読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

雑誌二冊 その2

2008-02-28 22:59:21 | 雑誌の感想
 「PLAYBOY」4月号
 
 つい新聞広告につられてPLAYBOYを買ってしまったのだけど、帰って開いてみてやっと思い出した。この雑誌ってヌード写真いっぱいの男性雑誌だったっけ。見た次の瞬間思わず閉じてしまったよ。おへそにピアスしたぷりぷりの金髪美人のナイスバディーなグラビアがてんこ盛り。はあー、容姿に恵まれなかったわが身を省みてつくづく人生が儚くなりますな。
 それはまあどうでもいいのだ。買ったのは「この人の書斎が見たい!」という特集に惹かれたからだ。だって吉本隆明、ガルシア=マルケスですよ。内田樹、鹿島茂ですよ。私は人の本棚を見るのが好きだ。どんな本を読んでいるのか見たい。

 だけどこれって、「どんな本」じゃなくって「どんな書斎」ってところに焦点が合っていて、背表紙が読めないのでちょっとがっかり。

 吉本隆明の書斎は予想通り本に埋もれている。入りきらなかった本が書棚の前にうず高く積まれていてまるで穴倉のような暗い部屋だ。棚の空いたスペースに変な置物のようなものがいろいろあって、三度傘みたいなのも掛っていて、わー、昔っぽい書斎だと思う。いるよね、本棚にこけしとか火山岩とかおみやげの趣味の悪い状差しとかいっぱい置いてる人。うちの夫ですが。いやいやそういうのとは格が違う。

 かっこよかったのは石田衣良。「書斎は地下にあり、ホワイトを基調にした52畳のワンルーム。・・・美しく整然と保たれた書斎の壁に、高さ3.5メートル、幅約7メートルの巨大な書棚が配置されている。」わーお、高級美容院みたいだ。白い棚、白い床、白いソファ。ボックスシェルフの一部にはアナログ盤のジャケットが飾られているが、それは中の文庫本を隠すためらしい。「文庫の背表紙ってかっこよくないでしょ?」だって。さすが「おばさんの心をわしづかみ」にする超売れっ子作家。(私は2冊しか読んでないけど。)こんな広くて清潔で大容量の書斎が欲しいものだ。

 フランス文学者の鹿島茂氏は「論座」2007年6月号「私流 本の整理術」に蔵書整理の苦労話を縷々綴っておられた。本の収蔵のために転居を繰り返し、現在 一階から3階まですべて本に埋もれた70坪の自宅、 壁面すべてを天井突っ張り本棚で覆い尽くした20坪の仕事場・兼書庫、 壁面のほとんどを突っ張り本棚にしている25坪のマンション、がある。住宅ローン・プラスマンション賃貸料を稼ぐために大車輪で執筆するのだが、その執筆素材としてさらに蔵書が増え、それを収蔵するためのスペースがまた不足し・・・という悪循環に陥っているとか。もはや、本をすべて売り払って執筆をやめるか、地価と税金の安い海外に逃亡するかという夢想をしていらっしゃる鹿島氏のこれは神保町の仕事場だな。
 写真を見て、こんなに壁面一杯じゃ地震がきたとき生き埋めになるに違いないと思ったが、この本棚は天井で突っ張るタイプだから大丈夫らしい。実はこの本棚、販売会社が「鹿島氏の要望を加えてさらに進化させた」カシマカスタムという特別のものですごく便利な棚(奥行き17センチ)なんだそうだ。壮絶な眺めです。怖いです。

 すっきりしてたのは、時々サンデープロジェクトでお見かけする高野孟さん宅。去年5月に完成したばかりの千葉県鴨川市の新居。窓の外は見渡す限り山並みという風通しのよさそうな書斎だ。「それまで人が住んでいなかった丘陵地なので、地均しが大変でした。広さは、1000坪といわれて買った土地ですが、あとで測ってみたら1800坪(笑)。」近くに「鴨川自然王国」があって、田んぼや畑をみんなで作ったり、味噌を手作りしたりするそうだ。「家を作るための開墾中に出土した仏像」や「薪木切りや草刈りなど家の周囲で日常的に使う」ナイフの写真が載っていてかっこいい。

 オランウータンとミッフィーちゃんの巨大なぬいぐるみがあるリビング兼書斎は内田樹氏。一方の壁全部が本棚で埋め尽くされているが蔵書は2000冊ほどらしい。目を凝らしたのだが「エースをねらえ!」は見当たらないので、すでにブックオフに売っぱらわれているのかもしれない。部屋の真ん中にこたつがあっていかにも居心地がよさそうだけど、ちょっと先生のイメージがこ・・・。ここで読書したら絶対寝てしまう。

 さすがこだわりの書斎は林望氏。地階には22畳の書庫があるって。いーなー。

 みなさんそれぞれに個性があってうらやましい。床の耐荷重を気にせず本棚を増やせてうらやましい。お金のかけ方が違っててうらやましい。だけど考えてみると、第一私には書斎なんて必要ないのであった。図書館があるし、いらないや。

 おっと、忘れていた。「アメリカンドリームが醒めるとき プータローライターが見たニューヨークの現実」【第10回】オバマという名の白人の免罪符がおもしろかった。アメリカ社会の人種問題は相当に複雑で黒人社会のアイデンティティーの葛藤もねじれていて私たちにはちょっと理解しがたいもんがあるとか。
 アメリカのテレビメディアで、最も尊敬されているジャーナリストのひとり、PBS(米公共放送)のビル・モイヤーの番組に、人種関係に関する著書で有名な、シェルビー・スティールがゲストとして出演。彼の新刊『アバウンド・マン』は、オバマについての本で、彼によれば、黒人の指導者や成功者には、チャレンジャーとバーゲナーがいて、オバマは後者なんだそう。
 チャレンジャーとは、「おまえたちがそうでないと証明してみせるまで、おまえたちのことを、人種差別主義者とみなす」という態度で白人に対しプレッシャーをかけ続ける黒人。バーゲナーとは、白人の主流派の中に入り、「あなたたちに、アメリカ史の恥ずべき事実を突きつけたりはいたしません、白人の全てが人種差別主義者だなんて言いません、あなたたちが私の人種を理由に私を否定することがなければ」という態度で取引し、白人に絶大な人気を得る黒人。前者は、60年代からの黒人指導者で、80年代に大統領選に立候補して話題になったジェシー・ジャクソン、ニューヨークの黒人指導者アル・シャープトンなど。後者は、60年代の人気俳優、シドニー・ポワティエ、80年代に裕福な黒人家庭のコメディドラマを超大ヒットさせたビル・コスビー、現代のアメリカメディアの女帝、オプラ・ウィンフリーなど。


 「バーゲナーは、決して自分の本心(特に人種差別に対して)を言ってはいけない。それをしたとたんに、白人たちは懐疑的になる。だからバーゲナーは透明でなくてはいけない。オバマは、チェンジだの、ホープだのと言うけれど、その内容は曖昧で、空虚ですらある。バーゲナーとは、あくまでも(白人の贖罪や希望を映しだすための)白いスクリーンでなくてはいけないから。具体性はバーゲナーにとって危険なのだ」

はあ、複雑だ。オバマ氏の発言が曖昧なのはそういう戦略か。もし大統領になったとしても相当苦労するだろうな。大丈夫か?
 でも、少なくとも日本より数段は上だ。マイノリティーが大統領にだってなれるのだから。

 あと、「役に立つ神学」佐藤優という連載があったので目を疑った。「進学」じゃないのか?ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」の解釈がされている。本格的な神学研究に基づいた説明だ。そーいえば、佐藤優氏は神学部の出身であった。これもシンクロニシティーか?いやいや、ドストエフスキーがあっちでもこっちでも流行っているってことだろうな。
 わあ、これはなんだー?

雑誌二冊

2008-02-28 16:54:20 | 雑誌の感想
 「本の旅人」3月号

 「本の旅人」という角川書店の小さな雑誌(100円)を定期購読している。これに大島弓子の漫画が連載されているからだ。
 「グーグーだって猫である」を愛読していたのだが、昨年春、たまたま書店で3巻が出ているのを見つけ、続きがあったことを初めて知って買った。どうも大島さんはますます寡作になってきたようで、「グーグー1」から7年もたっている。3巻を読んでびっくりしたのは2匹だったはずの猫がさらに増えて4匹になっていることだ。この間に何があったのか。その上子猫を5匹も拾って、貰い手探しに四苦八苦(楽しそうに)しているという話だ。猫まみれ!ぜひその間の話も読みたいと、2をあちこちの書店で探したのが去年の夏だったが、版元切れになっていてもうどこにもなかった。Amazonマーケットプレイスでは高値がついていて買う気になれない。せめてこの続きでもと、この漫画が連載されていた「本の旅人」を購読し始めたのだが、猫まみれ状態はさらにパワーアップしている。近所のノラ猫が家に入り浸っている話、不治の病のノラ猫を看取る話、「犬のしつけ」の話(犬もいたのか!)、猫は多すぎてもはやどれがどれだかわからない状態であった。そして、この3月号でまたノラが産んだ子ども4匹を引き取ったということになっている。大島さん・・・・
 笙野頼子の「愛別外猫雑記」(河出文庫)を思い起こさせる孤軍奮闘ぶりだと最初は同情していたが、最近「グーグー」の2巻をやっと入手したところ、これがまた猫のためにマンションを売って一戸建ての家を買う話(!)であった。笙野さんとまるでおんなじじゃないか。あの「綿の国星」のなんとなく浮世離れしていた人が立派な「猫おばさんに」なっちゃってるじゃありませんか!いや、たぶん今も浮世離れしていらっしゃるんでしょうし、私も人のことは言えません。言えませんが、あんな風にはなりたくない。いや、もうなっちゃってるかも。ああこわい・・・・。と、なかなか複雑な心情を喚起する漫画なのだ。

 「本の旅人」は「グーグー」しか本気で読んでいなかったのだけど昨日ふとめくってみると、あの「警官の血」の佐々木譲の連載小説が載ってるではないか。気がつかなかった。ちゃんと読み返さなきゃ。こんなに薄いのにクオリティーは高いようだと本気で読みはじめたところ、中島義道の今月の新刊「孤独な少年の部屋」によせて春日武彦が書いたエッセイ(「普通であること」への憧憬)に興味をそそられる。「この本はぜひ買わなくては」と思いながら、次に中島義道の新連載小説「ウィーン家族」を読んでガックリきて気が変わる。やっぱり中島さんが少年時代を振り返ったエッセイなんて読んだらエネルギーが枯渇しそうなので遠慮しておこう。「ウィーン家族」は夫婦の確執を描いたものだ。

 中村ウサギ・倉田真由美「うさたまの妖怪オンナ科図鑑」が抱腹絶倒。だけどいつも笑った後で「これ私も入ってる?」と考えこんでしまうのが悲しいところだ。倉田さんは妖怪化した女を物影から見て皮肉っぽく笑ってる感じがするが、中村さんは「あー、身につまされるー!」と同情しながら書いてる感じ。
 私は、私という人間の「規格外」な部分こそを彼氏に理解して欲しかったのだが、若い男というものは「規格外」を拒絶するのである。彼らは、自分の概念から逸脱した女が絶対にダメだ。いや、若い男に限らず、男ってもんはそもそも、そんなものなのかもしれない。(中略)たとえ女の個性に寛容な男でも、「理解はすれどチンコは勃たず」ってなスタンスが多かったりもするのだ。

そう、「規格外の女」を見る時の男の目は、まるで妖怪でも見ているような不安と恐怖に彩られている。女たちは割りかし「規格外の男」を面白がるが、男は面白がる余裕すらなく、暗闇で化け物に会った時のような「げぇっ」という反応をするのだ。

ほうほう、わかります。ところで、朝日新聞の「男と女」という気色の悪い連載はなんとかならないもんかと思う。やっと終わってくれたかと安心していたら延々とつづくのだ。目に入る度にどっと老けこむ。(うわ、かんべんしてくれ~)。「愛の流刑地」以来のダメージングな攻撃で、もう朝日をやめて毎日にしようかと思うほどだ。
 
 パウロ・コエーリョ「七つの美徳」は今月で最終回。テーマは「節制」冒頭に例の新約聖書からの引用があった。「あなたは冷たくもなければ熱くもない。どちらか一方であったらよかったのに!」
おお、またシンクロニシティか。(ちがう!)このフレーズはよほど有名であるらしい。上に「愛」などという言葉があるとなんとなく色っぽく感じてしまうなあ。

つづく

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2008-02-27 13:58:55 | テレビ番組
 NHK「知るを楽しむ」「悲劇のロシア」
ついにカラマーゾフですよ。新訳の「カラマーゾフの兄弟」は50万部も売れているとテレビで言っていた。私も1巻を買って読んだが、すらすらと読めて嘘みたいだ。「キツネつき」などという言葉には少しぎょっとしたけど、ロシアでは「悪魔つき」とやらが普通にいるらしいからきっとそのことだと思う。2巻目を買おうとしたところ、どこに行っても品切れになっていて信じられないことだ。こんな暗い小説(しかも古典)を皆読むのか?番組では2ちゃんねるらしき掲示板が一瞬だけど出てきて、「現代的なテーマ」だとか「神の不在」だとか、まともにディスカッションされている様子だったのでびっくりだ。何がそんなに受けるのかと思ったが、一昨日の講義でやっとはっきりした。

 ドストエフスキーは時事ネタ大好きな人だったらしくて、「罪と罰」にしても「悪霊」にしても、実際に起きた事件が小説の着想となっているのだが「カラマーゾフの兄弟」も1866年におきた「カラコーゾフ事件」という最初の皇帝暗殺未遂事件が影響しているという。(このあたりが参考になる)この時代はテロが頻発し、ロシアが歴史的な大転換をしようとしていた時期であった。ドストエフスキーはこの激動の時代を小説に織り込もうとしていたのだ。私は知らなかった(または忘れていた)のだが、この小説は実は未完であって、第一部がこの「父殺しをめぐるミステリー」。続きの第二部がおそらく、「皇帝暗殺をめぐる物語」だったのだろうと亀山氏は言う。この小説はカラコーゾフをモデルにした暗殺者の生涯を描こうとしたものだ。

 「父殺し」の真犯人はスメルジャゴフだ。しかし、「殺してやる」と公言していたドミートリーはもとより、「神がいなければすべては許されるのだ」と無神論をスメルジャコフに吹き込んだイワンも、果たして無罪と言えるか。無意識に父の死を望みスメルジャコフをそそのかしたイワンにも罪はあるのではないか。そして、清純で信仰心の篤いアリョーシャすらも、イワンとの対話から、実は決して聖人ではないということを露呈してしまう。彼らはみな父殺しにかかわっていると言えるのだ。

 「ドストエフスキーが小説の中で描いた人間はすべて壊れかけている。そして、このグローバリゼーションの現代において、我々の脳もまた圧倒的な情報量の前で壊れかけている。今、ドストエフスキーが読まれるのはそのような壊れかけた私たちの心に訴えかけるからだ」と亀山氏は最後におっしゃった。そうか、たいへんよくわかる。と同時にちょっと思いだしたことがあったので、どうでもいいことだけど書いておこう。

「知るを楽しむ」のテキストでところどこ引っかかる言葉(「神か悪魔か」とか「進化する」とか)があって、気になっていたのだが、番組で「壊れている」とおっしゃったので思い出した。かつて雑誌「群像」2006年4月号に掲載された「暴力的な現在」(井口時男)という評論の中に「もののあはれ」の壊れ、またはロボットのリアリズムという章があった。ここで著者は、現代の少年犯罪が私たちをおびやかすのは、彼らに人間的な感情が欠如しているように見えるからだと言っている。
 彼らにはもう、憎悪や怨恨といった熱い情念もなければ、欲望も快楽もない(ようにみえる)。感情が死んでいて、ただ冷めた好奇心しかない(ようにみえる)。彼らはあたかも、見知らぬ生き物に対するように人間に対している(ようにみえる)。

市民社会を脅かすのは、少年犯罪の量ではなく突出したいくつかの質である。そこでは「もののあはれ」が壊れている。

 島田雅彦氏は朝日新聞2006年3月、最後の文芸時評でこの評論に言及して「もののあはれが壊れている」と書いていた。偶然であるけども 島田雅彦の小説に「君が壊れてしまう前に」というのがある。上記の写真で猫の背中のところに寝かしてあるクリーム色の本だ。(5、6年前の写真だからパソコンが古い)2年前私は文芸時評を読んだとき、「だって壊れでもしなきゃ生きていけないじゃないの」と思った記憶がある。なんせ新聞だって壊れてるような時代なんだから。
 もはや私たちはみな壊れているのかもしれない。生き延びるためには壊れざるを得ないのではないかと私は思う。だって、信じられないような事件が次から次へと起こるのですよ。情報を遮断し、感情を殺さなくては生きられません。で、さっき、島田雅彦氏の公式サイトをちらっと見たら、「あなただって壊れているじゃないか」と思った。これ、まともなサイトか?

 そのようなことを思い出して探してみたら、昨年の8月に行われた亀山郁夫氏と島田雅彦氏のトークセッションの広告記事が出てきた。(2007年9月14日朝日新聞 21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフの兄弟』)おお、そのまんまじゃないか。「今、なぜ『カラマーゾフの兄弟』なのか」という問いに対して亀山氏はこう答えている。
 『カラマーゾフの兄弟』は運命に翻弄される芥子粒のような存在と、罪を犯す人間の巨大な精神世界の広がり、この対比を描いています。ここに、今を生きる我々、現代のグローバリゼーションと何か通底しているものを感じるのです。二つのアンバランスさ、世界の対立といったものが、19世紀後半のロシアの小説が生まれる二重性と非常に似ているんですね。そしてもう一つが金の問題です。グローバリゼーションの時代に特有の金銭感覚がドストエフスキーにはある。

それから「『カラマーゾフの兄弟』のどこがすごいのか」。第2巻に「ございます」大尉のスネギリョフ一家というのが出てきます。私は、この一家の物語がドストエフスキーの神髄だと考えるようになりました。それはひとことで「狂っている」ということです。とりわけ、このスネギリョフの奥様の(狂い方)が異常で、これを描けるドストエフスキーはすごい。先ほど、わからないところは砕いて翻訳したと言いましたが、この奥様のセリフだけは最後までわからなかった。内心、忸怩たるものがあります。しかし、ドストエフスキーの描く狂気をきちんと読み込んでいけば、現代の、どこか歯車がおかしくなってしまった人間の心のメカニズムをしっかりと捉えられるんじゃないかと思います。

うーん、「神がかり」とか「キツネ憑き」とか出てくるのにまだうわ手がいるというのか。私はすっかり記憶にないのだけど、また読みたいような、読みたくないような・・・・。

 最後の問いは、「ドストエフスキーのテーマとは何か」。「ヒュブリス(傲慢)」という言葉がありますが、「傲慢さを避けよ」というのがドストエフスキー作品のすべてのメッセージだと考えています。「傲慢」という言葉のもつ広がりは大変なもので、人間の悲劇はここから来ているというのがドストエフスキーの信念なんですね。

なるほど、今そのようにまとめて読むとわかりやすい。で、島田雅彦氏は書かれなかった第二部について推測している。
島田 修道院を出て俗界へ戻ったアリョーシャは、イエス・キリストと同じ方向へ進むのではないか、そしてキリストがテロリストになるというのは小説としては大変面白いのですが、若者を使って皇帝暗殺をやらせるとしたら、それはアリョーシャではなくイワンでしょうね。
 アリョーシャは鞭身派が逃げたシベリアへ行き、デルス・ウザーラのような極東の先住民族・少数民族の文化と融合したキリスト教を確立していく、なんていうのはいかがでしょう?アリョーシャはピュアで敬虔でありながらファナティックな面も持っていて、キリスト教より古い自然の神、大地の恵みのような文化に引かれる気がします。
亀山 それはありえます。おもしろい。アリョーシャにはヒステリーがあって、これが急激な信仰の転向に向かわせるということはありえます。
島田 それでアリョーシャの最後は決して崇高なものではなく、氷の裂け目にはまって死ぬとか、狂った女に刺し殺されて死ぬとかいったナンセンスなものがいい。キリストの死を利用した弟子たちに広められたキリスト教ではなく、イエスそのものへ回帰する原始キリスト教でありたいので。それに「なんでこんなところで死ぬの、そんなのありかよ~」と足元をすくわれるような徒労感に見舞われるのも、ドストエフスキーの小説の魅力の一つでしょうから。

 「狂った女に刺し殺される」とは物騒な。最近新聞に連載中の「徒然王子」でもなんかそんなような言葉がありましたな。
 たとえ結界で護られていても、都市はとても不安定で、ささいなきっかけでその微妙なバランスは崩れてしまう。一人の女のヒステリー、指導者の勘違い、ささやかな悪意、嫉妬、それだけでも都市の秩序と繁栄は崩れてしまう。都市の繁栄はそこに住む人の力で築き、護らなければならない。秩序の薄い膜をめくれば、そこには混沌がある。

「結界」かよ~。そーいうマジカルなのは「宿神」で堪能したからもういいです。なんで結界が女のヒステリーくらいで決壊するのかがわからないが、この方向から行くと、王子は「地の果て」に行って夢の中でだれかと交わって太古の神に導かれ、生命力を取り戻す・・・という展開かなあ。その前にヒステリックな女が出てきて「あなたの子どもが産みたいわ」とか言って結婚を迫るのかもしれない。(これはどの小説だったっけ)。島田雅彦氏はよほどそのような女の怖さが身に沁みているに違いない。
 とまたおちょくってしまったー!


 私が記憶しているのはゾシマ長老がなくなったとき、「腐臭」がしたというので皆が驚き、アリョーシャが信仰に揺らぎを感じたという部分だ。「死んだら腐敗するのは当然じゃないか!別に恥でもなんでもない」と私は逆に驚いたのだが、ゾシマ師は高徳の僧であったから、そのような人の死に際しては「芳香がして花びらが降る」とまでは言わないが、なんらかの奇跡のようなものが起きるのではないかと皆密かに期待したというのだ。この部分に関して、大学時代に聖書研究会で確かパウロの手紙か何かを読んでる時に先生がしみじみとおっしゃったことがある。「神の力の現れとして奇蹟を期待することは間違っているのよ。私にもそのようなものが起きて欲しいと思う気持ちはどこかにあるのだけれど、では奇跡が起きなければ神は存在しないかといえば決してそうではない。聖書には奇蹟の物語がたくさん載っているけど、それらは寓話として読むべきで、それが事実として起きたと解釈するべきではない。私はいつもオカルト的な方向に迷いそうになる度にこの『カラマーゾフの兄弟』を思い出すのよ。」
 どうも、ロシア正教には独特の考え方があるみたいで、私はアリョーシャがこんな無邪気な人たちばかりいる修道院から出て俗世に生きることの困難さを思って同情したものだ。

ドストエフスキー「悪霊」

2008-02-26 15:45:02 | テレビ番組
 買ってきた本の感想を書こうと思いながらなかなか読み切れないでいる。

 先週の「知るを楽しむ」悲劇のロシア第3回「神のまなざし」を奪う者を見ていて、「なぜ今ドストエフスキーなのか」、「ドストエフスキーの小説から私たちは何を読み取るべきか」ということについての亀山郁夫氏の考えがますますはっきりとわかったように思った。

 「悪霊」には、この小説が発表された当時、未発表であった一節があった。不道徳で反キリスト教的であると雑誌への掲載を拒否され、その後行方知れずになって50年後にやっと発見されたのだが、実はこの部分が最も重要な部分なのであるという。主人公スタヴローギンの「告白」を収めた章だ。ここでスタヴローギンは自分が今までに犯した5つの罪を告白しているのだが、その中に一つ重大な罪があった。アパートのおかみの娘を凌辱し、彼女の自殺を唯一止めることができる立場にいたにもかかわらず、黙って見届けたというのだ。(詳細は本を読んでくれ)「知る楽」テキストからの引用。
 主題は、徹底した「無関心」である。少女の死を予感しながら動くことなく、悲壮な覚悟とともに死に向かおうとする少女の内面にも同化せず、あたかも「神」であるかのごとき高みに立って、少女の死体をあるがままに、無関心に眺める。それは、他者の生命、他者の痛みに無関心ということの究極の姿である。「告白」のなかで彼は、さも勝ち誇ったかのように書いている。
「ついに、私は必要だったものを見きわめた・・・・・完全に確認したかったすべてのものを」
 スタブローギンが「必要だったもの」とは、何か。それは、もしかすると神ではなく、死の「全能性」を明らかにする最終的な「徴」ではなかったろうか。あるいは、もろもろの「復活」を葬り去る神の死という事態ではなかったろうか。またしても立ち現れるホルバイン・モチーフ――。スタヴローギンの目にとって、マトリョーシャの死こそは、神の不在の証(「神さまを殺してしまった」)だった。なぜなら、神はマトリョーシャに関心をもたず、彼女を救いだそうとしなかったし、そのとき、彼女を救いえたのはひとりスタブローギン自身だけだが、その彼も神の無関心をまねて、いっさい行動を起こすことはなかったからだ。

 この「無関心」ということを小説中で引用された「ヨハネの黙示録」の一節がこう表わしている。

 
 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(ヨハネ黙示録3・16)
 
 「なまぬるい」とは、神でもあり悪魔でもあり、みずからは何もせず、他者に無関心なスタヴローギンという人間の、いちばん本質を突いた定義なのである。

ふーん、私がこの引用文から思い出したのは、ペルーの元大統領、アルベルト・フジモリ氏が初めて里帰りした際に「ふるさとは温かくはなかったが、冷たくもなかった」と言った言葉だ。私はそのニュースを聞いた時に、「要するに無関心ってことじゃん」と思った記憶がある。私らにとって、ペルーという国は地球の裏側の国で、遠すぎて、熱狂的に大統領を歓迎するってところまではいかなかったわけだ。しかし、この他者に対する無関心という態度が、高度に情報化された社会の中で蔓延し、私たちの魂を蝕んでいると亀山氏は言う。アフリカでも、ラテンアメリカでも中東でもいいが、悲惨なニュースを見聞きしたとき、私たちは神の視点にたってこれらを俯瞰し「自分に関係ない」からとすぐに忘れようとする。少女が縊死するのを黙って見過ごし、それを物置小屋の板の隙間から覗き見るスタブローギンとなんら変わりはない。

「罪と罰」におけるラスコーリニコフは「神の立場に立とうとした」わけだが、まだそこには「神のまなざし」は出てこない。この「悪霊」においてはスタヴローギンにしても、革命家ピョートルにしても、この他者の痛みに対して無関心であるという点で数段「進化」している。(らしい)
 ドストエフスキーは「ネチャーエフ事件」と呼ばれた内ゲバ事件に怒りをおぼえてこの「悪霊」を執筆したのだという。革命という大義名分のためならば仲間を殺しても許されると考えた者たちの不敵さ、傲慢さに対する怒りがここに書かれている。この「悪霊」は、「浅間山荘事件」を引き起こした連合赤軍の学生が言及したことでも有名になったらしいのだが、私はそれを聞いて昔のことを思い出した。
 
 大学時代、宗教学の先生がおっしゃった。「目的のためならばどんな手段も許されるのか。」先生自身の学生時代は、大学紛争が終息しつつある時代で、内ゲバ事件も頻発していた。学内のある内ゲバ事件をきっかけに、神学部の学生たちで議論したのだそうだ。「高邁な目的のためならばこのような暴力行為は正当化されるのか」何度も議論したが、結果は「否」であったそうだ。「どんな目的のためであっても、人を殺したり傷つけたりすることは許されない。たとえどんなに迂遠であっても暴力によらない働きかけによって社会を変えていかなくてはならないし、また暴力によらず社会を変えていくことができる手段の残された社会にしていかなくてはならない」という結論に達したのだそうだ。「暴力は知らず知らずのうちに精神を荒廃させ、どんな高邁な目的をも変質させてしまう」というのだ。
 私はそれを聞いた時、何をおっしゃっているのかわからなかったのだが、今ウィキペディアで調べていて、レーニンがネチャーエフに心酔し、「悪霊」をけなしていたという情報が書かれていたのでなるほどと思った。内ゲバによって「粛清」を繰り返していった革命の結末がどれだけ悲惨な社会を築いたか歴史が証明しているではないか。

 しかし、私らの心の中にもスタヴローギンがいることは間違いない。スタヴローギンは「神の無関心」と「悪の蔓延」を確信し、自らそれを証明するために自殺するのだ。ああ、なんて陰々滅々たる小説だろう。

映画「エリザベス ゴールデンエイジ」

2008-02-22 22:21:07 | 映画
 「エリザベス ゴールデンエイジ」を観てきた。ケイト・ブランシェットがたいへん美しく、また凛々しく、目の保養になった。
 映画を観ている最中にふと、なぜこの映画が作られたのかということを考えた。私は前作の「エリザベス」は観ていない。だけども、前作が好評だったから続編を作ったというだけではなく、何かの必然性があっての作られたように思うのだ。もちろん、イギリス人が歴史好きだってことはあるだろうけど。

 映画を観ながらつくづく「宗教ってこわい」と思った。あの狂信的なフェリペ2世の顔が怖い。スペイン無敵艦隊の帆船に高々と掲げられた旗が怖い。十字架のキリスト像が描かれた旗だ。宗教裁判でどれだけ多くの人たちが拷問を受け、凄惨な死に方をしたかを思い出して身震いが出た。だけど、ここには描かれていないけど、エリザベスだって一時は国内のカトリック教徒を弾圧したこともあるし、当時カトリックとプロテスタントは国を二分して血で血を洗うような争いを度々起こしていたのだ。
 
 ああ、そういうことか。きっとこの映画は宗教対立からくる戦争にどう対処するかということを、歴史を振り返ることによって改めて私たちに問うているのだ。だからこれは、必ずしも史実に忠実に作られているわけではいないし、わかりやすいように脚色してある。先日来、ドストエフスキーや「アメリカン・ギャングスター」で考えたのと同様に、やはりこの映画も現代的な視点から歴史を切り取ってみるということをやっているのだと思った。

 公式サイトの PRODUCTION NOTES にそのようなことが書いてあるじゃないか。リンクが貼れないので引用。

 この映画は、原理主義的な考えに対する寛容という、現代にも響き合うテーマを扱っているが、シェカール・カブール監督はこう信じている。「歴史を掘り下げることは、結局、私たち自身の現代の物語を掘り下げることになる。今という時代にまったく関係のない映画を、どうして作る必要がある?」


 そう考えると、「全世界をカトリック信仰で覆い尽くし、カトリックの栄光のもとへ回帰させることを誓う」フェリペ2世って、現代では誰ってことになるのだろう。イスラム原理主義指導者か?それとも、キリスト教原理主義者たちの支持を受けて、世界にアメリカ式民主主義を導入するためにイスラム圏の国々を空爆するブッシュ大統領か?まあ、どちらでもよいのだ。イギリスは過去どのように対処してきたか、この映画ではそこを強調する。エリザベスは言う「罪を犯したものは処罰するが、犯さぬものは保護する。行為では罰するが、信念では罰しない」と。すごい。思想信条の自由という基本的人権の概念をこの時代に主張している。「スペインに征服されれば凄惨な宗教裁判が始まるわ。スペインとの戦いは、宗教と信念の自由を勝ち取るための戦いです。」とはっきりと言い切る。
 
 メアリーの処刑について思い悩むシーンでも王の権力と国の法律との葛藤という問題が出てくる。エリザベスは従姉である女王メアリーの処刑に逡巡し、命令書になかなか署名しようとしない。自分の母親が処刑された時のことを考えるととてもできないと言うのだ。そうだった、イギリス王室ってのも血みどろの胸の悪くなるような歴史を持っているのだったな。(ここで、父王ヘンリー8世と母アン・ブーリンについて調べていてそのドロドロの人間模様に辟易する。)
 じいや的存在である側近のウォルシンガム卿は「法の定めるところによって処刑をしなくてはならない」と強硬に主張するのだが、エリザベスは「法は庶民を縛るものでしょ。国王は法を超越しているのではないの?」と言う。ウォルシンガム卿は「法は庶民を守るためにあるのです」と答え、エリザベスは苦悩しつながらもしぶしぶ署名する。これ、「王といえども法を超越することはできない」ということを言っているのだ。すごいと思わない?これが、史実かどうかは知らないけど、少なくともイギリス人のコンセンサスとしてこのような考え方があるのだ。宮台真司が「権力と権威は分離しなくてはならない」と書いていたけど、この映画って、権力が宗教的権威を身に纏うとおそろしいことになるっていうのをそのまんま教えてくれているじゃないか。

 宗教原理主義者フェリペ2世がローマ法王の権威を笠に着て凄惨な宗教弾圧と他国の侵略を行ったのに対してエリザベスは、国を分裂させることを避けるために宗教的寛容と法による統治をおこなったのだということをこの映画は言っている。そして、まるで神風が吹いたかのようにスペイン艦隊は全滅し、この後イギリスは穏やかで平和な繁栄の時代=ゴールデン・エイジを築くことになるのだ。実に感動的な物語だ。もちろん厳密にはそれほど単純な話ではないだろうが、このような歴史的な建前を大切にするということも、まあ必要なことなのだろうなあと最近思う。

<おまけのネタバレ> わかりにくかったのは、エリザベスを暗殺しようとした拳銃の弾が空砲であったというところだが、ウォルシンガム卿が後にこれを「罠だった」と言う。メアリー女王の密書がすべてエリザベス側に渡っていたのも実はスペインの工作員がわざと見つかりやすくしていたのらしい。なぜって、スペインは表面上はカトリックのメアリーをイングランドの女王に即位させようと画策しているように見せかけていたが、実はわざとメアリーを処刑させ、イングランドの分裂を誘発して自分が乗っ取ろうとしていたのだった。フェリペ2世の娘イサべラをイングランドの女王に即位させるため。だったらやはりメアリーの処刑って間違っていたことになるのだろうな。なんとか和解の方法はなかったのか。スコットランドやアイルランドの人たちの、イングランドに対する恨みってこの頃からずっと、現代に至るまで尾を引いていて、宗教対立や民族対立が根の深いものであることを思い起こさせる。


今朝のスパモニから

2008-02-21 12:05:38 | テレビ番組
 今朝テレビで、出雲市に建設が予定されている歌舞伎の上演施設「出雲歌舞伎阿国座」について市民が計画見直し要求の署名活動をしている(毎日新聞ニュース)ということが報じられていた。まったく唖然とするような建設計画だ。
 この施設、最初から年間の赤字が2000万と算定されていて、その赤字は市が補てんするというのだ。この施設によって観光収益が一億円以上増加するから「問題はない」と市長は言っているとか。客席800で、年間10回の歌舞伎公演を行う予定だって。たまーに出雲市に行くこともあるが、冬は天候が悪いし交通の便もよくない。まあ、こっちからは行かないだろうな。こんな計画(2ちゃんねるより)、予定通りにいくわけないだろーが!

 そもそも、出雲市には他に歌舞伎公演ができる大きな施設がある。23億かけて建てた市民会館(年間赤字900万)、38億円かけたビッグハート出雲(赤字900万)、42億円かけた文化プレイス(赤字950万)。いくら補助金が出るからってどんどん建ててたら、赤字が累積して行っていずれは二束三文で売られる運命だ。そもそも出雲市というのは標準財政規模が350億円という小さな自治体だ。それが、現在の地方債の総額が2100億円というから借金で首がまわらない状態だ。それなのに、まだ箱ものを造り続けようとしているというのが信じられない。市民の9割は建設に反対だそうだ。でも造るというのだ。よっぽど誰かの得になるのだろう。もう市長のリコールでもなんでもしてやめさせなくてはどうしょうもない。財政が厳しいからって公共サービスは削られるし、ゴミは有料化されるし、市民の懐には厳しい状況があるのに、この上借金を増やしていくのかと非難があるらしい。あたりまえだと思う。しかも、このばかげた施設建設のために、道路特定財源が使われるっていうのだ。私らにも無関係とは言えない。

 「阿国座」建設の費用42億円の内訳は、一般財源から3、5%(1億6千万円)合併特例債75、4%(31億円)まちづくり交付金20.5%(8億6千万円)で、この「まちづくり交付金」に道路特定財源が使われているのだそうだ。普通、道路特定財源というのは道路建設に使われるのだが、このように、周辺道路の整備という名目で支出されることもある。しかも、合併特例債とは平成の大合併の際のアメでこれは国が借金を返してくれるっていうことらしいのだ。
 って、それ、私らの税金から出るんじゃない?

 もう、最初から採算が取れないような建物ばっかり作るな!
 市長は財政破綻したときには責任を取るのか?間違えましたごめんなさいで済むと思うなよ!
 島根県にはときどき行くこともあるが、なんだか、しょっちゅう道路や施設を作ったりばかりしてるような気がする。竹下登元総理のおひざ元ですからね。箱もの政治から発想の転換ができないのでしょう。現在の島根第二区選出衆議院議員は竹下亘(自民党)です。

 ふるさと創生事業で平成3年に建てられた「仁摩サンドミュージアム」巨大砂時計と動く砂のオブジェがあります。いや、それだけなんで2度とは見に行きませんでしたな。きっとこれなんかも、いずれは閉鎖の憂き目に遭うのだろうなあ。

 やっぱり政権が変わらなきゃいけないとつくづく思う。

シンクロニシティ その4

2008-02-20 23:54:17 | 日記
 えーと、「シンクロニシティ」というタイトルで文章を書こうかどうしようかと迷っていたのだが、今朝の朝日新聞文化面にポリス再結成ツアー東京公演の記事が載っていて、おお、これぞまさにシンクロニシティと思ったので、つまんないことだけどやっぱり書いておこうと思った(「再び照らし出す『共時性』」 音楽評論家 岡村詩野)。まったく、朝日新聞とはよほど縁が深いのだろう。たぶんどこか別の次元で電波が繋がっているのだと思う。
 私はロックにもポリスにもスティングにも関心はないのだが、彼らの代表的なアルバム「シンクロニシティ」はユング心理学の影響を受けて書かれたらしい。(You Tube より Synchronicity I and II)音楽的にはともかく、歌詞がわかりにくいし怖い。ここらへんのブログが参考になった。

 そんなことはどうでもいいのだ。私がシンクロニシティというのは「犬の散歩 3」の神様の夢の件についてだ。この日記を書いたその次の日、何気なく立ち寄ったブックオフで梨木香歩「丹生都比売(におつひめ)」(原生林)を買って読んでいてびっくりした。主人公、草壁皇子は何だかこの世ならぬものを感知する能力があるようで、ときどき古い装束の匂いを感じる。
 少しかび臭く、歳月を経て、染料が発酵を始めたようなにおいでした。

 それは後に、丹生都比売という神の衣の匂いであったということがわかる。

 ほほー、やっぱり神様はかび臭いのか。いやいや、偶然の一致だって!
 それにしても、この小説では草壁皇子の父、大海人皇子(後の天武天皇)一家が吉野山に蟄居していた頃のことを描いているのだけども、母である鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の母方の祖父、蘇我倉山田石川麻呂はかつて謀反の疑いをかけられて一族郎党皆殺しにされたのであるし、大海人皇子も実は皇位継承争いで今にも攻め滅ぼされそうになっているところであるし、この後には母方の従兄である大津皇子も殺されることになっている。文章の格調の高さ、繊細さとは裏腹に書かれている事実は底知れないおそろしさを感じさせる。(この小説ではさらに鸕野讃良皇女が自分の弟も姉も水銀で毒殺し、草壁皇子さえ殺したことを暗示する)そうだったそうだった。天皇家は血みどろの歴史を持っているのだ。
 強すぎる母っていえばやっぱりユング的だなあと、このことについてひとくさり書こうかと思ったけど自制しておこう。

 も一つ偶然の一致だったのはNHK「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」。
先日、ドストエフスキーの時にこのサイトを眺めていて、「白川 静って人は松岡正剛氏に似ていたのか。いやいや、人がみんな自分の知ってる人に見えるってのは老化現象の一種」と愚かにも思って、よくよく見たら解説者が松岡正剛氏であったのだった。

 白川静は「字統」「字訓」「字通」の「字書三部作」で有名な漢字研究者だ。白川氏の研究のユニークさは、漢字の成立を古代中国の人々の感情や世界観から解き明かそうとしたところにある。たとえば「口」という文字、これは人間の口のことではなく、「サイ」といって箱をあらわしている。祝詞や呪文のような大事な言葉(言霊)を入れておく箱のような容器のことだ。「言」は命がけの神との約束であって、文字は神とのコミュニケーションツールであったというのだ。漢字の成立過程のいたるところに、この神と人とのコミュニケーションの姿を見てとり、言葉と文字は古代社会の祭祀と記録の必要性から生まれたのであって、その背景には絶対権力を持つ王の誕生があったのだと言っている。たいへんスリリングなお話であったが、まあそんなことはどうでもよいのです。第二回「白川静という奇蹟」の再放送を昨日(2月19日)の早朝見ていたら、白川氏の著書が紹介されていた。
「孔子伝」 (中公文庫BIBLIO)「初期万葉論」 (中公文庫BIBLIO)
 孔子は実は下級の巫女であった母親から生まれた呪術師なのではないか、また、儒者とは雨乞いをするものたちのことだったのではないか、そして「万葉集」は古代社会の祭祀や秘密にかかわる呪歌であって、柿本人麻呂は「魂鎮め」の儀式を行う葬儀集団だったのではないかというのだ。
 (ここんとこちょっと訂正2月26日: 孔子は下級の巫女であった母親から生まれた私生児であり、その孔子が率いていた儒者とは雨乞いや葬儀をつかさどる下層の葬儀集団であったのではないか。そしておなじように、柿本人麻呂は「遊部」と呼ばれた葬儀集団のリーダーであったのではないかと推測されている。これら白川氏の推理は、発表された当時は非難されたが、最近では有力な仮説の一つとされているそうだ。)
うーん、おそろしい。しかし、古代社会においては「雨乞い」と「葬儀」は最も重要な儀式であっただろうから説得力がある。そして私たちは古代人たちが決して牧歌的な生活をしていたわけではなく、どれだけ無力で短命で、素朴で敬虔でかつ残酷であったかということに想像力を働かせなくてはならないと思う。

 やっぱ、あのおじいさんが雨乞いに関係していたのはあたりまえのことだったのだなあ。って、それも偶然の一致だって。
 いやいや、確かこういうのは「シンクロニシティ」ではなくて「セレンディピティ」とか言うのだったかな。

犬の散歩 6

2008-02-19 13:30:53 | 日記
 私は地面に開いた穴になぜか引きつけられる。子供の頃は蝉の穴やモグラの穴を掘り返したり、水を入れてみたり、何時間も庭で遊んでいたものだ。
 だから、公園のフジ棚の下にぽこぽこといくつも穴が開いていると気になってつい足を止めてしまう。蝉の抜けた穴が広がったのか、それとも蛇の穴か。自分で指を突っ込んでみるには年をとり過ぎて慎重になっているので、犬の前足を捕まえては「手、入れてみ」と穴に突っ込んでみる。犬は「キャン!」と鳴いてびっくり箱の仕掛けのように飛び上る。意気地のない奴だ。それ以来犬は穴を見ただけでさっと跳び退くようになった。そんなに嫌なのか?

 その時も、「手、入れてみ」「キャン!」「わはははは」というやり取りを楽しんでいたのだったが、ふと視線を感じて顔を上げると、ブランコのところに高校生の男女が座ってこっちを見ていた。私は赤面した。今までの犬との会話を聞かれていたのか、きっとアホに見えたことだろう。しかし、そのとき男の子の顔がこわばって青ざめているのに気付いてちょっと首を傾げた。「えーっと、あの顔つきは・・・・」どういう意味だろうか。何かに記憶を刺激されて思い出そうとした。彼らの制服は隣町の進学校のものだ。まるでテレビドラマにでも出てきそうな美男美女のカップルだ。そうか、あの顔は極度に緊張した時の顔だよ。
 何を緊張しているのか確認しようとしたとたん、彼らがキスをしているのが目に入った。うわー!何をしているのだ。

 それは「接吻」という言葉を思い浮かべてしまうような緊張感のある長々としたキスだった。シュールだ。こんなところで・・・・。私はあわてて立ち去ろうとした。とても見ていられない。ところが・・・

 犬がそわそわし始めた。まずい。この態勢はウンチだ。この犬はいつもフジ棚の下でウンチを催すのだ。かんべんしてくれ・・・・。
 しかし、犬は急がない。しゃがみこんでは場所を変え、またしゃがみこんでは場所を変え、とうとう接吻中のカップルのちょうど真正面のフジ棚の下に位置を決め、「ウッ、ウッ」と言いながら長々とウンチをし始めた。あー、いたたまれない。

 ウンチを拾って帰りながら私は、ファーストキスの目の前で犬がウンチしていたらさぞかし嫌な思い出になるだろうと人ごとながら心配した。きっと彼らは別れてしまうに違いない。そして後々「あのしけた公園のブランコで、犬がウンチしているまん前でファーストキスをした」という記憶を持ち続けてみじめになるのだ。かわいそうに。

 しかし、またこうも思った。これからの人生にはまだまだ嫌なことがあるよ。犬がウンチしていたぐらいなんだ!世の中にはねえ、もっともっと悲惨な体験をしている人がいるんだからそんなん屁でもないって。恋愛だってトレンディードラマみたいにはいかないんだから。とりあえず、公園で接吻するのはやめようよ。

 彼らはその後二度と公園に現れなかった。

犬の散歩 5

2008-02-18 23:12:55 | 日記
 ある夜、神社の方からなんだか騒がしい声が聞こえてきた。このところ夜になると、暴走族が爆音を響かせたりたむろしていることがちょくちょくあった。最近は慣れてあまり気にしないでいたが、次の日の夕方公園を通り抜けた時にはびっくりした。一面に花火の燃えカスが散らばっていたからだ。たばこの吸い殻や缶ビールの空き缶も散乱していて、何があったのかと心配になるほどだ。

 「またか」と私はガックリした。とりあえずゴミ拾いをして帰ったが、うっかりとたばこの吸い殻を残してしまった。すると、てきめん。次の日に吸い殻が増加していた。ゴミは仲間を呼ぶのだ。ムカッ!「吸い殻もイカンのだよキミたち」私は犬ほったらかしで吸い殻拾いをした。もはや散歩だかなんだかわからない。

 ところが集会の痕跡はさらにエスカレートしていく。なんと公園のど真ん中でたき火をしするようになった。ライター燃料の缶、ビール缶、吸い殻、焦げた木切れ。キャンプファイアーでもしたのか?男ってたき火が好きだなあ。楽しそうだなあ。いや、楽しいだろうなあ。だけどこんなところでしてはイカンのです。私は丹念にゴミを拾い、黒くなった地面を靴でごしごしこすって完全にたき火の跡を消して帰った。
 しかし、次の週にも小規模なたき火跡が見つかる。遠慮しながらやったようで吸い殻はなかったし水をかけて消した形跡も残っていた。そうまでしてたき火をしたいか?ダメったらダメなんだよ。

 これはもう、直談判しなきゃいけないなあと思った。だが一人では逆襲されるかもしれない。駐在さんに頼んで一緒に行ってもらおうと思いながら、ふと、私には注意する権利があるのかと考えた。私はただの通りすがりだ。氏子でもない。そこを突かれる可能性もある。ここを管理している氏子会に連絡してみようかなどといろいろ考えながら帰ったが、次の日に行ってみてびっくりした。公園に「火気厳禁」と書いたバカでかい看板が立っている。なんと!電光石火の早業だ。

 でも、なんだかヤだなあと思った。こんな看板を建てるより、直に注意した方が手っ取り早いじゃないか。私は看板が大嫌いだ。第一お金がかかる。看板を立てようなんて相談するより、みんなで揃って夜、見回りに行く方が早いと思うんだけどなあ。そんなに凶暴な奴らか?どうもそうは思えないのだ。子どもみたいにキャンプファイヤーをしたり花火をしたりしているんだ。看板なんて一旦立てればずっとあるじゃないか。目ざわりだ。

 それ以降、たき火も吸い殻もぱたりとなくなったので私は楽だったが、どうも釈然としない気持ちが続いていた。秋も深まったある日、エンジンを過剰にふかす音がすると思いながら公園に降りて行くと、バイクに乗った兄ちゃんたちが、5、6人たむろしていた。「あのたき火の子らか」と私は身構えたが、犬はまったくお構いない。喜んで突進していった。うわー、やめてくれー、因縁つけられるー、と内心焦りながら群れのど真ん中に引っ張られていくと、一人の兄ちゃんが「こんにちは」とにこやかに声をかけてきた。意外と愛想がよい。「あ、こんにちは」と言うと、兄ちゃんたちは「チッチッチッ」と言いながら犬の頭を撫でてくれた。気のいい奴らだ。ほれ、別に凶暴でもなんでもない。それから2、3度彼らを見かけたが、あちらから挨拶してくれるし、バイクがうるさい以外は問題なかった。やっぱり看板は不要だったと思うな。

犬の散歩 4

2008-02-17 22:15:17 | 日記
 神社上の広場を下りると下には公園があって、ちょっとした遊具もある。子どもたちが時々遊んでいる。私が犬の散歩でそこを通り抜けるのは薄暗くなりかけている頃なので子どもの姿は見えない。そのあたりでしばらくウロウロするのだが、春あたりからブランコのそばにゴミが散乱しているのが目立つようになった。

 この公園は昔はただの空き地で、遊具もみんな壊れていたのを、氏子会や老人会が定期的に清掃整地し、昔壊れていた遊具もだんだんに修理されて公園らしくなってきたところだった。少しゴミが散乱しているだけで荒涼とした感じがするので、私は通り抜ける際に拾って帰ることにした。毎日拾った。ところがゴミはなくならない。それどころかまるで私を待ち構えているように大きな顔で派手に転がるようになった。ジュースの紙パック、おにぎり、サンドイッチ、ポテトチップス、アイス、土曜日にはお弁当のから。

 コノヤロー!誰が捨てているのだ!
 私はゴミを仕分けしながら捨てた人物を推測してみた。この品揃えからして女の子だ。(いちごミルクのアイスやオムライス弁当、野菜たっぷりサンドとヨーグルトドリンク、鶏五目おにぎりとポッキー)しかもお小遣いの額からして高校生以上。(小学生はこんなには買えない)両親共働きで多少放置気味。・・・うーん、このあいだブランコに座って楽しそうに話をしていた高校生くらいの女の子二人組があやしい。ちょっと!あなた方はここでゴミを捨てても次の日には跡形もなくなっているのををおかしいと思わないのですか?この公園はゴミが魔法のように消えてしまうとでも思っているのですか?そもそも、こんなのどかできれいな公園にゴミをぽいっと捨てることが平気なのですか?

 私は毎日毎日ゴミを拾い続けた。放置される袋は近所のコンビニのものなので帰り際そこに立ち寄ってそれらを店頭のゴミ箱に捨てる。「カエサルのものはカエサルに」
 わたしの無言の怒りが伝わったのか、ゴミはだんだん肩身が狭そうな表情をし始めた。徐々にブランコの後ろに寄り添うようになって、じりじり後退してゆき、ついにはサツキの茂みの中に隠れはじめた。ちょっとあなた方!サツキの剪定をしたことがありますか?
 そしてついにはブランコを離れ、藤棚の向こうの斜面の下に落とされるようになった。逃がすものか!私は犬を連れて斜面にしがみつきながら一つ残らず拾った。古くから放置されているゴミもついでに拾えるだけ拾った。もうこうなると執念だ。私は分別用に2、3枚の袋を準備して行き古い空き缶やビン、雨に晒された新聞紙なども拾い続けた。散歩だかなんだかわからない。夏になり、氏子会の清掃活動で斜面の藪も刈り取られ、「これでゴミ拾いもしやすくなった」と思っていたある日、突然ゴミが消えていた。
 やったー!ついに私の気迫が不作法なやつらを撃退した。だが、それは夏も盛りのことだったので単にブランコ周辺が雑談に適さなかっただけかもしれない。サツキの茂みは蚊の巣窟になっている。10分も座っていたら20か所は刺されるな。私は電撃ラケットを持ち歩いているから平気なのだが。

 秋風が吹いてくる頃、神社からの帰り道で二人の女の子たちが遊んでいるのを見かけた。石の鳥居の真下でぽんぽん小石を放っている。ムッ!あれか?遠目にもたいへん目立つ格好で、一言で言うならバービー人形みたいだ。茶色の巻き髪、ミニスカート、厚底のブーツ、長い脚。場違いだ。こんな田舎で、しかもこの神社で、何をやっているのか。鳥居の下で・・・。こいつら!
 「あのブランコのところでゴミをちらかしていたのはあなた方でしょ!」と私は問うて説教するつもりで近づいて行った。「あの・・・」
「あっ!かわいいー!」
 そのとたんに女の子たちがこちらに駆けてきて犬のまわりに寄った。「かわいいいぬー!」なんだか脱力するような声だ。犬はニヘラ~とした顔でしっぽを振りまくり、スキップするようにぴょんぴょん跳びはねた。「あららー」私もなんだかニヘラ~としてしまってまるで犬バカおばさんのようにニコニコしながら手を振って通り過ぎてしまった。振り返ると、女の子たちは石投げを再開していて、「今度は私ね」などと言いながら鳥居の上に小石を放り上げていた。それまで気づかなかったが、鳥居の上にはたくさんの小石が乗っかっていた。きっと「鳥居の上にうまく石が乗ったら願が叶う」という類のおまじないでもあるのだろう。くだらない。次の日やってみたが、全然乗っからなかった。

 バービーちゃんたちは春から夏までかかってやっと「公園にゴミを捨ててはいけない」ということを学習したようだ。やれやれひと安心・・・とはいかず、この頃からまた新手のゴミ捨てらー(私の造語)が現れた。どこまで続くぬかるみよ・・・。

 つづく

犬の散歩 3

2008-02-16 15:21:26 | 日記
 神社の上の広場には、古い古い祠がある。その傍に大きな石があるのだが、これが何だかよくわからない。人為的に置かれたものには間違いなかろうが、それは四角い粘土をげんこつで殴りつけたように真ん中がへこんでいて、いつも水が溜っている。もしやお清めの手水鉢なのかとも思うが、それにしては水が汚すぎる。現代彫刻の作品という可能性もありうるなあとしげしげ眺めるが、それならば作品名や作者名がどこかに書いてあるだろう。説明らしきものは一切ないのでこれが何だかわからない。しかしそんなことに頭を悩まさない犬はこれが大のお気に入りだ。いつも覗きこんでは水をぺちゃぺちゃ飲むのを日課にしていた。

 溜っているのは雨水なのでだんだん汚れてくる。色は紅茶色からコーヒー色に変わり、底に沈んだ落ち葉が腐ってヘドロ臭もしてくる。いかに言っても健康に悪かろうと私は犬にこの水を飲むのを禁じ、水筒(アルカリイオン水入り)を持参するようになったが、犬はもちろん言うことをきかない。隙を狙ってこそっと飲む。アルカリイオン水をたらふく飲ませてやっているのに・・・。どれだけ叱っても吸い寄せられるように石に向かって行くので、ある日、いったい何が犬を誘引するのかと調べてみることにした。木の枝を拾ってきて、それで手水鉢の中をかき回してみると、はなはだしい腐臭がして枝にすずめの羽根が引っかかってきた。ぎょっとしてさらにかき回すと骨のついた翼が出てきた。暑い盛りのことでウジも湧いている。汲み取りトイレによくいるやつだ。こんなところにいるなんて・・・・。こんな水を飲んでいたのか、と私は鳥肌が立つ思いで木の枝を投げ捨てた。限界だ・・・・。

 私は下に降りて神社脇の公衆トイレからバケツとデッキブラシを拝借し、水も汲んで来て、ヘドロの入れ物になっている手水鉢をごしごし洗った。何度も水を替えて洗い、ブラシでこすって中の水が完全になくなるまで撥ね飛ばした。これでいい。完全に乾いてしまえば、当分犬の悪食で悩まされることはないだろうと満足して家に帰った。しかし、甘かった・・・・。その晩、久しぶりに大雨が降り、次の夕方行ってみると手水鉢にはまた満々と水が溜って溢れそうになっていた。犬は大喜びでぺちゃぺちゃ飲む。よいのか?

 やっぱりこれはよくないと思い、またデッキブラシを拝借して水をかき出し、カラにして帰った。そしてそれから3日後、また雨が降り、水満々。3度目に掃除した直後にまたポツポツと降ってきたときにはさすがに気味が悪くなった。これはどういうことか、と帰る道々考えていてふと思いついたのは「センサー」という言葉だ。そーか!これは神様のお天気センサーで、この手水鉢の水がカラだってことは相当長く日照りが続いているってことなので、「じゃあ、そろそろ雨降らそうか。どっこいしょ」なんて雨を降らせるための指標になっているのだ!わはははは・・・

 んーなわけないだろが!
 私はフレイザーの「金枝篇」を思い出した。確か、偶然の一致が度重なってジンクスとか迷信とかができ上がっていく過程を考察していたはずだ。「手水鉢の水を捨てる→雨→水を捨てる→雨→水を捨てる→雨・・・」なるほど、たった三回だが私は恐れを感じて「この岩は神様の大切な道具だから、さわってはいかんのだ」と思いこむところだった。結局、土俗的な風習とか信仰っていうものはもともとこういうふうにしてでき上がっていったものなのかもしれないな。などと偉そうにわかった気になったが、もう手水鉢にはさわらないことにした。いや、別にバチが当たるとかそういうことを思ったわけじゃない。ち、違いますって・・・・。
 ついでに祠に手を合わせて「家内安全、交通安全、宝くじの大当たり」をお願いしてきた。まー、初詣に行かんかったしね。

 そうしたら、その晩夢に変なおじいさんが出てきた。
「そんなにいろいろ言われても、わしはできんぞ」
「はっ?えーっと、どちら様でしたっけ?」
「わしはこの神社の神さんじゃ」
「えっ!おじいさんって神さんなんですか?」
 私は夢の中でふと思い出した。あの祠のある反対側の山の端っこには大昔の豪族が葬られた跡があって、つまりこの山は全体が古墳であったということを。
「あのー、おじいさんはあの古墳の主ですか?」
「そうじゃ」
「じゃ、ゆ、幽霊?」
「いや、幽霊ではない」
おじいさんはにこりともしない。愛想のかけらもない水気の少なそうな顔は、私の死んだ祖父にそっくりだ。着物はもとは青かったらしいがすっかり色あせて灰色になっているし、黒い変な冠をかぶっていて、履物も草履ではなく黒いぽっくりみたいな履物だ。カビと薬のような臭いもするので私はできるだけ息を吸い込まないように気をつけながら聞いてみた。
「えーっと、宝くじで一億円というのは無理としても、交通事故に遭わないようにというお願いはどうですか?」
「それもできん」
「政治的なことは?」
「できん」
「だって、あそこに平和祈願って石碑が立ってるじゃないですか」
「わしは、このあたり一帯のことしか知らん」
「じゃあ、何ができるんですか?」
「雨を降らせることじゃ」
「雨?」
冗談など考えたこともないようなくそ真面目な顔だ。
 そーかー、昔は雨が降る降らないは農作物の出来に関わる重大事で、ほとんど死活問題だったんだー。でも、今はそんなのほとんどどうでもいいことだ。
「しかも、このあたり一帯にだけ?」
おじいさんは頷いた。
「だめじゃん」
おじいさんは表情を変えなかったが、喉の奥で笑っているようだ。声までカラカラで不気味に響いたので私はちょっと怖くなって後ずさりしながら
「わかりました。ありがとうございました」
と言いながら坂を駆け下りて帰った。

という夢を見てしまったとさ。

犬の散歩 2

2008-02-15 16:55:50 | 日記
 以前テレビの「トリビアの泉」で、「ご主人が崖から落ちそうになったら助ける雑種犬は・・・」というトリビアがあって、実験の結果は50匹中たった3匹だったが、家族と見ながら「そりゃあ、何の訓練も受けず、非常事態になったこともない犬が自分で考えてなんとかできるわけがないよ。これは頭の善し悪しの問題ではないと思うけどね。」と話したことがある。雑種犬を試す類似のトリビアはいくつかあるが、いずれも結果は芳しくない。それは当然だろう。犬にも向き不向きがある。飼い主だっていつか恩に報いてくれると思って飼ってるわけでもあるまい。私なんかもテレビを見ながら「この犬、すごく変な顔。毛並みが悪い。ちゃんとシャンプーしてるのか?やっぱりうちの子が一番かわいいね。あっ、この子はうちのにちょっと似てる。頭がよさそう。あー、やっぱりだめか。」などと犬バカ丸出しであった。

 昔、夫は飼っていた犬に救出されたことがある。

 散歩の途中だった。神社へ上がる道に、歩道から用水路を跨いだ小さな石橋が架かっていた。犬はちゃんと直角に曲がって橋を渡ったのだが、夫は走りながら斜めにぴょんと跳んだ。飛び越えられると思ったらしいが、少し歩幅が足りなかった。用水路に落ちて側壁でしたたかに胸を打ちつけてしまった。あばら骨にひびが入って、激痛のあまり溝の中にしゃがみこんでしまったそうだ。
 夫によると、「痛みがひどくて息もできない。ずっと溝の中にしゃがみこんでいたが、こんなところにいつまでもいたら死んでしまうと思って、思いきって立ち上がったら、目から火花が散った。」というくらい痛かったそうだ。用水路はかなり深くて、立ち上がっても頭がやっと出るか出ないかという高さだ。車が来たので痛くない方の手を伸ばして「おーい!」と叫んだが声がかすれてほとんど出ない。車はそのまま行ってしまった。がっかりしてそのまま側壁にもたれかかって突っ伏していたという。
 そしてその頃犬はクンクン鳴きながら歩きまわっていたのだが、走って行ってしまったので夫は自分を見捨てて家に帰ったのだと思い、悲痛な気持ちになったという。しかし、それはすぐ傍の家の奥さんが自転車で買い物から帰って来たのを見つけて走って行ったのであって、奥さんによれば「犬がクンクンいいながら走って来て何かを訴えるので、ついて行ったら人が倒れていた」ということで、すぐに救急車が呼ばれた。よかったよかった。事故の後、間もなく石橋は幅が倍くらいに広げられた。

 犬はその後、救急車の音を聞くとクンクン鳴きながらオロオロ歩きまわるようになった。おもしろいから私はその犬の前で倒れたふりをしてみたことがある。一度目はオロオロして服をくわえて引っ張ろうとしたが、二度目にやったときにはうさんくさそうに顔を嗅ぎまわっただけだった。三度目だともう完全に無視だった。犬を試してはいけない。
 その犬は柴犬でたいへん賢かったのに、夫が転勤して家を離れた時、世話ができないからとお義母さんが近所の家に譲ってしまった。私はそれを聞いた時とても悲しかった。なんで犬をぽいぽい人にやれるのだろうかと思った。あんなに賢い犬ってちょっとそこらへんにはいないよな、と思っていたらトリビアでそれが証明されたので、夫があまり思い出したくないらしいあの事故の話を子どもたちに聞かせてやったものだ。

 今うちで飼っている犬はどうだろうか?到底救出してくれそうにない。きっと大喜びで遠くまで遊びに行って、帰って来なくなるに違いない。

 それよりも最近心配なのは、犬自体が事故の原因になるかもしれないという不安だ。犬は神社の坂道で早く上に行きたいと馬車を引くようにして紐を引っ張る。私は息が切れるので坂の途中でリードをはずしてやることが多い(ほんとはダメなんだけど)。犬は弾丸のように走り出し、上まで一気に駆け上がると、杉林の方に抜けてUターンし、今度は坂道を駆け下りてくる。私が遅いので呼びに来るのだ。しかし、私のところで止まるわけではない。ドン、と体当たりすると下まで駆け降り、Uターンしてまた駆け登ってくる。そして後ろからキックして私のことを突き飛ばす。横っ腹にぶつかられるのも結構きつかったが、足をキックされると完全に前に倒れてしまう。15キロの米袋が時速30キロくらいで飛んでくるのだ。そりゃあ痛い。ご主人さまをバカにしているとしか思えない。
 私は想像する。もしも前から飛んできて膝をキックされたらきっと膝の関節がグキッとなって歩けなくなるに違いない。あんな人気のないところで倒れてしまったら、救出されるのは夫が帰ってきた後の夜中になることだろう。それまで私は神社の裏の林の中に倒れているのか?夏ならば藪蚊の餌食になるだろうし、冬ならば凍えて死んでしまうかもしれない。犬はどうするだろう。きっとバカだから「やったー!」とか言ってうれしそうに走り回ってどこかに行ってしまうだろう。そして遊び疲れたら家に帰って小屋に入り、何事もなかったかのような顔で寝るに違いない。あー、悔しい。
 想像するとムカムカと腹が立ってきて、坂道を2、3回往復する犬が私にぶつかってくる時に蹴飛ばしてやった。すると犬はゲホッと言ってそれ以降はキックしてこなくなったのだが、私は蹴飛ばしたときに膝がグキッとなって、ときどき痛むようになった。今も痛い。犬を蹴飛ばしてはいけないのだ。

犬の散歩 1

2008-02-14 23:45:33 | 日記
 昨日のニュースで、犬の散歩時に防犯パトロールをするボランティア活動が紹介されていて、「わあ、ちょっと嫌だな」と思った。隣近所の付き合いが希薄になって人目が少なくなってきたところをいかに埋め合わせるかということで、防犯カメラか住民によるパトロールかって選択になるのだろうけど、犬の散歩くらい自由気ままにしたいものだ。調べてみたら「わんわんパトロール」なるものが全国各地にある。そういう時代になったのか。


 以前、近所の神社を散歩コースにしていた。神社の上がちょっとした広場になっていて、リードをはずして走り回らせるのにちょうどよかったからだ。今は距離が足りないのでルートを変えている。神社に毎日行っていた頃、ちょっと変なことがいろいろあった。たとえば、が落ちているのだ。

 神社の上の山は広いグラウンドのような空き地になっている。ここは祭りの際にみんなで神楽を舞う場所だから常にきれいに除草されている。斜面には桜の木が何百本も植えられ、春には霞がかかったような美しい景色になる。楕円形の山の一方の端には小さくて古臭い祠があるが、なんでもこれは平安時代くらいから祭祀を執り行っていた場所だそうだ。下の神社は大きくて立派だが、実は神様の本家本元はこちらの祠の方なんだそうで、だから祭りの神輿はここまで昇ってくるのだ。祠のそばにはエノキの大木があり、松もちょぼちょぼ生えた林になっている。その向こうの北側は墓地だ。

 この林や笹やぶの中から犬がしょっちゅう魚の骨をくわえてきた。私は最初驚いて、それから困惑した。魚は日替わりでサンマ、サバ、太刀魚、アジなどでだいたい焼き魚の誰かの食べ残しなのだが、時にはチヌの頭やタイのあらを生でくわえてくる。私は犬が見せに来るとすぐに奪い取って遠くに捨てた。だって気味が悪い。犬はたいへん不本意な顔をする。しかしなんだって山の上に魚が落ちているのだろう。「木に寄りて魚を求む」というのは確か見当違いのことを言うのではなかったか?木に寄ったら根元に魚が落ちているというのは一体どういうことだろう。しょっちゅう魚の骨が落ちているので、犬は用心して私に取られないよう、拾ったらすぐにボリボリと食べるようになってしまった。いやしい奴だ。

 「木に寄りて魚を拾う」のがあんまり不思議だったので、ある日私は林の中をくまなく調べることにした。まさか原始人か誰か住んでいるわけではあるまいが、魚がどこから来るか突き止めなくては不安だ。そこで犬を連れて落ち葉を踏みながら、その頃はまだ整備されていなかった木立の藪の中におそるおそる入ってみた。するとまた魚の骨が落ちている。見上げたその時、大木の上にさっと黒い影が走った。カラスがやかましく鳴く。カアカアカア!
 やかましすぎる!ばさばさ羽音もする。効果音抜群だ。カアカア鳴きながら何かを落としていった。脅しているようだ。見ると木の枝だ。そうか、そうだったのか。ここはカラスの巣がいくつかあるのだ。魚はカラスがどこかから盗んできて食べた残飯であったのだった(まるごとの塩サンマもあったけどね)。わかってみれば拍子抜けするようなことだった。

 しかし、犬がカラスの残飯を拾い食いするのはなんとかしなくてはならないと思った。不衛生じゃないか。そこでおやつを持参して骨を見つけたら交換するようにしたのだが、あまりうまくいかなかった。うちの犬はビーフジャーキーより魚の骨の方が好きなのだ(野良犬育ちで口が卑しいらしい)。そして、とうとうアレを見つけてしまった・・・・。

 ある日のことだ。犬が白い布切れをくわえて来た。「またもう・・・」と奪い取ろうとすると血相変えて逃げて行く。なんだかわからないがロクなものじゃないだろうと追いかけると、必死で逃げ回って決して放さない。放っておくとまた見せに来る。変な匂いもする。よくよく見ると足のようなものが二本、ブラブラとぶら下がっている。この大きさは・・・子猫・・・首もなく・・・胴もない・・・猫の皮?・・・。

 私は気が動転してキャ!と叫び、必死に説得したり怒ったり追いかけたりした。それをどうする気かと問うてみたが、犬はかたくなな態度で放そうとしない。最後の手段でほっといて帰るふりをしてみたが、やっぱりくわえたままで一定間隔をあけてついて来るだけだ。疲れて神社の石段に腰かけていると、走り寄って来て自慢げに見せびらかせていたかと思うと、とうとう「ハグハグ」と音を立てながらその毛皮を食べてしまった。私は血の気が引いてしばらくへたり込んだ。

 なぜ子猫の死骸がこんなところにあったのかということだが、毛の色が白いということで説明がつく。このあたりにはわりと白い猫が多い。そして、白い子猫を捨てる人がいるのだ。5、6年前にも一匹拾ったことがある。そして、この一年後にまた一匹拾うことになったのだが、この時の死骸はきっと哀れな捨て猫の末路だったのだろう。ひどいことだ。それにしてもうちの犬ときたら!餌はちょっとお高いサイエンスダイエット一本だしおやつも日替わりで飽きないように気を使って水もミネラルウォーターか浄水器の水に限って健康に気をつけてやってるっていうのになんだって田んぼの泥水ペチャペチャ飲んだり生ゴミの骨食ったり猫の皮をむさぼり食らうんだろう、こいつは。信じられん!腐った猫食ったら食中毒を起こすに違いない。腹痛を起こして、のたうちまわって死んでしまうかもしれない。私は犬が苦しみながら死ぬ様子を想像して目の前が真っ暗になった。

 悲嘆に暮れながら犬を引いてとぼとぼと歩いて帰る途中で思った。この犬は、雑種であるけどどうも猟犬の血筋を引いているらしい。たれた耳、ぴっちりと短い毛、筋肉質の体、ぴんと立ったしっぽ、ホルンのような鳴き声。きっとご先祖様はどこか西洋の広い野っぱらでカモやウサギを追いかけてガウガウいいながら仕留めていたに違いない。こんな狭いところじゃ野生の本能を発揮しようたってそうそうできはしないけど、あの毛皮はきっと今までで最大の獲物だったに違いない。怒って取り上げようとしても犬にはわけがわからなかっただろう。褒めてもらうつもりだったのだ。ああ、対応を間違った・・・褒めてやってさっと奪い取ればよかった・・・

 それから2、3日は犬を謹慎させて様子を見ていたが、まったく変わりがなくピンピンしていたので私は拍子抜けしてしまった。あんなものを食べて全然平気だなんて、それまでの食事に関する努力は何だったんだろう。うーん・・・あんまり深く考えない方がいいようなので、もう犬のことを心配するのをやめにして、ミネラルウォーターも買うのをやめた。おやつもときどきしかやらない。勝手に逃げたらお仕置きする。しかし、犬は今日も元気でノーテンキだ。その後病気になったことは一回もない。
 
 

佐々木譲「警官の血」

2008-02-14 00:10:27 | 本の感想
 佐々木譲「警官の血」読了。
 先日、もしもおもしろくなかったら損だからと最初に上巻だけ買ってきて読み始めたのだけど、ご飯も食べずに夜中までかかって一気読みしてしまった。そしてさっそく次の日下巻を買いに走ったら、平積みしてあるはずのこの本がもう一組しか残っていなかった。うちの近所でこれだけ売れてるっていうことはすごく売れてるってことだ。直木賞取れなくても全然かまわないと思うな。

 久しぶりにすらすら読める本を読んだ気がする。ダブルミーニングとか、深まる謎とか、そういう不健康なものも全然なくって、まるで「取ってこい」と言って棒切れを投げたらワンワンいいながら一直線に走って行って、戻ってくる犬みたいな素直さだ。あー、やっぱり犬はいいなあ。わかりやすい。猫みたいに無関心を装いながら通り抜けざまに足踏んで行ったり、背中を向けて外を見ているふりをしながら寝っ転がって本を読んでいる私の肩にしっぽをかけてきたり、そういうわかりにくい表現はまったくしないからなあ。(なんのこっちゃ!)ともかく、犬のようにわかりやすくて誠実でちょっとハートウォーミングな本だった。

 感想は省略。ろくな感想は書けないから。

 うちの近所にも駐在所があるのだけど、最近はどうも駐在所勤務が敬遠されている気がする。大変そうだから無理もないと思うが、若い駐在さんが来ても子供が生まれて手狭になってくるとすぐに転勤してしまって、最近では名前を覚える暇がないくらいだ。この前の駐在の奥さんは犬好きで、とても気さくなよい人だったが、町内会が違うのでお礼を言う機会もなく引っ越して行かれて残念に思った。もっと官舎を広くきれいに改築すればいいのに。あんな狭くて古くて、トイレだって汲み取りじゃ、子ども三人もいて気の毒だったと思う。現在の駐在さんは単身赴任らしい。それも気の毒だ。
 うちの夫が子どもの頃の思い出話をしていて、「小学校5年の夏休み、駐在さんの実家のある島に一か月くらい泊まりに行って、毎日泳いで魚釣りばかりしていた。」と言ったので耳を疑ったことがある。親戚でもなんでもないのだが、学校から帰ると毎日駐在所に遊びに行っておやつをもらって食っていたそうだ。夏休みも、駐在さん本人は仕事があるからこっちにいて、主人だけがおじいさんおばあさんのいる家に一か月も泊って遊び呆けていたそうで、とんでもない奴だと私は思った。その駐在さんがよそに転勤して行ったときには、送別会を開いて三日三晩「飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ」で、地域の人みんな集まって名残を惜しんだとか。古きよき時代っていうよりとんでもない所だ。駐在さんって大変だなあ。今でも駐在所って「よろず相談所」みたいなところがある。

 この本でも、地域の頼れる「おまわりさん」であることに命を賭けた誠実な警察官の姿が描かれていて、そのこまごまとした対応ぶりを読むのが楽しかった。結末もスカッとしていて、これは「大当たり」の本ですよ。

ドストエフスキー「白痴」

2008-02-13 01:37:47 | テレビ番組
 と言っても、私は「白痴」を読んでいない。

 昨日、HNK「知るを楽しむ」亀山郁夫 「悲劇のロシア」第二回「入口も出口もない物語~ドストエフスキー『白痴』」を見ていて思い出したのだけど、私は昔、たぶん大学生の頃「白痴」を図書館で借りたけれども読み終えていない。どうも、途中でなんだかブレーカーがパシャッと落ちるように脳が理解を停止してしまって、文字を読んでいても理解しない状態になったようだ。ナスターシャが死んだことは覚えている。なんでブレーカーが落ちたんだろうかと思いながら聞いていてわかった。危険過ぎるからだ。

 もうひとつ思い出した。前回取り上げられた「罪と罰」で、本筋とは関係なく唐突に出てきて妹ドーニャを口説き、拒絶されたために失望してピストル自殺した中年男(アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ)が、ドーニャを手篭めにしようと部屋に鍵をかけるシーンだ。ドーニャには、一応婚約者がいる。男は、何が何でもドーニャを手に入れたい。ドーニャは激怒している。目をらんらんと輝かせ、睨みつけ、「手を触れたら死にます」と言ったはずだ。激怒した顔も美しい。二人は二匹の獣のように向かい合い、見つめ合っている。そして、男は悟るのだ。決してこの娘を手に入れることはできないということを。だから彼女を帰した後で自殺した。(大昔の記憶なので違ってるかもしれない)

 「言語道断だ!」と、高校生の私は思った。なんでこんな危険なおっさんが出てくるのかわからないとも思った。今はかなりわかる。ああ、なんてかわいそうなおっさんだろう。それから売春婦ソーニャの父親。家族のために苦界に身を沈めた娘に飲み代をせびる情けない父親。彼が言う。「あの子の目がおそろしい。何も言わないが、あの澄んだ青い目に見つめられると・・・」そりゃー、おそろしかっただろうよ。

 今の私はどちらかというと、人生が思うにまかせず絶望してしょぼくれている人の方に共感できるのだ。

 だから、ナスターシャがムイシキンを選ばず、やけくそのようにロゴージンと出て行った気持ちもだいぶわかる。昔はわからなかったのだ。わかるはずがない。10万ルーブルを暖炉に投げ込むような気持は。10万ルーブルを差し出すのも燃やすのも狂気の部類だ。3人とも正常じゃない。これは常識的な恋愛の話ではない。狂気に近いような究極の愛の話なのだ。だからブレーカーが落ちたのだと思う。

 物語の構図を読み解く一つのカギとして、亀山氏は「模倣の欲望」ということをおっしゃった。ルネ・ジラールの「欲望の三角形」だ。ロゴージンはムイシキンの欲望を模倣してナスターシャを欲したのだというのだ。ムイシキンはほとんど信仰に近いほどの愛でナスターシャを欲していていた。その愛が強ければ強いほど、ロゴージンもナスターシャを欲望し、強引に奪い取ろうとする。ドストエフスキーの作品にはこのように愛する女性を奪われるといったストーリーが多いという。

 表象的に理解すればムイシキンは「神がかり(聖痴愚)」で病弱、キリスト的な風貌の人物であるし、ロゴージンは肉体派で粗野でマッチョ、と対照的だ。肉体派と純情派と、女がどちらを選ぶかという下世話な物語とも見える。しかし、それほど単純ではない。この二人はいずれも性的に不能であったのではないかと推測できる節があるという。ムイシキンは病弱のため「まったく女というものを知らない」というし、ロゴージンは、ロシア正教で異端であった「去勢派」の一家の出らしい。このセクトでは性的快楽をまったく否定するために、性器を切除するのだという。(!)さらにナスターシャにも過去の不運な経歴があり、この3人はみな「傷」を負っているという点で共通しているのだ。おそろしいことだ。ロゴージンのように強烈な欲望を持った人間が、不能であるにもかかわらず女性を完全に所有しようとした場合、考えられるのは、① 恋敵であるムイシキンを殺す。② 決して逃げないようにナスターシャを殺す。という二通りしか考えられない。しかし、ロゴージンはムイシキンと十字架を交換し、兄弟の契りを結んでしまったために①という選択肢はありえない。よって②のナスターシャを殺すという結末しかなかったのだという。

 自分が死ぬという選択肢はないんかい!と思ったが、それをやったのが「罪と罰」のアルカージイなんとかというおっさんだったのだ。きっと、それじゃあまりにもかわいそ過ぎたのでドストエフスキーは別な選択肢を選んでみたのに違いない。そもそも、自分が死んで、思い人と恋敵が幸せになることなんて絶対に許せなかったのだ、ロゴージンは。野蛮人だから。

 「緋文字」のナサナエル・ホーソーンに、「痣」という短編がある。妻の頬に天使の手形のような小さな痣があるのを苦にした男が、強力な美白薬を発明して見事に痣を消すことに成功する。しかし、妻は死んでしまう。男は、痣が消えさえすれば妻の美貌は完璧になると思ったのだが、そうではなくて、完璧な美はこの世に存在することを許されないから痣を持つことによってかろうじて存在していたのだった。という話だ。「白痴」の解釈を聞いていて、私はこの「完璧な美」という話を思い出した。きっと「完璧な愛」というものも地上には存在しえないもので、それは神のものではないかと思う。だから、あまりにも強すぎる愛は人を殺してしまうのだ。

 私はめまいがした。風邪をひいて気分も悪かったのだけど、話を聞いていてぞっと寒気がしてきた。私は複雑すぎる愛の話には拒絶反応があるのだった。たぶん、もう一度「白痴」にチャレンジしても、またブレーカーが落ちるに違いないと思う。