読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「論座」10月号より

2008-11-15 15:24:45 | 雑誌の感想
 嫌だけどまた「田母神論文」

 何か書き忘れたような気がして仕方ないので思いつくままに書いてみる。

 田母神論文の件でびっくりしたのはアパグループという会社が「真の近現代史観」などという右翼くさい論文を募集するほどトップがアレだったのかってこと。まあ、変な宗教を信仰しているような経営者もたくさんいるし、本社ビルの屋上に祠があったりするようなとてもレトロな雰囲気の会社もあるしそれはどうでもいい。
 アパはかつて、派手な服装の女社長が自社の宣伝CMに出たところ、「(ビジュアル的に)ひどい顔を見て精神的に苦痛を受けた」といった類の苦情電話が殺到し、そのお詫びにホテル宿泊無料券を郵送し、また大々的にお詫びのCMを流したため、その真摯な対応に却ってひいき客が増えたというエピソードがテレビで紹介されていた。そのクレーム対応のユニークさはともかく、女社長が夜なべして、客室すべてに置くメッセージ付きの折鶴を折ってるという姿はちょっと熱血体育会系っぽくって嫌だなと思ったもんだがそういう立志伝もどうでもいい。

 問題は、 田母神「侵略否定」論文の背景 自衛隊とアパグループの密接な関係(J-CASTニュース)に見られるような、右翼の論客とグループ代表、および自衛隊との密接な関係だ。このブログ(SHINAKOSAN IS OKINAWAN)に出てくるが、そういえば耐震偽装で問題になったヒューザーの小嶋進氏も、アパ代表の元谷外志雄氏も安倍元首相の後援会幹部だったっけ。してみると安倍さんのいう「美しい国」の中身や憲法改正を目指す自民党保守系政治家たちのものの考え方がわかるってものじゃないか。

 上記ブログに、「鵬友」という航空自衛隊幹部学校幹部会発行の文集に掲載された田母神氏の論文が紹介されている。(リンクは下の方にある)
「航空自衛隊を元気にする10の提言~パートI~」
「航空自衛隊を元気にする10の提言~パートⅡ~」
「航空自衛隊を元気にする10の提言~パートⅢ~」

 論文というには散漫な文章で決めつけが多すぎる。パートⅡの「6 止(や)めない勇気と始める勇気」「7 身内の恥は隠すもの」なんて、あーそー、だから前例悪習が断てないのねとつい思ってしまうし、「また戦後の社会風潮や日教組に牛耳られた学校教育のせいで、何にでも自分の権利を主張したがる人が増えてしまった。」「マスコミもこれをあおり立てるようなところがある。」ってあーそー、やっぱり戦後教育が悪いってことー?社会保険庁をバッシングする番組なんかには制裁を加えてやれって発想も出てくるわなと納得する。「8 戦場は二つある」なんて怖いなあ。世論が相手の戦場でメディア操作がうまくできなくては戦争に勝ってもマスコミに負けてしまうってさ。ブッシュ政権のメディア操作を礼賛してるじゃない。パートⅢの「はじめに」「無実の罪が真実として一人歩きをするようになってきた」「当時の中国大陸や朝鮮半島はいまのイラクのようにテロが日常的に起こり、多くの日本人が殺害され続けていたのだ。治安は不安定でいわゆるゲリラ戦状態である。日本軍が進出したことにより治安は安定こそすれ、決して悪くなることはなかった。テロに会い続けながらも日本は、日本本土に投資する金を削って満州や朝鮮半島に金をかけ続けた。日本の投資があったことにより満州も朝鮮半島も住民の生活は飛躍的に改善されたのだ。」って、イラク侵攻を正当化するアメリカの言い草とまったく一緒だし、過去を反省なんて視点は片鱗もない。次が「攻撃は最大の防御」っていうのだから実に物騒。

 読むだけでぐったり疲れる文章だけど、これが自衛隊幹部の方々には絶賛されてたのか?

 論座2008年10月号より

 軍事関係の上層部はもっと常識的歴史観の持ち主で戦略的な思考の人に就いてほしいものだと思う。それで、実はさっき内田樹氏のブログを読んでいて思い出したのは「論座」2008.10月号(最終号)五百旗頭(いおきべ)真氏(防衛大学校校長)インタビュー、「日中関係の鍵は東シナ海での共同事業にあり」という記事だ。
こういうところ。
 私が福田さんに一番お願いしたのも、東シナ海のガス田問題で合意をつくるために頑張ってほしいという点でした。
 中国の軍事力はこの10年で3倍でしょうか、たいへんに上げ潮になってきています。今は日中中間線あたりで中国が開発しているガス田の上を日本の航空機は自由に飛べます。しかし、その状況は5年、10年たつと変わってくるかもしれません。
 そうなったら日本が既得権のように思っているものと何かの瞬間にぶつかったりするかもしれません。日中軍事衝突が思いがけず起こるかもしれません。それが世界の大ニュースになってしまうと、「第三次日中戦争」みたいな空気になりかねません。
 今は実のところまれなチャンスだと見ています。意外と思われるかもしれないけど、反日暴動のあと、胡錦濤政権は日本との関係に非常に気を使っているのです。例えば、香港の運動家らが尖閣諸島へ船を繰り出していこうというのを、中国政府がきちっと止めていますし、ブログ等での反日的な言動をかなり厳しく抑えている。小泉さんの時は、中国としては関係改善したかったけれども、ブレることなく靖国神社に参拝されたのでは国内がもたない、じっと我慢をしながら、さらなる悪化を食い止めていたんです。
 そこで、首相が安倍さんに交代したとたん、安倍さんが親中派でないことはよく知った上で対応を変えたのです。そういうことを日中友好21世紀委員会で中国側の人に言ったら、「ああ、いいんです。ニクソン大統領と同じです。ニクソン氏は大変な反共の戦士です。だけど、その人が米中改善の歴史的役割を果たす。二クソン氏の真意が反共かどうかということは最重要の問題ではない。彼が歴史的役割をしっかり演じてくれたらいいのです。安倍首相も同じです。安倍さんは他方ではインドやオーストラリアを誘って、中国封じ込め的な政策を試みるかもしれない。しかし、小泉時代に悪化した日中関係を改善するのが、安倍首相にとっても、政治的にプラスのポイントになって、それが一つの政治的資産になるとしたら、裏切れないでしょう。それでいいんです」と話していました。

わお、中国の政治家ってなんて戦略的な考え方の持ち主なんだろう。相手の立ち位置をよく理解した上で、お互いプラスになる方向に導いていく。特攻玉砕的な右翼の方々の行動パターンとなんと隔たりがあることか。
安全保障システムをまともなものにしなきゃいけないというのは、安全保障にかかわる学者、政治家や防衛省の幹部とか、そういう人たちの間では、いわば悲願だった。
 安全保障について先進民主主義国として求められる二つの要件があります。一つはシビリアンコントロールがしっかりできていること。もう一つは、必要な場合にしっかり機能する組織であること。小さくても安全保障を全うする部隊を持っている。あるいは意思決定システムを持っている政治です。この二つがそろって初めて国際水準だと思うんです。

きわめて真っ当だと思う。「たかじん」に出演した惠隆之介とかいう人が、「有事の際に自衛隊の出動が遅れたら大変なことになるから」と現場の裁量権の拡大を執拗に主張していたあれはやっぱ妄言の類か。
戦後日本については、国民が政治家を選び、国会が総理を選んで、民主主義的正統性を帯びる政府に、自衛隊は服するわけです。それは戦後日本社会で当然視されるようになったし、防衛省・自衛隊も、その考えは共有している。私も防衛大学校長という立場で半分、中へ入ってみて、それに対して反発する、かつてのような勇ましい人がいるかと思ったら、そうではなかった。自衛隊の幹部になるエリートは、まともな常識を持っていて、シビリアンコントロールをいわば内面化しています。

ほんとかよ。田母神さんはこういうのも「マインドコントロール」の成果だというんだろうな。
報告書には、ネガとポジというようなものを書いています。マイナスのミス、エラーをしないことが重要な課題ですが、エラーを恐れてダイビングキャッチをしないチームとなっては役に立ちません。ミスの回避を最終目標にするのではなくて、志を持って組織を挙げて立派な安全保障の仕事をやろうと、それに燃える中で、技量を高めて、ミスを極小化していく。そういう観点にたたなきゃいけないという主張をしています。
 もう一つ大事なのは、自衛隊を生かすも殺すも、結局は政治次第であり、国民次第です。部隊レベルでは頑張っているが、国家戦略レベルでは愚行の極みというのでは、かつてのような構図をつくってしまう。それは絶対にやってはいけない。首相官邸が大局に立って外交や内政の基本方針をしっかり打ち出す。それができるような人材を政策を防衛省が用意する。そして、政治が大局から方針を決めれば、それを踏まえて効率的に健全にそれを実施する。いつでもそれができるよう自衛隊は、精強にして規律ある部隊を用意していなければいけない。

私は思うに、あの論文の正否はともかくとして、ああいう人が自衛隊幹部だったのかという失望感があって、漠然と抱いていた自衛隊に対する信頼やイメージが崩れたってのが大きいと思う。それに世界的な金融危機でどこの国も今、生きるか死ぬかの瀬戸際ってときに、過去の戦争が正しいだのどうのと言いだすとんでもない復古調が流行して連日議論してるこの国って何よ、と世界中の人が首をかしげてるだろうなあと思う。2ちゃんねるでも最近バカにされてるっぽい麻生さんはさっさと解散総選挙してほしいよまったく。

――長年にわたって、陸海空は予算比率が同じという直接的体質をもっています。そのため脅威の変化を踏まえた組織改革ができないでいます。こういう問題は報告書の中からどう読み取ればいいのでしょうか。
五百旗頭 私の最初の案では、一番事情を分かっている陸海空がそれぞれ予算案を作った後、内局で全体案をまとめればいいとしていました。(中略)そしてたら当時の石破大臣が、「20年にわたって3幕の予算比率がほとんど変わってないことをご存じですか。一度、陸海空が自己完結的に予算を作ったら、その後は聖なる戦いになってしまい必死で守る。そのため予算比率を変えられないのですよ」と「全体最適化」論を説かれました。そこのところはもっともと思い、修正しました。
 大きな変化も起きています、例えば陸上自衛隊はソ連軍の北海道上陸作戦に備えて戦車を1200両持っていましたが、それをまずは900両に減らし、いずれ600両になります。
 だけど、こうした変化は誰が考えてもそうでしょうということになって、実感がじわっと出てきたところでやっとできるのが日本の通例です。聡明な人を集めれば「国際環境がこう変わって、これから日本が関与するであろう活動を考えたら、こんな大型戦車を使う機会は極めて少ない。もっと機動性のある、軽くて、しかも情報能力の豊かなもの、それが要るんじゃないか」というふうに、すぐに結論が出せると思うんです。世界の主要国もその方向で動いてます。しかし、自衛隊の場合、日本の多くのお役所と同じく、ジワッとみんなが諦めるまで待っている。これは遅いですね。

「歴史観」とかどうでもいいから、もっと現場の効率性とか機動力とかお金の使い方の適切さとかを真剣に考えてほしいです。


雑誌「新潮45」 その3

2008-10-26 01:13:28 | 雑誌の感想
 ドストエフスキー

 現代の貧困で思い出した。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(亀山郁夫訳)(100万部突破とかで先日も全面広告が出ていた)を読んでいたときのことだ。そういえば亀山氏はスネギリョフ大尉一家についてこう言っていた(2008年2月27日の日記)
私は、この一家の物語がドストエフスキーの神髄だと考えるようになりました。それはひとことで「狂っている」ということです。とりわけ、このスネギリョフの奥様の(狂い方)が異常で、これを描けるドストエフスキーはすごい。先ほど、わからないところは砕いて翻訳したと言いましたが、この奥様のセリフだけは最後までわからなかった。

だけど、スネギリョフ一家の出てくる場面を読んでも、私には狂ってるという気がしないのだ。スネギリョフが半ば自虐的に、自分の家族をアリョーシャに紹介する場面では「狂ってるのはこいつか!」と思ったけれども、狂ってたらあそこまで赤裸々にしゃべれない。奥さまの支離滅裂なセリフときたら、私の母や姑がいかにも言いそうな感じなんで、逆に実にしっくり理解できた。近所のあの人がああ言った、こう言ったという話の中には背筋が寒くなるような話もあったりして、そんなん普通。だから「ああ、みじめな生活が目に浮かぶようだ」とは思ったけども「狂っていて理解できない」という気はしなかった。だいたい、亀山氏はウラジーミル・ソローキン のおっそろしく支離滅裂(かつエロチックでスカトロ)な小説などを翻訳されているのに、なんでこの奥さまのセリフがわからないと言うのだろう。(ちょっと関係ないけど、ソローキン氏は東京外大で講義を受け持たれてたことがあるのね。)
 私がそこで考えたのは、「なんでこの一家はこんなに不幸なのか」ということだ。その原因の大元が家長である飲んだくれのスネギリョフの失業であることは間違いない。父親が失業してしまったら、即座に生活苦に陥って娘の医療費も、学費も払えなくなり、息子は学校でいじめられるのだ。失業保険も医療保険も奨学金も生活保護も児童扶養手当も障害者手当もない。セーフティーネットがひとつもないのだ。こんなダメ男であっても家長に頼らなくては生きていけない社会というのは間違っている。間違っているのだが、もちろんあの時代には社会福祉なんてものは存在しないし、存在しないものは想像することさえできない。「だれそれさんはうちに来て部屋が臭いから換気しなさいなんて言うの」(だって洗濯物を部屋に干してるんだもん)などと言って泣くことしかできない。自分たちがなぜ不幸なのか、わからないのだ。個々の問題は認識できても、そもそも自分が不幸であるということ自体が認識できない。
 だけどスネギリョフはせっかくアリョーシャから貰ったお金を投げ捨てる。いったんは狂喜して受け取りながらながら「ああ、これでミネラルウォーターが買える。食事療法ができる。娘と妻をを療養に行かせてやれる。長女の学費も払える。」と泣かんばかりに喜んでいたのに、急にはっと我に返ると、わが身のみじめさにかっとなるのだ。大バカ者だと私は思ったが、この時代には弱者の当然の権利として失業手当や生活保護を受け取ることができないのだ。お金持ちの人の善意に縋ってへこへこと卑屈に感謝しながら施しを受けることしかできないのだ。やっぱり間違っている。彼が自己嫌悪に陥り、自分と相手とお金とを憎悪するのもわかる。
 そして、帝政ロシア時代の貧困を解決するためには、やはり革命しかなかったのかなあと、ややこしくて悲惨な歴史を思い起こしながら考えた。だって、納税によって貴族や金持ちからお金を徴収し、それを福祉、教育、医療などの社会インフラ事業につぎ込むという今では当たり前のシステムを当時の支配層は到底理解してくれそうにはないから。血みどろの革命と追放、暗殺、粛清、大混乱を避けることはできなかったのか。社会が成熟して中間層が豊かになり、公平な分配を求める民衆の意向が政治に反映されるようにはならないのかと思ったが、そんな悠長なことを言っているうちにはこの一家はみんな餓死してしまっている。

 佐藤優 「外務省に告ぐ」

 で、カラマーゾフといえば「大審問官」。「大審問官」の神学的解釈を「PLAYBOY」誌で連載していた佐藤優氏の新連載が「新潮45」に載っていてこれがなかなかおもしろかった。町山智浩氏が対談で「童貞の人怖い」と言っていたが、「外務省に告ぐ  童貞外交官の罪と罰」は童貞の外交官がどう怖いかをすっぱ抜いている。おお、これぞ「新潮45」テイストだ。やっぱり外交官になるような人は「思い込んだら一直線」じゃなくて男女関係も外交も状況にあわせて柔軟に対応できるような人でなくちゃだめだよなあ。って、まあどうでもいいですけど。
 童貞が怖いかどうか、童貞の人と親しく付き合ったことがないんでわからないけど、佐藤優氏が怖いことは間違いない。この写真が怖い。どう見てもスパイかマフィアの掃除屋(もしくはヤクザの若頭)だ。抜群の記憶力と分析能力。それに独自の情報網を持っているらしいし、そういう人が外務省のスキャンダルをすっぱ抜いているのだから怖いはずだ。

 プーチンと大審問官

 亀山郁夫+佐藤 優「ロシア 闇と魂の国家」(文春新書)で佐藤氏がこう言っている。
エリツィン時代に国務長官をつとめたゲンナジー・ブルブリスという頭のいい男がいます。ブルブリスがこう言っていたんですね。
 「プーチンの大統領職に対する考え方は、三回変遷している。大統領になった瞬間、自分のような中堅官僚が突然、大統領になったのは、エリツィンのおかげだと思った。そこでエリツィンに足を向けて寝られないと思った。それから半年くらい経つと、ロシア国民に支持されるカリスマが自分にはあると感じるようになった。一年半くらい経つと私のような中堅官僚が大統領になったのは、神によって選ばれたからだと、神がかりになっていった。それからようやく大統領らしい顔になってきた」

2007年4月26日の大統領年次教書演説で、プーチンは大統領職を離れた後に「民族理念の探究」に従事すると述べました。(中略)ここで、民族理念を探求し、国家イデオロギーを構築し、プーチンは21世紀ロシア国家の司祭に就任することを意図しているように私には見えます。(中略)私には、プーチンの戦略がだいたい見えます。2020年までという、今後、12年間というい時限を設けて、その間にロシアを帝国主義大国に再編することが目標なのです。その前提として、帝国を支えるイデオロギーが必要になります。このイデオロギーは地政学に基づく、「ヨーロッパとアジアの双方に跨るロシアは独自の空間で、そこには独自の発展法則がある」という1920~30年代に亡命ロシア知識人の間で展開されたユーラシア主義に近いものになります。
 ロシアとかロシア人というのが自明の存在概念ではなく、これから「われわれ」、つまりロシアの指導部と一般国民が協同して作っていく生成概念であるという考え方です。
 実はこのような考え方は、1920年代のイタリアでベニト・ムッソリーニが展開した初期ファシズムにきわめて類似しているのです。プーチン=メドベージェフ二重王朝のロシアは、今回の大統領選挙の結果を受けて、ファッショ国家に変貌をとけようとしているのです。

 「神がかり」!「帝国主義」!「ファッショ」!19世紀に逆もどりかよ!
 それでやっとわかった。前NHKで放送した「ロシア “愛国者の村”」に出てきたファシズムっぽい宗教集団の意味が。どうも、ロシアは欧米諸国とは別の時間が流れているようだ。こんな国が原油や資源価格の高騰でお金持ちになったらしいのは怖いことだ。
 そして、次の章が「ロシアは大審問官を欲する」で、佐藤氏は、ロシアのような後発資本主義国において強権的な政治が行われるのは当然で、それは資本主義の過渡期的現象ではなく、このような後発資本主義国の政治の型なのだという。強権政治を行う「大審問官」、それはかつてはスターリンであったし、現在はプーチンであるが、ロシアの社会、そして人民が欲したために出現したのだというのだ。
 「カラマーゾフの兄弟」の大審問官は要約するとこのように言っている。
 「人間は生まれつき単純で恥知らずだ。人間にとって、人間社会にとって自由ほど耐えがたいものはない。どんなに時代が下って科学が進歩しようと人々が言うのは『パンをよこせ!』『食べさせろ』ということだ。人々は自由に耐えられないために自らそれをわれわれの足もとに差しだし、『わたしたちを食べさせてくれるのなら、いっそ奴隷にしてくれた方がいい』と言う。人間は自由を持て余すがゆえに、それを差し出し、ひざまずくべき相手を常に探している。普遍的にひざまずく相手を求めるためには殺し合いすら辞さない。だからわれわれは彼らを支配するのだ。もはやおまえ(キリスト)は必要ない。邪魔をするなら火炙りにしてやる。」
 彼は前日に100人もの異端者を火炙りにしたばかりだし、これからも火炙りを続けるだろう。愚かで臆病で奴隷のような者たちを幸福にし、パンを与えるために。

 プーチンは確信犯的にそのように考えているのか!
 
 で、亀山氏はドストエフスキーの「悪霊」の中に出てくる「シガリョフの理論」というものが非常に予言的であるとして文中から引用しているんだけど、こういうのだ。
 「彼(=シガリョフ)はですね、問題の最終的な解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九にたいする無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ。これはいわば原始の楽園ですな。もっとも、働くことは働かなくちゃならんが。人類の十分の九から意思を奪って、何代もの改造の果てにそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案しておられる方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです」

 「彼はスパイ制度を提唱しているんですよ。つまり、社会の全成員がたがいを監視し、密告の義務を負うというわけ。一人ひとりが全体に帰属し、全体が一人ひとりに帰属する。奴隷であるという点で全員が平等なんです。極端な場合には中傷や殺人もあるが、何よりも大事なのは、平等。まず、手はじめに、教育、学術、才能の水準が引き下げられる・・・・つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにし、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺する。いっさいを一つの分母で通分する―つまり、完全な平等でね」

 ドストエフスキー後の歴史を思い浮かべると、ただの空想と笑ってはいられないではないか。ソ連、東ドイツ、東欧諸国、その他の社会主義国の密告制度、そしてナチスドイツの「最終的解決」というやつ。

 この本を読んだ後でNHKスペシャル「言論を支配せよ~“プーチン帝国”とメディア~ 」を見て私はぞっとした。反プーチン的なメディアはでっち上げの罪で潰されてしまうし、政権批判をした記者は殺されてしまうのだ。私はぞくぞくしてきた。国民を食わせるためならば他国侵略も言論弾圧も辞さないプーチンが怖い。あのような独裁者に熱狂するロシアの民衆が怖い。ドストエフスキーが怖い。ついでにプーチンに対抗して日本の「国家イデオロギー」を再構築しようとしているように見える佐藤氏が怖い。「大衆家畜化計画」に密かに頷きかねない日本の右翼エリートが怖い。ナチスのガス室(最終的解決)をねつ造と言いながら心の中で「あれは正しかった」と思っていそうな歴史修正主義者が怖い。チベットを侵略した中国も怖い。

 ということを夏中考えていた。そして、日本の先行きにも非常に不安を感じて、あることを思ったのだけども何を思ったのかは秘密だ。

 「ロシア 闇と魂の国家」の中で大審問官に対するキリストのキス(=祝福)の意味がよくわからないと亀山氏が言うと佐藤氏が
 人間の力でこの世の悪を是正しようとしてもだめで、善への変容はこの世の外部、つまり神の側からしか来ない。すなわち、救いは悪の存在の否認からではなく、「祝福」という現実を現実として認める行為、現実の悪をも是認することからはじまるということです。

と言っている。これ、内田先生の「呪いの時代」とおんなじじゃないか?
と、今気がついたのだった。ドストエフスキーおそるべし。

雑誌「新潮45」 その2

2008-10-25 01:08:27 | 雑誌の感想
 「呪いの時代」内田樹つづき。
 ロストジェネレーション論によると、社会の最底辺に格付けされている人間に社会の諸矛盾は集約的に表現されており、その人たちはそれゆえにこの社会の矛盾の構造を熟知しており、この社会をどう改革すべきかの道筋も洞察しているということになります。「おまえたちに、私の苦しさがわかってたまるか」という言葉は、社会の成り立ちに対する知的優位性の請求をも意味しているのです。彼らが現に苦しんでいることは十分理解できます。けれど、それと「彼らはこの社会の成り立ちを熟知しており、それゆえ彼らの政策提言が優位的に聴かれるべきである」という命題は論理的には繋がらないと思っています。あるゲームでつねに勝つ人間とつねに負ける人間がいた場合に、そのゲームが「アンフェアなルール」で行われていると推論することは間違っていません。けれども、負け続けている人間は勝ち続けている人間よりもゲームのルールを熟知していると推論することは間違っています。通常、ゲームのルールを熟知している人間はそうでない人間よりもゲームに勝つ可能性が高いからです。

 このあたりがよくわからないんだけども、「社会の最底辺に格付けされている人間に社会の諸矛盾は集約的に表現されており、」ここはいい。「その人たちはそれゆえにこの社会の矛盾の構造を熟知しており、この社会をどう改革すべきかの道筋も洞察しているということになります。」ここのところ、そんなことを誰が言っているのか。社会の最底辺に格付けされている人たちがそんなことを言っているというのか?そうじゃない。私が読んだ新聞記事で雨宮処凜さんや他の人たちが書いていたのはまるで逆のことだ。1986年に労働者派遣法が施行され、さらに1990年、産業界の強い要請による改正で、製造業など派遣業種の拡大が起こり、正社員の採用人数が激減した。その結果、それまでならば正社員として採用されたはずの若者が就職活動で何十社も断られ、派遣で入った会社には簡単に首を切られ、職を転々とするうちに貧困状態に陥り、日々の食費にも事欠く中で不安と自己嫌悪に駆られてリストカットを繰り返したり自殺をしたりという悲惨な状況が多いのだという。彼らは「法律が悪い。政治が悪い」と声高に主張しているか。いや逆だ。「自分に能力がなかったからこうなってしまった」と思って自分を責めている。グローバル化の中で製品の値下げ競争に否応なしに巻き込まれてしまった企業が、コスト削減のために人件費に手をつけ、そのしわ寄せがみんな若年層に集中しているのだ。それを言っているのは「社会の最底辺」の人たちじゃなくって朝日新聞だろうが。

 6月に、男女共同参画センター主催の「ワーク・ライフ・バランス」についての講演会および若者の雇用に関するパネルディスカッションを聴きに行って来たのだが、討論者たちの話は「ワーク・ライフ・バランス」などという優雅なものではなく身も蓋もない切実なものだった。福祉関係の仕事をしていた男性は「この仕事は好きでやりがいもあったのだが、給料が低く、それも年々削られていく。子供が生まれて、このままでは生活ができないと悩んで最近転職をした」と言うし、高校の非常勤講師は、生活していけないから仕事の掛け持ちをしているという。学校現場では非常勤の割合が増え、生徒指導の仕事が一部の教師に集中して先生たちがとても疲れているとか、大学に求人にくる企業の中には、あきらかに自己啓発の手法を悪用しているように見えるところもあって、非常にきついノルマを課し、それが達成できなければボロクソに批判して夜中の2時、3時まで帰さないようなところもあるとか、「2年以内に9割の新入社員が辞めてゆき、残ったのは『鋼のような体と空っぽな脳みそ』を持つロボットのような社員」だとか、運悪くそういう会社に入ってしまって心がボロボロになって一時期引きこもりになった人だとか・・・、まあそんなような話がいろいろ出てきた。
で、つづき
  
 階層化にそのつどの景況が関与しているのはもちろん事実です。不況のときは好況のときより新卒者の雇用条件が悪いのは当たり前ですから。けれども、自分たちが社会の下層に釘付けにされているのはもっぱら卒業年次のせいであるという「洞察」を誇らしげに掲げ続けた場合、彼らが今後社会的上昇を遂げる可能性はほとんどゼロであるでしょう。卒業年次ゆえに下層に釘づけになっているのだと主張する限り、彼らが階層を上昇することは「原理的にありえない」ことになります。もし、彼らの中に階層を上昇するものがいたとしたら、それは「卒業年次が階層化の基本要因である」という説明に背馳するからです(個人的な才能や努力や偶然がプロモーションにつよく関与するというのは誰でも知っていることですが、ロストジェネレーション論はその「常識」を否定するところから出発しています)。だから、彼らが自分たちの明察をあくまで主張しようとする限り、彼らは絶対に階層を上昇してはならない。

 内田先生のこのような論法は「ためらいの倫理学」でもおなじみのものだ。マルクス主義とかフェミニズムとか反戦平和運動とか、何かを否定することが目的の運動は、その「何か」が存在することを前提としており、それゆえに永遠にその存在を許し続ける、(もしくは逆に希求している)みたいな論法だ。(違ってっかな?)まあ、「テロとの戦い」が逆にテロリストを無限に増殖させているような逆説的現状もあるし、一見単純でクリアに見える理論の前提を疑ってみるというのは大事なことだと思うのだけども、でも、私は「ロストジェネレーション」という言葉ができたのはそれなりに意義があったことだと思う。だって、それまでは「フリーター」=拘束を嫌って好きで非正規雇用についてる人という固定観念しかなかったし、「フリーターはけしからん」というような自己責任論ばかりだったし、「自己実現」とか「心のダイアモンド」とか言って若者を安い給料で1日12時間くらい働かせてるような会社の社長がメディアで持ち上げられたりしてたんだから。
だから、彼らが自分たちの明察をあくまで主張しようとする限り、彼らは絶対に階層を上昇してはならない。もちろん、彼らのような有能で力のある青年たちを卒業年次で差別するような社会システムはその不公正の「報い」を受けなければならない。それはあらゆるシステムが手がつけられないほど機能不全になり、人々が互いに憎みあい、嫉妬し合い。傷つけあうような社会が現出することで証明されます。ロストジェネレーション論者はその正しさをあくまで主張しようとする限り、彼ら自身を社会下層に進んで釘付けにし、彼ら以外のすべての人々もまた彼らと同じように(あるいは彼ら以上に)不幸になることを願うことを強要されます。個人の発意とはかかわりなく、論理の経済がそれを要求するのです。私はこれを「呪い」と言わずに何と呼ぶべきか他の言葉を知りません。

ああ、赤木くんね。「自分が不幸なのは社会のせいだ。おまえらみんな不幸のどん底に落ちてしまえ」というのね。あの言い方には猛烈に腹が立つけども、でも、実は私もときどき密かにそういう気持ちになることがあるから他人のことは責められないなあと最近思うようになった。そもそも、そういう非論理的、破壊的な情念は、「間違ってるよ」なんて諄々と諭したってダメなんじゃないかと思う。政治家や官僚は、精神論で説得したり「こころの教育」なんていうんじゃなくて、自殺やテロ的犯罪を防止するために必要な社会的救済の手だてを考えるべきだ。それから私も秋葉原の事件が起きたときに一番に思い出したのが「丸山真男を殴りたい」だったけども、だからって、最近の「ロスジェネ世代」がみんなあんな感じで、あんなふうに思ってるかっていうと全然違うと思うな。
 そんなこんな考えていたら、ちょうど一昨日(22日)、NHK「時事公論」派遣労働者の大量解雇のニュースを報じていた。
(「解説委員室」「時事公論 工場減産 しわ寄せは派遣社員に」(こんなブログができてたのか。便利だ)
実はこの10年、経済のグローバル化の中で正社員ではない働き方をする人たちが増えているのは、日本だけでなく、他の先進国にも共通する現象です。違うのは、そうした変化に対する対処の仕方です。ヨーロッパ諸国では非正社員を増やしつつ、一方で、そうした人たちの権利を守るための対策に力を入れてきました。ドイツやフランスでは派遣先で正社員と同じ仕事をする場合には、同じ賃金を払うよう義務付けるなど、より強く法規制を行うことで弊害をできるだけ小さく抑えてきました。一方、日本では、対策を十分に取らないまま、規制を緩和したため、非正社員は、働いているときも、そして仕事を失ったときにも、大きな格差を強いられることになったのです。

今、早急に整えなければならないのは、仕事を失った非正社員の人たちに対するセーフティネットです。雇用保険の適用を広げたり、住まいを失う事態にならないよう、生活保護制度で住宅に関する費用だけの支給を認めたりといった緊急の対策を急ぐべきです。その際、重要となるのが、雇用と福祉の政策の一体化です。たとえば、ドイツでは、福祉政策として生活費を支給しながら、同時に、仕事につけるよう支援する制度を作り、大きな成果をあげています。また、こうした取り組みと合わせて、環境や福祉、農業などの分野で新たな雇用を創り出していく努力も欠かせません。

やらなきゃいけないことはわかっているのだ。もう、10年も前から指摘されているのだ。雇用の分野で規制緩和をするときには、同時に社会保障の拡大とかセーフティーネットの強化とか、抱き合わせでしなきゃいけなかったはずなのにわかっていてやらなかったのだ。「格差は悪いことではない」とか言って。そのようないびつな改革がいったい誰の要請で行われたかってわかりきったことじゃないか。ゲームのルールを熟知しているのは決して社会の底辺の人たちではない。

工場で働く派遣の人たちに聞き取り調査をしたNPOの人がこんなことを言っていました。「“今、不安に思うことはどんなことですか?”と聞くと、次々に答が返ってくる。でも、“今、要望したいことは何ですか?”と尋ねると、“え?”と聞き直したり、“わかりません”と答えたりして、回答が出てこない人が多かった」というのです。大きな不安に包まれて、何かを求める気持ちすら持てない人たちが増えていく社会の未来に、明るさは見えるでしょうか?

当事者には「わからない」のだ。なぜ自分がこのような状況に陥っているか、何をどう変えればよいのかが。だって、私みたいに図書館で雇用問題に関する10年前の本を借りて読んだりするような暇がないんだから。

 内田先生の言いたいこともまあ、わかるのだ。破壊によっては何も生まれないし、不幸な人はもっと不幸になるはずだ。だけども、
 この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。・・・・それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、「このようなもの」にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。
 呪いを解除する方法は祝福しかありません。

なんてのは、いったい誰に向けて言っている言葉かさっぱりわからない。とりあえず、過酷なノルマがこなせずいびり出された新入社員とか、人員削減による過重労働で職場のストレスが溜まっていじめのターゲットにされた派遣社員とか、10年以上正社員と同じ仕事をしながら昇給も雇用保険もなくキチキチの生活をしている人にではないだろうな。第一、そういう人は「新潮45」も「下流志向」も読んだりはしないだろう。こんなもんを読むのは日経新聞必読と思ってるようなおっさんか私のような暇でノー天気な主婦くらいだ。だから一向にかまわないのだけども、やっぱり彼らには「あまりに実情を知らなさすぎる」と言われるだろうし、テロみたいな犯罪の抑止にもならないだろうな。

 もしかしたら、朝日新聞の人に向けて言っているのだろうか。それならわかるけど。

 あっ、2ちゃんねらーにか?・・・ホレ、怒れ!

参考メモ
「秋葉原事件と派遣労働 背後に人を使い捨てる非人間的搾取の構造」 小谷野 毅(ガテン系連帯事務局長)
【ハケンという蟻地獄】秋葉原通り魔事件:派遣労働者とメディアが懇談会
「EU労働法政策雑記帳」
「経団連中心政治からの転換」(広島瀬戸内新聞ニュース)

雑誌「新潮45」

2008-10-24 00:07:35 | 雑誌の感想
 書店をぶらついていたら、新入荷の札のついた「新潮45」があったのだが、ちょっと視覚と認識の齟齬が生じて思わず手に取ってしまった。それもそのはず、このような表紙だ。「新潮45」といえば「女の事件簿」みたいな三面記事的な内容ばかり載ってなかったか?それがこのちょっと宗教系雑誌の趣さえ感じる表紙だ。海がきらきら光っていてきれいだ。まるで溶けた金みたいで景気よさそう。で、トップのタイトルが「麻生太郎は暗殺されるのか」とある。これは買いだ。

 買って帰ってよく見ると「リニューアル記念号」とある。
 ほう、「論座」が休刊になったことだし、その読者層を取り込もうと狙っているのか?
「新潮45」宮本太一新編集長に聞く ジャーナリズムへ回帰 産経ニュース2008.10.2
「新潮45とは」新潮社サイト
2001年に就任した「オバはん編集長」こと中瀬ゆかりが、新たな読者層の開拓を企図。30代、40代の知的好奇心旺盛な女性をターゲットに定め、「事件・教養・セックス」の3本柱を打ち出したことで、雑誌は劇的に変貌します。「総合エンターテインメント・ジャーナリズム誌」と銘打たれました。しかし、その根底にあるのは、「人間が一番面白い」という“人間探究”の視点であり、創刊以来、変わることなく脈々と受け継がれてきた精神でした。

「30代、40代の知的好奇心旺盛な女性」がターゲットだったのかー!私は新聞広告を見ただけで辟易して一度も買ったことがなかった。知的好奇心鈍いからな。
そして2008年10月――。45は装いも新たにまたもや生まれ変わります。
 自らに課したテーマは、ネット全盛で、長く活字メディアが苦境に陥っている中、どうすれば、雑誌はこの時代と充分に闘え、生き残っていけるのか、ということでした。答は簡単には見出せませんが、その方策のひとつは、ジャーナリズムの原点への回帰でした。タブーをおそれず、常に事実といわれるものを疑い、己が真っ当と信ずるところを発言していく。重要な役割りの一つに“報道”があることを今一度肝に銘じ、周りや時流に迎合せず、自身の立ち位置を堅守して、生きた情報と論評を発信していく姿勢を第一にしたのです。

ほーほー、しかし「週刊新潮」臭さがそこはかとなく漂っている気がするのは思いすごしでしょうか。
「ハマコーが吠える!小沢『自民党出向社員』政権なら日本は滅びる」浜田幸一でちょっとげんなりする。ハマコーはいいよなあ「日教組が悪い。官僚が悪い。民主党が悪い。このままでは日本は滅びる」と吠えてればいいんだからなあ。

 麻生太郎は大した記事でもなかった。そして次が「呪いの時代」内田樹ですよ。「呪い」って流行ってる?
 「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」です。今、この「呪い」の言説が、それと気づかぬうちに、私たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあるように私には思えます。「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐いています。けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならずおのれ自身への呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。


 2ちゃんねるをはじめとする「ネット論壇」にはとりわけこの傾向が顕著にあらわれています。20年ほど前まで、まだ私が学会と言うところに顔を出していた頃、学会発表後の質疑応答で、「あなたは・・・・・・の論文を読んでいないのではないか」とか「周知の・・・・・・についての言及がないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者がいました。私はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、「自分の知らない情報」が無価値なものであるということをあれほど無邪気に信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。(中略)

 しかし、かつては学会だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネットで異常増力しているように私には見えます。(中略)

 ネット論壇で頻用される「こんなことも知らない人間には、この論件について語る資格はない」という切り捨て方はこの手の「学者の腐ったようなやつ」のやり方そのままです。そのタイプの書き手が今ネット上に数十万単位で出現してきている。私はこれをいささか気鬱な気分で見つめています。

 2ちゃんねるがネット論壇の中に入っているとは知らなかったが、とにかくホレ、怒れ。
 
 人が市民として他者と共生するためになによりも必要なのはこの「情理を尽くして語る」という力だと思うのですが、ネット論壇では、自説の論拠と推論の適切性を「情理を尽くして説得する」というワーディングにはまず出会うことがありません。もしかすると「合意形成」を「屈伏」や「妥協」と同義だと思っているのかもしれません。けれども、「私は正しい、おまえたちは間違っている」とただ棒読みのように繰り返すだけの言葉づかいは市民的成熟とはついに無縁のものです。(中略)

 政治を語る語法もかつての、唐島基智三が司会する、NHKの党首討論にみられたような、ゆったりとした討論は姿を消しました。人の話の腰を折り、割り込み、切り捨てるという「朝まで生テレビ!」や「TVタックル」のスタイルに変わりました。番組自体はもちろん有意義な情報を(政治家というのはこれほどマナーと頭の悪い人々なのだという事実の開示など)提供しているわけですから、それはそれでよいのですが、これらの番組が、政治を語るときの語法のスタンダードを提供したことの罪は重いと思います。

 ハマコーとか好きな人はホレ怒れ。
 「呪い」とは破壊であって、何かを創り出すよりも破壊することの方がはるかに簡単であるから、「身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は」創造的な仕事ではなく、「破壊すること」に惹きつけられる。かつての学校教育は「無根拠に高い自己評価」を適切に下方修正させ、「身の程を知る」ということを叩き込む機能があったのだが、現在の教育現場では「無限の可能性」などという無責任なアオリをしているため、自己評価と現実とのギャップに苦しむ子供たちが量産されている・・・と、まあ内田せんせいの本に繰り返し出てくる理論ですね。その「呪い」にとらわれたのが安倍晋三元首相であり、今年6月の秋葉原無差別殺傷事件の犯人であると。
 加藤はある日何かを「呪った」のだと私は思います。呪いの標的となったものは具体的な誰かや何かではなく、加藤が妄想し「『ほんとうの加藤智大』が所有しているべきもの、占めているべき地位」を不当に簒奪している「誰か」でした。そして、その「呪い」は現実の力を持ってしまい、実際に何人もの人を殺しました。(中略)攻撃性が破壊的な暴力にまで亢進するのは、それが現実の身体を遊離して「幻想」のレベルに達したときなのです。だから、私たちにとって喫緊の課題は、妄想的に構築された「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活のうちに深く捉えられた、あまりぱっとしない「正味の自分」をこそ主体性としてあくまで維持し続けることなのです。しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」と置き換えよと私たちに促し続けているのです。


 とここまではまあ、いいでしょう。(異論もあるけど、まあ脱線するのでやめておきます)問題はここからです。
 2007年はじめから朝日新聞が展開した「ロストジェネレーション」が単行本になったとき、私は帯文を頼まれてゲラを読みました。一読して、私は社会理論としてここまで貧しいものが登場してきたことに驚愕しました(帯文の寄稿は断りました)世の中にさまざまなかたちの制度上の不正や分配上のアンフェアがあるのは事実です。その原因についても、さまざまな説明がありうると思います。でも、大学卒業年次に景気が良かったものと悪かったものとの間に社会矛盾が集約的に表現されているというソリューションには驚嘆する他ありません。お粗末な理論はいくらもありますが、朝日新聞がこれほど無内容な理論を全社的なキャンペーンとして展開しようとしたという事実に日本のメディアの底なしの劣化を私は感じました。

これについて、20代後半から30代前半の右翼的傾向の強い2ちゃんねらーの派遣社員は同意するのか、怒るのか・・・・。

つづく。


「論座」10月号から

2008-09-20 12:14:38 | 雑誌の感想
昨日のつづき

 このブログサービスはカテゴリー毎の表示が可能なので、昨夜「本の感想」の過去記事をさらっと読み返してたら、どうも昨日の「論壇誌や文芸誌で吹き上がっている、時代に取り残された中間管理職知識人」ってのがどういう方面の人を指すのかわかった気がしてきた。やっぱり読んだものをメモっておくって役に立つなあ。この記事(田口ランディ「生きる意味を教えてください」)と、次のページ。あと(太田光・中沢新一「憲法九条を世界遺産に」)の憲法談義関係だ。右は「新しい教科書をつくる会」とかその周辺で、左は憲法9条死守の昔風知識人ってことか。私は
憲法改正を実現するには左翼平和運動家の前にまず「日米同盟堅持」の保守と対決して倒さないといけない。そのための政権交代。
と書いたが、宮台はブログで、まず9条死守の左翼の方を倒さないといけないと書いていた。
 そーかー、私はまっ先に倒されてしまう側かー、と思った。そーだろーなー、私なんか、朝日が当たって体温が上昇してくるまでぼーっと岩場に座ってるガラパゴスのイグアナなんか見ると非常に親近感をおぼえるもんな。しょーがないな。朝日新聞にさえバカにされてるし。

 で、この方面のことだとすると、「決断主義」っていうのはつまり、「憲法問題を曖昧なままにしておくことはもはや許されないので、改正という方向でいろんな状況をシミュレーションして議論する」ってことか?

「論座」

 「論座10月号」に柄谷行人×山口二郎×中島岳志の座談会
理念、社会、共同体 現状に切り込むための「足場」を再構築せよ
が載っていた。
 
 ここで柄谷氏は「憲法9条にはカントの思想が生きている」と言っている。
柄谷 カントは1795年に国際連邦を構想しました。よく世界連邦は設計主義だと言われますが、カントの考えでは、世界連邦は、統整的理念としての「世界共和国」に近づくための第一歩にすぎないのです。彼の考えは、まずヘーゲルによって嘲笑されました。実際に強国が存在しないと、国際連邦など機能しない、と。イラク戦争の際、アメリカのイデオローグは、カント的理想主義を古いと嘲笑しましたけど、彼らは古いヘーゲルのまねをしていることに気づかなかったのです。しかし、カントの理念は滅びなかった。強国がヘゲモニーを争った第一次大戦の廃墟の上に、国際連盟ができたのです。さらに、第二次大戦後に国連ができた。日本の憲法9条もその一環です。これを否定しても、結局はカントの理念が徐々に実現されるだろうと、僕は思いますね。

柄谷 僕は別に国益ということから発想しているわけじゃありませんが、憲法9条を掲げていくのは、国益にかなうと思います。憲法9条でやっている限り、将来的にまちがいはない。たとえば、日本は国連の常任理事国に、憲法9条を掲げて立候補すればいいんですよ。それなら、圧倒的に支持が集まると思います。
中島 僕は保守に向かって「今は間違いなく、9条を保守すべきだ」と言っています。なぜならいま9条を変えると、日本の主権を失うことに近づくからです。これだけ強力な日米安保体制の下でアメリカの要求を拒否できるような主権の論理は、今や9条しかないと言ってもいい。アメリカへの全面的な追従を余儀なくされる9条改正は、保守本来の道から最も逸れると思います。
山口 9条を巡る議論は、先ほど話が出た政治の官僚化の、いちばん極端な現象なんでしょうね。100年、200年というスパンで見れば、軍事力が有効性を失っていることは明らかですから、思想的な文書としては9条は絶対に正しいし、歴史の方向はこちらに向かっているんだという自信を持てばいい。ただ、日本の政治の議論としては、現実的な安全保障の政策を言わないと信用されないという変な磁場というか、呪縛みたいなものがあるわけです。しかし、9条を守れと言っている政党が政権を取ったからといって、即自衛隊解体、即安保解消なんてできないことはわかっているい。内田樹さんじゃありませんが、そこは矛盾があってもいいんです。進むべき趨勢として9条を認識するかどうかだと思います。

 「憲法9条を世界遺産に」みたいじゃないか。

例の赤木さんの件
山口 「論座」に掲載された上の世代からの応答なんて全く読むに値しない、ピント外れな反応ばかりです。このような寄る辺ない、希望のない若者をつくりだしたことに対する自分たちの責任という意識が皆無だったのが驚きでした。
 「闘えばいい」なんて全くナンセンスな反応もありましたが、アトム化された個人ではどうしようもないんですよ。それに手を差し伸べて、ある種取り込むというか、あるいは居場所なり拠点なりを与えるのが、先ほど言っているような中間団体です。高度成長期の頃までは、たとえば創価学会のようなところがアイデンティティーの役割を果たしてきた。しかし80年代後半から90年代以降は、セーフティーネットとしての中間団体がなくなってしまった。そのことに対してすごく無防備でしたよね。それは政治学の怠慢だと思います。
 だから、現代の日本でここまで貧困問題が起こっている、あるいは実存的な危機状況にさらされているという問題提起を若い世代がしてくれたんだったら、それをきちっと受け止めなきゃいけない。落ちぶれたりといえどもある程度力を持っている中間団体が、少し外縁を広げるというか、メンバーシップの壁を崩していけばいいんです。たとえば解放同盟が人権擁護全般に関する「よろずカウンセリング」を引き受けるとか、労働組合が不利な状況で働いている人間を支えるとか。少し枠を広げるだけである種のセーフティーネットにはなれるでしょう。

 「アトム化」とか共同体の崩壊とか、みんなおんなじことを言う。私も2、3年前までは地域や田舎の親戚との人間関係がとても煩わしくて、なくなってしまえばいいと思っていたけども、内田樹氏がよく書いているように、実はそういう繋がりは「セーフティーネット」の一種で、今後は、そういったものをいかにたくさん持っているかということが個人の含み資産になってくるのかもしれないと思った。。そう考えたら、最近は親戚の葬式や法事や結婚式や開店祝いや盆や正月や出産や入院や老母の迷子や何かでいちいち右往左往するのもあまり苦にならなくなってきた。(いやまあ、親戚多すぎるんじゃないかと思うこともあるけど)

「アトム化」
山口 近代主義というのは、所与なり自然を拒絶して、作為で社会関係を構築していくという、丸山眞男以来のモデルがあります。土着的なものや共同体は息苦しい。そこから解放されて自由になるんだという発想で政治的にも近代化を求めていた。人間が個人として自立して権利の主体になって・・・・・ということをずっと追いかけてきたわけですが、どこかで足元を掬われてしまいました。
 作為によっていろんな関係を構築し直せばいいんだと、高度成長期以降は地方交付税と公共事業で人為的に共同体を支えてきたという側面があるわけですが、それをどんどん減らしていく。それを改革だとみんな勘違いしていたわけです。
 その結果出てきたのは、本当にアトム化された個人であって、政治学における近代主義者が考えたような、自立した権利の主体でも何でもない。本当に不安定で方向性のないアトムで、カリスマ的なリーダーが出てきてテレビで煽ると、砂鉄が磁石にくっつくようにワッーと動いていく。そういう政治の動きが90年代以降始まりました。私自身も、個人主義というか、個人を基盤とした民主政治というモデルをずっと追いかけてきましたから、この数年間、自分がやってきたことはいったい何だったのかという壁にぶつかった感じがありましたね。
 逆にいうと私も、中島さんの影響なのか、保守化した部分がかなりあるんです。(笑い)。政治参加の単位としてコミュニティーや社会がないと、これは危なっかしいなということはすごく感じています。

 じゃあ、個人がどういう形で政治参加していく社会を目指すべきか。冒頭の論文
「砂のように孤立化していく個人をどう救うか デモクラシーと集団を考える」川出良枝 東京大学教授(政治思想史)
ではデモクラシーを「多元主義」と「共和主義」という二つのタイプで説明している。

 「多元主義」モデル ― 地域のコミュニティーや各種の集団(利益集団、宗教団体、エスニック・グループから趣味のクラブまで)の活動が活発で、そのような社会的ネットワークに参加することで公民権運動のような市民からの政治的な働きかけをしていくタイプのアメリカ型デモクラシーと「共和主義」モデル ― 個人が民族・宗教を超えて、中間集団を介することなく直接国家と結びつき、公共利益を追及していくというタイプのフランス型デモクラシーがあるのだが、「スカーフ事件」の大論争によってその難しさがあらわになったように、グローバル化の進む今日ではもはや、自由で平等な個人が出自にとらわれず、理性的にデモクラシーに参加するという前提の共和主義は困難であるとして、
多元主義モデルを基礎とし、市民社会のさらなる活性化をめざしつつも、諸集団をゆるやかに統合する外枠として共和国が遠景のように控えている、そのようなあり方が、これからのデモクラシーのモデルとなっていくのではないか。

という。また日本については
 日本においては、長い間、個人が集団に埋没するような形での集団主義が横行したことは事実である。そのため、集団のしがらみからの解放は、しばしば、無前提に歓迎される傾向がある。しかし、個人と集団は、必ずしも常に「あれか、これか」の関係に立つわけではない。アメリカの例が示すように、個人がその利益と権利を追及するために積極的に社会的ネットワークを形成し、それを武器として活用するという方向性も十分あり得る。もともと十分に恵まれた強い個人がさらに数の力を頼んでますます強い自己主張を展開するというのは、なるほど、いささかげんなりさせられる光景ではなり。しかし、既存の社会的紐帯がただほどけていくだけで、その後には、かつて集団に守られて自ら判断することを停止していた弱い個人が、仲間づくり、ネットワーク作りのスキルをもつこともなく、ただ砂のように孤立していくという状況が今の日本にみられるとしたら、それは、デモクラシーにとって著しく危険な状況である。デモクラシーにとって集団は敵ではないという命題を正確に、また、真剣に考えるべきなのは、まさに現代の日本においてであると言えよう。
「アメリカの例」ってのはボストン、ダドリー地区のコミュニティー再生運動「私たちの街にゴミを捨てるな」運動みたいなの。

あー、疲れた。たった4,50ページ読んだだけなのに疲れた。しかも、目新しいことじゃない気がする。

 「中吊り倶楽部」宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評は「週刊朝日」に移るかもしれないそうなのでとりあえずよかった。年内に連載をまとめた本が洋泉社から出るそうなのでぜひ買おう。

「決断主義」

2008-09-09 23:52:49 | 雑誌の感想
 ほぼ4カ月ほど前、この日記を中断する直前、映画「ノーカントリー」のコイン投げのシーンが気になってずっと考えていた。そして思い出したのはウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」だった。
 ナチの軍医はソフィーに2人の子供のうち、どちらかを助けてやるから、どちらにするか選べという「選択」をさせる。「選択」をしないならばどちらもガス室送りだというのだ。そしてソフィーは選択し、一生その罪を背負って苦しむ。

 また、その頃テレビでたまたま見た「デイ・アフター・トゥモロー」という映画の1シーンが頭にこびりついて離れなくなった。前代未聞の大寒波で閉じ込められた息子たちを救出に行く途中、主人公の友人がガラスドームを踏み抜いて宙吊りになる。ガラスはミシミシと音をたて、今にも割れそうだ。主人公は必死に助けようとするがこのままでは3人とも落下して死んでしまう。なのに決してあきらめようとしないので、宙吊りになった友人が自らロープを切って落ちるのだ。アメリカ映画はずるいと思った。こんなとき主人公は決して自分から友達を見捨てたりはしないのだ。

 コインを投げて自分で自分の運命を選択させるという「ノーカントリー」の殺し屋は、否応なしの選択を強いる存在だ。説得も懇願も通じない。モスの妻が言ったように、その選択に意味もない。だけども生き延びるためには否応なしに選択することを強いる状況というものが存在するということをこの映画は言っているのだろう。たぶん・・・。私にはできないけど。

 私にはできないけど、できる、できないの問題ではなく、選択したものにだけ生き延びる可能性が残されているということを言っているのだ。

 そうして、なんだかすごく暗い気分になっていたら、朝日新聞社「一冊の本」6月号に、宇野常寛×宮台真司「怠惰な〈批評〉を乗り超える」という対談が載っていた。批評紙「PLANETS」編集長、宇野常寛が「SFマガジン」に連載している「ゼロ年代の想像力」について宮台が解説してる。宇野さんはこの連載の中で「決断主義」ということを言っているのだ。
宮台 宇野さんの主張は大きく三点にまとめられます。第一は、2001年以降、とりわけ9・11以降、小説、映画、マンガなどを中心に、文化を支える想像力のあり方が変わった、というもの。それを「〈セカイ系〉から〈決断主義〉へ」という言葉で表現されています。(中略)
 第三は、第一点と関連しますが、決断主義という思潮の中身に関わります。多数の価値観が並存し、どの価値観も優越性や普遍性を主張できない状況にあって、「僕は●●をしない」という選択の拒否、例えば「ひきこもり」という選択をすることが、望ましい生き方だ、あるいは少なくとも擁護できるというのが「セカイ系」の発想でした。ところが、それでは生き残れない、だからどの価値観を選ぶかについて、究極的には根拠がないと知りつつ〈あえて〉選び取れ。それが宇野さんのいう「決断主義」です。99年の「バトル・ロワイアル」や03年から連載が始まった「DEATH NOTE」に代表される「サバイブ感」、決断を保留したり拒否したりすれば現実に生存が危うくなるという感覚が前面に出てきているのだとします。(中略)
 宇野さんはこうした現実認識以外に表現の選択肢がありえないのだと主張されます。そこで必要なのは「よい決断主義」と「悪い決断主義」の区別で、前者をどうサポートしていくかだけが問題なのだ、とおっしゃる。
 宇野 (前略)現実は生きること自体が、究極的には無根拠であるにも関わらず特定の価値にコミットすることを意味する。つまり、誰もが決断主義者という振る舞わざるを得ないわけです。そして誰もが価値観同士が争うバトル・ロワイヤルのようなゲームから逃れられない。セカイ系にしたって「何も選択しないで引きこもる」という選択をしているにすぎないし、ニート論壇はゲームのルールに無関心なまま、自分たちにとって気持のいい不平不満を延々とたれ流しているだけ。どっちも無自覚に決断主義者になってゲームにコミットしているだけの話です。(中略)
 これに対して、僕は連中の無自覚なやり方では小泉を止められない、と主張しているわけです。小泉的動員ゲームの弊害、暴力性を取り除きたいなら、まず誰も決断主義的な動員ゲームから逃れられない現実を受け入れた上で、その運用方法を検討するしかない。それにこういう無自覚なプレーヤーは、ゲームの元締めにとってはとても都合がいい存在で、非常に御しやすい。彼ら「無自覚で愚鈍な決断主義者」たちの「安全な噴き上がり」が(彼らとしては批判しているつもりの)小泉現象を延命させたわけです。小泉にしてみればこんなに御しやすい安全な敵対勢力はないですからね。

 「ノーカントリー」を観た後だったから非常によくわかった。
宮台 ネオコンの源流の一人、ダニエル・ベルも言っていたように、抗うにせよ掉さすにせよ社会政策に関わる以上、恣意性の操縦やカウンター的操縦にコミットせざるを得ません。どのみちネオコン的であらざるを得ないんです。そこにあるのは、頭のいいネオコンと悪いネオコンの区別だけです。
 それを前提に「どうすれば私たちが殺されずにすむか」を考える。そういう意味のプラグマティズムが広がりつつあります。こうした認識は、グローバルには先端的な政治哲学者の間で常識になりつつあります。でも日本では稀。ところがそうした思想が、政治論議とは畑違いの宇野さんの文化評論において現れたことに、驚いています。

 ところで、最近移民問題に関して思うのだが、私たちには「移民を入れる、入れない」という選択肢があると思っているのは間違いだ。かなり前から、たぶん10年以上前から官僚の中に「移民の受け入れを推進しよう。ただしおおっぴらにやると世論がうるさいから移民という言葉を使わないでじわじわと入れていこう」と考えていた人たちがいるはずだ。だってさ、10年前に小学校PTAの人権学習会(半強制)で、文部省かどこかの作った「日本も国際社会に対応するために外国人労働者を受け入れましょう」という教育ビデオを見せられたおぼえがあるもの。日本では「男女共同参画」だの、「ワークライフバランス」だの、そういうのは市民の要求によって取り入れられるのではなくて、お上の方から啓蒙的な通達が降りてくるのだ。いつだって。だとしたら、「移民の受け入れ?絶対いや!」なんて言ってたってしょうがないんで、できるだけそれに適応し、またトラブルが起きないよう事前に予防するというのが賢い市民だと思うな。なんせ、私らよりはるかに賢い官僚がすでに国の方針としてひそかに定めているらしいのだから。
宇野 宮台さんは、ニート論壇がどうなれば有効に機能すると思いますか?
宮台 いくつか方向性が考えられます。一つはかつての人民戦線などにおける「連帯」概念が参考になります。「連帯」ほど日本で誤解されている概念はありません。日本では企業別組合が組合内あるいは組合間でまとまる意味にしか使われません。サンジカリズムの伝統における「連帯」とは、労働者が学生と連帯したり高齢者と連帯したりすること。すなわち立場の異なる者どうしが、目的のために共同行動することです。
 なのに日本の連合は、1999年の派遣法改悪に際して正規雇用労働者を守るとの理由で賛成し、非正規労働者を切り捨てました。疑問に思った私は、前会長の笹森清氏に質しました。「ヨーロッパでは組合員が組合員以外とつながるのが「連帯」です。連合にとって「連帯」とは何かを意味しているのですか?」と。笹森氏は「派遣法改悪は、私の在任期間中最悪の失敗でした。連帯がそういう意味だったことを最近知りました」と答えました。これが日本の労働運動なんですから、やはり公共性を欠いたものだと言わざるを得ないでしょう。
 ニート論壇も、ニートの連帯を呼びかけているプレカリアート論の段階ではどうにもなりません。自分たちと相いれない立場の人間と交通の回路を開く方向性が必要です。
 カール・シュミットの友敵理論を持ち出せば、政治動員には、共同体の外に敵を設定する―敵を設定することで友を構成する―必要があります。敵はいつも必要です。でも敵を排除してはいけない。敵と交流することで、前提としていた事実性が変わるからです。
 その意味で、一水会の元代表・鈴木邦男さんの振る舞いが参考になります。彼によれば、排除すればするほど右翼は先鋭化します。だったら、その場で暴力を振るわないと約束する限りで、どんどん話し合いの場に呼んで発言させればいい。ガス抜きにもなるし、互いのステレオタイプや思い込みも修正されやすい。そうした動態が大切だと言うんですね。
 システム理論的には、境界線が存在すること―境界設定―はいつも「仕方ない」が、境界線をたえず揺るがせることが公正や正義という観点からは「望ましい」、となります。

 ふーん、ガス抜きといえば、例の赤木智弘氏だ。最近「ロスジェネ」創刊号を読んだのだが、浅尾大輔氏が赤木氏との対談の中で「敵は正社員じゃないでしょ」と一生懸命説得していた。赤木さんはいろいろ言った後で「まあ、どっちでもいいですよ」なんて言う。要するに誰でもいいけど殴りたいほど追いつめられてるんだぞということを言いたかっただけなんだなあ。テポドン飛ばす北朝鮮と一緒じゃん。
 浅尾氏は「たかじん」のゲストに呼ばれたときも「フリーターはなまけもんだ!努力が足りん」みたいなことを平気で言う自民党の鴻池祥肇議員(「打ち首」発言の人)などに対して、淡々と実例をあげて説明し、非正規雇用の悲惨な実態を訴えて大いに評価されていた。「たかじん」では、とかくバカバカと言い合って個人攻撃になりがちで、三宅さんなんかその癖がついたのか他の番組でもときどき人の意見を遮って無作法に自己主張したりするけども、そういう人に声を張り上げて対抗してもだめなんだな。あんなふうに冷静に相手の意見を聴き、淡々と具体的に自分の意見を述べることが有効なのだとよくわかった。

雑誌二冊 その2

2008-02-28 22:59:21 | 雑誌の感想
 「PLAYBOY」4月号
 
 つい新聞広告につられてPLAYBOYを買ってしまったのだけど、帰って開いてみてやっと思い出した。この雑誌ってヌード写真いっぱいの男性雑誌だったっけ。見た次の瞬間思わず閉じてしまったよ。おへそにピアスしたぷりぷりの金髪美人のナイスバディーなグラビアがてんこ盛り。はあー、容姿に恵まれなかったわが身を省みてつくづく人生が儚くなりますな。
 それはまあどうでもいいのだ。買ったのは「この人の書斎が見たい!」という特集に惹かれたからだ。だって吉本隆明、ガルシア=マルケスですよ。内田樹、鹿島茂ですよ。私は人の本棚を見るのが好きだ。どんな本を読んでいるのか見たい。

 だけどこれって、「どんな本」じゃなくって「どんな書斎」ってところに焦点が合っていて、背表紙が読めないのでちょっとがっかり。

 吉本隆明の書斎は予想通り本に埋もれている。入りきらなかった本が書棚の前にうず高く積まれていてまるで穴倉のような暗い部屋だ。棚の空いたスペースに変な置物のようなものがいろいろあって、三度傘みたいなのも掛っていて、わー、昔っぽい書斎だと思う。いるよね、本棚にこけしとか火山岩とかおみやげの趣味の悪い状差しとかいっぱい置いてる人。うちの夫ですが。いやいやそういうのとは格が違う。

 かっこよかったのは石田衣良。「書斎は地下にあり、ホワイトを基調にした52畳のワンルーム。・・・美しく整然と保たれた書斎の壁に、高さ3.5メートル、幅約7メートルの巨大な書棚が配置されている。」わーお、高級美容院みたいだ。白い棚、白い床、白いソファ。ボックスシェルフの一部にはアナログ盤のジャケットが飾られているが、それは中の文庫本を隠すためらしい。「文庫の背表紙ってかっこよくないでしょ?」だって。さすが「おばさんの心をわしづかみ」にする超売れっ子作家。(私は2冊しか読んでないけど。)こんな広くて清潔で大容量の書斎が欲しいものだ。

 フランス文学者の鹿島茂氏は「論座」2007年6月号「私流 本の整理術」に蔵書整理の苦労話を縷々綴っておられた。本の収蔵のために転居を繰り返し、現在 一階から3階まですべて本に埋もれた70坪の自宅、 壁面すべてを天井突っ張り本棚で覆い尽くした20坪の仕事場・兼書庫、 壁面のほとんどを突っ張り本棚にしている25坪のマンション、がある。住宅ローン・プラスマンション賃貸料を稼ぐために大車輪で執筆するのだが、その執筆素材としてさらに蔵書が増え、それを収蔵するためのスペースがまた不足し・・・という悪循環に陥っているとか。もはや、本をすべて売り払って執筆をやめるか、地価と税金の安い海外に逃亡するかという夢想をしていらっしゃる鹿島氏のこれは神保町の仕事場だな。
 写真を見て、こんなに壁面一杯じゃ地震がきたとき生き埋めになるに違いないと思ったが、この本棚は天井で突っ張るタイプだから大丈夫らしい。実はこの本棚、販売会社が「鹿島氏の要望を加えてさらに進化させた」カシマカスタムという特別のものですごく便利な棚(奥行き17センチ)なんだそうだ。壮絶な眺めです。怖いです。

 すっきりしてたのは、時々サンデープロジェクトでお見かけする高野孟さん宅。去年5月に完成したばかりの千葉県鴨川市の新居。窓の外は見渡す限り山並みという風通しのよさそうな書斎だ。「それまで人が住んでいなかった丘陵地なので、地均しが大変でした。広さは、1000坪といわれて買った土地ですが、あとで測ってみたら1800坪(笑)。」近くに「鴨川自然王国」があって、田んぼや畑をみんなで作ったり、味噌を手作りしたりするそうだ。「家を作るための開墾中に出土した仏像」や「薪木切りや草刈りなど家の周囲で日常的に使う」ナイフの写真が載っていてかっこいい。

 オランウータンとミッフィーちゃんの巨大なぬいぐるみがあるリビング兼書斎は内田樹氏。一方の壁全部が本棚で埋め尽くされているが蔵書は2000冊ほどらしい。目を凝らしたのだが「エースをねらえ!」は見当たらないので、すでにブックオフに売っぱらわれているのかもしれない。部屋の真ん中にこたつがあっていかにも居心地がよさそうだけど、ちょっと先生のイメージがこ・・・。ここで読書したら絶対寝てしまう。

 さすがこだわりの書斎は林望氏。地階には22畳の書庫があるって。いーなー。

 みなさんそれぞれに個性があってうらやましい。床の耐荷重を気にせず本棚を増やせてうらやましい。お金のかけ方が違っててうらやましい。だけど考えてみると、第一私には書斎なんて必要ないのであった。図書館があるし、いらないや。

 おっと、忘れていた。「アメリカンドリームが醒めるとき プータローライターが見たニューヨークの現実」【第10回】オバマという名の白人の免罪符がおもしろかった。アメリカ社会の人種問題は相当に複雑で黒人社会のアイデンティティーの葛藤もねじれていて私たちにはちょっと理解しがたいもんがあるとか。
 アメリカのテレビメディアで、最も尊敬されているジャーナリストのひとり、PBS(米公共放送)のビル・モイヤーの番組に、人種関係に関する著書で有名な、シェルビー・スティールがゲストとして出演。彼の新刊『アバウンド・マン』は、オバマについての本で、彼によれば、黒人の指導者や成功者には、チャレンジャーとバーゲナーがいて、オバマは後者なんだそう。
 チャレンジャーとは、「おまえたちがそうでないと証明してみせるまで、おまえたちのことを、人種差別主義者とみなす」という態度で白人に対しプレッシャーをかけ続ける黒人。バーゲナーとは、白人の主流派の中に入り、「あなたたちに、アメリカ史の恥ずべき事実を突きつけたりはいたしません、白人の全てが人種差別主義者だなんて言いません、あなたたちが私の人種を理由に私を否定することがなければ」という態度で取引し、白人に絶大な人気を得る黒人。前者は、60年代からの黒人指導者で、80年代に大統領選に立候補して話題になったジェシー・ジャクソン、ニューヨークの黒人指導者アル・シャープトンなど。後者は、60年代の人気俳優、シドニー・ポワティエ、80年代に裕福な黒人家庭のコメディドラマを超大ヒットさせたビル・コスビー、現代のアメリカメディアの女帝、オプラ・ウィンフリーなど。


 「バーゲナーは、決して自分の本心(特に人種差別に対して)を言ってはいけない。それをしたとたんに、白人たちは懐疑的になる。だからバーゲナーは透明でなくてはいけない。オバマは、チェンジだの、ホープだのと言うけれど、その内容は曖昧で、空虚ですらある。バーゲナーとは、あくまでも(白人の贖罪や希望を映しだすための)白いスクリーンでなくてはいけないから。具体性はバーゲナーにとって危険なのだ」

はあ、複雑だ。オバマ氏の発言が曖昧なのはそういう戦略か。もし大統領になったとしても相当苦労するだろうな。大丈夫か?
 でも、少なくとも日本より数段は上だ。マイノリティーが大統領にだってなれるのだから。

 あと、「役に立つ神学」佐藤優という連載があったので目を疑った。「進学」じゃないのか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」の解釈がされている。本格的な神学研究に基づいた説明だ。そーいえば、佐藤優氏は神学部の出身であった。これもシンクロニシティーか?いやいや、ドストエフスキーがあっちでもこっちでも流行っているってことだろうな。
 わあ、これはなんだー?

雑誌二冊

2008-02-28 16:54:20 | 雑誌の感想
 「本の旅人」3月号

 「本の旅人」という角川書店の小さな雑誌(100円)を定期購読している。これに大島弓子の漫画が連載されているからだ。
 「グーグーだって猫である」を愛読していたのだが、昨年春、たまたま書店で3巻が出ているのを見つけ、続きがあったことを初めて知って買った。どうも大島さんはますます寡作になってきたようで、「グーグー1」から7年もたっている。3巻を読んでびっくりしたのは2匹だったはずの猫がさらに増えて4匹になっていることだ。この間に何があったのか。その上子猫を5匹も拾って、貰い手探しに四苦八苦(楽しそうに)しているという話だ。猫まみれ!ぜひその間の話も読みたいと、2をあちこちの書店で探したのが去年の夏だったが、版元切れになっていてもうどこにもなかった。Amazonマーケットプレイスでは高値がついていて買う気になれない。せめてこの続きでもと、この漫画が連載されていた「本の旅人」を購読し始めたのだが、猫まみれ状態はさらにパワーアップしている。近所のノラ猫が家に入り浸っている話、不治の病のノラ猫を看取る話、「犬のしつけ」の話(犬もいたのか!)、猫は多すぎてもはやどれがどれだかわからない状態であった。そして、この3月号でまたノラが産んだ子ども4匹を引き取ったということになっている。大島さん・・・・
 笙野頼子の「愛別外猫雑記」(河出文庫)を思い起こさせる孤軍奮闘ぶりだと最初は同情していたが、最近「グーグー」の2巻をやっと入手したところ、これがまた猫のためにマンションを売って一戸建ての家を買う話(!)であった。笙野さんとまるでおんなじじゃないか。あの「綿の国星」のなんとなく浮世離れしていた人が立派な「猫おばさんに」なっちゃってるじゃありませんか!いや、たぶん今も浮世離れしていらっしゃるんでしょうし、私も人のことは言えません。言えませんが、あんな風にはなりたくない。いや、もうなっちゃってるかも。ああこわい・・・・。と、なかなか複雑な心情を喚起する漫画なのだ。

 「本の旅人」は「グーグー」しか本気で読んでいなかったのだけど昨日ふとめくってみると、あの「警官の血」の佐々木譲の連載小説が載ってるではないか。気がつかなかった。ちゃんと読み返さなきゃ。こんなに薄いのにクオリティーは高いようだと本気で読みはじめたところ、中島義道の今月の新刊「孤独な少年の部屋」によせて春日武彦が書いたエッセイ(「普通であること」への憧憬)に興味をそそられる。「この本はぜひ買わなくては」と思いながら、次に中島義道の新連載小説「ウィーン家族」を読んでガックリきて気が変わる。やっぱり中島さんが少年時代を振り返ったエッセイなんて読んだらエネルギーが枯渇しそうなので遠慮しておこう。「ウィーン家族」は夫婦の確執を描いたものだ。

 中村ウサギ・倉田真由美「うさたまの妖怪オンナ科図鑑」が抱腹絶倒。だけどいつも笑った後で「これ私も入ってる?」と考えこんでしまうのが悲しいところだ。倉田さんは妖怪化した女を物影から見て皮肉っぽく笑ってる感じがするが、中村さんは「あー、身につまされるー!」と同情しながら書いてる感じ。
 私は、私という人間の「規格外」な部分こそを彼氏に理解して欲しかったのだが、若い男というものは「規格外」を拒絶するのである。彼らは、自分の概念から逸脱した女が絶対にダメだ。いや、若い男に限らず、男ってもんはそもそも、そんなものなのかもしれない。(中略)たとえ女の個性に寛容な男でも、「理解はすれどチンコは勃たず」ってなスタンスが多かったりもするのだ。

そう、「規格外の女」を見る時の男の目は、まるで妖怪でも見ているような不安と恐怖に彩られている。女たちは割りかし「規格外の男」を面白がるが、男は面白がる余裕すらなく、暗闇で化け物に会った時のような「げぇっ」という反応をするのだ。

ほうほう、わかります。ところで、朝日新聞の「男と女」という気色の悪い連載はなんとかならないもんかと思う。やっと終わってくれたかと安心していたら延々とつづくのだ。目に入る度にどっと老けこむ。(うわ、かんべんしてくれ~)。「愛の流刑地」以来のダメージングな攻撃で、もう朝日をやめて毎日にしようかと思うほどだ。
 
 パウロ・コエーリョ「七つの美徳」は今月で最終回。テーマは「節制」冒頭に例の新約聖書からの引用があった。「あなたは冷たくもなければ熱くもない。どちらか一方であったらよかったのに!」
おお、またシンクロニシティか。(ちがう!)このフレーズはよほど有名であるらしい。上に「愛」などという言葉があるとなんとなく色っぽく感じてしまうなあ。

つづく

「考える人」2008年冬号

2008-02-12 14:54:25 | 雑誌の感想
 季刊誌「考える人」2008年冬号は、河合隼雄氏の追悼特集であった。冒頭に作家小川洋子さんとの未発表対談が掲載されていてこれがなかなかおもしろかった。
 小川洋子さんのおじいさんは金光教の教師だったのだそうだ。
小川 金光教では、教師と信者さんの座る位置が独特なんです。祭壇があるとすると、祖父はそれに対して九十度の方向を向いて座る。で、祖父をはさんで信者さんが座る。こういう位置関係で、祖父は、こっちの耳で神様の声を聴いて、反対側の耳で信者さんの声を聴いて、両者を取り次ぐという役目なんです。

 金光教は、神様と人間の関係をつくっていく宗教なんです。そしてその関係はまだ確立されていない。なぜなら、神様のことを「親神様」という言い方をするのですが、要するに神は親なんです。氏子というのは子供で、親神様と氏子が親子の関係を作っていくことが信心するということ。神様は親として、氏子たちが悩み苦しんでいるのを見て、心を痛めている。金光教で一番救われていないのが神様なんですね。ですから信者たちは神様を救うために信心をするんです。

 この金光教の考え方で究極なのが、「死んでもままよ」ということなんです。死ぬっていうことも親神様の計らいだから、何も怖いことはない、どんなことも神様の計らいで自然にそうなっているんだから、任せておけばいいという、なんとも消極的な宗教なんですね。「こうしなくちゃいけない」とか「こうしないと救われない」とか「これをしてはいけない」とか、そういうことがない。教会のお参りも来たければ来ればいいし、来れなければ来なくていいっていうところもあります。

河合 神様の命令じゃなくて、神様を悲しませないように、というところが面白いね。さっきの続きで言うと、キリスト教は「原罪」の罪が基本であるけれど、日本の宗教は「悲しみ」が根本になるのが多いです。(中略)
 だから僕は、「原罪」に対して「原悲」があるという言い方をしています。日本のカルチャーは原罪じゃなくて原悲から出発してるから、と言っているんです。金光教はその最たるものやね。面白いね。


 私は金光教のことは知らないけれども、教師が説教したり経典の解釈で信者を導くというのではなくて神と信者との単なる仲介者という立場なのは興味深い。心理カウンセラーの仕事によく似ていると思った。カトリックの告解にも似ている。話したことによって事実がどうにかなるというものでもないし、相手がどうにかしてくれるというものでもない。なのに人は心の重荷を一人で背負うことに耐えきれないから話すのだと思う。そして、相談を受けた者も、自分がその重荷を受け取るわけではなく、丸ごと神様に渡すわけだから気が楽だ。河合隼雄さんは「カウンセラーの仕事は大変でしょう」と言われて、「僕はアースされてるから大丈夫」とおっしゃっている。このアースっていうのが「神に渡す」というところといっしょだ。宗教には人のこころを安定させて、生き続けさせる力があって、それは人間にとって必要不可欠の要素だったのだと思う。宗教を捨て、共同体も空洞化してしまった現代の私たちはその代替としてカウンセラーに悩みを打ち明けているのだが、まだまだ十分じゃないと思う。「こころの隙間」だらけだ。

 もうひとつこの対談でおもしろかったのが、河合さんがアメリカのプリンストン大学で学生たちに日本の映画を見せたときの話。

 ところが、見てもらった自主映画に、男女が絡み合うようなシーンがあった。女子学生がものすごく興奮して、「あんな淫らな映画を日本人は作るのか」って怒るんです。「ちょっと淫らかもしらんけど、芸術作品の中の許容」と答えると、「あんなのは許容範囲じゃない。日本人はこんなものをファミリーで観に行くのか」とかあんまり言うから、こっちもだんだん文句言いたくなって、「そう言うけど、プリンストンの外れの町へ行ったら、ものすごいポルノをやってるやないか」って言ってやったんです。そしたら、「私たちは絶対に観ない。あれは観てもいいと思ってるやつが勝手に観てるんだ」て言う。(中略)
 その次がもっとすごい。「われわれはああいうものを観ないという人生観の下に生きてきたんだから、東京であれ、パリであれ、観れば人格が崩壊する」て言うんです。すごい。
小川 ちゃんとした境界線があるわけですね。
河合 ビシーッとね。それで造られているわけですから、破れば人格が崩壊してしまう。この話をした後で僕はよう言うんだけど、日本の教育者で普段絶対ポルノなんか観ない人がパリでちょっと観たとしても人格は全然崩壊せんで生きとるわ(笑)。(中略)
 そういう無責任さ、あるいは曖昧さをよしとして、われわれ日本人は生きているけど、あちらの人からすると、やっぱりそれは許されないんです。だからアイヒマンにしたって、認めたら死ぬよりしかたない。

 映画でエロいシーンを観たら人格が崩壊するんじゃ、日本映画なんて全然観れなくなる。どういう映画を観ているのだろう。ディズニーか?男女の性愛とかドロドロの愛憎劇とかそういうものを抜きにして人間理解ができるのだろうか。人間ってそんなに単純で清廉潔白なものじゃない。だけど、きっぱりと割り切って進化論まで否定しちゃう人たちがいるんだからアメリカってすごいね。
 この雑誌には私の好きな人がたくさん寄稿している(なかには全然理解できない人もいるけど。茂木さんとか)。梨木果歩さんの引っ越しに関するエッセイをずっと読んできて、やっぱりものの考え方が共感できるところが多いと思っていたら、昔河合隼雄さんの大学の助手をしていたことがあったと、この号で書いておられた。そうだったのか・・・。河合隼雄さんの『昔話と日本人の心』に出てくる「片子」(鬼と人間の間の子で、人間の国に帰ってくるが、結局共同体の中で「誰からも相手にされず」自殺してしまう)は、梨木果歩「裏庭」のモチーフだ。河合さんの研究には、この「片子を殺してはいけない」という思いが根底にあって、梨木果歩さんはそれを受け継いでいたのかと今更ながら腑に落ちた。

つづき

2008-02-05 16:04:02 | 雑誌の感想
 あと、連載 「お代は見てのお帰りに」小倉千加子「教員の『強制多忙』で日本の教育が劣化する。」は納得だ。
 最近うちの近所で教職を辞めた人が多い。忙しくて体を壊すらしい。「事務的な仕事が3倍くらいに増えて、生徒の面倒を見る暇がない」とか「何もかも報告書を書かなくてはならなくなった。自由裁量ができず管理が厳しい」とか、もう話を聞くと大変な状況らしい。うちの姉だって、夜遅く電話してもいつも帰っていない。昔お給料が現金支給だった頃は、「銀行に行く暇がない」と言ってタンスの中に百万以上入れたままにしてたが、最近は「お金を下す暇がない」ので財布にお金がなくて慌てることがしょっちゅうあるそうだ。保護者からのおかしなクレームもきついし、飲酒運転をすればすぐ懲戒免職。現場の先生たちの声は多分表にあんまり出ないで、公務員バッシングみたいなのばっかりで、すごく追い詰められてる気がする。
 先日の「たかじん」で新大阪府知事の橋下さんは「病気が理由の公務員の長期休暇」を厳しく審査すると言っていたが、もちろん変な利権が絡んでいるようなのはともかくとして、教員の待遇をこれ以上悪くすると、却って教育の質の低下を招くことになると思う。学校に芝生を植えるより大事なことがあるだろう。現場の人の声を聞いて欲しいと思う。そして右翼の日教組叩きの尻馬に乗るのはやめてほしい。(もう手遅れか)橋下さんの言ってたのは大幅な歳出の削減ということだけど、均等にどこもかしこもカットというのは縮小均衡に陥ると思う。めりはりをつけて教育で人員を増やすとか、熊谷氏の言っていたバイオで経済の活性化とか、考えてほしい。橋下さんがどういう政治をするか、それが吉と出るか、凶とでるかは、先例として全国の都道府県が注目していると思う。

 も一つ、連載「China & Korea ウォッチャーが伝える最新情報」宮崎正弘&李英和でびっくりしたことは、北朝鮮の公債詐欺の話。
 「夢は逆夢」李英和

 夢見の善し悪しに一喜一憂することはない。実は逆夢ということもある。昨年末に北朝鮮国民は苦い夢と甘い夢の両方を見せられた。夢のあとさきはこうだ。
 北朝鮮政府は03年に人民生活公債を発行した。10年満期で無利子なのだが、年1回の宝くじ方式が公債販売の目玉。一等賞金が額面50倍との触れ込みで40億円相当を発行。国民に半強制的に買わせた。
 満期は2013年だが、今年から償還金の積み立てが始まるはずだった。ところがその代わりに、将軍様は昨年暮れに公債の「国家献納運動」を始めた。この詐欺商法で北版「年末ジャンボ宝くじ」の夢は破れた。

 何と悪どい!そこへ韓国大統領選で李明博候補が公約した「非核・開放・3000」が伝わる。核廃絶と改革開放に応じれば、10年後に、北の一人当たり国民所得を3千ドルに引き上げる構想だ。そりゃー、超魅力的な話だろう。「将軍様は李明博の吹かす南風が気になる」そこで「新年の辞」で「新たな夢物語を打ち上げた。2012年に経済強国建設を完成させるという。

 どうなるんでしょうね。

週刊朝日2008.2.1号の記事から

2008-02-05 15:42:25 | 雑誌の感想
 買ったまま放っておいた「週刊朝日 2.1」を昨日読んだところいろいろとおもしろかった。私が買った理由は、激安「日本株」いよいよ買い!オイルマネーが狙う「79銘柄」という見出しに惹かれたからだ。日本株が安値圏にあるとわかったのでオイルマネーの試し買いがちらほらとあるという。
 オイルマネーとは、主にペルシャ湾岸の産油国が原油を輸出して稼いだ資金を指す。原油価格が高水準にとどまっていることから、その規模は年々拡大しているようだ。中東経済に詳しい国際金融情報センターの大工原桂・主任研究員によれば昨年も3千億ドル(約32兆円)弱が中東地域外に投資され、運用総額は2兆ドル(214兆円)を超えたという。
 世界中の株、債権、不動産にとどまらず、アラブ首長国連邦ドバイの政府系投資会社が昨年6月、米高級衣料品店「バーニーズ・ニューヨーク」を買収するなど、最近では運用を多様化させているようだ。

 すごい規模のお金だ。だけど彼らが好んで買う銘柄には特徴があるという。
 日本株にも日経平均やTOPIX(東証株価指数)などの株価指数があるが、昨年12月3日、イスラム国の投資家に向けた新しい指数が登場した。米格付け会社スタンダード&プアーズが開発した「TOPIXシャリア指数」だ。シャリア指数は東証一部の79社で構成されている。主要150社のうち、イスラム法(シャリア)に抵触するアルコール、豚肉、ギャンブル、たばこ、金融、広告、放送、ポルノ、貴金属などを扱わない会社が選ばれた。

 これが「イスラム銘柄」というわけだが、たいへん堅実でよい会社ばかりなのでお金がある人は、オイルマネーが本格的に買いに入る前に買っておくといいと思う。だけど、4、5年くらい前だったら超お買い得の大バーゲンだったのになあと私なんかは思ってしまうし、今は買えないなトホホ・・・


 もう一つおもしろかったのは、見えてきた「小沢一郎の非力と限界」御厨貴・松原隆一郎対談だ。主要7政党の通信簿ということだが、どこもかしこもCとDのオンパレードでぼろくそに言われている。
松原 中曽根康弘元首相は「戦後政治の総決算」という大きなビジョンを持って、良くも悪くもそれまでの政治を変えた。政治家は本来そういうことをやるものでしょう。ところが福田さんにはやりたいことがないから、この国をどうするかという大きな構想がない。格差問題に本気で取り組むなら、国内の格差だけでなく、国際的な流れで生み出される格差への防波堤をどう作るのかということも語るべきですが、そういう言葉は彼の口からは出ない。言葉の「調達力」がないのは政治家にとって致命的ですよ。

御厨 民主党は、小沢一郎代表が辞意表明会見で言ったとおり。政権党の体をなしていません。参院で多数を握ったのに、早くもそれを持て余し、対テロ新法でも衆院で再議決されたら「やられちゃった」と脱力感に包まれている。小沢さん自身も、辞任騒動を起こしたときから、大きな赤ん坊がだだをこねている印象でしかない。とにかくキレるでしょう、あの人。でも、キレて、泣いてというのは、これから政権を取ろうという政治家のやることではない。だから彼がいくら力んでも「あなた本当に首相をやる気あるの?」とみんな思ってしまう。小沢さん自身が民主党の最大のアキレス腱になっている。

ということで、民主党の政局構想力はD、危機管理力D、メッセージ到達度C、争点形成力はB、議会交渉力C、将来期待値C、総合評価がCとなっている。

 他に「社民党は憲法とともに死す自爆テロ集団みたいな状態」(松原)とか、
共産党は最近の経済情勢悪化で結党以来初めてイデオロギーと現実が近づいてきた」(松原)「一刻も早く党名や組織を変えて、自民党と民主党に『おれたちの票、どっちがほしい?』と両天秤にかければいいのにできない。」(御厨)
「国民新党は相変わらずおもしろい。」(松原)「参院選でも綿貫民輔代表と亀井さんが2人で歌うパフォーマンスをした。昔は怖くて、近づきがたいおじさんだったのに、おもしろキャラになっちゃった。国会という長年親しんできた所でいかに楽しく生きるかという世界に入ってしまい、独特の人気がある。」(御厨)「政治家の、悲惨にならない新しい老後の形を見つけました(笑い)。」(松原)
という具合でなんだかブラックユーモアの世界です。最近、アメリカ大統領選挙で大きくクローズアップされているオバマ候補とヒラリー・クリントン候補の指名争いで感心するのは、やっぱり野次馬的おもしろさってことだけではなくて、アメリカというあの大きな国で、いろんな人種、信条、利害関係を抱えていながら、それをなんとか調整するかたちでよりよい方向に国を持っていこうとみんなが真剣に考え、必死で論争しているってところだ。今朝も「ヒラリーのイメージチェンジの歴史」ってやっていたけど、「南部の宗教的保守主義者を慮って女性らしい服装、外見にする」とか「夫の不倫疑惑の際厳しく追及してきたガチガチの保守議員と和解する」とか「中絶賛成の意見表明を控える」とか、すごく戦略的で自律的で意思の強固さを感じる。それに大勢のボランティアが選挙を支える活動をしていて、「このような社会になってほしいから、こういう公約をしている彼(彼女)を応援する」と真剣に考えて周囲に働きかけているのもすごい。これが直接選挙制ってものか。その後で日本の政界のニュースを聞いたりすると「茶番」みたいで嫌気がさしてくる。
総選挙で『福田さんと小沢さんのどっちがいい?』と聞かれても、有権者は『どっちも違うんじゃないの』と思うでしょうが、選挙後の首相指名選挙で、自民、民主両党が互いに手を突っ込み合って、ものすごいバトルになれば、その中からガラッと変わって誰かが出てくるかもしれない。」(御厨)という意見もあるから、もっとこう、なんとかしてほしい。

雑誌「SIGHT」 続き

2007-12-16 21:21:14 | 雑誌の感想
「論座 2008年1月号」の中で、作家 宮崎学氏の「政治家に“クリーンさ”を求めるな 汚れたハトか、清潔なタカか」がおもしろかった。
 私は小泉氏、安倍氏などの日本型タカ派の代表たちは、汚れたハト派よりその本質においては汚れていると思う。
 それは成り上がり型の、つまり一代で昇りつめた政治家と違い、この人たちは2代目、3代目の政治家だ。「地盤」「看板」「カバン(金)」という政治家としての必要条件がすでに整った人たちだ。
 成り上がりのハト派はこの「カバン」がもともとない。そのためともすれば「汚れる」のであるが、小泉、安倍両氏などは、その必要がないために「清潔」であるかのように見えるだけだ。
 しかし厳密に言えば、先代、先々代から相続した「カバン」が清潔なものとは思えない。実際2代目、3代目政治家の資産公開を見るとその潤沢な資産に驚かされることが多い。
 次に、汚れたハト派について考えてみると次のようになる。「汚れた」ということは合法的か非合法的であるかを問わず、「金銭」を得ることを追求することである。
 金銭を得るということは、金を出す人(企業)と政治家との間では、ある種の合理的関係が条件となる。カネを出す人(企業)に利益を与えないかぎり、その関係は成立しない。つまりギブ・アンド・テイクの関係だ。
 この合理性の壁が憲法問題などの「平和」に関わる時にはタカ派の理念優先型の暴走とは逆方向へと向かわせる。この合理性がハト派の政治感性の基盤であると私は考える。ハト派は汚れることによってハト派たり得たというところがある。

雑誌「SIGHT」2008年1月増刊号でおもしろかったのは「特別対談 枝野幸男×後藤田正純」だった。民主党の対中強硬派(ウィキペディアによれば)と自民党のハト派ってことで、なんか所属政党が入れ替わってもかまわんのじゃないかという感じがした。
メディア戦略について
枝野 まあ、やっぱり世論というのはある意味でぶれがあるものだと思うんです。明らかに小泉さんの功罪の罪のほうで(中略)端的に言えば選挙が最後の一週間で決まるみたいな、そういう状況になってしまっている。テレ・ポリティクスという言葉ができ上がっている通り、これがこのまま続いたら大変なことになる。そろそろみんなテレビのワイドショーなんかは半耳で聞かなきゃいけないよねと、そういうところに行くのかどうか、今はその分岐点だと思うんですけどね。
――ただ、そうはいっても「わかりやすく、一発で伝える」ためのコピー能力なりメディア戦略は、民主党も積極的に取り入れる必要があるのではないですか。
枝野 こういうこと自体が失格なのかもしれないけれども、仮にそう思ってたとしてもそれは言っちゃいけないんですよ。つまりね、ぼくは小泉さんが郵政選挙で成功して、安倍さんがメディア戦略で失敗したと言われている決定的な要因は、本人のキャラクターもそうなんだけど、小泉さんはメディア戦略を仕掛けますよということを言わずに成功をした。で、安倍さんは、そのメディア戦略に上手く乗っかろうってことが見え見えになってたわけなんですよ。メディア戦略を仕掛けてますっていうことを有権者に向かって発信するというのは、最悪のメディア戦略です。
後藤田 まったくおっしゃる通りで、安倍さんのときには、メディア戦略担当がメディアに出ているという大変馬鹿げたことが起きたでしょ。(中略)実はこの問題に対しては、ぼくは枝野先生とまったく逆のこと言ってるんですよね。やっぱりメディアに対してはおかしいだろうとみんなが思い始めてて、そろそろ本当のことを言う政治家を求めてるんじゃないかと。
 やっぱり我々政治家は、策を弄するよりも、メッセージ性が高い本当のことを端的に繰り返し言う。これだと思うんですよ。
枝野 明確で本当のことを言う政治を求めてるっていうのはまったく同感です。ただ、ぼくが分岐点というのは、それに政治の側が応えられる状況であるのかどうかということなんですね。まさにそこが分岐点で、これに応えられないとますます大衆迎合の政治になってしまう。

後藤田さんは自民党の正統保守派なんだな。「編集部からの10の質問」の中で「政界再編が噂されています。仮に再編が行われるとしたら、何を争点に行われるべきだとお考えですか?」という問いに「アジア外交⇔対米重視、国家主義⇔国民主義、自由⇔規律」という答えだった。
後藤田 まず、靖国の問題は、わたしらの時代で解決しなければならない。で、ぼくは日米安保条約というのは、(旧)ソ連に対する軍事同盟だったわけで、これはもう時代の終焉を迎えていると思う。今アジアの有事は台湾と北朝鮮であり、ワンチャイナ、ワンコリアを目指す中では、新しいアジア外交を樹立しなければならない。ただ自民党の中にもいまだに媚中外交だと批判する人がいたり、中国は脅威だとおっしゃる方がいたりするから、そんな状況ではなかなか難しい。

枝野 そもそもぼくはね、外交って争点にしちゃいけないと思うんですよ。国内だったらいろんな政策誘導である程度までは、やっていけるかもしれないけど、アメリカ国内や中国の世論がどうなるかなんて我々にはコントロールしようがないんだから。ものすごいリアリズムな世界にいるわけですから。どういう立場にしても極論はあり得ないんです。
 で、残念ながら日本外交は、特に安全保障が絡むと極論同士で議論してしまうんですよ。で、その極論にはぼくはまったく関心がない。

――ただ外交におけるビジョンというのはやはり必要じゃないですか。ビジョンなき日本外交の失態は、各方面から指摘されているわけで。
枝野 ただぼくはあえていうけどね、どういうビジョンを持てるの?ビジョンを持たないからダメだって言う人で、「こういうビジョンがありますけど」って言うのを聞いたことがない。大体、ビジョンを持って日本が外交を先導できるほど国力があるんですか、ぼくはないと思ってる。そういう勘違いをしたのが大東亜共栄圏でしょ。たとえば今の客観的な国際情勢の中だったら、もうちょっと中国とは信頼関係を作んなくちゃいけないとかね、それをぼくはビジョンとは言わない。それはウエイトのかけ方の問題なのであって。ビジョンがあると縛られるじゃないですか。

政界再編の軸に対する枝野さんの答えは「選択的夫婦別姓の賛否」で、民主党らしくていいですが、これは別に重要課題ということでおっしゃったのではなく「二者択一」ができるし、リベラルかどうかの分かりやすい分水嶺だからという現実的なお答です。枝野さんは二大政党制を実現すべきだという意見です。

枝野 たとえば旧民主党を作った96年のときには一種純化路線をとろうとしたんですよ。純化路線をとろうとしたんだけれども、あえて言えば、結局いろんな人が入ってくるのを止められないんですよね。つまり勝馬に乗るんですよ。で、また要らない人ほど勝馬に乗るわけで(笑)。だから、大連立というよりは、少なくとも政権交代をして、お互いが与党と野党に慣れる、で、一旦野党になってもまたすぐ与党になれるんだという状態がお互いに共有されないと、何となくとりあえず次に与党になれそうなほうにどっと人が流れるということになりかねない。
後藤田 うん。まあ、そうですね、ぼくも1回、民主さんに政権をとってもらっても構わないって地元でも申し上げてるんだけど。それによって、権力の責任を感じていただけば、議論もまた噛み合うようになりますからね。
枝野 そういう、自分が野党になることを前提とした再編論をおっしゃる自民党の方って、後藤田さんの他にぼくはひとりしか知らない(笑)。
――どなたですか。
枝野 (山本)一太さん。他の人は当たり前のように再編後自分が与党っていう前提で話すんです。

えーっと、山本一太さんのあの風通しのよさは何かな?と思ってたら、M2シリーズの中で宮崎哲弥氏が友達だと言っていた。なるほど情報の伝達経路はそうなのか。

まあ、風通しのいい人たちにがんばっていただきたいです。

雑誌「SIGHT」より

2007-12-15 21:36:45 | 雑誌の感想
 ペシャワール会の会報が届いた。アフガニスタンの干ばつはさらに悪化し、ペシャワール会の水路ではないが多くの水路が枯れている状況らしい。飢餓難民がさらに増えている状況の中、日本ではテロ特措法に関する抽象論ばかりだということを中村哲医師が嘆いておられる。
 中村さんの話は「SIGHT」2008年1月増刊号(ロッキング・オン・ジャパン)にも掲載されている。
中村 民主党に限らず、日本国内でのアフガニスタンについての議論はまあ、小田原評定に近いんじゃないかとは思いますね(笑)
 というのは、日本にあまり知られてませんけども、アフガニスタンの首都・カブールは反政府陣営にすでに包囲されているんですね。タリバン、あるいはその同盟軍がすでに農村地帯をバックにして首都を包囲しつつあるということさえ知らない。毎日数百名という単位で人が死んでいることも知らない。今、ISAF(国際治安支援部隊)と米軍で五万人の兵力がアフガンに駐在していて、軍事活動がますます活発化しています。選挙も行われ復興も進んでいるといわれながら、なんでそんなに軍隊がいるのですか。そのことへの基本的な疑問もなく、「国際社会」との協調だとか「国益」とか、抽象論ばっかりが戦わされているので異様な感じがしました。


――ではテロ特措法ですが、素直に中村さんのご意見をうかがうとするといかがですかね?
中村 これは6年前に私が、それこそ民主党の証人として国会に立った時と全く同じです。有害無益です。本当に早く止めて欲しい。まず、アフガニスタンにとって「反テロ戦争」という名の軍事協力から得られるものはほとんどありませんでした。それどころかかえって民間人の犠牲者を増やし、武装勢力の力が拡大するのを手伝ってしまった。
――日本が積極的に関与していくことのデメリットというのは、何が一番大きいですか。
中村 やっぱり対日感情が悪化したこと。それによって私たちの仕事そのものに障害が出てしまいます。日本人に対する評価が今180度変わりつつあるんです。かつてはアフガニスタンは、世界でも対日感情の最もいい国のひとつだったんですね。その理由のひとつは戦後の日本が軍事的な活動をしなかったということです。それが最近では「米国及び日本を含む同盟者」とひとくくりで呼ばれるようになってきています。「それはテロリストの言うことだ」と言えば日本では説得力を持ちますけれども、アフガニスタン現地では、アルカイダのような国際イスラム主義運動と、民族主義的で土着的なタリバンは本質的に違うものです。そういうタリバンのような人たちの間で評判が悪いというのは、日本の安全性を考えてもかなり危機的です。

アフガニスタンというのは部族社会で、日本でいえば中世の戦国時代みたいな国だ。みんな当然のように武装していて、普段農民でも何か事があればすぐ鉄砲持って戦う。その人たちが米軍の空爆によって何の関係もないのに多くの市民が巻き添えをくって死んだことに腹を立てている。タリバンといっても元はそういう農民たちだ。「テロとの戦い」というのは一人のテロリスト容疑者を殺すためだったら一般市民数百人を殺してもいいってことなのか?そんなことアメリカやヨーロッパや日本でやったら大問題になるだろう。アフガニスタンではやってもいいのか?アフガニスタンの人たちの命ってそんなに軽いのか?そんなむちゃくちゃなことをやっているアメリカに「対米追従しか道がない」と協力するのはやっぱりおかしいよ。
――そういうアフガニスタンの現状を見もせずに、日本では自民党も民主党も、米軍なり国連なりに協力する形の国際協力を想定していて。でも国連軍も評判が悪いんですよね。
中村 これは悪いです。やっていることが米軍の肩代わり以上のことではないし、全体としてモラルが低くISAFはある意味では米軍以上に強暴ですから。その地域の住民の文化なり考え方を尊重しないと軍は支持は得られませんよ。傍若無人で、例えば厳しい禁酒国であるアフガニスタンで、装甲車の上でワインをラッパ飲みして、ビンを通行人に投げつける。おかげでうちの運転手は死ぬところだったんです。かなり綱紀がゆるんでますね。それに墓を暴いて頭蓋骨で遊んだり、現地の人の神経を逆なでするようなことを盛んにやっている。現地の人は表向きは「感謝してる」と言いますけれども、そうでも言わないとタリバンだ、テロリストだと逮捕されたり殺されたりしてしまいます。


えーっと、宮台真司の言葉に「ネオコン的マッチポンプ」という言葉がある。「テロとの戦い」という名目で強硬策をとる。するとさらに怨嗟が生まれてテロは逆に増加する。人々の不安は募り軍需産業とセキュリティー産業は大儲け。これを意図的にやっているのだったらそうとう悪質だが、まだ気づいていないのだったらただのバカだってさ。
先日の朝日新聞の書評に取り上げられたこういう本が出たっていうことはネオコンもバカじゃあないってことなんだろう。アメリカ追従だったらいっしょに方向転換しなきゃ。だいたい、ヤクザの親分が「おいハチ!あれしてこい!」と言ったときに「へい、へい」ってなんでもかんでもバカ正直にいうことをきくっていうのはアホだ。「親分、それはちとマズいっすよ!」と進言するか「へい、おっしゃるとおりやっときました」といってあとあと困らないように適当なことをしておくかすればいいのだ。そもそもがヤクザの親分が極悪非道なことをやり始めたらいつでも逃げて自活していけるように算段しとかなきゃ。


この「SIGHT」という雑誌はおもしろい。編集・発行人の渋谷陽一という人は、私が子どもの頃、FMラジオで聞いてた音楽番組の有名DJじゃないか。なんでこういう「論座」みたいな雑誌を作ってるんだろ。

私はきのう、このBLOGランキングを見てびっくりした。愛国とか反日とか国を憂えるとか勇ましいのばっかだ。じょーだんじゃねーよ!それにこのせと弘幸って人なに?「南京事件」の捏造?
故細川隆元先生が当時のシナ大陸にいた朝日の記者に尋ねたところ、一人も虐殺の話を聞いた者はいなかったと証言したのです。

ほんとにそうおもってるんだー!すごいね。加藤紘一氏の自宅放火事件をよくやったとほめてるし、もろ石原都知事支持者なんだー。
人気ブログってこんなんばっかなのか?ひどいね。

加藤紘一氏について批判したブログに太田述正氏の記事が引用されているが、ここのコメント欄がひどい。「中共の犬」?「媚中派」?「悪魔中共」ってのはたしか統一教会が言ってたような・・・。統一教会の関連組織である「勝共連合」には自民党のタカ派議員からの献金がかなり入っていたらしいし・・・。この教団が社会問題になる前ね。自民党の「憂国議員」が共産主義思想の侵食を防ぐためこの組織を利用したんだと私はプロテスタントの牧師さんに聞いたがな。じっさい統一教会はお金持ちだったなあ。一等地に自前のビルを建てて。
それに
ユダヤ人大虐殺はその歴史的な検証すらも許されないという状況にあります。昔は2ちゃんねるでずいぶん戦いましたが、この問題はもう少し時間をかけてから行いたいと思います。ドイツの歴史修正主義者の戦いを見守るという立場です。
ってなに?「アウシュビッツなどはユダヤ人を国外追放するための拘置所だったとか。虐殺という言葉はヒトラー自身口にしたことはなかったなど。」
ははあ、ヒトラーが虐殺という言葉を使わなかったから虐殺はなかったと?

おい、「SIGHT」がんばれ!
右翼がどう言おうと、これからは中国とよい関係を築くより日本の生き残る道はないと私は思う。
加藤紘一×藤原帰一対談でこんなのがあった。
藤原 中国指導部が福田さんと似てるっていうと誤解を受けそうですが(笑)、イデオロギーじゃなくて実利の人たち、経済テクノクラートの政権なんです。今度の中央委員会全体会議では、おそらく胡錦濤をはじめとする経済官僚に加えて若手を抜擢しますから、その傾向が強まるでしょう。実利から考えれば中国にとって日本は大変大きな貿易相手国。これだけ経済的な関係が密接な日本との外交が冷え込むことは明らかに不利益になるという判断ですね。それに、ちょっとくやしいけど、この4、5年間の中国外交は見事でした。

加藤 ・・・・・・そこは中国もわかっているからこそ今喧嘩しちゃいけないというふうに思っているんだと思います。ですから一昨年の4月のデモのあと中国に行ったときに「人民大会堂でデモを抑えるために中国共産党中央委員会の大会議をやったそうじゃないか」って言ったら、「それは違いますよ。我々はデモの指導者になり得る大学や地域の若手指導者を集めて、日中経済関係でいかに自分たちが得してきたかということを話して説得したんです」というんです。駐日大使経験者がその演説に駆り出されたんだそうです。「我々は6千人だかの学生の前で喋るなんてのは初めてで正直言うと足が震えたが、ここで彼らを説得できないと対日デモは大きくなるしそれだけじゃない。他のテーマによるデモに火がついたら我々日中関係者は強烈に非難される、そういう問題だったんです」と。共産党がそういう集会をしたって発表すればいいのに体質があって、内部のプロセスを見せないんですね。それと同時に在北京の日本人特派員たちはそのことをなぜ書かないのかと聞いたら、知っていましたが当時の状況では(小泉政権)、書いても本社では記事にしませんということなんですね。メディアの図式に合わないんですと言っていた。

なんか、よく似た話を読んだことがあるような・・・と思ったら、マンガ「取締役島耕作」に出てたんだった。
もう、ネット右翼とかはなんでも勝手に言ってればいいんで、日本と中国の賢いテクノクラートや政治家に賭けよう(日本にいるとすれば)。

核シェルター

2007-11-12 23:37:30 | 雑誌の感想
 いつのことだったか忘れてしまったが、友人と核シェルターについて話したことがある。確かNHKスペシャルを見てのことだが、アーカイブスで検索をしてみてもいつかよくわからない。今年も夏に「核クライシス」(2007年8月5日)という番組があったからきっと夏のことだったのだろう。それにしてもNHKはアーカイブスが充実していてすごいなあ。NHKの真価はこういう時代を切り取って検証しようとする番組で発揮されているのだとつくづく思う。
 
 友人とお茶を飲んでいたら、彼女がいきなり、「ねえ、昨夜の核シェルターの番組を見た」と言ったのだ。「ああ、見た見た。高いのねえ。うちは絶対作れない。」私は番組にはとても感心したのだが、友人はそうは思わなかったようだった。「ひどいじゃないの!だいたい自分たち家族だけ生き残ってどうするっていうの?仮に1か月とか生き延びられたとしても、その後どうするの?私なんか絶対無理。それにね、近所の人も、友達も、もしかしたら親兄弟もみんな死んじゃってるのに生き延びてもしょうがないでしょ!腹立つなあ。」と言うのだ。そうかなあ。私は、その番組をそうは見なかった。
 
 「私はねえ、感心したのは、日本と欧米の考え方というか合理主義との違いっていうところなのよ。日本じゃね、『核戦争が起きたら世界の終末だから生き延びてもしょうがない』って思うじゃない。でも、実際に冷戦時代に核戦争の恐怖を感じて生きてきたヨーロッパや北欧の人たちはね「おしまい」じゃなくて、なんとか対策を立ててる。個人の住宅に核シェルターの設置を義務付けてるスイスだとか、市民みんなが入れる地下の核シェルターを持つケルン市だとか、その有効性がどれくらいのものかわからないけど、少なくとも何パーセントかの人たちは生き残れるじゃない。危機に対して何らかの防衛策を取ろうとしてる。この違いね。それから、すごい賢いのはアメリカ。大統領だとか政府の首脳部は絶対安全なようになってるじゃないの。仮に国が壊滅したとしても、すぐに臨時政府を立ち上げてそこから生き残りの人たちを集めて再建できるようになってる。私なんかはね、死んじゃってもまあ、誰かが生き延びて国を再建してくれればいいかなって思うのよ。そっちのほうがずっと大変だとは思うけど。」
 
 友人は鼻白んで、「あなたの言うことは、私にはよくわからない。死んじゃったら国が再建されようとされまいと関係ないじゃない。」そう言うと、アイスティーにさしたストローを猛烈な勢いで吸ったのだった。そのときの会話はそれで終わってしまったが、私はあれからときどき核シェルターについて考えることがある。
 今、検索をしてみたらやっぱり核シェルターは売れてるみたいだな。
核シェルター最新事情
ZAKZAK-問い合わせ殺到…核シェルターの実力&購入者は?
ワシントンの地下鉄は核シェルターになっているとか
TV Tokyoアナウンサールーム
旧ソ連時代に作られた核シェルターとか
GIGAZINE
おもしろい人もヒットした
映画『選挙』でおなじみの山さんBLOG
こんなんも出てきた。なんだか知らないけど、防災に関する会議らしい。PDFファイル
糸魚川市議会議員鈴木さんのブログ
 防災対策もあって最近核シェルターが売れてるらしい。ただし富裕層にね。家一軒建つくらいの値段ですよ。ちょっとうちは無理。

 それで、核シェルターについて考えていたらちょっと不愉快なものを思い出した。
 たいへんユニークな評論や小説をお書きになる精神科医春日武彦氏の「無意味なものと不気味なもの」第八回「糞と翼」(文学界2006年5月号)。この中でパトリック・マグラアというイギリスのマイナーな作家の小説『長靴の物語』が紹介されている。
 これは古びた長靴が語った話という設定であるがアメリカのある一家についての物語だ。ある日、核戦争がおこったというニュースが報じられ、一家は地下室のシェルターに逃げ込む。偏屈な父親、デブでテレビばかり見ている母親、おとなしい姉、いじめっ子の弟。この一家がシェルターの中で暮らすのだ。まもなく食べ物が底をつき、母親が原因不明の死を遂げる。外からは助けを求める人の声が聞こえるが、もちろん一家はだれも入れない。やがて飢えた弟が母親の指を食べてしまい、それがきっかけで一家は母親の遺体を解体して食料にする。ここで春日氏はこう言う。
 私は甲殻類恐怖症で、もしも漂流中に上海蟹とか越前蟹を食べなければ死んでしまうとしたら、そんなグロな生き物よりは、人の肉のほうが遙かにましである。躊躇なく食べる。馴染み深いものを体内に取り込んだほうが、違和感がない。逆に、私が衰弱死でもしたら、我が遺体を食べてもらって結構である。ある考えから、角膜以外の臓器を移植のために提供する気はまったくないのだが、他人が生き延びるためにわたしをディナーとすることは一向に構わない。どうせなら美人に食べてもらいたいなどと、泥臭いギャグのようなことを言う気もない。
 おそらくカニバリズムには、「そうまでして生き延びたいのか!?」というある種の卑しさや見苦しさとイメージ的に重なる部分があるのではないだろうか。そして、こそこそ盗み食いをするような品の無さ、いかがわしさが伴いがちなのではないか。だが、通勤電車でマナーもへったくれもなく飲み食いをしたり、レストランで食べきれないほどの分量を注文して平気で残すとか、ジャンクフードの空き袋を道端に捨てるような愚か者たちと、魂の透明度においてどれほどの差があるというのか。人肉食の話になると、途端に品が良くなってしまう連中ばかりでわたしは不愉快なのである。
それにしても、人肉を食べたあとで出る大便は、とてつもなく臭そうな気がする。

 私はばったり倒れてしばらく起き上がれなかった。春日氏は内田樹氏との対談「健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体」(角川ONEテーマ21)のあとがき「握り拳の盆景と精神寄生体」で、とんでもなく気色の悪い アホな ユニークな少年時代の思い出をお書きになっているが、私は「こういうちょっと不思議な子でもちゃんと大人になって精神科医になったりできるんだなあ」とえらく感心した覚えがある。だけども、これはひどい。私がいくら鬼婆だとしても、ちょっと春日氏は食べる気にはなれない。私だって消化不良を起こすものがあるのだ。
 長靴が語ったところによると、上記の一家は母親を食べて生き延び、もう大丈夫と思ったところで地上に出てきたが、結局はゾンビのようにボロボロになった「半人間」たちに襲われ、食われてしまったそうだ。結末部分はこうだ。
(・・・・)黒い雪や灰のあいだから、マーガトロイド家の人々の骨が何本か突き出しているのが、今でも見える。自分は、未来はどうなるのだろうと感慨に耽っている。ときどき上靴のところから二枚の翼が生えるのを想像することもある。自分は、その翼をはためかせ、すべてをあとに残し、雲の上まで飛んでいって、清潔な薄い空気の中にたどり着くのだ。そして、さらに高みへと駆け昇り、翼の生えたちっぽけな長靴は神のふところを目指して昇天してゆくのだった。

 確かに少し悲しくて感動的な結末です。ですがこんな小説を高く評価する春日武彦氏は果たして大丈夫な人なのか?あんまり近寄りたくない。
 そして、私は先日「バイオハザード」を観たので、「やっぱり核シェルターはいらんわ。」と思った。ゾンビが襲ってくる恐怖に耐えられそうにない。

石原・宮台対談

2007-10-30 22:43:18 | 雑誌の感想
 9月6日の朝日新聞文化面「観流」に、石原慎太郎都知事と宮台真司・首都大学東京教授の対談「『守るべき日本』とは何か」(「Voice」(PHP研究所)9月号)の評が載っていたのを読んで少し興味をおぼえた。また古い話ですが。
 
 石原・宮台対談 影を潜めた破壊者ぶり
 ニートは「ただの穀潰しだと思うね」。冒頭、おなじみの“石原節”は健在で対談は始まる。だが、若者の脱社会化から、その要因としての家族や地域共同体の解体、 そしてグローバル化と日本文化の問題へと展開してゆく議論の大半を仕切るのは宮台氏のほう。石原氏は聞き役に回り、素直に説得されている様子ばかりが印象的だ。
 対談は石原氏の希望で実現したというから、拝聴の姿勢は当然かもしれない。しかし、「特攻の母」を描いた石原氏脚本の映画を含め、年長世代が懐かしむ伝統的な人間関係の復活など今の日本にはありえないと喝破されても反論するわけでもなく、「難しいでしょうな」などと、半ば同調している。先の都知事選、これまでにない柔和な笑顔を振りまいた石原氏の「老い」が指摘されたことを、妙に思い起こさせる、一幕だった。

 さらに、宮台氏は、「ポピュリズムと揶揄されるものとは別次元の『感染力』」が石原都知事にはあり、都知事選では「人の『凄さ』の違いが際立つのを実感した」と、ヨイショしていて、対談は和やかに終わったのが物足りないとか、「実際、後進の社会学者やファンの間では、ここ数年の宮台氏の変化が『転向』と語られてきた。」とか、要するに、「右傾化してきた宮台氏と、角がとれて好々爺になりかけた石原氏の慣れ合い対談だ。」と言いたいようだ。

 しかし、都知事選における「人の『凄さ』」みたいなものは私も感じたので、さっそく普段は読まない「Voice」を買って読んでみた。

 
   「守るべき日本とは何か」 文化が個性を失った国は大転換期に生き残れない

宮台
 かねて石原知事は、「次世代を担う子供たちに人間にとって根源的な価値をどう伝達するか」という問題意識をおもちです。私は東京都青少年問題協議会の委員を務めていて、その問題意識をどう政策化するかを検討しています。今期のテーマはニート、フリーター、ひきこもりです。

 ははあ、私は昨年から宮台真司の本を集中的に読んでいるので、わりと理解できるんだけど「ニートは穀潰し」と非難するのはただの「表出」だ。気分はスッキリするだろうが、それで問題が解決するわけではない。社会が変化し、それによって新たな問題が起きているのならそれを防ぐ効果的な対策を考え、さらに、問題が最小限に抑えられるような新たなシステムを作るのが政治家の役目だ。
宮台 彼らが「反社会的」であれば「穀潰し」の批判が有効ですが、「脱社会的」なのです。問われるべきは若い世代から大規模に社会性が脱落した理由です。
石原 ニートのその内面的な虚脱は、何ゆえにもたらされたのですか。
宮台 背景に家族や地域の自立的相互扶助の解体という社会要因があるからです。行政措置はそれに対してなされるべきです。
石原 ニートの悪いところはそういう依存性、甘ったれた考え方だよね。それは何が醸し出したんですか。
宮台 郊外化です。(以下略)

 以後、「郊外化によって地域や家族が空洞化し、それによって社会を生きる力を失った『脱社会的』存在にどうやって規範や価値観を伝達するか」という宮台氏主導の会話が続く。
 いいんじゃないですか。「最近の若者は道徳意識が欠落している」と嘆いて、道徳教育の強化とか風紀の取り締まりとか犯罪の厳罰化とか、いかにも右派政治家が言いそうな対策の一切合財は効果がないと宮台氏は主張している。私は安倍元首相の教育政策にがっくりきたよ。あの教育再生会議ってなに?少なくとも、石原氏は社会学者の分析と提言を聞こうとしているのだ。安倍さんよりはまし。というか老獪な人ですね。
 いくら道徳的な説教をしても、そもそも伝達のベースになる「台」、コミュニケーションが可能になる共通のプラットフォームがないので伝わらない。社会を成立させている基礎の部分が、日本は壊れてしまっているのだ。基礎とは、「世間」を支えている「地域性」で、これこそが日本の守らなくてはならないヘリテージ(相続財産)だ。と宮台氏は言う。うん、著書の中に繰り返し書かれているし、小林よしのり氏なんかとも、この部分では意見が一致しているようだ。「地域性」を失った日本人は、共通の価値観を持たないため砂粒のようにバラバラで、不安からアノミーに陥る。そして見かけの頼りがいに騙されて、自分に不利になるような政策を唱えるカリスマ政治家を支持したり、目先のターゲットに見当違いのバッシングをしたりする。
宮台 社会学的処方箋は、手持ちのリソースから、かつての家族や地域と等価な機能を果たす台をどう構成するか。見かけより機能が大切です。
 家族ならば、感情的安全の保証と子供の一次的社会化を提供する機能。機能を満たせば見掛けはどうあれ行政は家族と見なすべきです。「典型家族から変形家族へ」といいます。

 うん、斬新ですね。さらに、社会変化を引き起こしている原因である「グローバル化」についても論じられている。
宮台 グローバル化で外国人労働者が来て若者や下層労働者と職を奪い合い、暴動が起きたりネオナチ化する事態。今や古風です。グローバル化が進めば外国人を受け入れるまでもなく、中国やインドなど労賃と土地が安い国にアウトソーシングする結果、単純労働への国内需要が減り、失業や非正規雇用化が進むからです。非正規雇用に文句をいえば「国内に工場を置くだけでありがたく思え」という経団連的な物言いが返ってくる。実際、外需で生き残る企業には死活問題です。でもその結果、労働分配率が下がり、内需が萎み、内需で回る国内産業も萎んで、木密地域のごとき地域性も消えます。
 こうした構造への理解が欧州主義のコアです。鎖国的な反グローバル化には外貨獲得を不可能にするから無理です。でも、無防備にグローバル化に棹させば中小企業の大半が消え、地域性を支える内需産毟られます。したがって、1、グローバル化で外貨を稼ぐ企業、2、M&Aや合理化を進めて頑張れば外貨を稼げる企業、3、地域性を支えるべき内需産業を区分し、構成を最適化すべきという発想になります。

 ここ、テストに出るとこですよ。
宮台 チャイナクラッシュ論は昔からあるけど長らくクラッシュしません。市場化を制約する強力な行政官僚制が資本注入を強行できることと、グローバル化で先進国のすべてが中国へのアウトソーシング抜きに経済を回せなくなっているからです。一〇〇〇兆円の公債残高と、大半が焦げ付いた四〇〇兆円の財政投融資残高がある日本もクラッシュしませんね。日本同様の不良債権処理を中国もやるでしょうが、外貨導入を徹底することになる。グローバル化の肯定面です。
 政治学の先端ではグローバル化伴う国家権力の変質が話題です。軍需が最重要の公共事業なのは今後も変わりません。日本はそれが使えないのでハコ物に頼っただけ。でも軍事で借金チャラにしたり、資源をタダ同然で掠奪する国家は時代遅れです。それを示したのが「9・11」以降のブッシュの失敗。十五年前からアメリカがやってきたように、アメリカンルールを国外にも拡げてドルを還流させることが合理的で、それを平和的に推し進める武装した主体が国家という理解が常識化しています。ヒラリー・クリントンの“フィールグッド・プログラム”が明示的に提唱することです。

 あー、長々と引用してしまった。これらのことは「M2」シリーズなどの著書に詳しく書いてあることだけれども、この対談ではその持論がたいへんわかりやすく述べられている。どこが悪い?

 ところで、「都知事選に見られた石原氏の『凄さ』」に関して私が憶えているのは、あのテレビの公開討論会だ。石原、浅野、黒川三氏が一挙に生出演し、政策の違いをアピールしたあの番組で、「こりゃ、石原氏の勝利だな。」と確信した。多分あの番組の影響がものすごくあると思う。どこら辺でかというと、「子供をターゲットにしたような犯罪の増加、凶悪化に対してどのような対策を取られますか?」という質問に対し、黒川氏が「私は建築家だから、都市計画の観点から犯罪を防止する街づくりをめざします。」と答えてた時だ。一言でいえばそうおっしゃったのだが、話が回りくどくて長すぎた。延々とつづくのだ。あれじゃだめだ。「この人は偉い人なのかもしれないけど、こんな人を上司に持ったらたいへんなことになるね。」と私は家族に言った。きっと的外れの指示を次々と出されて業務が停滞し、悲惨な結果になるだろう。それに比べて石原氏の歯切れのよさと、話のわかりやすさは対照的であった。そして、翌日の朝日新聞の天声人語だか社説だかに書かれた「満面の笑み」を見たが、あれ、人間が丸くなったとみんな思った?違いますよ。石原氏は私の父親に顔がよく似ている(まあ、性格もだけど)。だからあの笑いはね、「ふふふ、変なこと言ってるよ。こりゃ、勝ったな。」という人の悪い笑いですよ。狸。じゃあ浅野氏は、というと実は、何をおっしゃったのか全然記憶していない。ただ、家族とその番組を見ながら、「うーん、おかあさんはね、家電製品でも何でもまだ使えるものを捨てるのは嫌いだから、都知事もね、新しい人がきて全く新しい体制を作って今までと違ったことをやるってのはコストがかかって大変だと思うな。浅野さんはね、それだけコストをかけて割に合う人のように思えない。やっぱ、古い人をメンテナンスしながらとことん使い倒したほうがリーズナブルなような気がするな。」と言ったことを憶えている。「都知事と電気製品をいっしょにすな!」と言われたのはもちろんであったが。
 さらに、「東京オリンピックの開催」について「中止」を主張する両氏に対し、「必要だ」と述べた石原氏が最後に「夢を見ましょう」と言ったとき。私は「このセリフなんだったっけな?」と考えた。あ、そうかドラマの「華麗なる一族」で万俵鉄平が言ってたセリフじゃないか?ドラマは見ていないが憶えているのは、「論座」4月号「宮崎哲弥&川端幹人の週刊誌時評『中吊り倶楽部』」
宮崎 抗わなくては。私たちには「美しい国」という夢がある。夢を見ることができなければ未来を変えることはできません!
川端 どうしたの?さっき、夢を説く大人にろくなのはいないといってたじゃないか。
宮崎 いいんだよ、万俵鉄平は夢を語っても。さあ、阪神特殊製鉄に新しい高炉を!

というセリフ。宮崎さんはここで他にも「無党派層を動員できるかどうかといことが勝敗のカギ」で「選挙が共同体動員型からメディア型になってしまった以上、それを前提にメディアを利用しながら戦うしかない。」と言っている。石原氏が「論座」を読んだかどうか知らないが、「夢を見ましょう」なんていうアピールは有効だろうなあとその時思ったものだ。 
 しかし、「Vice」の対談では、
宮台 「セカンドライフ」が話題なのをご存じですか。 
石原 いや、知らない。何ですかな、それは。

とおっしゃっていたので、「おい、賞味期限切れかけてるんじゃないか?」とちょっと思った。