読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

「思想地図」VOL1

2008-09-25 23:22:37 | 本の感想
 「ロスジェネ」創刊号と一緒に買った「思想地図」VOL1(東浩紀・北田暁大編)でおもしろかったのは、「社会的関係と身体的コミュニケーション」韓 東賢(ハン トンヒヨン)だ。ほとんど、それだけ。あとは難しくてあんまり読めなかった。これもむずかしそうなタイトルがついているけども、要するにケンカの話だ。副題は「―朝鮮学校のケンカ文化から」
 
 かつて1970年代の東京では東京朝鮮高校と国士舘高校の乱闘事件が頻発していたという。映画「パッチギ!」で高校生たちがガラの悪い格好をして喧嘩ばっかりしているのに呆れたけども、あれは校風だったようだ。
 東京朝鮮中・高級学校は、「異国の地にあっても民族の魂を持ち祖国の発展に寄与し日本の社会で活躍できる人材の育成を目的に在日朝鮮人子弟の中等教育機関として祖国解放の翌年(1946年10月5日)に創立」した当初は中級部のみだったが、48年に高級部が併設された。中、高級部ともに朝鮮学校において日本最初に設立された同校は、開校から一貫して日本最大規模の朝鮮学校でありその中心的存在である。GHQと日本当局による朝鮮学校閉鎖政策による都立化の時期(49年~55年)を経て、北朝鮮の海外公民路線を取る在日本朝鮮総連合会(朝鮮総連)の管轄のもとで自主化し、現在にいたっている。

この学校と連日バトルを繰り返していたのが国士舘高校。
 国士舘高校は1917年に国士舘義塾として創立し、48年の学制改革により国士舘中学校・高等学校となった。(中略)近年、改革が進んでイメージも大きく変化したが、80年代頃まではバンカラ、武闘派を代表するような校風で有名だった。創立者で初代総長の柴田徳次郎は保守主義的、右翼的な教育方針を掲げ、50~60年代の天皇誕生日(現昭和の日)には柴田自ら馬に乗って学生を観閲したというエピソードもあるほどだ。(中略)
(1973年入学した木村三浩 ~ 新右翼一水会代表 ~ によると)当時の国士舘高校では、入学式で「軍艦マーチ」が演奏され、入学直後には「共産革命を食い止めるため命をかけろ」などと書かれた創立者柴田徳次郎の著書が配られ、天皇誕生日には奉祝の「分列行進」があり、週一回の「訓話」という授業では関東軍作戦参謀でシベリアの収容所に強制収容された経歴を持つ校長代理が「日本のすばらしさ」を語りながら「維新の志士のように生きる」よう説く講義をし、ガクランを着て教育勅語を暗唱しろという教師が存在していたという。

これはヤバイです。どっちもどっちというか・・・出会ったらケンカになります。朝鮮高校の男子たちはグループを作って駅や電車の中を巡回し、バンカラ系の雰囲気芬々ふりまいているやつを見たら見つけ次第にケンカを吹っ掛けたという。
 彼らはこのように毎日列車内を「流し」て、「敵」を見つけると自らしかけて片っ端から制圧していった。一方で、誰かがやられたとか生意気なヤツがいるという情報が入ったり、「天敵」である暴走族が集会を開くという知らせがあれば「出張」することもあった。「国士舘は象徴的な相手で、他の学校は最初から向かってこない。まともに相手になるのは暴走族と国士舘だけ」(Eさん)だったらしい。


一方、彼らのケンカは、周囲にはどのように受け止められていたのか。
 (先生や大人は)やるなら負けるなとか、そんな感じとかね。あとは捕まらないいようにやれとかね。・・・・・(停学などは)あまり聞かれなかったね。・・・・ケンカではね、怒られるけど、そりゃ学校側もメンツがあるからね、怒られるけど、でもそんなには怒られないかな。(Aさん)
 
 誰に聞いてもだいたいこのような感じで、ケンカで警察に捕まっても停学や退学などの処分を受けることはほとんどなかったという。ではそれは学校の方針だったのか。「学校の方針としてというのは別になかったが、そんな風に厳格にしていたら、どれだけ多くの生徒が退学になって、いなくなっていたか」と語る元生活指導担当教師のFさんは当時、「生徒たちの学ぶ権利を守る生活指導部」というスローガンを掲げていたという。


お、おもしろい。「パッチギ!」のあの一種ヤクザ映画みたいな天真爛漫な明るいケンカはそれだったのか。 そのような朝鮮高校の「ケンカ文化」が日本の不良高校生たちの畏怖や尊敬の対象となり、また一種のカッコイイスタイルとして隠語に取り入れられたりしたらしい。
 そして、それだけ毎日毎日集団で乱闘して、警察にもしょっ引かれてたのに、死人が一人も出ていないっていうのはすばらしいことだ。
 集まってケンカするのはいけないことだったかもしれないけど、団結することを知り、団結してケンカするのが、自分たちの権利を守ることだと思ってたし、生活を守ることだと思ってたから。(Fさん)

 彼らの論理の「正しさ」はケンカでの勝利はもちろん、周囲の好意的な対応を通じて再認識され、警察沙汰になった際の差別的対応などを通じてさらに補強され、「伝統」となっていく。このように、彼らにとって「正しい伝統」であったからこそ、恐怖を感じながらも使命感を持ち、決死の覚悟、捨て身の「ハッタリ」で、強い敵を相手に精神的優位に立つ先手必勝の戦法で挑んでいけたのだ。

 彼らにとって、ケンカは「集団的伝統」であり、一種の「身体的コミュニケーション」であり、「マジョリティー/マイノリティー間の権力関係を(一時的にでも)無化するフィルター装置としての機能」であり、「マイノリティーとしてのアイデンティフィケーションの困難を回避するための一つの装置」となっていたのではないかと著者は推測している。めちゃめちゃおもしろい。死人が出ないのならどんどんやるべきじゃないのか?

 しかし、実際にはそのような「ケンカ文化」は80年代後半から90年代には限りなく下火になり、その代わりに「チマ・チョゴリ切り裂き事件」のような個人、弱者をターゲットにした陰湿な襲撃事件が頻発するようになった。で、著者は言う。
そこに身体の対等性や、アイデンティフィケーションの困難を回避するフィルターとしてのコミュニケーションは、おそらく、存在しえない。
 こうした「コミュニケーション」の様態の変化は、当然のように日本社会の変化の問題でもあるが、同時に、60~70年代の高度成長80~90年代のバブル経済を経て、「変化」してきた在日の側の問題でもあるだろう。では内と外の境界線は変わったのか、変わらないのか。その裂け目は埋まったのか、深まったのか。

 うーん、やっぱり、こういうネアカな乱闘が可視的に存在するっていうのはいいことじゃないのかなあ。一見穏やかで平和に見えても、親が子を殺したり、陰湿ないじめが全国津々浦々で頻発して死人がボロボロ出るような今の社会はとても健全とはいえない。朝鮮高校の生徒も国士舘の生徒も、イデオロギー対立が背後にあったわけだけど、それが韓国のように流血の大惨事に発展するのじゃなくて小競り合いをやってるうちにガス抜きができて、またそれを容認するような雰囲気が当時の日本社会にあったということだろうと思う。韓国の反共主義者たちは当時の日本を批判していたらしいけど、私はこういう緩衝地帯(日本)があったことはよかったんじゃないかと思った。もちろん、朝鮮総連の活動と韓国の民主化運動とはいっしょくたにしてはいけないけども。そして、ちょっと誤解されるかもしれないけど、人間多少のストレスがあった方が長生きするらしいから、こんなふうに「相容れない思想」の他民族が隣に住んでいて、時々はらわたが煮えくりかえるような思いをして、健全なバトルをするっていうのはかえって日本社会にとってプラスの方向に働くのではないかなあと思った。

村田喜代子「雲南の妻」

2008-09-19 23:54:47 | 本の感想
 「決断主義」のところで引用した宇野常寛×宮台真司の対談の最後の方に
宮台 でも宇野さんが「頭のいいネオコン」的立場に立つなら、時代に取り残された中間管理職的知識人や少し頭の変な連中が、安全に吹き上がれる論壇誌や文芸誌が存在するのは、いいことじゃない?居場所の提供という意味で。

という発言があって、「論壇誌はともかく、文芸誌で吹き上がっている『少し頭の変な人』って、たとえばだれよ?」とちょっと気になった。

 もしや、論座6月号で特集が組まれていた私の好きな笙野頼子さんかっ?!あ、あのロリコン嫌いと容姿コンプレックスと憑依体質はあの人独特のスタイルで、そこがいいところなんで・・・違うか・・・はっ、もしや「核シェルター」のところで引用した春日武彦氏?・・・いや、あの人は「頭の変な人」を治療する側だって・・・いやいやもっと近い知識人っていえば「素粒子」並みに怨嗟たっぷりの「モテない男」小谷野敦氏?・・・はたまた逆に「モテ過ぎて困る男」し、し、し、(以下略)
 もっと大物かもしれないけど「頭の変な」だけで思い浮かぶ人がいろいろいる文芸誌ってのはちょっといかがなものか。論座も休刊してしまうし、文芸誌もあぶないんじゃないか。
 
 先月(8月27日)の朝日新聞 文芸時評「デビュー後のレース」で斎藤美奈子さんが「最近の新人の作品はどうも換気が悪い、閉塞的だ」というようなことを書かれていた。「群像」の「新鋭創作特集」でデビューした作家たちの短編小説のタイトルが「教師BIN☆BIN★竿物語」「ちへど吐くあなあな」「ちんちんかもかも」だそうだ。
 うそだろー、と思ったらほんとのようだ。(読まれた方のブログのメモ)「ちんちん」と「あなあな」で換気が悪かったらインキンになるだろーが。とても読む気になれない。「ちんちん」はほのぼの日常系で、「あなあな」は妄想炸裂系だそうだ。元気で暇な人が読んでくれ。私的には、歯がどーしたこーしたとか、卵子がどーしたこーしたというような感覚に訴えるのもちょっとパス。もーこの年になったら、わび・さびが入ってて「遠山に日の当たりたる枯野かな」みたいなんで十分です。


 と、思っていたところ、スカートの中をさわやかな風が吹き抜けていくような滅法風通しのいい小説にあたった。村田喜代子「雲南の妻」(講談社 2002年)。図書館でたまたま借りたのだけど、やっぱり村田喜代子はいいよねー。

 ちょっと前に読んだので忘れてる部分もあるけど以下はあらすじ。

 主人公は、以前ある団体で講演会を主宰したのだが、その時の講師であった地雷撤去のボランティアをやっている男性から不思議な話を聞く。その男性が昔、交通事故で重傷を負って生死の境をさまよっていた時に見た夢の話だ。一か月もの間ずっと意識不明でいる間、夢の中でどこか別の国にいて、別の人生を生きているという夢だ。東南アジアの田舎らしい小さな家で老いた父親と妻と子どもたちとでおだやかな生活をしているというのだ。夢の中でとても幸福であったのだが、目が覚めてしまった瞬間、元の自分に返っていて、猛烈な激痛と、長い闘病とリハビリ生活が始まったという。

 主人公はその話を聞きながら25年前の自分の体験を思い出す。改革開放が始まったばかりの中国で、中国茶の輸入の仕事をしていた夫とともに雲南省に住んでいたときのことだ。希少価値のあるような高級なお茶は僻地の少数民族の村でつくられていることが多いので、夫の北京語だけでは用が足りず、英姫という通訳の娘を雇っていた。少数民族出身の英姫は才色兼備のキャリアウーマンだ。夫は警戒心の強い少数民族の村でなんとか信用を得て取引をしたいと悩む。そこで英姫がひとつの提案をする。主人公と英姫とが結婚すれば、出身の村で姻戚関係ができるからお茶の仕入れに食い込むことができるだろうと。
 彼女の生まれ故郷あたりでは女同士で結婚する風習がある。男嫌いだったり、仕事を大事にしたいのでまだ結婚をしたくないという娘が、それでは社会的に一人前と認められないので、仲の良い年上の女性のところに嫁ぐのだ。女性がすでに夫持ちでもかまわない。一緒に暮らし、茶摘みや家事で協力する。夫の2号さんになるわけではない。あくまで夫婦なのは女性の方となのだ。えー、と最初主人公は躊躇するが、だんだん英姫のことが気に入り、その気になってプロポーズをする。夫には商売のためだからと言うが、実はそれだけじゃないいろいろな心の動きもある。だけど、とうてい説明してもわかってもらえそうもないからそこらへんは黙っている。なんかわかるなあ。大学のころ、同じ下宿で生活していた上級生と毎晩ご飯を食べながら話をするのがとても楽しかった。同性同士で一緒に暮らすということはこんなに気楽で、以心伝心で、楽しいのかとしみじみ思ったものだ。「結婚したいくらいだ」とあの頃言っていた。もし、あのまま独身であの人と一緒に暮していたとしたら私はきっともっとましな人間になっていただろうとちらっと思うこともある。
 主人公はひとつ屋根の下、夫と英姫の寝室を代わる代わる訪ねて泊まる。合歓の木か何かの下に二人座り、夕飯のもやしの根を取りながら英姫は村に伝わる昔話をする。(男は黴の息子なのだそうだ)。足を開いてスカートに風を入れ、「風を入れたほうがよいのです」と言う。なんて風通しのよい小説だ。世の中は広く、いろんな人がいて、いろんな風習もあるんだということを思い出させてくれる。ちんちんとあなあなだけじゃないよ。こういう、友情でもなく、男女の恋愛感情でもない同性のおだやかな愛によって結ばれた関係ってものもあるのだ。

 やがて突然の別れがやってきて、日本に帰った主人公は半身をもぎ取られたような喪失感を抱きながらも決して雲南のことを誰にも話すことはないのだ。まるで、あの男性の夢のように、雲南で妻を持ち、幸福に暮していたという記憶が、どこか遠い別の世界の出来事だったように、ほんとうにあったことだったのかどうか自信がなくなるくらいおぼろに霞んでくるのだった。


 やっぱり村田喜代子っていいなあとそのあと図書館に行ってありったけの本を借りて読んだが、やっぱり短編も長編もよかった。よい小説を読むと、よい中国茶を飲んだような、寿命が延びたような気がする。

今野敏「果断(隠蔽捜査2)」

2008-04-05 12:40:39 | 本の感想
 最近いろいろな本を読んで思うこともあったけど、一晩たつとみんな忘れてしまっている。やっぱりささいなことでもすぐに書き留めていた方がいいのだろうか。

 今野敏「果断」(新潮社)は「隠蔽捜査」の続きだ。前作の主人公、竜崎伸也が家族の不祥事による左遷人事で大森署の署長になっている。あいかわらすの変人ぶりで、公園落成式の祝賀パーティーも、地域PTAとの懇親会も「20人以上が出席する立食パーティー」ではないからと断ってしまう。「国家公務員倫理規程」によって、接待や金品の授受はもちろん、20人以上が出席する立食パーティー以外は出席を禁止されているからだ。そんなのを杓子定規に守ってる人いるのか?署長室のドアは開けたままにしておくし、立て籠もり事件が発生すれば現場に出て行く。本庁に縄張りを侵害されてふてくされた署員に対して 「ここはノウハウのある本庁のSIT(捜査一課特殊班)に任せる」と明言してその指揮下に入れる。ケチな縄張り意識よりも事件解決のために最善の方法を優先するのだ。
 そのような竜崎に対してまったく対照的な管理職も出てくる。緊急配備の犯人をこの管内で取り逃がし、本庁の捜査官が捕まえたということに腹を立てた方面本部の管理官が「面子を潰された」と怒鳴りこんでくる。竜崎は「誰が捕まえたって同じでしょう」「ここに怒鳴り込んでくる暇があったら、実行犯の残りの一人を発見することに努めたほうがいいのではありませんか」と正論を言う。原理原則を大事にするのだ。しかしその管理官は激怒、「全員を講堂に集めろ」と言う。「たるみきった大森署員全員に活を入れてやる」などと言うのだ。ああ、眼に浮かぶようだ。

 講堂に署員全員を集めて説教なんかしても成果が出るはずがない。むしろ仕事が中断して混乱を来たすし、現場の警察官は「こんなバカに怒鳴られる筋合いはない」とやる気をなくしてしまうに違いない。こんな中間管理職の官僚主義や過剰な精神主義のせいで組織がダメになってしまうのだと竜崎はがっくりしてこの管理官を、「幼なじみ」の伊丹刑事部長(キャリア)に追っ払ってもらう。このあたりの描写がなんだか「この紋どころが目に入らぬか!」という水戸黄門のノリで、ある種の優越感を読者に持たせるのがこの本の好評の原因かなあと思う。なんせ東大法学部出のキャリア官僚(階級は警視長)ですよ。あの管理官みたいに失敗の原因を分析したり反省して後につなげるのではなく「おまえが全部悪い」と部下に責任をなすりつけて感情的に怒鳴り散らし、それを「教育」と勘違いしているバカな中間管理職はそこいら中にいるんできっと身につまされる人も多いと思う。自分の仕事の本質を忘れて組織内でいかにうまくやっていくかということだけを考えているような人が組織をダメにするのだ。そして部下たちもこういう理不尽なことを強いられて反抗もできなければ事なかれ主義に陥ってしまうのは当然だ。きっと警察の隠蔽体質というのもそういうところからきているに違いない。
 
「犯罪は日々変化している。外国人の犯罪も増えているし、犯罪が若年化し、これまで日本では考えられなかったような犯罪に出っくわすこともある。テロの脅威も増していくだろう。警察がこれまでと同じでいいはずがない。犯罪が変わるのなら、警察も変わらなければならない。手強い犯罪に対する一番の武器は合理性だと、私は信じている。」
 
 「そうだ。原理原則を大切にすることだ。上の者の顔色をうかがうことが大切なんじゃない」

偉い!こういう人に官僚として出世してもらいたいと思うが、きっと実際には何かあったときにはスケープゴートにされて隅に追いやられてしまうんだろうなあ。

 実際、立て籠もり現場にSATが突入、犯人が死亡したときに弾切れであったことがマスコミに漏れて竜崎は窮地に立たされる。「丸腰」の人間を射殺したということで人権上問題だと非難されたのだ。
 竜崎はそのようなマスコミに対しても厳しい。言論の自由なんてただのお題目で、実際には他社を抜いて特ダネをものにして売ることしか考えてない。要するにただの商業主義だと思っている。しかし、なにか問題が起きたときに世間は「生贄」を必要とし、それを扇動するのがマスコミだ。それに対して警察の組織内では責任のなすりあいをする。
 捜査や取り締まりはきれい事では済まない。違法すれすれの捜査をしなければならないこともあれば、警察官同士、見てみぬふりをすることもある。
 ぎりぎりのところで仕事をしているからだ。そして、警察はマスコミとの接点が多いのでボロが出やすい。
 それを書き立てることが、権力に対抗することだと勘違いしているのだ。本来ならば、政治家や政治をチェックするべきなのだが、政治部の記者などは、いかに与党の議員や閣僚と親しく口をきけるかということに感心している。政局を書くことが仕事であり、つまりは政治の楽屋話ばかり探しているのだ。
 本当の権力には媚びへつらい、地道に働く公務員のあら探しをやる。それが今の新聞だ。

ほうほう、かなり頭にきていらっしゃるようです。私なんかいつも思うのは事件や事故があったとき、トップが責任とって辞めて、「はい禊が済んだ」みたいなのはなんなんだろうってことだ。問題の解決には全然なっていない。第一、本当にそのトップに責任があったのかどうか定かではない。そうやって問題の本質が明らかにならないままに組織だけが温存されて、むしろ有能で良心的な人材がはじき出されるのじゃないかって思うのだ。この小説では結局事件がひっくりかえってうまく終結した(しかも真相を突き止めたのは前作でも出てきた不良はみだし刑事)けど、実際にはこんなにうまくいくことって滅多とないよなあと思う。まあそりゃ娯楽小説ですからね。

 こういう竜崎みたいなタイプのヒーローってわりと珍しいかな。いやいやこれは「踊る大捜査線」に出てくる室井管理官のタイプだ。あのドラマの魅力の一つに、まるでロボットみたいな冷たくて知性的な警察官僚が、青島刑事の毒気、もとい情熱に当てられてだんだん人間的な感情を表すようになってくるってとこじゃないかな。こういうのって、こういうのって、なんか最近の言葉にあったような・・・・そうだ、確か「ツンデレ」というのだ。
 で、思い出したのはこれ。VOICE 「KY総理」のキャラ分析(1)/斎藤 環(精神科医)。最近のYAHOO!ってサービスいいのねー。
 福田首相は「ツンデレ執事」キャラなのか~。それでわかった。「たかじん」で福田さんと太田(述正)さんの写真が並んでからかわれていたのは、冷笑的な口癖が似てるからだ。ひねくれ者と言われてたけど。
 斎藤環氏は福田さんは「かなり萌キャラ」だと言っている。私もわりと根拠なく好感をもっていて、このあいだテレビで取り上げられたバレンタインとホワイトデーの記者とのやり取りなんか無条件に笑った。ホワイトデーを知らなくっても一向にかまいません。
 それで、私が思うに、太田さんはこのキャラ立ちを大いに利用すべきだと思う。いつもダークスーツに地味なネクタイをして沈着冷静でていねいな言葉遣い、ごく稀にのみ感情をあらわにしてキュートな振る舞いをすればきっとテレビ受けして女性ファンも増えるのではなかろうか。もっともそれで太田さんの意見が理解されて同調者が増えるかどうかはわからないけども。

つづきのつづき

2008-03-26 17:13:10 | 本の感想
 それよりも宮台が危惧するのは世俗のシステムの中に取り込まれていない思想や宗教が反社会的行為を誘発するってことで、オウム真理教の引き起こした事件をみても、社会の道徳、倫理にもはや価値を見いださなくなればテロでも殺人でも平気でできてしまうってところだ。宮台は、宗教のような超越性に触れて社会の外に出てしまった存在を「超越系」と呼んでいる。
 私は宮台真司の本を何度読んでも「超越系」とか「内在系」とか全然わからない。かろうじて思い当たるのは、映画「グラン・ブルー」のモデルになった実在のダイバー、ジャック・マイヨールの話。「グラン・ブルー」では最後のシーンでジャックが何かに取りつかれたようになって、恋人の制止を振り切り、素潜りをするところで終わってしまう。なぜ彼はあんなにも潜水に駆り立てられるのか、海の底にどんなすごいものがあるのか、わからないけれども私はこの人はもう死んでしまったのだと悲痛な思いがした。その後「ガイア・シンフォニー」に出演して無呼吸潜水状態の至福体験を語っているのを見たときにはびっくりした。「ああ、生きていられたのだ」と安心した。でも結局マイヨールは自殺してしまった。死ぬ前に兄に「この世に楽園がないことを悟った人間は生きていても仕方ない」という話をしたそうだ。ああ、「楽園」なんてそんなものを知ってしまったらこんなつまんない世の中に生きている意味がなくなる。マイヨールは〈世界〉と接触する方法を知っていた。だからどんなにお金があって、家や恋人をたくさん持っていたってそんなもの至福体験のすごさに比べたら無意味だと思えば、この世=〈社会〉に帰るべき理由はなくなってしまう。

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にも、井戸の中に落ちてしまった旧日本軍兵士の話が出てくる。一日に一度だけ、太陽の光が特別の角度で井戸の底に射すのだけども、それはこの世のものとは思えない美しい光で、その光の謎を解くためだったら死んでもいいと思うほどそれに恋い焦がれて、飢えも渇きも忘れてそれをひたすら追い求めていた・・・・って老人が話す。どんな光だろう。きっと至高の美のようなものなんだろう。私はそれを読んだとき、自分だったら多分もう戻ってこれないだろうなと思った。そして、だからきっと私は一生そんなものを見ることはないだろうと確信した。私はそのようなものに遭遇しないタイプの人間なのだ。それに、遭遇してしまうことは決して幸福とはいえないじゃないか。交通事故に遭うようなものだ。「超越系」の人が現実の社会と齟齬を来さずに生きるのは難しそうだ。

 〈社会〉の外にある〈世界〉を志向して、行ったまま帰ってこなくなる者と、〈世界〉と一体化する体験を持ちながら戻ってきて〈社会〉の中で生きるという選択肢をあえて取った者との違いは何か。先日の荒川沖駅前通り魔事件のニュースを聞いて、「これってあれだな」と思った。酒鬼薔薇事件の少年と同じ「脱社会的存在」だ。
宮台 凶悪少年犯罪を取材すると、〈社会〉にコミットする理由を持たない連中が増えているのがわかります。〈社会〉にコミットするか否かのメルクマールは「平気で人を殺せるかどうか」。僕らが人を殺さないのは、殺してはいけない理由に納得するからじゃない。殺させないように育ったからです。だから殺そうと思っても殺せず、あるいは殺そうという選択肢を思いつきません。
 これは道徳教育のおかげじゃない。コミュニケーションを通じた他者からの承認抜きに自分が自分であり得ないような成育環境に育ったからです。逆に「脱社会的存在」の増加は道徳教育の失敗じゃない。コミュニケーションを通じた他者からの承認抜きに自己形成を遂げ得る成育環境が拡がったからです。そうした成育環境が拡がれば自動的に〈社会〉より〈世界〉が重要であるような若者たちが増えます。

で、「脱社会化」した者の中にはあの通り魔事件の少年のように人を平気で殺す奴もいるけど、多くのものはそんなことはしない。なぜしないでいられるのか。これは宗教的な問題を含んでいて、宮台は映画や文学の中に答えを見いだしている。それを考察したのが雑誌「ダ・ヴィンチ」での連載で、本にまとめたのが「絶望 断念 福音 映画」(メディアファクトリー)。なるほど映画評ってのはそういう意味があったのか。
宮台 連載では暫定的に答えを出しました。「奇蹟へと開かれた感受性」です。オカルトは関係ありません。(笑)レヴィ=ストロースが「野生の思考(原題:三色スミレ)」の中で、寝ころがって三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。キーワードは「ありそうもなさ」。彼は花に奇蹟を見たけど、人やその営みに奇蹟を見出す感受性が「脱社会的存在」を押し留めるんじゃないか。そういう答案を書く作品が映画や小説に目立ってきました。それだけが正答だとは思わないけど有力な解答です。

うーん、私はその映画評の本を読んでも、「ありそうもなさ」ってのが全然わかんないんできっと感受性なんてとっくの昔にすり減ってしまってるんだろうなと思ったよトホホ。
 だって、「アメリカン・ビューティー」に出てくる隣家のサイコ少年が「鳥の死骸」や「風に踊るビニール袋」に奇蹟のような「スゴイもの」を見出すっていうのだ。全然わかんない。私なんか木の下の魚の骨とか電柱に引っかかってはためく空飛ぶ魔女にそっくりな黒いビニール袋とかしょっちゅう見るけどそんなもんに〈世界〉を感じたりしない。夜、塀のそばに立つ白い着物をきたおじいさんとか、池の傍の草むらに潜む黒い雲とか、そんなんも〈世界〉ですか?たぶん、この世と別の世界がどっかで繋がってるのかもしれないけど私にはそういうむずかしいことはわからないのであんまり考えないようにしてる。怖いし。

 ともかく、「脱社会的存在」の起こした犯罪に対してこれから「戦後民主主義の頽廃」とか「道徳教育の強化」とか「生き方のモデルを示せ」とか言う人はアホ認定ね。で、「ゆとり教育」っていうのはそういう感受性を育てる教育を目指していたんで、結果的に学力低下と格差を引き起こしたのは今までの教育を受けてきた教師や親には「感受性を育てる」なんて芸当ができなかったわけ。うんとお金をかけて優秀な人材を育ててください。
 この本(「生きる意味を教えてください」)、タイトルからしてしんどそうな本だと思ったけどなかなかおもしろかった。先日、NHKの「日曜美術館」で「アウトサイダーアート」の紹介があって、田口ランディさんがしゃべっていたのを思い出して買ったのだけどよかった。私は、あの番組で紹介されたアウトサイダーアートこそ「ありえん」と思う。きっと彼らは神に近いところの〈世界〉で生きているに違いないと思うよ。

つづき

2008-03-25 21:25:10 | 本の感想
 「スピリチュアルなものと護憲との結びつき」に対する批判つづき。
宮台 「九条みたいな世俗の対象に全体性を投射してどうするんだ、おまえ」っていうツッコミは重要です。でも「じゃあ僕たちの超越的志向の妥当な受け皿って何なんだ」と、やはり僕みたいな超越系の人間は考える。精神科を受診する「心理学化した人々」もいるかもしれないけど、僕みたいな領域で仕事をする連中は社会政策的解決を志向します。社会のこういうボタンを押せば歩留り八割―周囲に迷惑をかけずに超越系の八割が満足してもらえるんじゃないか―みたいに考える。ガバナンス志向ですね。その意味で「批判よりも安堵」だと思っています。


 ドイツの人々に比べると、日本の人々は自分たちが何を感じ考えてきたのかという歴史に無自覚です。過去の失敗について反省が甘いから同じ失敗を繰り返す。ボン基本法と日本国憲法の国民的な扱いを見れば差は歴然としています。たとえばフランクフルト学派の反省がすごい。旧枢軸国にありがちな超越的志向。これをダメというだけじゃ始まらない。全体性への志向を持ってしまった超越系の人はどうしたらいいか。危険な全体性の比較的安全な代替物が必要です。代替物として、アドルノならば「美学」を、ハーバーマスならば「理想的コミュニケーション状況」を持ち出します。
 アドルノは「美学」に反するものとして近代に懐疑的で、ハーバーマスは「理想的状況」を実現するためのゲームのプラットフォームとして近代に肯定的です。そうした違いがあっても問題意識は共通で、近代において「美学」や「理想的状況」が不可能であることも先取りされている。不可能性を踏まえるという意味で、後期ロマン派に回帰しています。日本ではそうした問いがありましたか。皆無です。だから憲法九条のような具体物が崇高なものとして立ち現れるのです。後期ロマン派と区別がつかない。

 うーん、きびしい。
 で、ここまで書いたとこでちょっとこれとあれとは違ってる気がしてきた。「イカの哲学」は憲法九条に全体性を投射してるっていうより、地球全体を「ガイア」という一つの生命体と捉えてそこに志向している。って平和憲法を地球規模に広げようってとこはおんなじか。それで私なんかは、唯でさえ地球温暖化対策の国際会議で削減目標や地域格差でもめにもめてるのに「ガイアなんて無理無理」、って思う。それに今度は人間だけじゃなくって動植物の生存権も絡むわけだから、シーシェパードのような過激な環境保護団体がいっぱい出てきて、開発反対とか資源の搾取反対とかって闘争を始めそうで嫌だな。中沢新一氏みたいな俗世を超越してる人ばかりじゃないからかえって紛争のネタが増えて、今だって世界中で悲惨な民族紛争や利権争いが起こってるのにそれが「ガイア」くらいで収まるはずがない。波多野氏がそういう発想になったのはシベリア抑留でソ連の思想教育を受けたからじゃないかな。もちろん絶対に共産党員にはならないと突っぱねたと書かれているけど、これって全体主義的な発想じゃないか?「天皇」とか「社会主義思想」とかに殉じるのは嫌だけど地球のためだったら死んでもいいって思ったのじゃないかな。
 とはいえ、私は中沢新一氏のファンだから中沢氏が言うのならそうなんだろうと思っちゃうんで、これはこれで大事にしまっておこう。

 それから田口ランディさんもそうだけど、宮台は改憲派で、民主党の小沢一郎の言ってる「国連の枠組みの中で紛争解決など国際貢献をするために海外派遣」という方向で改憲をするのに賛成している。というのはこのままいくと、ずるずるとどこまでもアメリカの世界戦略に引きずられるかわからないという心配があるからで、だから決して「日米同盟強化」のための憲法改正ではないのだ。今の自民党が目指しているのはアメリカの傘の下での改憲であるから安部政権が改憲を言い出したときは反対のスタンスをとったということを言っている。ここらへん参照。(2007年11月09日の日記)だから憲法改正を実現するには左翼平和運動家の前にまず「日米同盟堅持」の保守と対決して倒さないといけない。そのための政権交代。だけどまず難しいんじゃないかな。イラク戦争のつけがどっと来てアメリカが極度に衰退するとか、日本も費用負担しろって言われて大不況になるとか、新自由主義の蔓延で貧困層が世界的に増大して世界革命が起こるとか、そんな状況にでもならなければ。

田口ランディ「生きる意味を教えてください」

2008-03-25 11:20:55 | 本の感想
 先日、中沢新一・波多野一郎「イカの哲学」(集英社新書)を読んだのだが、「ああ、これはマズイ」と思った。どこがどうマズイのか、うまく言えないのだが、これじゃあ誤解されるばかりで全然説得力がないと思う。私はライアル・ワトソンの本を何冊か読んでいるから「イカから世界平和へ」という発想はピンとくる。こんなのだ。

ライアル・ワトソン「未知の贈りもの」 (ちくま文庫) 巻末の解説 「地球存亡の危機をのりこえるために」 高橋 巌 から

冒頭から読者は思いもかけぬような問いかけを受ける。はじめてこの島に漂着した夜、海中にからだから光を発しているイカの大群を見て、ワトソンはこう問いかけるのだ。イカの目には虹彩、焦点調節可能なレンズ、色やパターンを識別できる敏感な細胞をもつ網膜などが備わっている。一体、これ程までの情報量をイカはどうするのだろうか。その複雑眼球は莫大な情報量を提供ぢてくれるはずなのに、それを処理する脳はあまりにも原始的なのだ。まるで高価な望遠レンズを靴のあき箱にとりつけたような、気ちがいじみた組み合わせになっている。答えはひとつしかない。海洋観察において、イカにまさるカメラ台があるだろうかイカは俊敏、迅速、しかも神出鬼没。昼も夜もあらゆる深さに、あらゆる水温に、世界の海のどの部分にも、何十億といる。それらは眼に見えない高次の生命存在のための感覚器官として存在させられているのではないだろうか。
 読者は本書全体を通じて、この奇妙な問いの答えを見出す作業に参加させられる。次第に明らかになってくるのは、この高次の生命存在が著者自身でもあれば、読者自身でもあり、そしてその背景にあってわれわれを支えている「地球(ガイア)」でもあるということである。地球というすばらしいシステムの中で、真に魅力的で衝撃的なことは、われわれ一人ひとりの中に「イカ的なもの」がある、ということだ、と著者は語る。「われわれは地球の目であり、耳であり、われわれの考えることは地球的思考である。」(42頁)


 イカの高性能すぎる眼はイカ自身のために存在するのではなくて、「ガイア」という高次の生命存在の感覚器官の一部なのであり、私たちはみなその「ガイア」を構成する生命集合体なのではないか、という発想だ。私は昔ユングの本を読んで感動したものであるし、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の自主上映に協力したクチでもあるので、このような考え方はわかるし中沢新一氏が「イカから世界平和を考えた」早世の哲学者波多野一郎氏の著書にぴんときたのもわかる。だけどもこれはマズイ。アブナイ。第一、言葉が通じないだろう。戦争を起こしたい人を説得するにはポール・ボースト著、山形浩生訳 「戦争の経済学」みたいに「結局はすごく損になる」って言わなきゃだめだろう。・・・って、検索をしていたらこの本の批判もあった。(nandaブログより  「戦争はなぜ起こるか?」  「戦争の経済学」

 

 戦争がなぜ起きるかという問題はさておき、昨日、田口ランディの対談集「生きる意味を教えてください」(バジリコ)を読んでいたら、宮台真司との対談の中で田口さんが憲法九条擁護論の在り方にすごく違和感を感じると言っている部分があって、「ああ、これだな」と思った。つまり、宮台真司が「なぜ悪いのか」と解説していて、それが私の「マズイ」を理論的に説明してるみたいなのだ。
田口 だけど、世界は一つだとか、すべては繋がっているという言葉がなんとなく今の時代はかつての左翼思想と妙な結びつき方をしているように思えます。思想的に破綻したものの断片がスピリチュアルに流れこんでいる・・・・みたいな。なんか怖いんだけど、その延長線上にとても心情的に憲法九条は永遠に守らなければいけないとか、第九条を世界中の憲法にしようとか、すごくそういうことを言う人々が出てくる。「広告批評」という雑誌が憲法改正問題で著名人にアンケートをとったときに、改憲派というのがなんと数人しかいなかったんですよ。100人にアンケートをとって回答率が80人くらいで。

私も消極的な改憲派なんです。だからあたしを含めて改憲派だったのは、しりあがり寿さんと私と橋爪大三郎さんともうひとりくらいなんですよ。あとの人々は、吉本隆明さんも含めてみんな憲法九条は大事だからという考え方なんですね。私はもちろん憲法九条を守ろうという人々のなかにもものすごくグラデーションがあるとは思いますよ。ただ、ある種の人々の意見をずっと読んでいくと、そこに「イマジン」が聞こえてくるんですよ、ジョン・レノンが。それとこの問題とがいっしょくたに語られてしまう気味悪さというのがあって、何かわからないんだけれども、この問題ってニルヴァーナの世界とつながってる気がしているわけです。

宮台 なるほど。田口さんの指摘される「九条擁護」と「スピリチュアルなもの」の結びつきは今後顕在化するでしょう。ランディさんのおっしゃった、現実的なものとスピリチュアルなものとが結びつく危険については、1940年代にドイツのヘルムート・プレスナーという思想家が「ロマン主義の陥穽」という形で指摘しました。ドイツのナチズムがいかにして立ち上がったのかという疑問に対する答えとして述べられています。ただし検閲を恐れてプレナーはナチズムのナの字も用いていませんがね。
 プレナーの答えは、ドイツの初期ロマン派が後期ロマン派へと短絡されてプロセスの延長線上にナチズムが出てきたというものです。

これは「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書)が出る前の対談だ。
 ロマン派的感受性とは、たとえば、峻厳なる山並とか荒れ狂う海原であるとかに、〈社会〉を超えた〈世界〉を見出すような感受性だ。私たちは神が特定の対象(シャーマンだったり自然現象だったり)を依り代にして「降臨」するという考え方になじみがあるが、ロマン派的感受性では降臨するのは「世界を超えた神」ではなく「世界という全体性」であるというのだ。なぜこのような考え方がドイツで起こったかというと、政治的混乱のせいでキリスト教会が世俗の権力に靡くほかなく腐敗堕落してしまったため、人々がキリスト教的なものへの期待を抱けなくなり、宗教の代わりのものを求めた結果だという。
宮台 プレナーは、社会を生きる人々の大半に宗教への志向があり、それを受けとめる宗教が存在しないと、ロマン派的感受性―「峻厳なる山並」や「荒れ狂う海原」が〈社会〉を超えた〈世界〉を示すという類―が生まれるとします。そこは〈世界〉が、我々のアクセスを拒む全体性として―不可能なものとして―想像される。だから「峻厳」であり「怒濤」です。これが初期ロマン派的感受性です。これが短絡されて「ドイツ民族」「アーリア第三帝国」「ヒトラー」が崇高だといった形で、単なる内在に過ぎないものを全体であるかのように想像する作法が拡がります。アクセスできる内在として―可能なものとして―全体を想像する頽落した作法が拡がります。こうした頽落形態が、ナチスにつながる後期ロマン派的な感受性です。


 支えるものと支えられるものとの関係が崩れ、あらゆるものが正統性を欠いた恣意的な事実性として現れるのが、近代成熟期=ポストモダンです。「何か全体的なものに資するべくアレがありコレがある」とは思えなくなる社会です。だからポストモダンは超越系にとって辛い時代です。戦後、大東亜共栄圏がダメになり、天皇陛下もダメになりました。昨今では日本国民であることの意味も分らない。愛国を騙る政治家も安倍晋三のようなクソだらけ。いったい自分たちの全体性に対する志向を何に向けたらいいんだ。そう考えると、三島由紀夫や石原慎太郎ならずとも超越系は苛立たざるを得ません。
 そこで、行き場を失った全体性への志向=超越的志向が、憲法九条や平和主義に向かう。本当は「祈り」の対象にしてはいけない政治的形象を「祈り」の対象にしてしまう。その意味で「受け皿の不在ゆえに頓挫した超越的志向を誤射する」というプレナーのロマン主義的感受性の規定が当てはまります。だからランディさんのおっしゃる「スピリチュアルと憲法九条との結合」は不思議じゃない。旧枢軸国と言われた所では、急速な近代化を達成するために後期ロマン派的な疑似超越の形象を利用した後、敗戦によって疑似超越の形象が除去されて、超越的志向が行き場を失う急性アノミーが襲ったのです。この急性アノミーが、日本では非現実的平和主義や全体主義的左翼運動をもたらしました。


長いので一休み。

林壮一「アメリカ下層教育現場」

2008-03-23 23:09:12 | 本の感想
 「貧困大国アメリカ」(岩波新書)と一緒にアマゾンで買った「アメリカ下層教育現場」(光文社新書)を読んだ。著者はアメリカでスポーツ関係のフリーライターをやっている人らしい。ブログがあった。
 ベガスと並んでカジノで有名なネバダ州リノで、大学の恩師に頼まれて著者は「チャーター・ハイスクール」の非常勤講師を勤めることになる。「チャーター・スクール」とは一般の公立学校よりも少人数制できめ細かく独自性のある指導を行うことのできるよう90年代に全米で作られた新しいタイプの学校であるらしいのだが、著者によると現在は一般の学校で落ちこぼれてしまった子の受け皿的な底辺校になっているという。ウィキペディアにもう記述が・・・。そんな学校で「日本文化」の授業を行うのだ。そりゃー、大変だ。教室にはスナック菓子の空き袋が散乱し、授業中に UNOやハッキー・サック(蹴鞠みたいなもんらしい)をやる者、MP3プレーヤーを聞く者、トイレに行ったきり帰ってこない者・・・(マリファナとかやってる)。著者は生徒たちを張り倒してやろうかと一瞬思うが、アメリカで生徒を殴ると逮捕されてしまう。保釈金でアルバイト料なんか吹っ飛んでしまうのでそこはぐっと我慢。工夫に工夫を重ね、体当たりでぶつかってゆく。生徒の集中力が50分くらいしか持たないから、2限目は公園に行って相撲やサッカーやボクシングなんかをやらせる。文字通り体当たりだ。
 生徒のほとんどは貧困層で家庭も崩壊しているから勉強のモティベーションはひどく低い。そういう子らに何を教えるのか。日本のアニメや漫画、童謡、干支などで興味を引き、文章を書かせたり、ディスカッションをさせたり、彼らも最後には自分の名前(カナ)と簡単な単語くらいは書けるようになる。すごい!
 その授業の具体的な様子に「これは並大抵じゃないなあ」とあきれたが、だんだんわかってくる生徒たちの過酷な家庭環境にも驚く。こんな状況から這い上がるのは厳しいだろう。

 著者の授業はおもしろいと生徒の評判を呼び、他のクラスから勝手に聞きに来る子も出てくるが、どうも偏見のあるらしい校長はそれを快く思わず、半年で授業を打ち切ることに決める。残された時間に生徒たちに何を伝えるかを考え、著者は最後に学歴のため苦しんだ自分の体験と、高校時代の同級生が起こした殺人事件を素材にして語る。学ぶことの大切さ、人を見る目を養うこと、決してあきらめずに努力すること。この本の体験もすごいけど、著者自身のそれまでの人生もすごいと思う。ヤンキー先生とかいう人よりもよっぽどましだ。

 その後著者は教壇に立った経験を活かすため「ユース・メンターリング」というボランティア活動に参加する。これは何らかの問題を抱える子供に対し、親でも教師でもない第三者の大人が1対1でサポートし、「子供の友人になること」を目標に掲げて行う活動らしい。この、BIG BROTHER & BIG SISTERという組織は100年以上もの歴史を持つ由緒あるボランティア団体だという。
 インストラクターは、アメリカ社会の暗部にも触れた。
 「低所得者たちのコミュニティーは、常識はずれの大人が独自のやり方で子供と接しています。だから、トラブルが増える一方です。こういった場所では、10歳になるかならないかの歳でアルコール、ドラッグ、喫煙、凶器の携帯などを覚えてしまいます。
 誰かが支えてあげなければ、善悪の判断ができない子供になってしまうのです。貧困エリアは、ドラッグの売人ギャングのメンバーになってしまう子が後を絶ちません。」

それこそ、まさに著者がチャーター・ハイスクールで感じたことで、こういうトラブルを抱える子どもたちをできるだけ早くにサポートすることがこの団体の目的であるらしい。著者はヒスパニック系の10歳の男の子のBIG BROTHREになって小学校に行き、いっしょに給食を食べたり遊んだりする。私が注目したのはここのところ。著者は小学校の校長に話を聞く。
 「担任教師が授業中に生徒と同じ空間にいるのは当然ですが、この学校ではランチルームにも、昼休みの校庭にも必ず先生が何名か立っています。また、我々ボランティアがブラブラすることで、風通しが良くなっているように感じます。大人の目の届かない所で苛めなどのトラブルを防ごうという策なのですか?」
 
「児童に規律を守らせる、マナーを教え込むためには、離れたところからでも常に大人が見ていなければいけませんからね。大人が沢山いれば、ちょっとした会話からでも教育的指導ができますから」
「今、日本では小中学校生の虐めが深刻な問題になっているのですが、非常にいいサンプルだと思いましたよ」
「ええ。いつもオープンにしておく。苛めは大人の見えないところで発生しますから、効果的な作用を齎しているように感じています。やはり年に数回は、そういう問題と直面しますので目を光らせていますよ。学校全体でチェックしています。」

学校にそのような第三者の大人が常にいるということは、問題のある生徒にいい影響があるだけでなく、学校全体が風通しがよくなっていじめの防止にもなるというのだ。

 それで思い出したが、日本でそういうことをやっているのが「よのなか科」で有名な藤原和博校長の和田中学だ。
 参考(WEBちくま 藤原和博×宮台真司対談・司会:鈴木寛)
 今日の「たかじん」で福岡の中学生が大暴れという事件が取り上げられたが、これも学校に第三者の応援が必要だと思った。ここまでひどいと一時的に隔離はするべきだとは思うが、そこからちゃんと教室に帰れるまでに態度を回復させるには学校の先生だけでは無理だ。校長だろうが教頭だろうが、普通の先生は暴力をふるうような生徒に対応する能力はない。そういうスキルをもった人を応援に呼ぶべきだ。それにこの件の背景には地域の問題もあるようで、地域の人たちの意識の改革や協力も必要不可欠だと思う。それにしても「たかじん」でコメントする人たちの意見の下らないこと。(いや、下らないということがわかるようになっただけでも宮台真司の本を読んだ効果があったってことかな)。宮台真司は「親や教師のバカが感染らない教育」ということを言っている。今までのやり方ではもう全然通用しないんだ。

堤未果「ルポ貧困大国アメリカ」

2008-03-21 15:07:31 | 本の感想
 火曜日の「爆笑問題のニッポンの教養」『「ニート」って言うな!』の本田由紀先生だったのだけど、例によって太田光が「自分もニートだった」とか、事あるごとに「自分は自分は」と問題を矮小化し、結局「自己責任」というところに持って行こうとするので「違うだろ!」とテレビの前で思わず怒鳴ってしまった。これは番組制作上の計算づくの煽りか?と半分は疑ったが、太田光がそんな台本に素直に従うとは思えないので多分自分の言いたいことだけを喋っているに違いない。私は、2004年に「日本の若者 20%が無職状態」というNHKの調査結果が出た時2ちゃんねるのスレがすごく伸びたことをおぼえているが、「何十社も受けたが採用されなかった」「好きでニート・フリーターをやってるわけじゃない」という当事者の悲痛な声が投稿に反映されていて、私でもこれはただならぬ事態だと思った。今検索していたら「年収200万円以下が1000万人超す」という記事も出てきた。もはや個人の努力ではどうにもならない深刻な状況で、そういう若年者の失業や過酷な労働状況が構造的に作り出されているということを認めようとしないのはただのアホだ。国を挙げてワークシェアの仕組みや社会保障の強化について考えていかなくてはいけないし、負担すべきものは均等に負担しなきゃいけない。太田さんの挑発じみた言い方は、論点をすり替えるばかりで議論が全然深まらない。新聞あんまり読んでないだろう。番組の「リサーチャー」がまとめてきた情報をナナメ読みしてないか?


 貧困・格差は今や世界的な問題で、しかもグローバリゼーションの中から構造的に生み出されているということを気づかせてくれる本を読んだ。堤未果「ルポ貧困大国アメリカ」(岩波新書)
 驚愕のルポルタージュだった。
 例えば、私が最近のサブプライムローン問題についてどうしてもわからなかったことは「こんなローンの返済額じゃ今の年収で払えるわけないということになんでローン組む人が気がつかなかったのか」ということだったが、そうじゃなかったのだ。低所得者がハメられたのだ。もっと言えば、最初から喰いモノにするつもりで金融機関が知識に乏しい低所得層にローンを組ませたのだ。「持家」を餌にして!最初から自己破産してたりクレジットの信用に問題があるような人をターゲットに勧誘し、高い金利でローンを組ませ、払えるだけ払わせて、払えなくなったら家を取り上げて売却する。不動産価格が上昇を続けていた間はそれで利益が出てうまくいったのだ。不動産バブルがはじけた途端にその仕組みがまわらなくなった。しかし、債権は他の金融商品とうまーく抱き合わせて世界中にばらまかれているから、損失を被ったのは詐欺的勧誘をしたローン会社とは限らないはずだ。クソ!詐欺じゃないか。それで人生をめちゃめちゃにされたのは騙された人たちだ。アメリカでは至るところに、このような貧困層を喰いモノにするシステムがある。

 例えば学校。
 2002年春、ブッシュ政権は新しい教育改革法「落ちこぼれゼロ法」(NO Child Life Behind Act)を打ち出した。その具体的なやり方とは、
 全国一斉学力テストを義務化する。ただし、学力テストの結果については教師および学校側に責任を問うものとする。良い成績を出した学校にはボーナスが出るが、悪い成績を出した学校はしかるべき処置を受ける。たとえば教師は降格か免職、学校の助成金は削減または全額カットで廃校になる。
こういうの、日本でもどっかやってなかったっけ。アホな知事がいるところだったかな。
 しかし、その法律の目的は別のところにあったのだという。「落ちこぼれゼロ法は表向きは教育改革ですが、内容を読むとさりげなくこんな一項があるんです。全米のすべての高校は生徒の個人情報を軍のリクルーターに提出すること、もし拒否したら助成金をカットする、とね」それで、裕福な地域の高校は個人情報の提出や軍の関係者の立ち入りを拒否できるが、助成金に頼っている貧しい地域の高校は提出せざるをえない。それによって貧しい家庭の子どもが軍に勧誘され「大学に行ける」「職業訓練が受けられる」「医療保険に入れる」などとウソ八百の勧誘を受けて続々とイラクに送られるのだ。そして健康を害して帰国しても十分な医療は受けられないで前よりももっとひどい貧困状態に陥る。

 メキシコなど南米から流入する移民は、アメリカ産の穀物との価格競争に敗れた農民が多いという。そりゃあヘリコプターで種を播くような大規模農業に比べたら家族経営の農園なんか負けてしまうのは当然だ。借金を作って土地を手放し、職を求めてアメリカに来るが労働ビザがない移民には低賃金で危険で汚い仕事しかない。家族みんなで働いても年収二万ドルちょっとくらいしかないのだ。大学に行くなんて夢のまた夢だ。それで軍のリクルーターの口車にうかうかと乗ってしまうのだ。

 騙されるのは若者だけではない。イラクなど危険な戦闘地域で軍の仕事を請け負って働かされる派遣労働者、彼らもターゲットになったのだ。クレジットカード会社の多重債務者情報などを入手したこういった派遣会社から直接勧誘の電話があるのだという。そして「高額の収入が得られる外国の仕事」(大ウソ)と偽ってイラクに行かされ、何の安全対策も取られない状態で炎天下の過酷な肉体労働に従事させられる。劣化ウラン弾に汚染された水を飲んで白血病になっても保証もなく医療費も支払われない。アメリカ人だけではない。このような民間の派遣労働者は世界中から集められているという。いったい、それでだれが儲かるのか?派遣の仕組みは入り組んでいて複雑だが、
 たとえば、パブロがフィリピンの新聞広告で見た派遣会社は「ガルフ・ケータリング社」だが、その会社は「アラガン・グループ」という別の会社の下請けをしている。アラガン・グループはユタ州にある「イベント・ソース社」の下請けだが、そこはまたテキサス州のKBR社の下請けをやっている。
「KBR社の親会社はどこなんですか?」
目が回りそうになった私がそう聞くと、そこで始めて新聞などでよく見る会社の名前が出てきた。
「ハリバートン社ですよ」
 ハリバートン社とは、現副大統領であるディック・チェイニーが1995年から2000年までCEOを務めた石油サービス・建設企業だ。

わあ、チェイニーって、この人?そりゃーイラク撤退に反対するはずだわ。どんどんお金が懐に入ってくるわけだから。

 こういう瞠目的な事実が次々と報告される。アメリカ的新自由主義というのは福祉や教育、医療など、本来民営化してはいけない部分まで民営化してしまったため、個人の抱えるリスクがおそろしく増大し、格差と貧困を再生産してしまっているのだ。たとえば医療。
 2005年の統計では、全破産件数208万件のうち企業破産はわずか4万件に過ぎず、残り204万件は個人破産、その原因の半数以上があまりに高額の医療費の負担だった(U.S.Census Bureau 2006)
 ごく普通の電気会社に技師として勤めていたホセも2005年に破産宣告をされた一人だ。
「原因は医療費です。2005年の初めに急性虫垂炎で入院して手術を受けました。たった1日入院しただけなのに郵送されて来た請求書は1万2000ドル(132万円)。会社の保険ではとてもカバーし切れなくてクレジットカードで払っていくうちに、妻の出産と重なってあっという間に借金が膨れ上がったんです」

 日本だと盲腸の手術は6万4200円だ。4,5日入院しても30万を超えることはまずない。出産も、日本では一律35万円の出産育児一時金制度が出るが、アメリカにはなくて、出産費用の相場は1万5000ドルだそうだ。おそろしいことだ。これじゃあ、安い保険しか入れない人はちょっと病気をしたり子どもを産んだりしてたら貯金なんか吹っ飛んでしまう。じゃあ、医者が儲けているのかといえばそうじゃない。訴訟に対応した損害賠償保険の莫大な掛け金、そして会社ごとに違う複雑な保険の事務処理に医者たちも苦しめられている。さらに保険会社が医療機関ごとに出す評価が悪くなるとその病院は契約認定医制度から外され、その会社の保険を受けている患者はそこにかかれなくなるのだそうだ。そんなことってあるか!病院も経営を重視する株式会社型の巨大病院チェーンなるものが急成長しているらしい。おそろしい。
 「市場原理」が競争により質を上げる合理的システムだと言われる一方で、「いのち」を扱う医療現場に導入することは逆の結果を生むのだと、アメリカ国内の多くの医師たちは現場から警告し続けてきた。
 競争市場に放り込まれた病院はそれまでの非営利型から株式会社型の運営に切り替えざるを得ず、その結果サービスの質が目に見えて低下するからだ。
 その顕著な例の一つに、1990年代半ばに全米一の巨大病院チェーンに成長したHCA社がある。同社は現在、全米350の病院を所有、年商200億ドル、従業員数は2万5000人を超える世界最大の医療企業だ。
 同社はコスト削減のために、採算が合わない部門や高賃金の看護師などを次々に切り捨て、患者には高額な請求をして利益を上げてきた。
 同社が所有する病院に課した営業ノルマは利益率15%だが、各病院の平均利益率はそれをはるかに超えた18%という驚異的数字を達成している。

 ノルマを達成した病院の経営責任者は高額のボーナスをもらい、達成できなかった場合はボーナスなしなんだそうだ。経営責任者はころころ変わり、医師と看護師は過重労働でボロボロになっている。そして患者は高額の医療費を請求される。なんでもかんでも民営化すれば経費節減になってうまくいくってわけではない。決して民間の自由競争に任せていてはいけない部門もあるのだ。アメリカが「市場開放」とか「とどまるためには走り続けなくてはいけない」とか言っても聞いてはいけない。その結果みんな不幸になってしまうかもしれないじゃないか。ちゃんと書いてあった。
 現在、在日米国商工会が「病院における株式会社経営参入早期実現」と称する市場原理の導入を日本政府に申し入れているが、それがもたらす結果をいやと言うほど知っているアメリカ国民は、日本の国民皆保険制度を民主主義国家における理想の医療制度だとして賞賛している。

 前会頭のチャールズ・レイク氏はアヒルが出てくるCMの保険会社の日本代表だったじゃないか。そら「市場開放」「グローバル競争」って言うわな。保険会社しか儲からない仕組みなんだから。何が「相利共生」だ!アメリカに帰って貧困者の保険をなんとかしなさい!

 「ニッポンの教養」で本田由紀さんも言っていたが、このアメリカ型の自由競争社会というのは、みんなを石臼みたいなものに入れてごりごり挽いて、一握りの生き残ったものだけが勝ち組になるという過酷な仕組みだ。アメリカンドリームなんていうのは絵空事で、アメリカは世界中から大量の移民を入れて奴隷のように低賃金で働かせ、借金漬けにし、軍に入隊させ、一生浮かび上がれないように使いつぶすのだ。実に巧妙に仕組みができている。そんな国を見習ってどうする!そんな国の軍備拡大の無間地獄に巻き込まれてどうする!結局みんな多国籍企業に富を吸い取られてすっからかんになってしまうんだ。
 もはやアメリカ型の大量生産、大量消費システムは行き詰まりがきているということを自覚して、今の現状を反面教師にして日本の進むべき道をみんなで考えなくてはならない。すごいショックをうけた。この本には。

佐藤優「国家の崩壊」メモ その2

2008-03-16 00:09:21 | 本の感想
 なかなかはかどらないけど、とりあえずメモ。

 宮崎学さんは「ソ連を崩壊させた主犯は、ずばりゴルバチョフであった。」と言っている。ゴルバチョフが「アホだった」から、構造改革をしようとして失敗し、結果的に国家を崩壊させてしまったというのだが、「アホ」というのは言い過ぎで、せいぜい「人心を理解できなかった」とか「理想主義に走った」とか「先を読むのが下手だった」という程度で、どっかの国の政治家とは格が違っていると私は思った。そして、硬直化した官僚政治によって停滞した社会を変革しようとして失敗してしまったけれども、その混乱期にエリツィンをはじめとする剛腕でかしこい政治家がポコポコ出てきて、結果的にはなんとか乗り切ったと言えるんじゃないか。もうこの時期から20年後の未来を見据えていた政治家がいるのだから。
 こんなディープな人脈を持つ佐藤氏のような有能な外交官を逮捕した検察は、いったい何を考えていたのかと思う。小説「警官の血」に出てくるように、目先の小さな逸脱を問題にして巨悪を叩くチャンスをパアにしてしまったようなものだ。まさか、国民の注目を何かから逸らすためとか、ロシアと日本が友好を深めてはまずい勢力がいるとか、外務省内部(あるいは政治家)の勢力争いのとばっちりとか、そんな理由じゃないだろうな。あー、まさか、知り過ぎているからマズイとか・・・・。


 エリツィンという人は事故で手に障害があったものだから、軍隊に入れない、技師にもなれない、それで建築現場の監督からスタートした人だという。「そこで、どうやって納期に合わせて完成させるか、手抜きでぶっ壊れないようなものをどう造るか、そういうところから始まって、人の手配、工事の段取りのエキスパートになっていった。そういうふうに、土建からスタートして党の幹部になっていった人なんです。」こういう現場主義の人だから民衆の感情を理解していて一種の「愚民政策」をやったのだそうだ。
 ゴルバチョフは世界革命を考えていたから、ロシア人のモラルを変えなければならないと思っていた。つまり、酒飲んでヘロヘロになっているのはよくないということで、アルコールの規制。タバコも体によくないから、できるだけタバコの値段を上げて、排除する政策を採った。前に申し上げたように、手を付けてはいけない酒、タバコ、ジャガイモ、黒パン、この四つのうちの酒とタバコに手を付けて抑制しようとしたわけです。

 これに対してエリツィン時代は酒とタバコをどんどん開放して、できるだけ安くおさえて、庶民にいいものが届くようにする。密造酒も事実上取り締まらない。ジャガイモ、黒パンは逆ザヤにして、いくらでも安くていいものが手に入るようにする。しかも、ポルノ全面解禁です。簡単にいえば、欲望に関するものは全部OKだった。それから違法ソフトなども取り締まらない。それは、エリツィン自身の民衆観に基づいているもので民衆の欲望に関するところには権力の手で触らない。という基本方針を貫いているんです。

 それからエリツィンは、暴力装置を完全に統制できるとも思っていないんです。暴力装置は国家を維持するために必要である。ただし、要所要所で肝心なときに動かせればいい。権力を維持するために必要最小限の暴力があればいい。その代わり、自分の権力に刃向かってくるんだったら徹底的にやる。そういうやり方です。
 ゴルバチョフはそうじゃなかった。均一な法の支配でやろうとしていたんです。

 現在のプーチンも、法の支配で均一な市民社会を作ろうとするのは、大きな間違いと認識している。プーチンは、そんなやり方では国民が言うことを聞かないのはよくわかっているんです。同じ法律であっても、あるときはやられて、あるときはやられない。今の日本の国策捜査みたいなことをやっていると、人々は権力者を非常に恐れるようになるんですよ。プーチンは、そこをわかっている。

 それから、この民間暴力装置とか教会とかに関係した利権構造にも、プーチンは絶対に手を付けようとしていないです。これも、エリツィンの政策を完全に継承しています。エリツィンプーチンも、裏の世界を統制しようとしないで、裏の世界と表の世界の間にきちんとした棲み分けを確立しているんです。

 「民間暴力装置」というと日本では「ヤクザ」のことですね。これを弾圧すると、拡散して「カタギ」との境界線があいまいになり、一見合法を装うからよけい性質が悪くなるってよくいわれますよね。「手を付けてはいけない領域」に決して手を突っ込まないというのが賢い政治家ってことか。日本ではなんだろうな。道路関連の利権を本気で追及しようとしたら死人が出るってこの前宮崎哲弥さんが言っていたけど、むしろこういうところで検察はがんばってほしいと思う。

 で、このエリツィンのブレーンにブルブリスというめちゃめちゃ頭のいい人がいるのだけど、この人が、「ソ連末期には三種類のエリートがいる」といったのだそうだ。
 一番目のエリートは、〈ソ連共産全体主義制のエリート〉。この人たちは古い組織は動かすことができるけど新しい時代に適応できないし改革の障害になる。
 次に第二のエリートグループがある。これはいわば〈偶然のエリート〉だ。つまりオレのように偶然エリツィンの側にいてエリツィンが勝ってしまったから下の方からいきなり引き上げられた連中。この連中は何かやりたくても組織を動かす能力がない。しかし特権に執着しそれを決して手放したくない。この〈偶然のエリート〉が別の意味で改革の大変な障害になっている。
 第三のエリートは〈未来のエリート〉。「今の十代後半から二十代の連中だ。それより上の世代の連中は、みんな多かれ少なかれ旧いソ連の垢が染みついた過渡期の人間だ。そうした人間たちに代わってもらうために、この十代後半から二十代の連中を、いま勉強させている。西側にも出てもらう。それで、市場経済の仕組みもわかって、民主主義というもののおかしいところも、西側のものの考え方や思想の問題点も全部わかったところで、彼らが表に出てくる。少なくとも10年はかかる。とりあえず、産声が上がるまで5年。どうにか表で働けるまであと5年はかかる。」
 で、この〈未来のエリート〉がロシアの未来を担っているわけだけど、一番目と二番目のエリートはみんな自分も含めて「狼」だからこの三番目のエリートを食ってしまうおそれがある。だから、彼らが無事育つまでの間、狼の腹が減らないようにしておかなくてはいけない。その上で徐々に狼たちを舞台から外に出していかなくてはいけない。「これがいまロシアの政治家にとって最大の課題だよ」と言うのだ。
 なんと賢い!そして今確実にそのエリートが育ちあがって活躍しているのだ。

 日本にあてはめると「これってあれかな」とかいろいろ想像したり、あるいは想像を絶するおそろしい状況だったりして楽しい。いや、ソ連崩壊後の2、3年、日本では「ロシアはハイパーインフレが起こって、年金生活者が窮乏している。この冬が越せるのか」とか「貧富の格差がひろがってマフィアが暗躍してむちゃくちゃ」とかいろいろ言われていたけど佐藤さんはこの時期のロシアはとてもおもしろかったと言っている。はじめて資本主義に触れてうまく立ち回る人と怖がって貧乏になっていく人、知識人階級の百家争鳴、出版ブーム、日本からバッタ品を輸出して大儲けした政治家とか、ここらへんをもっと知りたいものだ。
 
 日本の政治家はよく中国や日本の古典なんかを愛読しているようだけど、そんなのよりも佐藤さんの本を読んで研究するといいと思うな。ソ連崩壊前の国民が「ふにゃー」としている社会の停滞した空気とか改革が掛声倒れになって失敗するところとか早めに手をうっておけばよいことを先延ばしにして流血の大惨事になるところとか、いろんなことが身につまされて勉強になると思うな。

佐藤優+宮崎学「国家の崩壊」

2008-03-11 22:47:45 | 本の感想
 まだ途中までしか読めてないのだけどちょっとメモ。この本の概略はアマゾンのレビューやブログ(「喜八ログ」)などで正確に述べられているけども、ロシア方面に関して全く知識のなかった私にとっては佐藤氏のエピソード一つ一つが驚愕ものだった。ソ連邦成立の過程で血みどろのイデオロギー闘争があったということは少しは知っていたが、それだけでなく、民族、宗教などでも複雑極まりない歴史を抱えていたのだ。おおざっぱに言うとソビエトというタガでそういったものをぎゅっと縛っていたものがペレストロイカ以降ばらばらになって手の付けようのない大混乱をきたしたということらしい。アゼルバイジャンとかチェチェンとか、ナゴルノ=カラバフ紛争以降の民族問題は何が何やらさっぱりわからなかったが、わからないはずだ。ものすごく根が深くて支離滅裂なのだ。
 「なぜソ連は崩壊したか」という問いに対する答えの政治的考察もおもしろかったが、私が一番興味をもったのは民族紛争に関するエピソードだった。
 Ⅳ 諸民族のパンドラの箱  「トルキスタン」を五分割したスターリンの狙い
 民族問題というのは、複雑で危険を孕んでいます。いったん噴出すれば、たちまちのうちに数万オーダーの虐殺と百万オーダーの難民を出して、多くの人々を苦しめてしまう。

ナゴルノ=カラバフ紛争のとき、1988年の2月か3月のに、タジクのドゥシャンベにデマが流れるんです。「ナゴルノ=カラバフ紛争で追われてくるアルメニア人が、ドゥシャンベに逃げてくる。そうなると、住宅がなくなるぞ。」それを聞いて、みんなカーッとし始める。街で衝突が起きて、軍隊が出勤することになる。そして、その後、タジクは内戦になって、もう修羅場です。強姦がたくさん起こったり、反対派の連中をぶっ殺して皮を全部剥いで吊り下げるというような殺し方をしたり、メチャクチャなことになった。「アルメニア人が来るぞ」という流言飛語から、一気にそこまで行ってしまった。それで、戒厳令が布かれて、全面的な内戦になってしまう。

この中央アジア地域というのは民族と国と宗教とが複雑にからみあっていてもう、ぐちゃぐちゃな状態だ。
 
アメリカは、民主化だとか言って、この地域に手を突っ込んでマッチ・ポンプをやろうとしたんですが、火を付けたはいいが、消せなくなっちゃったわけです。マッチ・ポンプではなくマッチ・マッチになってしまいました。消えるどころか、イスラーム原理主義者がワァッと動き出しているというのが、キルギスの最近の情勢で、そこから発火して煽られているのが、ウズベクなんです。これは、すべてソ連時代の負の遺産によるものなんです。

 ああ、ソ連のアフガニスタン進攻の際にアメリカがタリバンを支援しておいて、後で手が付けられなくなって放り投げたみたいな・・・。例えば、ウズベキスタンでは、ウズベク人の部族を抑えるために少数派のタジク人の大統領が据えられた。今のカリモフ大統領で、この人はタジク人の多いサマルカンドという都市で育ったもんだから、ウズベク語がしゃべれないんだって。そういう大統領だから民族的な反発も強い。
 そこで、カリモフさんは、後ろ盾にアメリカを使ったんです。アメリカにとっても、ここは石油も出ますし、も埋まっていますし、パイプラインを通す場合も重要ですし、ここを押さえれば中国を後ろから抑えることにもなる、ということで、メリットがある。そこで、カリモフがどんな人種弾圧をやっても、アメリカは目をつぶったんです。
 ところが、2005年になると、アメリカの方が、あまりに行き過ぎだということで、ウズベクに対する見方を変えた。そうしたら、今度はモスクワがそれを支持するということを言った。それと同時に、カリモフの方も、アメリカとの距離を置いて、モスクワの支持だけでは自分たちの身を守れないということがあるから、慌てて中国に行くわけです。こういうことが、いま起きている。

民族問題に石油と金の争奪戦という大国の思惑がからんでめちゃくちゃになるって、アフリカとおんなじじゃないか。(以下、長々と引用)

 民族なんていうファクターが、こんな形で、こんなにも人々の感情を揺り動かすなんて誰も想定していなかったわけです。ソ連の為政者も、共産党も、ジャーナリストも、学者も、世界のメディアも、誰も考えていなかった。

 だからこそ、いま私は、排外主義的ナショナリズムに対して非常に警戒心を強くしているんです。要するに、民族感情、民族意識というのは、ちょっとさわり方を間違えると、物凄く感情を煽って、どんな合理性に反することでも平気で惹き起すということです。こんなことは、利害からいったらマイナスだっていうことは、当事者はみんなわかっていながら、何かわからない力が人を動かしてしまう。その力というのが何なのか、ソ連の民族問題を始め、民族問題をずっと見てきた私にもよくわからないんです。


 ある時期、共産党で民族問題の洗い直しをするというので、ロシア科学アカデミーの民族学人類学研究所が、少数民族の研究を政策的な観点にたって、パンフレットなどをたくさん作ったんです。
 私もそのとき、チームに入れてもらって、いろいろと手伝ったんですが、調べれば調べるほど、どんどん問題は紛糾して、解決の展望が失われていくんです。蓋をしておいて開けなければよかったのに、いったん開けてしまうと、どんどんどんどん出てくる。本当にパンドラの箱とはこういうことなのかと嘆息しました。いい話は何にも出てこないで、悪い話ばかりが出てくるんです。

 「歴史の見直し」というのが、ペレストロイカ時代の主題だったわけですが、このときには楽観主義があったんです。みんなが真実の歴史データを集めてきて誠実に議論をすれば、必ずひとつの単一の歴史観に収まるだろうという楽観的な見通しがあったんです。
 ところが、それを数年やってみて、ロシア人は、そういうことは不可能だと確信したんです。まず、「みんなが誠実になることはない。人間は誠実な生き物ではない」ということを思い知った。次に、データというものは、嘘データを弾くことはできるけれども、本物のデータは山ほどあるわけだから、そのうちのどこを摘むかという点で常に恣意が働くということも思い知った。それから、摘んだ本物のデータが同じでも、摘んだものの関連をつけて物語を作るのは、個々の作家の能力に依存するということもわかってきた。だから、共通の歴史認識を作りだそうとか、そういうことは言わなくなったんです。
 そんなことをやってみても、悪いことしか起きないということがはっきりしたからです。

 そうなのか・・・。

 韓国の新大統領はそういうことを知っていて「未来志向」とか言っているわけだな。だけど、私はやはり日韓の歴史認識問題では日本が謝罪しなきゃいけないし、それを、やれ「反日」だの「売国」だのという人は間違っていると思う。民族の物語がそれぞれ違うのは当然だけど、向こうから見た場合にはこのように見えるかということは理解しなくてはならないと思う。よく、「何度も謝っているのにまた蒸し返す。どれだけ謝ればいいのか」という人がいるけど、それは向こうが納得するまで謝るべきだと思う。公式に謝っておいて、国内では非公式にアッカンベーをするかのような発言をするから激怒されるのだ。もうそういう政治家はすぐやめてほしいと思う。そういったこ拗れかえった状況を全部理解した上で「ここはひとつ大人になって握手しましょう」というのならいいのだ。「ラッキー!」とか「えっ、歴史問題ってなーにー?」では決していけない。日本の政治家はそういうことを言いかねないから(麻生さんとか)世界中からバカにされるのだと思う。

貴志祐介「新世界より」

2008-03-09 16:47:47 | 本の感想
 新聞広告を見ただけでこの本の凄味が伝わってきた。でも例のごとく、まず上巻だけを買って帰って読んだところ、他のことをみんな忘れてしまうほど引き込まれてしまって次の日にはもう下巻を買いに走っていた。間違いなく傑作だ。今年これ以上おもしろい本に出会えるとは思えない。

 私は「黒い家」を読んだ時のおそろしさが忘れられない。「幽霊や怪物なんかより、やっぱり一番怖いのは人間よね」と思った。「リング」や他のホラーは読んですぐに売り払ってしまったが「黒い家」は手放す気になれず、未だに私の本棚で不吉なオーラを放っている。そしてテレビで保険金殺人のニュースを聞くとすぐにこの本のことが頭をよぎる。和歌山毒入りカレー事件のとき、テレビのワイドショーに逮捕前の林健治容疑者のインタビュー映像が出ていて、彼が話していたことに私はショックを受けた。彼はこう言った「お金というのは、寂しがりやの生き物でね、仲間を呼ぶの。」つまりお金のある人のところにお金は集まってくるって言いたかったらしいのだが、私はそれを聞いてぞっと鳥肌が立った。お金が意思を持つ「生き物」だなんて初めて聞いたからだ。だけどそのような人をその後よく見かけるようになった。「黒い家」の初版が出たのが1997年6月、和歌山毒物カレー事件が1998年7月。「保険金で生活していた夫婦」だなんてまるで「黒い家」そのまんまじゃないか。貴志さんは予知能力でもあるのかと不気味に思った。
 そして、この「新世界より」でも何か暗い予測を思わせるものがあった。

 昨年は、宮部みゆきさんの本をたてつづけに読んだ。著者は「人間の中には、到底矯正できない邪悪さを持った者もいる」ということをいろんなバリエーションで繰り返し書いている。私たちの心の中にも邪悪さは多少なりともあるけれど、宗教や倫理や教育によって矯正され、押さえつけられているためになんとか円満に社会生活を送ることができる。中にはそういうストッパーが働かない人も一定割合いる。そういう、私たちの常識を超えた冷酷さや攻撃性を持つ人間がいるということを、この社会はほとんど認識しておらず、それに対応できていないのだということを宮部さんは言っているようで、私は「そうかなあ?」とちょっと不快になったのだった。

 以下、ネタばれ注意!!

 この小説の世界では、ほぼすべての人間が呪力を持っている。子どもたちは厳重に監視され、少しでも攻撃的であったり、自己コントロールを欠くような兆候があれば消されてしまうらしい。猫にさらわれて。

 最初は「理想的な社会じゃないの」と思った。だって、呪力で物を持ち上げたり食料を煮炊きしたり壊れたものを修復したりできるのだ。石油がなくても生活できる。だけど移動図書館と自称するロボットが教えたこの世界の歴史はおそろしいものだった。一般人の超能力者への恐怖と憎悪、戦争、文明崩壊後、一般人が奴隷となり超能力者の頂点に残忍な皇帝が君臨する暗黒時代。そうか、だって銃器を使わなくても一瞬にして他人の頭を爆発させることができるのだ。あるいは遺伝子操作で別のものに変えたり、ひどい苦痛を与えたりすることだってできるのだ。なんでもありだ。
 「『神聖サクラ王朝の研究』という書物は、先史文明の歴史学者J・E・アクトンの箴言、『権力は腐敗し、絶対権力は絶対的に腐敗する』を引用しています。奴隷王朝を支配するPK能力者は、人類の歴史に類を見ない、文字通り神に近い絶対権力を手にしましたが、その代償もまた、途轍もなく大きなものでした。」

「それぞれの王の死後には、生前の業績に応じて諡(おくりな)が付けられましたが、それとは別に、一般民衆のつけた悪諡(あくし)も残っています。第五代皇帝、大歓喜帝の即位に際しては、民衆の歓呼と喝采が三日三晩止まなかったという記述があります。単に誇張した表現だと思われていたのですが、後に、これが事実であったことがわかりました。最初に拍手をやめた者から百人までを、祝典の生贄としてPKで人体発火させ、苦悶する黒い炭の像を造って王宮に飾ることになっていたからです。民衆は、このことから、大歓喜帝に阿鼻叫喚王という悪諡を奉りました」

 これ、ソ連共産党大会でこんなエピソードなかったか?最初に拍手をやめると粛清される危険があるために30分も拍手が続いたとか。(訂正と補足 2.12:どこで読んだかを探してみたら、出典はソルジェニーツィン「収容所群島1」であった。引用しているブログ。)以下、背筋がぞくぞくするような残虐な王朝の歴史が続くのだが、イメージしただけで人が殺せるというのは凄まじいことだ。もはや「万人の万人に対する闘争」の時代を経て、主人公の生きるこの現代では人間の攻撃性は厳重に封印されている。万が一人を殺せば自分も死ぬようになっているのだ。一見理想郷に見えたこの世界が、実は薄氷を踏むように危うい世界であることが後にわかる。どんなに教育しても攻撃性をコントロールできない子どもというのはどこの世界にも一定割合存在するのだが、この世界の場合それが甚大な被害を及ぼすことになる。地獄だ。私はつくづく呪力などというものがなくてよかったと思った。進化というものはときどきその種を滅ぼす方向に進むことがあるが、これは特別な能力の進化が社会と文明を滅ぼすおそろしい凶器となるような状況を描いている。

 全力をあげて子どもたちを観察し、少しでも心配な傾向のある子は『腐ったリンゴ理論』によって即座に排除する。時には記憶を操作することまでして。だけど、主人公たちはそれに疑問を抱き、大人たちの裏をかこうとするのだ。果たしてそれが吉と出るか凶とでるか。生き延びるためにここまでしなくてはならない社会とはなんだろう。
 そのような厳重な管理にもかかわらず、何十年かに一度出現する業魔と悪鬼。私は過去、主人公の住む町に出現したという業魔の話を読みながら、ぞっとするとともに「これは、すっとしただろうな」と思った。生まれてからずっと攻撃性を封印されていたのだ。思いっきり人を殺しまくるのは、私たちがゲームでモンスターを殺るような最高のストレス解消になっただろうよ。亀山郁夫氏は中学2年のとき「罪と罰」を読んで、まるで自分が殺人者になったようなリアル感を覚えたとおっしゃったが、私はこの本を読んでそのような感覚を覚えた。おそろしいことだ。
 「Kには攻撃抑制の欠如と、愧死機構が無効という、この二つの重大な遺伝的欠陥があった。Kと近い血縁関係にある人々は、同じ欠陥を持った遺伝子を宿している可能性が高いの。だから、Kの血統は、五代まで遡って、あらゆる分枝で絶やさなければならなかった。」
 「そのときは、バケネズミを使ったの。最も人間に忠実なコロニーから、精強な兵士を選んで、四十匹ほどの部隊を編成したのよ。そして、暗殺用の装備を与えて、悪い血統を受け継ぐ人間を、一晩のうちに急襲したの。もちろん、相手に気づかれたら、バケネズミなどひとたまりもないから、作戦は慎重の上にも慎重を期して行われたわ。それでも、バケネズミの半数は失われたんだけど、どっちみち、残った個体も処分する必要があったから、まあ、完璧な成功と言っていいでしょうね。」

 ああ、このバケネズミたち!最初、使役に使うためネズミなんぞを進化させるとは、なんと非効率的で悪趣味かと思ったのだが、その理由が最後にわかったとき慄然とする。女王の君臨するハチ型の社会で民主主義思想に目覚め、狂った女王を幽閉する野狐丸は、賢すぎて気味が悪いが彼の言い分にも一理あると思った。民主主義型ネズミの社会?いいんじゃないの。だけどバケネズミに対する視点が最後にひっくり返ったとき、その意味合いに慄然とした。ネズミたちは人間を「神様」と呼ぶ。この世界で人間は神なのだ。「鳥獣保護官」は「死神」と呼ばれている。単に保護するのではなく、ネズミの社会を監視し、時には有害な要素を見つけてコロニーごと滅ぼしたりするからだ。まさに「神」。だとすれば神殺しが企てられるのは当然だ。そしてひっくり返った視点で見たとき、私たちの今の世界が持つ危うさも見えてくる。はたしてこれは全く無関係な別の世界の物語であると言えるか。つくづくおそろしいと思った。

今野敏「隠蔽捜査」

2008-03-06 20:13:57 | 本の感想
 すっかり警察小説づいてしまって、今度は吉川英治文学新人賞受賞作の「隠蔽捜査」(新潮文庫)
 普通の警察小説は最前線の刑事が主人公のことが多いが、これは出世街道まっしぐらの警察官僚いわゆるキャリアが主人公だ。警察庁長官官房総務課長の竜崎伸也。超堅ブツで、息子に「東大以外は大学じゃない」と言ったり、妻に「家庭はおまえが守れ、おれは国を守る」などと言う。(よくできた奥さんみたいでよかったですね)。総務課っていうと庶務や担当事業の割り振り、国会、閣議などからの質疑の受付、広報など、おおよそ事件とはかかわりのなさそうな部署だ。警官の不祥事があったとき、長官の声明文を起草したりもするらしい。

 都内で連続殺人事件が発生した。その犯人としてあがってきたのがなんと現職警官であった。被害者はいずれも過去に残忍な少年犯罪を犯し、数年で出所して社会復帰を果たした者たちだ。事件を起こした警官は、少年犯罪の軽い量刑に憤りをおぼえていたようだ。警官の不祥事が相次ぐ中で権威の失墜をおそれた上層部はもみ消しを画策するが、竜崎はそれを阻止しようと全力を尽くす。

 竜崎は事件を故意に迷宮入りさせようとする画策を、何が何でも阻止しようとしている。良識の問題ではない。優等生的なモラルでもない。拠って立つものが失われるかもしれないという切実な危機感のせいなのだ。警察自体の権威が失われたら、当然警察官僚の権威も失われる。学生の頃からあらゆるものを犠牲にして手に入れた警察官僚のポストだ。それが価値を失うというのは我慢がならない。

 少々頭が固い人みたいだけど、これぞエリートの本道。
 で、隠蔽工作をするよりも、最初から情報開示をした方がダメージが少ないと判断したのは「国松元長官狙撃事件」の前例があるからだというのだ。えー、それ、私は初耳だった。(なぜ記憶が薄かったのかと後でよくよく考えたが、その頃は下の子がまだちっちゃくって、毎日ウンチ、しっこで明け暮れていたのだった)
 国松元長官狙撃事件はまだ未解決の事件であるが、いろいろと奥が深いようだ。
 1995年に起きた、国松孝次警察庁長官狙撃事件の捜査本部は、公安部長の指揮のもと、南千住署に設置された。刑事部ではなく、公安部が指揮を執ったのは、当時のオウム真理教の犯行であるという見方が強かったからだ。
 捜査の過程で、小杉巡査長の名が浮かび上がる。捜査本部で取り調べを行ったところ、「国松長官を狙撃したのは、自分である」と自供してしまった。そのことをマスコミ各社宛てに投書した者がいたのだ。世間は騒然となり、公安部長は「虚偽の投書である」といったんは否定した。しかし、日々マスコミの追及は強まり、ついに公安部長は、小杉巡査長の自白は事実であることを認めたのだった。
 事件隠蔽の責任を取らされ、このときの公安部長は更迭されている。

 この事件から学ぶべきことは、狙撃事件そのものよりも、その後の隠蔽工作によって警察の信頼が揺らぎ、まったくの逆効果になってしまったということだと竜崎は考えている。
「マスコミに知られたら、それこそおまえだけじゃない、警視総監や警察庁の刑事局長の首が飛ぶぞ」
「ばれなければいい」
「事実、東日の福本は勘づいていた」
「非公式な情報だ。ちゃんと裏が取れなければ報道はできない。」
「白を切ればいいだけのことだ」
「どこかが抜くぞ。新聞に限らない。テレビの報道番組だってある。週刊誌だってある」
「警察を敵に回したがるマスコミはいないよ」
「甘いな。北海道警の裏金作りを世に知らしめたのはテレビの報道番組だった。マスコミは従順な飼い犬じゃない。ときに牙を剥くんだ。警察庁の広報を担当している俺が言うんだから間違いない」

 まったく、そのとおりだ。最近ではインターネットというものもあるから、どんなに報道規制をしてもどこかから漏れ出てくる。私の感想として、現職警察官の殺人というのはワイドショーネタで2、3回見れば飽きてしまうだろうけども、もしもそのことを警察が組織ぐるみで隠蔽したとしたら、ぞっとして決して忘れはしない。一生忘れないだろう。要するに事件そのものよりも、その事後処理をどうしたかの方が大事だ。
「何かの工作をすると、それが暴露されそうになったときに、また新たな工作が必要になる。その新たな工作は、最初の工作よりもエネルギーが必要なんだ。そして、それが次々と連鎖して、しまいにはとてつもない大問題に発展してしまうわけだ。そんなとき、人は思うんだ。ああ、最初に本当のことを言っておけばよかったなとな・・・・・・・・」
ああ、こわい。ほんと、こんなことにエネルギーを割くなよ!と思う。


 竜崎は朴念仁でちょっとヤな奴だけど保守本流のエリートだ。抜群に頭が切れて、正しい判断力もある。自分が泥をかぶっても組織を腐敗から守ろうとする男気も持ち合わせている。こういう本当のエリートが日本には不足してるんだろうなあと思う。私ら庶民は国のことは全然わからないのだから本来は官僚や政治家にまかせておくべきなのだけど、最近怒っているのは税金の無駄遣いそのものではなくて、全体的に官僚組織が形骸化、空洞化してしまっていて物事に適切に対応する能力を欠いているのではないかという不安があるからなのだ。経済のグローバル化、財政の逼迫、労働人口の減少、そういった流れの中でつじつま合わせではなくてちゃんと正しく物事を見通して、方針を示してくれているのか。それならばマッサージチェア買ったくらいで問題にならなかっただろうと思うのだ。みんなが怒るのはこのままいくと借金まみれで大変なことになるということを、国のトップクラスの頭のいい人がなんで計算し損ねたのかということだ。自分の代だけ安泰ならいいと思っていたのだろう。とんでもない奴らだ。そして責任の所在がわからない。この竜崎みたいにほんとに「国のために命をかける」という硬派の官僚がもっともっと必要だ。

 この竜崎がこの後、左遷されて警察署長になった続きの小説もあるらしいのでぜひ読んでみようと思う。

 

佐々木譲「うたう警官」

2008-03-04 22:28:34 | 本の感想
 ちょっと硬い本を読み始めるとすぐに嫌気がさして読みやすい本に逃避してしまう。「うたう警官」(角川春樹事務所)「警官の血」でハマった佐々木譲の警察小説。「うたう」は内部告発することのようだ。

 美人婦警が殺された。道警本部は元恋人である刑事の津久井のしわざと断定し、指名手配。危険であるため射殺も許可すると通達を出した。しかし、この津久井は実は道警本部の裏金問題で道議会の証人喚問を翌日にひかえていた・・・・。そう、この小説は警察の裏金問題を背景に組織の腐敗と隠ぺい体質をえぐったものであった。

 「札幌には、定年したあとに競走馬を買った署長がいたな。どこかの署長は、歴代、定年後は必ず札幌に御殿みたいなうちを建てている。いくらなんでもひどすぎないかという話は、方々で出ていた。警察庁に戻ったとき、こっちで作った女に銀座で店をやらせたのは誰だった?」


 ああ、私は勘違いしていた。裏金を作ったのは表立って支出できない使途(情報提供者への謝礼など)に使われていたのだと思っていた。そうではないのだ。情報提供者に支払ったと見せかけて、プールし、管理職のふところに入っていたのだ。そして十分な活動費が支払われないため刑事が自腹を切って捜査をすることになり、借金をこさえて麻薬の横流しをしたりするようになるのだ。(この小説の話だけど)。ここらへんは「警官の血」とあわせて読むとよくわかる。
 刑事課であれ、生活安全課であれ、所轄署のベテラン捜査員たちは、長い年月をかけて管轄地域にひそかにそのエス(情報提供者)を育てる。何か事件が起こり、警察官には見えない社会の情報が欲しいとき、エスが役に立つ。刑事たちは、自分のエスにときおり取り締まりの情報などを教えて借りを返す。本来ならエスとの関係維持のために捜査協力費が支出されることになっているが、それは建前だ。捜査協力費は、副署長以下が管理する裏金の原資となる。刑事たちは架空の協力者の領収書を作って会計課に渡すが、金が下りてくることはない。そのため、エスを維持する費用の捻出に、無理をする警察官も出てくる。郡司警部は、その典型だった。彼は、拳銃摘発の実績を上げるために、覚醒剤の密売買にまで手を染めて金を作っていたのだ。

 ひどい、ひどすぎる。そして、この小説では本部のキャリア組が郡司警部に罪をすべて被せてうやむやに終着させようとしていたのに、部下であった津久井刑事が議会で証言することになったのであわててそれを阻止しようとしているのだ。

「おまえさんは、津久井が証言することをどう思う?うたうことだと思うか?道警の警官としてもってのほかのことか?許せないか?」
 テストされているようだ。新宮は言葉を選びながら答えた。
「この二年間、あの郡司警部事件以来、組織は変わるべきだと思うようになりました。裏金を作り、報償費の不正流用問題は、すっきりさせるべきです」
 佐伯が訊いた。
「釧路方面本部長だった原田さんの告発はどう思う?あれは『うたった』ことになるか。それとも、警官としてとるべき正しい態度か」
「正しいことだと思います」
「おれも、そう思う」
 町田が言った。
「現場の警官で原田さんを悪く言う人はいないでしょう」

おお、原田さんとは「太田総理」に出てた人だ。北芝さんもちょっと違ってるぞ。現場の警官は苦労しているのだから裏金くらい許されるっていうんじゃなくて、裏金が作られるために現場にお金がまわってこなくなるのだ。捜査員がピーピーいって借金をしたりしてるのに署長だの本部長だのが愛人に貢いでいてもいいのか?裏金問題っていうのはそういうものだったんだ。そして、多分、警察だけじゃなくて、官公庁や地方の組織でもそのような問題が大なり小なりあったのだろうと思う。やっぱりそこを正してからでなきゃ、信頼もへったくれもあったものじゃない。
 あの時、原田さんが「カードを持ってる」とおっしゃってたのはつまりそこの使途の部分のことだったのかな?やれやれ・・・・

佐々木譲「警官の血」

2008-02-14 00:10:27 | 本の感想
 佐々木譲「警官の血」読了。
 先日、もしもおもしろくなかったら損だからと最初に上巻だけ買ってきて読み始めたのだけど、ご飯も食べずに夜中までかかって一気読みしてしまった。そしてさっそく次の日下巻を買いに走ったら、平積みしてあるはずのこの本がもう一組しか残っていなかった。うちの近所でこれだけ売れてるっていうことはすごく売れてるってことだ。直木賞取れなくても全然かまわないと思うな。

 久しぶりにすらすら読める本を読んだ気がする。ダブルミーニングとか、深まる謎とか、そういう不健康なものも全然なくって、まるで「取ってこい」と言って棒切れを投げたらワンワンいいながら一直線に走って行って、戻ってくる犬みたいな素直さだ。あー、やっぱり犬はいいなあ。わかりやすい。猫みたいに無関心を装いながら通り抜けざまに足踏んで行ったり、背中を向けて外を見ているふりをしながら寝っ転がって本を読んでいる私の肩にしっぽをかけてきたり、そういうわかりにくい表現はまったくしないからなあ。(なんのこっちゃ!)ともかく、犬のようにわかりやすくて誠実でちょっとハートウォーミングな本だった。

 感想は省略。ろくな感想は書けないから。

 うちの近所にも駐在所があるのだけど、最近はどうも駐在所勤務が敬遠されている気がする。大変そうだから無理もないと思うが、若い駐在さんが来ても子供が生まれて手狭になってくるとすぐに転勤してしまって、最近では名前を覚える暇がないくらいだ。この前の駐在の奥さんは犬好きで、とても気さくなよい人だったが、町内会が違うのでお礼を言う機会もなく引っ越して行かれて残念に思った。もっと官舎を広くきれいに改築すればいいのに。あんな狭くて古くて、トイレだって汲み取りじゃ、子ども三人もいて気の毒だったと思う。現在の駐在さんは単身赴任らしい。それも気の毒だ。
 うちの夫が子どもの頃の思い出話をしていて、「小学校5年の夏休み、駐在さんの実家のある島に一か月くらい泊まりに行って、毎日泳いで魚釣りばかりしていた。」と言ったので耳を疑ったことがある。親戚でもなんでもないのだが、学校から帰ると毎日駐在所に遊びに行っておやつをもらって食っていたそうだ。夏休みも、駐在さん本人は仕事があるからこっちにいて、主人だけがおじいさんおばあさんのいる家に一か月も泊って遊び呆けていたそうで、とんでもない奴だと私は思った。その駐在さんがよそに転勤して行ったときには、送別会を開いて三日三晩「飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ」で、地域の人みんな集まって名残を惜しんだとか。古きよき時代っていうよりとんでもない所だ。駐在さんって大変だなあ。今でも駐在所って「よろず相談所」みたいなところがある。

 この本でも、地域の頼れる「おまわりさん」であることに命を賭けた誠実な警察官の姿が描かれていて、そのこまごまとした対応ぶりを読むのが楽しかった。結末もスカッとしていて、これは「大当たり」の本ですよ。

桜庭一樹 二作

2008-01-26 23:56:27 | 本の感想
 「私の男」(文芸春秋社)
 
 とっくの昔に読み終えていたのに感想を書く気になれなかったのは、「素粒子」に続いて、これがおそろしく孤独な人間の話だからだ。直木賞受賞の際の選考委員の講評なるものが、
「受賞作は、いろいろ言ってもしょうがない、で終始する不思議な作品。我々は大きなばくちを打ったのかもしれない」

とかって微妙なのもわかる気がする。きっと「警察小説」書いた人は、軟派の美青年がキャーキャー騒がれてるのを体育館の影から憤怒に燃える目で睨みながら「血と汗にまみれて武道に励んできた俺たちがなぜモテない!」と地団駄踏んで悔しがってる体育会系青年の気分に違いない。私は直木賞とかってどうでもいいが、「赤朽葉家の伝説」ではところどころライトノベルっぽい言い回しが出てきて「あらっ?」と思ったのに、この小説ではそういうのがなくてよいと思った。

 押入れの死蝋化した死体っていえば思い出すのは、宮部みゆきの「楽園」(文芸春秋)だ。あれも、秘密を家族の中に抱え込んでしまって二十年も閉ざしていた話だ。私は「楽園」を読み終わったとき気分が悪かった。どこが楽園じゃー!と思った。この書評にあった
人々は幸せを求め、必ず、ほんのひとときであれ、己の楽園を見いだす。他から見て、それがいかに奇妙で、危うく、また血にまみれてさえいても。そして、そこに支払った代償が、楽園を過酷な地上にひきずり戻すのだ、と。

という解説にそのときは納得がいかなかったのだが、「私の男」を読んだら理解できた気がした。確かに、たとえ死体を抱え込んでいたとしてもこれは「楽園」に違いない。だけど、家を締め切っていると厭な匂いがしてくるように、その閉ざされた楽園は空気が澱み、何もかもが腐って悪臭を放っている。ああ、そうだった親子の名前は腐野というのだ。

 先週(1月19日)のTBS「王様のブランチ」で桜庭一樹さんのインタビューがあって、主人公「腐野花」という名前は「成長できないで子どものまま朽ちていく女性」という意味をもたせているとおっしゃっていた。たいへんわかりやすい。冒頭、私がカチンときた傘を盗むシーンも、「何の罪悪感もなく盗みをする人。道徳意識が欠落していて、何をするかわからない怖い人。」ということをこれで示唆したのだそうだ。ああ、確かにそんな感じがした。そんな人のそばには絶対寄りたくない。

 社会から隔絶したところで、血の繋がった者同士で愛し合っていれば孤独でないかといえば、そうでもないのだ。どんなに血が繋がっていても、濃密な肉体関係をもっていても、けっして人は孤独が癒されるわけではないのだ。きっと必要なのは宗教みたいなものだろうなあ。えーっと、こういうことを誰か書いていたっけな、と思いだしてみたら内田樹氏だった。
内田 樹/釈 徹宗「インターネット持仏堂2 はじめたばかりの浄土真宗」(本願寺出版社)

 レヴィナスはこう書いています。

「形而上学的欲望は、まったく他なる何ものか、絶対的に他なるものを志向する。(・・・・・・)形而上学的欲望は帰郷を求めない。なぜなら、それは一度も生まれたことのない土地に対する欲望だからだ。(・・・・・・)欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する。」(『全体性と無限』)

 レヴィナス先生のフレーズはほんとにいつ読んでもかっこいいですね。「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」なんていうフレーズを読むと、心拍数が上がって、ざわざわと鳥肌が立ってきます。
 そんなふうに身悶えするのは私だけかなあ。

いや、かなりの人が身悶えすると思いますよ。
 ま、それはさておき。
 「いまだ存在しないもの」の探求、それが欲望です。
 愛する人を抱きしめているときに(えっと、釈先生の方に差し障りがあるようでしたら、「可愛い子どもを」にしておきましょうか?)もし愛撫が「欠如」であるなら、ぎうっと抱きしめたことによって欠如は満たされ、ガソリンを満タンにしたときのように「はい。どうもありがとうございました」と言って、ほいほいとどこかに出かけてしまう・・・・・・・ということが可能なはずです。でも、実際にはそんなことって起こりませんよね。
 いくらぎうぎう抱いても「満たされる」ということは起きません。
 むしろ、自分がどれほどこの人を求めていて、その不在を耐え難く思っているか、ということばかりが身を切り裂くように実感される、というものです(よね)。
 というわけで、欠如が満たされ得るものが「欲求」欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昂進するようなものが「欲望」と呼ばれます。


 えーっと、ここで内田氏は「欲望」の定義について語っているのではなく、レヴィナスの「善」の概念について、「善」とは「欲求」されるものではなく、「欲望」されるものだと述べていることをわかりやすく解説しているのだ。
 善とは、「自分は何をしたらよいのかわからない」のだが、「自分は何をしたらよいのかわからない」という仕方で世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」(言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるもの)を欲望するという事況そのものを指しているのです。

 えーっと、「絶対的な遅れ」というのは「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)で「始原の遅れ」と言われていたが、私たちはこの「始原の遅れ」を有するがゆえに、絶対的に先んじているもの(神)を焼けつくように欲望し、欲望することの中にすでに善への志向性があるということなんだな。うわー!頭が・・・頭が・・・・・・

形而上的な文章を読んで鳥肌が立つような快感を味わいたい人は原作にあたってくれ。

 ともかくこの小説の親子は決定的に間違っているぞ。この世に存在しえないものを求め続けていたら腐っていくのだ。それはやっぱりある種の地獄に違いない。
 でもちょっと、花が過去を封印したつもりで自分を偽って結婚生活を送りながらだんだんと壊れていくとか、夫の尾崎美郎があのときの幽霊の意味をじわじわと悟っていくとかそういう将来を描いた続編を読んでみたい気がしないでもない。

 「青年のための読書クラブ」(新潮社)
 
 これはライトノベルっぽくておもしろかった。カトリック系の名門女子校といえば「マリア様がみてる」(コバルト文庫)を思い出すがそんなこそばゆくなるような純情ノーテンキな場面は全然ない。むしろ「名門お嬢様学校」なるものをカリカチュアライズしてある。時として悪意すれすれだ。家柄や容姿によってクラブ活動が階層化されていて、頂点に選挙で選ばれた「王子」と呼ばれるスターが君臨するとか、女の子たちがみんな「ぼく」とか「君」とか言っているのもマンガちっくで吹き出してしまった。だけど、廃墟のように古びた煉瓦造りのクラブハウスで、はみ出し者たちがひたすら紅茶を飲みながら本を読むだけという「読書クラブ」の存在は魅力的だった。ああ、目に浮かぶようだ。私もそこにいたらきっと在籍していたに違いない。そういえば、高校の頃よく遊びに行った文芸部がちょっとそんな感じだった。古い木造のクラブハウスで、歴代の部員達が持ち寄った本がたくさんあって、アニメージュに連載されていた「風の谷のナウシカ」も「宮沢賢治詩集」もみんなそこで教えてもらった。残念なことに、その部室も「読書クラブ」そっくりに老朽化していたため、本を置くなと厳しく言われて(床が抜けるから)私が3年の頃にはすっかり片づけられてしまったのだったが。

 一見、はみ出し者の寄せ集めで、日陰にひっそり存在しているかに見える「読書クラブ」が、実は学園内の大事件や流行の影の仕掛け人だったり、学園の創立者にかかわる仰天の秘密を「クラブ誌」によってひそかに語り継いでいる唯一の集団であるというのが愉快だ。さらに、卒業生たちが年を取っても自然発生的に寄り集まって、会員制喫茶店でひたすら本を読んでるっていうのも素敵だ。これこそが「楽園」だ。だれが何と言おうと、絶対「楽園」だ。