読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

お正月準備

2007-12-31 20:54:56 | 日記
先日、ホームセンターのポイントが貯まっていたので3000円分の商品券をもらった。それで日用品じゃなくて、何かお買い得なものを買いたいと思案し、暮なので丸餅切り器はどうかと買いに行ったらすでに売り切れだった。残念。おかげで昨日の餅つきではいつものように熱い思いをして、手が真っ赤になった。
即決で買えなかったのは、高額のキッチン用品でめったに使わないもの(アイスクリームメーカーとか)や使い勝手が悪くて結局使わないもの(袋を密封シールする機械とか)が多くてまた失敗するんじゃないかと躊躇したから。搗きあがったお餅をいれたところが、くっついて出て来なかったなんてことになったら後悔するだろうと思ったのだ。

さっきネットで検索してみたら、使ってる人はみんな便利だと言っている。
ああ、なんてすてきなブログなんだろう。
こちらの人は、「まる餅くん」を改良して使っている。すごい!
最初からネットで検索すればよかった。それにしても、普通の人がブログで情報発信するということはこんなに手軽に欲しい情報にヒットするということなんだなあ。


今日はおせち作りで忙しく、ほんとは紅白も見る暇はないのだ。
毎年思うのだが、おせちっていうのは昔の人が考えた御馳走だったのだろうけど、今じゃ精進料理みたいなものだ。最近の子供はつまみもしない。黒豆なんかしわが寄らないように煮るには3日もかかるのに、えらく不人気で毎年残る。田作りなんてくるみを入れておいしくしようと心掛けているのに猫だって食べない。煮しめはもちろんのこと人気がない。すごく手間暇かかるのに理不尽だ。
だからといって市販のおせちはとても買えない。高いからじゃなくて味付けが濃くてまずいから。あんな味の濃いものを全部食べてたら体に悪い。そんなお金があったら自分で作った方がよほどおいしくてたっぷりできるので毎年作ることにしている。
だけど、やっぱりおせちは保存食で昔の人の考えたハレの御馳走で、どこのスーパーも正月ぶっ続けで開店するようになった今の状況では必要ないなあと思いながら作っている。

うちの実家では縁起物だからと毎年「勝ち栗」と数の子と田作りは強制的に食べさせられていた。ところが「おせちは体に悪い」とつくづく思ったのは一昨年、実家の母がくれた勝ち栗を齧ったところ奥歯がかけてしまい、また去年、自作の田作りを誰も食べないので一人で食べていたところいりこの頭がぐさりと歯茎に刺さって口が開かなくなるほど腫れてしまってからだ。今年は数の子をたくさんもらったが、これもまさか危険な食べ物じゃないだろうな。塩分が多すぎるかもしれない。


まったく関係ないが、おせちで思い出すのは3年前、切込隊長のところにおせちを持った未知の女性が現れ、恐怖を感じた山本氏が警備員を呼んで強制的に退去させたという話だ。みんなは「ネットで有名になるとこういうことがあるんだなあ」とか「キチガイ女怖い」とか言っていたが、私はおせちを作るのがどんなに大変か知っているので、かわいそうだと思った。隊長がひとりぼっちの正月だなんて寂しそうなことをブログに書くから、おせちを食べてもらおうと新幹線に乗って東京まで行ったに違いないのに、「キチガイ」扱いされてどんなにその人は悲しかっただろうと思った。あんな味のわからない薄情な人におせちをあげるものじゃないと思う。あのおせちには何が入っていたんだろうなあ。ドアを挟んで押し問答するよりもまず、それを聞かなきゃだめですよ。

さあ、また頑張って作ろう。

記憶しておくために

2007-12-30 23:13:48 | 新聞
アマゾンで買おうとした本に書評がなかったのでWeb検索をしているうちに見つけたサイト。すごいボリュームだ。というよりよくまあずっと続けられたものだ。私など藪からスティックに復活してみたものの何の進歩もないのでもう飽きてきて冬眠に入ろうかと思っているのに。でも、この感想文にあるように確かに「書いて考える」ということは必要だろうなあ。億劫でも書いてないとダメだろうなあ。なにせ私はすぐに忘れてしまって、考えたことが発展していかないのだ。こういうのって何だったかと考えていて思い出した。リディア・デイヴィス「ほとんど記憶のない女」(白水社)

鋭い知性の持ち主だけどほとんど記憶のない女がいた。本をよく読み、ときどきメモを取ったが、昔のノートを開いて自分が書いたメモを読んでもほとんど憶えていないのだ。
 読みかえすメモは、ほとんどが未知のものだったが、ときおり読んだ瞬間に、これは見覚えがあると感じ、たしかにかつて自分が書き、考えたものだとわかることがあった。そういうときは、たとえそのことを考えたのが何年も前のことだったとしても、まるで同じその日に考えたことのように完璧になじみのあるものとして感じられたが、実際にはそれについて読みかえすことはそれについてもう一度考えることと同じではなかったし、ましてその時はじめて考えつくこととも同じではなかった、それにたまたまそのノートを読まなければ、二度とそのことを考えなかったかもしれないのだ。そんなわけで、これらのノートは自分と深い関係があるものだということはわかったが、自分とどう関係があるのかも、それらのうちのどれほどが自分の内から出たもので、どれほどが自分の内ではなく外から来たものなのかも、彼女にはわからなかったし、わかろうとすると苦しくなってくるのだ。

この本は、去年図書館で借りてきたところ、犬が齧ってしまったので仕方なしに弁済して貰って来たものだ。こんな本を齧るとはなんと皮肉なことだろうか。


というわけで記憶しておくために。12月26日の朝日新聞「論壇時評」「近代の超克」「日本の立場の二重構造」より
 小林敏明は、日本近代思想を、「近代そのものをまるごと否定し、その乗り越えをはかる」「超克派」と、「近代の内部にとどまりつつ、その漸進的改革をはかる」「修正派」とに二分する(小林敏明「『近代の超克』とは何か―竹内好と丸山眞男の場合」〈RATIO 04号〉)。戦中に「大東亜共栄圏」の世界史的意義などを論じ、戦後にほとんど袋だたきになった座談会「近代の超克」に前者の名は由来するが、その範疇はマルクス主義にまで及ぶ。
 西洋という中心でもなく、かといって周辺でもない「半周辺」(ウォーラーステイン)ないし「半開」(福沢諭吉)として出発した日本では、近代に「一歩足を踏み入れながら、それへの対抗、抵抗、反撥としてナショナリズム」が出てくると小林は指摘する。しかも、そうしたナショナリズムと超克派の近代批判はいずれも中心への反発なので、結合しうる。
 半周辺は、西洋という「大文字の他者」の「臣下」になりつつ、同時に西洋を内面化し、「主体」になっていくが、それにも限界があり、西洋は「疎遠な他者として意識されつづける」。それへの反撥が、超克派的な言説となって、繰り返し噴出してくると言うのだ。
 日本の立場の両義性を反映して、「大東亜戦争」は「自立のための戦争と侵略のための戦争という二重構造」をもっていたので、部分的には擁護されうると竹内は主張した。論壇で、このような立場への批判の中心にあったのが丸山眞男である。福沢などに依拠しつつ修正派的な立場を示した丸山は、しかし小林によれば、超克派的な面もあり、その緊張関係こそが彼の思想を生きたものにしているのである。

この次に紹介されている中島岳志と小林よしのりの論争でもわかるように竹内好「近代の超克」論は未だにビィビィッドな問題なのだな。

なるほど、超克論がナショナリズムと結びついて「大東亜戦争」擁護論になるっていうなら「超克」か「修正」(あるいは徹底)かという問題はきっと果てしなくつづくのだろう。
安倍元首相が、夏にインドに行ってパール判事の遺族に面会というニュースを聞いた時には、いったいどういう神経かとあきれた。きっとNHKスペシャルの影響があったに違いないが、どうしてこう短絡的に自分の都合のいいように解釈するのかと思った。こんなお膳立てをした側近はきっと頭が悪いに違いない。恥さらしだ。それとも「たかじん」の「中国とインド、どっちと手を結ぶ」というテーマで、まるでお笑い芸人のようなインド人を登場させて恣意的に視聴者を親インドに傾倒させようとしていた番組でも見たのだろうか。(これもNHKスペシャルがあったな「インドの衝撃」

ウィキペディアの脚注1にある「竹内好は終わらない」(朝日新聞11月19日)から
 魯迅の研究者で、主な作品の翻訳者としてよく知られている。ただ、太平洋戦争の開戦時、戦争に自己を賭ける強い意思を表明したことにこだわり続けた。50年代には、戦争に人々を駆り立てたイデオロギーの根源とされ、タブー視されていた「近代の超克」という考えや、アジア主義に真正面から取り組み、思想的な意味をくみ出しもした。
 かと思えば60年代安保闘争の先頭にたち、抗議する形で大学教授の職も辞す。毛沢東を非常に高く評価もする。表層的なイデオロギー区分なんて彼の前では意味をもたない。
 そんな独自の思想が、ここ数年、日本や世界で注目を集め始めている。中国や韓国で彼の著書が訳され、ドイツでも、大規模なシンポジウムが開かれた。日本でも、彼に言及する著書が増えている。インドを中心に、アジアやナショナリズムの問題について近年、活発に発言し続ける75年生まれの中島岳志・北海道大学准教授。「20歳のころ、竹内さんの論文を集めた『日本とアジア』に出会わなければ、研究者の道を歩み出すこともなかっただろう。日本にとって、単に外交や安全保障、そして経済のパートナーとしてのみ脚光を浴びがちな、アジア。そんな時代に、「アジア」とは何か、思想としてのアジア主義を根底から考える姿を見いだし、驚いたからだ。その中から、戦前、日本に亡命したインド独立運動の闘士ビハリー・ボースとアジア主義者たちの数奇な運命を描き、高い評価を得た『中村屋のボース』(白水社)が生まれる。

姜尚中×宮台真司「挑発する知」(ちくま文庫)で宮台はこう言っている。
 日本の場合、戦後の反省は、アジアに対する加害者意識から始まったのでもないし、原爆の悲劇を恨む被害者意識から始まったのでもありません。なぜ勝てる戦争に、総力を結集できずに負けたのかというところから、人々は戦後の反省を出発させました。たぶん、それ以外の思考のデザインは、当時はありえなかったのではないかと思います。
 丸山さんは無意識的、あるいは意識的に、そういう土壌を利用して、『超国家主義の論理と心理』を書いた。これは、ものすごく読まれています。そして、考えられないほど多くの読書人が、「近代の超克など片腹痛い。近代の徹底がなかったからこそ、戦争に負けたのだ」という思いを深く抱いた。国民にそういう認識を抱かせることが丸山さんの目的であり、戦後思想史における丸山さんの役割でした。
 丸山さんの設定した課題である、福沢的な「一身独立して、一国独立」、すなわち近代の徹底を、私たちはクリアーしたのか。していません。それをクリアーして、国家を自由自在に操縦しうる国民になったうえで、かつてとは異なるナショナル・ヘリティジ―生活の事実性―を護持するべく、国家を操縦する。そうした段階になってはじめて姜さんのおっしゃったような「丸山の限界」の克服が、つぎの課題になると思うんですね。
 丸山的な課題をなかなか克服できないのは、なぜか、それを理解するために、丸山さんはいろいろモデルを立てています。たとえば、さきほど紹介したような戦時の本末転倒的な振る舞い(軍事物資の横流し、セクショナリズム、状況把握の不在等)がなぜ起こるか。丸山さんは、公私の分離がなかったからだ、といいます。ようは私的な領域がなかった。だから人びとは公を私的に簒奪する以外に術がなかった。よって、同じことが二度と起こらないようにするには、確固とした私的領域を確立し、自律を成すべきだ、と。私の自立をなくして、公なるものの保全はないのだ、と。

 実をいうと、丸山さんだけでなく、1945年の敗戦から55年体制の成立くらいまでの歴史をみると、南原繁さんや竹内好さんも、同じような姿勢を示していました。あるいは、雑誌『近代文学』の同人たちのような文学者たちも、同じような構えをもっていました。
 彼らが進めた仕事は、丸山さんと同じで、「なぜ戦争に負けたのか。自分たちがアホだったからだろう。どうアホだったのか。それはつまり・・・」と観察することでした。竹内さんは、優等生の顔をした奴隷―官僚のこと―が跋扈したから、日本は負けたといいます。
 いまも日本は優等生の顔をした奴隷ばかりじゃないのか。既存のフレームを思考停止的に前提にした上で、保身だけを考える輩ばかりじゃないのか。保身というのが竹内さんのキーワードでした。だったら、何も変わっていない。いまこそ、竹内好先生と丸山眞男先生の亡霊に蘇ってもらいたい。腑抜けた私たちに、喝を入れてほしいと思うんです。

ふたたび「論壇時評」より
 ところで、近代の超克論は、「自立」を賭けて国民国家が争い合うナショナリズムの時代に特有なのか。白井聡はまず、アーネスト・ゲルナーの古典的な議論を引きつつ、ナショナリズムの成立を説明する(白井聡「ナショナリズムの過去・現在・未来」〈神奈川大学評論58号〉)。(中略)20世紀には、経済は閉じた国民経済を単位としていたので、富を労働者に配分して消費させることが資本家にとっても合理的であり、階級対立は緩和されていた、と白井は言う。
 ところが、その後の経済のグローバル化がすべてを変えた。国際的な競争力の違いなどに応じて、国民の間には亀裂が走り、われわれは今や「別々の船に分かれて乗っている」。こうしたネーションの解体状況で必要なのは、再統合でも単なる階級闘争でもないとしつつ、白井は「現にある秩序を全面的に虚偽のものとして認識し、根本的に異なった世界をリアルな実在として感じ取ることのできる意識、ひとことでいえば〈外部〉の意識」を求める。ここに超克派的な響きを聞き取るのは容易であろう。近代の超克は、今なお「思想としては過ぎ去っていない」(竹内)のかもしれない。


姜尚中氏はこう言っている。イギリスにしてもフランスにしてもいったん帝国を形成した国は否応なしに複数の国民を包摂し、多文化状況に対応することを迫られる。帝国をくぐり抜けた国はもはや国民国家に後戻りはできず、たくさんの民族を受け入れざるをえなかった。ところが日本は帝国時代の旧植民地出身者を外に放逐し、田舎から都市へ労働者を移住させて労働力の強化をはかったため、グローバル化の進んだ現在でも移民の受け入れに決心がつかない、混合物を包摂するという覚悟ができていないのだという。そのように植民地をめぐる問題にふたをしてしまったことがいまだに尾を引いていて、歴史問題における二枚舌や北朝鮮問題にもつながっているというのだ。
 それを受けて宮台は、豊かさの水準を維持しようとすれば、外国資本と外国人労働やの流入は避けられないことで、私たちが、過剰な流動性の高さから利益を引き出すアメリカン・グローバリゼーションに抗して、自分たちの「生活の事実性」を守ろうと思うならば、「盟主のいないアジア主義」を構想することが不可欠だという。拉致問題における対応のまずさをみるにつけても「私たちがもっと徹底的に丸山眞男を学習していれば、外交の基本が戦略的コミュニケーションを駆使した目的達成であることをわきまえないような、アホな国民にならずにすんだのではないか」と言う。
「いまの私は丸山眞男の思考を越えている」ではなく、「私は丸山の時代に生れていたら何が言えたか」という観点だけが、意味をもちます。
 逆にいえば、「私たちはいま、丸山の時代には存在しなかったどんな選択肢を手にしているがゆえに、何をするべきなのか」というセンスが大切です。いま私たちがもっている新たな選択肢を浮き彫りにするためにこそ、歴史を振り返る。そして、その時代にどういう選択肢があり、誰がそういう選択をしてどうなったかを検討しながら、新たな選択肢の意味を検討する。そのようにするべきでしょう。


削ろうと思ったのにますます長く引用しちゃった!
で、私は今年安倍さんが辞職したときにはほっとした。福田さんが何を考えているかはよくわからないけども、少なくともマシな方向に動いていることは確かだと思うな。

イノシシを食べた

2007-12-28 22:16:59 | 日記
おととい、知り合いからイノシシの肉をもらったとお義母さんが大きな塊を持ってきてくれた。でっかいのを2頭も仕留めたのでおすそ分けだそうだ。もらったのはモモ肉らしく、赤味が強いが新鮮で臭みはまったくない。早速フライパンでジュッと焼いて塩コショウで食べたところ、ちょうど牛のフィレみたいにやわらかくておいしかった。以前県北のイノシシ牧場に行って冷凍のボタン鍋セットを買ってきて食べたことがあったが、あれとは全然違うおいしさだ。やっぱり捕れたては違う。

昨日の朝日新聞備後版に「亥年イノシシ猛威」という記事が載っていた。うちの市内での農業被害額が今年11月までで1200万円に達し、捕獲頭数は去年の倍の350頭と異常な事態であるらしい。そういえば、うちの実家でも山際の畑は何を植えても食い荒らされて全滅してしまうから今年は休耕していると言っていた。記事では、「忍び返し」で耕作地を囲うのが効果的と書いてあった。これ、去年NHKの「ご近所の底力」で最も効果的と提案されていた方法だ。

私はクジラ肉はわりと好きだけど、食べれないなら別に食べなくてもかまわない。そんなのを遠くに行って捕ってくるよりも、こんなにおいしいケモノがそこらへんをうろちょろしてるんだから捕って食べなきゃもったいないと思う。捕ってすぐ血抜きをすれば臭みがないらしい。ちょっと捌いてみたい気もする。佐世保で猟銃を乱射した人だって、山に行ってイノシシを仕留めるとかもっと建設的な方向に銃を使えばよかったのに。

最近イノシシ被害が増えているらしく中国新聞では2003年頃から「猪変(いへん)」シリーズが連載されていた。イノシシがたくさん捕獲されてもそれを食肉として流通させるルートがないらしい。もったいない。
こちらのブログではイノシシの生ハムがのってる。生ハム、おしいそう~。

映画「ベオウルフ」と竜退治

2007-12-27 00:54:15 | 映画
先日「ベオウルフ」を見たのだけど、どうも釈然としない。全然すっきりしない。なぜなんだろう。
この映画が古代の叙事詩を原作としていて、以前にも映画化されたことがあるというのは知っている。映像はフルCGということでときどき実写に見間違うくらいリアルですごかったし、ベオウルフが竜と戦う最後のシーンは見ものだった。なのに見終わった後に何かもやもやして、徒労感みたいなものがあった。
このもやもやは何かというと、一言で言うなら「ベオウルフの呪い」が永遠に続くということを暗示する結末に対する失望感だ。次の王も怪物の母と交わって新たな怪物を生み出すというのか?やれやれ・・・。絶世の美女(アンジェリーナ・ジョリー)が全裸で金粉を身に纏って現れ、「この世の富と権力をおまえに約束するかわりに私に息子を与えておくれ」と誘惑したら抵抗できる男はいないのか?しっぽが生えているのに?

この物語は何を言いたいのだろう。「怪物は、実は権力と引き換えに自分が生み出したもので、時がたてばかならず全てを破壊しに現れる」ということが言いたいのだろうか。それとも「善が悪を生み、悪が善を生み、悪を完全に退治することなどできはしない」と言いたいのだろうか。いずれにしても現在のアメリカの陥っている苦境を示唆しているような意味深な映画ではないか。一見ディズニーのアニメに出てきそうな英雄譚に見えるがとんでもない。こんな映画子どもには見せられない。なんて不景気な話なんだろう。

英雄の竜退治というのは物語によくあるパターンだ。だけどなぜ今こんな話を映画にしたのだろうと考えながらブックオフの店内を歩いていたら一冊の本が目に留った。中沢新一「イコノソフィア」(河出書房文庫 1989年)だ。この中に「聖ジョージの竜退治」の話が載っていた。こういう偶然を、「天使が囁く」と私の友達は言うが、この本にはちゃんと天使の話も出てくる。

この本は「イコン」を読み解く講義の形式をとっている。「イコン」といっても必ずしも宗教画ではない。たとえば第一講は「書」(漢字)についてであるし第十講は「コンピュータ・グラフィックス」がテーマだ。現代では様々なものを「イコン」として読み解くことができるのだ。「聖ジョージの竜退治」の絵もそのような「世界の意味」を読み取ることのできる「イコン」として見ることができるのだという。
これは一見すると、聖ジョージが大地の底にひそんで人間に災いをなす、凶々しい怪物である竜を退治している図のように見えるでしょう。そんなふうに解読することができます。このとき人は、この絵の意味を政治や社会や文化のようなものに関心がひかれている、意識の層から解読しようとしています。そのときこの「聖ジョージの竜退治」は、文化と社会と権力の起源をあらわすようになるのです。しかもそれは、あらゆる神話が多かれ少なかれかかわることになる、とても根本的な「意味」なのです。最初にこの世界にはカオスがあった。そのカオスの渦のなかには得体のしれない大蛇のような怪物が棲んでいる。それを刺し殺す英雄が現れたとき、人間の文化や言語や社会を生み出す意識が誕生する。そういうふうに神話は語ろうとしているようなのです。原初の殺害の行為が人間の意識の誕生を促すというわけです。

また、このようにも読める。
ひとつの社会のまとまりができていくためには、その社会がシステムをつくるのに不必要な過剰分子を自分の外へ吐き出さなければいけない。そうやって、自分にとっての外部がでてくる。そうなると、社会的ないし、文化的な意識は、たえずこうしてつくりだされた外部との対応関係で、自分とはなにかというアイデンティティーの意識をつくりだしていくようになる。そういう意識が、自分の起源を語ろうとするとき、それはいつも原初の海とか水のなかとかに棲んでいた大蛇、あるいはカオスのなかから立ちあがってくる恐るべき竜を殺す英雄の姿として語られるようになるのです。

なるほど、わかりやすい。
 もっと別の言い方もできるでしょう。つまり、聖ジョージに刺し殺されているこの竜は、スケープゴートでもあるのです。社会が自分のアイデンティティーをつくりあげるために犠牲の仔羊を必要とする。その仔羊を生贄として殺害することによって、社会のまとまりをつくりあげていこうとする巧妙なシステム。

竜にしてみればたまったもんじゃないが、無秩序な戦争状態のカオスから脱してまとまりのある社会をつくるためにはそのような殺害が必要なのだろう。
わたしたちはこの殺害のシーンをとおり抜けて、こちら側にやってくる。この迂回路をのがれることは容易にできないような気がします。文化の起源、言語の起源、政治の起源、権力の起源、そこにいつも登場してくるのがこの「聖ジョージの竜退治」というイコンに象徴されているものにほかなりません。

さらにもっと解釈を深め、宗教的な見方をすると、竜は別に「人間が自分の中にかかえこんでいるカオスティックな過剰さ」の象徴ではなくて、聖ジョージが破壊しようとしているものは、すべてを知性や理性で理解できると思い込んでしまった「人間の意識のもつ自惚れ」であると著者は言っているのだが、私にはそこらへんは難しくてさっぱり理解できない。
 だから聖ジョージは、精神の騎士として竜の殺害をつづけるのです。彼に殺害されるのは人間の欲望であり、自惚れであり、自惚れの感情をつくりだす二元論であり、そのもとをつくっている人間の意識の構造であり、その二元論の意識を強固なものにする言葉のかたくなな構造であるわけでです。そういうものをすべて破壊したところ、殺害しうちこわしたところに、はじめて人間が自分自身の条件を超えたロゴスに触れ、存在の根源にあって、存在しようとしているものを存在させようとする力のなかに入っていく可能性を身につけることがげきるようになる、とこの聖画は語り続けているわけです。

ほんとかいな?
まあ、ベオウルフは美女と契って手に入れた王座も空しくて夜ごとうなされるくらいだったし、いよいよ息子の竜が出現したときには命と引き換えにそれを刺し殺したくらいだったのだから、怪物を制御できると思い込んだ「自惚れ」の怖さはたっぷり味わったことだろうと思う。
アメリカの人たちもあの映画を見て、何ごとかを思っただろうか?それともただの華々しい娯楽映画だったのだろうか?

最近の新聞記事から その2

2007-12-26 02:02:30 | 新聞
おもしろい記事は毎日あるんだけど、そんなに毎日新聞記事ばかり取り上げてたらネット右翼まがいのストーカーっぽくなってしまう。

12月22日(土)のコラム「けいざいノート」小林慶一郎「論争はめぐる」が興味深かった。
 最近の経済政策に関する政策論争を見ていると、10年たってまた同じところに戻ってきた、という印象を強くする。道路財源の論議にみられるように、地方への財政支出を増やすべきだとする積極財政派と、財政健全化のために歳出削減や増税を図るべきだとする財政再建派の論争は10年前にもあった。

そーいえばー、橋本総理大臣が最悪のタイミングで増税をやってデフレの悪循環を招いてしまったことがあったなあ。財政構造改革ってあのころから言ってたけど、ちっとも進展してないし・・・。
 それだけではない。論争の枠外に、誰も触れようとしない重要な問題が存在しているように思われる。核心から目をそらしている、という点で論争の「精神構造」が10年前と類似しているのだ。

10年前の隠れた重要課題とは「不良債権処理を焦点とする金融危機の問題」だったのだ。だから不況脱出のために財政拡大をするか、財政赤字を縮小するために景気対策をするかということよりも、機能不全に陥っていた金融システムの健全化のために公的資金の注入や民間からの増資による銀行の資本増強が必要な処方箋であったのだが対策は後手後手に回り、「失われた10年」を招いてしまったのだという。
では、現在の「景気拡大か財政再建か」という議論の影に隠れている最大の課題はというと実は「労働市場の改革」だというのだ。
今年の初めごろには経済財政諮問会議で「労働ビッグバン(労働規制の抜本的な改革)」がテーマに挙がったが、早々に立ち消えた。
 しかし、格差問題の本質は、正社員と非正社員(派遣労働)の待遇差があまりに不公平だ、という不満にある。これは正社員が既得権化して、非正社員が搾取されるという労働者間不公平の問題だ。ちなみに32歳の非正規労働者である赤木智弘氏は、誰もが口をつぐんでいたこの問題を真正面から指摘して大きな反響を巻き起こした(『若者を見殺しにする国』双風舎)
 また、景気回復が5年以上も続いているのに、経済に力強さがない主因は、賃金が上昇しないことだ。労使の力関係にも明らかに問題がある。
 こうした問題を解決するには、解雇や昇給の条件などの待遇を正社員と非正社員で平等化し、一方、使用者側にもより厳しい責任を負わせる、というような労働市場改革が必要だ。労働市場の改革は、格差を是正し、しかも、労働の効率化によって経済全体の生産性を上げるので、経済成長も高めるはずだ。成長にも格差是正にも有効なテーマが、なぜ政策論争の主要論点にならないのか。
 答えは、10年前に不良債権問題がテーマとして取り上げられなかった事情と同じだ。つまり、多くの既得権者が存在し、彼らに具体的ない「痛み」を与える改革だからだ。(中略)
 現在、労働市場の問題で難しいのは、格差を是正するためには、正社員の処遇を現状よりも悪化させざるを得ないことだろう、という点だ。非正社員の待遇を向上させ、正社員と平等化しようとすれば、正社員に「痛み」が発生してしまう。こんな改革をするよりも、財政資金を再配分することで、格差感を緩和し、負担は国民全体で背負う方が政治的には通りやすいわけだ。
 だが、不良債権処理が避けられなかったのと同様に、労働市場の抜本改革は、日本がこれから長期的に発展していくためには避けて通ることはできないだろう。

ははあ、労働ビッグバンというと例の悪名高い「ホワイトカラーイグゼンプション」とかですね。要するに、国際的競争力を維持しつつ格差を是正するためには正社員の賃金の引き下げが必要不可欠であると。なるほど・・・・赤木智弘氏が言っていた「シャッフルする」ということはそういうことなんですね。(まあ、彼は戦争によってと言ってるけど)同一労働、同一賃金というのは当たり前の要求で、そこで正社員と派遣とで格差があってはいけない。また社会保険や有給休暇等の待遇面でも派遣も同様に処遇してほしい。しかし、当然企業側はそれでは人件費がかさんで経営がなりたたないと言う。だったら「シャッフル」して正社員の給料をうんと下げて平均化すればいいと、こういうわけですね。

まあ、理屈としては非常に正しい。だけど圧倒的な反発があるだろうから実現するのは難しいだろうなあ。そんなことを言う政党はどこであろうと選挙で大敗するだろう。仮に実現したとしたら、例えば住宅ローンのデフォルトが増えるとか、消費が低迷するとか、短期的なマイナス効果で一挙に不況が深刻化するように思える。

でも、長期的には日本が生き残るためにはそのような労働市場改革を「避けて通れない」のだそうだから、どんな状況で実現するかはわからないけど、「年収300万円台の生活」を覚悟しておかなくてはならない。私は常々思うのだけど、子どもが成人してちゃんと暮らしていけるという保証があるのだったら、もう一生旅行とか外食とかしなくてもいいやとあきらめられる。大学を卒業しても就職がなくて派遣で転々と職を変わるとか、家を出ることもできず一生独身とかってかわいそ過ぎる。だから「年収300万円」でも子どもが暮らしていける社会のためだったら我慢しようと思う。
唯一の心配は住宅ローンが払えなくなるのではないかということで、それで去年、貯金をかき集めてローンのボーナス払いにしていた部分を丸ごと一括返済した。これで仮にボーナスがなくなったとしても生活を切り詰めればなんとか生活をしていけるということになる。(理屈上は)

ところで、もしも小林慶一郎氏の言うようにそんな労働市場改革が実現したとしたら、それって「無血の社会主義革命」ということにならないか?資本主義が高度に発達した社会における社会主義的革命ってことで、きっと歴史に残る快挙とされるだろうと私は思う。

最近の新聞記事から

2007-12-25 23:55:13 | 新聞
去年、映画「ラストキング・オブ・スコットランド」を見て、何であんなことになるのかと唖然としたが、10月17日から始まった朝日新聞の連載「国を壊す ジンバブエの場合」を読んだらもっと唖然とした。これ、昔のことじゃなくてつい最近の状況だ。
 「アフリカの希望の星」と呼ばれた国があった。80年に白人支配から独立を果たした南部のジンバブエ。農産品は需要を満たし、輸出で外貨収入の3分の1を稼ぎ出した。識字率は90%を超え、労働力の質は高く、鉄道の独自運行も可能だった。それが今―。農地はやせ細り、飢えが広がる。インフレ率は7千%を超えた。苦しさに耐えかね、国民の4分の1が近隣国に脱出している。(編集委員・松本仁一)

 「アフリカの希望の星」と呼ばれた豊かな国から一転「破綻国家」に転落した理由はひとえにムガベ大統領の支離滅裂な政策の失敗による。98年、ザイール内戦に大軍を派遣したため、巨額の軍事費で財政が悪化した。国民の不満をかわすために大統領は白人農場の占拠をあおるなどして農業生産が激減。物価は高騰し、今年7月のインフレ率は7634%(!)だそうだ。

 00年2月、与党政治家が突然、「元ゲリラは白人農場を占拠せよ」と呼びかける。政府がそれをあおり、農場占拠は全国に広がった。政府への不満は白人攻撃にすり替わってしまった。
 「商業農場組合」によると。07年までに白人農場の土地はほとんど国有化された。4500人の農場主のうち、農場に残っているのは400人だけになった。
 元ゲリラに接収された農場の多くは生産が落ちた。大農場経営のノウハウがなく、必要な投資もしなかったためだ。
 国連の世界食糧計画(WFP)によると、00年に8億5千万ドルあった農産品輸出は、06年には3億7千万ドルに減った。07年はその半分にも届かないだろうと予測されている。(10月25日「国を壊す ジンバブエの場合」⑥)

インフレ率は2006年-1281%、2007年5月末時点4530%(!)であったが、2007年6月26日、価格半減令の出た後はさらにインフレが激化する。すべての商店から物が消え人々は食料の調達に一日の大半を費やさなくてはならなくなった。
12月20日の朝日新聞国際面記事より
 年率8千%の超インフレが起きている南部アフリカ・ジンバブエの中央銀行は20日、75万ジンバブエ(Z)ドル。50万Zドル、25万Zドル、25万Zドルの超高額紙幣を導入した。最高紙幣を10万Zドルから20万zドルに換えたばかりだった。現在の公定レートでは20万Zドルが約753円、闇レートでは約14円。クリスマス時期で市民は買い物のための現金を求めて銀行前に泊まり込んでいるという。(ナイロビ)

ウィキペディアの記事
2007年8月23日ジンバブエ政府が国内の外資系企業に対して株式の過半数を「ジンバブエの黒人」に譲渡するよう義務付ける法案を国会に提出、9月26日に通過した。これにより経済の崩壊が決定的になると見られる

ほんとか?そんなことしたら外国の企業はみんな撤退してしまうだろうが。
2ちゃんねるのスレでもとりあげられてる。
【ジンバブエ】白人系企業の株式の過半数を地元住民に付与する法案が下院で可決 (09/28)
やっぱり、特定の政治家や政党に強大な権力が集中するような国はだめだな。財政が悪化してインフレを招いた時点でムガベ大統領は責任を取って辞めなくてはならないはずなのだが、そうならなかったということは独裁政権化しているってことなのだろう。「83歳のムガベ大統領は来年の大統領選に出馬の意向だ」とある。じょーだんじゃない!

検索をしていたら、ジンバブエに留学をしていた人のブログがあった。
「さくらだあゆみの 今日もジンバブエで」
Q&A 「経済」から
ほとんどの住民が公的に雇用されず、GNPが下がりっぱなし、ハイパーインフレ、商品不足。こんな経済の中でお金儲けなんてできるのー?できる!特にブラックマーケットで働く人たち、つまり外貨のブラックマーケット・トレーダーや、品不足の商品をブラックマーケットで高値で売る人たちや、最近国内で見つかったダイヤモンドを国内外でこっそり取引する人たちはしっかり儲けているようだ。さらに、政治家たちももうけている。政治家は、政府から直接安く販売される燃料(ガソリン、ディーゼル)へのアクセスがあり、これをブラックマーケットで100倍くらいの値段で売ってものすごい利益を出しているのだ


そーかー、経済が破綻したら、闇の担ぎ屋になればいいのか。
アフリカのことなんて人ごとだと思っていてはいけません。いろんな状況をシミュレーションしてどんな変化が起こってもサバイバルできるようになっておかなくてはならないと思う。

猫はしゃべる 犬もしゃべる

2007-12-22 10:19:59 | 日記
うちには2匹の猫と2匹の犬がいる。猫のうち古い方は、私がつぎつぎと捨て犬や捨て猫を拾ってくるのに愛想を尽かして今はおばあちゃんちに家出中だ。私だって別に拾いたくて拾ったわけではないのに、なかなかわかってくれない。猫はプライドが高くて困る。

この猫はもう14歳だが、猫もそれくらいの年になるとわりと意味のあることをしゃべるようになってくる。毎日しゃべるのは「ご飯」という言葉で、ご飯の時間になるとわざわざうちの庭に来て私を呼ぶ。自分はあそこんちには下宿しているだけで本来ここの猫だということをアピールしているらしい。「ご飯」は正確には「おっ、あん」というふうに聞こえるが、「ご飯」としゃべるのは別に珍しくないらしい。
ときどき、「えっ?今、なんて言ったの?」とわざとわからないふりをすると、猫はあわてて「おっ、あーん おあーん?おーあん」とさまざまなイントネーションで繰り返し、不安そうに見上げる。「あー、ご飯ね。」とわかったふりをすると「おはんおはんおはんおはん・・・」と矢継ぎ早に言い、それからちょっと首をかしげて「おーはん?」とイントネーションを訂正してみたりする。おもしろいので何度もやっていたらついに怒って、「なんて頭の悪い奴なんだろう」という顔付でしゃべらなくなってしまった。猫は怒るとヒゲの生えたところがぷっと膨らむ。また口をきくようになるまでに3日くらいかかった。

最初に犬を拾って来た時、猫が険悪な顔つきをしているので怒っているらしいと推測はついたが、家出をするほどではなかった。「うるさい!」と怒鳴っただけだった。本当だ。犬がウッドデッキの外からリビングをのぞきこんで「ご飯ちょーだい」と言わんばかりに吠えたてていたとき、テーブルの下から猫が「ワンワンワンワン!にゃごにゃごにゃご・・・・」としゃべったのだ。なんとそれで犬はピタリと鳴きやんだ。
私には「ワンワンワンワン、うるさいったらありゃしない!」と怒鳴ったように聞こえたのだが、そもそも猫が「ワンワン」と言ったことが信じられない。しばらく考えていたら、そばにいた息子が「今、ワンワンって言ったよね」とびっくりしたように言ったのでやっぱり空耳ではなかったかと茫然とした。それ以来猫は犬のことを「ワンワン」と言うようになり、私が「いい加減帰っておいでよ。」と言うと「ワンワンが」と言いながら犬の方をチラッと見る。あと「にゃごにゃごにゃご・・・」と続けるのは、「内犬も内猫もいるしねえ・・・」みたいな恨み言混じりの皮肉らしい。このタイプの女性が私は苦手だ。

一方、犬のほうも「にゃーおん、にゃーおん」としゃべる。最初に拾った犬は生後4か月くらいだったので健全に犬らしく育ったが、2匹目は乳離れしたかしないかで拾ったので、私が冗談で「にゃーおんって言ってごらん」と教えていたら、おねだりするときに言うようになってしまった。普段はワンワンいうのだが、どうも私のことを呼ぶ時だけは「にゃーおん」というらしい。

この犬が拾ってきて間なしに「たすけて!」と叫んだことがあった。
拾いはしたものの、猫は険悪なまなざしで見るし、飼うか飼わないかまだ決めかねていた頃、ソファーの上に寝かせておいて外犬の散歩に行こうとしていた時のことだ。外で準備をしていたら、「たすけてー!」と犬の悲鳴が聞こえた。「うん?助けて?」私はなんで「助けて」と聞こえるのかと首をかしげ、うちの犬はソファーの上で寝ているはずだから、きっと夕方になると餌をねだって悲痛な鳴き声を出す近所の犬の声だろうと思い、気にも留めずにそのまま散歩に出た。そして帰ってみると子犬がいなくなっていた。あわくって戸棚からテレビの裏まで家中探したがいない。私は悲嘆にくれてしまった。
座り込んでよく考えてみると、あの「たすけてー!」というのはきっとうちの子犬の叫び声だったのに違いないと思えた。ではそんな困ったこととはどういう状況か。この近辺で事故があったのだ。私はソファーを全部どけて裏を見たがそこにもいない。途方にくれて「ワンちゃーん!」と呼んでみた。すると「くぅーん」と弱々しい声が聞こえた。「ワンちゃん!」「くぅーん」と呼応しながら声を辿っていくとそれはごみ箱の中から聞こえてくる。見るとごみ箱の中で子犬が丸まって寝ていた。
どうやら、ソファーのひじのところから下にあったごみ箱の中に落ち込んで出られなくなり、もがき疲れて寝てしまったらしい。私はソファーをよけるとき当然ごみ箱もよけたのだが、紙屑やティッシュに紛れてわからなかったのだ。なんせ子犬は手のひらに乗るくらいの大きさしかなかったから。
ほっとした。そして、やっぱりこの犬はうちで飼おうと思った。うちを頼って来たわけだし、切羽詰まったら「たすけてー!」と叫ぶのだ。そんな犬を放っておくことなどできはしない。

それで今では朝から晩までワンワン、ニャーオン、ご飯ご飯、散歩散歩とうるさくってかなわない。私は別に犬や猫が好きで飼いたいと思って増やしたわけではないのだけど落ちているものをつい拾ってしまった結果がこうだ。生活を犬猫に支配されているような気もする。
ペットショップで売られている、おっそろしく高い値段の犬や猫を見るとあきれてしまう。養うのにも結構お金がかかるのに、なんだって犬猫本体にそんな高額のお金を払わなくてはならないのか。犬や猫は拾うものだ。もっと有意義なお金の使い道があるだろうと思う。

太田総理 その3

2007-12-21 23:50:00 | テレビ番組
あんまり集中的にウォッチしているというわけでもないし、官僚の汚職に憤慨しているというわけでもないし、わけがわかっているというんでもないんだけど、やっぱり今日も見てしまったから書いておこう。

伊集院光提出の「不祥事を隠している政治家・官僚は 先着100名まで白状したら許します」というマニフェストだけども、やっぱり難しいだろうなあと思った。どこかの県みたいに、「裏金があれば今のうちに申し出れば咎めません」ならば可能だろうけども、漠然と不祥事と言っても伊藤惇夫氏が言ってたように自分で不祥事と自覚していない人の方が多いだろうと思う。厚生労働省の「肝炎リスト放置」などは積極的に何かをしたというのではなく、面倒を恐れて「しなかった」ことがこれだけの大問題になったんで、それに類するような立証のしようのない問題も山ほどあるだろうし、太田氏が言っていたように守屋前事務次官の問題がクローズアップされてそれが終わったら一件落着では、もっと大きな問題が覆い隠されてしまうだろう。

太田氏と平沢議員とのやり取りはだいぶカットされていたようで、多分、これ以上は視聴者から受け入れられないと判断されたのだと思う。平沢さんは「自民党ばかり悪者のように言っているけど、民主党も悪いことをしている人がいっぱいいる」とおっしゃっていた。国民としては、二大政党制になってお互いに汚職の暴き合いをしていただければ、すっきりするし見ていておもしろい。それが行きつくところまで行ったら、「どうしてもカネがいる場合は後ろ暗いことをしなくてもオープンに貰えるようにしよう。」という話し合いができて建設的になるのではないだろうか。

雪印の食中毒事件のとき、私は「ルールが変わった」と思った。それまで、業界内部の「常識」だったものがもはや通用しなくなってきたということだ。最近、また官僚の不祥事が次々と明るみに出てきているのはやっぱり「ルールが変わった」んだと思う。だって、それまで表ざたになってこなかったものが出てきているわけでしょ。個々の事件はどうでもいいんだけども、問題は、今までのやり方ではもうダメだってみんなが思っているということだ。だったら新しいルールを作らなきゃ。

今、北芝 建「警察裏物語」(バジリコ)を読んでいる。めちゃめちゃおもしろい。北芝さんは交番勤務から刑事警察、公安警察とトントン拍子に出世した人だが、刑事だったときにはいつもピーピーだったと言っている。ヤクザから情報を取るために奢ったり、捜査に必要だが絶対経費として認められそうもない出費に自腹を切ることが多くて、給料の前借りまでしたこともあったという。時にはテキに有益な情報を渡して、見返りにこちらの必要な情報をもらうというような微妙な関係も持ちながら、アンダーグラウンドな世界を悪に染まらず真っ当に渡ってきたというツワモノだ。刑事の中には接待されているうちに癒着ができて向こうの情報源になってしまったり賄賂をもらったりした人もいるようだが、北芝さんの場合には善悪の線引きがはっきりしている。「可能かどうかは別として、暴力団は撲滅するべき」と言っている。でなきゃこんなにいろいろ書けなかっただろうなあ。

この本の中でも「ウラ金」問題について書かれた部分があったが、北芝さんは「行き過ぎた額でなければ食事程度のガス抜きは必要」でやたらと警察バッシングをするのはよくないとおっしゃってる。たしかに毎日、過酷な仕事をしている警察の方々には頭が下がるし、現職のキャリアがその能力、仕事量に見合わない薄給というのもかわいそうだとは思う。けど、裏ガネ作りが慣例化して「何億」なんて巨額になってくると国民としてはじょーだんじゃない!と思うよ。人間ってすぐに堕落するからそれが不正に使われないとも限らないし、カネを背景に組織がおそろしい力を持ってこないとも限らない。やっぱり「悪いことは悪い」と反省して仕切り直ししないといけないと思うな。

この件に関しては「太田総理」に出演の原田宏二氏(市民の目フォーラム北海道代表)の発言がおもしろかった。最近あんまり不祥事が多いので思い出すのにちょっと時間がかかったが、北海道警察の裏金問題を告発した人だ。はるか昔のことのような気がするけどたった3年前だ。テレビで原田さんの発言を聞いていて、内容とは別にまじめで温厚そうな人だなあと思った。ほんとに「このままじゃいけない」という思いに駆られて告発をされたのだというのがよくわかった。本人や家族に対する嫌がらせがすごくて、身の危険も感じたから自分で「カード」を隠し持っているとおっしゃっていた。もし自分に何かあったら表ざたになるような飛び切りの情報ということだ。それでテキが手出しできないように身を守っているということらしい。おそろしいことだ。そこまで覚悟しなくちゃできないのか。北海道警察の裏金問題をしつこく追及した北海道新聞に警察が執拗な嫌がらせをしたということも書かれている。もう、事実は事実として謝罪し、姑息なことはしない方がいい。裏金の存在そのものよりも、市民はそのような態度の陰湿さに嫌悪感と不信感を抱くのだから。ルールが変わったんだ。

昔、就職した会社をすぐにやめたことがあった。
経理事務ということで入ったんだけど、引き継ぎ期間にわかったのは、本社から定期的に来る経理課長が帳簿操作で継続的にウラ金を作ってそれを着服しているということだった。事務の女の子たちは何もわからないまま片棒を担がされ、ハッと気づいたときにはその課長から何度も奢ってもらい、いろいろな便宜を図ってもらっていた後で、今更知らなかったとは言えなくなっていたということだった。しかし、最近は社員の福利厚生費だとか積立金までにも手をつけるようになっていて、その金は課長の賭け事で全部消えてしまっているという。その額こちらのわかっているだけで500万以上で、どうも借金で首が回らなくなっているらしい。事務の子たちも、もう耐えきれなくて新米の私にぶちまけたらしい。
私は歓迎会とは別の焼肉はそういうことだったのかと悟り、一週間考えて理由は言わず「やめます」と申し出た。支店長は真面目で清廉潔白な人なのでわけがわからず、「最近の若い子は・・・」と怒っていたし、私の父は「そんなことくらいどこの会社でもある。そんなことじゃあ、どこへ行っても通用するものか!大バカ者!」と電話で怒鳴るし、相当へこたれた。
その通り、どこへ行っても通用しなかった。へっへっへ・・・。だけど、「ここはダメだ。」と思った会社はその後必ず潰れたり問題を起こしたりしているんで、そんな矛盾だらけのところで泣きながら順応し頑張るなんて器用なことは私にはできなかった。
昨今の内部告発なんか見ていると感慨深い。これが建設的な方向に向かうとよいと思う。

村田喜代子「百年佳約」

2007-12-20 17:27:00 | 本の感想
図書館で借りた村田喜代子「百年佳約」(講談社)読了。

この本は「龍秘御天歌」の続編だ。
「龍秘御天歌」は、朝鮮半島から秀吉に連行されて肥前皿山に窯を築いた陶工たちの頭領、辛島十兵衛がなくなり、その葬式にまつわるごたごたを描いた小説だ。十兵衛の妻である「百婆」は、是が非でも朝鮮式の弔いをしたいと主張するが、息子の十蔵は日本人の役人や取引先も来るのだからできるだけ違和感がないようやりたいと思っている。今や皿山の陶器は藩の重要産品で陶工たちは手厚く保護されてはいるが、島原の乱の影響で檀家制度というものが出来、すべての百姓町人はどこかの寺の檀家に属さなくてはならない。葬式は仏式だし、亡骸も火葬にしなくてはいけないのだが、百婆はとんでもないと思っている。人が死んだら魂は一族の守り神として永遠に墓所で生き続けるのだから焼いてしまったりすれば、魂の入れ物がなくなってしまう。十兵衛は日本に来てから一族で初めての死者だから墓地にする山を探すことから始めなくてはならない。朝鮮式の葬儀というのは何から何まで日本式と違っていて大変なのだ。百婆の権威は偉大であるが、息子の十蔵は政治的影響を考えて事あるごとに妨害しようとする。
百婆は憤慨しつつも折れざるを得ず、最後の最後にしっぺ返しをするのだ。厳格な僧侶が「朝鮮のありがたいお経」だと思い込んでカナ書きにした「恋歌」を唱え、言葉のわかる年寄りたちが目を白黒させる場面は抱腹絶倒だった。
こちらがすごくおもしろかったので「百年佳約」も期待したが、その通り、一気読みできるおもしろさだった。

「百年佳約」は「末永く幸せに」みたいな慶事の際の決まり文句らしく、こちらは百婆の孫たちの結婚に関するごたごたを描いたものだ。しょっぱなから百婆は死んでいる。台風のさ中に窯を見回りに行こうとして薪に頭を直撃されたのだ。運のよいことに大雨が降り続いたため火葬にふされることなくナマで葬られたので無事守り神になることができた。夫の十兵衛や他のものたちは火葬にされて雲散霧消してしまったらしく影さえ見えない。息子の十蔵がヨレヨレになって墓参をしに山を登って来る。喪中であるため粥しか食べられず衰弱しているのだ。しかし十蔵は世代交代後の次の一手を考えている。日本人の同業者に娘たちを嫁がせ、地位をより強固なものにしようと目論んでいるのだ。百婆はなんてことだろうと嘆くが、直接説教するわけにもいかず、あちこち飛び回って情報収集したり、位牌を飛ばしたりといった小細工をするくらいのことしかできない。いろいろな事件があり、新しい世代の結婚に対する価値観の違いなども露呈して一悶着も二悶着もあるが、最後は納まるところに納まってめでたく終着する。その間百婆は供え物をわしわしと食べてはどんどん元気になり、やもめの死人の仲人をしたり、孫の縁を取り持ったりと忙しく飛びまわる。うらやましい幽霊・・・違った、守り神である。

日本では昔から大陸から渡ってきた人や技術が大きな影響力を持って社会を発展させてきた。江戸時代に一世を風靡した薩摩の焼き物なども、もともと文禄・慶長の役で秀吉の軍が捕らまえてきた朝鮮人陶工たちによって伝えられ、より洗練されてきたものだ。上記二作では、朝鮮と日本の風俗習慣の違いが浮き彫りになっており、彼らがいかに日本社会に同化しつつも伝統を守ることに苦労したかということがよくわかる。また、日本人からは一見奇異に見えるしきたりも、裏返して儒教思想が染み込んだ朝鮮人から見れば日本式の方が不作法で許せなく思えるというのもこれを読むとよくわかる。

それから、祝い事や野遊びや正月など、折々の御馳走がとんでもなく多くてどれもこれもおいしそうでよだれが出そうだった。笑い顔の豚の頭をはじめ、まるでチャングムに出てくる山海珍味を見ているような描写だ。「犬のごとく稼いで、大臣のごとく使う。」陶工たちの豪放な生き方も気に入ったし、女たちがきれいなドレスをひらひらさせながら長い長いブランコを漕いだり、シーソーみたいな飛び板でぽんぽん跳んで遊ぶのが羨ましくて、夢に出るほどだった。

NHKスペシャルを見て

2007-12-19 03:20:21 | テレビ番組
もう19日になっちゃったけど、18日夜11時から「爆笑問題のニッポンの教養」を見て、12時から日曜に見逃してしまったNHKスペシャル 「ワーキングプアⅢ~解決への道~」を見てきた。「ニッポンの教養」は「リミックス~総集編~」ということでもう一度聞きたかった話がちらっとだけど聞けてよかったんだけど、比較解剖学の遠藤秀紀先生の持ってた骨はバクではなくアリクイだった。間違えてた。きっとあれこれ間違えて書いてるんだろうなー、トホホ・・・・

「ワーキングプアⅢ」だけど、これはたいへんなことだと思った。政治家の方たちはこれ、見てるんだろうか?労働者の55%が非正規雇用である韓国では、正社員と派遣社員との賃金格差をなくすよう国が法律を作ったところ、派遣社員をバッサリと解雇してその仕事を外注する会社が続出。それに対して国は何の対策も取っていない。一流大学を出てもすぐには就職できない状況で、解雇された非正規雇用者の自殺が相次いでいる。18日の「クローズアップ現代」で韓国の大統領選が取り上げられたが、デモで演説をしていた人が「今日も我々の仲間が一人焼身自殺を遂げました」と言っていたのはそのことだったのか。政府に対する抗議の自殺だ。去年、夫と子どもが韓国に行ったんだけど、ホームステイ先の家の高校生がものすごく勉強していたのに驚いていた。ほとんど顔を合わせる時間もないくらいで、何かにとりつかれてるようだったと言っていたが、少しでもよい大学に入るために目の色を変えて勉強していたのはひどい就職難だったからなのだ。命がかかっているからそりゃあ命掛けで勉強するだろう。選挙の争点も雇用と景気回復だ。
グローバル化が最も進んだアメリカでは今、IT関連の仕事がインドに外注されて、技術者が大量解雇されてしまった。年収1000万くらいもらっていたホワイトカラーの人が、キャンピングカー暮らしで病院に行くこともできない。医療保障までもが民間任せであるため高額の保険料を払えないからだ。

それらを見ていて「これは、日本の将来ではないのか?」と愕然とした。韓国の専門家は、「雇用のような問題は市場経済に任せてはいけないのだ。」と言っていた。また「ニッケルアンドダイムド」の著者は「グローバル化の負の影響は下へ下へと押しやられて一番下層の人がひどい目にあう」と言う。

では、この問題をどう解決すればよいのか、そのヒントとして取り上げられていたのがアメリカノースカロライナ州の例で、ここは以前は中国製品との価格競争に敗れた企業が次々と廃業し高失業率に悩んでいた地域だ。州政府はグローバル化の影響を受けない分野の企業を慎重に検討した結果、自らバイオ関連の企業誘致に乗り出した。さらに失業者の教育機関を設立し、格安でバイオ関連の教育が受けられるように援助した。それに投じたお金は120億円。で、現在では1200億円の税金収入があるという。(雇用創出の規模は覚えていない)

また、イギリスリバプールでのワーキングプア家庭に育った若者を貧困のスパイラルから救う試みでは、専門の相談員が町中に出て声をかけ、一定期間の職業訓練を受けさせた後企業に就職するまで面倒をみる。ここで注目されたのは「社会的企業」という仕組みだ。リサイクルや福祉などの社会的に有意義な仕事をする会社に政府が補助金を出し、(1億円くらい)それを失業者の職業訓練や再就職の資金として使うというのだ。そんな会社がイギリス全土にあるらしい。

いやー、映像の力ってやっぱりすごいなあ。おおむね全部宮台真司の本に書いてあるんだけど「ブレア首相の第三の道」なんて具体的に何のことかわかってなかった。ワーキングプアの家庭に育つと金銭的なことだけではなくて学習やその他のいろいろなスキルが欠落してきて、とても自力で這い上がることは難しい。そこを公的な援助で補って、「努力すれば報われる社会」を目指しているのだ。イギリスでは貧困家庭に所得に応じて児童手当が支給されるのだが、その額が6万~12万(たしか)。子どもが18歳になるまで引き出せないが、その間高利の利子がつく。景気の回復で税収が増えた分を次の世代につぎ込んでいるのだ。貧困層の増加による犯罪対策や福祉的扶助の費用を考えると子どもの段階からお金をかけて援助した方がはるかに安上がりにつくからだという。すごい、頭いいなあ。

一方、日本の現状は情けない。北海道の例で母子家庭の職業訓練、再就職支援がとりあげられていたが、驚いたのは援助員の月給が10万円しか出てないっていうんだ。この人も母子家庭で、夜は塾の仕事を掛け持ちしている。じょーだんじゃない。「ワーキングプアⅠ」に出てきたホームレスの青年も、市の道路清掃の仕事に就いたけど、いまだ家がなくて路上生活のままだ。企業への就職は親族の保証人がいないので面接もできないらしい。じょーだんじゃない!

実りのない国会をだらだらやってる場合じゃないぞ。たいへんなことが起きようとしてる。ワーキングプアって今、世界的な問題なんだな。はじめて実感できた。やっぱり市場経済に任せてはいけない部分ってあるし、雇用創出とか就職支援とかもっときめ細かく戦略的にやっていかなくてはいけないんだ。
最後にキャスターが言っていたが、もう、個人の善意とか熱意ではやっていけない。もっと本格的な対策を、今すぐに立てないといけないところにきている。

なんか胸騒ぎがして、こういう予感は当たるんだなあ。

TVタックルを見て

2007-12-18 00:37:57 | テレビ番組
 今日は書く気になっていなかったんだけど、さっき、TVタックルを見ていたら、かなり意図的な誘導をしているようであったので、ちょっとそれは違うだろうと思った。テーマは「日本人よ拉致問題を忘れるな!」だった。歴代首相がこの問題に耳を閉ざしてきて全く進展がないまま30年近く経過してきたのだが、小泉首相は拉致被害者5人を救出したと評価し、当時の官房長官だった福田康夫現首相の失態、やる気のなさを特に強調して映像を編集している。確かにまあ、そうだろうし、別に私は福田さんファンってわけじゃないけど、アジア外交重視で「対話路線」ということを言う福田さんのやり方をアホ呼ばわりしているように見えるんで、そりゃあ、ちょっと違うだろうと思った。
 
 勝谷氏は「これがアメリカだったら特殊部隊を派遣して救出してますよ。自衛隊の人に聞いたら『やれと言われれば、自分たちはやれる』と言ってました。」と発言してたが、特殊部隊を派遣して強制奪還したとして、それでその後どうなるの?北朝鮮が怒って宣戦布告するとかミサイル攻撃をしてくるとかしてきたとき、どう対応するの?ああ、そうか。戦争すればいいとおもってるわけだね。アメリカが助けてくれる?じゃあ、なんで今アメリカは制裁を解除して「テロ支援国家」指定を取り消そうとしてるわけ?まったく意味ないのに。今戦争したくないんじゃないかなあ。そもそも、拉致被害者が北朝鮮のどこにいるのかわかってるのかなあ。北朝鮮は、日本にいる朝鮮総連を利用して金集めや宣伝活動をしてきたわけだけども、日本は北に対する情報収集をしてきたのかなあ。確かに今までの自民党の拉致問題に対する対応はひどかったと思う。拉致問題は存在しないという総連の主張に乗せられた社会党もひどかったと思う。でも、今どういう対応ができるというのか?昨日の、西村眞悟氏は「経済制裁は実は効果があるんだ」とおっしゃっていた。ふーん、そうなの。じゃあしたらいいじゃん。
 
 もし金正日政権が倒れたとして、その引き金を引いたのが日本だったら、多分経済援助や難民の受け入れに莫大なお金を出さざるを得なくなるだろう。アメリカとか中国とかってあったまいいから、絶対自分の懐が痛むようなことはしないように圧力をかけてくるだろうし。韓国と折半かなあ。いいんじゃない?

 テレビを見ている途中で家族にチャンネルを変えられたから残りの半分は見れなかったんだけど、たしか金慶珠さんが「日本が北朝鮮と国交を回復することでのメリットは・・・」というと、他の人が「メリットなんかないよ!国交を回復する必要はない!」と言い切ったので「じゃあ、デメリットという観点から考えると、この問題は東アジア地域における日本のイニシアティブ・・・」と言いかけて重村智計氏にさえぎられた。「金さんは朝鮮半島の問題に日本が係わるべきだというふうに誘導しようとしている。」と。(言葉はちょっと違ってたかもしれないけど。)ああ、関わらなくっていいわけね。まあ今、日本は出てくるなって無視されてる状態だから、いいんじゃないの?

 勝谷氏は「日本人は民度が低いから、百年かかって民度を高めていかなくてはならない」と「たかじん」の中でいつか言ってたことがあった。「民度が低い」というのは宮台真司がしょっちゅう書いていることだけど、政治的見解がまるで逆の方向をむいているのがおもしろい。宮台氏の場合、「民度が低いから、戦略的な思考ができるエリートを育成するべき」という意見だけども。中国の場合、エリートの育成には徹底的に「この国のダメなところ」を教えるんだそうだ。「歴史的に見て、この政策は間違っていた。こうするべきだった」みたいにダメなところを教え込んでどうすればよかったのかを考えさせるんだと。それで国に嫌気がさすような人は必要ないって。

前述の、姜尚中 宮台真司「挑発する知」(ちくま文庫)の中で宮台真司は、こう述べている。
 私たちは、これからどういう外交カードを手にできるのでしょうか。たとえ現在カードをもっていなかったとしても、アメリカの動向に右往左往しないで国民益を失わないための選択肢はなんなのかを検討し、それを確保する努力をしてきているでしょうか。
 もうひとつつけ加えます。北朝鮮に対する強硬論を馬鹿のひとつ覚え的に唱えている安倍晋三的な方々と、新しい歴史教科書をつくる会(以下「つくる会」という)の方がたが連携していますね。これは象徴的な出来事です。
 私が昔からいっていたし、最近では小熊英二さんも書いているように、「つくる会」は、日本の伝統的な保守ではなく、都市中流階層のアノミーのなせるわざ。成熟社会特有の不透明性と流動性がもたらすアノミーや不安を、敵を見つけて噴きあがることで鎮めようとするわけです。アノミーの背景には、冷戦体制崩壊や、平成不況深刻化もあります。
 繰り返しますと、もし日本が経済規模を維持しようとすれば、資本や労働力の流動化が高まるのは避けられません。外国人労働力の重要性はむしろ高まってきます。頭脳労働者から単純労働者まで外国から入れないかぎり、一定の経済水準を保つことはできません。
 外国人労働者が入ってくると都市中流階層のアノミーが進みます。同じ現象はドイツをはじめいろいろな国で起こっています。フランクフルト学派的に予想すれば、アノミーに陥った連中はカッコつきのナショナリストとして噴きあがるでしょう。「弱い国だから外国人が入ってくる。外国人が入ってくるともっと弱い国になる」などと。
 すでに九〇年代の時点でもそうなっています。「つくる会」のオヤジ慰撫史観を見ているとつくづくそう思います。だから、ここにいるみなさんに賢明な選択肢が見えていても、世論はアノミー的噴きあがりの方向に動く可能性が大きい。
 しかも、勝ち馬に乗りたがるメディアが、それを煽ることでしょう。そのため、状況を変えるのは、なかなか厳しいかと思います。もしかすると、そうした動きの延長線上で、デカイ一発によって懲りなければ、問題は解決しないのかもしれません。

確かにネットの状況や、マスコミの微妙な情報操作を見ているとその予測はあたっているなあと思う。

「丸山真男をなぐりたい」の人は要するに「同情するなら金をくれ」(斎藤美奈子 「SIGHT」1月増刊号)と言っているらしいんで、そういう危ない若者にだれか6000万くらいお金を送ってあげてください。

雑誌「SIGHT」 続き

2007-12-16 21:21:14 | 雑誌の感想
「論座 2008年1月号」の中で、作家 宮崎学氏の「政治家に“クリーンさ”を求めるな 汚れたハトか、清潔なタカか」がおもしろかった。
 私は小泉氏、安倍氏などの日本型タカ派の代表たちは、汚れたハト派よりその本質においては汚れていると思う。
 それは成り上がり型の、つまり一代で昇りつめた政治家と違い、この人たちは2代目、3代目の政治家だ。「地盤」「看板」「カバン(金)」という政治家としての必要条件がすでに整った人たちだ。
 成り上がりのハト派はこの「カバン」がもともとない。そのためともすれば「汚れる」のであるが、小泉、安倍両氏などは、その必要がないために「清潔」であるかのように見えるだけだ。
 しかし厳密に言えば、先代、先々代から相続した「カバン」が清潔なものとは思えない。実際2代目、3代目政治家の資産公開を見るとその潤沢な資産に驚かされることが多い。
 次に、汚れたハト派について考えてみると次のようになる。「汚れた」ということは合法的か非合法的であるかを問わず、「金銭」を得ることを追求することである。
 金銭を得るということは、金を出す人(企業)と政治家との間では、ある種の合理的関係が条件となる。カネを出す人(企業)に利益を与えないかぎり、その関係は成立しない。つまりギブ・アンド・テイクの関係だ。
 この合理性の壁が憲法問題などの「平和」に関わる時にはタカ派の理念優先型の暴走とは逆方向へと向かわせる。この合理性がハト派の政治感性の基盤であると私は考える。ハト派は汚れることによってハト派たり得たというところがある。

雑誌「SIGHT」2008年1月増刊号でおもしろかったのは「特別対談 枝野幸男×後藤田正純」だった。民主党の対中強硬派(ウィキペディアによれば)と自民党のハト派ってことで、なんか所属政党が入れ替わってもかまわんのじゃないかという感じがした。
メディア戦略について
枝野 まあ、やっぱり世論というのはある意味でぶれがあるものだと思うんです。明らかに小泉さんの功罪の罪のほうで(中略)端的に言えば選挙が最後の一週間で決まるみたいな、そういう状況になってしまっている。テレ・ポリティクスという言葉ができ上がっている通り、これがこのまま続いたら大変なことになる。そろそろみんなテレビのワイドショーなんかは半耳で聞かなきゃいけないよねと、そういうところに行くのかどうか、今はその分岐点だと思うんですけどね。
――ただ、そうはいっても「わかりやすく、一発で伝える」ためのコピー能力なりメディア戦略は、民主党も積極的に取り入れる必要があるのではないですか。
枝野 こういうこと自体が失格なのかもしれないけれども、仮にそう思ってたとしてもそれは言っちゃいけないんですよ。つまりね、ぼくは小泉さんが郵政選挙で成功して、安倍さんがメディア戦略で失敗したと言われている決定的な要因は、本人のキャラクターもそうなんだけど、小泉さんはメディア戦略を仕掛けますよということを言わずに成功をした。で、安倍さんは、そのメディア戦略に上手く乗っかろうってことが見え見えになってたわけなんですよ。メディア戦略を仕掛けてますっていうことを有権者に向かって発信するというのは、最悪のメディア戦略です。
後藤田 まったくおっしゃる通りで、安倍さんのときには、メディア戦略担当がメディアに出ているという大変馬鹿げたことが起きたでしょ。(中略)実はこの問題に対しては、ぼくは枝野先生とまったく逆のこと言ってるんですよね。やっぱりメディアに対してはおかしいだろうとみんなが思い始めてて、そろそろ本当のことを言う政治家を求めてるんじゃないかと。
 やっぱり我々政治家は、策を弄するよりも、メッセージ性が高い本当のことを端的に繰り返し言う。これだと思うんですよ。
枝野 明確で本当のことを言う政治を求めてるっていうのはまったく同感です。ただ、ぼくが分岐点というのは、それに政治の側が応えられる状況であるのかどうかということなんですね。まさにそこが分岐点で、これに応えられないとますます大衆迎合の政治になってしまう。

後藤田さんは自民党の正統保守派なんだな。「編集部からの10の質問」の中で「政界再編が噂されています。仮に再編が行われるとしたら、何を争点に行われるべきだとお考えですか?」という問いに「アジア外交⇔対米重視、国家主義⇔国民主義、自由⇔規律」という答えだった。
後藤田 まず、靖国の問題は、わたしらの時代で解決しなければならない。で、ぼくは日米安保条約というのは、(旧)ソ連に対する軍事同盟だったわけで、これはもう時代の終焉を迎えていると思う。今アジアの有事は台湾と北朝鮮であり、ワンチャイナ、ワンコリアを目指す中では、新しいアジア外交を樹立しなければならない。ただ自民党の中にもいまだに媚中外交だと批判する人がいたり、中国は脅威だとおっしゃる方がいたりするから、そんな状況ではなかなか難しい。

枝野 そもそもぼくはね、外交って争点にしちゃいけないと思うんですよ。国内だったらいろんな政策誘導である程度までは、やっていけるかもしれないけど、アメリカ国内や中国の世論がどうなるかなんて我々にはコントロールしようがないんだから。ものすごいリアリズムな世界にいるわけですから。どういう立場にしても極論はあり得ないんです。
 で、残念ながら日本外交は、特に安全保障が絡むと極論同士で議論してしまうんですよ。で、その極論にはぼくはまったく関心がない。

――ただ外交におけるビジョンというのはやはり必要じゃないですか。ビジョンなき日本外交の失態は、各方面から指摘されているわけで。
枝野 ただぼくはあえていうけどね、どういうビジョンを持てるの?ビジョンを持たないからダメだって言う人で、「こういうビジョンがありますけど」って言うのを聞いたことがない。大体、ビジョンを持って日本が外交を先導できるほど国力があるんですか、ぼくはないと思ってる。そういう勘違いをしたのが大東亜共栄圏でしょ。たとえば今の客観的な国際情勢の中だったら、もうちょっと中国とは信頼関係を作んなくちゃいけないとかね、それをぼくはビジョンとは言わない。それはウエイトのかけ方の問題なのであって。ビジョンがあると縛られるじゃないですか。

政界再編の軸に対する枝野さんの答えは「選択的夫婦別姓の賛否」で、民主党らしくていいですが、これは別に重要課題ということでおっしゃったのではなく「二者択一」ができるし、リベラルかどうかの分かりやすい分水嶺だからという現実的なお答です。枝野さんは二大政党制を実現すべきだという意見です。

枝野 たとえば旧民主党を作った96年のときには一種純化路線をとろうとしたんですよ。純化路線をとろうとしたんだけれども、あえて言えば、結局いろんな人が入ってくるのを止められないんですよね。つまり勝馬に乗るんですよ。で、また要らない人ほど勝馬に乗るわけで(笑)。だから、大連立というよりは、少なくとも政権交代をして、お互いが与党と野党に慣れる、で、一旦野党になってもまたすぐ与党になれるんだという状態がお互いに共有されないと、何となくとりあえず次に与党になれそうなほうにどっと人が流れるということになりかねない。
後藤田 うん。まあ、そうですね、ぼくも1回、民主さんに政権をとってもらっても構わないって地元でも申し上げてるんだけど。それによって、権力の責任を感じていただけば、議論もまた噛み合うようになりますからね。
枝野 そういう、自分が野党になることを前提とした再編論をおっしゃる自民党の方って、後藤田さんの他にぼくはひとりしか知らない(笑)。
――どなたですか。
枝野 (山本)一太さん。他の人は当たり前のように再編後自分が与党っていう前提で話すんです。

えーっと、山本一太さんのあの風通しのよさは何かな?と思ってたら、M2シリーズの中で宮崎哲弥氏が友達だと言っていた。なるほど情報の伝達経路はそうなのか。

まあ、風通しのいい人たちにがんばっていただきたいです。

賞味期限

2007-12-16 20:50:00 | 本の感想
 内田樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」(角川文庫)より 「どんな制度にも賞味期限がある」
 どんな制度にも賞味期限があります。どんな立派な理念でも、必ず賞味期限が来て、使えなくなる。どんなにおいしいものでも腐るのと同じです。だから、賞味期限が来る前に食べましょう。そして、賞味期限が来るまではぎりぎりまで味わいましょう、というのがぼくの考え方です。

 通常、ある社会制度が腐りかけてきた頃に、次のシステムが出てきて、うまく連係が保たれます。社会制度は一度捨てると代わりはないですから、次のものが来ないうちに、「ろくでもない制度だから」といって棄てることはできません。してもいいけど、厄介なことになります。
 国民国家、人種概念、階級制度、一夫一婦制など、この先あまり長くは持たないと思いますが、まだこの後五〇年ぐらいは賞味期限が残っている。残っている間はまだ「賞味」できるわけですから、「次のもの」がくるまでは、なんとかこれを使い回ししてしのぐしかありません。

 どんな制度も必ず腐ります。でも賞味期限が切れたからといって、それがかつては美しいものであった、おいしいものであった事実は変わらないのです。「非常にあれはよかったね。だけどもう腐っちゃったんで、食えないんだよ。そろそろ賞味期限が来たから捨てようか」ということについて合意形成を整えて、そうやって制度改革をソフトランディングさせることがたいせつだと思います。
 不思議なもので、「あれはもうダメだ。古いから捨てる」というふうに言い放ってしまうと、制度というのはなかなかなくならないのです。逆に、「あれはなかなかよいものだったね、あのときは実に役に立ったよ」というふうにその事績を称えてあげると、先方も「自分がもう死んでいる」ことを受け容れて、静かに姿を消してくれるのです。
 ぼくはこういう「礼儀正しく、不要物を棄てる」ことを「弔う」と言っているんですけれど、すごくたいせつなんですよ、これは。相手が人間であれ、制度であれ、イデオロギーであれ、「死んだもの」をきちんと弔うということは。最後に唾を吐きかけるんじゃなくて、最後には花をそえて、その業績を称えて、静かに成仏してもらう。そうしないと、賞味期限の切れた腐った制度が、なかなか死なないでのたうち回るようなことになるのです。

 死者であれ、制度であれ、イデオロギーであれ、死に際には必ず「毒」を分泌します。かつては社会に善をなしていたものが、死にそびれると生者に害をなすようになるのです。それをどうやって最小化、無害化するか、それを考えるのは、社会人のたいせつな仕事の一つなのだとぼくは思います。

 
ははあ、確か宮崎哲弥氏が、NHKの「プロジェクトX」は、高度成長期のサラリーマンたちに対する葬送であったとどこかに書いていて、どういう意味かと思ったがそういうことか。内田樹氏は「弔いの儀式」というものはもともと「死者が生者に害をなさないように行うもの」だと書いておられる。恨みを抱いて死んだ者の怨霊が祟って生者に害をなさないよう祭り上げるのだと。だから靖国神社というのは戦争で無念の死を遂げた兵士たちが恨んで化けてでて来ないよう祭ってあるんだそうだ。なるほどそれはよくわかる。私だってあんな戦争で無惨な死に方をしたら絶対化けて出るだろう。口から毒を撒き散らして10人くらい道連れにするかもしれない。

で、今日の「たかじん」では元民主党議員、西村眞悟氏が復活していた。うっわー!むちゃくちゃタカ派じゃん!金美齢さんは許容範囲だけどこの人はだめ・・・。「辛抱たまらん!」で、例の名義貸しの件について「僕を議員辞職に追い込むことが目的だった」とおっしゃっている。なるほどー・・・。まあ、支持者が多くてよいことです。

勝谷氏が、田嶋陽子さんに「そんなことを言っているから死んだはずの左翼が蘇るんだ!」と言っていたが、逆に考えると勝っちゃんみたいな発言が多いから蘇るんであって、右翼が何度でも姿を変えて蘇るんと一緒ですね。民主党が政権を取ろうと思ったって、西村氏みたいなんが、もしまだいたとしたら絶対取れないでしょうが。

雑誌「SIGHT」より

2007-12-15 21:36:45 | 雑誌の感想
 ペシャワール会の会報が届いた。アフガニスタンの干ばつはさらに悪化し、ペシャワール会の水路ではないが多くの水路が枯れている状況らしい。飢餓難民がさらに増えている状況の中、日本ではテロ特措法に関する抽象論ばかりだということを中村哲医師が嘆いておられる。
 中村さんの話は「SIGHT」2008年1月増刊号(ロッキング・オン・ジャパン)にも掲載されている。
中村 民主党に限らず、日本国内でのアフガニスタンについての議論はまあ、小田原評定に近いんじゃないかとは思いますね(笑)
 というのは、日本にあまり知られてませんけども、アフガニスタンの首都・カブールは反政府陣営にすでに包囲されているんですね。タリバン、あるいはその同盟軍がすでに農村地帯をバックにして首都を包囲しつつあるということさえ知らない。毎日数百名という単位で人が死んでいることも知らない。今、ISAF(国際治安支援部隊)と米軍で五万人の兵力がアフガンに駐在していて、軍事活動がますます活発化しています。選挙も行われ復興も進んでいるといわれながら、なんでそんなに軍隊がいるのですか。そのことへの基本的な疑問もなく、「国際社会」との協調だとか「国益」とか、抽象論ばっかりが戦わされているので異様な感じがしました。


――ではテロ特措法ですが、素直に中村さんのご意見をうかがうとするといかがですかね?
中村 これは6年前に私が、それこそ民主党の証人として国会に立った時と全く同じです。有害無益です。本当に早く止めて欲しい。まず、アフガニスタンにとって「反テロ戦争」という名の軍事協力から得られるものはほとんどありませんでした。それどころかかえって民間人の犠牲者を増やし、武装勢力の力が拡大するのを手伝ってしまった。
――日本が積極的に関与していくことのデメリットというのは、何が一番大きいですか。
中村 やっぱり対日感情が悪化したこと。それによって私たちの仕事そのものに障害が出てしまいます。日本人に対する評価が今180度変わりつつあるんです。かつてはアフガニスタンは、世界でも対日感情の最もいい国のひとつだったんですね。その理由のひとつは戦後の日本が軍事的な活動をしなかったということです。それが最近では「米国及び日本を含む同盟者」とひとくくりで呼ばれるようになってきています。「それはテロリストの言うことだ」と言えば日本では説得力を持ちますけれども、アフガニスタン現地では、アルカイダのような国際イスラム主義運動と、民族主義的で土着的なタリバンは本質的に違うものです。そういうタリバンのような人たちの間で評判が悪いというのは、日本の安全性を考えてもかなり危機的です。

アフガニスタンというのは部族社会で、日本でいえば中世の戦国時代みたいな国だ。みんな当然のように武装していて、普段農民でも何か事があればすぐ鉄砲持って戦う。その人たちが米軍の空爆によって何の関係もないのに多くの市民が巻き添えをくって死んだことに腹を立てている。タリバンといっても元はそういう農民たちだ。「テロとの戦い」というのは一人のテロリスト容疑者を殺すためだったら一般市民数百人を殺してもいいってことなのか?そんなことアメリカやヨーロッパや日本でやったら大問題になるだろう。アフガニスタンではやってもいいのか?アフガニスタンの人たちの命ってそんなに軽いのか?そんなむちゃくちゃなことをやっているアメリカに「対米追従しか道がない」と協力するのはやっぱりおかしいよ。
――そういうアフガニスタンの現状を見もせずに、日本では自民党も民主党も、米軍なり国連なりに協力する形の国際協力を想定していて。でも国連軍も評判が悪いんですよね。
中村 これは悪いです。やっていることが米軍の肩代わり以上のことではないし、全体としてモラルが低くISAFはある意味では米軍以上に強暴ですから。その地域の住民の文化なり考え方を尊重しないと軍は支持は得られませんよ。傍若無人で、例えば厳しい禁酒国であるアフガニスタンで、装甲車の上でワインをラッパ飲みして、ビンを通行人に投げつける。おかげでうちの運転手は死ぬところだったんです。かなり綱紀がゆるんでますね。それに墓を暴いて頭蓋骨で遊んだり、現地の人の神経を逆なでするようなことを盛んにやっている。現地の人は表向きは「感謝してる」と言いますけれども、そうでも言わないとタリバンだ、テロリストだと逮捕されたり殺されたりしてしまいます。


えーっと、宮台真司の言葉に「ネオコン的マッチポンプ」という言葉がある。「テロとの戦い」という名目で強硬策をとる。するとさらに怨嗟が生まれてテロは逆に増加する。人々の不安は募り軍需産業とセキュリティー産業は大儲け。これを意図的にやっているのだったらそうとう悪質だが、まだ気づいていないのだったらただのバカだってさ。
先日の朝日新聞の書評に取り上げられたこういう本が出たっていうことはネオコンもバカじゃあないってことなんだろう。アメリカ追従だったらいっしょに方向転換しなきゃ。だいたい、ヤクザの親分が「おいハチ!あれしてこい!」と言ったときに「へい、へい」ってなんでもかんでもバカ正直にいうことをきくっていうのはアホだ。「親分、それはちとマズいっすよ!」と進言するか「へい、おっしゃるとおりやっときました」といってあとあと困らないように適当なことをしておくかすればいいのだ。そもそもがヤクザの親分が極悪非道なことをやり始めたらいつでも逃げて自活していけるように算段しとかなきゃ。


この「SIGHT」という雑誌はおもしろい。編集・発行人の渋谷陽一という人は、私が子どもの頃、FMラジオで聞いてた音楽番組の有名DJじゃないか。なんでこういう「論座」みたいな雑誌を作ってるんだろ。

私はきのう、このBLOGランキングを見てびっくりした。愛国とか反日とか国を憂えるとか勇ましいのばっかだ。じょーだんじゃねーよ!それにこのせと弘幸って人なに?「南京事件」の捏造?
故細川隆元先生が当時のシナ大陸にいた朝日の記者に尋ねたところ、一人も虐殺の話を聞いた者はいなかったと証言したのです。

ほんとにそうおもってるんだー!すごいね。加藤紘一氏の自宅放火事件をよくやったとほめてるし、もろ石原都知事支持者なんだー。
人気ブログってこんなんばっかなのか?ひどいね。

加藤紘一氏について批判したブログに太田述正氏の記事が引用されているが、ここのコメント欄がひどい。「中共の犬」?「媚中派」?「悪魔中共」ってのはたしか統一教会が言ってたような・・・。統一教会の関連組織である「勝共連合」には自民党のタカ派議員からの献金がかなり入っていたらしいし・・・。この教団が社会問題になる前ね。自民党の「憂国議員」が共産主義思想の侵食を防ぐためこの組織を利用したんだと私はプロテスタントの牧師さんに聞いたがな。じっさい統一教会はお金持ちだったなあ。一等地に自前のビルを建てて。
それに
ユダヤ人大虐殺はその歴史的な検証すらも許されないという状況にあります。昔は2ちゃんねるでずいぶん戦いましたが、この問題はもう少し時間をかけてから行いたいと思います。ドイツの歴史修正主義者の戦いを見守るという立場です。
ってなに?「アウシュビッツなどはユダヤ人を国外追放するための拘置所だったとか。虐殺という言葉はヒトラー自身口にしたことはなかったなど。」
ははあ、ヒトラーが虐殺という言葉を使わなかったから虐殺はなかったと?

おい、「SIGHT」がんばれ!
右翼がどう言おうと、これからは中国とよい関係を築くより日本の生き残る道はないと私は思う。
加藤紘一×藤原帰一対談でこんなのがあった。
藤原 中国指導部が福田さんと似てるっていうと誤解を受けそうですが(笑)、イデオロギーじゃなくて実利の人たち、経済テクノクラートの政権なんです。今度の中央委員会全体会議では、おそらく胡錦濤をはじめとする経済官僚に加えて若手を抜擢しますから、その傾向が強まるでしょう。実利から考えれば中国にとって日本は大変大きな貿易相手国。これだけ経済的な関係が密接な日本との外交が冷え込むことは明らかに不利益になるという判断ですね。それに、ちょっとくやしいけど、この4、5年間の中国外交は見事でした。

加藤 ・・・・・・そこは中国もわかっているからこそ今喧嘩しちゃいけないというふうに思っているんだと思います。ですから一昨年の4月のデモのあと中国に行ったときに「人民大会堂でデモを抑えるために中国共産党中央委員会の大会議をやったそうじゃないか」って言ったら、「それは違いますよ。我々はデモの指導者になり得る大学や地域の若手指導者を集めて、日中経済関係でいかに自分たちが得してきたかということを話して説得したんです」というんです。駐日大使経験者がその演説に駆り出されたんだそうです。「我々は6千人だかの学生の前で喋るなんてのは初めてで正直言うと足が震えたが、ここで彼らを説得できないと対日デモは大きくなるしそれだけじゃない。他のテーマによるデモに火がついたら我々日中関係者は強烈に非難される、そういう問題だったんです」と。共産党がそういう集会をしたって発表すればいいのに体質があって、内部のプロセスを見せないんですね。それと同時に在北京の日本人特派員たちはそのことをなぜ書かないのかと聞いたら、知っていましたが当時の状況では(小泉政権)、書いても本社では記事にしませんということなんですね。メディアの図式に合わないんですと言っていた。

なんか、よく似た話を読んだことがあるような・・・と思ったら、マンガ「取締役島耕作」に出てたんだった。
もう、ネット右翼とかはなんでも勝手に言ってればいいんで、日本と中国の賢いテクノクラートや政治家に賭けよう(日本にいるとすれば)。

太田総理

2007-12-14 22:26:29 | テレビ番組
さっき「太田光の私が総理大臣になったら」を見てきたが、今日のマニフェストは「不祥事を内部告発した人には 国から賞金最大1億円をあげます」であった。
 
最近、内部告発による食品の偽装発覚が多いのはなぜかと考えていたが、きっと、雪印以降の偽装報道を見て、「あ、それ、うちもやってる。そうかやっぱり悪いことだったんだ」と思った現場の人たちが、内部で声をあげても握り潰され、その会社に自浄能力がないと落胆したため、やむにやまれぬ気持ちで声を発したのだと思う。だって今のところ告発したって何の得にもならないのだ。それでも告発するのは、外部から見たらとんでもなくひどいことを仕事でしなきゃいけないという良心の呵責に耐えかねたのだ。それに偽装などというものはすぐに慣れてしまって、現場では悪いということすら思わなくなる。あっという間にエスカレートするという怖さもあって、その内部の現状と一般人の常識とのあまりのギャップに耐えられなくなるのだ。
 
もしも、その会社に法令遵守のための監視員がいて、厳格な管理マニュアルがあるならば組織の上の方に情報が伝わって、なんらかの措置をとるはずで、それがなかったということはいいかげんな会社ということだ。

衛生管理にお金を使ってたりしたら中小企業は持たないという意見があるが、じゃあ、安いけどバイキンだらけの食品や賞味期限切れの食品を売りつけられていいのか?ということになる。雪印食中毒事件のときにわかったけども、たとえ小さくてもちゃんと厳密なマニュアルを作成してそのとおりに衛生管理をしている乳業会社も多かった。

「食品の賞味期限なんて、過ぎてから食べてもなんの問題もないじゃないか」と言う人がいるけど、それは末端の消費者の話で、もし偽装が横行したとしたら、たとえば製造元が日付を改ざんし、卸業者が改ざんし、小売店が改ざんしでとんでもなく古いものを買わされるおそれが出てくる。ともかく経営上のつけを消費者に回すというのが許せない。廃棄率を減らしてコストを削減するにはきちんとした仕入予測と商品管理によってやるべきで、日付の改ざんでやろうなんてとんでもない!そういう誤った会社への忠誠心が社会的信用を傷つけ莫大な不利益を被らせるという常識が行き渡れば、きっと経費節約のために知恵を絞らざるを得なくなって古い体質の会社も改革が進むようになると思うな。

検索をしてみたら「食品会社 偽装の歴史」というサイトがあった。イギリスの内部告発者保護制度についても書いてある。雪印食品の食肉偽装のときのように、告発者の取引先がつぎつぎと契約を解除して結局廃業せざるを得なくなるとか、企業で内部告発して窓際にやられる(トラック業界の闇カルテルを告発した串岡弘昭氏みたいに)とかそのような不利益を被ることがないよう法律で保護しなきゃいけないと思う。
 
ところで「当時のトナミ運輸の会長は現衆議院議員の綿貫民輔である。」とありますね。元自民党幹事長で現国民新党代表の人ですがな。まあおそろしい。そんな人が親玉の会社相手に告発されたんですか。
 
太田述正氏は反対の席にいて、理由は「告発をしても国に握り潰されるおそれがある」ということらしい。まったく、太田氏の告発のようなのは民間会社の偽装と違って、どこかから圧力がかかって立ち消えになる危険性がある。賞金はともかく、告発がちゃんと公正に処理されるかどうかということが大事なんだな。

金 美齢さんが「信頼できる筋に聞いたところ、防衛省向けの精密機械などはかなり特殊なもので、研究開発費にお金がかかるから高く売らざるをえない」とおっしゃっていたが、それもなんだかおかしいと思う。「研究開発費にこれだけかかったからこれだけ貰わないと赤字になるのです」とは言えないのか?最初から全部ひっくるめて「一式 ○○億円」だなんて悪徳商法のリフォーム会社みたいだ。太田氏のところの読者の投稿にあった「水増し請求をしないと営業所の経費がでない」というのもなんかおかしい。防衛省の場合は国民の税金を使っているのだ。できるだけ無駄は省くよう努めて貰わないと、こういう状態で消費税の値上げなんかしたら暴動がおこるぞ。(んなことはないか・・・)