読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

貴志祐介「新世界より」

2008-03-09 16:47:47 | 本の感想
 新聞広告を見ただけでこの本の凄味が伝わってきた。でも例のごとく、まず上巻だけを買って帰って読んだところ、他のことをみんな忘れてしまうほど引き込まれてしまって次の日にはもう下巻を買いに走っていた。間違いなく傑作だ。今年これ以上おもしろい本に出会えるとは思えない。

 私は「黒い家」を読んだ時のおそろしさが忘れられない。「幽霊や怪物なんかより、やっぱり一番怖いのは人間よね」と思った。「リング」や他のホラーは読んですぐに売り払ってしまったが「黒い家」は手放す気になれず、未だに私の本棚で不吉なオーラを放っている。そしてテレビで保険金殺人のニュースを聞くとすぐにこの本のことが頭をよぎる。和歌山毒入りカレー事件のとき、テレビのワイドショーに逮捕前の林健治容疑者のインタビュー映像が出ていて、彼が話していたことに私はショックを受けた。彼はこう言った「お金というのは、寂しがりやの生き物でね、仲間を呼ぶの。」つまりお金のある人のところにお金は集まってくるって言いたかったらしいのだが、私はそれを聞いてぞっと鳥肌が立った。お金が意思を持つ「生き物」だなんて初めて聞いたからだ。だけどそのような人をその後よく見かけるようになった。「黒い家」の初版が出たのが1997年6月、和歌山毒物カレー事件が1998年7月。「保険金で生活していた夫婦」だなんてまるで「黒い家」そのまんまじゃないか。貴志さんは予知能力でもあるのかと不気味に思った。
 そして、この「新世界より」でも何か暗い予測を思わせるものがあった。

 昨年は、宮部みゆきさんの本をたてつづけに読んだ。著者は「人間の中には、到底矯正できない邪悪さを持った者もいる」ということをいろんなバリエーションで繰り返し書いている。私たちの心の中にも邪悪さは多少なりともあるけれど、宗教や倫理や教育によって矯正され、押さえつけられているためになんとか円満に社会生活を送ることができる。中にはそういうストッパーが働かない人も一定割合いる。そういう、私たちの常識を超えた冷酷さや攻撃性を持つ人間がいるということを、この社会はほとんど認識しておらず、それに対応できていないのだということを宮部さんは言っているようで、私は「そうかなあ?」とちょっと不快になったのだった。

 以下、ネタばれ注意!!

 この小説の世界では、ほぼすべての人間が呪力を持っている。子どもたちは厳重に監視され、少しでも攻撃的であったり、自己コントロールを欠くような兆候があれば消されてしまうらしい。猫にさらわれて。

 最初は「理想的な社会じゃないの」と思った。だって、呪力で物を持ち上げたり食料を煮炊きしたり壊れたものを修復したりできるのだ。石油がなくても生活できる。だけど移動図書館と自称するロボットが教えたこの世界の歴史はおそろしいものだった。一般人の超能力者への恐怖と憎悪、戦争、文明崩壊後、一般人が奴隷となり超能力者の頂点に残忍な皇帝が君臨する暗黒時代。そうか、だって銃器を使わなくても一瞬にして他人の頭を爆発させることができるのだ。あるいは遺伝子操作で別のものに変えたり、ひどい苦痛を与えたりすることだってできるのだ。なんでもありだ。
 「『神聖サクラ王朝の研究』という書物は、先史文明の歴史学者J・E・アクトンの箴言、『権力は腐敗し、絶対権力は絶対的に腐敗する』を引用しています。奴隷王朝を支配するPK能力者は、人類の歴史に類を見ない、文字通り神に近い絶対権力を手にしましたが、その代償もまた、途轍もなく大きなものでした。」

「それぞれの王の死後には、生前の業績に応じて諡(おくりな)が付けられましたが、それとは別に、一般民衆のつけた悪諡(あくし)も残っています。第五代皇帝、大歓喜帝の即位に際しては、民衆の歓呼と喝采が三日三晩止まなかったという記述があります。単に誇張した表現だと思われていたのですが、後に、これが事実であったことがわかりました。最初に拍手をやめた者から百人までを、祝典の生贄としてPKで人体発火させ、苦悶する黒い炭の像を造って王宮に飾ることになっていたからです。民衆は、このことから、大歓喜帝に阿鼻叫喚王という悪諡を奉りました」

 これ、ソ連共産党大会でこんなエピソードなかったか?最初に拍手をやめると粛清される危険があるために30分も拍手が続いたとか。(訂正と補足 2.12:どこで読んだかを探してみたら、出典はソルジェニーツィン「収容所群島1」であった。引用しているブログ。)以下、背筋がぞくぞくするような残虐な王朝の歴史が続くのだが、イメージしただけで人が殺せるというのは凄まじいことだ。もはや「万人の万人に対する闘争」の時代を経て、主人公の生きるこの現代では人間の攻撃性は厳重に封印されている。万が一人を殺せば自分も死ぬようになっているのだ。一見理想郷に見えたこの世界が、実は薄氷を踏むように危うい世界であることが後にわかる。どんなに教育しても攻撃性をコントロールできない子どもというのはどこの世界にも一定割合存在するのだが、この世界の場合それが甚大な被害を及ぼすことになる。地獄だ。私はつくづく呪力などというものがなくてよかったと思った。進化というものはときどきその種を滅ぼす方向に進むことがあるが、これは特別な能力の進化が社会と文明を滅ぼすおそろしい凶器となるような状況を描いている。

 全力をあげて子どもたちを観察し、少しでも心配な傾向のある子は『腐ったリンゴ理論』によって即座に排除する。時には記憶を操作することまでして。だけど、主人公たちはそれに疑問を抱き、大人たちの裏をかこうとするのだ。果たしてそれが吉と出るか凶とでるか。生き延びるためにここまでしなくてはならない社会とはなんだろう。
 そのような厳重な管理にもかかわらず、何十年かに一度出現する業魔と悪鬼。私は過去、主人公の住む町に出現したという業魔の話を読みながら、ぞっとするとともに「これは、すっとしただろうな」と思った。生まれてからずっと攻撃性を封印されていたのだ。思いっきり人を殺しまくるのは、私たちがゲームでモンスターを殺るような最高のストレス解消になっただろうよ。亀山郁夫氏は中学2年のとき「罪と罰」を読んで、まるで自分が殺人者になったようなリアル感を覚えたとおっしゃったが、私はこの本を読んでそのような感覚を覚えた。おそろしいことだ。
 「Kには攻撃抑制の欠如と、愧死機構が無効という、この二つの重大な遺伝的欠陥があった。Kと近い血縁関係にある人々は、同じ欠陥を持った遺伝子を宿している可能性が高いの。だから、Kの血統は、五代まで遡って、あらゆる分枝で絶やさなければならなかった。」
 「そのときは、バケネズミを使ったの。最も人間に忠実なコロニーから、精強な兵士を選んで、四十匹ほどの部隊を編成したのよ。そして、暗殺用の装備を与えて、悪い血統を受け継ぐ人間を、一晩のうちに急襲したの。もちろん、相手に気づかれたら、バケネズミなどひとたまりもないから、作戦は慎重の上にも慎重を期して行われたわ。それでも、バケネズミの半数は失われたんだけど、どっちみち、残った個体も処分する必要があったから、まあ、完璧な成功と言っていいでしょうね。」

 ああ、このバケネズミたち!最初、使役に使うためネズミなんぞを進化させるとは、なんと非効率的で悪趣味かと思ったのだが、その理由が最後にわかったとき慄然とする。女王の君臨するハチ型の社会で民主主義思想に目覚め、狂った女王を幽閉する野狐丸は、賢すぎて気味が悪いが彼の言い分にも一理あると思った。民主主義型ネズミの社会?いいんじゃないの。だけどバケネズミに対する視点が最後にひっくり返ったとき、その意味合いに慄然とした。ネズミたちは人間を「神様」と呼ぶ。この世界で人間は神なのだ。「鳥獣保護官」は「死神」と呼ばれている。単に保護するのではなく、ネズミの社会を監視し、時には有害な要素を見つけてコロニーごと滅ぼしたりするからだ。まさに「神」。だとすれば神殺しが企てられるのは当然だ。そしてひっくり返った視点で見たとき、私たちの今の世界が持つ危うさも見えてくる。はたしてこれは全く無関係な別の世界の物語であると言えるか。つくづくおそろしいと思った。


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