読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「純喫茶磯辺」

2008-10-28 23:03:43 | 映画
 「純喫茶磯辺」公式サイト
 なんだか観た後で無性にドラ焼きが食べたくなった。ラストで素子がパクついてた顔よりも大きなドラ焼き、あれはすごい。いくらお腹がすいていてもあんなものを平然と公園のベンチに座って食べるのは尋常じゃない。私なら買おうという気にもなれない(パチンコの景品かもしれないけど、それにしても見ただけでお腹いっぱい)。あれは素子の飢えの象徴じゃないかな。焼き鳥屋で、裕次郎に「私なんてダメです。ほんといい加減なやつなんです」と、ずっと言い続けるシーンを見ていて、「あれ、これどっかで見たような・・・」と思った。田口ランディの「被爆のマリア」(文芸春秋)に出てくる謝ってばかりの主人公にそっくりだ。こういうかんじ。
「アタシ、だらしないですから」
「ほらほら、すぐ人の言葉を肯定しちゃう。それがまさにアダルト・チルドレンだなあ」
「それって、どういうことですか?アダルト・チルドレンって」
「まあ、わかりやすく言うと、生きがたい人ですね」
わたしがそうなの?
「大人になっても傷ついた子供の心を抱えて生きている人のことですよ。幼児期に受けた心的外傷、つまりトラウマによって、生きがたさを感じている。佐藤さんも、子供の頃に辛い思いをしたんじゃないですか?親から虐待を受けたとか、そういう経験があるんじゃないですか」

人の誘いを断れないとか、誰とでも寝てしまうとか、恋人がことごとく暴力男だったとか、外面をよくしようとしてなんでも人に合わせてしまうとか、自己評価が低いせいで、他人から理不尽な仕打ちを受けても抵抗できないのだ。むしろ自分からトラブルを引き寄せてしまうようなところがある。美人なのに、美人らしく振舞おうとせず喫茶店の変な制服は着てしまうし、変態のお客に腕を触りまくられても抵抗しない。ドでかいドラ焼きを外でむしゃむしゃ食べるのもそういう尋常じゃなさを表してるのかなと思った。

 ところで、娘の咲子が母親のアパートで食べてたのはフォーク使ってたから生ドラ(餡に生クリーム練り込んであるの)みたいだと思ってたら、やっぱりそうだった。「純喫茶磯辺」とコラボだそうだ。さっそく翌日地元の虎屋に走って生ドラを買って食べたことは言うまでもない。


 最初はなんというロクデナシ親父かとあきれた。宮迫博之は「蛇イチゴ」の詐欺師といい、ロクデナシ男をやらせると抜群だ。冒頭のやる気なさそうな点呼や、ファミレスの食事シーン、素子を口説くニヤケぶり、優柔不断ないい加減さがにじみ出ていて目を覆いたくなる。「こんな親だと子供は苦労するだろうなあ」と咲子につくづく同情した。この男のダメさ加減が結晶したのが「純喫茶磯辺」なんだから、もうこの店はどうしょうもない。すべてのものがちぐはぐ過ぎる。ストーリーそっちのけで考えてたんだけど、ゼブラ柄のテーブルクロスに合わせるには内装は白を基調としてモノトーンのアイテム、従業員の制服は白と黒ならかろうじてOKか。ギンガムチェックのクロスに合わせるにはパイン材のテーブルやカントリー調のカップボード、メニューに天然酵母の焼きたてパンや手作りパイを入れる。70年代風の悪趣味な柄ののれんをどうしても使いたいんだったら薄いピンクやライムグリーンを効果的に入れて白の面積を多くした内装にしてくれ。だけど、それらはみんな外壁の色と合ってないではないか。レンガタイルの外観及び店名と合わせるのだったら、「煎りたて本格珈琲とジャズの店」とか「懐かしの昭和(インベーダーゲームあります)」とかにしなきゃ。で、倉敷の古道具屋にわんさかとあるようなビクターの犬とかブリキのおもちゃを置く。(あ、入口に犬の置物はあったっけ)大黒(か何か)の置物はまあ許すけど、額入り小判のレプリカはNG。ミラーボールは言語道断。毛皮に至っては、喫茶店で何考えてんだ!コノヤローもの。
 
 だから、この店は流行るはずがない。ありえんのだ。すんなり入れる人はよほど不注意な人か、頭が変な人だ。だから最初のお客がヤーさんだったのだ。
 それを素子のコスプレの力で変な人ばかりを引きつけてきているのだからいずれ何かが起こるのは当たり前だった。

 だけども、見ているうちにこう、あまりにちぐはぐで怪しげなお客ばかりが集まってきてるので、なんだかこれはこれでかまわないんじゃないかという気がしてきた。だいたいこのような変な人たちは、この店がなければ一体どこにたむろすればいいのか。考えてみれば私だって、最近のスタバみたいな店は落ち着かない。いや、落ち着かないように作られているのだ。回転率を上げるために。商店街の隙間にこういう変な店があって、変なお客ばかりが入ってきて、それなりに繁盛するのはいいことじゃないか。そう思ってダメ親父としっかり者の娘をもう一度見ると、咲子がグレたりしないでここまでちゃんと育つことができたのはやっぱりダメなりに父親が全力で体を張って頑張ってきたからだという気がしてきた。そもそも親が立派だからって幸せだとは限らないじゃないか。あそこまで親がダメだと逆に自立心がついて将来についても堅実な職業を選ぶかもしれない。母親に「大人だって恋をしたいのよ」とか「私も年下のいい人ができたから、あんまりここに来ないようにして。あんたはあんたでお父さんとうまくやんなさい」などと薄情なことを言われても、「うん」と頷くのだ。健気だなあ。まだ高校生なのに。素子と再開し、仰天のその後を聞かされてもあまり立ち入らずあっさりと別れる。素子が自分のために嘘をついたということをちゃんとわかった上で、彼女の危なさに立ち入らないという距離の取り方にこの子の健全さを感じさせる。今はそういう健全さが大事なのだと思う。

 そして、ラストのシーン。あいかわらずダラダラしたしゃべり方をする父親と一緒に商店街を帰る咲子を見ながら、「ああ、人生ってしょぼいなあ」と思った。しょぼくって、ままならない。だけどそれはそれでまあいいや。
 まあいいや、と思うと、素子の豪快なドラ焼きの食べっぷりもまあいいかと思えてきた。ドラ焼きがあったらとりあえず食う。でっかいドラ焼きだったらひたすら食う。それでいいんじゃないか。

雑誌「新潮45」 その3

2008-10-26 01:13:28 | 雑誌の感想
 ドストエフスキー

 現代の貧困で思い出した。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(亀山郁夫訳)(100万部突破とかで先日も全面広告が出ていた)を読んでいたときのことだ。そういえば亀山氏はスネギリョフ大尉一家についてこう言っていた(2008年2月27日の日記)
私は、この一家の物語がドストエフスキーの神髄だと考えるようになりました。それはひとことで「狂っている」ということです。とりわけ、このスネギリョフの奥様の(狂い方)が異常で、これを描けるドストエフスキーはすごい。先ほど、わからないところは砕いて翻訳したと言いましたが、この奥様のセリフだけは最後までわからなかった。

だけど、スネギリョフ一家の出てくる場面を読んでも、私には狂ってるという気がしないのだ。スネギリョフが半ば自虐的に、自分の家族をアリョーシャに紹介する場面では「狂ってるのはこいつか!」と思ったけれども、狂ってたらあそこまで赤裸々にしゃべれない。奥さまの支離滅裂なセリフときたら、私の母や姑がいかにも言いそうな感じなんで、逆に実にしっくり理解できた。近所のあの人がああ言った、こう言ったという話の中には背筋が寒くなるような話もあったりして、そんなん普通。だから「ああ、みじめな生活が目に浮かぶようだ」とは思ったけども「狂っていて理解できない」という気はしなかった。だいたい、亀山氏はウラジーミル・ソローキン のおっそろしく支離滅裂(かつエロチックでスカトロ)な小説などを翻訳されているのに、なんでこの奥さまのセリフがわからないと言うのだろう。(ちょっと関係ないけど、ソローキン氏は東京外大で講義を受け持たれてたことがあるのね。)
 私がそこで考えたのは、「なんでこの一家はこんなに不幸なのか」ということだ。その原因の大元が家長である飲んだくれのスネギリョフの失業であることは間違いない。父親が失業してしまったら、即座に生活苦に陥って娘の医療費も、学費も払えなくなり、息子は学校でいじめられるのだ。失業保険も医療保険も奨学金も生活保護も児童扶養手当も障害者手当もない。セーフティーネットがひとつもないのだ。こんなダメ男であっても家長に頼らなくては生きていけない社会というのは間違っている。間違っているのだが、もちろんあの時代には社会福祉なんてものは存在しないし、存在しないものは想像することさえできない。「だれそれさんはうちに来て部屋が臭いから換気しなさいなんて言うの」(だって洗濯物を部屋に干してるんだもん)などと言って泣くことしかできない。自分たちがなぜ不幸なのか、わからないのだ。個々の問題は認識できても、そもそも自分が不幸であるということ自体が認識できない。
 だけどスネギリョフはせっかくアリョーシャから貰ったお金を投げ捨てる。いったんは狂喜して受け取りながらながら「ああ、これでミネラルウォーターが買える。食事療法ができる。娘と妻をを療養に行かせてやれる。長女の学費も払える。」と泣かんばかりに喜んでいたのに、急にはっと我に返ると、わが身のみじめさにかっとなるのだ。大バカ者だと私は思ったが、この時代には弱者の当然の権利として失業手当や生活保護を受け取ることができないのだ。お金持ちの人の善意に縋ってへこへこと卑屈に感謝しながら施しを受けることしかできないのだ。やっぱり間違っている。彼が自己嫌悪に陥り、自分と相手とお金とを憎悪するのもわかる。
 そして、帝政ロシア時代の貧困を解決するためには、やはり革命しかなかったのかなあと、ややこしくて悲惨な歴史を思い起こしながら考えた。だって、納税によって貴族や金持ちからお金を徴収し、それを福祉、教育、医療などの社会インフラ事業につぎ込むという今では当たり前のシステムを当時の支配層は到底理解してくれそうにはないから。血みどろの革命と追放、暗殺、粛清、大混乱を避けることはできなかったのか。社会が成熟して中間層が豊かになり、公平な分配を求める民衆の意向が政治に反映されるようにはならないのかと思ったが、そんな悠長なことを言っているうちにはこの一家はみんな餓死してしまっている。

 佐藤優 「外務省に告ぐ」

 で、カラマーゾフといえば「大審問官」。「大審問官」の神学的解釈を「PLAYBOY」誌で連載していた佐藤優氏の新連載が「新潮45」に載っていてこれがなかなかおもしろかった。町山智浩氏が対談で「童貞の人怖い」と言っていたが、「外務省に告ぐ  童貞外交官の罪と罰」は童貞の外交官がどう怖いかをすっぱ抜いている。おお、これぞ「新潮45」テイストだ。やっぱり外交官になるような人は「思い込んだら一直線」じゃなくて男女関係も外交も状況にあわせて柔軟に対応できるような人でなくちゃだめだよなあ。って、まあどうでもいいですけど。
 童貞が怖いかどうか、童貞の人と親しく付き合ったことがないんでわからないけど、佐藤優氏が怖いことは間違いない。この写真が怖い。どう見てもスパイかマフィアの掃除屋(もしくはヤクザの若頭)だ。抜群の記憶力と分析能力。それに独自の情報網を持っているらしいし、そういう人が外務省のスキャンダルをすっぱ抜いているのだから怖いはずだ。

 プーチンと大審問官

 亀山郁夫+佐藤 優「ロシア 闇と魂の国家」(文春新書)で佐藤氏がこう言っている。
エリツィン時代に国務長官をつとめたゲンナジー・ブルブリスという頭のいい男がいます。ブルブリスがこう言っていたんですね。
 「プーチンの大統領職に対する考え方は、三回変遷している。大統領になった瞬間、自分のような中堅官僚が突然、大統領になったのは、エリツィンのおかげだと思った。そこでエリツィンに足を向けて寝られないと思った。それから半年くらい経つと、ロシア国民に支持されるカリスマが自分にはあると感じるようになった。一年半くらい経つと私のような中堅官僚が大統領になったのは、神によって選ばれたからだと、神がかりになっていった。それからようやく大統領らしい顔になってきた」

2007年4月26日の大統領年次教書演説で、プーチンは大統領職を離れた後に「民族理念の探究」に従事すると述べました。(中略)ここで、民族理念を探求し、国家イデオロギーを構築し、プーチンは21世紀ロシア国家の司祭に就任することを意図しているように私には見えます。(中略)私には、プーチンの戦略がだいたい見えます。2020年までという、今後、12年間というい時限を設けて、その間にロシアを帝国主義大国に再編することが目標なのです。その前提として、帝国を支えるイデオロギーが必要になります。このイデオロギーは地政学に基づく、「ヨーロッパとアジアの双方に跨るロシアは独自の空間で、そこには独自の発展法則がある」という1920~30年代に亡命ロシア知識人の間で展開されたユーラシア主義に近いものになります。
 ロシアとかロシア人というのが自明の存在概念ではなく、これから「われわれ」、つまりロシアの指導部と一般国民が協同して作っていく生成概念であるという考え方です。
 実はこのような考え方は、1920年代のイタリアでベニト・ムッソリーニが展開した初期ファシズムにきわめて類似しているのです。プーチン=メドベージェフ二重王朝のロシアは、今回の大統領選挙の結果を受けて、ファッショ国家に変貌をとけようとしているのです。

 「神がかり」!「帝国主義」!「ファッショ」!19世紀に逆もどりかよ!
 それでやっとわかった。前NHKで放送した「ロシア “愛国者の村”」に出てきたファシズムっぽい宗教集団の意味が。どうも、ロシアは欧米諸国とは別の時間が流れているようだ。こんな国が原油や資源価格の高騰でお金持ちになったらしいのは怖いことだ。
 そして、次の章が「ロシアは大審問官を欲する」で、佐藤氏は、ロシアのような後発資本主義国において強権的な政治が行われるのは当然で、それは資本主義の過渡期的現象ではなく、このような後発資本主義国の政治の型なのだという。強権政治を行う「大審問官」、それはかつてはスターリンであったし、現在はプーチンであるが、ロシアの社会、そして人民が欲したために出現したのだというのだ。
 「カラマーゾフの兄弟」の大審問官は要約するとこのように言っている。
 「人間は生まれつき単純で恥知らずだ。人間にとって、人間社会にとって自由ほど耐えがたいものはない。どんなに時代が下って科学が進歩しようと人々が言うのは『パンをよこせ!』『食べさせろ』ということだ。人々は自由に耐えられないために自らそれをわれわれの足もとに差しだし、『わたしたちを食べさせてくれるのなら、いっそ奴隷にしてくれた方がいい』と言う。人間は自由を持て余すがゆえに、それを差し出し、ひざまずくべき相手を常に探している。普遍的にひざまずく相手を求めるためには殺し合いすら辞さない。だからわれわれは彼らを支配するのだ。もはやおまえ(キリスト)は必要ない。邪魔をするなら火炙りにしてやる。」
 彼は前日に100人もの異端者を火炙りにしたばかりだし、これからも火炙りを続けるだろう。愚かで臆病で奴隷のような者たちを幸福にし、パンを与えるために。

 プーチンは確信犯的にそのように考えているのか!
 
 で、亀山氏はドストエフスキーの「悪霊」の中に出てくる「シガリョフの理論」というものが非常に予言的であるとして文中から引用しているんだけど、こういうのだ。
 「彼(=シガリョフ)はですね、問題の最終的な解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九にたいする無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ。これはいわば原始の楽園ですな。もっとも、働くことは働かなくちゃならんが。人類の十分の九から意思を奪って、何代もの改造の果てにそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案しておられる方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです」

 「彼はスパイ制度を提唱しているんですよ。つまり、社会の全成員がたがいを監視し、密告の義務を負うというわけ。一人ひとりが全体に帰属し、全体が一人ひとりに帰属する。奴隷であるという点で全員が平等なんです。極端な場合には中傷や殺人もあるが、何よりも大事なのは、平等。まず、手はじめに、教育、学術、才能の水準が引き下げられる・・・・つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにし、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺する。いっさいを一つの分母で通分する―つまり、完全な平等でね」

 ドストエフスキー後の歴史を思い浮かべると、ただの空想と笑ってはいられないではないか。ソ連、東ドイツ、東欧諸国、その他の社会主義国の密告制度、そしてナチスドイツの「最終的解決」というやつ。

 この本を読んだ後でNHKスペシャル「言論を支配せよ~“プーチン帝国”とメディア~ 」を見て私はぞっとした。反プーチン的なメディアはでっち上げの罪で潰されてしまうし、政権批判をした記者は殺されてしまうのだ。私はぞくぞくしてきた。国民を食わせるためならば他国侵略も言論弾圧も辞さないプーチンが怖い。あのような独裁者に熱狂するロシアの民衆が怖い。ドストエフスキーが怖い。ついでにプーチンに対抗して日本の「国家イデオロギー」を再構築しようとしているように見える佐藤氏が怖い。「大衆家畜化計画」に密かに頷きかねない日本の右翼エリートが怖い。ナチスのガス室(最終的解決)をねつ造と言いながら心の中で「あれは正しかった」と思っていそうな歴史修正主義者が怖い。チベットを侵略した中国も怖い。

 ということを夏中考えていた。そして、日本の先行きにも非常に不安を感じて、あることを思ったのだけども何を思ったのかは秘密だ。

 「ロシア 闇と魂の国家」の中で大審問官に対するキリストのキス(=祝福)の意味がよくわからないと亀山氏が言うと佐藤氏が
 人間の力でこの世の悪を是正しようとしてもだめで、善への変容はこの世の外部、つまり神の側からしか来ない。すなわち、救いは悪の存在の否認からではなく、「祝福」という現実を現実として認める行為、現実の悪をも是認することからはじまるということです。

と言っている。これ、内田先生の「呪いの時代」とおんなじじゃないか?
と、今気がついたのだった。ドストエフスキーおそるべし。

雑誌「新潮45」 その2

2008-10-25 01:08:27 | 雑誌の感想
 「呪いの時代」内田樹つづき。
 ロストジェネレーション論によると、社会の最底辺に格付けされている人間に社会の諸矛盾は集約的に表現されており、その人たちはそれゆえにこの社会の矛盾の構造を熟知しており、この社会をどう改革すべきかの道筋も洞察しているということになります。「おまえたちに、私の苦しさがわかってたまるか」という言葉は、社会の成り立ちに対する知的優位性の請求をも意味しているのです。彼らが現に苦しんでいることは十分理解できます。けれど、それと「彼らはこの社会の成り立ちを熟知しており、それゆえ彼らの政策提言が優位的に聴かれるべきである」という命題は論理的には繋がらないと思っています。あるゲームでつねに勝つ人間とつねに負ける人間がいた場合に、そのゲームが「アンフェアなルール」で行われていると推論することは間違っていません。けれども、負け続けている人間は勝ち続けている人間よりもゲームのルールを熟知していると推論することは間違っています。通常、ゲームのルールを熟知している人間はそうでない人間よりもゲームに勝つ可能性が高いからです。

 このあたりがよくわからないんだけども、「社会の最底辺に格付けされている人間に社会の諸矛盾は集約的に表現されており、」ここはいい。「その人たちはそれゆえにこの社会の矛盾の構造を熟知しており、この社会をどう改革すべきかの道筋も洞察しているということになります。」ここのところ、そんなことを誰が言っているのか。社会の最底辺に格付けされている人たちがそんなことを言っているというのか?そうじゃない。私が読んだ新聞記事で雨宮処凜さんや他の人たちが書いていたのはまるで逆のことだ。1986年に労働者派遣法が施行され、さらに1990年、産業界の強い要請による改正で、製造業など派遣業種の拡大が起こり、正社員の採用人数が激減した。その結果、それまでならば正社員として採用されたはずの若者が就職活動で何十社も断られ、派遣で入った会社には簡単に首を切られ、職を転々とするうちに貧困状態に陥り、日々の食費にも事欠く中で不安と自己嫌悪に駆られてリストカットを繰り返したり自殺をしたりという悲惨な状況が多いのだという。彼らは「法律が悪い。政治が悪い」と声高に主張しているか。いや逆だ。「自分に能力がなかったからこうなってしまった」と思って自分を責めている。グローバル化の中で製品の値下げ競争に否応なしに巻き込まれてしまった企業が、コスト削減のために人件費に手をつけ、そのしわ寄せがみんな若年層に集中しているのだ。それを言っているのは「社会の最底辺」の人たちじゃなくって朝日新聞だろうが。

 6月に、男女共同参画センター主催の「ワーク・ライフ・バランス」についての講演会および若者の雇用に関するパネルディスカッションを聴きに行って来たのだが、討論者たちの話は「ワーク・ライフ・バランス」などという優雅なものではなく身も蓋もない切実なものだった。福祉関係の仕事をしていた男性は「この仕事は好きでやりがいもあったのだが、給料が低く、それも年々削られていく。子供が生まれて、このままでは生活ができないと悩んで最近転職をした」と言うし、高校の非常勤講師は、生活していけないから仕事の掛け持ちをしているという。学校現場では非常勤の割合が増え、生徒指導の仕事が一部の教師に集中して先生たちがとても疲れているとか、大学に求人にくる企業の中には、あきらかに自己啓発の手法を悪用しているように見えるところもあって、非常にきついノルマを課し、それが達成できなければボロクソに批判して夜中の2時、3時まで帰さないようなところもあるとか、「2年以内に9割の新入社員が辞めてゆき、残ったのは『鋼のような体と空っぽな脳みそ』を持つロボットのような社員」だとか、運悪くそういう会社に入ってしまって心がボロボロになって一時期引きこもりになった人だとか・・・、まあそんなような話がいろいろ出てきた。
で、つづき
  
 階層化にそのつどの景況が関与しているのはもちろん事実です。不況のときは好況のときより新卒者の雇用条件が悪いのは当たり前ですから。けれども、自分たちが社会の下層に釘付けにされているのはもっぱら卒業年次のせいであるという「洞察」を誇らしげに掲げ続けた場合、彼らが今後社会的上昇を遂げる可能性はほとんどゼロであるでしょう。卒業年次ゆえに下層に釘づけになっているのだと主張する限り、彼らが階層を上昇することは「原理的にありえない」ことになります。もし、彼らの中に階層を上昇するものがいたとしたら、それは「卒業年次が階層化の基本要因である」という説明に背馳するからです(個人的な才能や努力や偶然がプロモーションにつよく関与するというのは誰でも知っていることですが、ロストジェネレーション論はその「常識」を否定するところから出発しています)。だから、彼らが自分たちの明察をあくまで主張しようとする限り、彼らは絶対に階層を上昇してはならない。

 内田先生のこのような論法は「ためらいの倫理学」でもおなじみのものだ。マルクス主義とかフェミニズムとか反戦平和運動とか、何かを否定することが目的の運動は、その「何か」が存在することを前提としており、それゆえに永遠にその存在を許し続ける、(もしくは逆に希求している)みたいな論法だ。(違ってっかな?)まあ、「テロとの戦い」が逆にテロリストを無限に増殖させているような逆説的現状もあるし、一見単純でクリアに見える理論の前提を疑ってみるというのは大事なことだと思うのだけども、でも、私は「ロストジェネレーション」という言葉ができたのはそれなりに意義があったことだと思う。だって、それまでは「フリーター」=拘束を嫌って好きで非正規雇用についてる人という固定観念しかなかったし、「フリーターはけしからん」というような自己責任論ばかりだったし、「自己実現」とか「心のダイアモンド」とか言って若者を安い給料で1日12時間くらい働かせてるような会社の社長がメディアで持ち上げられたりしてたんだから。
だから、彼らが自分たちの明察をあくまで主張しようとする限り、彼らは絶対に階層を上昇してはならない。もちろん、彼らのような有能で力のある青年たちを卒業年次で差別するような社会システムはその不公正の「報い」を受けなければならない。それはあらゆるシステムが手がつけられないほど機能不全になり、人々が互いに憎みあい、嫉妬し合い。傷つけあうような社会が現出することで証明されます。ロストジェネレーション論者はその正しさをあくまで主張しようとする限り、彼ら自身を社会下層に進んで釘付けにし、彼ら以外のすべての人々もまた彼らと同じように(あるいは彼ら以上に)不幸になることを願うことを強要されます。個人の発意とはかかわりなく、論理の経済がそれを要求するのです。私はこれを「呪い」と言わずに何と呼ぶべきか他の言葉を知りません。

ああ、赤木くんね。「自分が不幸なのは社会のせいだ。おまえらみんな不幸のどん底に落ちてしまえ」というのね。あの言い方には猛烈に腹が立つけども、でも、実は私もときどき密かにそういう気持ちになることがあるから他人のことは責められないなあと最近思うようになった。そもそも、そういう非論理的、破壊的な情念は、「間違ってるよ」なんて諄々と諭したってダメなんじゃないかと思う。政治家や官僚は、精神論で説得したり「こころの教育」なんていうんじゃなくて、自殺やテロ的犯罪を防止するために必要な社会的救済の手だてを考えるべきだ。それから私も秋葉原の事件が起きたときに一番に思い出したのが「丸山真男を殴りたい」だったけども、だからって、最近の「ロスジェネ世代」がみんなあんな感じで、あんなふうに思ってるかっていうと全然違うと思うな。
 そんなこんな考えていたら、ちょうど一昨日(22日)、NHK「時事公論」派遣労働者の大量解雇のニュースを報じていた。
(「解説委員室」「時事公論 工場減産 しわ寄せは派遣社員に」(こんなブログができてたのか。便利だ)
実はこの10年、経済のグローバル化の中で正社員ではない働き方をする人たちが増えているのは、日本だけでなく、他の先進国にも共通する現象です。違うのは、そうした変化に対する対処の仕方です。ヨーロッパ諸国では非正社員を増やしつつ、一方で、そうした人たちの権利を守るための対策に力を入れてきました。ドイツやフランスでは派遣先で正社員と同じ仕事をする場合には、同じ賃金を払うよう義務付けるなど、より強く法規制を行うことで弊害をできるだけ小さく抑えてきました。一方、日本では、対策を十分に取らないまま、規制を緩和したため、非正社員は、働いているときも、そして仕事を失ったときにも、大きな格差を強いられることになったのです。

今、早急に整えなければならないのは、仕事を失った非正社員の人たちに対するセーフティネットです。雇用保険の適用を広げたり、住まいを失う事態にならないよう、生活保護制度で住宅に関する費用だけの支給を認めたりといった緊急の対策を急ぐべきです。その際、重要となるのが、雇用と福祉の政策の一体化です。たとえば、ドイツでは、福祉政策として生活費を支給しながら、同時に、仕事につけるよう支援する制度を作り、大きな成果をあげています。また、こうした取り組みと合わせて、環境や福祉、農業などの分野で新たな雇用を創り出していく努力も欠かせません。

やらなきゃいけないことはわかっているのだ。もう、10年も前から指摘されているのだ。雇用の分野で規制緩和をするときには、同時に社会保障の拡大とかセーフティーネットの強化とか、抱き合わせでしなきゃいけなかったはずなのにわかっていてやらなかったのだ。「格差は悪いことではない」とか言って。そのようないびつな改革がいったい誰の要請で行われたかってわかりきったことじゃないか。ゲームのルールを熟知しているのは決して社会の底辺の人たちではない。

工場で働く派遣の人たちに聞き取り調査をしたNPOの人がこんなことを言っていました。「“今、不安に思うことはどんなことですか?”と聞くと、次々に答が返ってくる。でも、“今、要望したいことは何ですか?”と尋ねると、“え?”と聞き直したり、“わかりません”と答えたりして、回答が出てこない人が多かった」というのです。大きな不安に包まれて、何かを求める気持ちすら持てない人たちが増えていく社会の未来に、明るさは見えるでしょうか?

当事者には「わからない」のだ。なぜ自分がこのような状況に陥っているか、何をどう変えればよいのかが。だって、私みたいに図書館で雇用問題に関する10年前の本を借りて読んだりするような暇がないんだから。

 内田先生の言いたいこともまあ、わかるのだ。破壊によっては何も生まれないし、不幸な人はもっと不幸になるはずだ。だけども、
 この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。・・・・それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け入れ、承認し、「このようなもの」にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。
 呪いを解除する方法は祝福しかありません。

なんてのは、いったい誰に向けて言っている言葉かさっぱりわからない。とりあえず、過酷なノルマがこなせずいびり出された新入社員とか、人員削減による過重労働で職場のストレスが溜まっていじめのターゲットにされた派遣社員とか、10年以上正社員と同じ仕事をしながら昇給も雇用保険もなくキチキチの生活をしている人にではないだろうな。第一、そういう人は「新潮45」も「下流志向」も読んだりはしないだろう。こんなもんを読むのは日経新聞必読と思ってるようなおっさんか私のような暇でノー天気な主婦くらいだ。だから一向にかまわないのだけども、やっぱり彼らには「あまりに実情を知らなさすぎる」と言われるだろうし、テロみたいな犯罪の抑止にもならないだろうな。

 もしかしたら、朝日新聞の人に向けて言っているのだろうか。それならわかるけど。

 あっ、2ちゃんねらーにか?・・・ホレ、怒れ!

参考メモ
「秋葉原事件と派遣労働 背後に人を使い捨てる非人間的搾取の構造」 小谷野 毅(ガテン系連帯事務局長)
【ハケンという蟻地獄】秋葉原通り魔事件:派遣労働者とメディアが懇談会
「EU労働法政策雑記帳」
「経団連中心政治からの転換」(広島瀬戸内新聞ニュース)

雑誌「新潮45」

2008-10-24 00:07:35 | 雑誌の感想
 書店をぶらついていたら、新入荷の札のついた「新潮45」があったのだが、ちょっと視覚と認識の齟齬が生じて思わず手に取ってしまった。それもそのはず、このような表紙だ。「新潮45」といえば「女の事件簿」みたいな三面記事的な内容ばかり載ってなかったか?それがこのちょっと宗教系雑誌の趣さえ感じる表紙だ。海がきらきら光っていてきれいだ。まるで溶けた金みたいで景気よさそう。で、トップのタイトルが「麻生太郎は暗殺されるのか」とある。これは買いだ。

 買って帰ってよく見ると「リニューアル記念号」とある。
 ほう、「論座」が休刊になったことだし、その読者層を取り込もうと狙っているのか?
「新潮45」宮本太一新編集長に聞く ジャーナリズムへ回帰 産経ニュース2008.10.2
「新潮45とは」新潮社サイト
2001年に就任した「オバはん編集長」こと中瀬ゆかりが、新たな読者層の開拓を企図。30代、40代の知的好奇心旺盛な女性をターゲットに定め、「事件・教養・セックス」の3本柱を打ち出したことで、雑誌は劇的に変貌します。「総合エンターテインメント・ジャーナリズム誌」と銘打たれました。しかし、その根底にあるのは、「人間が一番面白い」という“人間探究”の視点であり、創刊以来、変わることなく脈々と受け継がれてきた精神でした。

「30代、40代の知的好奇心旺盛な女性」がターゲットだったのかー!私は新聞広告を見ただけで辟易して一度も買ったことがなかった。知的好奇心鈍いからな。
そして2008年10月――。45は装いも新たにまたもや生まれ変わります。
 自らに課したテーマは、ネット全盛で、長く活字メディアが苦境に陥っている中、どうすれば、雑誌はこの時代と充分に闘え、生き残っていけるのか、ということでした。答は簡単には見出せませんが、その方策のひとつは、ジャーナリズムの原点への回帰でした。タブーをおそれず、常に事実といわれるものを疑い、己が真っ当と信ずるところを発言していく。重要な役割りの一つに“報道”があることを今一度肝に銘じ、周りや時流に迎合せず、自身の立ち位置を堅守して、生きた情報と論評を発信していく姿勢を第一にしたのです。

ほーほー、しかし「週刊新潮」臭さがそこはかとなく漂っている気がするのは思いすごしでしょうか。
「ハマコーが吠える!小沢『自民党出向社員』政権なら日本は滅びる」浜田幸一でちょっとげんなりする。ハマコーはいいよなあ「日教組が悪い。官僚が悪い。民主党が悪い。このままでは日本は滅びる」と吠えてればいいんだからなあ。

 麻生太郎は大した記事でもなかった。そして次が「呪いの時代」内田樹ですよ。「呪い」って流行ってる?
 「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」です。今、この「呪い」の言説が、それと気づかぬうちに、私たちの社会で批評的な言葉づかいをするときの公用語になりつつあるように私には思えます。「弱者」たちは救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」たちは償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義の人」たちは公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐いています。けれども、彼らはそれらの言葉が他者のみならずおのれ自身への呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。


 2ちゃんねるをはじめとする「ネット論壇」にはとりわけこの傾向が顕著にあらわれています。20年ほど前まで、まだ私が学会と言うところに顔を出していた頃、学会発表後の質疑応答で、「あなたは・・・・・・の論文を読んでいないのではないか」とか「周知の・・・・・・についての言及がないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者がいました。私はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、「自分の知らない情報」が無価値なものであるということをあれほど無邪気に信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。(中略)

 しかし、かつては学会だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネットで異常増力しているように私には見えます。(中略)

 ネット論壇で頻用される「こんなことも知らない人間には、この論件について語る資格はない」という切り捨て方はこの手の「学者の腐ったようなやつ」のやり方そのままです。そのタイプの書き手が今ネット上に数十万単位で出現してきている。私はこれをいささか気鬱な気分で見つめています。

 2ちゃんねるがネット論壇の中に入っているとは知らなかったが、とにかくホレ、怒れ。
 
 人が市民として他者と共生するためになによりも必要なのはこの「情理を尽くして語る」という力だと思うのですが、ネット論壇では、自説の論拠と推論の適切性を「情理を尽くして説得する」というワーディングにはまず出会うことがありません。もしかすると「合意形成」を「屈伏」や「妥協」と同義だと思っているのかもしれません。けれども、「私は正しい、おまえたちは間違っている」とただ棒読みのように繰り返すだけの言葉づかいは市民的成熟とはついに無縁のものです。(中略)

 政治を語る語法もかつての、唐島基智三が司会する、NHKの党首討論にみられたような、ゆったりとした討論は姿を消しました。人の話の腰を折り、割り込み、切り捨てるという「朝まで生テレビ!」や「TVタックル」のスタイルに変わりました。番組自体はもちろん有意義な情報を(政治家というのはこれほどマナーと頭の悪い人々なのだという事実の開示など)提供しているわけですから、それはそれでよいのですが、これらの番組が、政治を語るときの語法のスタンダードを提供したことの罪は重いと思います。

 ハマコーとか好きな人はホレ怒れ。
 「呪い」とは破壊であって、何かを創り出すよりも破壊することの方がはるかに簡単であるから、「身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は」創造的な仕事ではなく、「破壊すること」に惹きつけられる。かつての学校教育は「無根拠に高い自己評価」を適切に下方修正させ、「身の程を知る」ということを叩き込む機能があったのだが、現在の教育現場では「無限の可能性」などという無責任なアオリをしているため、自己評価と現実とのギャップに苦しむ子供たちが量産されている・・・と、まあ内田せんせいの本に繰り返し出てくる理論ですね。その「呪い」にとらわれたのが安倍晋三元首相であり、今年6月の秋葉原無差別殺傷事件の犯人であると。
 加藤はある日何かを「呪った」のだと私は思います。呪いの標的となったものは具体的な誰かや何かではなく、加藤が妄想し「『ほんとうの加藤智大』が所有しているべきもの、占めているべき地位」を不当に簒奪している「誰か」でした。そして、その「呪い」は現実の力を持ってしまい、実際に何人もの人を殺しました。(中略)攻撃性が破壊的な暴力にまで亢進するのは、それが現実の身体を遊離して「幻想」のレベルに達したときなのです。だから、私たちにとって喫緊の課題は、妄想的に構築された「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活のうちに深く捉えられた、あまりぱっとしない「正味の自分」をこそ主体性としてあくまで維持し続けることなのです。しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」と置き換えよと私たちに促し続けているのです。


 とここまではまあ、いいでしょう。(異論もあるけど、まあ脱線するのでやめておきます)問題はここからです。
 2007年はじめから朝日新聞が展開した「ロストジェネレーション」が単行本になったとき、私は帯文を頼まれてゲラを読みました。一読して、私は社会理論としてここまで貧しいものが登場してきたことに驚愕しました(帯文の寄稿は断りました)世の中にさまざまなかたちの制度上の不正や分配上のアンフェアがあるのは事実です。その原因についても、さまざまな説明がありうると思います。でも、大学卒業年次に景気が良かったものと悪かったものとの間に社会矛盾が集約的に表現されているというソリューションには驚嘆する他ありません。お粗末な理論はいくらもありますが、朝日新聞がこれほど無内容な理論を全社的なキャンペーンとして展開しようとしたという事実に日本のメディアの底なしの劣化を私は感じました。

これについて、20代後半から30代前半の右翼的傾向の強い2ちゃんねらーの派遣社員は同意するのか、怒るのか・・・・。

つづく。


映画「百万円と苦虫女」

2008-10-03 15:57:19 | 映画
 タナダユキ監督「百万円と苦虫女」(公式サイト)。なかなかよい映画でした。

 主人公の鈴子は不器用で世渡り下手で、こういう女の子が旅をしながら成長していくとか、住み着いた先でだんだんと馴染んで明るくなってくるとか、そういう種類の映画が私は好きなんだけど、これはちょっと一味違っている。どこが違っているかっていうと部屋がいつまでたっても殺風景で、引っ越すときには未練なくみーんな捨てて、またトランク一つで出ていっちゃう。私はたとえば、今村昌平監督の「うなぎ」で、刑務所から出所して理髪店を開いた主人公のところに訳あり女が転がり込んできて、彼女が手伝ううちに古くてうす汚いお店がだんだんレトロでポップな色合いになってくるようなシーンが大好きなんだけど、この映画では部屋はあんまり変わらない。変わる間もなく、百万円貯まったらすぐに引っ越してしまう。そして家財道具っていえば唯一、つぎはぎだけどキュートな手作りカーテンだけを持ち歩いている。このカーテンはいい。

 鈴子は行く先々でやっかいなことに巻き込まれる。ああ、なんて不器用なんだろ。かわいそうなくらいだ。桃農家の長男が言うように、もっと自分の意見を最初からちゃんと言わないからそんなことになるのだ。そもそも同居人とトラブルになった事件だって、最初から言葉で怒りを表現してればよかったのだ。こんなかんじ?
 「なんでネコ捨てるのよ!ネコ、死んじゃったじゃないの!」
 「うるせー!イライラしてたんだよ!」
 「イライラしてたら、人のもん勝手に捨てるわけ?あんたの荷物も捨てるからね!」
 「なに言ってんだよこいつ!ギャーギャーうるせーよ!」
 「ネコ返せ!ネコの命返せ!」 バシ!
 「何すんだよ、このバカ女!」 パーン!
 「よ、よくも殴ったわね!・・・殺してやるー!」グサッ!
あ、ヤバイ。傷害事件になっちゃった。

 つまり、こういうドロドロの人間関係が苦手なんだな。でも、ネコを捨てられたからって相手の荷物を全部捨てるってあんまり短絡的過ぎる。で、今思い出したんだけど、私が秋葉原の事件の犯人のことでどうしても解せなかったのは、数日前に仕事着が見当たらなくて騒いだっていう件。もし、つなぎがなくなっていたら「僕のつなぎ知らない?知らない?」って聞いて回ればいいと思うのだ。更衣室が狭いとロッカーを共有しなくちゃいけないことがあって、結構トラブルになるから、あらかじめ共有者とルールを決めておかなくてはいけない。シフトがずれてて会えなかったらメモを残すとか。あと、おんなじもんだから人が間違えて着てしまうこともよくあるし、クリーニングの業者の手違いってこともある。そういう管理の責任者がいるはずで、まずその人に言うべきだ。で、もしそれが何かの嫌がらせだったり、ほんとに辞めろってことだったら(そうじゃなかったようだけど)人事の担当者とか、自分の派遣会社とかに『困ります』と訴える。もしダメだったらもっと上の管理部長とか、工場長とかに直訴するのだ。いくらでも段階はあったはずだ。『悔しい、暴れてやる』っていうのはその後でもよかったのではないか?そこまで考えていつも、「そーかー、そういうコミュニケーションの訓練を受けてないんだ。」と思ってまたよくわからなくなるが、私だって人のことは言えたものではなくって、ネットの世界のコミュニケーションとなるとさっぱりダメだ。トラブルが起こっても誰にどう相談すればいいかわからなくて途方に暮れる。たぶんそんな状態なんだろう。この映画も、きっとそういう人との係わりの苦手な子が否応なしに対人関係のトラブルに巻き込まれて、少しずつ成長していく姿を描いているのだと思った。

 問題は主人公の方にあるばかりじゃない。
 ネコ云々の前に、そもそもなんでこんな男と同居しなきゃいけなくなったかっていうと、調子のいい女友達の口車に乗せられたわけで、考えているうちに、むしろその子の方が常識が欠けててアブナイ人に思えてくる。だけど今の世の中にはそういう非常識で厚かましい人の方が多くて、鈴子はそういう人たちにうまく対応できないだけなんだ。事情も知らないのにひどい噂を立てる近所の人たちや、同窓会で笑い物にしてやろうとする高校時代の同級生や、名前も聞いてないのに「君と僕ってソウルメイト。」などと無理やりナンパしようとする海の男や、村起こしのために嫌がる鈴子を「桃娘」に仕立てようとする村の人たちや、行くとこ行くとこ、利己的な人たちばかりが目につく。そして、鈴子の弟のようにいじめられ続けた末にとうとう我慢ができなくなってキレると、一方的に悪者にされてしまうのだ。見ているうちに私は、「未熟なのは鈴子ばかりじゃないよなあ、むしろ鈴子を通して見えてくる周りの人たちも相当ひどい。」と思うようになった。特に村の人たちに集会所で責められているシーンには、何がなんでも同調を迫る田舎のいやらしさ(及び排他性)みたいなものを感じた。・・・これ、普通なんだろうけどやっぱりおかしい。嫌だな。

 それに反して恋人になった中島君はさわやか青年だった。最初、「あ、鈴子と同じ呼吸の人だ」と思った。好意を持っていることは明らかなのに、とても気を使っておずおずと少しずつ近づいてくる。なんて慎重でやさしい青年なんだろう。と、思っていたから、付き合い始めた後に「お金貸して」って言ったときには衝撃を受けた。「おい、中島、お前もか!!」そしてしばらくは、頭の中が自分の過去の経験に照らしたダメ男のパターン分析でいっぱいになり、映画そっちのけだった。鈴子に完全に感情移入しちゃってるから、問い詰めるシーンでも切なくて胸が痛んだ。中島君は私の中では完全に自己チュー男になってしまっていた。それだけに本当のことがわかったときには再び衝撃を受け、自分の心の狭さを恥じた。こんな不器用な似た者同士はそうたくさんはいないから、お互い別れるにはもったいない、とドキドキしながら見ていたが、よくある映画の結末とは違ってすれ違ってしまうのだ。「ぼくは逃げない。」という弟の手紙を読んで、そのような強さが欠けているということに気づいたのになんでまた出ていくんだろう。まだまだ鈴子には経験が足りないっていうことなのか。それはそれでよいのかもしれない。

 続きがあれば見たいような映画だった。

「自民党をぶっ壊す」って言ったくせに世襲ってなんだよ

2008-10-02 23:56:25 | Weblog
 春に実家に帰ったときのことだが、父が「後期高齢者医療制度」について怒っていた。確か山口2区の補欠選挙の後だった。「なんで?保険料が上がるの?」と聞くと首を傾げる。「上がるかどうかまだわからないのになんで怒るの?」と聞くと「年金から天引きされる」と言う。「最近、足腰弱って車に乗るのも億劫がってるんだから引き落としにしてもらえば助かるじゃないの。」と私が言うと、旗色が悪くなってごにょごにょ言っていたが、「次の選挙では自民党は負ける。まあ、一遍小沢さんにやらせてみればいい。」と捨てゼリフを残して逃げた。

 私は腹が立って来て、母に「保険料が上がるかどうかまだわかりもしないのになんでこの制度はだめだなんて言えるのよ。だいたい、仮に上がったとしても、払う余裕があるんだから払えばいいじゃないの!もうね、私たちに死んだあとお金を残してくれる必要はないし、どうせ跡継ぎもいなくて田んぼも作れないんだから、全部売って払える限り払えばいいじゃないの!」と言うと、母は「そうそう、私もそう思う。どうせ病院通いばっかりしていて旅行にもいけないし、お金の使い道もないんだから。」と笑っていた。

 年金から天引きされるのと、後で払いに行くのと同じことだろうに、それをダメだダメだって怒るのは「朝三暮四」のサルとおんなじだ!父なんか、車はひとりで3台も持ってるし、テレビも離れに3台あるし(母屋のぶんもあわせると5台!それも既に地デジ!)DVDデッキは2台あるし、エアコンも各部屋についてるし、通販で高い「お腹ブルブルベルト」なんか買うし、旅行は疲れるから行かないっていうし、食欲がないからお刺身しか食べないっていうし、病院にいくのだけが仕事で、毎日山ほど薬飲んでるんだから高くったって払えよ!!!

と私はイカッた。そして、こういう朝三暮四のサルみたいなのの支持で仮に民主党が政権獲ったとしても、すぐにドツボにハマり「期待外れだった!」と失望されるに違いない、難題山積で非難轟々、すぐさま支持率低下・・・と悲観的な想像をしてしまった。

 それから後も、農家の所得補償とか財源が埋蔵金とか「そんなんできるのか?」と民主党の提示する政策に不安をおぼえていたが、先週、小泉元首相が次男を後継にというニュースを見たらムラムラと腹が立ってきて、これは民主党の政権担当能力とかの問題じゃないなと思った。

 郵政選挙のとき小泉自民党に投票した人たちは、小泉氏がこういう世襲だの談合だのと、既得権益を持った人たちが永遠に勝ち続ける構造をぶっ壊して、フェアな競争に誰でも参加できるようになる、みんなにチャンスのある社会になると信じて入れたはずだ。ホリエモンが広島6区で立候補したときも、氏育ちなど関係なくあのような若輩が会社を作って成功し、巨万の富を築いたということに感銘を受けた人たちが彼に投票したのだ。なのにやっぱり世襲かよ。小泉構造改革ってのは、結局、金持ちの利権は残したままで、若者にツケをまわし、社会的弱者をさらに絞り上げることになっただけじゃないか。そして自民党は自分の責任を棚に上げて「官僚が悪い。連合が悪い。日教組が悪い」って人に責任をなすりつけるようなことばかり言っている。亡国の徒だ。

 もはや政権担当能力がなくなってるのは自民党の方ではないか。民主党がどんなに頼りなくても、一遍政権の座について、自民党は野党に転落してもらうしかない。そしてどちらも揚げ足取りじゃなくて本当に日本の将来をどうするかということを真剣に考えてもらいたい。

 太田さんのとこの掲示板で言及されていた「きっこの日記」(2008/09/27 政権交代による政治の浄化)を読んで目が覚めるようだった。「そうだ、やっぱり失言なんかあんまり重要じゃない。『疑惑の献金』『便宜供与』『政官財の癒着構造』という長期に渡って染みついた自民党政権の汚れの方が重要だ。もう、そういう『既得権』の世襲は終りにしてほしい。」と思った。