読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

つづきのつづき

2008-03-26 17:13:10 | 本の感想
 それよりも宮台が危惧するのは世俗のシステムの中に取り込まれていない思想や宗教が反社会的行為を誘発するってことで、オウム真理教の引き起こした事件をみても、社会の道徳、倫理にもはや価値を見いださなくなればテロでも殺人でも平気でできてしまうってところだ。宮台は、宗教のような超越性に触れて社会の外に出てしまった存在を「超越系」と呼んでいる。
 私は宮台真司の本を何度読んでも「超越系」とか「内在系」とか全然わからない。かろうじて思い当たるのは、映画「グラン・ブルー」のモデルになった実在のダイバー、ジャック・マイヨールの話。「グラン・ブルー」では最後のシーンでジャックが何かに取りつかれたようになって、恋人の制止を振り切り、素潜りをするところで終わってしまう。なぜ彼はあんなにも潜水に駆り立てられるのか、海の底にどんなすごいものがあるのか、わからないけれども私はこの人はもう死んでしまったのだと悲痛な思いがした。その後「ガイア・シンフォニー」に出演して無呼吸潜水状態の至福体験を語っているのを見たときにはびっくりした。「ああ、生きていられたのだ」と安心した。でも結局マイヨールは自殺してしまった。死ぬ前に兄に「この世に楽園がないことを悟った人間は生きていても仕方ない」という話をしたそうだ。ああ、「楽園」なんてそんなものを知ってしまったらこんなつまんない世の中に生きている意味がなくなる。マイヨールは〈世界〉と接触する方法を知っていた。だからどんなにお金があって、家や恋人をたくさん持っていたってそんなもの至福体験のすごさに比べたら無意味だと思えば、この世=〈社会〉に帰るべき理由はなくなってしまう。

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にも、井戸の中に落ちてしまった旧日本軍兵士の話が出てくる。一日に一度だけ、太陽の光が特別の角度で井戸の底に射すのだけども、それはこの世のものとは思えない美しい光で、その光の謎を解くためだったら死んでもいいと思うほどそれに恋い焦がれて、飢えも渇きも忘れてそれをひたすら追い求めていた・・・・って老人が話す。どんな光だろう。きっと至高の美のようなものなんだろう。私はそれを読んだとき、自分だったら多分もう戻ってこれないだろうなと思った。そして、だからきっと私は一生そんなものを見ることはないだろうと確信した。私はそのようなものに遭遇しないタイプの人間なのだ。それに、遭遇してしまうことは決して幸福とはいえないじゃないか。交通事故に遭うようなものだ。「超越系」の人が現実の社会と齟齬を来さずに生きるのは難しそうだ。

 〈社会〉の外にある〈世界〉を志向して、行ったまま帰ってこなくなる者と、〈世界〉と一体化する体験を持ちながら戻ってきて〈社会〉の中で生きるという選択肢をあえて取った者との違いは何か。先日の荒川沖駅前通り魔事件のニュースを聞いて、「これってあれだな」と思った。酒鬼薔薇事件の少年と同じ「脱社会的存在」だ。
宮台 凶悪少年犯罪を取材すると、〈社会〉にコミットする理由を持たない連中が増えているのがわかります。〈社会〉にコミットするか否かのメルクマールは「平気で人を殺せるかどうか」。僕らが人を殺さないのは、殺してはいけない理由に納得するからじゃない。殺させないように育ったからです。だから殺そうと思っても殺せず、あるいは殺そうという選択肢を思いつきません。
 これは道徳教育のおかげじゃない。コミュニケーションを通じた他者からの承認抜きに自分が自分であり得ないような成育環境に育ったからです。逆に「脱社会的存在」の増加は道徳教育の失敗じゃない。コミュニケーションを通じた他者からの承認抜きに自己形成を遂げ得る成育環境が拡がったからです。そうした成育環境が拡がれば自動的に〈社会〉より〈世界〉が重要であるような若者たちが増えます。

で、「脱社会化」した者の中にはあの通り魔事件の少年のように人を平気で殺す奴もいるけど、多くのものはそんなことはしない。なぜしないでいられるのか。これは宗教的な問題を含んでいて、宮台は映画や文学の中に答えを見いだしている。それを考察したのが雑誌「ダ・ヴィンチ」での連載で、本にまとめたのが「絶望 断念 福音 映画」(メディアファクトリー)。なるほど映画評ってのはそういう意味があったのか。
宮台 連載では暫定的に答えを出しました。「奇蹟へと開かれた感受性」です。オカルトは関係ありません。(笑)レヴィ=ストロースが「野生の思考(原題:三色スミレ)」の中で、寝ころがって三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。キーワードは「ありそうもなさ」。彼は花に奇蹟を見たけど、人やその営みに奇蹟を見出す感受性が「脱社会的存在」を押し留めるんじゃないか。そういう答案を書く作品が映画や小説に目立ってきました。それだけが正答だとは思わないけど有力な解答です。

うーん、私はその映画評の本を読んでも、「ありそうもなさ」ってのが全然わかんないんできっと感受性なんてとっくの昔にすり減ってしまってるんだろうなと思ったよトホホ。
 だって、「アメリカン・ビューティー」に出てくる隣家のサイコ少年が「鳥の死骸」や「風に踊るビニール袋」に奇蹟のような「スゴイもの」を見出すっていうのだ。全然わかんない。私なんか木の下の魚の骨とか電柱に引っかかってはためく空飛ぶ魔女にそっくりな黒いビニール袋とかしょっちゅう見るけどそんなもんに〈世界〉を感じたりしない。夜、塀のそばに立つ白い着物をきたおじいさんとか、池の傍の草むらに潜む黒い雲とか、そんなんも〈世界〉ですか?たぶん、この世と別の世界がどっかで繋がってるのかもしれないけど私にはそういうむずかしいことはわからないのであんまり考えないようにしてる。怖いし。

 ともかく、「脱社会的存在」の起こした犯罪に対してこれから「戦後民主主義の頽廃」とか「道徳教育の強化」とか「生き方のモデルを示せ」とか言う人はアホ認定ね。で、「ゆとり教育」っていうのはそういう感受性を育てる教育を目指していたんで、結果的に学力低下と格差を引き起こしたのは今までの教育を受けてきた教師や親には「感受性を育てる」なんて芸当ができなかったわけ。うんとお金をかけて優秀な人材を育ててください。
 この本(「生きる意味を教えてください」)、タイトルからしてしんどそうな本だと思ったけどなかなかおもしろかった。先日、NHKの「日曜美術館」で「アウトサイダーアート」の紹介があって、田口ランディさんがしゃべっていたのを思い出して買ったのだけどよかった。私は、あの番組で紹介されたアウトサイダーアートこそ「ありえん」と思う。きっと彼らは神に近いところの〈世界〉で生きているに違いないと思うよ。