読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

デモクラシー・ナウ!

2008-05-07 23:46:21 | Weblog
 「論座」6月号に、アメリカの非営利・独立報道番組「デモクラシー・ナウ!」が取り上げられていた。大手メディアがバックにある資本に配慮して決して報道できないようなニュースを、現場から、当事者の視点で報道するという画期的なメディアだ。全米650局以上で放送されているほか、世界各地にも配信されている。日本語版サイトもある。
 このような、主要メディアが伝えないような情報を取り上げる自由な草の根のメディアがいかに重要か、「論座」6月号の新連載「デモクラシー通信 ①G8への課題―極貧国の債務救済にたかるハゲタカファンド」中野真紀子を読んで愕然として悟った。以下のような内容だ。(抜粋)

 2005年、G8(主要国首脳会議)は最貧国の債務を合計550億ドル(約6兆円)削減する合意を交わした。アフリカ14カ国を含む貧困途上国18カ国への債務が全額削減、その他20カ国については条件付きで削減が検討されることになった。
 しかし、「ジュビリー・サウス」という市民団体は債務削減のための諸条件が債務国にさらなる構造調整を要求し、結果的に先進国経済への隷属を永続化させるとして「無条件での全面的な債務帳消し」を求める声明を出した。そもそもこうした重債務に正当性はあるのか?

 エコノミック・ヒットマンで開発援助の裏側を暴き全米ベストセラーになったジョン・パーキンス(国際経済コンサルタント企業の元主任エコノミスト)は、アメリカ帝国がいかに貧困国を欺いて富を巻き上げてきたかを語る。
「まずは、国際企業が欲しがる資源を持つ第三世界の国に狙いをつけ、世界銀行や関連組織から巨額の融資を受けさせます。金を受け取るのはその国ではなく、インフラを建設する米企業です。電力網や工業団地やハイウエーなどは富裕層にはありがたい投資ですが、貧民には縁がありません。電力は使えず、工業団地で働くスキルもないのですから。でも、彼らと国全体が、莫大な借金を負うのです。そんな巨額の債務を、国は返済できません。やがてヒットマンが戻ってきて、指導者たちにささやくのです、『金が返せないなら、お前の肉1ポンドで、支払ってもらおう』と」(パーキンス)
 世界銀行の融資を受ければ飛躍的な経済成長が可能になるとだまし、意図的に返済不能な巨額の借入をさせる。しかし、とうてい返済できず、世銀の指導により社会福祉や民生への支出が大幅に切り詰められ、天然資源が収奪される。つまり、エコノミック・ヒットマンは、グローバリゼーションの原動力となってきた合衆国の企業利益中心の政治(コーポレートクラシー)の世界支配戦略を、経済面で推進する役割を担うわけだ。

 なーるほど、資源豊かな国ほど貧乏になり、開発がまったくその国の役にたってないというのはよくある話だ。しかも、もっとひどい収奪が起こっているというのだ。この貧困国の債務免除を食い物にするハゲタカファンドがあるっていうのだ。BBCの「ニュースナイト」で、このハゲタカファンドのやり口が暴露された。
 米国人が所有するハガタカ企業ドニゴール・インターナショナルは、300万ドル強で買い叩いたザンビア債権――元の融資額1500万ドルが買収時には額面3千万ドルの債務に膨れ上がっていた――をもとに、元金と利子、それに手数料を合わせた額と称して5500万ドルもの返済を求め、ザンビア政府を訴えた。おまけに政治家に利益を還元し、それが問題の解決を遅らせている。というのは、ドニゴール社がザンビアの債権を300万ドルで買い叩いたわずか数日後に、ザンビア政府は1500万ドルの支払いに同意したのだが、これは当時のチルバ大統領が、慈善団体への寄付を装った巨額の賄賂をドニゴールから受け取っていたためだと言われているのだ。

 この「ニュースナイト」の内容が「デモクラシー・ナウ!」で放送されたため、それを聞いた下院議員二人がブッシュ大統領に陳情し、対策を迫ったが大統領の反応は鈍かった。当然だ。ブッシュと共和党へのニューヨーク最大の献金者ポール・シンガーははアメリカ最大のハゲタカファンドの経営者だから。


 ハゲタカファンドが吸い取り、アメリカの現政権を支えているのは本来は最貧国の国民の教育や医療や社会保障に使われるべきお金だ。いくらアフリカ諸国の債務削減をしても、援助金の約半分がハゲタカに吸い取られてしまうのだ。もちろん、日本の援助も(その大半は私たちの郵貯や汗と涙の税金から出ている)。こんなことはアメリカの主要メディアはどこも報じない。もちろん日本のメディアも。

 国際通貨基金(IMF)と世銀の調査では、07年中に債務帳消しの恩恵を受けた24カ国のうち11カ国が、「ハゲタカファンド」の餌食になったとされている。昨年、ドイツで行われたハイリゲンダム・サミットでは、ハゲタカファンドの問題が取り上げられたものの、有効な対策は何もとられず、今年の北海道・洞爺湖サミットに課題を残している。


 みんな、アメリカの金持ちの掌の上で踊ってるだけじゃん。チベット問題にしたって、アメリカやフランスがなんでこんなに騒ぐのかいぶかしく思っていたけど、要するに政治家と結託した大資本の思惑が背後にあるんだろう。「マスコミに載らない海外記事」より。反中の人はアメリカに毟られるのは一向にかまわないのか?うかうかしていると、政治的に利用されるだけ利用されて、ふと気がついたらみんな極貧状態ってことにもなりかねない。きっと中国か、アメリカかという二者択一ではないんだ。グローバリゼーションの中でいかに食い物にされないで生き残るかという問題なんだ。
 って、これ、全部「神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド2 アメリカン・ディストピア」に書いてあったし。
 

たかじん

2008-05-05 22:44:19 | テレビ番組
 昨日の「たかじん」で、チベット問題について少し掘り下げた話が出てきた。ゲストがペマ・ギャルポ氏(ブログ)であった。

 中国がチベットを併合した理由の第一は、やはり豊富な水資源と多種多様な鉱物資源、及びメタンハイドレードなどのエネルギーの埋蔵量が中国一多い地域であるということらしい。次に人口増加に悩む本土から周辺に移住させるべき土地がほしかったということで、ペマさんによると中国国内の犯罪者2000万人がチベットに移住するという条件で恩赦を受けたという情報があるらしい。青蔵鉄道が開通し、人と物の行き来が盛んになって豊かになったかといえば全くそうではなく、中国側から人がどんどん入ってきて、チベットからは物資を収奪していくだけだ。また、未成年のチベット女性を中国側に就職させるという名目で連れてゆき、向こうで結婚させるという動きもある。つまり他民族との混血を進めてチベット民族を根絶やしにしてしまおうと目論んでいる。チベット語も学校で使えないし大学に行こうと思ったら北京語をマスターして中国本土に行くしかない。仮に中国で大学を出てチベットに帰って来たとしても、チベット人は公務員にはなれない。高い地位にもつけない。など、いろいろとひどい現状を解説された。

 中国共産党の支配下に入ってチベットの封建的農奴制度が廃止され、多くの農民が救われたとか、識字率が非常に低かったが近代的教育制度によって庶民の識字率が向上したなどどいう共産党のプロパガンダは嘘っぱちだ。都市部を除いてチベットの農民はもともと自給自足の半騎馬民族で、定期的に移住生活を送っていた。農奴制など存在しなかった。また、学校のかわりに寺院が教育機関として機能しており僧侶たちは皆読み書きができた。僧侶の数も非常に多かった。識字率などは誰がどうやって調べたのか、そのような報告書そのものが嘘っぱちだ。中国側のチベットに対する認識は1940年代のままだ。ということであった。

 なんだか、昔から続いてきた民族紛争の典型みたいな話だ。
 
 アイドル席のケイコ先生が「じゃあ、もし日本が中国に併合されたら、日本人も中国の一民族ってことになるんですか」と聞くとペマさんが「かつて、中国残留孤児のことを『ヤマト民族』と呼ぼうということになったのですが、私が『日本人のみなさん、おめでとうございます。日本人はついに中国の一民族になったのです』と書いたら、中国当局はすぐに撤回しました。」と言われた。私は、中国のやってることは確かにひどいし、ペマさんが「中国は毛沢東の亡霊に支配されている。もはや存在しない共産主義思想に操られている。」というのも、まあわかるんだけども、日本人が「きゃー、中国は怖い、危険だ、日本もいつか侵略されるに違いない」なんて恐怖に駆られてヒステリックに騒ぐのも危ないなあと思う。チベット問題について騒いでいるのが特定の政治傾向のある人たちばかりというのも嫌だな。とても同調できない。そういう人たちが騒げば騒ぐほど、政府は中国に対して強硬な意見を言いにくくなるだろう。また、「中国に侵略される危険性があるんだからアメリカとの同盟関係を強化するしかない」という人も多くなるだろう。なにより、大国中国が生き延びるために食糧やエネルギーなどの資源を、形振りかまわず獲得しようとしているのを「人権問題」で説得できるとは思えない。やはり、国際社会で協調して説得したり圧力をかけたりするしかない。すると中国がアフリカ諸国に経済援助を増やしているのは国連での味方を増やすためなのだろうな。なんと戦略的な国だ。日本もそれに対抗できるように賢くならなければならない。聖火リレーの応援をしていた中国人留学生たちも、ただ当局の支持に従ったってだけではなくて、自分の国がボロカスに言われて悲しいから出てきたと言ってたじゃないか。むやみと非難してナショナリズムを煽りたててもよい結果は生まないと思う。

 子供の頃に読んだ「クオレ物語」の中に愛国少年のエピソードが出てくる。(今思うと、あれはただの子どもの学校物語ではなくて、戦前のナショナリズムに基づいた問題ボロボロの小説だが。)船で外国に行くことになった身寄りのない少年が、母国イタリアの悪口を言った紳士たちにせっかくもらったお金をつっ返す話だ。「イタリア人は貧乏だ」「イタリアには泥棒が多い」「乞食も多い」「最低の国だ」全部本当じゃないか。本当だということは少年もわかっているが、自分の国の悪口を言われると我慢ができない。「そんな奴らにお金を恵んでもらったりするものか!」と金貨を投げ返すのだ。愛国心とはそういうものだ。たとえ自分の国が間違っていて、最低であっても、それでも愛する。悪口を言われると激昂してしまう。それは、どこの国でも同じだ。「ダーウィンの悪夢」で印象的だったのは、売春婦が「タンザニア、タンザニア、麗しの国よ」という歌をうれしそうに歌っていたことだ。

 「中国は帝国主義の危険な国」みたいに非難してもだめだ。脊髄反射的に同じような反応が返ってくるだけだ。とにかく、ダライ・ラマ師と中国当局が話し合いのテーブルにつくよう勧めて、粘り強い交渉をするのを国際社会が援護するしかないと思う。ペマ・ギャルポ氏もそのようにおっしゃっていた。


 全然関係ないんだけど、三宅先生は以前「秘書のお嬢さんがみんな調べてくれるからパソコンなんか触ったこともない」とおっしゃっていたのに、最近はどうもネットのブログなどを読んでいらっしゃるように思えるのは、まさかウェブページをそのまんま印刷してもらって読んでるのか?と思っていたら、昨日番組の中で「最近パソコンの使い方を教えてもらってハマっている」とおっしゃった。なるほど。宮台ブログなどもお読みになるとよいと思います(解説は宮崎哲弥さん)。字が細かいから一旦印刷して拡大コピーして寝る前に読むと2、3日してからじわっとわかってきます。

映画「ノーカントリー」

2008-05-05 17:15:04 | 映画
 今年見た映画の中で一番おもしろかった。公式サイト
 大金を奪った男を追う殺し屋が、意味もなく人を殺しまくる。いや、「意味もなく」というのは間違いだ。彼の中では合理的な理由があるらしい。宮台ブログに書いてあった。やっぱり彼は「脱社会的存在」って奴だ。雑貨屋の店主が「テキサスから来たのかい?車が雨にぬれていた」と言うと「何でそんなことを聞くのだ」と怪しむ。普通の人間だったら「ああ、そうだ。親戚の家を訪ねる途中さ」とか嘘八百でも適当に言えるが、彼には言えない。店主がやり取りに異様さを感じて「もう店を閉めるところだ」と言うと「なぜ?まだ明るい。いつもは何時に閉める」と聞く。このへんのやり取りのちぐはぐさから彼が普通の会話ができないということがわかる。殺し屋はこの店主を殺すかどうかコインを投げて決めさせる。「このコインと一緒に旅をしてきた」と彼は言う。自分の人生もコインを投げたときの表裏と同じように偶然によって今に至っているのに過ぎないし、人の生き死にも偶然の産物に過ぎないと考えているのだ。だから人を殺すのに罪悪感はない。

 田口ランディの小説によく「言葉を音として聞く」というシーンが出てくる。普通、言葉には意味が不随しているが、主人公たちにはそれが理解できないことがよくあるらしい。なぜなら人は心とはまったく裏腹のことを言うことがあるし、言葉の示す意味とはまるで逆の意味合いを持つ調子で喋ったり、振る舞ったりすることも多いからだ。普通私たちは言葉の裏にある意味を無意識のうちに読み取って適当に会話しているが、彼らにはそれができない。額面通りの意味を読み取ることしかできないので混乱してしまうのだ。たとえば「もう店を閉める」と言われれば「おまえは迷惑だから早く出て行ってくれ」という意味があるのだがそれが読み取れない。ただ、行為の異常さとしてしか認識できない。田口ランディの小説では、人とのコミュニケーションがうまくできないような育ち方をした主人公たちが、そのような混乱から身を守るために「言葉から意味を削ぎ取って、音として聞く」という行為をする。すると、言葉の持つ意味そのものではなく、別な意味合いが見えてくることがあるらしい。私は「ノーカントリー」の殺し屋も、コミュニケーション不全による不利益を避けるために自分なりのルールをこしらえて、それに忠実に従っているだけだと思う。だから、人から見てどんなに無意味な殺しであろうと、それは彼にとって合理的なのだ。「自分の身元を詮索する人間は殺す」。私たちから見ると、何も雑貨屋のおじさんを殺す必要はないように思えるが、モス(大金持ち逃げ男)が別の殺し屋に居所を突き止められたのは、女房の母親が空港で親切にカバンを持ってくれた紳士に気安く話したからだということを思うと、人に安易に個人情報を漏らすことがどれだけ危険な結果を招くかわかったものじゃないのだ。殺し屋は、ジェイソン・ボーンみたいに訓練を受けているわけでもなく、人一倍他人の感情を読み取ることが苦手なので、自分の決めたルール通りに危険な人物をしらみつぶしに殺していくしか生きる道がないのだと思う。

 異様といえば、麻薬取引のゴタゴタによって放置された大金を奪って逃げる主人公モスも相当異様だ。ベトナム戦争に二度従軍した経験があるらしい。しかしいくら異様と言っても殺し屋ほどじゃない。メキシコで出血多量で倒れたら、メキシコ人に「病院に連れていってくれ」と頼むし、病院からパジャマのまま抜け出して国境検問所で「アメリカに行きたいのだ」なんて押し問答する。そしたらなんとなくうまくいってしまうところが不思議だが、実に人間的だ。いくら無謀なことをしていても、彼はまだ社会から逸脱はしておらず、基本的に他人を信頼しているのだ。誰も信じず、通ったあとに死体の山を築いていく殺し屋とは大違いだ。

 手に汗握りながら映画を見ていて、ふと「もし私が大金を手に入れたらどうやって逃げる」ということを考えたが、そもそも「大金を手に入れる」というシチュエーションには絶対ならないということにすぐに気がついた。
 たとえば、狩の途中負傷した犬を見つけたら、→「ワンちゃん、おいで、おいで、こわくないよ」などと言いながら夜までかかって犬を追いかけまわす。そして動物病院に連れて行った後で「あれ、ところでなんで犬がけがしてたんだろう」と不思議に思う。
 仮に、犬を通り過ぎて銃撃戦現場を発見したとしたら、→遠くからその光景を見ただけでビビッて保安官に電話する。
 仮に、現場まで行ったとして、生存者を発見したら、→「しっかりしろ、死ぬなよ!」と言いながらその車(麻薬を満載)を運転して病院に直行。男の「家族」に電話して来てもらう。(そのあとで、「あれ、まずかったっけ?」とちらっと疑う)
 仮に、大金を抱えたまま死んでる男を発見したとしたら、→札束を見ただけで気が動転して警察に届ける。
 仮に、万難を排して勇気を奮い起し大金を手に入れたとしたら、→発信機に気づかずそのまんま銀行に預けようとして御用・・・。
 どこをどうやっても、私が大金を手にして逃げるというシチュエーションには辿りつかないことがわかった。ちょっと残念だ。

映画「マグノリア」

2008-05-01 18:28:51 | 映画
 ポール・トーマス・アンダーソン監督「マグノリア」(1999年)
 宮台真司がよく「制御不可能な偶発事によって、自己完結した〈社会〉の中に不意に名状しがたい〈世界〉が闖入してくる」(「絶望 断念 福音 映画」メディアファクトリー)ことの映画における例として取り上げる、「降り注ぐカエル」を見たいと思ったのでこのビデオを借りてきた。まだ見ていなかったのだ。

 しょっぱなからトム・クルーズが、テレビ伝道師みたいにわけのわからないことをわめいていてげんなりする。腰を振りながら「女をモノにするのは簡単だ」みたいなことを卑猥な表現でいろいろに言うのだ。「コックを崇めよ!」「オー!」とか。この自信たっぷりなカリスマ伝道師ぶりはついこの間見たあれだ。「大いなる陰謀」に出てくる若手上院議員。そうか、トム・クルーズは「マグノリア」で詐欺師の喋り方を習得したのか。
 映画では複数の物語が同時進行していく。マルチスレッド形式というらしい。瀕死の大富豪とその若い妻。テレビの人気クイズ番組の名司会者とその娘。娘に思いを寄せる善良な警官。クイズ番組の常連である天才少年とその父。そのクイズ番組で過去にチャンピオンだったが今は全くのダメ人間で職場を解雇された男。最初はまるで無関係に思えた人間関係だが、33年間も続いているというそのクイズ番組が共通項だ。大富豪はこのクイズ番組の企画者として名前が出てくるし、セックス教の教祖は、昔大富豪が前妻とともに捨てた息子であった。ガンで余命いくばくもない名司会者は、実は昔娘を性的に虐待したことがあり、娘はそのせいでドラッグに溺れて人生を台無しにしてしまっている。天才クイズ少年は学校にもいかずひたすら図書館で勉強して、父親に高額の賞金を稼がせている。そのような天才少年のなれの果てが、電気店を解雇されたダメ男。彼は両親に食い物にされ、雷に打たれてバカになってからは何もかもうまくいかず、今では借金まみれ。

 私はクイズ番組が大嫌いだ。特に「ファイナルアンサー?」なんていうのが虫唾が走るほど嫌いなのだけど、子どもが見たがるのでいつも喧嘩になっていた。あんなものを見て知識や教養が増えると思ったら大間違いだ。なんで嫌なのかうまく言えなかったのだけど、「マグノリア」にそのヒントが出てきた。天才クイズ少年が質問に答えて「カルメン」のハバネラをきれいなボーイソプラノで歌うのだ。そのあと音楽は継続して、善良な警官と彼が恋した娘とのデートシーンにつながる。そうだ、まったくトリヴィアルな知識には、「カルメン」を見ながらこの歌を聞いた時に喚起された感情や、人生で誘惑したりされたりしたときのときめきなどは、まるで含まれてない。そんな知識をいくら持っていても社会で生きていくのにあまり役に立たないことは、解雇された勤め先からお金を強奪しようとするダメ男をみればわかる。子どもを学校にも行かせないで賞金を獲得することだけに目の色を変えている父親は何考えているんだ。とんでもない奴だ。

 きっとみんなをつなげているこのクイズ番組は、人間の真っ当な生き方をダメにしてしまうものを象徴しているんだと思う。だからほら、ハバネラで言っているじゃないか。“prends garde à toi!”(気をつけろ!)

 ところであのカエルはどうだったかといえば、私はアマガエルかと思っていたところがバカでかいウシガエルだったのでびっくりした。そのでかいカエルが、すごい速度で大量に雨あられと降ってくるのだ。車のフロントガラスに当たってバスッ、バスッ!と不気味な音を立てながらはらわたを飛び散らせ、血と粘液でそこらじゅうを汚し、家の窓ガラスをぶち破って飛び込んでくる。そりゃあみんな悲鳴をあげるわ。
 魚やいろいろなものが空から降ってきた事件は過去にもいろいろある。竜巻に巻き込まれて上空に運ばれたものが落ちてくるのだ。それこそトリビア的知識で何例か挙げることもできる。だけども、実際にその光景を見た人は肝を潰すだろうし、キリスト教圏では即座にヨハネの黙示録を想起するだろうと思う。特にこの映画では最初に「偶然の一致」が起こった事件を出してきて、そのような「ありえないこと」が、なんらかの意味を持っているということを示唆しているから、当然カエルは何かの予兆なのだ。宮台は、このカエルを「黙示録」ではなく「福音」であると言っている。たしかに、「ありえないもの」を見てしまった後で、道に迷ってしまっていたような彼らは誠実になり、自分の本当の気持ちを直視するようになる。カエルは、神の裁きと破壊の象徴ではなく、見失っていた大事なものを取り戻し、新しい自分を再構築するための契機となった。

 だけども、私は思うんだけど、ちょっとはお仕置きもしてるじゃないの。あの、「虐待は誤解だ」とか「覚えてない」とか最後まで言い逃れをしていた司会者のまさにピストルを持つ手の上に落ちてくるとか、後悔して金を返しに戻ったダメ男の顔を直撃して雨どいから落下させ、歯をへし折るとか(歯の矯正のために金を盗んだのに)。きっと、裁きも福音も天にとっては同じことなんだと思うな。だって、元天才少年のダメ男は雷に打たれてアホになり、アホになることによって強欲な両親から解放されたわけだ。だから、雷もカエルも実は同じだ。雷によって人生が狂い、カエルによってそれが正常になったと思うのは間違いだ。

 雷が気になるのは、実は私にも経験があるからだ。打たれたわけではないが、雷が教えてくれたことがある。
 二年ほど前、夜庭に出ていたらいきなり閃光が走り、一瞬外が昼間のごとく明るくなった。何事かと思っていたら再び閃光が走り、雷鳴が聞こえた。そしてそれが私に、「お前は監視されている」ということを警告してくれた。
 まさか、そんなことはありえないと思っていたが、視覚的にも聴覚的にも誰かに監視されているということがそれから毎日のように新聞に載るようになったので、ただの被害妄想ではないということがわかった。今は載らない。私が脅したのでやめたらしい。監視の方はいつでもOKよ状態のままだ。
 そんなことがあったので私は、「神」とは言わないが、私たちを見ている何かの存在を少しは信じるようになった。この世には特別なパワーを持つ存在があって、その目は世界の隅々まであまねく感知していて、私らは何ひとつ隠し事などできないのだと思う。そして私は予知能力とか霊感とかテレパシーとかそういうものは一切ないが、どうも何かを読み取るかすかな力はあるらしいのだ。それが何かはわからないが。「マグノリア」のカエルと同様、それは「天罰」と「福音」の両方の意味合いを持っているように思える。あの時の雷はわたしにとって、「警告(悪いニュース)」であったと同時に「お前を監視する彼らも監視されている」という私にとってのよいニュースでもあった。みんな平等に監視されてるんだからいいじゃん。カエルはみなに平等に降り注ぐのだ。まさにそのことが福音だ。