拗れかえった状況を全部理解した上で「ここはひとつ大人になって握手しましょう」というのならいいのだ。「ラッキー!」とか「えっ、歴史問題ってなーにー?」では決していけない。日本の政治家はそういうことを言いかねないから(麻生さんとか)世界中からバカにされるのだと思う。

北朝鮮問題の処方箋と大久野島

2008-03-10 20:40:44 | Weblog
 アマゾンで本を買おうといろいろ見ていてふと目に止まったのが、大澤真幸「現実の向こう」
 「あっと驚く北朝鮮問題の処方箋」って何?と検索してみたらちゃんとブログに感想を書いている人がいる。ああ、便利だなあ。
なぜ北朝鮮は非民主的体制を維持できるのか、北朝鮮の国民はなぜあんな圧政に耐えつづけているのか、それは外に逃げられないからだ。よって日本が北朝鮮からの難民をいくらでも受け入れるという覚悟を決め呼びかければ、大量の難民が発生し、北朝鮮の現体制は自然崩壊する。これは東ヨーロッパ民主化の際に、実際に西側ヨーロッパ諸国が行ったことですね、これが決定的な引き金となった。憎むべき国家の難民を歓待することでわれわれのアイデンティティは変容し、それにともなって北朝鮮の人々のアイデンティティも変容し、そして共存への道が開かれるというのが著者の意見だと思います。

おお、それはいい意見だ。だけど、「北朝鮮を憎む」という人の多くは同時に人種差別主義者でもあるから「体制」と「その体制下の国民」の区別がつかなくて、やれ犯罪が増えるのスパイが潜入するのと大騒ぎするだろうな。非人道的な北朝鮮の体制が一刻も早く崩壊して欲しいとは世界中の人が思っているだろうけども、戦争や軍事介入によってハードランディングさせ、大混乱を生じさせることは誰も望んでいない。だったら、やっぱりこちらの世界の情報が少しでも向こうの民衆に届くようにし、国家が内部から制度を変えていくように支援するべきなんだ。


 この「散歩の変人」さんのブログを読んでいたら山陽路の旅行編に、大久野島に行かれた際の記事があった。それで思い出した。10数年前、友人たちとこの島で恒例のキャンプをしようと計画していた矢先に「地下水からヒ素検出」のニュースが出て急きょ行先を変更したことがあった。それを夫に言うと、「そういえば・・・・、今までに聞いた結婚式の祝辞で一番おもしろかったのは、」と話し始めた。妹の結婚披露宴で新郎の親戚の人が長い長いスピーチをした。途中から脱線してしまって「毒ガス歴史研究所」の話になった。それというのも、この人はこの施設の設立にかかわった人だったのだ。戦時中はもとより、戦後もこの島の毒ガス製造のことは隠蔽されていて、ここで働いていた人たちの健康被害も長い間表ざたにならなかった。資料館を作ろうとしたときもどれだけ嫌がらせや誹謗中傷を受けたかしれない。地域の有力者や政治家や、いろんな人が「過去の恥辱」を封印するために陰に陽に圧力をかけてきたということをこの方は縷々訴えたのであった。披露宴のスピーチで。「過去に日本軍がやったことをちゃんと歴史的事実として残しておかなければいけない。隠蔽することでは決してそれを清算することはできない」と言われたそうだ。みんなあっけにとられて口をあんぐり開けていたけども、一方「すばらしい」と受けた人たちもいた。まあ、美辞麗句のスピーチよりもよほど建設的だとは思う。

 そのときは別になんとも思わなかったけれども、最近歴史を「修正」しようとする人たちが出てきたのを見てるとじょーだんじゃないと思えてくる。負の歴史だろうがなんだろうが、ちゃんと隠蔽せずに記録しておかないと人間は進歩しないだろう。そしてこの大久野島の例でもわかるように、被害に遭うのは何も知らない勤労学生や田舎の人たちなんだ。国が情報を隠蔽することによっていつ自分が被害を被るかわからないという意識を常にもっていなくてはならないと思う。


 それから、大久野島のあたりはタコ飯が名物です。タコカレーというのもあったはず。以前休暇村レストランで食べたのだけど、今はバイキングが売りらしい。わお!おいしそう。見晴らしのよいお風呂も400円で入浴できる。ああ、また行きたい。

貴志祐介「新世界より」

2008-03-09 16:47:47 | 本の感想
 新聞広告を見ただけでこの本の凄味が伝わってきた。でも例のごとく、まず上巻だけを買って帰って読んだところ、他のことをみんな忘れてしまうほど引き込まれてしまって次の日にはもう下巻を買いに走っていた。間違いなく傑作だ。今年これ以上おもしろい本に出会えるとは思えない。

 私は「黒い家」を読んだ時のおそろしさが忘れられない。「幽霊や怪物なんかより、やっぱり一番怖いのは人間よね」と思った。「リング」や他のホラーは読んですぐに売り払ってしまったが「黒い家」は手放す気になれず、未だに私の本棚で不吉なオーラを放っている。そしてテレビで保険金殺人のニュースを聞くとすぐにこの本のことが頭をよぎる。和歌山毒入りカレー事件のとき、テレビのワイドショーに逮捕前の林健治容疑者のインタビュー映像が出ていて、彼が話していたことに私はショックを受けた。彼はこう言った「お金というのは、寂しがりやの生き物でね、仲間を呼ぶの。」つまりお金のある人のところにお金は集まってくるって言いたかったらしいのだが、私はそれを聞いてぞっと鳥肌が立った。お金が意思を持つ「生き物」だなんて初めて聞いたからだ。だけどそのような人をその後よく見かけるようになった。「黒い家」の初版が出たのが1997年6月、和歌山毒物カレー事件が1998年7月。「保険金で生活していた夫婦」だなんてまるで「黒い家」そのまんまじゃないか。貴志さんは予知能力でもあるのかと不気味に思った。
 そして、この「新世界より」でも何か暗い予測を思わせるものがあった。

 昨年は、宮部みゆきさんの本をたてつづけに読んだ。著者は「人間の中には、到底矯正できない邪悪さを持った者もいる」ということをいろんなバリエーションで繰り返し書いている。私たちの心の中にも邪悪さは多少なりともあるけれど、宗教や倫理や教育によって矯正され、押さえつけられているためになんとか円満に社会生活を送ることができる。中にはそういうストッパーが働かない人も一定割合いる。そういう、私たちの常識を超えた冷酷さや攻撃性を持つ人間がいるということを、この社会はほとんど認識しておらず、それに対応できていないのだということを宮部さんは言っているようで、私は「そうかなあ?」とちょっと不快になったのだった。

 以下、ネタばれ注意!!

 この小説の世界では、ほぼすべての人間が呪力を持っている。子どもたちは厳重に監視され、少しでも攻撃的であったり、自己コントロールを欠くような兆候があれば消されてしまうらしい。猫にさらわれて。

 最初は「理想的な社会じゃないの」と思った。だって、呪力で物を持ち上げたり食料を煮炊きしたり壊れたものを修復したりできるのだ。石油がなくても生活できる。だけど移動図書館と自称するロボットが教えたこの世界の歴史はおそろしいものだった。一般人の超能力者への恐怖と憎悪、戦争、文明崩壊後、一般人が奴隷となり超能力者の頂点に残忍な皇帝が君臨する暗黒時代。そうか、だって銃器を使わなくても一瞬にして他人の頭を爆発させることができるのだ。あるいは遺伝子操作で別のものに変えたり、ひどい苦痛を与えたりすることだってできるのだ。なんでもありだ。
 「『神聖サクラ王朝の研究』という書物は、先史文明の歴史学者J・E・アクトンの箴言、『権力は腐敗し、絶対権力は絶対的に腐敗する』を引用しています。奴隷王朝を支配するPK能力者は、人類の歴史に類を見ない、文字通り神に近い絶対権力を手にしましたが、その代償もまた、途轍もなく大きなものでした。」

「それぞれの王の死後には、生前の業績に応じて諡(おくりな)が付けられましたが、それとは別に、一般民衆のつけた悪諡(あくし)も残っています。第五代皇帝、大歓喜帝の即位に際しては、民衆の歓呼と喝采が三日三晩止まなかったという記述があります。単に誇張した表現だと思われていたのですが、後に、これが事実であったことがわかりました。最初に拍手をやめた者から百人までを、祝典の生贄としてPKで人体発火させ、苦悶する黒い炭の像を造って王宮に飾ることになっていたからです。民衆は、このことから、大歓喜帝に阿鼻叫喚王という悪諡を奉りました」

 これ、ソ連共産党大会でこんなエピソードなかったか?最初に拍手をやめると粛清される危険があるために30分も拍手が続いたとか。(訂正と補足 2.12:どこで読んだかを探してみたら、出典はソルジェニーツィン「収容所群島1」であった。引用しているブログ。)以下、背筋がぞくぞくするような残虐な王朝の歴史が続くのだが、イメージしただけで人が殺せるというのは凄まじいことだ。もはや「万人の万人に対する闘争」の時代を経て、主人公の生きるこの現代では人間の攻撃性は厳重に封印されている。万が一人を殺せば自分も死ぬようになっているのだ。一見理想郷に見えたこの世界が、実は薄氷を踏むように危うい世界であることが後にわかる。どんなに教育しても攻撃性をコントロールできない子どもというのはどこの世界にも一定割合存在するのだが、この世界の場合それが甚大な被害を及ぼすことになる。地獄だ。私はつくづく呪力などというものがなくてよかったと思った。進化というものはときどきその種を滅ぼす方向に進むことがあるが、これは特別な能力の進化が社会と文明を滅ぼすおそろしい凶器となるような状況を描いている。

 全力をあげて子どもたちを観察し、少しでも心配な傾向のある子は『腐ったリンゴ理論』によって即座に排除する。時には記憶を操作することまでして。だけど、主人公たちはそれに疑問を抱き、大人たちの裏をかこうとするのだ。果たしてそれが吉と出るか凶とでるか。生き延びるためにここまでしなくてはならない社会とはなんだろう。
 そのような厳重な管理にもかかわらず、何十年かに一度出現する業魔と悪鬼。私は過去、主人公の住む町に出現したという業魔の話を読みながら、ぞっとするとともに「これは、すっとしただろうな」と思った。生まれてからずっと攻撃性を封印されていたのだ。思いっきり人を殺しまくるのは、私たちがゲームでモンスターを殺るような最高のストレス解消になっただろうよ。亀山郁夫氏は中学2年のとき「罪と罰」を読んで、まるで自分が殺人者になったようなリアル感を覚えたとおっしゃったが、私はこの本を読んでそのような感覚を覚えた。おそろしいことだ。
 「Kには攻撃抑制の欠如と、愧死機構が無効という、この二つの重大な遺伝的欠陥があった。Kと近い血縁関係にある人々は、同じ欠陥を持った遺伝子を宿している可能性が高いの。だから、Kの血統は、五代まで遡って、あらゆる分枝で絶やさなければならなかった。」
 「そのときは、バケネズミを使ったの。最も人間に忠実なコロニーから、精強な兵士を選んで、四十匹ほどの部隊を編成したのよ。そして、暗殺用の装備を与えて、悪い血統を受け継ぐ人間を、一晩のうちに急襲したの。もちろん、相手に気づかれたら、バケネズミなどひとたまりもないから、作戦は慎重の上にも慎重を期して行われたわ。それでも、バケネズミの半数は失われたんだけど、どっちみち、残った個体も処分する必要があったから、まあ、完璧な成功と言っていいでしょうね。」

 ああ、このバケネズミたち!最初、使役に使うためネズミなんぞを進化させるとは、なんと非効率的で悪趣味かと思ったのだが、その理由が最後にわかったとき慄然とする。女王の君臨するハチ型の社会で民主主義思想に目覚め、狂った女王を幽閉する野狐丸は、賢すぎて気味が悪いが彼の言い分にも一理あると思った。民主主義型ネズミの社会?いいんじゃないの。だけどバケネズミに対する視点が最後にひっくり返ったとき、その意味合いに慄然とした。ネズミたちは人間を「神様」と呼ぶ。この世界で人間は神なのだ。「鳥獣保護官」は「死神」と呼ばれている。単に保護するのではなく、ネズミの社会を監視し、時には有害な要素を見つけてコロニーごと滅ぼしたりするからだ。まさに「神」。だとすれば神殺しが企てられるのは当然だ。そしてひっくり返った視点で見たとき、私たちの今の世界が持つ危うさも見えてくる。はたしてこれは全く無関係な別の世界の物語であると言えるか。つくづくおそろしいと思った。

三沢厚彦作品展 山代巴展

2008-03-08 15:38:02 | 日記
 美術館に「三沢厚彦 ANIMALS+plus」を見に行った。動物たちがかわいいというよりちょっと不気味で無愛想で不思議な存在感だった。さわってはいけませんと言われていたけどつい撫でたくなって、こっそりしろくまのおしりをなでなでしてきた。

 その後、文学館に行って「山代巴展」を見た。山代さんの経歴、作品紹介のパネル、本、書簡などがたくさん展示してあり、昔著作集を読んだときの感情が蘇って胸がいっぱいになってしまった。にわか右翼はよく「昔の日本人はもっと誇りがあって・・・」みたいなことを言うけど、「荷車の歌」や「囚われの女たち」に出てくる女性たちの人生はひどすぎる。あんな差別や人権侵害を当然としていた戦前の日本になんて絶対帰りたくない。奴隷のように自由も権利もなく、一生過酷な労働をしつづけた女性たちや植民地の人たちを犠牲にしてはじめて成り立っていた社会だったじゃないか。日本はそこから這い上がってやっと豊かで平等な社会になったのだ。たぶんもうみんな忘れてしまったのだろう。心配なのは日本が経済的に低迷し、だんだん貧乏になってくるにつれて、また誰かが誰かを一方的に搾取するような不平等な構造が生まれ、それを正当化するための思想的拠りどころとして戦前の思想が使われるのではないかということなんだ。うわー、絶対いや。
 また山代巴をきちんと読み返さなくちゃと思った。

 それから常設展に井伏鱒二の部屋があり、山椒魚が潜む岩屋コーナーもあったのでびっくりした。ボタンを押すと山椒魚がバタバタと動く。穴の中にはちゃんと蛙もいた。二匹とも飢え死にしたんじゃなかったのか・・・・。

 

WEB国家

2008-03-07 23:11:13 | Weblog
 昨日はずっと角川学芸マガジン「WEB国家」を読んでいた。読書ビューワーも使いやすいし読みやすい。私は最近とんとネット事情に疎かったので、こんなふうに、本来雑誌に連載されるようなコンテンツがウェブ上で無料で公開されているということを全く知らなかった。先日のPLAYBOYなども全部ではないが特集記事のトップくらいは読めるようになっていたからびっくりした。便利になったものだ。

 WEB国家の佐藤優氏の文章を読んで、これまで著書を読んでもよくわからなかったことが少しわかった。たとえば、マルクスを読むような人が今なんだってモロ右翼の大川周明を高く評価するのか。これは、宮台真司がなぜある日突然右翼になってしまったかということとも関係している。佐藤氏も宮台氏もともに、今の日本の現状に非常に危機感を感じていて、日本が生き延びるためにはどのような思想が必要かを考えた末に辿り着いたのが右翼的な思想だったようだ。

国家への提言 第一回 創刊の言葉:
            なぜいま国家について語らなくてはならないのか
から
 国家が弱体化したり、消滅すると、その領域に住む普通の人々に大きな災厄をもたらすことを実感したからだ。この経験を経て、筆者は国家主義者になったのである。いま国家について筆者が語りたいと思う理由は、このままの状況を放置していると、日本国家が内側から弱体し、国民に大きな災厄をもたらすと考えるからだ。

「国家」というタイトルは高橋和己「悲の器」にちなんでつけられたのだという。
 現下、日本は確かに閉塞状況に陥っているが、『悲の器』が想定する1930年代後半の事態が反復しているような状況にはまだ至っていない。しかし、官僚の能力低下と不作為体質が今後も継続していくと、国家が暴力性を強めるかもしれない。そうなると『悲の器』が現実になるかもしれない。

 以下、元外交官らしいたいへん現実的なわかりやすい分析で中国、ロシア、中東などの思想的本質を述べ、そして、「国家には思想性が必要である。その必要性は今後ますます高まってくる」と言っている。このあたりが大川周明につながってくるのか。

「国家と神とマルクス」(訂正:「ナショナリズムという迷宮」の方だったかもしれない)を読んだとき、いきなり北畠親房の「神皇正統記」が出てきたので私はめんくらった。その時は皆目理解できなかったが、こうやってジャンプに至った思考の道筋を述べられているとわかりやすい。(たぶん)・・・。

大川周明著『日本二千六百年史』を読み解く
   第四回 復古・維新の精神と国家強化
から
 資本主義(市場原理主義)は、資本の動きにとって障害になる要素を除去したいという欲望をもつ。従って、自由主義的傾向をつねにもつ。この傾向を放置すると社会は内側から弱体化する。なぜなら、自由主義では個体がすべてであり、その上位の価値が存在しないからである。もっとも実際の生産は、分業と協業という体制で、一見、ばらばらに見える個人を結びつけてシステムをつくっているので、個体がすべてであるという世界観は錯覚にすぎない。
人間と人間の相互依存関係によって成り立っている社会が強化されないと国家も強化されない。資本主義と切り離すことができない地球規模での世界史に巻き込まれた以上、日本の国家と社会を維持するためには資本主義、自由主義に対して対抗する運動を展開していかなくてはならないのである。


 よく、政治の世界で「改革」というけれども、「改革」が必要とされている国は弱体化しているのであって、国を蘇らせるためには外国から持ってきた思想や手法によるのではなくて、自国の中にある思想によってなされなくてはだめだと言っているらしい。
 筆者の理解する大川の「認識を導く関心」は次の通りである。
 第一は、国内において格差が拡大し、日本人の同胞意識が薄れる。社会が崩壊する。その結果、貧困層を国家に統合することが難しくなる。結果として、日本国家が弱体化する。
 第二は、欧米列強、白人帝国主義国家の圧迫により、富裕層に属する資本家を含む日本人全体が従属を余議なくされる。
 この二重の困難を突破することが、国家の改造なのである。それは、日本国内における社会主義的公平分配を実施し、欧米帝国主義勢力を駆逐するためにアジア諸国と連帯して反植民地闘争に従事することである。その基礎づけは、歴史を振り返ることによって得られる「自国の善をもって自国の悪を討つ」という手法によるしかないのである。真の改革は、復古・維新となるのだ。

これ、宮台真司が言っていることとほぼ同じじゃん(たぶん)。
 それから、いつか宮崎哲弥氏が「日本人は第二次大戦中、鬼畜米英と言っていたのに、なぜ敗戦後すぐにコロッと態度を変えて占領軍に従順(もしくは卑屈)になったのか。その思想的根拠は何か」とテレビで言っていたことがあったけど、佐藤氏は「第六回 日本建国の理想」で、中国から伝来した「易姓革命」という思想が影響しているのではないかと考察されている。
 「国家への提言」も「大川周明」も広い教養と深い考察に裏打ちされた独特の論文だと思う。それにきっと情報収集力もすごいんだろうと思う。発起人の一人になられている「フォーラム神保町」の方もおもしろかった。従軍慰安婦問題やアジアとの歴史認識の違いについて東郷和彦氏の意見が読めてよかった。
 最近ネットのブログに右翼っぽい過激な発言が目立って辟易していたけど、やっぱりホントの右翼ってあんなんじゃないよなあと思う。だいたい、右だの左だの言ってバトルするのはもう古いよなあ。