読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

中国製ギョーザの事件で思った

2008-01-31 22:17:57 | 日記
 中国製ギョウザで体調不良のニュースを聞いて、まず思ったのは、「また生協かよ!」ということだった。
 
 ミートホープの偽装ひき肉が入っていたコロッケも、今回のギョーザもコープ商品の定番ですよ。私は今は共同購入をしていないけど、もし続けていたとしたら、きっとどちらも食べていましたね。だいたい、生協商品を買うのは一般の食品に比べて安全だと信じているからで、実際、生協商品は同じメーカーが作っていたとしても、市販のものとは原料から製造ラインまで違っているのが普通だ。生協立ち上げのとき、保存料や着色料、粘着剤などを使わないかまぼこやソーセージ、消泡剤を使わない豆腐などをメーカーに作ってもらうのにどれだけ苦労したかなんていう話をよく聞いた。雪印食中毒事件の後、牛乳のメーカーの衛生管理上の問題(いわゆる「もどし乳」といって、清掃の際に流した水入り牛乳を製品に加えていた)が次々に明るみに出はじめ、生協牛乳の製造メーカーも問題があったとわかった時には、生協向けラインでは問題がなかったにもかかわらず、即座に取引を中止して他のメーカーに製造を依頼したし、工場の立ち入り検査なども厳密にしているという話をお知らせでよく読んだ。なのにコロッケにギョーザ。

 ここに来て、なんでこんな事件が起こるんだろうかと考えると、やっぱり価格競争による消費者からの値下げの要求がきついからだと思う。みんな忘れてしまったかもしれないけど、冷凍コロッケって、昔は5個450円くらいしたじゃないですか。それが13~4年くらい前からどんどん値下がりが始まって、あの偽装ひき肉コロッケは7個入りで198円です。10年前はコープのお店で買い物をすると、地元スーパーの倍くらいお金を使ってしまっていたけど、今はそんなに違わない。牛乳、豆腐、パン、ソーセージ、お菓子、どれも値下げされて、あまり抵抗のない価格設定になってきた。消費者にはありがたいけど、きっとしわ寄せが目に見えないところに行ってるんだろうなあと思ってた。あの、ミートホープの社長が言ってた「消費者も責任がある」ってのは、ずうずうしい言い草だけど、まあほんとのことだという気もした。

 今回問題になったギョーザで、食品の抜き取り検査をしていなかったというのも、多分経費がかかるからだ。これだけ輸入食品のシェアが大きくなってきてるのに、国内で日付ごとの検査をする(しかも残留農薬まで)なんて実質的に不可能だ。じゃあどうしたらいいかっていうと、やはり輸入業者が工場の立ち入り検査をしっかりするってことと、中国のメーカーが日本並みの衛生管理と抜き取り検査の体制を整えるよう要求していくってことだろう。

 まだ原因ははっきりしていないけども、中国製食品とともに、生協商品の信用がダメージを受けたことは間違いない。でも、私たちも「安けりゃいい」っていう態度を改めなくてはいけない。安全にはコストがかかる。今までの一連の食品偽装事件、それから偽装管理職で人件費の切り詰めを社員におしつけていた100円バーガーのマクドナルドにしてもやはり消費者にも責任の一端はあるように思う。食品の安全という観点から、会社にだけ責任を押し付けるのではなくて、消費者も経費を負担すべきところは我慢して負担しなきゃいけないんだと思う。「安い、安い」と喜んで無節操に輸入食品を買っているうちに国内の農業が衰退し、メーカーもバタバタ潰れてしまったんじゃあ元も子もない。宮台真司が言ってたけど、安全保障の観点から食糧とエネルギー(エコエネルギーとか)の自給率を高めるよう考えなきゃいけない。また、今回の事件で、「中国製はダメだ」みたいな不信に陥ってしまうのもよくない。どこが悪かったのかちゃんと突き止めた上で、中国製食品とどう付き合っていくのかを考えなきゃいけない。

 私がこの10年買っている冷凍コロッケは、地元の福祉グループが手作りしているものだ。なんせそこの会長さんは畜産会社の娘であるから、豚肉を偽って牛肉と言ったりすることは絶対ない。牛ひき肉(国産)を安く卸してもらって作り、そこの畜産会社がやっているスーパーで売るのだ。間違いはない。最初は5個入りで380円だったけど、どうも採算が取れていないらしいということが判明して、4個入り380円になった。(しかも牛肉コロッケは儲けがあんまり出ないらしい)メンチカツや野菜コロッケ、お弁当用コロッケなどいろいろあって、便利だしおいしいのでよく買う。市販の冷凍コロッケなんかまずくてとても食えない。収益は会の運営に使われるし、障害児の自立支援にもなるらしいし、高いとは全然思わない。こういうものを選んで買わなきゃいけないなあと最近思っている。訂正:後で買いに行ってみたら262円であった。そういえばあれから2回くらいリニューアルして値下げもしたみたいだ。メンチカツは少し高かったが。しかし、生協商品もなくなってしまうと大変困るのでがんばって生協のお店に行って買い支えをしなきゃな。

内田樹氏のブログを読んで その2

2008-01-28 14:58:02 | Weblog
 橋下さんが大阪府知事に当選なさったそうで・・・。
 
 まあ、予測できてたんですが・・・。2週間も前にうちの夫はテレビを見ながら「この人が当選するなあ。」と言ってたし、私は、「なんであの民主党推薦の候補はあんなに顔色が悪いんだろう。今にも死にそうなおじいさんに見えるじゃないの。」とばかり言ってました。兎にも角にも、当選したからには橋下さんには死ぬ気で頑張って頂きたいものです。そして推薦した自公は責任持って全面的に支援しろよ!バカヤロー!橋下さんが当選したのは、橋下さん自身の公約が支持されたというより、現状が変化することに期待がかけられたわけで、ちょっとでもダメっぽかったり、軽佻浮薄な言動が問題になったりしたら手のひらが反されるのは早いんじゃないかと思う。まあ、誰が府知事になっても財政再建は困難を極めると思うし、「やっぱり自民党系はダメだ」と責任をおっかぶされる可能性もあるな。
 それにしてもテレビに出てた選挙演説の際のパフォーマンスはすごかった。無党派層をとらえたのはあの気迫じゃないかと思う。ということはちゃんと学習していて戦略的に振る舞っていたってことなんだろう。なんせ、選挙参謀がタイタンの人らしいから。


 今、荻上チキ「ウェブ炎上」(ちくま新書)を読んでいるところだ。サイバーカスケードの例として「イラク人質事件」におけるバッシングや「ジェンダーフリー」批判をめぐる議論が取り上げられ、その構造が冷静に分析されているのでとてもわかりやすい。ネット上で「ジェンダーフリー」を検索すると、批判的で極端な例を取り上げた偏った情報ばかりが出てくるためバランスを欠いているとして、著者は「ジェンダーフリー」の検証サイトを作ったという。「ジェンダーフリーとは」。ジェンダーフリーバッシングのような特定のカスケードに対して、まとめサイトを作るなどして対抗カスケードを構築するという手段が、偏った方向に世論が雪崩現象をおこすのを食い止めるのに有効であるという。なるほど。chikiさんって、はてなのあの人か?女性かと思っていた。


 昨日のつづきだが、内田氏のブログの本文(「ふつう」のススメ)、「学生諸君は卒論において個人的に切迫した問題に迂回的に触れている」というのもよくわかる。とても言いたくて(あるいは知りたくて)たまらないのに、それが個人的なトラウマの所在を示すために真正面から言及することができなくて結局ぐるぐるとその周辺を迂回してしまう問題というのが私にもある。書き記すことがトラウマを掻き毟ってしまうことになるのでわざわざ遠まわしに、どうでもよいことばかり書き連ねてしまうということもまあ経験がある。「おもいっきり個性的に書くと退屈極まりない文章になるから、個性的であるためには逆に『ふつう』に書きなさい」なんて内田氏らしいひねくれたことをおっしゃっているが、私はここで内田氏の別の文章を思い出した。

 言論上の韜晦ということについてだ。

内田樹 「死者と他者 ラカンによるレヴィナス」(海鳥社) 
 ラカンと「死者」のかかわりについて理解を深めるためには、ラカンの第二次世界大戦中の両義的な生き方に触れておくのは無駄ではないように思われる。というのも、ナチスドイツ占領下のフランスにおいて、ラカンはアイデンティティを曖昧にすること、中枢的な「私」というものを機能させないということを生き延びるための基本戦略として採用していたからである。

(中略)

 しかし、このような狡猾な保身のふるまいはラカンだけに見られたことではない。この時期のフランスの知識人たちの中にこの種の「面従腹背」の戦略を採用していた人は少なくないからだ。(中略)
 そのような詐術のつねとして、この種の「綱渡り」をしていた人々には多かれ少なかれ共通する「語り口」が検出される。それはあらゆることばが、「裏の意味」を持つような語り方をするということである。ことばの一つ一つが「普通の語義」の他に「もう一つの語義」を持つような語り方をするということである。ことばの一つ一つが「普通の語義」の他に「もう一つの語義」を帯同しており、ある解釈の水準で読み取れるメッセージと、それとは別の水準で読み取られるメッセージがまったく違うものになるというようなトリッキーなエクリチュールを彼らは駆使した。
 
 その代表的な例はモーリス・ブランショの『文学はいかにして可能か?』に見ることができる。ジャン・ポーランの『タルブの花』を「要約」したこの小著において、ブランショは、すべての鍵語にダブル・ミーニングを賦与し、一読すると文芸批評のテクストでしかないものが、「裏の意味」を拾って読むと、1930年代にブランショ自身が深くコミットしていた「国民革命」運動についての批評的総括としても読めるという驚嘆すべきアクロバシーを演じて見せた。
 「読者の欲望に応じて読み出される意味を変えるテクスト」、ブランショは占領時代に状況に強いられてそのようなテクストを駆使する達人となった。おそらく、その時代を生き延びた知識人の多くは同じ技法に習熟したはずである。

 レヴィナスやラカンの文章が難解なのは、そのようにトリッキーな文章で書かれているからで、それはわざと難解に書くことで何か別なことを言おうとしているのだという。別なことっていうのは何かといえば、「死者に対する弔い」である。言いたくてたまらないのに容易に言えない、むしろ容易に言うことが許されないほど大事なことであるからわざわざ回りくどく難解な言葉を使う。「死者への切迫」があったのだという。

 私は、この本の部分を読んだ時思った。「最近の新聞のダブルミーニングとか、わかる人だけにわかる文章って、もしかしてナチスドイツ占領下のユダヤ人並の抑圧があるってことか?おそろしいことだ」ってね。
 この件について突っ込んで書こうかと思ったが、やっぱり真意を悟られてはいけないのでここらへんでやめておこう。欲望のありかは察知されてはいけないのだ。(これは内田先生の言ってることとは違ってくるけど)

内田樹氏のブログを読んで

2008-01-27 23:52:46 | Weblog
 久し振り(多分一年ぶりくらい)に内田樹氏のブログを読んで、思わず笑ってしまった。「ふつう」のススメ。(あー、リンクしちゃたー。有名人にリンクするとロクなことはないんだけどなあ)
 笑ったのは、ブログの本文ではなくて、コメントを読んで。これは、もちろん内田先生には一切責任はないのだけどね。
やさしいお言葉ですね。d(⌒-⌒)b

どこかのブログに、内田先生が学生さんから「フェミニズムって何ですか?」と反問されてびっくりしたという記事を載せていました。
......._〆(・_・ )v

それを読んだとき、ああ、いい学生さんたちがいる学校なんだなあ、とっても清らかな人たちがいるんだなあと、花の香りを嗅ぐように、むさくるしい中年の鼻をうごめかせたものです。(ー.ー;)。。。

 該当の部分がどの本に書いてあったか探すのがちょっと面倒なのでうろ覚えのまま書くが、それは確か最近の学生の知力が年々低下しているという文脈の中でおっしゃっていたように思う。TOEICの点数では一年に1点づつ平均点が下がってきていて、十年で10点低下した、平均点が10点低下するというのは甚だしい事態だとかって。フェミニズムについても内田氏は「アンチ・フェミニズム宣言」(「ためらいの倫理学」角川文庫)を書いていらっしゃるくらいで、フェミニズムの方法論を批判されているのだが、該当部分は確か、最近の学生はフェミニズム的な論法で議論を吹っ掛けるどころか、顔を見合せて「フェミニズムってなんですか?」と聞いてきたので絶句した、自分はフェミニズムに異論はあるが、「フェミニズム」という概念まで消えてほしいと思っているわけではないのであって、そのような、思想の基本概念について学生にいちいち説明しなきゃいけなくなってきたのかと思うと危機感を覚えたとお書きになっていたはずだ。
 
 あー、あったあった。「狼少年のパラドクス」(朝日新聞社)から「上野千鶴子って誰ですか」
 ゼミの学生が、「エビちゃん」がなぜポピュラリティーを獲得したかというテーマで発表をしたらしい。彼女の言うには、不況時には「稼ぎのある、強い女性」が人気を得るが、好況時には「アクセサリー的に美しい、庇護欲をそそるような女性」が人気を得るという法則があって、その景況による思考の変遷にともなって、デコラティブな美女であるところの「エビちゃん」が現時点での女性理想像なのだとか。
 発表者のKカドくんも「大学デビュー」に際しては「エビちゃん」系ファッションを整える方向で精進されているそうである。ふーむ、たしかに、そういうこともあるかも知れない。しかし、それってさ、フェミニズム的にはちょっと問題発言だよなと申し上げたところ、ゼミ内にやや不穏な空気が漂った。あまり納得されていないのであろうかと思い、さらに言葉を続けた。
 だってさ、そういう男性サイドの欲望を基準にして女性の理想型が変化するのはありとしてもさ、キミたちがそれを無批判にロールモデルにするのって、フェミニズム的にはまずいんじゃないの。どなたからも声がない。
「あの・・・・・」
 中の一人が勇を鼓して手を挙げた。
「はい、何でしょう」
「『フェミニズム』って何ですか?」
「え?」
「キミ、フェミニズムって言葉知らないの?」
 見渡すと、十三人いたゼミ生の大半がゆっくり首を横に振った。
(中略)
「『上野千鶴子』って、知ってる?」
 全員がきっぱり首を横に振った。
 ちょっと、待ってね。「フェミニズムはその歴史的使命を終えた」と私が数年前に書いたのは、事実認知的な意味ではなくて、遂行的なメッセージとしてである。「歴史的使命はそろそろ終わって頂いても、ウチダ的にはぜんぜんオッケーなんですけど」ということを言いたくて、いささか先走り的なことを申し上げたのである。戦略的にそう言ってみただけで、まさか、「ほんとうに終わっている」と思っていたわけではない。
 言い添えておくけれども、うちの一年のゼミ生たちはなかなかスマートな諸君である。これまでのゼミでのディスカッションを拝聴する限り、コミュニケーション能力は高いし、批評的知性も十分に備わっていると見た。その方々が「フェミニズムって、何ですか?」である。

 どこが「いい学生さん」やねん!
 内田氏は「フェミニズムの知的資産の継承を望む」とおっしゃっている。

 
 実は私もちょうど昨日、内田氏のそれに類似した文章を思い起こしていたところだった。内田氏が、女性雑誌の1ページをコピーして学生に配り、わからない言葉にしるしをつけさせたところ、ほぼ全員があちこちいっぱいしるしをつけたので驚いたというところ。ああ、あった。「下流志向」(講談社) p21
 彼ら彼女らにとっては、わからない言葉やわからない概念がそこらじゅうに散らばっている。「矛盾」が読めないくらいですから、新聞の外交面とか経済面では、たぶん三分の一くらいが意味不明の文字で埋め尽くされているのだろうと思います。メディアを通して見える世界は「虫食い」的に、一面に「意味の穴」が開いている。たぶん、そういう状態になっているんじゃないかと僕は想像します。

 で、内田氏は、今の若い人はどうも「世界が虫食い穴だらけ」でも平気であるようなのだと言っている。「意味がわからないことにストレスを感じない」「平気でスキップする」これはもう「能力」と言ってよいと思うと。
 で、この「下流志向」という本の中では、その子供たちの学力低下は、「相対的な学力が下がればうちの子の点数がよくなり、受験が簡単になる」という親の期待によって促進されているのではないかと推測されているのだが、上記のコメントを読んでなーるほどとちょっと思った。「フェミニズム」なんていうヒステリックなバカ女の振りかざす危険思想に染まることのない純真なお嬢様が通う学校って、のどかでよろしいですね、なんてまったく危機感がない。そういう大人が常識的知識の虫食い状態を作ったのじゃないか?

 しまった!そうじゃないと書いてある。「狼少年のパラドクス」p77
それは「この世の中がろくでもないのは、みんな『あいつら』のせいだ」という他責的な語法をフェミニストが濫用したせいで、結果的にそのような語法そのものが批評的なインパクトを失ったせいではないかと思う。だって、いまの日本のメディアもエスタブリッシュメントもみんな「そういう語法」でしか語らないから。

 私はフェミニズムの「知的資産の継承」を望んでいる。
 そのためには、「フェミニズムって何ですか?」という少女たちの出現を構造的危機として重く受け止めるフェミニストの出現が急務であると思う。それを「父権制のイデオロギー装置が奏功して、子どもたちはみんな洗脳されてしまったのだ」というような他責的な構文で説明して安心するのはよした方がいいと思う。

 わお。
 この、自分を批判の対象の埒外に置いといて「悪いのはみんな○○だ」(例えば自民党だとか、日教組だとか、父権的権威主義だとか)と一方的に批判するやり方を内田氏は不毛で恥知らずだとおっしゃっていたと思う。「ためらいの倫理学」の中で。反省、反省。

 ところで、私が上記の「世界が虫食い」という言葉を思い出したのは、姜尚中「在日」(集英社文庫)を読んだからだ。この本は、姜さんが自分の半生を振り返りながら、社会の変化やその時々の政治的事件をどう受け止めたかをたいへん真っ直ぐに書き綴っておられる自伝だ。たとえば1979年のドイツ留学の際、モスクワの空港で見たトイレットペーパーの粗末さや売店の売り子の不機嫌な顔つきから、この共産主義国が制度疲労を起こしていて、ゆっくりと死につつあるということを直感する。時代の移り変わりを敏感に察知し、この次にどうなるということを比較的正確に予測しておられるのだが、それは青年期の学生運動と留学の体験と古典思想研究によって培われた独自の感性によるものだということを書いておられる。また、それは「在日」という立場の特殊さから否応なしに敏感にならざるをえなかったのだとも言われている。私は、この自伝を読みながら、年代が違うにしても、自分がいかに政治的、社会的なことに無関心で過ごしてきたかということを思い知った。新聞が一面ぶち抜きの大見出しを付けていたような事件でも、そのことがどういう歴史的意味を持っていたのかということが今に至るまで理解できていなかった。読みながら「世界が虫食い」というのは私のこの状態のことじゃないかと思ったのだった。
 
 73年の夏、金大中氏拉致事件が起こる。姜さんは「大統領選に立候補した有力政治家ですら、こんなふうに扱われるとしたら、名もない在日の自分たちなど、吹けば飛ぶようなゴミ扱いではないか。」と、戦慄と憤りをおぼえたという。そうか、在日は「炭鉱のカナリア」なのだと私は思った。そして姜さんは、今格差の拡大によって日本社会の中で日本人が在日化するという現象が生じているともおっしゃっている。つまり、ネットカフェ難民や国民健康保険料を払えなくて病院に行けない人たち、年金をもらえない人たち、急増中の下層の人たちはみな今まで在日が苦しんできたような境遇に陥っているというのだ。カナリアを死なせてはいけないと思う。カナリアの声を聞かなきゃだめだと思う。姜さんをテレビで見る度に、その声と表情に深い苦悩と憂鬱があるように感じていたが、それはこのような人生の歩みから発せられていたのかと思った。

つづく

桜庭一樹 二作

2008-01-26 23:56:27 | 本の感想
 「私の男」(文芸春秋社)
 
 とっくの昔に読み終えていたのに感想を書く気になれなかったのは、「素粒子」に続いて、これがおそろしく孤独な人間の話だからだ。直木賞受賞の際の選考委員の講評なるものが、
「受賞作は、いろいろ言ってもしょうがない、で終始する不思議な作品。我々は大きなばくちを打ったのかもしれない」

とかって微妙なのもわかる気がする。きっと「警察小説」書いた人は、軟派の美青年がキャーキャー騒がれてるのを体育館の影から憤怒に燃える目で睨みながら「血と汗にまみれて武道に励んできた俺たちがなぜモテない!」と地団駄踏んで悔しがってる体育会系青年の気分に違いない。私は直木賞とかってどうでもいいが、「赤朽葉家の伝説」ではところどころライトノベルっぽい言い回しが出てきて「あらっ?」と思ったのに、この小説ではそういうのがなくてよいと思った。

 押入れの死蝋化した死体っていえば思い出すのは、宮部みゆきの「楽園」(文芸春秋)だ。あれも、秘密を家族の中に抱え込んでしまって二十年も閉ざしていた話だ。私は「楽園」を読み終わったとき気分が悪かった。どこが楽園じゃー!と思った。この書評にあった
人々は幸せを求め、必ず、ほんのひとときであれ、己の楽園を見いだす。他から見て、それがいかに奇妙で、危うく、また血にまみれてさえいても。そして、そこに支払った代償が、楽園を過酷な地上にひきずり戻すのだ、と。

という解説にそのときは納得がいかなかったのだが、「私の男」を読んだら理解できた気がした。確かに、たとえ死体を抱え込んでいたとしてもこれは「楽園」に違いない。だけど、家を締め切っていると厭な匂いがしてくるように、その閉ざされた楽園は空気が澱み、何もかもが腐って悪臭を放っている。ああ、そうだった親子の名前は腐野というのだ。

 先週(1月19日)のTBS「王様のブランチ」で桜庭一樹さんのインタビューがあって、主人公「腐野花」という名前は「成長できないで子どものまま朽ちていく女性」という意味をもたせているとおっしゃっていた。たいへんわかりやすい。冒頭、私がカチンときた傘を盗むシーンも、「何の罪悪感もなく盗みをする人。道徳意識が欠落していて、何をするかわからない怖い人。」ということをこれで示唆したのだそうだ。ああ、確かにそんな感じがした。そんな人のそばには絶対寄りたくない。

 社会から隔絶したところで、血の繋がった者同士で愛し合っていれば孤独でないかといえば、そうでもないのだ。どんなに血が繋がっていても、濃密な肉体関係をもっていても、けっして人は孤独が癒されるわけではないのだ。きっと必要なのは宗教みたいなものだろうなあ。えーっと、こういうことを誰か書いていたっけな、と思いだしてみたら内田樹氏だった。
内田 樹/釈 徹宗「インターネット持仏堂2 はじめたばかりの浄土真宗」(本願寺出版社)

 レヴィナスはこう書いています。

「形而上学的欲望は、まったく他なる何ものか、絶対的に他なるものを志向する。(・・・・・・)形而上学的欲望は帰郷を求めない。なぜなら、それは一度も生まれたことのない土地に対する欲望だからだ。(・・・・・・)欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する。」(『全体性と無限』)

 レヴィナス先生のフレーズはほんとにいつ読んでもかっこいいですね。「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」なんていうフレーズを読むと、心拍数が上がって、ざわざわと鳥肌が立ってきます。
 そんなふうに身悶えするのは私だけかなあ。

いや、かなりの人が身悶えすると思いますよ。
 ま、それはさておき。
 「いまだ存在しないもの」の探求、それが欲望です。
 愛する人を抱きしめているときに(えっと、釈先生の方に差し障りがあるようでしたら、「可愛い子どもを」にしておきましょうか?)もし愛撫が「欠如」であるなら、ぎうっと抱きしめたことによって欠如は満たされ、ガソリンを満タンにしたときのように「はい。どうもありがとうございました」と言って、ほいほいとどこかに出かけてしまう・・・・・・・ということが可能なはずです。でも、実際にはそんなことって起こりませんよね。
 いくらぎうぎう抱いても「満たされる」ということは起きません。
 むしろ、自分がどれほどこの人を求めていて、その不在を耐え難く思っているか、ということばかりが身を切り裂くように実感される、というものです(よね)。
 というわけで、欠如が満たされ得るものが「欲求」欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昂進するようなものが「欲望」と呼ばれます。


 えーっと、ここで内田氏は「欲望」の定義について語っているのではなく、レヴィナスの「善」の概念について、「善」とは「欲求」されるものではなく、「欲望」されるものだと述べていることをわかりやすく解説しているのだ。
 善とは、「自分は何をしたらよいのかわからない」のだが、「自分は何をしたらよいのかわからない」という仕方で世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」(言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるもの)を欲望するという事況そのものを指しているのです。

 えーっと、「絶対的な遅れ」というのは「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)で「始原の遅れ」と言われていたが、私たちはこの「始原の遅れ」を有するがゆえに、絶対的に先んじているもの(神)を焼けつくように欲望し、欲望することの中にすでに善への志向性があるということなんだな。うわー!頭が・・・頭が・・・・・・

形而上的な文章を読んで鳥肌が立つような快感を味わいたい人は原作にあたってくれ。

 ともかくこの小説の親子は決定的に間違っているぞ。この世に存在しえないものを求め続けていたら腐っていくのだ。それはやっぱりある種の地獄に違いない。
 でもちょっと、花が過去を封印したつもりで自分を偽って結婚生活を送りながらだんだんと壊れていくとか、夫の尾崎美郎があのときの幽霊の意味をじわじわと悟っていくとかそういう将来を描いた続編を読んでみたい気がしないでもない。

 「青年のための読書クラブ」(新潮社)
 
 これはライトノベルっぽくておもしろかった。カトリック系の名門女子校といえば「マリア様がみてる」(コバルト文庫)を思い出すがそんなこそばゆくなるような純情ノーテンキな場面は全然ない。むしろ「名門お嬢様学校」なるものをカリカチュアライズしてある。時として悪意すれすれだ。家柄や容姿によってクラブ活動が階層化されていて、頂点に選挙で選ばれた「王子」と呼ばれるスターが君臨するとか、女の子たちがみんな「ぼく」とか「君」とか言っているのもマンガちっくで吹き出してしまった。だけど、廃墟のように古びた煉瓦造りのクラブハウスで、はみ出し者たちがひたすら紅茶を飲みながら本を読むだけという「読書クラブ」の存在は魅力的だった。ああ、目に浮かぶようだ。私もそこにいたらきっと在籍していたに違いない。そういえば、高校の頃よく遊びに行った文芸部がちょっとそんな感じだった。古い木造のクラブハウスで、歴代の部員達が持ち寄った本がたくさんあって、アニメージュに連載されていた「風の谷のナウシカ」も「宮沢賢治詩集」もみんなそこで教えてもらった。残念なことに、その部室も「読書クラブ」そっくりに老朽化していたため、本を置くなと厳しく言われて(床が抜けるから)私が3年の頃にはすっかり片づけられてしまったのだったが。

 一見、はみ出し者の寄せ集めで、日陰にひっそり存在しているかに見える「読書クラブ」が、実は学園内の大事件や流行の影の仕掛け人だったり、学園の創立者にかかわる仰天の秘密を「クラブ誌」によってひそかに語り継いでいる唯一の集団であるというのが愉快だ。さらに、卒業生たちが年を取っても自然発生的に寄り集まって、会員制喫茶店でひたすら本を読んでるっていうのも素敵だ。これこそが「楽園」だ。だれが何と言おうと、絶対「楽園」だ。

ミシェル・ウエルベック「素粒子」

2008-01-23 23:24:40 | 本の感想
 たいへんエロい夢を見て、「なんだこれ?」と考えてみたら、今読みかけの本「素粒子」(ちくま文庫)の影響であるようだ。でもこの本、やっとこさ半分読んだものの、あんまり殺伐としてるので読みきれそうにない。このトホホさ加減は確か・・・確か・・・2ちゃんねるの独身男板の雰囲気だ。そういえば3、4年前にもはてな界隈で、男のモテ度によるヒエラルヒーとか、恋愛の自由化によってより激しく疎外される非モテ系男たちの救いのなさとかそんな話題が流行してたっけな。

 「素粒子」は父親の違う二人の兄弟の話だ。母親は遊びまわっていて子供を省みないため二人はそれぞれ祖母に預けられて育った。兄のブリュノは寄宿学校で悲惨ないじめに遭い、大人になってからもまったく女にモテないで四苦八苦している。弟のミシェルは逆にまったく女に興味がない。どうも彼は天才科学者で、後に世紀の大発見をするらしいのだが、私はその部分まで辿り着けるかどうか自信がない。なんせこんな感じなんだ。
はるか後年、ミシェルは超流動体化したヘリウムの動きとの類比に基づいて、人間の自由をめぐる簡潔な理論を提唱することになる。原子レベルでのひそかな現象である、脳内部におけるニューロンとシナプスのあいだのエレクトロン交換は、原則として量子的予測不可能性に従っている。とはいえ、原子的差異を統計上捨象できるがゆえに、大多数のニューロンは、人間が――大筋においても細部においても――他のあらゆる自然体系同様、厳密に決定された行動を取るようにはたらく。ただしある種の、きわめて稀な場合には――キリスト教徒のいわゆる〈恩寵の御業〉――、新たな一貫性を持った脳波が現れ、脳内に広がっていく。すると調和的な振動子とはまったく異なるシステムによって支配された新たな行動が、一時的に、あるいは継続的に出現する。そのとき、〈自由行動〉と呼ばれるにふさわしい行動が観察されるのである。

ギャー!

 一方で、ブリュノの言いたいことは明確だ。
 アメリカからやってきた享楽的なセックス至上主義がヨーロッパにも蔓延し、ユダヤ=キリスト教的道徳が崩壊した結果、昔ならば普通にできていたはずの伴侶の獲得という行為でさえ過酷な自由競争にさらされるようになった。そんな中で、容姿にめぐまれていない非モテ系の男女はその競争からこぼれ落ちて、徒に欲望を刺激され続けるという悲惨な人生を生きるほかなくなった。しかも、競争の勝者といえどもその関係は保証されたものではない。離婚率の増加によって、いつまた伴侶を失い最初からやり直さなくてはならないかはわからないのだ。
 今時の若者って、こんな不安で過酷な人生だったのか。


 ブリュノはニューエイジっぽいサマーキャンプに参加する。そこならセックスしたいフリーの女が大勢参加しているだろうと考えたからだ。しかしそこでもはみ出してしまう。 私が殺伐としていると思ったのは「モテない。モテない」とばかり言っているからじゃない。たとえばブリュノの母親は、離婚した後、ヒッピー風のコミューンの創立者の愛人になって、ドラッグとフリーセックスを信条とするその集団で若い男とやりまくっている。まあそんな母親も今どきは普通にいるだろうし、家族の崩壊もありふれているかもしれないが子どもはどうすればいいのか。また、ブリュノが参加する「変革の場」というサマーキャンプは実在の組織をモデルにしてるらしいのだが、そこには「エジプト神秘主義者」だの「ヨガ行者」だの「薔薇十字団の女」だのと、ブリュノが簡単に符牒をつけて判別する女がたくさん出てくる。「カトリック女」とか。どれも難アリなのだが、私はそこんとこでぞっとした。「エジプト神秘主義者」でっせ!セックスは置いといても、そんなん理解するのはとても疲れそうだ。「薔薇十字団」ですよ。こんなにバラエティーに富んだ主義主張がぐちゃぐちゃに入り混じっている社会で、人と人が理解し合うなんてとうていできそうもない。人格的、思想的に相手を受け入れるなんていちいちやっちゃいられない。もちろんブリュノはそんなことを考えてるわけではなく、ただ一点、「ヤレるかヤレないか」を基準にして見るわけだけど、悲しいかな、いくらハードルを低くしてもクリアできないものはできないのだ。

 悲しいのは男ばかりじゃない。ジャグジーで出会った(フェラチオの達人)クリスチアーヌという熟女は、「変革の場」が出来て以来ずっとそのサマーキャンプに参加しているのだがこう言う。
でも、少し寂しいわね。外の世界よりは暴力をずっと感じないことはたしか。宗教的な雰囲気のせいで、ナンパの乱暴さが少し隠されている。でもここにも、苦しんでいる女の人たちがいるのよ。同じ孤独に年取っていくといっても、男より女の方がずっと哀れだわ。男は安酒飲んで眠りこけ、口臭がひどくなっていく。起きればまた同じことの繰り返し。さっさとくたばってしまう。女は精神安定剤を飲んだり、ヨガをやったり、心理学者のカウンセリングを受けたり。ひどい年寄りになってもまだ生き長らえて、さんざん苦しむのよ。ひ弱になり、醜くなった体をなおも売りに出して。自分の体がそうなってしまったことは十分承知している、それがまた苦しみにつながる。でもしがみつくしかない。なぜなら愛されたいという気持ちを捨てることはできないから。女は最後までその幻想の犠牲となるのよ。

 ギャーーー!これってある種の地獄じゃないか?
 クリスチヤーヌの夫は若い愛人を作って出て行ってしまったのだという。
クリトリスの核や亀頭の先、尿道口のあたりにはクラウゼ小体がひしめき合っていて、神経終末だらけなわけ。そこを愛撫すれば、脳内ではエンドルフィンがどっとあふれ出す。男も女も、クリトリスや亀頭にはクラウゼ小体がいっぱいで―その数はほぼ同じだから、そこまではとっても平等なの。でもそれだけじゃすまない。わかってるでしょうけど。

クリスチアーヌは理科の先生なのだ。
わたしは夫に夢中だった。ペニスを崇めたてまつって愛撫し、嘗めてたな。ペニスが中に入ってくるのを感じるのが好きだった。彼を勃起させるのが誇りで、勃起した彼のペニスの写真を財布に入れて持ち歩いていたわ。わたしにとって、それは宗教画みたいなものだった。彼に快感を与えることがわたしの一番の喜びだった。でも結局彼は若い女のためにわたしを捨てた。さっきもよくわかったけど、あなただってわたしのあそこに本当に惹きつけられたわけじゃない。もうおばあさんのみたいな感じが漂っているもの。年を取るとコラーゲンが架橋結合を起こすし、エラスチンも有糸分裂の際に細分化されて、細胞組織の張り、しなやかさは失われる一方。二十歳のとき、わたしの陰唇はとても美しかった。でも今ではそれがたるんできているって、よくわかってるわ。

びらびらがしわしわになったからってどこが悪い!そんなことで家を出て行くなんてサイテーな男だ!

 そんなこんなで、すらすら読むなんてとてもできそうもない。そうか、最近私のエネルギーを奪っていたのはこの本だったのか。すいません、途中やめしていいですか?「世紀の大発見」とか「衝撃的な結末」とかはエネルギーの有り余っている人が読んでください。

 
 あとがきによると「素粒子」は前作「闘争領域の拡大」の提起したテーマをさらに掘り下げた小説だという。「闘争領域の拡大」とは
 高度資本主義社会を支えるのは、個人の欲望を無際限に肯定し煽りたてるメカニズムである。そのメカニズムを行き渡らせることにより、現代社会はあらゆる領域で強者と弱者を生み、両者を隔ててやまない。経済的な面においてだけではない。セクシャリティにかかわる私的体験の領域においても、不均衡は増大する一方である。あらゆる快楽を漁り尽す強者が存在する一方、性愛に関していかなる満足も得られないまま一人惨めさをかみしめる傷ついた者たちも存在する。「残るのは、苦々しさだけである。巨大な、想像もつかないほどの苦々しさ。いかなる文明、いかなる時代といえども人々にこれほどの量の苦々しさを植えつけるのに成功したことはなかった。」

ということらしい。
 こんなん、2ちゃんねるを見てれば理解できるのでええわ。それにしても、ほんっと、アメリカ的自由競争主義はどっかで阻止しなきゃいけませんね。

昨日のつづき

2008-01-22 18:32:29 | Weblog
 全然関係ないけど、3月1日公開の「ライラの冒険 黄金の羅針盤」の公式サイトを見て「ダイモン占い」なるものをやってみたところ、やっぱり私のダイモンはトラだった。占い大好きな私だけど、何だっていつもネコ科の動物になってしまうのか、それが不思議だ。これなんか生年月日ではなく、質問に答える形式なのに。トラはダサいからやだ。サルかトリがいい。

 
 太田述正氏のとこ経由で、人気メルマガであるらしい北野幸伯氏の「ロシア政治経済ジャーナルを読んだがなかなかおもしろかった。さすが人気メルマガ。行間をむやみに空けてあるとことや、口語体で体言止めを多用してるとこに、ある種の匂い(えーっと、なんて言ったっけ。ブログが普及する以前のテキスト系サイトとか人気VNI系サイトとかそういうやつ)の匂いがするが、読みやすいことは確かだ。以前、「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」という本を検索した際にこのメルマガがヒットしたので記憶にある。
アメリカが分裂している兆候は前からありました。

RPEでも「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマさんが、「ブッシュと決別宣言をした!」ことを紹介しました。

面白い本があります。

日本では「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」という名で出ています。

内容は要するに、「イスラエルロビーがアメリカ外交を支配し、そのせいでアメリカは おかしくなった」ということ。

イスラエルがアメリカ最大のロビー集団だなんて、専門家は皆知ってるんです。

(ちなみに2番目は、中国ロビー)

しかし、「ユダヤ陰謀論者」とレッテルをはられるのが怖くて、公言できなかった。

そこで、「イスラエルロビー」について書くのは、一般的に「陰謀論者」といわれるような人ばかりだった。

ところが、この本を書いたのは、世界的権威
                    ~~~~~~~~~~~~
●シカゴ大学教授のミアシャイアーさん
●ハーバード大学教授のウォルトさん

帯には、「『文明の衝突』のハンチントンにならぶ世界最高の知性がタブーに挑む、陰謀説を超える議論の提起」とあります。

 それにしても行間とり過ぎ。それに、飯田史彦や斉藤一人を推奨してるのってアリですか?なんか船井総研とか自己啓発セミナーとかそっち系の匂いもする・・・・。いやー、嫌いじゃないけど・・・。と思ったら、モロに船井幸雄の本を絶賛してる。こういう系統の人も健在なんですねえ。

 このメルマガを読んでいて思い出したが、「アメリカ一極時代終結宣言」って、日曜のサンデープロジェクトで榊原英資さんが同じようなことを言っていた。「これからはアメリカの力が徐々に衰えて中国、ロシアの時代になってくる。」って。ところがドイツ証券の武者さんはそれに真っ向から異議を唱え「今の混乱は一時的なものでアメリカはまだまだ強い。いずれ事態は収拾に向かう」みたいなことを言っていた。榊原さんは要するに、今までのアメリカにくっついていくようなやり方ではもはや通用しなくなってきているのであって、早急にパラダイムシフトしなきゃいかん、という主張のようなのだ。さらに、日本の若者の学力低下は目を覆いたくなるような状況で、エリートの育成が不可欠だということらしい。私は「エリートの育成」なんてもんは、貧乏な発展途上国が乏しい資本を最大限有効に使うためにやるものだと思っていたが、みんな口を揃えて「エリート、エリート」って言うところを見ると、もしかしたら日本はもはや資本を一部に集中させて効率よく使うことでしか生き残りは図れない段階にきているのかもしれないな。

 そして、田原さんが本気で怒っていたのは現在の政治状況についてで、与党党首は何を考えているかわからん。最大野党党首もへっぴり腰で頼りない。政治家にリーダーシップがなくて構造改革も進まないから外人投資家が日本を見限って日本株が売り込まれているという恥ずかしい状況だ。
 私は先日驚愕したのだけど、韓国の次期大統領李明博氏が「日本に謝罪を求めない」と発言した。すごく頭のいい合理的精神の人だなあ。歴史認識問題でぎくしゃくするよりも経済的に協力することで双方に利益があるのだから今は過去のことは棚上げにしておこうというわけだ。韓国にだってうるさい右翼や左翼はいるだろうに。
 これは日本にとっても外交的な膠着状態を脱する好機だと思う。宮台真司が言っていたが、アメリカ的なグローバリゼーションの影響から国を守るためにはアジア諸国との連携が必要不可欠であるが、そのためには個人レベルでの補償も含めて過去の清算をするという決断をしなくてはならなかったのだ。もう安倍元総理みたいな時代遅れ右翼はどっかに引っこんでおとなしくしておいてもらって、前向きで合理的な政治家に積極的な外交をしてもらいたい。
姜尚中×宮台真司「挑発する知」(ちくま文庫)
 周知のように、ネオリベ的なアメリカを含め、どんな国でも、公共事業をおこなうことで、政府が民間企業に発注して市場での影響力を発揮し、経済をウマく回そうとします。財政政策と言います。先進各国で最も重要な公共事業が軍需産業です。でも日本はこれが禁じられています。公共事業の大部分を非軍需的におこなう必要から、土建屋化しやすいのです。
 その意味で、先進国間でコンクリートをぶち込む分量を横並びに比較するやり方は公平ではありません。日本が脱土木化してハイテク・ミリタリーで公共事業を回せるようにするには憲法改正が必要です。他方、さっき述べたように対米中立化には重武装化が必須ですが、重武装化とは対地攻撃能力を軸とした反撃能力を意味するから憲法改正が必要です。
 重武装化には憲法改正が必要です。それにはアジア周辺諸国の信頼を得なければなりません。そのためには従来の対米従属から離脱する必要があります。それには重武装化が必要です。ここには循環があります。この循環を回せるようにするには、戦後補償についても、従来型の政府間決議を超えて、ありとあらゆる感情の手当をしなければなりません。
 安倍晋三や「新しい歴史教科書をつくる会」のような「マスターベーション右翼」とは違って、むしろ戦略的な謝罪や戦略的な保障を通じて重武装化に向けた橋頭堡を築くようにしていくべきでした。そうすれば、国連各国から「アメリカにはへこへこするくせに中国韓国には居丈高の、弱虫国家」と揶揄される現状に陥らずに済んだはずです。
 その意味でいえば、実はネオコン的であっても親米である必要はありません。小沢さんには、ネオリベと新保守主義の、非親米的なカップリングを目指していた気配もあります。ところが、ネオリベを取り下げて市民主義的コーポラティズムを持ち出したので、新保守主義による補完が必要なくなった。そういうふうに論理的に考えてみることもできます。



 あと、思い出したが、「日本はアメリカの属国」というのはロシア語の同時通訳者でエッセイストの故米原万理さんが「打ちのめされるようなすごい本」(文芸春秋)の中で書いていた。該当部分を探すのが面倒だと思っていたらネット検索でさっと出てきた。ああ便利だ。
 同時多発テロ以来、小泉の目つきが完全にイッちやってる。ブレアも同じく(中略)日本はあくまでもアメリカの属領なのだから、属領の知恵「面従腹背」を貫くべしと思うのだが(実際、大多数の国々は世界最強国に表立っては同調しつつ賢明に実行は避けている)小泉は本気だ。危なっかしいたらない。(後略)

 私は「不実な美女か貞淑な醜女か」以来米原さんのファンだったが、つくづく惜しい人をなくしたと思う。

 

山本芳幸「カブールノート」

2008-01-22 01:59:50 | 本の感想
 いろいろな本を並行して読んでいるのだけど根気がつづかなくてなかなか進まない。スランプだ。少しだけでも読んだところの感想をメモしておこう。

 山本芳幸「カブールノート」(幻冬舎)を読みかけて、今さらながら現地の状況の悲惨さと複雑さに愕然としていろんなことを考えた。中村哲氏が日本のテロ特措法をめぐる議論を「空中戦」だとおっしゃったわけがわかってきた。
 「テロとの戦い」といったとき、私たちは明確にアメリカの視点でアフガニスタン情勢を見ているわけだが、中村さんが講演の中でおっしゃっていたように決して善悪二元論で割り切れるものではないと思った。
 
 1989年、ソ連軍がアフガンから撤退し、共産主義政権が倒れた後、アフガニスタン国内には聖戦士と呼ばれるゲリラ軍が残り、各地で軍閥が群雄割拠しているアナーキーな状態だった。戦争が終わったと思ってアフガニスタン国内に戻ってきた難民たちは、今度はこの聖戦士たちによる殺戮、掠奪、強姦などさんざんな目に遭う。ここに書かれている証言の通りだ。その混沌状態を収拾し、各地で軍閥を一掃して治安を回復したのがタリバンだ。彼らは規律正しく、統制がとれており、決して掠奪や強姦をしない。進出地域の住民たちはタリバンを歓迎し、進んで武装解除に応じた聖戦士たちもいた。
 こういう記述に私は愕然とする(カブールノート 「No3 神の戦士たち」より
 1995年、タリバンの支配地域拡大は第二段階に入った。タリバンは異文化圏のヘラート及びカブールへの侵攻を開始した。

 カブール市の西南部はマザリが率いるシーア派の軍とドストム将軍の分派が支配し、たえずマスードを脅かしていた。彼らよりさらに大きな脅威は、同じ政権の首相であるはずのヘクマティヤールであった。彼は合同政権の権力の分配に満足しておらず、カブール市南部の外側に陣取り、92年から95年にかけて、そこからカブール市内に無差別にロケット砲を撃ち続けていた。ヘクマティヤールの目的は、ラバニ・マスード派の信頼を崩し、合同政権を瓦解させることであったが、このロケット砲撃により、カブール市はほとんど破壊され、2万5千人以上の一般市民が亡くなったといわれる。

 アナーキーな状態で、軍閥が一般市民にロケット弾をガンガン打ち込んでいるのに政府軍はそれを止めることすらできていなかった。そこに登場したのがタリバンだ。そりゃあ市民は歓迎するに決まっている。この際、宗教戒律に厳しいとかはどうでもいい。人殺しや強姦をする野蛮な奴らよりはるかにましだ。
 
 タリバンの戦士たちにはある「確信」のようなものがあると山本氏は言う。明言はされていないが、推測するにそれは、「決して外国の傀儡とならずに自力で秩序を回復し、そして独自の宗教と文化で国を立て直してみせる」というような誇りと自信ではないかと思う。私が今までタリバンに抱いていた「狂信的な宗教原理主義者」「女性差別的な封建主義者」というイメージが少し変わった。物事は見る立場によって全く別の様相を見せる。中村哲氏がおっしゃっていたがタリバン政権が崩壊し(アメリカの傀儡であるところの)現政権になってから国内のあちこちで目立つようになったのはケシ畑であるという。タリバンはケシの栽培を禁止していたが、現政権になってからは軍閥が息を吹き返し手っ取り早く金になる麻薬を重要な資金源としているため農民にケシ栽培を奨励しているというのだ。その麻薬はどこに流れているのだろうか。


 日曜日の「たかじん」で「おしおきしたい人」というお題があって、田嶋陽子さんが「ブッシュ大統領」と書いていた。「9.11の死者の数が3000人、イラク戦争でなくなった兵士が4000人(連合軍)、イラク国内の一般人が3万4千人、こんな悲惨な結果を招いた責任をブッシュ大統領は取るべきだ」というのだ。もちろん私も当然だと思う。だけど、じゃあすぐさま撤退できるかといえばそんなわけにはいかない。ここまで治安が悪化してしまったら、アメリカが手を引いた途端にアフガニスタンでかつて起こったような混沌状態が再現されるに違いない。宮崎哲弥さんが言いかけた「昨年イラク駐留軍を増派したことによってあきらかに治安が回復した」というのはそのことを言おうとしていたのだと思う。みんな一斉に喋るから訳がわからなくなる。アメリカはこのような悲惨な状況を招いたことについて責任を取るべきだと思う。その責任の取り方というのはイラクが完全に平和になるまで徹底的に支援することであって「手を引く」というような無責任なやり方ではないはずだ。そしてそのことは今になってはおそろしく困難なことだろうと思う。また、アメリカを支援した日本もそれについては無罪ではありえない。イラクの復興に積極的にかかわらざるをえなくなってしまったことの責任は誰にあるのか。決して忘れてはいけないと思った。

 
 その時ふと、前日(19日)のお昼に見たテレビ番組を思い出した。「超歴史ミステリーV・“大奥”女の欲が歴史を変えた」。私はドラマ「大奥」には全く興味はなかったが、始まったばかりのNHKの大河ドラマ「篤姫」を見始めたのでちょっと見てしまった。おもしろいのは「近衛家に縁のある大奥の女たちが徳川家を中から滅ぼし、大政奉還と王政復古に至らしめた。そしてその企てはすでに忠臣蔵の時代から始まっていた」というこの番組の主旨だ。
 
 江戸時代、徳川家は大名家から嫁を貰うことはできなかったらしい。特定の大名家の勢力が強くなることを恐れたからだろう。そこで公家から嫁取りをしたのだが、近衛家の娘、後の天英院は6代将軍家宣に嫁し、夫の死後も御台所として権勢をふるう。清閑寺 熙定の娘竹姫は、5代将軍綱吉の養女となるが、実は8代将軍吉宗と恋仲であったと言われている。これを御台所、天英院が引き裂いた。実家と関わりの深い島津家に嫁がせるためだ。島津家は当時財政難であった。竹姫と島津家の5代藩主継豊との婚姻によって徳川家との関係は深まり、後に財政建て直しの際の援助を得ることができたのだという。
 徳川家を間に挟んだ島津、近衛両家の緊密さは13代将軍家定の正室となった篤姫の輿入れに際しても見られたことだ。詳細は大河ドラマで見られるが、この番組では篤姫が夫家定や次の将軍家茂の毒殺をしたのではないかと推理している。尊皇派の一橋慶喜を将軍にして大政奉還を実現するためだ。
 毒殺云々はともかく、歴史の表舞台にはほとんど登場してこない女性たちが、実はなかなか侮れない大きな影響力を持っていたらしいことに驚いた。また、大政奉還、王政復古などという統治システムがコロッとひっくり返るようなことを徳川幕府の300年の間ずっと考えてきた人たちがいて、虎視耽々と機会を窺っていたということにも驚いた。つまり、今現在のシステムを自明なものとして安住せず、いつかこの理不尽な状況を変えてやろうと着々と策を練り、一つ一つ布石を打って最後の最後にひっくり返してしまうというこの執念深さと頭のよさにだ。ちょっと空恐ろしいとも感じたが、今の私たちはそのような執念深さは持ち合わせない忘れっぽくておめでたい人種になり下がっているので、少しは「大奥」の女たちを見習った方がよいかもしれないな。

 ちょっと文章を書かないともうすぐに全然書けなくなっちゃうなあ。

「ニッポンの教養」 伊勢崎賢治氏

2008-01-16 02:25:09 | テレビ番組
 15日放送の「爆笑問題のニッポンの教養」で紹介された先生は伊勢崎賢治氏であった。東京外国語大学大学院で平和構築・紛争予防講座を持っておられるし、サンデーモーニングでときどきコメンテーターとして出演される。著書「武装解除 紛争屋が見た世界」(講談社新書)は衝撃的だった。番組の中でもちらっとおっしゃっていたが、シエラレオネにいたときの体験談が紹介されている。

テロを封じ込める決定的解決法

 9.11。世界貿易センターが崩れ落ちるCNNの速報を僕はシエラレオネで見ていた。
 ここは首都フリータウン、国連シエラレオネ派遣団(UNASIL)本部。この1万7千の国連平和維持軍を擁するPKOミッション本部ビルの一室に集まった幹部たちは、皆無言でテレビに見入っていた。(中略)その場にアメリカ人はいなかったが、歴史に残るこの惨劇を目にして、奇妙な沈黙の中で共有されていた気持ちは、「(アメリカにとって)自業自得」という冷めたものではなかったろうか。何の罪もない、アメリカ人ではない人々も多く含まれていたであろう犠牲者の手前、誰もそれを口にすることはなかったが。
 (中略)そんな中で、僕が忘れられないもう一つの報道がある。それは、英国BBCラジオ国際放送。数少ないほぼ中立な情報源としてアフリカ人の中では非常にポピュラーな Focus on Africa という番組だ。その中の電話によるリスナー参加コーナー。テーマは「9.11とテロ世界戦」だった。
 冒頭の電話の主は、フリータウン在住のシエラレオネ人主婦。
 
主婦 「テロ世界戦を終結するために決定的な方法をミスター・ブッシュに提案したいと思います。」
キャスター男 「ほう。その方法とは?」
主婦 「それは、オサマ・ビン・ラディン氏をアメリカ合衆国の副大統領に任命することです」
キャスター男 「・・・・・・」
キャスター女 「(あわてて切り出す)どうしてその方法が良いと思うのですか?」
主婦 「なぜなら、この方法は内戦を止めるためにシエラレオネで実施されたことで、大量虐殺の首謀者で、何千人もの私たちの子供の手足を切った反政府ゲリラのボス、フォディ・サンコゥを副大統領に祭り上げたのは他でもないアメリカなのです。そのお陰で私の国では今、武装解除が始まろうとしているのです。」
キャスター男 「・・・・・。あっありがとうございました。次のかたに行きましょう・・・・・・」

これは本当だ。
米国が醸し出す究極のダブル・スタンダード
 
 9・11.世界貿易センターでの犠牲者は三千人余。
 シエラレオネで、殺人より残酷と言われる手足の切断の犠牲者になった子供たちの数は数千人。十年間の内戦の犠牲者は、五万とも、五十万人とも言われる。この内戦の直接的な指導者は、フォディ・サンコゥ。
 過去の虐殺を犠牲者の数だけで比較するのは不謹慎かもしれない。しかし、三千人しか死んでないのに、なぜそんな大騒ぎを、というのが、千人単位で市民が犠牲になる身近なニュースに馴れたアフリカ人の率直な感想だろう。そして、三千人しか殺してない(それも自爆テロという勇敢な方法で)オサマ・ビン・ラディンが“世界の敵”になり、量的にその何十倍の残虐行為(それも無知な子供を少年兵として洗脳し、親兄弟を殺させ、生きたまま子供の手足を切断し、妊婦から胎児を取り出し、目をえぐり、焼き殺す)を働いた首謀者フォディ・サンコゥが、どうしてシエラレオネの副大統領になるの?というのが、前述のBBCの番組に声の出演をした名もないシエラレオネ人婦人の本音であったろう。

 1997年にクリントン大統領は、ジェシー・ジャクソン牧師(黒人の公民権運動指導者)を「アフリカ支援特使」に任命し、リベリアとシエラレオネの地域紛争を解決しようとした。まず、ジャクソン師は1998年にカッパ大統領によって国家反逆罪で死刑が宣告されていたサンコゥを無罪放免するよう働きかけた。そしてこの世紀の虐殺者を一転、無罪放免にしたばかりか、その郎党を含めてすべての虐殺行為に完全な恩赦を与え、そのうえ副大統領に任命し、さらに鉱山資源開発大臣を兼任させるという内容の「ロメ合意」を締結させた。すばらしい!アメリカの平和外交の賜物です。
 もちろん民衆は怒る。しかも「ロメ合意」のすぐ後にRUF(ゲリラ軍)が暴走して首都に再侵攻。“副大統領”宅に押し寄せた怒れる民衆に恐れをなしてサンコゥは群衆に発砲の後逃亡。ゲリラの武装解除が完了する2002年までどこか秘密の場所でかくまわれていたという。サンコゥが率いていたRUFは2002年5月の総選挙で「一政治政党として“変身”が許され、首都を含め国内各地に選挙事務所の開設を許可されたばかりか、事務所用地、開設費用まで政府負担、そして遺恨を持つ市民の復讐から身を守るための護衛も政府負担で賄い、選挙でで国民の信を問うも大敗。カッパ大統領が再選され、今日に至るのだ。」

 アメリカって頭いいなあ。びた一文も使わず口先三寸で強引に平和を達成しちゃった。伊勢崎氏は、だから「テロとの戦い」だなんてアメリカがいかに「ダブルスタンダード」で動いているかよくわかるだろうと言う。こういうことがようやく最近アメリカ市民にもわかってきたようだけど、日本人はまだわかってない、まったく当事者意識がないとおっしゃっていた。
 
 「武装解除」に戻ると、東ティモールでも、シエラレオネでも、そしてルワンダでも、内戦終結後人々は虐殺者と鼻突き合わせて暮らさなくてはならなくなる。果たして自分の家族をみんな虐殺し、自分に一生消えない傷を負わせた犯人を許せるかという問題がある。伊勢崎さんは「彼らは絶望から和解する」と言う。
生き残った人々は和解に人間的な価値を見出して、和解するのではない。和解を善行として、和解を受け入れるのではない。『復讐の連鎖』を心配するのでもなく“絶望”から和解するのだ。

もともとRUF放棄のスローガンの一つが腐敗した政権の打破だったように、腐敗、そして法と秩序の崩壊がこの国の日常だったのだ。そして、内戦が終わって復興が始まっても。どんな政権が国を治めても、この本質は変わらない。ずっと世界最貧国だったこの国は、これからもそうあり続ける。これが、十年の内戦を経ても、世界で一番貧しい国であり続ける庶民の“絶望”なのである。つまり復讐する気力も失わせる“絶望”である。

 「アメリカのダブルスタンダード」の他に伊勢崎さんがおっしゃっていたのは「武装解除には武力の後ろ盾が必要。国連平和維持軍に守られてなかったら自分は武装解除できなかっただろう」ということと「日本が平和憲法を持っているということで自分は信用された」ということだ。これはいろいろ議論があるだろうけども、番組で最初に伊勢崎さんが、「やはり、日本ほどの経済大国で軍事大国でもある国は周辺諸国にとってかなりの脅威であって、憲法9条の歯止めがあるということでかろうじて信用されている」ということをおっしゃっていた。憲法論議はもう難しくってしょうがないけど、核による抑止力で世界の平和を構築するという考えで日本も核を持とうなんていう考えは私にはとうてい受け入れられない。特にそんなことを言うのが太平洋戦争の日本軍の行為を正当化しようとする右翼だってんだから、他のアジア諸国だって信用するはずがない。

 あと、何度もおっしゃったのは「平和を唱える側がセクシーでなきゃいけない」ということ。「反対の側(右翼)はセクシーだ。それに対抗するには、もっとセクシーでなきゃいけない。」って・・・。右翼ってセクシーか?最近のネット右翼なんか、ビンボーでヒステリックでバカ丸出しみたいな気がするんだがなあ。そういえば、雑誌「SIGHT」の発行人渋谷陽一さんがおんなじようなことを朝日新聞(1月13日)で、作家高橋源一郎氏との対談の中で言っていた。
渋谷 権力の側が自分たちを合理化し、国民をコントロールしようとする時に使う言葉はものすごく平べったい「ぜいたくは敵だ」とか。
高橋 「感動した」とか。
渋谷 「美しい国」はコピーが大切という方向性は正しかったけど、言葉のスキルが足りなかった。権力がわかりやすい言葉を使ってきたときは注意しないといけない。それなのに、権力と戦う側があいかわらずの政治的な方言を使っていたんでは負けてしまう。「おじさんたちの言っていることはわかんなーい」となっちゃう。そういう彼らを批判するのは見当違い。対抗できる言葉を持っていないと、メディアは権力にやられてしまうんじゃないか。 

 ふーん。渋谷さんって、確かすっごく有名な音楽評論家のはずだし、SIGHTにしょっちゅう出てくる坂本龍一なんかもカリスマ的なミュージシャンで、そういうかっこいい人たちが今や「かっこ悪い」存在になり下がってしまった左翼的な言動を今あえてするっていうのはかなりのインパクトがあっただろうなあ。私は斉藤美奈子さんがSIGHTに出ていたのでかなり安心した。

 ついでに1月14日の新聞から「この人、この話題」一橋大名誉教授(日本思想史) 安丸 良夫 
「民衆運動」 「暴力」「狂信」のラベル貼る前に

 たとえば私たちは、宗教的急進主義やナショナリズムと結合した諸運動について、ほんの表面的にしか知らず、よく知らないことについては自分の日常意識から排除して、暴力や狂信のラベルを貼って済ませているのではなかろうか。民衆運動には、外部の観察者には、一見、非合理的でわかりにくいところがあるが、そのことの大きな理由は、非抑圧者の側はみずからの社会的な劣弱性をコスモロジー的な優位、とりわけ宗教的なそれによって代替するからである。しかし、一見不可解なこれら諸運動の特徴も、社会的全体性のなかでこれら諸運動の位置と意味とを見定めてゆけば、それほどわかりにくいものではない、と私は思う。

 この場合の「民衆運動」という言葉を、日本を棚に上げておいてイスラム原理主義とかアメリカのキリスト教原理主義とかに当てはめるとよくわかるが、日本の最近のナショナリズムだってまったくそのとおりに違いない。やっぱり、ぜったい、右翼はカッコ悪いよ。

島田雅彦氏といえば

2008-01-15 18:23:31 | 新聞
 朝日新聞の連載小説、夢枕獏「宿神」が19日で終わり、20日からは島田雅彦氏「徒然王子」が始まるらしい。昨日お知らせの記事があった。
 「作者の言葉」
 宮廷から「夜逃げ」した王子とジリ貧芸人による現代の「奥の細道」。世捨て人や「ポープレス」と交わり、五回分の前世を生き直す王子は果たして元の世界に帰ってこられるのか?「徒然王子」は浮かばれない人々を救うヒーローになれるのか?
 私はまだ恐ろしいものや美しいものをたくさん隠しています。面白いだけでは物足りないクールな読者のために、それらをすべてさらけ出します。毎日、最低二つは笑える教訓と決めゼリフを盛り込みます。プロを甘く見てはいけません。「徒然王子」とともにレッツ・ドロップ・アウト!

 すいません、私語彙が貧弱なんですが、「徒然王子」の「奥の細道」だなんて、ハイソでポップでデンジャラスでハイブローですね。「王子」といえば、ずっと以前にテレビをつけたら「英語でしゃべらナイト」の総集編をやってたんですが、「文壇の貴公子、島田雅彦氏が英語で口説き方を指南」というナビゲーションに驚いて、思わず「貴公子だったんかー!」と叫んでしまいました。
 その口説き方というのが、
 「ロシア語で名前を付けてあげよう。○○○○。これは“希望”って意味だよ。僕の希望になってくれるかい。」(さあ、名前をつけたから君はぼくのもの)

とか、
 「ぼくは、石鹸になりたい。そして君の嫌な思い出を全部洗い流してあげたい・・・。」

とか、ベタベタのあま~いセリフで、いかにも「彗星の住人」三部作の著者らしい口説き方でした。あったあった。アーカイブスの中にありました

 連載小説が楽しみです。

芥川賞と直木賞

2008-01-14 13:55:35 | 本の感想
 あさって16日に芥川賞と直木賞が発表されるらしいがほとんど興味はない。だってつまんないもん。
 芥川賞候補で読んでみようかなと思うのは「カツラ美容室別室」「ワンちゃん」だけで、直木賞候補では「私の男」「警官の血」だけだ。テレビで有力候補とされてたのもその4作品だったけど、それは偶然の一致です。ホントだって。
 というわけで「赤朽ち葉家」でハマった桜庭一樹「私の男」を早速アマゾンで注文した。体調が悪いときにはあまりコッテリした小説を読むと寝込んでしまうのだけど、今はまあ大丈夫そうだし。ついでに「青年のための読書クラブ」も注文。桜庭一樹オフィシャルサイトを見たら冒頭立ち読みができるようになっていて、
一九八〇年代後半において、閉ざされた乙女の楽園たる聖マリアナ学園を、外の世界に吹き荒れるバブルの金色の風がとつぜん襲ったことは、後の正史には残されぬ暗黒の珍事件である。

などと書いてある。これはおもしろくなりそうです。私はこういう電撃文庫ぽいのが好きだ。ところで桜庭一樹って女性だったのね

 最近は文芸誌を全然買ってない。読むと眩暈がしてくるからだ。「こういう小説を読解できるようにならないといけないのか!」と思うと暗澹としてくることもある。
 2006年6月号の「文學界」を書店で買ったのは、その時たまたま「世界は村上春樹をどう読むか」という見出しが目にとまったからだけど、これ、まるで駅前デパートで必要に迫られて長靴を買おうとしたら「ああ、レインシューズはうちには置いてありません。」と言われたときみたいにとりつく島もない。この号には「第102回文學界新人賞発表」作品が掲載されていた。木村紅美 「風化する女」
 れい子さんは、一人ぼっちで死んでいた。

冒頭から死んでるし。なんで殺すんだよ!かわいそうじゃないか。それで[島田雅彦奨励賞]とかの澁谷ヨシユキ「バードメン」は読む気もしなかった。きっと、「ぼくは飛べるんだ~」とか言って羽をつけてビルから飛び降りる話に違いない。暗澹とする。「私は村上春樹も『文學界』も純文学も、もういらんわ」と思った。この号で唯一すらすらと読めたのが、伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」だったのでそれが2006年度上半期の芥川賞を受賞したときは「なるほど」と思った。とにかくすらすら読めないとどうしょうもない。

 最近読んだのは久保寺健彦「みなさん、さようなら」(幻冬舎)1月6日の朝日新聞の書評(斎藤美奈子)がおもしろそうだったからだ。最近は書評さえ読んでもよくわかんないことがあって、よほど脳が老化してきているのだろうと思う。斎藤美奈子さんの書評は安心して読めるし、食堂の食品サンプルみたいにカラフルだ。
箱庭を壊すゴジラの気概ってどういうことだろう。最近ゴジラが流行っているのか?確かに最後がうまく行きすぎだという気もするが、主人公が相当アブナイ雰囲気なのであれ以上悲惨なことがあったら読めなくなる。「ブラック・ジャック・キッド」の方も是非読んでみよう。

「電車賃を貸してくれ」
「ああ、駄目駄目。規則なんだから」
「ヒーさんが死にそうなんだ、いいから貸せ!」
 駅員にしてみればわけが分らなかっただろうが、おれの剣幕に驚いたのか、あわてて1000円札を差し出した。切符を買い、改札に走る。自動改札の入り方が分らずにおたおたしていたら、後ろにいたおじいさんが教えてくれた。

 ああ、目に浮かぶような感動的なシーンだ。絶対、この本映画化されるね。このシーンが感動的だということがわからない人は2ちゃんねるのヒッキー板を覗いてから読むといいと思う。

テレビ番組より

2008-01-13 22:31:05 | テレビ番組
 1.1月10日(木)放送、NHK クローズアップ現代より、「北朝鮮“開発”を狙え ~動き出した中国とロシア~」
 中国・ロシア・北朝鮮を隔てる国境の川・図們江周辺では、二つの大国・中国とロシアの思惑が交錯している。

 中国から日本海への物流は今まで陸路を千キロも迂回して運搬するルートしかなかったらしいが、北朝鮮のラジン港を経由すると、最短距離で済む。将来そこと繋げることを見越した中国側の高速道路建設が急ピッチで進んでいるとか。一方、ロシアもこの港を狙っていて、北朝鮮の鉄道をロシア式に統一させてシベリア鉄道から直通で通じるようにしようとしている。ロシアの鉄道大学に、将来の鉄道事業を担う幹部生として北朝鮮からの留学生を受け入れ、学ばせている。
 日本が経済制裁したって無駄じゃん。中国もロシアも実利優先で、日本の拉致被害者のことなんか屁とも思ってないだろうし、完全無視だね。北朝鮮の人も言っていた(録音隠し取り?)「北が核を持ったことで、もはや朝鮮半島で戦争ができなくなった。アメリカも空母にミサイルを搭載しているから。これからは経済でいく」ってさ。
 こういう国々とコミュニケーションするためには、どういうスタンスで話をすれば通じるのかということを考えなくてはいけないんだろうなあと思った。

2.アメリカ民主党クリントン候補の涙

 先週から度々取り上げられる「ヒラリーの目にも涙」「ニューハンプシャーでの逆転」の関連だが、いろんな分析があったようだ。クリントン候補の支持者は「低所得、低学歴」の白人層で、有色人種に偏見を持っているとか、弱みを見せたことで働く女性たちの支持を受けたとか、古臭い「どぶ板選挙」スタイルが功を奏して一般人の共感を得たとか。テレビでも「あの涙で支持を決心しました。」なんて女性が言っててびっくりした。やっぱりアメリカでも情に訴えるようなやり方が通用するのか。
 言ってたことも「この国は私に多くのチャンスを与えてくれた。」「この国が後退していくのを見るにしのびない」という浪速節っぽい発言だ。なーるほど、こういうのがアメリカ人の心の琴線に触れるのだなあ。強面の印象が一変。ふと思い出したのは東国原知事の「宮崎をどげんかせんといかん!」というスローガン。もちろんヒラリーさんも本心から言ったことは間違いないだろうとは思う。しかし「強面」「理屈っぽい!」というイメージを払拭しなくてはいけないと選挙参謀から耳にタコができるほど言われていただろうし、そういう戦略を意識していたとも考えられる。
 さらに思い出したのは、子どもの頃テレビで見たロバート・レッドフォード主演の映画「ナチュラル」の一シーン。この映画はホリエモンが「傲岸不遜」とさんざん叩かれていた頃にもよく思い出したものだ。

 弱小大リーグチームを稲妻のような打撃力で連勝に導いていた主人公ロブ(ロバート・レッドフォード)が同じチームの若くて実力のある選手にアドバイスする。
「記者にインタビューされたら何て答えるんだ?」
世間知らずの新人選手は怖さを知らない。
「えーっと、ガンガンぶっ飛ばすぜベイビー!イェ~イ!」
ヤンキー丸出しだ。ロブは「それじゃだめだ」と教えてやる。
「いいか、こう言うんだ。『みなさんの応援のおかげで勝利を勝ち取ることができました。神の御加護があれば、これからもよいプレーをすることができるでしょう。』
確かそんなふうな言い方だ。私が「ナチュラル」のあらすじをほとんど忘れてしまってるのに、このシーンだけを鮮明に覚えているのは、「ありゃ、『神の御加護』だなんて古臭いこと、絶対言っちゃだめだよ。バカにされるよ。」と思った記憶があるからだが、私の予想に反してそのコメントは好意的に受け止められた。以後、その実力派新人はメジャーに移籍した後も、バカのひとつ憶えのように「みなさんの応援が・・・、神の御加護が・・・」とインタビューにコメントするのだ。私は、「はあ~、なるほど、これが大人の知恵ってものか」とすごく感心した。だから以前に、ホリエモンはバカと言ったのは、これさえ言っておけばみんな納得して、勝手にそれぞれの想像をつけ加えて「いやー、彼も傲慢に見えるけど実は苦労してんだねえー」とか「実は国のことを思ってるんだねえ」みたいに誤解するような、古臭い魔法の決まり文句をすっとばして逆のことばかり言ってたからだ。
 今回のヒラリーさんのニュースも、実は政策論議とは別に「アメリカはすべての国民に平等にチャンスを与えてくれるすばらしい国」「今、アメリカは危機に直面している。私はこの国に命を捧げる」みたいな愛国的心情に訴えることがすごく有効であるってことだと思った。それ、右翼的じゃん。日本の政治家もあれを参考にしてメディア戦略立てるといいと思うよ。ただし、臭いとすぐ見破られて逆効果だけどね。

3.今朝のサンデープロジェクトから「自治体再生⑩続・矢祭物語」
 
 これは感動的だった。日曜は子どもがいつも爆笑問題司会のアホっぽいサンデージャポンの方を見ていて、隙をついてチャンネルを変えたとき出ていたのがこれだった。今日のサンプロはホットな討論満載のようだったのに残念。えーっと、矢祭町ってどこだったっけと初めは思っていたけど、おお、ウィキペディアにも載っている。「合併しない宣言」をして独自の歳出削減と官民一体となったアイディア満載のユニークな町政で全国的に有名になったところだ。私の記憶にあったのは、2003年に根本良一元町長が、満期で町長をやめようとした時、町民が「辞めないでください」と役場に押し寄せ、無理やり説得された形で町長をもう一期務めることになったというニュースだが、その時は何の事やらわからず首をかしげた。番組を見て、それほど人望があったわけがわかった。
 今回、町民の長年の念願であった町立図書館設立の一部始終が取材されており、これもすごいと思った。矢祭町はお金がない町だ。普通図書館の建設には蔵書合わせて10億というのが相場だそうだが、古い建物を改築して1億で施設を造り、本の整理や管理は町民ボランティアが行い、蔵書は全国からの寄贈で賄うという計画。そう言えばそのニュースも新聞で読んだような気がする。最初は「それは図書館とは言えない」という非難がいろいろあったらしいが、心意気に感動した全国の人たちから続々と本が集まり、その数40万冊(もっと多い)。図書館の名前は「もったいない図書館」。古本屋にあるような読み捨てにする本ではなく、もったいなくて捨てられない大事な本をみんな送ったらしい。なかなか貫禄がある(そしてマニアックな)きれいな本が並んでいた。すごい!すばらしい!地方自治体に何をしてもらうかではなくて、「自分たちでできることはやっていこう」、「お金がなくても工夫して、汗を流して足りないところを補おう」、「困ったときは大きな声で全国に助けを求めよう」という役場と町民一体になった町づくりがすばらしい!(参考コラムJanJan
 「もったいない図書館」には本を寄贈した人が全国から見学に来て、本を借りていくという。ユニークなのは町民でなくても全国どこの人でも貸出カードが作れるということだ。おお、ここにも寄贈したって人が・・・。好意的な意見ばかりでもないようだけど、がんばって欲しいなあ。久しぶりに元気の出るニュースだった。

4.今日の「たかじん」

 「たかじんのそこまで言って委員会」本日は2007年の「未公開シーン満載!蔵出し編」であった。太田述正氏ももちろん出てきた。CM前に「フッ、フッ」と書いてあったからそうだろうと思ってたらやっぱり出た(人をバケモノみたいに・・・)。ふざけたタイトルにもかかわらず、わりとコンパクトに太田さんの主張がまとめられていてよかったんじゃないか?
 その他、会食のシーン(たかじんさん、辛坊さん、三宅さん、田嶋さん)がぐだぐだと出て来たのはどういう意図があったんだろう。きっと番組内で言いたくても言えないことをここで言っておきたかったんだろう。三宅さんは辛坊さんが好きだとか、たかじんはこの番組ではあんまりしゃべらんけど、しゃべったら実はすごいねんぞ!とか、たかじんはお金を稼いでもすぐ使ってしまうから実は金持ちじゃないんだとか、かな。あと、番組には発毛実験中のリサーチャー(おー、おるやんけ、ミドルマン!)がいると。
 2008年の目標をパネラーの皆さんが公表していて、宮崎哲弥さんが「新刊の新書全冊読破」とおっしゃっていたけど、おそろしい目標だ。本気でやったら倒れると思います。原口さんが「政治家の仲間でSNSをやりたい」とおっしゃったのはよいことだと思った。この前の「SIGHT」なんか読んでて思ったのは、派閥や党内だけの談合みたいな政治じゃなくて、若手の方たちには党派を超えてコミュニケーションをして欲しいなあということだ。そういうのから新しい流れが出来ればいいと思う。宮崎さんが「ネットは怖いよ。魔物が出る」と言ってたけど、2ちゃんねるの「ニュース速報+板」の板名には(昨日気づいたが)「魔物」がついているので、ネットの魔物というのはきっと2ちゃんねらーのことだと思う。

つづき

2008-01-11 10:43:35 | 本の感想
 昨日の補足。グローバル化の問題点。
 
 アジア太平洋資料センター(PARC)はスポーツシューズメーカーNIKE社の調査をした本も出している。(「NIKE:Just DON'T do it.見えない帝国主義」)国際的に有名なこのメーカーは自社工場を持たない。仕様書と三日月型の商標さえあれば世界中どこでつくってもよいのだ。初めは韓国、次はインドネシアと賃金の安い地域を求めて工場を転々と移す。インドネシアの労働者たちが劣悪な労働条件に抗議行動を起こすと、その次は中国に移転した。このようなやり方が世界中で反発を呼び、ボイコット運動を引き起こした。賃金の安い国を求めて工場をあちこちに移すなんて焼畑農業みたいだ。雇用者としての責任を免れているし、突然解雇された労働者の生活はどうなるのか。有名メーカーのスポーツシューズが誰でも気軽に買えるようになった背景に、そのようなグローバル企業のひどい雇用実態があったわけだ。
 
 100円ショップの場合も自社工場を持たないところはよく似ているが、仕入のブローカーを通すので製造元との関係はさらに希薄になってくる。しかも、注文はたいていの場合一回きりで、次に同じ仕入れがあるかどうかはわからない。工場側も利益率は悪いことはわかっているが、一度の注文数が大量なので引き受ける。中国の農村部などはまだまだ貧しく、低賃金長時間労働の不安定な職場でもいくらでも人が雇えるのだ。100円ショップの安さにもやはりそのような人の使い捨てがあるし、このような商売の形態が大量消費と使い捨てによってはじめて可能になってなっていることを忘れてはいけないと思う。
 
 それから、PARCは最貧国の債務帳消し運動にも取り組んでいる。私たちは政府の国際援助の在り方についてもっと興味を持って監視しなくてはならない。なんせ、私たちの郵便貯金や税金が使われているわけだから。(もしかしたら返ってこないかもしれない)いろいろなことを考えさせる本だった。9.11の直後に出された声明文を読むと、ここの人たちがどれだけ正しい見通しを持っていたかよくわかるなあ。

 さきほど山本芳幸「カブール・ノート」(幻冬舎文庫)を検索していて見つけたサイト(kabul note)新聞広告に載った日に買おうとしたらすでに品切れってどういうことよ?結局マーケットプレースで注文した。テレビ朝日「ザ・スクープ」に動画配信のバックナンバーがあって、山本芳幸氏も出演していた。(動画配信バックナンバー2001→2001年10月6日、10月13日)その他にもおもしろそうな特集(警察の裏金問題を取り上げたスペシャル(2003年~2004年)とかいろいろあった。こんなふうにできる限り番組を保存しておいてもらえるとありがたいと思う。


どうでもいいけど景気のいい話

 先日来、金が値上がりしているという話をニュースで聞くので、金庫の中に小さい金貨が2枚あったことを思い出した。そこで金庫を開けて確認しようとしたら、滅多に開けないものだから電池が切れて開かなくなっていた。あわてて電池を入れ替えて暗証番号を押してみたがやっぱり開かない。製造元に電話したところ、電池ボックスが錆びているのではないかという。交換には1万2千円もかかるという。私はがっかりした。なにも大金が入っているわけではないのだ。ただ、生命保険の証書とかパスポートとか大事なものが火事になっても燃えないように入れているのだ。この金庫は格安の3万円くらいで買ったものだ。電池ボックスがなんでそんなに高いのだろう。電池を入れたり出したりあちこち押していたらランプがついたのでそう言うと、電気系統が生きていても暗証番号がリセットされているので、工場出荷のとき、一台一台に設定された10桁のナンバーを入れないと開かないという。それを教えてもらうのにまた料金がかかり、今度は1万6千円だという。ぼったくりじゃないか?しかし背に腹は代えられない。送金して電話でナンバーを教えてもらって反応の悪いキーに四苦八苦しながらやっと開けることができた。ああ、心臓に悪かった。電池式の金庫はときどき電池を入れ替えてやってないといけない。

 本題はここからで、金貨を貴金属店で売ったところ買値の倍に値上がりしていたラッキー!そういえば私は三菱マテリアルの純金積立もやっていた。1度引き出しているので大してないだろうと思っていたが、300グラムもたまっていた。確かオンライントレードの手続きもしていたので売却するのは簡単だ。ついでに購入の停止もしておいた。(しかし、今日の金はまた24円値上がりしているじゃないか・・・うーん)
今日金の価格が上がったのはFRBが利下げを発表したからだ。最近のサブプライムローン問題、石油価格の高騰、上海金先物取引市場の開場等、複数の要因がある。このコラムを読むとなんだか豊かになった気がするなあ。もう売っちゃったけど。グスッ・・・

 ロンドンの金が1グラム1000ドルをめざす勢いなのに国内価格がぱっとしないのは為替の影響があるからだ。やはり株、外貨(ユーロ)、金、債権、とバランスよく持つことが大事だなあと思う。お金がたくさんある人の話であって、うちはまずローンを返さないといけないんだけども。
 で、コラムによると、年後半は値下がりして下値を試す展開らしいから安くなったらまた買おうと思う。

 景気がよい話なのか?・・・

貧乏くさい話と景気のいい話

2008-01-10 23:38:27 | 本の感想
*ここを見ている人はもうおわかりのように、ときどきやる気をなくして更新が止まるので出来れば、「はてなアンテナ」みたいなところに登録しておいて頂ければ無駄足を踏むことがなくてよいと思います。

 貧乏くさい話

 私はわりとよく100円ショップを利用する。ダイソーと24時間営業のスーパーとドラッグストアが連なった郊外型のお店が便利でよく行くからだけど、是非とも100円ショップで買わなくてはならないものもあるからだ。
 
 新聞の切り抜きを、昔はスクラップブックに張り付けていたのだけど、それだと値段が高い上にすぐ一杯になってしまう。試行錯誤した結果、子ども用のペラペラのスケッチブックを2冊中表に張り合わせ、背中をガムテープで補強して、そこにべたべた貼りつけることになった。これなら200円で済むし裏表紙の厚紙がちょうどよい硬さで、犬に齧られても中身が無事だからだ。
 朝日beも保存することがある。こちらはA3のクリアファイルだと、そのまんま入るので便利だ。A4サイズのファイルなどは20ポケットなのに最近はA3だと10ポケットしかなくなったのは石油価格の高騰のせいかと思う。でも、ホームセンターでA3サイズのクリアファイルを探したらとんでもなく高くて買えなかったから10ポケットでもありがたいと思う。中身がわかるように赤、青、緑の丸いシールを背表紙につけているがこれも5色セットで100円だった。ハサミも各種あって、新聞の切り抜き用の刃の長いのはとても便利だ。糊だけは100円ショップのものは粘着力が弱いので普通の一本300円の液体糊を使うことにしている。
 こんなふうに、新聞の切り抜きという作業一つ取ってみても100円ショップの商品が大活躍だ。これが以前は結構な経費がかかる道楽になっていたのだが、今は私のお小遣いでもできる。

 先日、ダイソーに行ったら、商品回収のお知らせが貼ってあった。クマのプーさんがついたメラミン樹脂のどんぶりから、基準値以上のホルムアルデヒドが検出されたと保健所からの連絡があったというのだ。もう一点、柿の葉茶から残留農薬が検出されたというお知らせもあった。どちらも中国製だ。柿の葉なんかに農薬をかけるのかと思ったが、去年うちの柿の木にはアメリカシロヒトリが大発生して、ほとんど丸坊主になってしまったことを思い出した。商品として栽培している農家は農薬を使わなくてはやっていけないのだろう。しかも中国だから、どんな農薬をつかっているかわかったものではない。帰ってから同じ健康茶のシリーズがあるかと調べてみたらプーアール茶とかとうもろこし茶とかいろいろ買っていた。念のためすべて廃棄した。
 100円ショップは、商品をいろいろ見ながら買う事自体が楽しいし、安くて家計の節約になるし、あそこでなくては手に入らないものもある。もはや生活に欠かせないものになってしまったが、ときどき「これでいいのかなあ」と思うこともある。そこで読んだのが、アジア太平洋資料センター編「徹底解剖100円ショップ 日常化するグローバリゼーション」コモンズ

 この本は、身近な「モノ研究」から経済と社会を考えるというアジア太平洋資料センターのグローバリズム研究会から生まれた本だ。知らなかったが、鶴見良行「バナナと日本人」(岩波新書)も村井吉敬「エビと日本人」(岩波新書)もこの会の研究の成果らしい。村井吉敬氏はこの本でも執筆しておられる。

 わたしたちは、100円ショップで物が安く買えてよかったと喜んでいるが、はたしてそれはいいことなのかどうか。100円ショップの商品はどのようにしてできているのか、価格破壊が進んだ結果私たちの暮らしにどういう影響があるのか、海外ではどういう影響が起きているのか、それを100円ショップの商品から考えるというのがこの本のテーマだ。

 「第2章 100円ショップはどうなっているのか」で商品の詳細な分析がされていたが、ダイソーの場合、商品の原産国は中国46%、日本15%、韓国12%、台湾10%だ。そこで、取材班は中国に飛ぶ。ダイソーやキャンドゥが取材させてくれたわけではないので、これらはすべて商品を買って分析したものだし、中国の取材は、買い付け旅行を手伝っている旅行会社に頼んで連れて行ってもらったという。100円ショップの商品の多くを製造している中国には、生活雑貨の巨大卸売市場が存在するという。東部沿海地、浙江省の義烏市というところだ。ここはもともと貧しい農村地帯だったところだ。農業だけで食べていけないので行商をする人が多かった。改革開放が始まってまもない80年代に「興商建市」をスローガンに市役所の近くに卸売市場を設立した。義烏市政府の積極的な優遇政策でこの市場はどんどん大きくなり、そこで売る商品を作るために工場団地が出来、ついには海外向けに輸出する商品の一大集積地となる。この「売れるものを作る」「商品の川下から川上へ迫る」という戦略が100円ショップの構造にそっくりだという。この義烏市で売られている商品の単価がものすごく安い。たとえば、目覚まし時計35円、包丁セット(5本)261円~653、定規5円、筆箱11円という具合だ。これなら買って送っても利益が出る。こんなに安くできるわけは、やはり、労働者の賃金がめちゃくちゃ安いからだ。10時間の長時間労働、休みは月2日、給料は一か月8700円~。

 では国内の企業はどうだろうか。100円ショップに商品を卸している会社はなかなかそのことを表ざたにしたがらないらしく取材が難しかったようだが、陶器を製造している会社を取材することができた。100円ショップに商品を卸したいわけじゃなかったらしいが、陶器類の国内需要がこの10年で半分に落ち込んで、背に腹は代えられなかったらしい。実は100円ショップに納入すると通常は一個あたり10円の赤字が出る。これをなんとか利益が出るよう持って行くため、血のにじむような経費節減をしているらしい。第一にロボットや機械を導入し、徹底的な自動化を行う。第二にできるだけロスを減らすよう、品質管理を徹底する。(ダイソーは商品の欠陥があった場合、突き返すだけではなくて、高額のペナルティーをとったりするのだ)第三に「不況を追い風にして業績を伸ばそう」という前向き思考の徹底(???)第四に、残業を増やした。(そーだろーなー)第五に仕入れ価格の削減。
 ダイソーへの納入量は一日5万個、年間1600万個。デザインは頻繁に変える。合理化、機械化によって低コストを実現し、年間1600万個という商品の大量生産によって利益を確保しているということらしい。
 なんだかおそろしい気がした。この大量生産による薄利多売戦略は100円ショップ自体にも言えることで、本来100円以下では仕入れられないものを格安で仕入れるために数十万個単位で買うことで可能にしている。大量に仕入れるということはそれを売りさばく店舗が必要だということで、ダイソーや他の100円ショップが拡大経営をつづけているのはそのためだ。使い捨て、大量消費時代でこそやっていける商売なのだ。ダイソーの矢野社長がテレビで言っていたが「石油ショックがまた起こったらおしまい。いつ潰れるかわからない。」「進むも地獄、退くも地獄」ということで実は非常に危うい商売なのだ。
 
 「第5章 安いからと喜んでばかりはいられない」ではどのような悪影響があるかが考察されていた。簡単に言うと、第一に、しわ寄せは結局メーカーで働く労働者に「低賃金、長時間労働」としてはね返ってくる。第二に、衝動買いを誘発し、使い捨ての大量消費文化を助長する。第三に、小規模な小売店に打撃を与え、地域の空洞化を招く、などだ。では、どうすればよいのか。第6章では、競争ではなく、共生、あるいは棲み分けのための地域戦略ということが提案されている。おもしろいけど省略。こういうのは朝日新聞の社説でもずっと言ってることだ。

 ほんと、安いからと喜んでばかりはいられないなあというのが感想だ。ダイソーのホームページを見たら、ポップでいかにも若者や主婦受けしそうな作りでつい見入ってしまったが、そういうノリに乗ってしまってはいけない。この頃よく、星新一のショートショート、「おーい、でてこーい」を思い出す。今まで私たちが捨てたと思っていたものが、ある日突然、空から降ってきたら・・・と思うとぞっとする。ゴミ一つとっても自分ではとても処分できないのだ。今日も100円ショップでいろいろ買ってしまったが、「こういう勿体ないことをしてたらいつかばちが当たるよな」と思ってしまった。

 「景気のいい話」の方は明日。

「選挙」

2008-01-07 04:02:01 | テレビ番組
 なんだか眠れなくなった。33か国共同制作“民主主義”~世界10人の監督が描く10の疑問~で、今晩は「選挙」がテーマの二つの番組で、いろいろなことを思い出して腹が立ってきた。

 「中国 “こども民主主義”」は小学校の学級委員選挙をルポルタージュしたものだ。こちらはおもしろかった。たかが学級委員選挙なのに必死なのだ。親も必死で「国家主席への第一歩よ」なんて言う。本気で言うのだ。クラスの子たちを招待して、モノレールかなんかに乗せて歓心を買わせたりする。それ、選挙違反だって。3人の子どもが立候補して勝ち抜き戦でディベートをするのだが、これがまたシビアな中傷合戦だ。「暁韮(女の子)は偏食をする。学級委員はみんなのお手本にならなくてはいけないのにそんなことじゃなれない!」「成成は乱暴で強引です。私はみんなの意見をよく聞いてクラスをまとめます。」「羅雷は人を叩く。みんなは怖くて何も言えない。これは独裁制だ」「乱暴は直します。でも成成はうそつきだ。」おおまじめにディベートしていておかしくて笑ってしまった。最後に一騎打ちになった羅雷と成成がスピーチをするのだけど、これがよかった。独裁制とは何か、民主主義とは何かを子どもなりに考えて「ぼくは民主主義的な学級にします」と宣言しているのだ。親の添削が相当あったとしても、小学生の頃からそういうことを考えたり言ったりするっていうのがすごい。もっとも選挙結果は、接待やワイロで大盤振る舞いだった乱暴者の羅雷が選ばれたのだったけどもね。
 あと、広ーい校庭に整然と並んで体操をしてるところとか、「道徳を守り、勉強に励みます」みたいなスローガンを唱和してるところとか、音楽に合わせて教室でお顔のマッサージ(?)してたり、ところどころギョッとするシーンがあったけど、よく考えてみると昔は私たちも似たようなことしてたっけ。
 この番組を見て思ったのは「中国はまだ若い国だなあ」ということだ。正しいことというのが確固としてあって、物事の善悪が明確に区別されている、というより、そういう建前があって、みんながそれを信じていることを感じた。そもそも、学級委員になることが名誉なことで、出世の階段への一歩と信じているってのが驚きだ。親が必死になって、「自分の方がリーダーとしてふさわしいと思ってもらえる点をアピールしなさい」なんて言うのだ。リーダーなんて貧乏くじでいいことなんて一つもないと思っている私らとなんという違いだろう。
 
 私の世代なんて三無主義とか四無主義とか言われていた。中学の頃、生徒会長の立候補者が一人も出なかったので、クラスから強制的に一人づつ出すことになり、うちのクラスから選出されたのが常々お調子者といわれていた子で、「ぼくは生徒会長なんかなりたくない!」と言って泣いたのにはつくづくがっくりした。でも結局その子が当選してしまった。なんだか人身御供みたいでかわいそうだった。もっとも、一年経つうちにその子もすごく成長して顔つきまで変わってしまったから、物は考えようということなのだ。成績も上がったみたいだし。不思議。


 日本の「選挙」は去年、テレビでも何回か取り上げられたし、新聞にも書かれていたから特に私が言うことはない。ただ、山内さんはいい人なんだろうけど、後援会周辺とか他の自民党議員とか、中小企業の社長とか農協の人とか、私の嫌いな妖怪みたいなおっさんがうじゃうじゃいて気分が悪かった。
 「妻じゃなくて家内ですね」だって。ふん!当選確実が出た時、事務所に山内さんがいなかったというので「先輩の先生方をお待たせするなんて前代未聞のことです。世が世なら切腹ものですよ」って、バーカ!そういうのを「ぶっ壊す」って言ってるのが小泉自民党なんだろうが!もう自民党なんか壊れちまえ!公明党もいらん!どっか行け!ほんとにもう、「体育会系の年功序列の世界」なんて、こういうのを世界中の人が見たかと思うと恥ずかしい!

 私は自民党の県会議員の後援会に入っていることになっている。義父が建設会社の社長に頼まれたのだが、義父本人は別の人を応援していて自分が入れないものだからうちに持ってきたわけだ。うちの夫は組合の関係で社民党の議員を応援していて、これまた入れない。それで私にまわってきたのだが、まったく失礼な話だ。義父は「電話がかかってきたら『ハイハイ』と言っておいて、わしの応援する人に入れなさい」と言い、夫は「『ハイハイ』と言っておいて、あの人を応援するふりをしておいて社民党の候補に入れるんだ」と言う。じょーだんじゃない!私の選挙権を何だと思っているのか!「もう、組織票を頼みにするような候補には絶対入れない。『落ちろ、落ちろ』と念じておくから」と悪態をついてやった。
 いい加減、マニフェストで個人が自由に投票するような選挙にならなくちゃ。もう21世紀なんだから。自民党くたばれ!公明党も社民党もくたばれ!山さんはがんばれ!

5日のNHKテレビ番組より

2008-01-06 23:42:21 | テレビ番組
 引き続き、33か国共同制作“民主主義”~世界10人の監督が描く10の疑問~から「パキスタン“大統領との晩餐”」の感想。

 先日より太田述正氏のブログで「ブット女史暗殺」をめぐるパキスタン情勢の分析がされていて、今まで私が漠然と抱いていた「ムシャラフ大統領=軍事独裁」「ブット氏=親米、民主主義」という先入観が覆される思いであったが、このNHK BS特集番組を見てさらにその固定概念が大きく変わってきた。
 このドキュメンタリーを制作した人たちはパキスタンの最先端の知識人階級であることは間違いないが、それでもかなり公平に多くの人の意見を聞いて回っているという印象を受けた。番組の冒頭、女性の権利と地位の向上を訴えるデモが出てくる。彼女たちはイスラム宗教指導者と過激派たちが封建的な価値観を押し付け、女性の自由と権利を侵害していると抗議している。監督が「では、あなた方はムシャラフ大統領を支持するの?」と聞くと「とんでもない!彼はクーデターで政権を取った。軍事独裁者だ」と言う。それは私が今までムシャラフ大統領に抱いていた印象でもあるし、日本の多くの人が抱いているイメージであると思われる。本当にそうなのか?番組はまずそこから出発する。

 ムシャラフ大統領は1999年10月12日、無血クーデターによってパキスタンの国家元首になった。ウィキペディアには書いてないが、番組では、シャリーフ大統領がイスラム教を国教とする法案を議会に提出したためそれに反対したのだと解説していた。歴代首相はイスラム過激派勢力を取り込んで政権を自分の有利なように動かそうとしていたらしい。ムシャラフ氏はそれに反対した。外遊中のムシャラフ氏が急きょ帰国しようとしたところ、シャリーフ首相は空港を閉鎖した。軍部はムシャラフ氏に同調、空港を奪還して危機一髪、飛行機が地上に降り立ったのだそうだ。まるで映画にでも出てきそうじゃないか。

 ムシャラフ大統領は正常に機能していなかった議会が機能するようテコ入れしたと監督は言う。ほんとか?「この国では、選挙で選ばれた政治家が独裁者のようにふるまい、軍人たちが民主主義を実現しようと努力している」のだそうだ。今まで外から見ていたのとまるっきり正反対じゃないか。監督たちはムシャラフ政権成立当初からずっと彼をどう評価するかを討議してきたという。「彼は本当に民主主義の擁護者なのか、軍服を着たままでも民主主義は実現できるのか」
 街へ出て、いろんな人にインタビューもしていた。これが非常におもしろかった。映画館では看板に描かれた上映中の映画のヒロインの顔が黒く塗りつぶされていた。「何で?」と監督が聞くと「彼女はテロリストだから」と青年たちが笑う。違うのだ。彼女は映画の中で肌も露わなきわどい衣装で踊っていたからだ。青年たちはイスラム原理主義者たちにシンパシーを感じているらしい。塗ったのは映画館に勤めているという青年だ。このアホタレが!イスラム原理主義が政権を取ったら映画館は閉鎖されてお前は失業だ!
 同様に、ムスリム政党に投票に来たという田舎のおじさんたちもわかっていなかった。「車の中で音楽を聞いてきたでしょ。イスラム原理主義者が政権を取れば、映画も音楽もラジオも、みんな禁止されるんですよ。」と監督が言うと、「あー、テープを取り上げられても別なのがあるし・・・」なんて、自分の行動がどういう結果を引き起こすか、まるきり考えてないみたいなんだ。昔風の聖職者と部族会議ですべてが決まるみたいな状態に逆戻りしたいなんて誰も思っちゃいないようだ。「私みたいな女性をどう思う?」と監督が聞くと「女は家を守っているべきだ」みたいに言うが、一方でちらっと本音が出る。「うらやましいと思うよ、教育を受けて成功した人は。でも子どもを学校にやるにはお金がかかる。俺にはとても払えないんだ。」
 海岸でロック音楽をかけて踊り狂っていたヤンキー風の若者にインタビューすると、彼らはみなムシャラフ政権を支持していた。でも「私たちは恵まれているけど、この国には貧しい人が多すぎる。今に貧しい人たちの革命が起こると思うわ。」と言ったりする。だんだんわかってきた。イスラム政党を支持しているのは農村部の保守層と貧困層なのだ。「グローバル化で大儲けするやつがいるのに俺たちはますます貧しくなっていく。あいつらゆるせん!」という不満が宗教原理主義に向かっているのだ。一方、都市部の中流階級や若者、リベラルな知識人階級は、封建的な制度や厳格な宗教戒律を嫌ってムシャラフ氏を支持している。ブティックの女性オーナーは「ムシャラフ大統領が独裁者になっても構わないわ。イスラム原理主義者を排除してほしい」と言っていた。ムシャラフ大統領はリベラル派からは「弱腰」と非難され、イスラム過激派からは「アメリカ寄り」と非難されているのだ。

 監督たちは大統領に取材し、晩餐をともにしながら「民主主義についてどう考えているのか」を聞いた。
 「この国で民主主義が機能しないのは、この国が封建的な農業社会で、未だにその色彩が強いからです。部族の長老や地域のボスが牛耳っており、一般の人たちが意見を言って物事を決めるということをしてこなかった。さらに、元々軍に対する依存が強く、何かあれば軍がなんとかしてくれるとみな思っている。女性の地位も低い。このような状況を変えるにはまず、民衆に力を与えなくてはいけない。教育を受けさせ、大衆の権力を増さなくてはならない。民主主義とは民意の反映です。国民の3分の2が賛成すればそれが決まり、裁判所で下された決定が正しい判決とならなくてはならない」とムシャラフ大統領は言う。なんてまともな言葉だろう。感動的じゃないか。聞いたところではこの人はかなり頭のいい人で、言っていることもすごくクリアーだ。「その原因は第一に、・・・第二に、・・・」みたいに子どもでもわかるようなしゃべり方で、これってどこかの学者みたいな・・・。
 テロとの戦いについて。「そもそもの発端は、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻に始まる。パキスタンはアフガニスタンの反共勢力と手を結んでソ連と戦った。当時アフガニスタンで戦ったのは、我々パキスタン軍とアフガニスタンのムジャヒディーン、パキスタン国内で教育を受けたタリバーン(神学校生)、外国から来た傭兵、その他の民族主義者たち。彼らがソ連撤退後、パキスタンに入ってきた。9.11以後、パキスタンはアメリカと共にテロとの戦いをしている。少しでも軍事的圧力を弱めれば、パキスタンはたちまち混乱状態に陥るだろう。」
 なるほど言っていることはクリアーで、難しい状況をよく乗り切ってきたと思った。

 監督はアフガニスタンにも行って部族の長老会議にも同席させてもらって人々の意見を聞いたのだけど、やっぱりパキスタンの保守的な人たちと同じような非論理的なことを言うのだ。「イスラム教にもたくさんの派閥がありますが、どの教えにしたがうのですか?」「イスラム教は一つだ。コーランの教えに従うのだ」「コーランの教えも人の施した解釈によってさまざまな読まれ方をします。」「我々のコーランの教えは1種類だ」「たとえばアフガニスタンでは女性はスカーフを被ることになっていますが、私は被っていません。私はムスリムではないのですか?」「女性はスカーフを被れとコーランに書いてある」「いいえ、私はコーランの原典も読みましたがそんなことは一言も書いてありません。」「いや、書いてある」彼らは憤然として席を立ち、「部族会なんて時代遅れだ!」と言っていた人が「ほら、あんな具合で彼らは変化を受け入れないんだ」と皮肉を言う。私はおじいさんたちの石頭にも驚いたが、一方でそれを批判する人たちがいるということにも驚いた。「反対しようと思っても誰もできやしない」と言っていたが、反対してるじゃないの。なんか自分たちが世界の中心だと思い込んでるようなところが田舎っぽくてアフガニスタンらしいかった。

 やっぱりパキスタンにしてもアフガニスタンにしても、もはや宗教が社会システムのすべてを支配するみたいな状況には戻れないと思う。すべての階層が幸福に暮らしていくためには、性急な西洋化ではなく宗教を尊重しながらも民主主義的な政治システムを徐々に作っていかなくてはならないと思った。言うのは簡単だけど利害調整がすごくむずかしいだろうなあ。で、ムシャラフ大統領は明確なビジョンをもっているみたいだし、ニュースでは独裁者みたいに言われているけどそれほど悪い人じゃないんじゃないかなあ。


 ブット女史暗殺をどう解釈するのか困惑していたが、1月3日の朝日新聞「私の視点」を読んで目からうろこが落ちる思いがした。パキスタン出身の歴史家・作家であるタリク・アリ氏が寄稿していた「パキスタン 戦略的視点だけで見るな」という文章だ。書き写しておこう。

 ベナジル・ブット氏の暗殺は許し難い。だが、彼女がパキスタンとその民主主義の救世主になりえたとはとても思えない。
 2回目に首相の座に就いたとき、彼女と夫の腐敗は最悪だった。パキスタンがアフガニスタンに介入し、タリバーン政権樹立に動いたのも彼女が首相の時だ。
 その彼女の遺志で、夫と19歳の息子がパキスタン人民党(PPP)を率いるという。政党の私物化。中世の封建制でもあるまいし、グロテスクとしか言いようがない。そんな政党を欧米は改革志向で近代的で民主的だと言ってきた。
 パキスタンは60年前の建国の際、イスラムを統合の核にしようとしたが、それだけでは近代国民国家のアイデンティティーにはなりえない。人権などの価値観の樹立が必要だ。結局、国家はできても人々を統合して国民を形成することができないまま、1971年にバングラデシュが分離独立することにもなった。
 この国のエリートは一貫して盲目的に米国に依存し続けた。冷戦期にはソ連への対抗策からイスラム過激派を支援し、今はそれと戦う米国を手伝う有様だ。
 パキスタンは近代的国民国家になり損ない、自律にも失敗しているのだ。
(中略)
 ブット氏が今回、帰国したのは、米国がどうしても非軍人の政治家を必要としたからだ。彼女の問題を覆い隠して政界に復帰させた。しかし、人々は彼女がブッシュ米大統領の手駒だと感じていた。パキスタンでは過激派自体は少数だが、大半の人々はイラクやアフガニスタンの米国の対外政策に反発している。
 もう一人の野党指導者、シャリフ前首相はもともとビジネスでサウジアラビアとつながりが深い。だがサウジは巨額の資金でイスラムの過激な宗派ワッハーブはの宗教者を送り込み、時のパキスタン政府の指示を得て体制内の一部をワッハーブ化した国だ。
 軍政と、さらにまして嘆かわしい政党。それがパキスタンの悲しい政治状況だ。早晩、選挙は行われよう。それは恥部を隠すイチジクの葉にすぎないが、米国は正統政府ができたと認めるだろう。米国は対外政策で同調しない政府ができるのがいやなのだ。
 現状から抜け出すのに本当に必要なのは社会改革だ。腐敗したエリートたちが着服したカネを、まずそちらに回さなければならない。
 貧しい人たちがまず望むのは子供たちへのちゃんとした教育だ。それがあれば過激派に取り込まれることもなかろう。それに基本的な医療制度。電気、水道も届かない地域はまだ多い。
 米国をはじめ国際社会はパキスタンを戦略的視点からばかり見る。それが悲劇を招いている。

 テロは非道だけどブットさん死んでよかったじゃん(不謹慎ですが)。でも、すっごく大変そう。