読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

森達也さんの講演を聞いた

2008-11-10 23:02:02 | 日記
 先週の土曜日(8日)、映画監督・作家の森達也さんの講演を聴いた。
 講演のテーマは「いのちの食べかた~向きあうことで差別はなくせる~」であったけれども、内容はちょっと違っていた。きっと主催者は「いのちの食べかた」(理論社)という子供の本に即した内容をしゃべってほしかったのだろうけど、森さんが今一番訴えたいことはメディアリテラシー関連だったようだ。

 オウム信者とそれを取り巻く世間の人たちを内部から外に向かって撮った映画「A」と「A2」を私は見ていない。だけど「本の旅人」で10月号から連載されている「職業欄はエスパー2」を読んでびっくりした。森さんの番組は普通のドキュメンタリーと全然違う。固定観念がひっくり返ってしまって、そのことに自分でびっくりしたのだ。昔スプーン曲げの少年が一時テレビでもて囃され、途中から「インチキだ!」と大バッシングを受けた事件があった。森さんの彼らエスパーに対する取材を通して浮かび上がってきたのは、何が何でも「本当かそれともインチキか」を決めつけようとするメディアの強引さ(あるいは傲慢さ)だ。物事には白か黒かなんてはっきりと色分けできることなんて本当に少なくて、ほとんどは「だいたい白ときどき黒」とか「白か黒か本人にもよくわからないのでグレーとでも言ってくれ」とかいうものじゃないか?でもそれでは普通の視聴者は納得しない。「要するに白なのか、黒なのか、はっきりしてくれ!気持ち悪いじゃないか!」とチャンネルを変えてしまうから、最初から結論を白、または黒に決めておいてそれに都合のよいような映像を狙って取材するのだ。
(「職業欄はエスパー」は98年制作のテレビドキュメンタリーだ。YOU TUBE に映像が載っている。便利だな。)

 「A」とその続編「A2」も、オウム信者の人たちがいかに普通か、言い換えるとオウムの側から見ると外部の人たちがいかに異常であるかを描いたものだ。当然番組はどこのテレビ局も放送してくれなかったし、森さんは「あぶないヤツ」と言われて制作会社をクビになった。後に作った映画も興行的には失敗だったそうだ。
 世間の人たちはそんな番組なんて見たくないのだ。オウムは兇暴な殺人集団で自分たちとは違うということを確認して安心したいからテレビを見るのだ。そしてメディアは坂本弁護士殺害にかかわるTBSの不祥事を一斉にバッシングしながら、「もしかしたらウチもヤバイかもしれない」と恐れ、自己規制を始めた。

 「放送禁止歌」というドキュメンタリー番組は、'72~'73年頃のラジオで、つい今まで流れていたのに唐突に一夜にして禁止されてしまったいわゆる「放送禁止歌」について調べたものだ。取材を進めていくと驚いたことに、実は「放送禁止歌」なんて存在しなかったという結論に行き着く。放送禁止を命じるようないかなる団体、組織も、どこにもなかった。つまりあれは放送局の自主規制だったのだ。そして、その背景には差別の問題があった。
 メディアって偽善的だとあらためて思った。

以下、講演のまとめ。

 日本の犯罪報道は異常だと森さんは言う。朝から晩まで特定の犯罪の背景を根ほり葉ほり報じる。実は殺人事件の件数は2007年に史上最低(受理件数、1199件、未遂、心中を含む)を記録した。実に喜ばしいことだけれどもメディアはほとんど報じないし警察も大々的に発表しない。政治家も不勉強でこのような統計を知らない。きっと国民に知ってほしくない事情があるのだろう。戦後殺人事件の件数が最も多かったのは1954年頃だ。その後一貫して減少している。にもかかわらず私たちの「体感治安」は年々悪くなっている。それはメディアが不安と恐怖を増幅させるような報道をしているからだ。人はいつ自分が犯罪の犠牲者になるかわからないと恐れる。セキュリティー強化が叫ばれ、街角には監視カメラが溢れ、セキュリティー関連の会社が繁盛する。(そしてそこに警察から天下り)。メディアは視聴者の欲望を反映して善悪の区別ををはっきりと、悪い奴はより悪く描く。敵と味方を峻別して「彼らは自分たちとは違う」と思うことで安心したいのだ。集団内部に仮想敵を作って一斉にバッシングをしたり、犯罪者の厳罰化を求めたりするのもそのせいだ。90年~95年の5年間と2000年~2005年までの5年間を比較すると明らかに死刑判決の数が増加している。光市の事件の裁判を見ても報道が一方的過ぎることは明らかだ。犯罪に対する不安と恐怖、「許せない」という感情がメディアによって増強されている。

 森さんは関西テレビの「納豆騒動」で「なぜプロデューサーがウソを見抜けなかったのか」なんて言う人がいるけど「見抜けなくてあたりまえだ」という。「映像メディアの嘘は見抜けない。」そもそもメディア自体が嘘なのだ。同じ現象でも別の角度から見るとまったく違ったものが見えてくる。メディアは一番刺激的で絵になるようなドラマチックな視点を切り取って伝える。それを丸飲みで信じてはいけない。視点を変えて見るということが必要で、これがメディアリテラシーなのだと言われた。たいへんよくわかる。例の光市母子殺害事件にしても、被害者の遺族にばかりスポットが当てられて、弁護団をキチガイのように言う人たちの大合唱があったけれども(橋下さんとか)これを弁護団の側から撮ったドキュメンタリーで見ると、まったく別のものが見えてくるらしい。
これに言及したブログ)。このドキュメンタリーを制作した東海テレビのプロデューサーが先日朝日新聞の人欄で紹介されてたなあ。
光市事件 加害者側に焦点 東海テレビが制作「光と影」
遺族感情からすれば、犯人を死刑にしてほしいのは当たり前であるけども、メディアがそちら側ばかり一方的に加担するような報道をするのはおかしい。また、良識ある評論家であらせられる三宅久之さんが「出獄してきたら、私がこの手で殺してやる」みたいなことを言うのもおかしいんじゃないか。

 アクセスという番組で、神浦さんという軍事評論家が、「北朝鮮脅威論」に対してこう言ったそうだ。「北朝鮮など何ら怯えることはありません。石油備蓄はほとんど尽きているし武器、装備は時代遅れ、日本の10分の1の武力しかない。だから絶対に北朝鮮は戦争をしかけてきたりしない。負けるとわかっているから。」だけども後で森さんに「今日は思い切って言ったけど、こういうことを言うとメディアで干されてしまう」と言われたそうだ。北朝鮮なんかちっとも脅威でないということが国民に知れると困る人がいるらしい。
 神浦元彰さんのサイトJ-RCOM韓国、新計画策定へ 北朝鮮混乱に対応策  朝日 10月30日 朝刊 の記事に対するコメントでもそのようなことを書いておられる。)
まさに仮想敵を作って憎悪し、バッシングするという構図だ。
麻生首相は「やられる前にやれ」と言った人だ。田母神元幕僚長は論文の中で「日米戦争は防衛戦争であった」と言っているが、20世紀以降の戦争はほとんどそうだ。ナチスだって「このままではゲルマン民族は滅びてしまう、危ない、やられる」というプロパガンダによって戦争を始めたのだ。アメリカだって「共産主義の脅威」というドミノ理論によってベトナム戦争をはじめ、大量破壊兵器、アルカイダに対する恐怖からイラクに侵攻した。「敵」に対する恐怖心から「家族を守るため、同胞を守るため」戦争を始める。ところがその結果は焼け野原じゃないか。過剰なセキュリティーが人を殺すのだ。まるで、人の免疫細胞が暴走してアレルギーを引き起こすメカニズムにそっくりだ。日本には思想、信条、表現の自由があるから発言はすればいいけども、自衛隊の幹部がこのような自覚に乏しいということが問題だ。
 不安だから人は群れる。群れて安心したい。みんなでまとまって行動し、異物を見つけて攻撃する。集団に同調しないものはKYと言われ、自己責任と言われる。このような傾向はすべてオウム事件をきっかけに始まった。少数派が生きづらい世の中になってしまっている。メディアが本来の機能を果たしていない。世界史の中で初めてファシズムのような全体主義的な政治形態が起こったのは1910~1930年頃だ。音と映像のマスメディアが広がったのがこの頃だ。メディアによって多くの人に一斉にプロパガンダが広まり、危機意識が植えつけられた。ファシズムは終わり、こんなに治安はよくなっているのに人々の不安はかえって増している。見るものに気をつけないといけない。日本のメディアは末期症状だ。だけども、ぼくらが変わればメディアも変わるのだ。(以上、講演の抜粋)

検索していて見つけたのでメモ。
メールマガジン Publicity
から
▼森達也(映画監督、テレビディレクター)その1
森達也(映画監督、テレビディレクター)その2/個保法と住基ネットとの基本的関係
森達也(映画監督、テレビディレクター)その3/橋本派が有事法制に慎重
森達也(映画監督、テレビディレクター)その4/テロリズム定義に失敗ASEANテロ会議
森達也(映画監督、テレビディレクター)その5/宮台真司の指摘
森達也(映画監督、テレビディレクター)その6
森達也(映画監督、テレビディレクター)その7/車いす席一部は当日渡し/TBC、 38000 人個人データ流
森達也(映画監督、テレビディレクター)その8/発生前に容疑者みつけられた? 911テロ/テロ犯捜索に
森達也(映画監督、テレビディレクター)その9(止め)/野中、個保法案や有事法制を批判/平沼経産相、国

 あと、興味深かったのは、「今年は殺人事件が増えるのではないか」と言われたこと。イメージに実体が合わせようとするので、みんなが「危ない」と思っていたらそのとおりのことが起こるというのだ。セキュリティーが裏目に出ているという皮肉な状況だ。また「理由のない殺人」が増加した原因について①、メディアのアナウンス効果で「理由がなくても人が殺せるんだ」とそそのかされた。②「理由がない」という動機をみんなが認めたため、動機のひとつとして認められるようになった。③自殺が増加しているということに関係がある。自分を殺せる人は他人も殺せる。自殺が他殺に反転した。などと分析されていた。
 「最近はどうも戦前に似ているのではないかと思う。不安が人々の望むのとは逆の現象を引き起こす。」と言われたので、なるほどじゃあ最近の傾向を見るに日本はロクなことにならないなとつい思ってしまった。これがいけないんだな。

腹が立ったこと

2008-09-11 15:48:40 | 日記
「その時歴史が動いた」
 最近頭にきたことがあって、やっと忘れかけてたのに、昨夜のNHK「その時歴史が動いた」(シリーズ 日本降伏 後編帝国最大屈辱ノ日ナリ~9月2日・降伏文書調印~)を見ていたらまた思い出した。
 
 1945年8月15日、天皇の玉音放送で敗戦を宣言したものの、軍内部では一部の集団が徹底抗戦を唱え不穏な動きをする。皇族が説得に赴いてやっと収拾。政府や軍上層部の会議では、「降伏」という言葉は屈辱的だから「降服」にしようなどと枝葉末節にこだわり、だれが降伏文書にサインするかでもめて責任のなすりつけあい。東久邇宮総理大臣は記者会見で敗因の一つに「国民道徳の低下」があるとして
「この際 私は軍官民 国民全体が徹底的に反省し懺悔(ざんげ)しなければならぬと思う。全国民総懺悔することが わが国再建の第一歩であり わが国内団結の第一歩と信ずる。」

という。いわゆる「一億総懺悔」だ。ふざけんじゃねえ!
 この「一億総懺悔」論は為政者(特に天皇)の戦争責任をあいまいにし、国体を護持するために議論を封じようとする意図があった。さらに責任の所在を「みんな」というひと括りにしてしまうため、個人の戦争協力に対する責任までもうやむやにしてしまったのだという。(あー、このあたり参考になる)

 そうか、「国民道徳の低下」が最近の目を覆いたくなるような不愉快な世相の原因だ!なんて言う奴らはつまり、責任の所在をあいまいにして逃げようとしているわけか。それでわかった。



 腹の立つこと
 先日町内6校PTA合同の「教育講演会」なるものがあって、その講師がまるでそのとおりのことを言うのだ。最近の食品偽装のオンパレードは「天の目」つまり倫理道徳の価値基準がなくなってしまったために起きているのであって、学校、家庭でもう一度「物事の理」を教えなくてはならないという。要するに「道徳教育強化」論だ。後半は食育の大切さ。しかし結論部が間違っている。

 あまりのくだらなさに頭にきた。くだらないダジャレと細切れのトリビア的小ネタ。10年以上時代遅れだ。10年前なら正しかったってわけじゃないけどだまされる人はいただろう。でも今はくだらないだけでなく、自己責任論につながって有害ですらあると思う。何よりこんな死にかけたような元教育者をこの近辺にPTAが何度も呼んでいるらしいってことに絶望した。腹がたったので、講演の間中アンケート用紙にぎっしりと批判的感想を書いていて、後で提出した。

 最近また新たに発生した食品偽装問題を見てもわかるように、今起きていることは、グローバル化に伴う価格競争、経済状況の悪化で企業がもはや節約や人件費削減だけでは持ちこたえられなくなっているということだ。生きるか死ぬかというときに倫理道徳など説いても効果ない。それにそもそも、じゃあ昔は倫理道徳が徹底していたから悪どいことはやってなかったのかって言えばそれも疑問だし。ともかくいい加減すぎる。こんなことしか言えないような人が有名高校の校長を何年もやってたのか。あんな人に講師料を払うのか。もったいなさすぎ。うちの学校の校長先生の方がよっぽど現実的で具体的で進歩的なことを言う。私が今までに聞いた講演の中でもワーストの部類だ。最近のPTAはこんな講師にだまされるようになってるのか。腹がたつというのは講演そのものだけでなく、PTAがおかしいんじゃないかっていうのもあるのだ。

 5年ぶりくらいにPTAの役員になったら、委員会で全然言葉が通じなくてびっくりした。最初は言い方が短絡的すぎるのかといちいち用語の解説を交えて説明するのだがそれでも通じない。そもそも誰も一言もしゃべらないのだ。まるで「しゃべったら負け」みたいな切迫した顔をして押し黙っている。おかしい。10月に講演会を開くのでテーマと講師を決めようと討議を重ねたが埒が明かなかった。「こんな話が聞きたいとか、最近興味がある分野とか、自分が悩んでることとか、なんでもいいから言ってみて」と聞いても黙っている。「私はねメディアリテラシー教育とかネットトラブル対処法について親子で聞ける講演なんかもいいんじゃないかと思うけどだれか詳しい人いないかな」と、いくつかテーマを上げても黙っている。(「本校の生徒もネット犯罪に巻き込まれた」という報告が理事会であったのはその2ヶ月後くらいだったから全然無関係な話というわけでもないのに。)うんともすんとも言わない。まいった。私の言っていることが理解できないっていうのでもない。みんな私よか賢いし、現役の小学校の先生もいる。なのになぜ進まないかと言うと、何か喋って責任を取らされるのを恐れているようなのだ。そもそも討議して自分たちで何かを決めて自主的に実行していくという習慣があまりないらしい。前例踏襲か、上から割り当てられたことを淡々とこなしていくようなことしかできない。前例にすごくこだわる。そして、意見を言うときに小声で私の耳元で囁いたりするのだ。ちゃんとみんなに言えよ。小学生か!

 なぜ今年はこんなに違和感を感じるのか、つらつら考えた。ひとつは私自身がインターネットで多くの情報に触れ、以前だったら絶対読まなかったような本も読むようになって成長したこともあるだろう。だけど、5年経つうちにPTAを構成する人たちの側が変化してきたってことの方が大きいように思う。以前はまあ、一人や二人はわからなくても積極的に意見を言う人がいた。かなり年輩の人で、末っ子が小さいので延々PTAやってますみたいな人や、ボランティア、生協の役員、婦人会などいろんな組織で場慣れしてる人もわりといた。年々そういう貫録のある人が減ってきてるのだ。と、同時に社会のいろんな問題に対する関心が薄くなって視野が狭くなってきている。人前で意見を言うのを極端に怖がるようにもなっている。なんだ、これ?

 会議ではかばかしい議論ができないので後で個別に電話連絡をして根回しをする。その点でもおかしいのだが、以前は「あの人とは親しいから私から言っとくわ」みたいにグループがあったのだがそれがない。「伝えといて」と言っても伝わらない。仕事が忙しいってだけじゃないらしい。変だ。情報伝達の効率が悪い。

 で、やっとこの頃わかったのだ。「素粒子」ってそういうことだったのか。人が砂粒のようにバラバラでまとまりがなく、互いに孤立感を抱いている世界。うっわー!

 最近はさ、自民党の議員だって「日本は危機的状況にある。かつての経験則が通用しなくなっている。これから国をどういう方向にもっていくか、みなで真剣に考えなくてはいけない」などと言うのだ。なのに大人が(PTAが!)こんなんで、議論もできない状態じゃどうしょうもない。

デジャヴといえば

2008-09-07 23:59:18 | 日記
 最近、娘がまた猫を拾ってきた。真っ白で先住猫ピーの小さかった頃にそっくりだ。なぜ白ネコばかり落ちているのだろうか。これぞほんとのダブルホワイト。
 もっとも、今ではピーの方はすっかり貫禄がついて、外をほっつき歩いてばかりいるから毛色もまだらになっていて、とてもホワイトとは言い難い。困ったのはピーが新入りを敵対視して、家に入らなくなってしまったことだ。ああ、キャッピーの二の舞か・・・。餌も「キトン」に「アダルト」に「ペーハーコントロール」と買い分けて、いろいろ気を使わなくてはならない。
 夜中に猛スピードで子猫が走りまわるのとか、襖や障子がバリバリにされるのとか、パソコンの前で邪魔されるのとか、犬が猫エサを盗み食いして猫がやつれるのとか、いろいろとすでに解決済みと思っていたことがまた最初からやり直しになのでデジャヴを感じて眩暈がしてくる。


 もひとつデジャヴといえば、福田総理の辞任表明であるらしい。ニュースのキャスターがデジャブを感じると言っていた。
 だけど私は全然そうは思わない。安倍さんは安倍さん。福田さんは福田さんだ。第一みんな「辞めろ、辞めろ」と大合唱してたじゃないか。「辞めてくれてありがとう」と感謝するのが筋というものだ。9月2日の朝日新聞社会面に「また放り投げ退陣」「生活不安置き去り」と、バカでかい見出しが出ている下の方に「困った人の心に明るさ」と、小見出しがあったから「ああ、やっぱり喜んでる人、いるじゃないの」と思ったら、それは亡くなったペシャワール会の伊藤さんのことであった。
 私としては、自民党が「死に体」のまま解散総選挙に追い込まれて民主党圧勝というのが理想的なパターンだと思っていたから福田総理にはできるだけ延命してほしかった。麻生さん→ポピュリズム的人気→自民党持ち直しというパターンが一番いけない。だけども民主党圧勝→スキャンダル噴出、政策の失敗、海外の信用低下、株価低迷→「やっぱり自民党しかないのか」みたいな最悪のパターンも十分ありうるので何がよいのか悪いのかいま一つわからない。きっと映画の「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」みたいに「塞翁が馬」なのだろう。

 公明党の「定額減税」については、
 「過去の地域振興券ってやつを提案したのも公明党じゃありませんでしたっけ。あれって景気対策に効果ありましたっけ?私の周囲の主婦たちは『くれるというならもらっておくけども、みみっちいったらありゃしない』とたいへん馬鹿にしていました。世紀の愚策って言った人もいたんじゃありませんか?私はあのとき、『こんな愚策を提案したのは公明党だったってちゃんと記憶しておこう。二度としないように』と思ったのです。」
と言いたい。これこそがデジャヴじゃないか!
 まあ、くれるというものならもらっておくけども、そのぶん政府と政治家というものへの不信感が増すだけで、使ったりしない。今個人ができることは「住宅ローンの圧縮」「家計の固定費を減らすこと」「食品の値上がり分を節約によってカバーすること」「旅行をしない。できるだけ車に乗らない。遠出しないこと」だ。だから減税してくれても貯金するか住宅ローンの繰り上げ返済に回す。(ローン圧縮のために借り換えた金融機関が、今年から1万円単位、手数料無料で何度でも繰り上げ返済ができるようになったのだ。)
 公明党の支持者は、そんなことも考えられないようなバカばっかりなのか!あくまで減税を主張するならちゃんと後で効果を検証しろよ。そして、失敗したときには責任を取れよ!

 いろいろ考えてもわからないことばかりで、「きっと、もうあれもこれもできるという状況じゃなくなったんだろうな」と思う。たとえばうちの家だったら、今一番大事なのは子供の学費を確保しておくことで、そのために貯蓄していくとしたら車の買い替えや旅行や造園や家電製品の買い替えは控えなくてはならなくなる。10年前の試算ではあれもこれもできたはずなのだけど少し計算が狂ってきたのだ。きっと国の財政も、あれもこれもと欲張ってできる状況ではないんだろう。だったら何を一番優先し、何を後回しにするのか、優先順位をつけて「このままでは日本の将来はこうなる。だからこのような方向に戦略を変えなくてはいけない。そのために今これをしなくてはならない。」と国民にはっきりと説明してほしい。政治家は。選挙を控えてうやむやにするのではなくて、「歳入の確保のため、消費税を上げます。しかし、生活に困窮するような人たちのためにこのような対策をとります。」と、一度ちゃんと説明してみればいい。それでヒステリックに「消費税反対!」とかつての社会党みたいなことを言う人はバカなのでほうっておけばいいと思う。

宮台ブログを読んで

2008-04-12 14:26:28 | 日記
 最近がっくりきたのは、山代巴「連帯の探究 民話を生む人々」(未来社)を読んでいたときのこと、山代さんがずっとかかわってきた農協婦人部の下部組織で生活改善や読書会勉強会などしているグループの文集に、選挙運動で自分の意に反した活動をしなくてはいけないという苦境を延々と綴った人の話があって、「なんじゃこら、40年も昔から全然変わってないじゃないか!」と思ったこと。その頃は「部落推薦」というものがあって(あー、これ被差別のことじゃないからね)わがから出た候補者は必ず応援しなくてはいけないんで農協婦人部の部長などという地位にある人なら選挙カーに乗り込んで声を張り上げ、演説会で心にもない応援演説をして票集めをしなくてはならなかった。けど、その人は実際は共産党候補に投票したらしい。華々しい応援をうけた部落推薦候補はドン尻当選で、選挙事務所が閑散としていた共産党候補がトップ当選という予想外の結果に溜飲を下げたそうだが、そのころから「二枚舌」使っていても選挙の現状は全然進歩していないじゃないかと私は思った。このあたりで「町内会推薦」が取りやめになったのはつい5、6年前で、その時の町内会役員会にたまたま出ていたが、町内会長がこの度は別の候補を応援するから「わしは困る」と言い、班長の人たちも「職場推薦の人を応援しなきゃいけないので町内会から後援会に入れと回覧を回されても困る」と不満が出てきて取りやめになった。それまで回覧で後援会の入会書を回していたらしい。私は町内会組織を使って選挙活動をしていたのかとびっくりした。近隣では未だにやってるところもある。

 先日の市議会議員選挙で「マニフェストで勝負せえ」と思ったが実際にはネット上にマニフェストを書いている人はほんの数人だけだった。ほとんどが現職市会議員、旧町会議員、公明党推薦、共産党推薦で、組織と地盤頼みの人ばっかりだ。つまり組合なり町内会なり宗教団体なりが推薦したら何も考えずに投票するのねえみんな。投票率もひどく低かった。40年前に自我に目覚めて密かに反乱をしていた女性たちはどうなったのか。結局そういうやり方ではだめだったんだな。


 たまたまPTAの関係で「人権平和資料館」の検索をしていたら(自称)保守ブログが引っ掛かってきて「抗議先」電話番号などと書いてある。福山大空襲の資料や「の歴史と解放のあゆみ」ってどこが悪いの?リンク先のどこが悪い?とか解放同盟とか言うとすぐにエセ団体の恐喝や利権の問題と絡めて脊髄反射的に「悪の集団」と罵倒するんだな。こういうIZAに多い右翼ブロガーってなんで歴史的な経緯をスッポリと抜かして「これこれは反社会的」と決め付けるんだろう。そういう批判はものすごく不毛だと思うが、そういう2ちゃんねる的右翼が増える一方なのはどうすればいいのかとも思う。チベット問題に関しても、中国叩きの口実として利用しているだけじゃないか。聖火リレーを妨害したところでそれで中国政府が方向転換するわけじゃないだろう。余計態度を硬化させて日本に対する心証も悪くなるだけだ。昨日地元FMラジオを聴いていたら番組に寄せられた意見も「聖火リレーの妨害には反対だ。オリンピックとチベット問題を一緒にすることは間違っている。」というものばかりだった。多分過激な意見はふるい落とされたんだろうけど、「一般市民はわりと冷静なんだな」と少し安心した。

でもじゃあ、この問題に関して実効性のある働きかけとはなんだろうと考えていたところ、宮台ブログにこの問題に関して記述があった。メディア報道において多元的視野が失われており、それが世論の反応をステレオタイオプなものにしてしまって、問題の本質を取り逃がす結果になっているということの例として「道路特定財源」「チベット問題」「大連立問題」が取り上げられている。

「道路特定財源を一般財源化して地方に配分しても、地方はそれを適正に使う能力がない」と先日、例の「合併しない宣言」の根本元町長が朝日新聞に書いていた。宮台は「一般財源化ではなく、道路整備、環境対策、安全システム整備、交通遺児対策、高速料金無料化などに幅広く使えるようにする」という案を提案している。これならすっきりして納得しやすいと思う。

「チベット問題」に関しては、中国はチベットの水と鉱物資源が目当てであって、チベット仏教が経済発展のために山を掘削したりダムをつくったりということを許さないから迫害をしているのであって、中国13億国民が生き延びるためにいわば「確信犯的に」弾圧しているわけだから倫理的批判は通用しないと言っている。そんなきれい事の批判はハナから「折込済み」なのだ。「大善のために小悪をなすを憚るなかれ」。これはかつて日本が「欧米列強の植民地化から大東亜を守るため」「侵略」したり、独裁者から善良なイラク国民を救済するためアメリカが「侵略」したりしたのと同じスタンスだ。では、このように国家目的や統合目的によって合理化された行動にかろうじて有効な反論の方法はというと「そのような手段の方法がかえって国家目的や統治目的の完遂を妨げる」ことを納得させることだという。歴史的に見てそういう方法はあとあと禍根を残し、決して引き合わないと中国に教えるのだ。その点、日本にはそのような歴史的経験があるからそれを語ることができる。なるほどそういうアプローチの仕方があるか。逆に言うと日本国内でアイヌ民族の迫害や差別の歴史を嘲笑するような人たちに他国の少数民族迫害を非難する資格はないだろうと思う。

 ところで、上記の文章「一国を自壊に導くテレポリティクスの悪夢」2008-4-11投稿を読んだのは昨夜であるのだけど、今見ると見当たらないのは消されているのですか?引用してもよかったのだろうか。私は最近目が疲れるので印刷してから読んでいるんだけどそれもいいんだろうか。
(気になるのでタイトルで検索してみたらやっぱり消えていた。何がいけなかったのかな?言及してもよかったのかな?)


 それから和田中学の藤原和博元校長との対談抜粋と藤原先生のファインランド調査報告を読んで、やっぱり教育かーと思った。ちゃんと実践のノウハウを公開してるじゃないか。先日、子どもの中学の校長先生が、学校の抱える問題をいろいろお話しされたんだけど、これから団塊世代の大量退職が始まると10年後にはベテランが減って、新米教師が4割を占めるようになるとか。今から新任教師をサポートする体制をとっておかないと公立の学校は教育崩壊を起こす。地域や保護者の協力も欠かせないとのこと。この「学校支援本部」ってのは有効な手段だと思うけど、うちのPTA活動を見ていて実際はなかなかむずかしいだろうなあとも思う。前の経験では提案したことがことごとく反対され、誰が責任をとるのかとか言われた。私の姉は、図書館のデータベース化をしろと校長に言われてボランティアを募ったところ、パソコン操作などまったくできない老人会の人たちばかりが来て、指導に時間がかかって仕事は進まず、死にそうになったと言っていた。「人権」っていうと子育てとこころの話になってしまうし、「情報リテラシー」なんていうと全然わかんなくてみんな沈黙してしまう。どうするかなあ。

靖国とか

2008-04-07 02:00:44 | 日記
 最近思ったことをまとめて書いておこう。

 ネット検索してて見つけた佐藤優氏のコラムだが、「うっへー、むちゃくちゃ右翼じゃん!」みたいな文章満載だった。「沖縄県民との歴史認識の差異」なんか読むと佐藤氏が最近言う「危機意識」みたいなものがわかるんだけど、それで国家の分裂、弱体化を防ぐために「南朝精神に帰ろう」とか言われてもなー。
 南朝精神に帰れ(中) より
 皇統によって、権威が保たれている。いかなる権力者も、究極的な権威を獲得することはできないというのが日本の伝統である。ここから、権力をもつ者は、皇統に照らして、自らが権力を乱用していないか、日本の伝統に照らして、自ら の政治的行為が恥ずかしくないかどうかの基準にするのである。「何を時代錯誤な。そんな神懸かりの発想を政治に持ち込むのは危険だ」という批判がでてくるのは承知の上だ。しかし、あえて言うが「神懸かり」を政治に持ち込むことが重要なのである。皇統こそが超越性を担保する。

 いやいや「神がかり」と政治が結びつくことで今まで散々ひどい目にあってきたんじゃなかったか。宮台なんかは「権威」と「権力」ははっきり分けて、天皇は極力表に出ないで神事に専念して頂くことで神聖さを守るべきということを言っていた(はず)。「神聖なるもの」はまあ人間にとって必要なのだろう。だけど世俗の権力をそれで担保するみたいなのは絶対だめだ。結局は専制政治になってしまう。

 そりゃあ、最近いろいろとニュースを聞いていてもこの埋めがたい思想的な溝はなんだ!と思うことが多い。映画「靖国」の上映中止問題とかね。だからって「皇統思想」とか「大和魂」による日本人の意識統一が必要とか言われるとうへー、と思う。できるもんならやってみろってんだ。

 朝日新聞に載ってた「靖国」上映中止の圧力をかけたという人のブログ(草莽の記 杉田謙一)なんだかこの傾向の人はみんなステレオタイプですね。反中国 反北朝鮮 南京大虐殺はなかった 拉致被害者家族支援 在日外国人参政権反対 チベット問題抗議。で、ちょっと中国に友好的な政治家だと反日とか売国とかっていうんだ。私がわからないのは、なんで戦時中、無差別爆撃によって多くの一般市民を焼き殺し、原爆を落として大虐殺したアメリカの責任を云々するというのではなくて大東亜戦争は正しかった、南京大虐殺はなかった、という方向に行ったり過去の植民地からの強制連行を認めないで拉致問題に激怒したりするのかってことだ。アメリカは相当ダブルスタンダードだけども、こういう2ちゃんねる的な右翼もまったくのダブルスタンダードだ。も一つわからないのは、なんでアメリカは日本の首相がA級戦犯の祀られた靖国に参拝することに不快を表明しないんだろうか。あんな潔癖なキリスト教原理主義者がいるような国が。これもダブルスタンダードなのか。たとえば人体実験の資料を提供する代わりに戦犯としての追及を免れるみたいに利用価値があるからまあ目をつぶっておこうってことなのか?きっと中国を仮想的国にした軍事防衛網を世界中に張り巡らせるために日本の右翼は思想宣伝的な利用価値があるという判断に違いない。そして、この人たちの主張を読んでいて思うのは、やっぱりこれは歴史的な資料とか通説とかの問題ではなくて精神的な問題じゃないかってことだ。たとえば、ベトナム帰還兵が「侵略戦争に加担した」と言われてプライドを傷つけられ、さまざまな問題を引き起こしたみたいに精神的な救済が必要な問題じゃないかと思う。それで、私なんかは、もう左翼は「言論の自由に対する弾圧」とかって過剰反応するんじゃなくて淡々と「合理的に」対応すべきだと思う。暴力を振るわれたとか街宣車が出て営業妨害されたとかいうのは法律的に訴えるべきだが「ご意見を伺いたい」って来られたらビビったりせずにちゃんと意見を言えばいいのだ。ほら、上記の人のブログのコメント欄でも一水会の鈴木邦男さんが「言論には言論で」と講演で言ってたって書いてあるじゃないですか。一般庶民を脅し上げて言うことをきかせるのはヤクザであって真正右翼じゃないはずだ。杉田さんも塾の先生らしいからまさかドスを振り回したり暴言を吐いたりはしないだろうし。

 昔、広島で市民団体主催の反戦平和集会があったとき、右翼の街宣車が来て、自衛隊の夏服みたいなのを着た眼光鋭い人が「この集会の主旨を伺いたい」と来たことがあった。主催者の日本キリスト教団の牧師さんが、自分の生い立ち(海軍士官学校のエリート候補生だった)からはじめて延々と平和への思いを語り、「私たちはきっと国を愛する心という部分で共感できる部分が多いはずだ」と言うと「いや、相当意見は違っているがまあ、あなたが主催するのならいいでしょう」とそれ以来妨害はまったくなかった。牧師さんは「やっぱり右翼の人は話がわかる」と言っていたが、そうか?集会がしょぼかったから妨害するまでもないと思われたんだとみんな言っていたけど。
 もひとつ、昔うちの実家の近くで国会議員の選挙にからんで街宣車は出るわ(出ずっぱり)怪文書はバラまかれるわの騒ぎがあったことがあったがこれなんかは利害関係がはっきりしていてわかりやすかったなあ。交通渋滞でえらい迷惑をしたので「バカヤロー」と言ってやろうと車の窓から顔を出したが、街宣車を運転しているのは落ち目のホストそっくりなしょぼくれたおっさんで「言われたとおりにやってるだけです」みたいなうつろな目で遠くを見ていたのでガックリした。その後しばらくして迷惑防止条例ができたんだったっけ。あんなのは恥さらしだと思った。

 それで、私は「靖国」を見たいかっていったら、ちょっとテレビに出てた限りでは軍服を着た若者がうじゃうじゃいたり、軍歌を流したりしてるみたいで胸糞が悪いので見たくない。慰霊の場所で、多くが戦争で悲惨な死に方をした人を悼むのになんでそんなコスプレみたいなことをしなきゃいけないのか。そりゃあ外国人から見たら異様な光景だろう。日本人から見ても異様だ。だけど、軍服を着て鉢巻をして歌ったり刀を振り回したりしたい人がいるんならそういうことができるところを確保しておかなきゃいけないと思う。もう右翼のサンクチュアリとしてそっとしておくのだ。「ガイアツ」をかけるとよけいひどくなると思う。むしろ、危ないのはあそこがなんちゃって右翼もはいりこめなくなるほど清潔で神聖な場所になることかもしれない。

三沢厚彦作品展 山代巴展

2008-03-08 15:38:02 | 日記
 美術館に「三沢厚彦 ANIMALS+plus」を見に行った。動物たちがかわいいというよりちょっと不気味で無愛想で不思議な存在感だった。さわってはいけませんと言われていたけどつい撫でたくなって、こっそりしろくまのおしりをなでなでしてきた。

 その後、文学館に行って「山代巴展」を見た。山代さんの経歴、作品紹介のパネル、本、書簡などがたくさん展示してあり、昔著作集を読んだときの感情が蘇って胸がいっぱいになってしまった。にわか右翼はよく「昔の日本人はもっと誇りがあって・・・」みたいなことを言うけど、「荷車の歌」や「囚われの女たち」に出てくる女性たちの人生はひどすぎる。あんな差別や人権侵害を当然としていた戦前の日本になんて絶対帰りたくない。奴隷のように自由も権利もなく、一生過酷な労働をしつづけた女性たちや植民地の人たちを犠牲にしてはじめて成り立っていた社会だったじゃないか。日本はそこから這い上がってやっと豊かで平等な社会になったのだ。たぶんもうみんな忘れてしまったのだろう。心配なのは日本が経済的に低迷し、だんだん貧乏になってくるにつれて、また誰かが誰かを一方的に搾取するような不平等な構造が生まれ、それを正当化するための思想的拠りどころとして戦前の思想が使われるのではないかということなんだ。うわー、絶対いや。
 また山代巴をきちんと読み返さなくちゃと思った。

 それから常設展に井伏鱒二の部屋があり、山椒魚が潜む岩屋コーナーもあったのでびっくりした。ボタンを押すと山椒魚がバタバタと動く。穴の中にはちゃんと蛙もいた。二匹とも飢え死にしたんじゃなかったのか・・・・。

 

シンクロニシティ その4

2008-02-20 23:54:17 | 日記
 えーと、「シンクロニシティ」というタイトルで文章を書こうかどうしようかと迷っていたのだが、今朝の朝日新聞文化面にポリス再結成ツアー東京公演の記事が載っていて、おお、これぞまさにシンクロニシティと思ったので、つまんないことだけどやっぱり書いておこうと思った(「再び照らし出す『共時性』」 音楽評論家 岡村詩野)。まったく、朝日新聞とはよほど縁が深いのだろう。たぶんどこか別の次元で電波が繋がっているのだと思う。
 私はロックにもポリスにもスティングにも関心はないのだが、彼らの代表的なアルバム「シンクロニシティ」はユング心理学の影響を受けて書かれたらしい。(You Tube より Synchronicity I and II)音楽的にはともかく、歌詞がわかりにくいし怖い。ここらへんのブログが参考になった。

 そんなことはどうでもいいのだ。私がシンクロニシティというのは「犬の散歩 3」の神様の夢の件についてだ。この日記を書いたその次の日、何気なく立ち寄ったブックオフで梨木香歩「丹生都比売(におつひめ)」(原生林)を買って読んでいてびっくりした。主人公、草壁皇子は何だかこの世ならぬものを感知する能力があるようで、ときどき古い装束の匂いを感じる。
 少しかび臭く、歳月を経て、染料が発酵を始めたようなにおいでした。

 それは後に、丹生都比売という神の衣の匂いであったということがわかる。

 ほほー、やっぱり神様はかび臭いのか。いやいや、偶然の一致だって!
 それにしても、この小説では草壁皇子の父、大海人皇子(後の天武天皇)一家が吉野山に蟄居していた頃のことを描いているのだけども、母である鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の母方の祖父、蘇我倉山田石川麻呂はかつて謀反の疑いをかけられて一族郎党皆殺しにされたのであるし、大海人皇子も実は皇位継承争いで今にも攻め滅ぼされそうになっているところであるし、この後には母方の従兄である大津皇子も殺されることになっている。文章の格調の高さ、繊細さとは裏腹に書かれている事実は底知れないおそろしさを感じさせる。(この小説ではさらに鸕野讃良皇女が自分の弟も姉も水銀で毒殺し、草壁皇子さえ殺したことを暗示する)そうだったそうだった。天皇家は血みどろの歴史を持っているのだ。
 強すぎる母っていえばやっぱりユング的だなあと、このことについてひとくさり書こうかと思ったけど自制しておこう。

 も一つ偶然の一致だったのはNHK「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」。
先日、ドストエフスキーの時にこのサイトを眺めていて、「白川 静って人は松岡正剛氏に似ていたのか。いやいや、人がみんな自分の知ってる人に見えるってのは老化現象の一種」と愚かにも思って、よくよく見たら解説者が松岡正剛氏であったのだった。

 白川静は「字統」「字訓」「字通」の「字書三部作」で有名な漢字研究者だ。白川氏の研究のユニークさは、漢字の成立を古代中国の人々の感情や世界観から解き明かそうとしたところにある。たとえば「口」という文字、これは人間の口のことではなく、「サイ」といって箱をあらわしている。祝詞や呪文のような大事な言葉(言霊)を入れておく箱のような容器のことだ。「言」は命がけの神との約束であって、文字は神とのコミュニケーションツールであったというのだ。漢字の成立過程のいたるところに、この神と人とのコミュニケーションの姿を見てとり、言葉と文字は古代社会の祭祀と記録の必要性から生まれたのであって、その背景には絶対権力を持つ王の誕生があったのだと言っている。たいへんスリリングなお話であったが、まあそんなことはどうでもよいのです。第二回「白川静という奇蹟」の再放送を昨日(2月19日)の早朝見ていたら、白川氏の著書が紹介されていた。
「孔子伝」 (中公文庫BIBLIO)「初期万葉論」 (中公文庫BIBLIO)
 孔子は実は下級の巫女であった母親から生まれた呪術師なのではないか、また、儒者とは雨乞いをするものたちのことだったのではないか、そして「万葉集」は古代社会の祭祀や秘密にかかわる呪歌であって、柿本人麻呂は「魂鎮め」の儀式を行う葬儀集団だったのではないかというのだ。
 (ここんとこちょっと訂正2月26日: 孔子は下級の巫女であった母親から生まれた私生児であり、その孔子が率いていた儒者とは雨乞いや葬儀をつかさどる下層の葬儀集団であったのではないか。そしておなじように、柿本人麻呂は「遊部」と呼ばれた葬儀集団のリーダーであったのではないかと推測されている。これら白川氏の推理は、発表された当時は非難されたが、最近では有力な仮説の一つとされているそうだ。)
うーん、おそろしい。しかし、古代社会においては「雨乞い」と「葬儀」は最も重要な儀式であっただろうから説得力がある。そして私たちは古代人たちが決して牧歌的な生活をしていたわけではなく、どれだけ無力で短命で、素朴で敬虔でかつ残酷であったかということに想像力を働かせなくてはならないと思う。

 やっぱ、あのおじいさんが雨乞いに関係していたのはあたりまえのことだったのだなあ。って、それも偶然の一致だって。
 いやいや、確かこういうのは「シンクロニシティ」ではなくて「セレンディピティ」とか言うのだったかな。

犬の散歩 6

2008-02-19 13:30:53 | 日記
 私は地面に開いた穴になぜか引きつけられる。子供の頃は蝉の穴やモグラの穴を掘り返したり、水を入れてみたり、何時間も庭で遊んでいたものだ。
 だから、公園のフジ棚の下にぽこぽこといくつも穴が開いていると気になってつい足を止めてしまう。蝉の抜けた穴が広がったのか、それとも蛇の穴か。自分で指を突っ込んでみるには年をとり過ぎて慎重になっているので、犬の前足を捕まえては「手、入れてみ」と穴に突っ込んでみる。犬は「キャン!」と鳴いてびっくり箱の仕掛けのように飛び上る。意気地のない奴だ。それ以来犬は穴を見ただけでさっと跳び退くようになった。そんなに嫌なのか?

 その時も、「手、入れてみ」「キャン!」「わはははは」というやり取りを楽しんでいたのだったが、ふと視線を感じて顔を上げると、ブランコのところに高校生の男女が座ってこっちを見ていた。私は赤面した。今までの犬との会話を聞かれていたのか、きっとアホに見えたことだろう。しかし、そのとき男の子の顔がこわばって青ざめているのに気付いてちょっと首を傾げた。「えーっと、あの顔つきは・・・・」どういう意味だろうか。何かに記憶を刺激されて思い出そうとした。彼らの制服は隣町の進学校のものだ。まるでテレビドラマにでも出てきそうな美男美女のカップルだ。そうか、あの顔は極度に緊張した時の顔だよ。
 何を緊張しているのか確認しようとしたとたん、彼らがキスをしているのが目に入った。うわー!何をしているのだ。

 それは「接吻」という言葉を思い浮かべてしまうような緊張感のある長々としたキスだった。シュールだ。こんなところで・・・・。私はあわてて立ち去ろうとした。とても見ていられない。ところが・・・

 犬がそわそわし始めた。まずい。この態勢はウンチだ。この犬はいつもフジ棚の下でウンチを催すのだ。かんべんしてくれ・・・・。
 しかし、犬は急がない。しゃがみこんでは場所を変え、またしゃがみこんでは場所を変え、とうとう接吻中のカップルのちょうど真正面のフジ棚の下に位置を決め、「ウッ、ウッ」と言いながら長々とウンチをし始めた。あー、いたたまれない。

 ウンチを拾って帰りながら私は、ファーストキスの目の前で犬がウンチしていたらさぞかし嫌な思い出になるだろうと人ごとながら心配した。きっと彼らは別れてしまうに違いない。そして後々「あのしけた公園のブランコで、犬がウンチしているまん前でファーストキスをした」という記憶を持ち続けてみじめになるのだ。かわいそうに。

 しかし、またこうも思った。これからの人生にはまだまだ嫌なことがあるよ。犬がウンチしていたぐらいなんだ!世の中にはねえ、もっともっと悲惨な体験をしている人がいるんだからそんなん屁でもないって。恋愛だってトレンディードラマみたいにはいかないんだから。とりあえず、公園で接吻するのはやめようよ。

 彼らはその後二度と公園に現れなかった。

犬の散歩 5

2008-02-18 23:12:55 | 日記
 ある夜、神社の方からなんだか騒がしい声が聞こえてきた。このところ夜になると、暴走族が爆音を響かせたりたむろしていることがちょくちょくあった。最近は慣れてあまり気にしないでいたが、次の日の夕方公園を通り抜けた時にはびっくりした。一面に花火の燃えカスが散らばっていたからだ。たばこの吸い殻や缶ビールの空き缶も散乱していて、何があったのかと心配になるほどだ。

 「またか」と私はガックリした。とりあえずゴミ拾いをして帰ったが、うっかりとたばこの吸い殻を残してしまった。すると、てきめん。次の日に吸い殻が増加していた。ゴミは仲間を呼ぶのだ。ムカッ!「吸い殻もイカンのだよキミたち」私は犬ほったらかしで吸い殻拾いをした。もはや散歩だかなんだかわからない。

 ところが集会の痕跡はさらにエスカレートしていく。なんと公園のど真ん中でたき火をしするようになった。ライター燃料の缶、ビール缶、吸い殻、焦げた木切れ。キャンプファイアーでもしたのか?男ってたき火が好きだなあ。楽しそうだなあ。いや、楽しいだろうなあ。だけどこんなところでしてはイカンのです。私は丹念にゴミを拾い、黒くなった地面を靴でごしごしこすって完全にたき火の跡を消して帰った。
 しかし、次の週にも小規模なたき火跡が見つかる。遠慮しながらやったようで吸い殻はなかったし水をかけて消した形跡も残っていた。そうまでしてたき火をしたいか?ダメったらダメなんだよ。

 これはもう、直談判しなきゃいけないなあと思った。だが一人では逆襲されるかもしれない。駐在さんに頼んで一緒に行ってもらおうと思いながら、ふと、私には注意する権利があるのかと考えた。私はただの通りすがりだ。氏子でもない。そこを突かれる可能性もある。ここを管理している氏子会に連絡してみようかなどといろいろ考えながら帰ったが、次の日に行ってみてびっくりした。公園に「火気厳禁」と書いたバカでかい看板が立っている。なんと!電光石火の早業だ。

 でも、なんだかヤだなあと思った。こんな看板を建てるより、直に注意した方が手っ取り早いじゃないか。私は看板が大嫌いだ。第一お金がかかる。看板を立てようなんて相談するより、みんなで揃って夜、見回りに行く方が早いと思うんだけどなあ。そんなに凶暴な奴らか?どうもそうは思えないのだ。子どもみたいにキャンプファイヤーをしたり花火をしたりしているんだ。看板なんて一旦立てればずっとあるじゃないか。目ざわりだ。

 それ以降、たき火も吸い殻もぱたりとなくなったので私は楽だったが、どうも釈然としない気持ちが続いていた。秋も深まったある日、エンジンを過剰にふかす音がすると思いながら公園に降りて行くと、バイクに乗った兄ちゃんたちが、5、6人たむろしていた。「あのたき火の子らか」と私は身構えたが、犬はまったくお構いない。喜んで突進していった。うわー、やめてくれー、因縁つけられるー、と内心焦りながら群れのど真ん中に引っ張られていくと、一人の兄ちゃんが「こんにちは」とにこやかに声をかけてきた。意外と愛想がよい。「あ、こんにちは」と言うと、兄ちゃんたちは「チッチッチッ」と言いながら犬の頭を撫でてくれた。気のいい奴らだ。ほれ、別に凶暴でもなんでもない。それから2、3度彼らを見かけたが、あちらから挨拶してくれるし、バイクがうるさい以外は問題なかった。やっぱり看板は不要だったと思うな。

犬の散歩 4

2008-02-17 22:15:17 | 日記
 神社上の広場を下りると下には公園があって、ちょっとした遊具もある。子どもたちが時々遊んでいる。私が犬の散歩でそこを通り抜けるのは薄暗くなりかけている頃なので子どもの姿は見えない。そのあたりでしばらくウロウロするのだが、春あたりからブランコのそばにゴミが散乱しているのが目立つようになった。

 この公園は昔はただの空き地で、遊具もみんな壊れていたのを、氏子会や老人会が定期的に清掃整地し、昔壊れていた遊具もだんだんに修理されて公園らしくなってきたところだった。少しゴミが散乱しているだけで荒涼とした感じがするので、私は通り抜ける際に拾って帰ることにした。毎日拾った。ところがゴミはなくならない。それどころかまるで私を待ち構えているように大きな顔で派手に転がるようになった。ジュースの紙パック、おにぎり、サンドイッチ、ポテトチップス、アイス、土曜日にはお弁当のから。

 コノヤロー!誰が捨てているのだ!
 私はゴミを仕分けしながら捨てた人物を推測してみた。この品揃えからして女の子だ。(いちごミルクのアイスやオムライス弁当、野菜たっぷりサンドとヨーグルトドリンク、鶏五目おにぎりとポッキー)しかもお小遣いの額からして高校生以上。(小学生はこんなには買えない)両親共働きで多少放置気味。・・・うーん、このあいだブランコに座って楽しそうに話をしていた高校生くらいの女の子二人組があやしい。ちょっと!あなた方はここでゴミを捨てても次の日には跡形もなくなっているのををおかしいと思わないのですか?この公園はゴミが魔法のように消えてしまうとでも思っているのですか?そもそも、こんなのどかできれいな公園にゴミをぽいっと捨てることが平気なのですか?

 私は毎日毎日ゴミを拾い続けた。放置される袋は近所のコンビニのものなので帰り際そこに立ち寄ってそれらを店頭のゴミ箱に捨てる。「カエサルのものはカエサルに」
 わたしの無言の怒りが伝わったのか、ゴミはだんだん肩身が狭そうな表情をし始めた。徐々にブランコの後ろに寄り添うようになって、じりじり後退してゆき、ついにはサツキの茂みの中に隠れはじめた。ちょっとあなた方!サツキの剪定をしたことがありますか?
 そしてついにはブランコを離れ、藤棚の向こうの斜面の下に落とされるようになった。逃がすものか!私は犬を連れて斜面にしがみつきながら一つ残らず拾った。古くから放置されているゴミもついでに拾えるだけ拾った。もうこうなると執念だ。私は分別用に2、3枚の袋を準備して行き古い空き缶やビン、雨に晒された新聞紙なども拾い続けた。散歩だかなんだかわからない。夏になり、氏子会の清掃活動で斜面の藪も刈り取られ、「これでゴミ拾いもしやすくなった」と思っていたある日、突然ゴミが消えていた。
 やったー!ついに私の気迫が不作法なやつらを撃退した。だが、それは夏も盛りのことだったので単にブランコ周辺が雑談に適さなかっただけかもしれない。サツキの茂みは蚊の巣窟になっている。10分も座っていたら20か所は刺されるな。私は電撃ラケットを持ち歩いているから平気なのだが。

 秋風が吹いてくる頃、神社からの帰り道で二人の女の子たちが遊んでいるのを見かけた。石の鳥居の真下でぽんぽん小石を放っている。ムッ!あれか?遠目にもたいへん目立つ格好で、一言で言うならバービー人形みたいだ。茶色の巻き髪、ミニスカート、厚底のブーツ、長い脚。場違いだ。こんな田舎で、しかもこの神社で、何をやっているのか。鳥居の下で・・・。こいつら!
 「あのブランコのところでゴミをちらかしていたのはあなた方でしょ!」と私は問うて説教するつもりで近づいて行った。「あの・・・」
「あっ!かわいいー!」
 そのとたんに女の子たちがこちらに駆けてきて犬のまわりに寄った。「かわいいいぬー!」なんだか脱力するような声だ。犬はニヘラ~とした顔でしっぽを振りまくり、スキップするようにぴょんぴょん跳びはねた。「あららー」私もなんだかニヘラ~としてしまってまるで犬バカおばさんのようにニコニコしながら手を振って通り過ぎてしまった。振り返ると、女の子たちは石投げを再開していて、「今度は私ね」などと言いながら鳥居の上に小石を放り上げていた。それまで気づかなかったが、鳥居の上にはたくさんの小石が乗っかっていた。きっと「鳥居の上にうまく石が乗ったら願が叶う」という類のおまじないでもあるのだろう。くだらない。次の日やってみたが、全然乗っからなかった。

 バービーちゃんたちは春から夏までかかってやっと「公園にゴミを捨ててはいけない」ということを学習したようだ。やれやれひと安心・・・とはいかず、この頃からまた新手のゴミ捨てらー(私の造語)が現れた。どこまで続くぬかるみよ・・・。

 つづく

犬の散歩 3

2008-02-16 15:21:26 | 日記
 神社の上の広場には、古い古い祠がある。その傍に大きな石があるのだが、これが何だかよくわからない。人為的に置かれたものには間違いなかろうが、それは四角い粘土をげんこつで殴りつけたように真ん中がへこんでいて、いつも水が溜っている。もしやお清めの手水鉢なのかとも思うが、それにしては水が汚すぎる。現代彫刻の作品という可能性もありうるなあとしげしげ眺めるが、それならば作品名や作者名がどこかに書いてあるだろう。説明らしきものは一切ないのでこれが何だかわからない。しかしそんなことに頭を悩まさない犬はこれが大のお気に入りだ。いつも覗きこんでは水をぺちゃぺちゃ飲むのを日課にしていた。

 溜っているのは雨水なのでだんだん汚れてくる。色は紅茶色からコーヒー色に変わり、底に沈んだ落ち葉が腐ってヘドロ臭もしてくる。いかに言っても健康に悪かろうと私は犬にこの水を飲むのを禁じ、水筒(アルカリイオン水入り)を持参するようになったが、犬はもちろん言うことをきかない。隙を狙ってこそっと飲む。アルカリイオン水をたらふく飲ませてやっているのに・・・。どれだけ叱っても吸い寄せられるように石に向かって行くので、ある日、いったい何が犬を誘引するのかと調べてみることにした。木の枝を拾ってきて、それで手水鉢の中をかき回してみると、はなはだしい腐臭がして枝にすずめの羽根が引っかかってきた。ぎょっとしてさらにかき回すと骨のついた翼が出てきた。暑い盛りのことでウジも湧いている。汲み取りトイレによくいるやつだ。こんなところにいるなんて・・・・。こんな水を飲んでいたのか、と私は鳥肌が立つ思いで木の枝を投げ捨てた。限界だ・・・・。

 私は下に降りて神社脇の公衆トイレからバケツとデッキブラシを拝借し、水も汲んで来て、ヘドロの入れ物になっている手水鉢をごしごし洗った。何度も水を替えて洗い、ブラシでこすって中の水が完全になくなるまで撥ね飛ばした。これでいい。完全に乾いてしまえば、当分犬の悪食で悩まされることはないだろうと満足して家に帰った。しかし、甘かった・・・・。その晩、久しぶりに大雨が降り、次の夕方行ってみると手水鉢にはまた満々と水が溜って溢れそうになっていた。犬は大喜びでぺちゃぺちゃ飲む。よいのか?

 やっぱりこれはよくないと思い、またデッキブラシを拝借して水をかき出し、カラにして帰った。そしてそれから3日後、また雨が降り、水満々。3度目に掃除した直後にまたポツポツと降ってきたときにはさすがに気味が悪くなった。これはどういうことか、と帰る道々考えていてふと思いついたのは「センサー」という言葉だ。そーか!これは神様のお天気センサーで、この手水鉢の水がカラだってことは相当長く日照りが続いているってことなので、「じゃあ、そろそろ雨降らそうか。どっこいしょ」なんて雨を降らせるための指標になっているのだ!わはははは・・・

 んーなわけないだろが!
 私はフレイザーの「金枝篇」を思い出した。確か、偶然の一致が度重なってジンクスとか迷信とかができ上がっていく過程を考察していたはずだ。「手水鉢の水を捨てる→雨→水を捨てる→雨→水を捨てる→雨・・・」なるほど、たった三回だが私は恐れを感じて「この岩は神様の大切な道具だから、さわってはいかんのだ」と思いこむところだった。結局、土俗的な風習とか信仰っていうものはもともとこういうふうにしてでき上がっていったものなのかもしれないな。などと偉そうにわかった気になったが、もう手水鉢にはさわらないことにした。いや、別にバチが当たるとかそういうことを思ったわけじゃない。ち、違いますって・・・・。
 ついでに祠に手を合わせて「家内安全、交通安全、宝くじの大当たり」をお願いしてきた。まー、初詣に行かんかったしね。

 そうしたら、その晩夢に変なおじいさんが出てきた。
「そんなにいろいろ言われても、わしはできんぞ」
「はっ?えーっと、どちら様でしたっけ?」
「わしはこの神社の神さんじゃ」
「えっ!おじいさんって神さんなんですか?」
 私は夢の中でふと思い出した。あの祠のある反対側の山の端っこには大昔の豪族が葬られた跡があって、つまりこの山は全体が古墳であったということを。
「あのー、おじいさんはあの古墳の主ですか?」
「そうじゃ」
「じゃ、ゆ、幽霊?」
「いや、幽霊ではない」
おじいさんはにこりともしない。愛想のかけらもない水気の少なそうな顔は、私の死んだ祖父にそっくりだ。着物はもとは青かったらしいがすっかり色あせて灰色になっているし、黒い変な冠をかぶっていて、履物も草履ではなく黒いぽっくりみたいな履物だ。カビと薬のような臭いもするので私はできるだけ息を吸い込まないように気をつけながら聞いてみた。
「えーっと、宝くじで一億円というのは無理としても、交通事故に遭わないようにというお願いはどうですか?」
「それもできん」
「政治的なことは?」
「できん」
「だって、あそこに平和祈願って石碑が立ってるじゃないですか」
「わしは、このあたり一帯のことしか知らん」
「じゃあ、何ができるんですか?」
「雨を降らせることじゃ」
「雨?」
冗談など考えたこともないようなくそ真面目な顔だ。
 そーかー、昔は雨が降る降らないは農作物の出来に関わる重大事で、ほとんど死活問題だったんだー。でも、今はそんなのほとんどどうでもいいことだ。
「しかも、このあたり一帯にだけ?」
おじいさんは頷いた。
「だめじゃん」
おじいさんは表情を変えなかったが、喉の奥で笑っているようだ。声までカラカラで不気味に響いたので私はちょっと怖くなって後ずさりしながら
「わかりました。ありがとうございました」
と言いながら坂を駆け下りて帰った。

という夢を見てしまったとさ。

犬の散歩 2

2008-02-15 16:55:50 | 日記
 以前テレビの「トリビアの泉」で、「ご主人が崖から落ちそうになったら助ける雑種犬は・・・」というトリビアがあって、実験の結果は50匹中たった3匹だったが、家族と見ながら「そりゃあ、何の訓練も受けず、非常事態になったこともない犬が自分で考えてなんとかできるわけがないよ。これは頭の善し悪しの問題ではないと思うけどね。」と話したことがある。雑種犬を試す類似のトリビアはいくつかあるが、いずれも結果は芳しくない。それは当然だろう。犬にも向き不向きがある。飼い主だっていつか恩に報いてくれると思って飼ってるわけでもあるまい。私なんかもテレビを見ながら「この犬、すごく変な顔。毛並みが悪い。ちゃんとシャンプーしてるのか?やっぱりうちの子が一番かわいいね。あっ、この子はうちのにちょっと似てる。頭がよさそう。あー、やっぱりだめか。」などと犬バカ丸出しであった。

 昔、夫は飼っていた犬に救出されたことがある。

 散歩の途中だった。神社へ上がる道に、歩道から用水路を跨いだ小さな石橋が架かっていた。犬はちゃんと直角に曲がって橋を渡ったのだが、夫は走りながら斜めにぴょんと跳んだ。飛び越えられると思ったらしいが、少し歩幅が足りなかった。用水路に落ちて側壁でしたたかに胸を打ちつけてしまった。あばら骨にひびが入って、激痛のあまり溝の中にしゃがみこんでしまったそうだ。
 夫によると、「痛みがひどくて息もできない。ずっと溝の中にしゃがみこんでいたが、こんなところにいつまでもいたら死んでしまうと思って、思いきって立ち上がったら、目から火花が散った。」というくらい痛かったそうだ。用水路はかなり深くて、立ち上がっても頭がやっと出るか出ないかという高さだ。車が来たので痛くない方の手を伸ばして「おーい!」と叫んだが声がかすれてほとんど出ない。車はそのまま行ってしまった。がっかりしてそのまま側壁にもたれかかって突っ伏していたという。
 そしてその頃犬はクンクン鳴きながら歩きまわっていたのだが、走って行ってしまったので夫は自分を見捨てて家に帰ったのだと思い、悲痛な気持ちになったという。しかし、それはすぐ傍の家の奥さんが自転車で買い物から帰って来たのを見つけて走って行ったのであって、奥さんによれば「犬がクンクンいいながら走って来て何かを訴えるので、ついて行ったら人が倒れていた」ということで、すぐに救急車が呼ばれた。よかったよかった。事故の後、間もなく石橋は幅が倍くらいに広げられた。

 犬はその後、救急車の音を聞くとクンクン鳴きながらオロオロ歩きまわるようになった。おもしろいから私はその犬の前で倒れたふりをしてみたことがある。一度目はオロオロして服をくわえて引っ張ろうとしたが、二度目にやったときにはうさんくさそうに顔を嗅ぎまわっただけだった。三度目だともう完全に無視だった。犬を試してはいけない。
 その犬は柴犬でたいへん賢かったのに、夫が転勤して家を離れた時、世話ができないからとお義母さんが近所の家に譲ってしまった。私はそれを聞いた時とても悲しかった。なんで犬をぽいぽい人にやれるのだろうかと思った。あんなに賢い犬ってちょっとそこらへんにはいないよな、と思っていたらトリビアでそれが証明されたので、夫があまり思い出したくないらしいあの事故の話を子どもたちに聞かせてやったものだ。

 今うちで飼っている犬はどうだろうか?到底救出してくれそうにない。きっと大喜びで遠くまで遊びに行って、帰って来なくなるに違いない。

 それよりも最近心配なのは、犬自体が事故の原因になるかもしれないという不安だ。犬は神社の坂道で早く上に行きたいと馬車を引くようにして紐を引っ張る。私は息が切れるので坂の途中でリードをはずしてやることが多い(ほんとはダメなんだけど)。犬は弾丸のように走り出し、上まで一気に駆け上がると、杉林の方に抜けてUターンし、今度は坂道を駆け下りてくる。私が遅いので呼びに来るのだ。しかし、私のところで止まるわけではない。ドン、と体当たりすると下まで駆け降り、Uターンしてまた駆け登ってくる。そして後ろからキックして私のことを突き飛ばす。横っ腹にぶつかられるのも結構きつかったが、足をキックされると完全に前に倒れてしまう。15キロの米袋が時速30キロくらいで飛んでくるのだ。そりゃあ痛い。ご主人さまをバカにしているとしか思えない。
 私は想像する。もしも前から飛んできて膝をキックされたらきっと膝の関節がグキッとなって歩けなくなるに違いない。あんな人気のないところで倒れてしまったら、救出されるのは夫が帰ってきた後の夜中になることだろう。それまで私は神社の裏の林の中に倒れているのか?夏ならば藪蚊の餌食になるだろうし、冬ならば凍えて死んでしまうかもしれない。犬はどうするだろう。きっとバカだから「やったー!」とか言ってうれしそうに走り回ってどこかに行ってしまうだろう。そして遊び疲れたら家に帰って小屋に入り、何事もなかったかのような顔で寝るに違いない。あー、悔しい。
 想像するとムカムカと腹が立ってきて、坂道を2、3回往復する犬が私にぶつかってくる時に蹴飛ばしてやった。すると犬はゲホッと言ってそれ以降はキックしてこなくなったのだが、私は蹴飛ばしたときに膝がグキッとなって、ときどき痛むようになった。今も痛い。犬を蹴飛ばしてはいけないのだ。

犬の散歩 1

2008-02-14 23:45:33 | 日記
 昨日のニュースで、犬の散歩時に防犯パトロールをするボランティア活動が紹介されていて、「わあ、ちょっと嫌だな」と思った。隣近所の付き合いが希薄になって人目が少なくなってきたところをいかに埋め合わせるかということで、防犯カメラか住民によるパトロールかって選択になるのだろうけど、犬の散歩くらい自由気ままにしたいものだ。調べてみたら「わんわんパトロール」なるものが全国各地にある。そういう時代になったのか。


 以前、近所の神社を散歩コースにしていた。神社の上がちょっとした広場になっていて、リードをはずして走り回らせるのにちょうどよかったからだ。今は距離が足りないのでルートを変えている。神社に毎日行っていた頃、ちょっと変なことがいろいろあった。たとえば、が落ちているのだ。

 神社の上の山は広いグラウンドのような空き地になっている。ここは祭りの際にみんなで神楽を舞う場所だから常にきれいに除草されている。斜面には桜の木が何百本も植えられ、春には霞がかかったような美しい景色になる。楕円形の山の一方の端には小さくて古臭い祠があるが、なんでもこれは平安時代くらいから祭祀を執り行っていた場所だそうだ。下の神社は大きくて立派だが、実は神様の本家本元はこちらの祠の方なんだそうで、だから祭りの神輿はここまで昇ってくるのだ。祠のそばにはエノキの大木があり、松もちょぼちょぼ生えた林になっている。その向こうの北側は墓地だ。

 この林や笹やぶの中から犬がしょっちゅう魚の骨をくわえてきた。私は最初驚いて、それから困惑した。魚は日替わりでサンマ、サバ、太刀魚、アジなどでだいたい焼き魚の誰かの食べ残しなのだが、時にはチヌの頭やタイのあらを生でくわえてくる。私は犬が見せに来るとすぐに奪い取って遠くに捨てた。だって気味が悪い。犬はたいへん不本意な顔をする。しかしなんだって山の上に魚が落ちているのだろう。「木に寄りて魚を求む」というのは確か見当違いのことを言うのではなかったか?木に寄ったら根元に魚が落ちているというのは一体どういうことだろう。しょっちゅう魚の骨が落ちているので、犬は用心して私に取られないよう、拾ったらすぐにボリボリと食べるようになってしまった。いやしい奴だ。

 「木に寄りて魚を拾う」のがあんまり不思議だったので、ある日私は林の中をくまなく調べることにした。まさか原始人か誰か住んでいるわけではあるまいが、魚がどこから来るか突き止めなくては不安だ。そこで犬を連れて落ち葉を踏みながら、その頃はまだ整備されていなかった木立の藪の中におそるおそる入ってみた。するとまた魚の骨が落ちている。見上げたその時、大木の上にさっと黒い影が走った。カラスがやかましく鳴く。カアカアカア!
 やかましすぎる!ばさばさ羽音もする。効果音抜群だ。カアカア鳴きながら何かを落としていった。脅しているようだ。見ると木の枝だ。そうか、そうだったのか。ここはカラスの巣がいくつかあるのだ。魚はカラスがどこかから盗んできて食べた残飯であったのだった(まるごとの塩サンマもあったけどね)。わかってみれば拍子抜けするようなことだった。

 しかし、犬がカラスの残飯を拾い食いするのはなんとかしなくてはならないと思った。不衛生じゃないか。そこでおやつを持参して骨を見つけたら交換するようにしたのだが、あまりうまくいかなかった。うちの犬はビーフジャーキーより魚の骨の方が好きなのだ(野良犬育ちで口が卑しいらしい)。そして、とうとうアレを見つけてしまった・・・・。

 ある日のことだ。犬が白い布切れをくわえて来た。「またもう・・・」と奪い取ろうとすると血相変えて逃げて行く。なんだかわからないがロクなものじゃないだろうと追いかけると、必死で逃げ回って決して放さない。放っておくとまた見せに来る。変な匂いもする。よくよく見ると足のようなものが二本、ブラブラとぶら下がっている。この大きさは・・・子猫・・・首もなく・・・胴もない・・・猫の皮?・・・。

 私は気が動転してキャ!と叫び、必死に説得したり怒ったり追いかけたりした。それをどうする気かと問うてみたが、犬はかたくなな態度で放そうとしない。最後の手段でほっといて帰るふりをしてみたが、やっぱりくわえたままで一定間隔をあけてついて来るだけだ。疲れて神社の石段に腰かけていると、走り寄って来て自慢げに見せびらかせていたかと思うと、とうとう「ハグハグ」と音を立てながらその毛皮を食べてしまった。私は血の気が引いてしばらくへたり込んだ。

 なぜ子猫の死骸がこんなところにあったのかということだが、毛の色が白いということで説明がつく。このあたりにはわりと白い猫が多い。そして、白い子猫を捨てる人がいるのだ。5、6年前にも一匹拾ったことがある。そして、この一年後にまた一匹拾うことになったのだが、この時の死骸はきっと哀れな捨て猫の末路だったのだろう。ひどいことだ。それにしてもうちの犬ときたら!餌はちょっとお高いサイエンスダイエット一本だしおやつも日替わりで飽きないように気を使って水もミネラルウォーターか浄水器の水に限って健康に気をつけてやってるっていうのになんだって田んぼの泥水ペチャペチャ飲んだり生ゴミの骨食ったり猫の皮をむさぼり食らうんだろう、こいつは。信じられん!腐った猫食ったら食中毒を起こすに違いない。腹痛を起こして、のたうちまわって死んでしまうかもしれない。私は犬が苦しみながら死ぬ様子を想像して目の前が真っ暗になった。

 悲嘆に暮れながら犬を引いてとぼとぼと歩いて帰る途中で思った。この犬は、雑種であるけどどうも猟犬の血筋を引いているらしい。たれた耳、ぴっちりと短い毛、筋肉質の体、ぴんと立ったしっぽ、ホルンのような鳴き声。きっとご先祖様はどこか西洋の広い野っぱらでカモやウサギを追いかけてガウガウいいながら仕留めていたに違いない。こんな狭いところじゃ野生の本能を発揮しようたってそうそうできはしないけど、あの毛皮はきっと今までで最大の獲物だったに違いない。怒って取り上げようとしても犬にはわけがわからなかっただろう。褒めてもらうつもりだったのだ。ああ、対応を間違った・・・褒めてやってさっと奪い取ればよかった・・・

 それから2、3日は犬を謹慎させて様子を見ていたが、まったく変わりがなくピンピンしていたので私は拍子抜けしてしまった。あんなものを食べて全然平気だなんて、それまでの食事に関する努力は何だったんだろう。うーん・・・あんまり深く考えない方がいいようなので、もう犬のことを心配するのをやめにして、ミネラルウォーターも買うのをやめた。おやつもときどきしかやらない。勝手に逃げたらお仕置きする。しかし、犬は今日も元気でノーテンキだ。その後病気になったことは一回もない。
 
 

ちょっと考えたこと

2008-02-04 10:59:12 | 日記
 昨日の「蛇イチゴ」の感想を書いていてふと思ったのは、「大阪府知事選ももしかして同じような選択(兄を信用するか、しないか)をしたのかもしれない」ということだった。

 大阪府にとって目下の大問題は「いかに財政再建をするか」ということだ。そこでまず最初の選択として、議会の協力を得られそうにない共産党候補や他の無所属の泡沫候補が抜け落ちる。次に熊谷氏か橋下氏かという選択で問われたのはどれだけパワーがあるか、またどれだけ革新的かということだ。熊谷氏は年齢的なことだけではなくて今までの府政を継承しそうな保守的な匂いがした。常識的で、とても発想の転換ができそうな人には見えなかった。それに、「ポピュリズム」だなんて灘→東大→大学教授の人に言われたかないよ!と、府民でなくても思う。そこで橋下氏であるが、橋下氏が大改革を成し遂げるか否かの確率はフィフティー・フィフティーだ。

 橋下氏は「うそつき」だ。「蛇イチゴ」の兄と同様、非常に口がうまくて状況によって言うことをころころと変える。しかしそれはみんな承知している。「うそつき」でも、その才覚とパワーとで府政を変え、人を丸めこみ、非難をお笑いに変えてなんとかかんとかやり遂げるかもしれない。何より自民党の後押しがある。これは強い。おもしろいね、本来保守政党であるはずの自民党があんな型破りな候補を立てて、革新政党であるはずの民主党が保守的な候補を立てるなんて。

 しかしまた、もしかしたら橋下氏は「うそつき」の本領を発揮してトンズラするかもしれない。何か担保が欲しいところだ。たぶん、担保はメディア出演ということなんだろう。例えば、共産党の候補が府知事になって議会とすったもんだしたって誰も関心を持たないだろうが、もし橋下氏が「議会ともめた」「府の職員からいじめられた」「脅迫状を送られた」などということがあれば一斉にワイドショーや週刊誌、スポーツ新聞の見出しトップで取り上げられるだろう。あるいは、「建築業者に便宜を図った」「公費で贅沢旅行した」「親族の就職で口利きをした」「セクハラした」「盗聴器を仕掛けた」などというありがちなスキャンダルを暴かれれば、それもまたメディアの格好の餌になって、全国に愉快なお笑いを届けてくれるだろう。卑怯なやり方で約束を違えた場合は、その後でメディアに復帰して仕事をするなんてことは不可能に近いだろうし。

 何より、「財政再建」の夕張市と「芸能人知事」の宮崎県が合体したようなダブルの話題性で注目度が日本一になるってことは捨てがたい魅力だ。たかじんさん初めとした芸能人(当然、爆笑問題もノーギャラでイベントしろよ)の協力が得られそうなのもありがたい。成功すればめっけもん、失敗しても宣伝効果抜群。こんなうまい話があろうか。

 結構、よい選択をしたってことだね。大阪おそるべし!



 もうひとつ、中国製ギョーザの件

 昨日スーパーに行ったら、製造「中華人民共和国」と明記された冷凍のロールキャベツが大安売りされていた。6個入り128円だ。どうも今回の騒動で買い控えがありそうなので早めに売りきってしまおうとしているみたいだ。ありがたいので一袋買った。またチルド食品のギョーザ(国内製造のもの)も、すごく早めに割引がされていて安いのでこちらも二日続けて買った。ありがたいことです。こういう事件が起こるとすぐに「中国製は危ない」と無根拠に何もかも買い控えする人がいるけど、よく考えてみるがいい。「農薬入りギョーザ」に当たって倒れる確率は、交通事故で死ぬ確率よりはるかに低い。「新型インフルエンザが中国で流行っているから中国帰りの人を避ける」とか「狂牛病で死んだ人がいるから牛肉を食べない」とか、何かあるごとに顕微鏡的なリスクを拡大解釈して偏った行動をとるのはアホの証拠だ。

 今回の事件でわかったのだが、中国の輸出用加工品の工場ってすごく近代的で衛生管理が行き届いているみたいだ。日本の大企業並で何も心配はない。あのミートホープの惨状を見ろよ。あるいは雪印の杜撰な衛生管理、立て続けに起きた日付偽装事件を見るがいい。はるかにましじゃないか。製造過程で混入されたわけではないらしい。事件の究明はきっちりやってほしいけど、パニックみたいになんでもかんでも中国製を避けるってのはかしこいやり方じゃない。実際問題としてできないだろう。

 それから昨日思い当たったのだけど、いつかテレビで言っていた。中国は今は食料の輸出大国だが、人口の急増と所得の向上によっていつか輸入大国になるはずだ。その時、日本はどこから食料を輸入するのだろう。争奪戦が始まる。

 だから、今決して感情的になってはいけないと思う。エネルギーと食糧の確保は国の安全保障の問題だ。いかに安全な食料をきっちり確保するかということは大事だが、それには輸出国と友好的関係を築き、話し合いを続けていかなくてはならない。「輸入してやってるんだから文句を言わせてもらう」という居丈高な態度では、いつか形勢が逆転したとき、そっくりそのまんま仕返しされるに違いない。さらに、これだけ食料を輸入して、大量に廃棄しているもったいない状態をそのまま続けるってわけにもいかないだろうとも思った。それは資源の無駄遣いという点でエネルギーやリサイクルの話ともつながってくる。

 食の話から逸れるが、うちにしょっちゅう「太陽光発電+電化住宅+エコキュート」の勧誘がある。10年くらいで元が取れるという話で魅力的なのだけど、初期費用が400万もかかるらしい。こういうのに補助金を出してもらったらありがたいんだけどなあ。昔はあったらしいけど打ち切りになったらしい。ドイツなどに比べて日本はそういうとこいい加減だなあ。頑張って200万くらいだったら半分ローンでなんとかなるんだけど・・・・。オイルマネーとか「中東の笛」とか要するに石油に依存しているから我慢しなきゃいけないんで、日本が昔戦争をしたのも石油など資源の供給をストップされたことが大きな原因だったわけだし、自然エネルギーの比率を増すってことは大事なことじゃないかと思うんだけどなあ。

中国製ギョーザの事件で思った

2008-01-31 22:17:57 | 日記
 中国製ギョウザで体調不良のニュースを聞いて、まず思ったのは、「また生協かよ!」ということだった。
 
 ミートホープの偽装ひき肉が入っていたコロッケも、今回のギョーザもコープ商品の定番ですよ。私は今は共同購入をしていないけど、もし続けていたとしたら、きっとどちらも食べていましたね。だいたい、生協商品を買うのは一般の食品に比べて安全だと信じているからで、実際、生協商品は同じメーカーが作っていたとしても、市販のものとは原料から製造ラインまで違っているのが普通だ。生協立ち上げのとき、保存料や着色料、粘着剤などを使わないかまぼこやソーセージ、消泡剤を使わない豆腐などをメーカーに作ってもらうのにどれだけ苦労したかなんていう話をよく聞いた。雪印食中毒事件の後、牛乳のメーカーの衛生管理上の問題(いわゆる「もどし乳」といって、清掃の際に流した水入り牛乳を製品に加えていた)が次々に明るみに出はじめ、生協牛乳の製造メーカーも問題があったとわかった時には、生協向けラインでは問題がなかったにもかかわらず、即座に取引を中止して他のメーカーに製造を依頼したし、工場の立ち入り検査なども厳密にしているという話をお知らせでよく読んだ。なのにコロッケにギョーザ。

 ここに来て、なんでこんな事件が起こるんだろうかと考えると、やっぱり価格競争による消費者からの値下げの要求がきついからだと思う。みんな忘れてしまったかもしれないけど、冷凍コロッケって、昔は5個450円くらいしたじゃないですか。それが13~4年くらい前からどんどん値下がりが始まって、あの偽装ひき肉コロッケは7個入りで198円です。10年前はコープのお店で買い物をすると、地元スーパーの倍くらいお金を使ってしまっていたけど、今はそんなに違わない。牛乳、豆腐、パン、ソーセージ、お菓子、どれも値下げされて、あまり抵抗のない価格設定になってきた。消費者にはありがたいけど、きっとしわ寄せが目に見えないところに行ってるんだろうなあと思ってた。あの、ミートホープの社長が言ってた「消費者も責任がある」ってのは、ずうずうしい言い草だけど、まあほんとのことだという気もした。

 今回問題になったギョーザで、食品の抜き取り検査をしていなかったというのも、多分経費がかかるからだ。これだけ輸入食品のシェアが大きくなってきてるのに、国内で日付ごとの検査をする(しかも残留農薬まで)なんて実質的に不可能だ。じゃあどうしたらいいかっていうと、やはり輸入業者が工場の立ち入り検査をしっかりするってことと、中国のメーカーが日本並みの衛生管理と抜き取り検査の体制を整えるよう要求していくってことだろう。

 まだ原因ははっきりしていないけども、中国製食品とともに、生協商品の信用がダメージを受けたことは間違いない。でも、私たちも「安けりゃいい」っていう態度を改めなくてはいけない。安全にはコストがかかる。今までの一連の食品偽装事件、それから偽装管理職で人件費の切り詰めを社員におしつけていた100円バーガーのマクドナルドにしてもやはり消費者にも責任の一端はあるように思う。食品の安全という観点から、会社にだけ責任を押し付けるのではなくて、消費者も経費を負担すべきところは我慢して負担しなきゃいけないんだと思う。「安い、安い」と喜んで無節操に輸入食品を買っているうちに国内の農業が衰退し、メーカーもバタバタ潰れてしまったんじゃあ元も子もない。宮台真司が言ってたけど、安全保障の観点から食糧とエネルギー(エコエネルギーとか)の自給率を高めるよう考えなきゃいけない。また、今回の事件で、「中国製はダメだ」みたいな不信に陥ってしまうのもよくない。どこが悪かったのかちゃんと突き止めた上で、中国製食品とどう付き合っていくのかを考えなきゃいけない。

 私がこの10年買っている冷凍コロッケは、地元の福祉グループが手作りしているものだ。なんせそこの会長さんは畜産会社の娘であるから、豚肉を偽って牛肉と言ったりすることは絶対ない。牛ひき肉(国産)を安く卸してもらって作り、そこの畜産会社がやっているスーパーで売るのだ。間違いはない。最初は5個入りで380円だったけど、どうも採算が取れていないらしいということが判明して、4個入り380円になった。(しかも牛肉コロッケは儲けがあんまり出ないらしい)メンチカツや野菜コロッケ、お弁当用コロッケなどいろいろあって、便利だしおいしいのでよく買う。市販の冷凍コロッケなんかまずくてとても食えない。収益は会の運営に使われるし、障害児の自立支援にもなるらしいし、高いとは全然思わない。こういうものを選んで買わなきゃいけないなあと最近思っている。訂正:後で買いに行ってみたら262円であった。そういえばあれから2回くらいリニューアルして値下げもしたみたいだ。メンチカツは少し高かったが。しかし、生協商品もなくなってしまうと大変困るのでがんばって生協のお店に行って買い支えをしなきゃな。