読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

出戻りネコ

2008-11-05 16:31:38 | Weblog
 やっと貰い手が見つかったと思ったネコがたった一晩で戻されてしまった。

 娘が「貰い手を探すから」と言って拾って来たのに本気で探していなかったためとうとう生後6か月(推定)のふてぶてしいネコになってしまったシロ(仮の名)に、やっと先日声がかかった。スーパーに張ったポスターを見たというおばあさんで、死んだ飼い猫にそっくりだという。そのスーパーの駐車場で待ち合わせて顔見せをし、「まだ予防注射が一度だけだから二度目の注射が終わってからお渡ししましょう。」ということになった。去勢済みだと言うと「大事にされてるんですねえ。」とおっしゃる。そうです。昔と違っていろいろと面倒になってきています。

 この10年で二匹のネコが車にはねられて死に、一匹が行方不明になった経験から、できるだけ室内飼いにしようと悪戦苦闘している。みんなうちの近所に捨てられていたネコだ(ネコを捨てるな!)。最初に飼い始めたネコは国産の粗悪なエサのせいで腎臓を悪くして、死ぬまで高い療法食しか食べさせられなくなった。去勢が遅れると独特のおしっこ臭に悩まされ、悪臭の発生源を探して床を這いずりまわる苦行の日々。消臭スプレー代もバカにならない。風邪をひけば所かまわずくしゃみをして四方八方に青っ洟を飛び散らせる。いろいろと痛い目に遭ってきたので最近は拾ったらすぐ動物病院に駆け込んで、耳ダニ、ノミ、回虫の駆除、ワクチン投与をするようにしている。6か月過ぎたらすぐに去勢、避妊。

 「子猫かと思っていたら、もう大きいんですね」とおっしゃったので「ええ、でも去勢も済んでるしお得ですよ」と、商品の売り込みみたいなことを言ってトイレとエサ付きで連れて行ったのだけど、一晩明けた今朝電話が掛ってきて、「飼う自信がなくなった」と言われたのでちょっとがっくりきたけど引き取りに行った。顔を見ると灰色に汚れている。網戸を開けて外に飛び出したり、勝手に二階の押入れを開けて天井裏に上がったり、廊下をダダダッと走りまわったり、朝っぱらから大声で鳴いたりしたそうだ。お気の毒に、疲れた顔をしておられた。お家は築50年の古い田舎の家だからどこもみな木枠の引き戸だ。鍵もついてなくて爪を引っかけて開けるのは朝飯前。室内飼いは不可能な様子。やれやれ。

 娘と喧嘩しながら、こうなったらこのネコも一生面倒を見るしかないと覚悟を決めて、でももう一度募集をかけてみようということになった。なんだか最近犬とネコの世話で明け暮れてる毎日のような気がする。ふと大島弓子さんを思い出してぶるぶると首を振る。そうそう、映画「グーグーだって猫である」は、主人公の麻子さん(小泉今日子)がかわいかったけど、マンガの原作とはまるで別モノ。マンガのあの独特のテイストが好きな私はちょっと幻滅したな。


ソーシャルへ

2008-11-04 02:29:02 | Weblog
 さっきたまたま見つけたブログの記事に「EU労働法政策雑記帳」の濱口氏の赤木論文批判が載ってておもしろかった。
 赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ
 上記記事に対する松尾匡さんのコメント
 市民派リベラルのどこが越えられるべきか
 それに対する濱口氏のコメント
 松尾匡さんの「市民派リベラルのどこが越えられるべきか 」


 なんだか昨日考えたことと重なってる部分がある。
濱口氏の記事から
赤木さんはあとがきで、こう言います。
>ええ、わかっていますよ。自分が無茶なことを言っているのは。
>「カネくれ!」「仕事くれ!」ばっかりでいったい何なのかと。
それは全然無茶ではないのです。
そこがプチブル的リベサヨ「左派」のなごりなんでしょうね。「他人」のことを論じるのは無茶じゃないけど、自分の窮状を語るのは無茶だと無意識のうちに思っている。
逆なのです。
「カネくれ!」「仕事くれ!」こそが、もっともまっとうなソーシャルの原点なのです。
それをもっと正々堂々と主張すべきなのですよ。

松尾氏の記事から
【利害を見下すのではなく】

 そんな「配慮の連帯」はもういらない。「利害の連帯」の時代になっているのだ。濱口先生も、利害を語ることは恥ずかしいことではない、むしろ語るべきだ、オールド左翼はそうだった、と言っている。その通りである。しかし私が濱口先生に言いたいのは、少数の貧困層だけが利害を叫んでも力にはならない、そうではなくて多くの幅広い層の労働者がそれぞれ自己の暮らしの利害を追求しながら、なおかつそのためにこそ団結できるようになったのは、今述べたとおり、まさに現代資本主義のおかげだったということである。
 それを称して私は「現代資本主義は労働者を普遍化させるので進歩だ」と言っているのである。濱口先生は、私の現代資本主義評価を解釈して、労働者がすべからくみんな非正規化・流動化した果てに、共通の利害に結ばれることを待望する議論のようにみなしているようである。しかしそれはあくまで最悪のシナリオなのであり、放っておけばそうなってしまうことを理解すれば、人々は自分より低い境遇の者を引き上げることを目指すだろう。それもまた「普遍化」のひとつなのである。

 先日「外国人労働者の生活支援」をしている人をPTA講演会の講師に招いたのだけども、それというのも、自民党の国家戦略本部とやらが「移民受け入れ1000万人」を提言したり、経団連が「定住化を前提とした移民受け入れ」を提言したりしているってことは、もはや他に選択肢はないってことを示してるんだろうなと思ったからだ。講師もも少しソフトな言い方でそう言っていた。

 そういう方向に向かってるとして、企業が「さらに人件費を削減できる」なんて考えてたらおそろしいことじゃないか。だからといって、もしも不安定雇用の人たちが、「私たちの職を奪う」と外国人労働者を目の敵にして外国のように襲撃したりすれば、お金持ちは「やーい、バーカ、バーカ」と思いながら遠くから「内ゲバ」を嘲笑って見てるに違いない。彼らの思うつぼだ。外国人労働者を賃金のディスカウントの道具にしてはいけないのだ。そうさせないためには外国人労働者も含めた不安定雇用の賃金、待遇改善を訴えなくてはならない。同様に、正社員も自分だけ逃げ切りということはもはやありえない。正規雇用が非正規雇用に次々に置き換えられていく中で正社員の仕事はますます過酷になっていくだろう。だから労組は非正規雇用も含めた待遇改善と「同一労働、同一賃金」を訴えて戦わなくてはならない。みんな一連托生なんだ。

 また、「多文化共生」という楽しそうな言葉で「NPOと連携して外国人支援をする」と言っている行政が、もしも「できるだけ経費を抑えたいから市民団体をうまく使おう」なんて考えてたらとんでもないことだと思う。民間にできることとできないことがある。お金がかかること、教育や医療の援助は行政にきちんとやってもらわないといけないし、外国人労働者を雇う企業には生活支援を義務付けるというようなこともしてもらわないといけない。
と、思ったので招いたのだった。人権は経済の問題と密接に結びついてるのだ。決して心の持ちようをなんとかすればいいって話じゃない。

 先日の朝日新聞の記事で、「ロスジェネ」の編集委員大澤信亮さんが、「もはやどこにも安全な場所はないのだから」と書いていた。きっとそうなのだろう。日本は沈みかけた船だ。一連托生。

 私は、年金はもういいです。自分の老後とか考えません。困窮したら家土地うっぱらって、それもなくなったら野垂れ死にしてもかまわないと思っている。ただし、子供だけは将来ちゃんと生きていけるような社会であってほしい。そういう基準で政策も判断しようと思っている。


 ところで私も「市民派リベラル」ってやつの分類に入るのかなあ?
 「ブエノス・ディアス・ニッポン~外国人が生きる『もうひとつの日本』」の著者、ななころびやおきさんのブログ「いしけりあそび」から 
 ええ、オレって市民派リベラルなの?
「ぜーんぶ階級問題だ~」って、おもいっきり赤旗じゃん!

昨日のつづき

2008-11-03 23:59:08 | Weblog
 昨日の講演会では藤原和博さんのあと、和田中地域本部長、衛藤寿一さんの報告があった。うちの地元でも、和田中に学んで学校支援地域本部を立ち上げようという試みをしているモデル校が二校あって、その関係者が衛藤さんのインタビューをした。

 衛藤さんは淡々と話す普通の人だ。ゆるやかな語り口は催眠術のように聴衆を午後の心地よい眠りに誘い込んだが、藤原さんとはまた違って、こういう人が学校に常にいて生徒たちに接しているというのはよいことだと思った。淡々と話されるので、スゴイことをしているのに全然スゴイように聞こえない。百マス計算が難しくてついていけない生徒に「らくだメソッド」という独自のトレーニングをDSで(!)やらせていて、「その全段階を作成しました」とかおっしゃるのだ。そういうの詳しくないけど、これ、すごくない?

 それからインタビュアーが、「子どもたちの『豊かな心をはぐくむ』ためにどういった取り組みをされていますか」(PTAくさい!)と聞くと、「えー、特に・・・、これが心の豊かさというものはなくて、図書室を整えたり、校庭に田んぼを作ったり、・・・すべての活動をする中で子どもたちの心の豊かさが培われるのだと思います。総合力ですね。・・・それから、和田中では『あいさつをしよう』ということを言っていますが、何か問題を抱えている子は、あいさつに元気がないので、そういう子は特に気をつけて見るようにして、何かあれば先生に報告しています。そういうことですかね。」などと淡々とおっしゃるのだ。実にまっとうだなあ。「挨拶をしよう」などというスローガンを掲げて、みんな元気に挨拶をすれば明るく心の豊かな子が育まれるっていう発想じゃないんだなあ。挨拶ができないほど家庭が暗かったり、勉強についていけなかったりする子は、早めに見つけてサポートできるという発想なんだ。

 最近誤解を受けるような短絡的発言が多い橋下知事は、スピーチ原稿を書いてくれるようなブレーンを雇うべきだと思うな。
 「国旗、国歌意識して」 橋下知事が高校生に呼びかけ(産経ニュース)
「PTAは解体」を謝罪 橋下知事「表現間違えた」(産経ニュース)

 人集めはうまいんだから。
百マスの「陰山」、小河式の「小河」、夜スペの「藤原」 大阪の橋下知事は人材集めが巧い(ブログ「山椒(参書)を入れるとニュースも辛い?」)



 昨日、「そうか、『教育の重点目標』が変わってるんだから、『こころをはぐくむ』だとか『いのちの大切さ』とかそういう安倍政権、中山文科相くさいスローガンからシフトしなきゃだめだったんだな。」と思った。うちの校長先生は機会がある度に、新しい重点目標と学校の「3つの目標」を話されていたのだけども、保護者は和田中の実践を全然知らないからよく理解できていなかった。それに藤原さんの言っていることは実はかなりレベルが高いんじゃないかと思う。大半の人は、文部省が何を言おうと「あ、そうですか」くらいにしか思っていない。既存のフレームが間違っているんじゃないかとか、これではうまくいかないから別のやり方をやってみようとか、AとBのよいところを取って「進化」させようとか、そんなことは考えないようなのだ。私は「あの話は古臭いんだ」と言った途端、猛烈に嫌われた。
 
 教育長さんは「(教育目標が)スイングバックしている」と言われたけども、教育行政がこう揺れ動いてたんじゃ親はたまったもんじゃない。私のしゃべり方も、もっとゆるやかに(気づかれないように)方向転換しなきゃいけなかったかもしれない。
 私だって、あの2003年のPISAの問題がどんなものだったか、それに対してブログ論壇でどういう反応があったかをインターネット上でリアルタイムで見ていなければ、そして宮台ブログを読んでいなければ昨日の藤原さんの話は一言半句もわからなかっただろうと思う。だから普通わからなくて当然なんだ。

 しかし、考えてみれば、人権教育推進委員なんて部署も、さらにもっと古臭いもんだ。同和教育が必修で、PTAとしても取り組まなきゃいけなかったからできたんだろう。このやる気のなさはソフトになし崩しにしていこうという暗黙の了解でもあるのかと疑ったくらいだ。

 でも、私が2ちゃんねるを初めて見たとき、驚愕したのは差別発言や誹謗中傷のひどさと、それが野放し状態になっているという状況だ。「差別なんて時代とともに自然になくなる」という意見が誤りであったことが証明されてるじゃないか。私らの世代は少なくとも、「差別は封建社会において権力者によって意図的に形成されたもので、なくすべきものだ。差別は恥ずかしいことだ。人権の侵害だ。」という共通認識があったと思うが、今の掲示板の状況では「差別がかつてあった。それを利用してとことん貶めてやろう」としているように見える。韓国や中国に対する根拠のない優越感とその裏返しの嫌悪感。歴史的経緯を全く顧みない在日差別。「移民政策反対」という外国人恐怖。人権教育の必要性はますます高まってきていると思うんだけどなあ。それを訴えても全然通じない。何を言っても通じない。「人権、怖い」「うかつに発言してはいけない」とでもいうような雰囲気がある。

 そして、保護者も先生も、年々忙しく、余裕がなくなってきているような気がする。お母さんたちもみんな仕事で疲れている。できるだけ行事を増やしたくない(なのに年々増えていく)。PTA行事の参加者も年々減ってきている。経済的に大変で「人権どころじゃない」みたいなかんじ。そういった状況はこれからも加速していくだろうと思う。この「全部あなたにおまかせ」的な態度も精神的な余裕がないからで、きっと私だって職場や家庭で大変な状況だったらそうなっちゃうだろうとも思う。

 だからPTA組織も見直してスリム化し、地域本部でやれるとこは肩代わりしてもらえるように体制を組み直すというのも時代的な必然性があるのだろうと思う。そういうことをわかりやすく話さないと、いきなり「PTA解体」では保護者は自分が攻撃されてるように思うから拒否反応を起こすだろう。

 ああ、ディベートとプレゼン能力がますます重要になってくる時代なんだなあ。トホホ・・・


藤原和博氏の講演を聴いた

2008-11-02 23:37:42 | Weblog
 福山市ロータリークラブ主催の講演会「これからの公立学校と地域のあり方」藤原和博氏のお話を聞いた。ナマ藤原を見れてうれしかった。
 私は講演会の時には前の方の席に座ることにしている。こういう時にいつも思うんだけど、何でみんな前の方から座らないの?映画じゃないんだから。私の二つ前が講師席で、そこに藤原さんが入場して着席された。ほんとに背後から見ても「どこかで見たことがあるような懐かしい感じがする」方であった。

 和田中の実践について紹介したTV番組の録画を、藤原さんのフォローを聞きながら見て、やはりすばらしいなあと思った。講演自体も「よのなか科」の授業の実践みたいで、驚きと笑いの絶えない楽しいものだった。こんな感じ。


 【講演の内容】
 現在は社会が多様化、情報化し、もはや親や教師が情報の独占ができなくなった。親や教師がテレビのキャスターやお笑い芸人に太刀打ちできるわけはない。どんなに個人的に努力したって親や教師の教育力は相対的に下がっていく。

また、昔なら「できる子」「ふつうの子」「できない子」という三段階くらいの分類で事足りていたものが今は、「できない子」の中にも「小学校段階でついていけなくなって算数ができない子」「計算はできるけど読解力がついてなくて文章題ができない子」「軽度発達障害の子」「家庭的に問題があって落ち着いて勉強できない子」・・・などいろいろいる。「できる子」だってそれぞれ一様ではないのだから、先生がそれにみんな対応できるわけはない。

 和田中の場合3人に1人は家庭的に問題を抱える子であった。そこで、土、日に家にいると悪くなってしまうような子を、なるべく学校に囲うという目的で始めたのが土曜日寺子屋(通称ドテラ)だ。1人の学生ボランティアと10人の生徒からスタートした。最初は机に座っていることもできないような生徒もいたのだそうだ。現在は100人ほどの生徒が参加し、学校や塾の宿題、英検、漢検の勉強、苦手克服、それぞれに合わせた学習を教師志望の学生ボランティアの助けで行っている。さらに成績のよい子(または普通の子)を伸ばすのが「夜スペ」で、今ネット検索をしてみると批判も多いようだけど、親は助かると思うな。これは私の意見。「陰山メソッド」も「和田中の実践」も批判する人はするけども、試行錯誤しながらなんでもやってみればいいと思う。「あれが悪いこれが悪い」と言っていても何も解決しやしない。


 昔は普通にあった地域社会や大家族の中で培われていた子供の社会化が、今は少子化、核家族化で失われてしまった。学校がそのような機能を補って、あれもこれも一身に担うことは不可能だ。そこで地域のボランティアを学校に呼び込み、いろいろな雑務を引き受けて、先生たちにより授業に専念できるようにしようとしたのが地域本部だ。これはPTAとも別組織だ。

 ドテラにおけるマンツーマンの指導によって目覚ましい学力の向上がみられた他、親や教師という「タテの関係」とは別に地域のおじさん、おばさん、お兄さんなどといった「ナナメの関係」が入ったことであきらかに生徒によい影響が見られるのだという。たとえばボランティアによって明るく改装された図書室は第二の保健室とも言われ、勉強が苦手な子たちがここでたむろしていたが、本のバーコード化の手伝いなど喜々としてお手伝いをし始めた。いろんなボランティアと接し、褒められることで生徒は自己肯定感を持ち、また多様な価値観や考え方を知ることができる。
 この図書のバーコード化も学校が頼んだわけではなく、ボランティアが自発的に始めたものだ。園芸のボランティアは校庭に水車まで作ってしまった。地域本部は、学校を核とした地域の活性化にもなっている。このような、学校と地域とをつなげた「ネットワーク型の学校」でなくてはもはや、これからの教育はムリだと藤原さんはおっしゃるのだ。(ゼイゼイ・・・。今日は午前中学校清掃が終わったあと講演会に行って、疲れて眠いのでなかなか言葉がでてこない。)


 今までの教育は情報処理力を養うものだった。「正解」がある問題をいかに早く解くかというものでこれはTIMSSという学力テストで図られる。しかし、社会に出たら「正解」がない問題の方が多いのであって「情報編集力」が問われる。自分の得た知識、技術、経験を総動員して「正解」のない問題を解き、自分と他人を納得させる能力のことで、これが測られるのが2003年に問題になったPISAという学力テストだ。これからの日本に必要なのはこの情報編集力で、そうしてみるとあのときメディアで「日本の学力低下」と大騒ぎし、「ゆとり教育の弊害」と決めつけたのがどれだけ的外れだったかわかるってものだ。
朝日新聞「希望社会への提言 11.「アポロ13号」に教育を学ぶ」
和田中藤原校長の「フィンランド調査報告」を読む その1
藤原校長の「フィンランド調査報告」を読む その2
藤原校長の「フィンランド調査報告」を読む その3

 
 内容が前後するけども、ちょっとショックだったのは「あと10年後には日本のすべての業界で淘汰が進み、10社が5社に減少してしまうだろう。そのうち半分は外資系。アングロサクソンか中華資本になってしまうだろう」と予言されたことだ。「彼らは情報編集力を鍛える教育をしっかり受けてきている。これからはそれに対抗して生きていかなくてはいけない時代なのだ」そーかー。

 昔みたいに「いい大学を出ていい会社に入って結婚して一戸建て」みたいな絵に描いたような「幸せ」なんてもはや存在しない。価値観が多様化し、複雑で変化の激しい時代なのだから自分なりの世界観、人生論、幸福論を持たないと「幸せ」にはなれない。「みんな一緒」の時代から「それぞれ違う」時代。その時代の変化に教育のシステムがついていっていない。「正解主義」から脱却し「修正主義」にしていかないといけない。

と、まあかいつまんで言うとそのような内容だった。


 先月この講演会の紹介がうちのPTA理事会でされたときに、校長が「この人は私がお手本としている人です」とおっしゃった。常々うちの校長は真っ当なことをおっしゃる人だと思っていたらやっぱりそうだったのか。そして、県と市の教育長もそろって出席されていて、講演の前に祝辞を述べられたのだが、先日和田中に見学に行ったとおっしゃっていた。
 コロコロと変わるけども最近の「教育の重点目標」は「少人数教育の推進」「地域と学校の連携」だそうだ。藤原さんが「彼(榎田好一教育長)は頭の切れる人だ」と言っていたし、話を聞いてて私もそう思った。とりあえず変なところは一つもなかったので安心した。

 そして、最近、PTAの委員会で情けない思いをして落ち込んでいたけども少し元気が出た。「この当事者意識の欠如といきあたりばったり感はなんだ」「守るべき伝統なんてものは最初からなかったのか」「動員と外部向けの形式だけの専門委員会だったらやめてしまえ!」と思っていたが、私のコミュニケーション能力とプレゼンテーションにも問題があったのだと講演を聞きながら思った。まあ、沈黙と陰口よりは「脱線してる。おかしい。早く終わってくれ」の方が少しましか。

「自民党をぶっ壊す」って言ったくせに世襲ってなんだよ

2008-10-02 23:56:25 | Weblog
 春に実家に帰ったときのことだが、父が「後期高齢者医療制度」について怒っていた。確か山口2区の補欠選挙の後だった。「なんで?保険料が上がるの?」と聞くと首を傾げる。「上がるかどうかまだわからないのになんで怒るの?」と聞くと「年金から天引きされる」と言う。「最近、足腰弱って車に乗るのも億劫がってるんだから引き落としにしてもらえば助かるじゃないの。」と私が言うと、旗色が悪くなってごにょごにょ言っていたが、「次の選挙では自民党は負ける。まあ、一遍小沢さんにやらせてみればいい。」と捨てゼリフを残して逃げた。

 私は腹が立って来て、母に「保険料が上がるかどうかまだわかりもしないのになんでこの制度はだめだなんて言えるのよ。だいたい、仮に上がったとしても、払う余裕があるんだから払えばいいじゃないの!もうね、私たちに死んだあとお金を残してくれる必要はないし、どうせ跡継ぎもいなくて田んぼも作れないんだから、全部売って払える限り払えばいいじゃないの!」と言うと、母は「そうそう、私もそう思う。どうせ病院通いばっかりしていて旅行にもいけないし、お金の使い道もないんだから。」と笑っていた。

 年金から天引きされるのと、後で払いに行くのと同じことだろうに、それをダメだダメだって怒るのは「朝三暮四」のサルとおんなじだ!父なんか、車はひとりで3台も持ってるし、テレビも離れに3台あるし(母屋のぶんもあわせると5台!それも既に地デジ!)DVDデッキは2台あるし、エアコンも各部屋についてるし、通販で高い「お腹ブルブルベルト」なんか買うし、旅行は疲れるから行かないっていうし、食欲がないからお刺身しか食べないっていうし、病院にいくのだけが仕事で、毎日山ほど薬飲んでるんだから高くったって払えよ!!!

と私はイカッた。そして、こういう朝三暮四のサルみたいなのの支持で仮に民主党が政権獲ったとしても、すぐにドツボにハマり「期待外れだった!」と失望されるに違いない、難題山積で非難轟々、すぐさま支持率低下・・・と悲観的な想像をしてしまった。

 それから後も、農家の所得補償とか財源が埋蔵金とか「そんなんできるのか?」と民主党の提示する政策に不安をおぼえていたが、先週、小泉元首相が次男を後継にというニュースを見たらムラムラと腹が立ってきて、これは民主党の政権担当能力とかの問題じゃないなと思った。

 郵政選挙のとき小泉自民党に投票した人たちは、小泉氏がこういう世襲だの談合だのと、既得権益を持った人たちが永遠に勝ち続ける構造をぶっ壊して、フェアな競争に誰でも参加できるようになる、みんなにチャンスのある社会になると信じて入れたはずだ。ホリエモンが広島6区で立候補したときも、氏育ちなど関係なくあのような若輩が会社を作って成功し、巨万の富を築いたということに感銘を受けた人たちが彼に投票したのだ。なのにやっぱり世襲かよ。小泉構造改革ってのは、結局、金持ちの利権は残したままで、若者にツケをまわし、社会的弱者をさらに絞り上げることになっただけじゃないか。そして自民党は自分の責任を棚に上げて「官僚が悪い。連合が悪い。日教組が悪い」って人に責任をなすりつけるようなことばかり言っている。亡国の徒だ。

 もはや政権担当能力がなくなってるのは自民党の方ではないか。民主党がどんなに頼りなくても、一遍政権の座について、自民党は野党に転落してもらうしかない。そしてどちらも揚げ足取りじゃなくて本当に日本の将来をどうするかということを真剣に考えてもらいたい。

 太田さんのとこの掲示板で言及されていた「きっこの日記」(2008/09/27 政権交代による政治の浄化)を読んで目が覚めるようだった。「そうだ、やっぱり失言なんかあんまり重要じゃない。『疑惑の献金』『便宜供与』『政官財の癒着構造』という長期に渡って染みついた自民党政権の汚れの方が重要だ。もう、そういう『既得権』の世襲は終りにしてほしい。」と思った。
 

食の安全について思うこと

2008-09-28 16:44:22 | Weblog
 中国製乳製品のメラミン汚染と森永ヒ素ミルク中毒事件との類似点

 中国製乳製品のメラミン混入事件を聞いた時、まっ先に思い出したのは半世紀前に起きた「森永ヒ素ミルク中毒事件」だ。検索をしてみると、わりと同じ連想をした人が多いみたいだ。(ブログ「大西 宏のマーケティング・エッセンス」)

 ただ「乳製品に工業原料を添加」という点の類似だけではない。「なぜ添加しなくてはいけなかったのか」という背景の類似もある。牛乳の質が悪かったのだ。
「メラミン汚染、なぜ? 中国産粉ミルク 患者5万人以上」(2008/09/26)北海道新聞「現代かわら版」
餌の質や飼育環境が悪く、生乳の品質が一定の基準を満たしていなかった。そこでタンパク質量をごまかそうとメラミンを混入した、ということだ。

 「森永ヒ素ミルク中毒事件」(ウィキペディア)は、被害状況は有名だけどその背景にあった日本の牛乳の質の悪さということはあんまり知られていないようだ。昔、この事件の被害者支援にかかわっていた人の講演を聞いたことがある。「大元の原因は日本の牛乳の質が悪いことだ。粉ミルクを作ろうとしたら、原料の牛乳が酸化しているので凝固してダマになる。その分ロスが出るし、できた粉ミルクも質が悪かった。それで凝固しないように第二燐酸ソーダを添加することにしたのだ。」ということだ。しかし、実は第二燐酸ソーダを使うことはほかのメーカーもみんなやっていたことらしい。(雪印乳業食中毒事件で分かった「牛乳」の正体
 乳業技術者の間で神様のような存在である藤江才介は、「劣悪な原乳に第二リン酸ソーダを使うことは、たいていのメーカーがやっていた」と認めている。粗悪な原乳に防腐剤などを加え、育児用粉ミルクにして市販することは、メーカーにとって、廃物利用、口当たりのいい言葉で言えば技術革新の成果でもあった。

 問題は、森永が業者から仕入れた第二燐酸ソーダは、日本軽金属から出た「産業廃棄物」で、以前ヒ素が検出されたからと国鉄から突っ返されていたものだったことだ。「まさか、食品に使われるとは思わなかった」って、ふーん、じゃあ乳業メーカーが他に何に使うと思ったのかな。

牛乳の質の悪さ

 「欧米ではそんなものを添加しなくても粉ミルクはできるし、日本の牛乳の質の悪さは今に至るまで続いている。」というのが上記の講師の主張だ。雪印乳業食中毒事件でも製品管理の杜撰さがあらわになったが、それ以前に、日本の牛乳は高温殺菌をしなきゃ飲めないようなシロモノなのだという異常さはあまり知られていないようだ。ヨーロッパで一般的な「低温殺菌、ノンホモ(攪拌して脂肪球を粉砕処理していない)牛乳」は日本ではほとんど見られない。瓶入りの高価なものくらいだ。飲み比べてみると味が全然違う。私たちが子どものころから学校給食で飲まされてきた牛乳はそういう大量生産大量消費に適したシステムに組み込まれ、工業的に作られた質の悪い牛乳なのだ。牛のことも、消費者のことも、まるで考えられていない。

 ずっと前住んでいた借家の大家さんが、昔牧場を経営していたという人だったが、牧場をやめた理由を「牛乳は夏と冬とで味も成分も違う。うちの牛は放し飼いにしていたから春から夏にかけては青草をいっぱい食べてお乳も少し水っぽくなる。ところが脂肪分が減ると買取価格も下がってしまう。他の飼育農家では一年中牛舎に閉じ込めて濃厚飼料を与えているから脂肪分が減らない。だけどうちはお日さまの光を浴びて草を食べさせた方が絶対牛のためにいいと思っていたし、その方がおいしいお乳も出るのだけど、そのおいしさを測る尺度はなかった。手間を掛ければ掛けるだけ儲からなくて、とうとうやめてしまった。」と言っていた。牧場は今は工業団地になっている。
 こういう家族経営の農家が作るものを地元で消費するという地産地消を消費者が大切にしていれば、森永の事件も雪印の事件も起きなかったはずだ。だから「質のよいものにはそれなりの値段を払う」ということを消費者自身が覚悟しなくちゃいけないと思う。小規模経営ならではの質のよい農産物を流通に乗せるような仕組みもなくてはいけないと思う。

給食で脱脂粉乳を飲まなくてはいけなかったわけ

 もひとつ粉ミルクで思い出すのは、長女が保育所に行っていた頃のことだ。保育所では「脱脂粉乳」を溶いたミルクをおやつの時間に飲むことになっていた。それが不味くて長女はなかなか飲めなかった。それだけではなく、アレルギー体質なので、ときどきじんましんが出て休んだり、背中にアトピーの湿疹が出たりしていた。皮膚科にも小児科にもあちこち行ったが、血液検査をしてもはっきりとこれが原因という結果が出てこない。小児科の先生の助言で一週間、卵と牛乳をやめたら明らかに症状がよくなったことがあった。それでひとまず乳製品を抜いてみようと保育所に「ミルクをやめられませんか?」と申し入れた。ところが「医師の診断書がないとやめられない」と強硬に言われる。どうもアトピーの子どもが増えて、そのような申し入れがちょくちょくあったり、「除去食を作ってもらえないか」などという要望もあったことで所長が負担を恐れたらしい。また、当時私が何人かの保護者と一緒に入っていた食生活の勉強会に偏見もあったらしいのだ。

 担任の先生から後で聞いたのだが、「脱脂粉乳はアメリカから輸入しているものだ。これはWTOで毎年何トン輸入しなくてはいけないと決まったもので、給食用に一定の割り当て量がある。この保育所でも消費が少ないから増やせと言われていて、脱脂粉乳が余るときは急きょシチューをメニューに入れたり、四苦八苦している。」というのだ。私は唖然とした。私たちの世代が食べていた給食用のパンは、地元のパン屋さんによると最低品質の小麦粉でできていて、それはアメリカでは家畜の飼料用なのだと聞いたことがある。この豊かな時代にまだ脱脂粉乳を飲ませているってのが解せなかったが、それはアメリカの押し付けだったのか。

 長女はそれからしばらくして小学校に上がり、小学校では給食の牛乳を飲まないという選択ができたので5年生まで止めてもらっていた。そのせいか、アトピーは今に至るまで出ていない。今住んでいるところでは給食の調理師さんや栄養士さんたちによる給食改善の研究会が盛んで、もう、とうの昔に保育所の脱脂粉乳を牛乳に変更していたし、それを飲む飲まないも自由だった。医師の診断書を持って来いなどと言われたことは一度もない。だから長男は小学校低学年まで牛乳をやめていて、赤ん坊の頃心配だったアトピーがその後出ることもなく、牛乳を飲まないことによる成長の遅れもなく、たいへん元気で風邪もひかない(皆勤賞ももらった)。

 私は、これだけアトピーが増加している背景には食品添加物や栄養バランスの問題もあるだろうけども、質の悪い牛乳を子供のころから毎日飲ませているということも原因の一つではないかと疑っている。そしてもうひとつ、日本は戦後、工業国として利益を得るために農業を見捨てたのだなあとつくづく思った。日米貿易摩擦というのは日本では工業製品の輸出の問題だったけども、アメリカでは農産物の輸出の問題だった。自動車なんかとバーターで穀物、乳製品、牛肉、オレンジを輸入しなくちゃいけなくなったのだ。
 石破さんなどは汚染米問題に関して、「日本のコメが海外の7倍も高くて競争力がないので、輸入を食い止めるためにミニマム・アクセス米を輸入せざるをえないので、大元は日本の農業の構造が非効率的なことが原因だ。もっと大規模農家も参入できるようにして農業の体質改善をするべきだ。」と言っているけども、それで食の安全が守れるかとか、農業振興ができるかということはちょっと疑問だ。そもそも、アメリカのコメ作りは補助金にどっぷり漬かっていて、すごくいびつな農業なので従来の農業を破壊する、日本はコメの輸入をしないでほしいと昔来日したカリフォルニアの農家の人が新聞で言っていた記憶がある。(切り抜きが見つからない)

「日本の食糧自給を破壊する米軍特殊工作部隊」2008年05月11日 オルタナティブ通信

 民主党の「農家の所得補償」も、どうも間違った方向に思える。政治家は、人気取りではなくて本当に日本の安全保障の問題として長期的な視野から真剣に考えてほしいと思う。

中山国交相発言について

2008-09-27 01:01:06 | Weblog
 これはひどい。あんまりだ。
 中山国交相:成田空港問題「ごね得」 日教組批判も(毎日新聞 2008年9月26日)
 中山国交相「日教組強いところは学力低い」 発言後に撤回(NIKKEI NET 25日 23:43)
 中山国土交通相が成田反対闘争「ごね得」(NIKKANSPORTS.COM 2008年9月25日23時8分)

「単一民族」は当然バツだし、自民党の国家戦略本部はこのあいだ「移民受け入れ1000万人提言」したんじゃなかったのか。あー、ネット右翼方面は反対してるんだー。(ブログ「マスコミ万歳!」

 「ごね得」発言で、「公のためにはある程度自分を犠牲にしてでも」って、ちょっと違うなあと思った。あ、やっぱそうだ。ウィキペディアの「公共」の概念。たとえば共同の井戸を掘るとかいう場合に、
 個人私有よりも共同所有の方が合理的であるという個々人の合意が形成された場合に、はじめて共同井戸が成立する。「公共」の立場からは、「私」や「個」の利益を追求したとしても、全体の利益を考えた方が結局は合理的であるという結論にたどり着くという場合「公共」が成立するのであり、最初から全体の利益を優先して、個人や私人を意図的に信頼・重視しない全体主義とは異なる。

 たとえば、うちの市の鞆の浦では今、埋め立て・架橋工事をする、しないをめぐって住民と行政側とが対立している。行政側は、橋を架ければ交通の便がよくなり観光客も増えて経済効果があがると考えている(もちろん公共工事でだれかが助かるというのもあるのだろうが)。しかし、住民は、不便だけども昔の面影を残す町並みと絶景とに価値があるので、そういったものは経済効果などでは推し測れないと思っている。決してゴネていれば得をするとか思っているわけではない。古い町並みと景色に「価値がある」というのは数値的に証明できるようなものではないし、多分、なくなった時初めてそれがいかに貴重なものだったかということに気づくような類のものだと思う。行政側は、架橋と町並み保存をセットにしているのだけども、町並み保存だけはできないのか?観光客が車を連ねて大勢押し掛けるような名所にしなくちゃいけないのか?ここらへんで両者に大きな意見の隔たりがあるので20年以上もめているのだ。
 ウィキペディアにもあるけども、地方自治体を「公」というならば、住民団体も「公」だ。どっちも「公共の利益」のためになると考えて対立している。そして、それは最終的には地元住民の多数決によって決めるべきものだろうと思う。成田闘争について私はよく知らないけども、最近の中国の住宅立ち退きをめぐるトラブルのニュースとか見てると「日本も昔あんな感じだったのかー。」と思う。

 「日教組強いところは学力低い」発言も違うなあ。広島県東部って今はちょっと下がっているけど以前は日教組組織率98%くらいだったはずだ。私らの年代が教育を受けた頃。その頃「広島県は教育県」って言われて高校進学率も全国上位にあったはず。で、ネットでいいかげんな日教組批判のサイトによく書かれているような(たとえば競争を嫌うから運動会で一列でゴールインとか)そんなことは、見たことも聞いたこともない。5時きっちりに帰るとか(そりゃあ校長だ)。クラブ指導をしないとかってのもいい加減だ。いちいち反論するのもばからしい。

 「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力が低い」
って、賄賂を渡して子弟を合格するよう働きかけたのは日教組ですか?校長とか教頭とか教育委員会関係者じゃなかったっけ。たぶんこのあたりの記事を曲解したんじゃないかな。(大分教員汚職 教組と処分前に交渉 県教委 混乱回避へ「配慮」2008年8月30日 西日本新聞ネット右翼の人は「癒着」と書いているけど、大量の採用取り消し者が出て現場は混乱するし、当人は「知らなかった」とショックを受けてる人が多かったらしいから、組合が動くのは当然だと思う。(西日本新聞といえば、亡くなった伊藤元長崎市長の娘婿って人は、西日本新聞の記者だったなあ。「政治は世襲すべきじゃないよ」って誰か忠告してやらなかったんだろうか?)

 「私が(文部科学相時代に)全国学力テストを提唱したのは日教組の強いところは学力が低いと思ったから」
 これは絶対聞き捨てならないね。日教組つぶしのために全国学力テストを提唱したのか!
 学力テストの結果を公表すれば競争力が高まって学力が上がるというのは違うと思う。保護者のあいだに選別意識が働いて二極化が進むだけだ。ただでさえいろんな局面で子どもたちの二極化傾向が強まっているのだ。保護者の中には学区を変えるために住民票を移したりする人もいる。今でも。そういう傾向が一層強まって教育格差が拡大していくばかりになりかねない。結果を分析して、成績の悪い地域、学校に特別に人員配置をしたり、予算を加増したりしてサポートするっていうのならわかるけど、この発言を見るにどうもそんな意図でやったわけじゃなさそうだ。因果関係もないのに「日教組が悪い。戦後の教育が悪い」と一方的に決めつけて、ハマコー並み。懲罰的なことをやれば学力を上げられるとでも思っているのか。この人も!
 そもそも、競争を激しくすれば学力が上がると思ってるところからして発想が貧しい。国際的に通用する人材を育てるための教育ってそんなことでできると思っているのか!こんな人が文部科学大臣をやってたのか。

 OECD生徒の学習到達度調査
あ、やっぱりこの時の文科相か!PISAで日本の順位が下がったといって大騒ぎして「ゆとり教育廃止」ということになったけども、それ、原因が違うって。一位のフィンランドは日本の教育を参考にしてるんだぞ!(比較・競争とは無縁 学習到達度「世界一」のフィンランド asahi.com 2005年02月25日)

 行政が市民社会化をサポートするのでなくて、分断し、格差を広げるようなことをするなよ!自民党はやっぱりダメだね。







追加

2008-09-21 23:41:25 | Weblog
 ウィキペディアで「レイテ島の戦い」から次々とリンクを辿って読んでいったのだけど、これはひどいね。レイテ島だってそもそもは軍上層部が「戦況優位」と勘違いして、ここで一気に決戦に打って出ようと戦力を集中したことで大惨事を招いたわけだ。
 その勘違いというのは、台湾沖で米軍の航空母艦他多数の戦艦を撃沈したという誤った戦果報告による。(台湾沖航空戦)番組では台湾沖海戦に出撃した航空兵は訓練期間が半年程度の未熟な者が多く、戦果を見誤ったのではないかと言っていたが、どうだかわかったものじゃない。誤った情報に基づく大勝利を大本営発表してしまうのだ。
アメリカ軍は戦果を赫赫と伝える日本の放送を傍受し、第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、虚報を信じ込んでいる事を把握していた。そのため、被害を受け、味方の魚雷で処分されてもおかしくなかった2隻の巡洋艦の曳航を命じ、これを囮として、追撃をかけてくるであろう日本軍に更なる打撃を与える準備をしていた。実際、志摩中将率いる第五艦隊が遭難中の日本海軍操縦士の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。しかしこの掃蕩方針も、14日にはアメリカ側に漏れていた。

ああ、なさけない。レイテ沖に結集しつつあるアメリカ艦隊はこの台湾沖の残党であるから大したことはないだろうと楽観視して、ほんの数日でけりがつくものと思って決戦を決めたそうだ。(作戦を決めた寺内寿一元帥
 「レイテ島の戦い」の日本軍の指揮系統・・・
はじめの一文に、第14方面軍司令官は全比島の防衛に任じると書かれてあるが、実際は違っていた。それは日本軍の指揮系統の統一が図られていなかったからである。陸軍と海軍とが完全に独立していたことはいうまでもなく、同じ陸軍内でも第14方面軍の上部機関である南方軍がマニラにあり、方面軍司令官は、第 4航空軍司令官、第3船舶司令官と同じ立場にあって、南方軍総司令官寺内寿一元帥の隷下にあった。つまり、第14方面軍司令官はフィリピン全島の防衛という任務にもかかわらず、フィリピンに所在する同じ陸軍航空や船舶部隊すらも指揮できなかったのである。作戦考案一つにとっても、海軍司令長官、航空軍司令官、船舶司令官と協議して、その賛同を求め、そのあとで上司の寺内元帥の許可を得なければならなかった。

ひどい・・・
日本側は増援作戦を続けていた。12月までに合計5万名に及ぶ兵力をレイテ島に運んだが、その大半が輸送途中に敵襲を受け、海没する船舶が相次いだ。例えば第1師団の次に送られた第26師団主力は、11月9日に無事オルモックに入港したものの、上陸用の大発動艇の不足からほぼ兵員のみの上陸となり、さらに後続の補給物資船団は到着前に次々と沈められた。


そしてレイテとおなじく飢餓戦といわれたガダルカナル島の戦い
日本軍の暗号が筒抜けだった理由 海軍乙事件。この時の海軍中将は、戦後こういうところの理事をやってたんだって。作戦書を奪われ、暗号を解読されたために「絶対国防圏」(サイパン島など)を占領され、そこが本土への爆撃基地となったのだ。靖国っていうのはそういうのをみんな覆い隠して美化してしまうんじゃないか?

 
 どれもこれもひどすぎる。どうしてこうひどいのか、軍事オタクの人はぜひ分析してくれ。最近の年金問題や厚生省農水省の有様を見るに、この「無責任体質」は戦後の日本にも引き継がれてるなあと思う。
 で、無責任体質といえば丸山眞男の「無責任の体系」ということばを思い出すが、丸山眞男の経歴を読んでみたら、たいへんな目にあっていたようだ。
1944年、30歳の時に、東京帝国大学法学部助教授でありながら、大日本帝国陸軍二等兵として教育召集を受けた。大学の現職教授・助教授が徴兵されることは珍しく、二等兵の例は他にない。思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰召集であった。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年8月15日に敗戦を迎え、9月に復員した。

 こういう人を殴りたくなるのは人でなしだ。ああ、今の日本は、人でなしを大量に生み出す社会だって言いたいわけね。

映画「光州5・18」

2008-09-16 14:59:27 | Weblog
 「光州5・18」公式サイト 
 この映画は昨年夏韓国で公開され、750万人の観客を動員した大ヒット作だそうだ。私が観たのは6月頃。この映画の影響か、光州事件に言及したり特集した記事が昨年から新聞に目立っていたが、私はこの映画で初めて事件の詳しい状況を知った。それもそのはず、この事件は軍政下で長らく封印され、韓国内のメディアでは一切報じられていなかった。現在に至るまで事件の詳しい状況や、正確な死者数などもはっきりとはわかっていないのだとか。韓国でもこの映画によって事件を知ったという若い人たちが多いという。

 1979年の朴正煕大統領暗殺事件後、民主化要求運動の高まりによって、一時は民主的な政治体制に移行するかに思われた韓国だが、1980年5月17日クーデターによって政権を掌握した全斗煥保安司令官は非常戒厳令を全土に発令し、反体制派の政治家、知識人、学生らを一斉に逮捕。そら、みんな怒るでしょう。大学が休校になっても学生たちは集まり、街頭に出て「軍事政権反対!」を叫ぶ。自然発生的なデモだ。しかし当然軍事政権側はこれを鎮圧しようと全力を注ぐ。映画の冒頭で、大量の兵士たちが移送されるシーンが出てくる。良心的な中佐が行き先を上司に聞くが「よけいなことを聞くな!」と一喝される。(盧泰愚元大統領にそっくりな指揮官も出てくる)兵士たちは、とうとう北と一戦交える時が来たかと思うが、輸送機が南に向かっているので不審に思う。向かったのは全羅南道光州市。投入された兵力は、映画の PRODUCTION NOTES 「『華麗なる休暇』と名づけられた作戦」によると総勢47の大隊、2万人以上の兵士と航空機30機、戦車7台、装甲車17台、車両282台。これ、あんまりじゃないか。

 学生デモがめちゃめちゃに蹴散らされ、市街地は逃げ惑うデモ隊とそれに巻き込まれた群衆とで阿鼻叫喚。ヒロインのシネは映画館から避難しようとしたところを兵士に追われ、あやうく殴り殺されそうになる。きっとこの時、巻き添えになって殺されたり、負傷した市民も多かったに違いない。田舎の少年のような顔をした兵士が「この共産主義者め!」と、憎しみに満ちた顔で棍棒を振りかざし、殴りかかってくる。彼らは「祖国を共産主義の魔の手から守る」ことが自分たちの使命であり、それが正義であると信じているのだ。話にならないと思う。だけど、当時の南北の政治的緊張状況もあるだろうし、実際、北朝鮮の特殊部隊が光州市に潜入して蜂起を扇動していたという情報もある(朝鮮日報 2006年12月21日の記事)から、あながち妄想だとは言えないし、市民側が完全に正しいとか、被害者だとかも言い切れないとも思うのだ。あ、この件、ウィキペディアに未解決問題として載っている。

 第一、武器庫を襲って武器弾薬を奪い、道庁に立てこもるってなに?いくら兵役経験がある者が多くて、武器を扱い慣れているからってちょっとやりすぎじゃないか?そこで映画では、最初傍観的だった市民が軍隊の暴虐に憤って次々と抗議デモに参加していく様子を感情的なドラマに仕立てている。掃討部隊とにらみ合っている中、軍が午後3時に撤退するという情報が流れ、デモ隊は快哉を叫ぶ。そこにスピーカーから国歌が流れ、皆が直立不動で胸に手をあてて斉唱した直後、撤退ではなく銃撃命令が出て丸腰の市民に向けて一斉射撃がされる。デモ隊は逃げ惑い、主人公の弟が銃弾に倒れる。大通りは死傷者で埋まり、父親を亡くした少年が号泣する。「これはいけない」と思う。軍隊が自国の市民に向かって発砲するなんて決して許されないことだ。この大惨事に憤った市民が、軍事政権から自分たちの街を守るために立てこもって戦ったというのがこの映画の見方だ。

 そうか、この時点で彼らは当然、軍事クーデターで政権の座についた大統領などに正統性はないと思っているのだ。そして、正統性のない政権による暴力に対しては、武力を持ってして交戦する権利があると思っている。ここらへんは日本人の私らからは理解しにくいかもしれないが、韓国の民主化はそのようにして血と涙で達成されたのだなあと映画を見ながらつくづく思った。


 この光州のある全羅道は、歴史的に見ても冷遇され、差別されてきた土地であるらしい。パンフレットのコラム「光州事件とは何だったのか?」真鍋祐子(東京大学東洋文化研究所準教授)から
 
現代韓国政治と光州事件
 光州事件の背景には、深刻な全羅道差別があったとされる。冒頭シーンに新緑の稲がうねる広大な田んぼが映し出され、次に爆音を轟かせる空挺部隊の連なりを見上げる農民たちの姿が描かれる。そこは昔から寄生地主たちに牛耳られ、農民たちは肥沃なるがゆえの貧困を余儀なくされ、小作争議の絶えない土地だった。もとより風水思想では反逆者を生む地勢として冷遇されてきた土地でもあり、頻発する小作争議は「逆郷」のイメージをいや増した。60~70年代、工業化と観光化を推し進める朴正煕大統領はソウルや郷里の慶尚道を重視し、全羅道を冷遇した。こうして働き手の多くが安価な労働力として都市部の工場に吸収され、農村は疲弊しきっていた。光州事件の起こった80年当時、この一帯は「韓国の第三世界」と比喩され、人々の間には歴史的に鬱屈した感情が共有されていた。(中略)
 朴正煕が近代化を急いだのは、冷戦構造が深刻化する国際情勢の中で、親米反共国家として軍事的・経済的に「北」を凌駕し、やがて吸収統一することが第一義とされたためである。映画に頻出する「アカ」「不純分子」「暴徒」などの言葉はそうした政権や政策に異を唱える者に貼られたレッテルである。それは事実上、社会的な抹殺を意味していた。大統領の独裁体制が確立された70年代以降、この傾向はいっそう苛烈になっていた。

 そうだ、そもそも朴正煕大統領にしてからが、日本の植民地統治時代の落とし子的存在ではないか。そして韓国を共産主義の防波堤にするために、軍事クーデターで政権についたような大統領を、日本とともに積極的に支援してきたのがアメリカだ。アメリカは一方では「民主主義を世界に広める」とか言いながら、共産主義に対抗するためならば、ナチや旧日本軍の戦犯でさえも利用できるものは利用し、言論弾圧や虐殺をする南米の軍事政権に資金援助するような国だ。
 (同上)
 光州事件がその後の時代に与えた影響は、空挺部隊の投入を駐留米軍が容認したことで惨禍が拡大したとの見方から、反米ナショナリズムへの転回として現出した。アメリカはわが民族を分断し、分断状況は「北」に勝つための軍事独裁政治を招き、政権が推進する不均衡な開発は地域格差を招き、そこに鬱積した全羅道民の不条理感が光州事件を招いたのだ―。87年6月29日の民主化宣言を勝ち取った80年代の学生運動は、このテーゼによって牽引された。それから15年の歳月を経て、米軍装甲車が二人の中学生を轢き殺す事件が起きたとき、かつての学生運動世代を中心に反米ナショナリズムは再び息を吹き返す。こうして誕生した盧武鉉の親北政権は皮肉にも、光州事件の副産物であった。

 アメリカに対する落胆は映画の中でも語られる。光州市が封鎖される中、市民たちは「きっとこのことが報じられたら、軍事政権に対する世界的な非難が巻き起こるだろう。米軍だって黙ってはいまい。韓国沖に米軍空母が来ているそうだ。」と期待するのだが、元軍人のリーダーであるパク・フンスだけが懐疑的だった。「空挺部隊を動かすためにはアメリカ軍の許可がいるはず。きっと米軍の同意の上で動いているのだ」と。実際、メディアの情報は操作されて、この事件は共産主義的な「反乱」であると決めつけられてしまう。駐留米軍は5月22日、その指揮下にある四個師団の投入を承認して、27日に市民軍は武力制圧される。正義の味方と思っていたアメリカが、実は軍事政権と同じ穴の狢だったと悟るのだ。


 この映画、歴史的事件の掘り起こしという意味でも意義があるだけでなく、ドラマとしても感動的だった。ヒロインのシネ(イ・ヨウォン)は健気で素敵だし、その父親パク・フンス役のアン・ソンギもかっこよかった。この人「シルミド」でも秘密部隊の部隊長として出演していたっけ。国民的俳優だそうなんで他の出演作を見ようと「ピアノを弾く大統領」のDVDを借りたが、やっぱりラブ・コメディーは似合わんわ。(チェ・ジウはかわいかったんだけど。)

最近の朝日新聞から

2008-09-15 01:05:53 | Weblog
 8月28日(木) 「論壇時評」松原隆一郎 「医療危機」「『歳出削減』にかすむ安心」より
 舛添要一「“観客型民主主義”が医療を破壊する」(中央公論9月号)についての論評。
 
 医療水準が上がり、機器・薬品・手術が高額になって、一人で毎月1500万円もの医療費を使う人がいる、皆保険を守るには現役世代の合意こそ重要で、高齢者が1割、残りを税と現役で負担する仕組みは合理的である、と語っている。
 舛添は「『観客型民主主義』を改めよ」と国民を叱っているが、それはマスコミの尻馬に乗って安易な政権批判をしないのみならず、自身が病気にならないよう努力したり、不急の診療を求めないよう心がけることを指す。新制度ではメタボ検診や「かかりつけ医」を求めているが、病院での無駄な診療をなくす予防医療と理解できる。

 ははあ、今日の「たかじん」で勝谷さんが言っていたのはこれのことか。「柏原病院の小児科を守る会」(伊関友伸のブログより)
 つづき
 だが、厚労省が財務省に歩調を合わせて医療費の急増を言い立てるのには、絶対額はともかく外国との相対比較にかんし疑問がある。そもそも我が国の医療費の対GDP比は約8%、欧州平均は9.2%で05年時点ではOECD30カ国中22位、先進国では最低である。25年には75歳以上が2千万人を超えるが、「小さすぎる福祉国家」のまま乗り切れるとは思えない。
 元財務官僚の村上正泰が告発するように(村上正泰「医療費削減の戦犯はだれだ」文芸春秋9月号)、「小泉改革以降、あたかも『歳出削減』が何よりも優先すべき至上命題であるかのように捉えられ」、財務省は医療に代表される必要な行政サービスをも削らせるべく各省に圧力を加えた。竹中平蔵元大臣らは「国民負担率(租税+社会保障が国民に占める比率)が増えると経済成長にマイナス」と喧伝したが、国民負担率が高いイギリスやスウェーデンの成長率が高いことからしても、この因果律は嘘である。

 しかも97年の橋本財政構造改革以降、歳出の削減を進めるほど逆に赤字は危機的な水準まで累積した。むしろ、必要な行政サービスの削減こそが財政赤字の原因だと考えたくなる、社会科学で言う「意図せざる帰結」である。村上は社会保障は「弱者保護のためだけではなく、長期的な社会の安定性を保障するもの」とするが、そうした安定性が揺らいだために投資や消費といった内需が伸びず、成長率が低迷しているのではないか。介護を家庭に押し戻されても、生活も安定しないままではやっていけるはずもなかろう。


 9月11日(木) 「オピニオン」 小野善康 大阪大社会経済研究所教授(マクロ経済学)
 「自民党の経済政策」 「お金を渡すだけではだめ」

 自民党総裁選挙では、経済、財政政策が対立軸になっている。候補者は財政再建派、上げ潮派、積極財政派に色分けされ、それぞれまったく違って見える。だが3派の本質は実は同じで、お金を渡すか渡さないかという発想しかない。お金を倹約するだけ、右から左に渡すだけでは、日本の富は増えも減りもせず、経済はよくならない。
 与謝野経済政相は財政再建派とされている。歳出削減と増税で財政健全化を優先する立場は国庫だけを見て国全体を見ていない。国債は負債であると同時に立派な資産であり、返せば資産も減るから純資産額は変わらない。
 そのために財政支出を抑えれば、失業が増え、地方も疲弊して経済が冷え込む。税収も減って財政健全化も遠のく。小泉政権時代の緊縮財政で、かえって国債を過去最大幅で積み上げたのがよい例だ。
 経済成長を重視するという上げ潮派はどうか。小池元防衛相や石原元政調会長がこの立場だとされる。小泉改革路線の堅持を訴える上げ潮派は、法人減税や投資減税、規制の撤廃を掲げ、企業など供給側にお金を渡すことを主張する。
 しかし、供給不足の現状で供給側を優遇しても、物が売れない以上、総所得は増えない。それどころか、優遇される強い企業が弱い企業のシェアを奪い、失業と格差が拡大して景気はさらに悪化する。
 では、財政出動を主張する麻生幹事長ら積極財政派がいいのか。彼らは。定額減税や公共事業で民間にお金を渡せば、消費が増えると思っている。
 だが、定額減税なら、その分の支出削減か赤字国債の発行、あるいは別の増税が必要で、同規模のマイナス効果を生むことを忘れている。地域振興券の失敗を繰り返すだけだ。

 うーん、なんだかすごくむずかしいゲームみたいだ。むかし「シムシティ」というゲームをやったが、私はどんくさいのでいつも橋とか道路とかつくるのが遅れ、その間に人口が増えすぎてトラブルが続出し、財源確保のために税金を上げると暴動が起き、怪獣も暴れてめちゃめちゃになっていた。ゲームならリセットすればいいが、国政ではそうはいかない。
 つづき
 公共事業はどうか。穴を掘って埋めるような事業なら、経済への波及効果はゼロだ。見かけ上は国内総生産(GDP)が増えるので政府はその効果を強調しがちだが、実体はお金を渡すだけの失業手当と同じだ。
 公共事業で重要なのは、払うお金の額ではなく、どれだけ雇用が増え、どれだけ価値が生まれるかだ。労働者を失業状態のまま放置したり、無意味な仕事をさせたりするほどの無駄はない。同じお金を使うなら、少しでも役に立つ仕事をさせて、給与で支払った方がよい。
 公共事業というと従来型が思い浮かぶが、環境や介護・医療なども考えられる。
 環境分野では、省エネルギー技術や代替エネルギーの開発、産業廃棄物処理など多くの仕事がある。またリサイクル可能な製品の規格化や環境規制の整備によって、税金を使わずに投資や雇用の機会を生み出せる。たとえば世界的な景気後退の中で省エネ車が好調なのは、環境意識の高まりと原油高が原因だが、環境規制はこの種の需要を確実なものにするから、企業は安心して投資し、素材・機械産業も潤う。それで収益を得た個人や企業から税収も見込めるから。税制健全化にもつながる。
 また、需要の大きな介護産業や医療分野の育成も有効で、そのために診療や介護の自由度を増やすことも考えられる。
 こうした政策が実現に向かわないのは、政治家や国民が目先で誰にお金を渡すかしか考えないからだ。政権が短期で崩壊する袋小路にいる今こそ、従来の発想から抜け出し、何が価値を生むかを考える本物の景気対策を競い合う好機だろう。

 もういっこ似たようなの。9月12日(金)「経済気象台」「バラマキ減税をやめよ」
 バラマキ政策は、これまで一般に歳出面でとられてきた。民主党が公約に掲げる農家の個別所得補償、高速道路の無料化など、選挙目当ての人気取り政策がその典型である。
 しかしながら景気後退とともに、減税により景気浮揚を図ろうとするバラマキの動きも最近顕在化してきた。
 このバラマキ減税の代表が、公明党の主張する定額減税であろう。これは所得税・住民税から所得水準に関係なく一定の金額を減税の対象にするというもので、低所得層により恩恵がいくとされている。
 問題は1年限りの時限的な減税で、どれだけ個人消費が喚起されるかである。この減税は、バブル崩壊後細川、橋本、小渕内閣の経済対策に盛り込まれ、さしたる景気回復に資することもなく財政赤字増大に一役をかった。時限が来て廃止しようとしても、増税と受け取られるのでその廃止が政治的に難しい。
 もう一つの例が、株価対策の観点からの証券税制の緩和である。有力な総裁候補の一人である麻生氏は景気回復優先策の一環として、1人当たり年300万円の株式投資からの配当を非課税にするという証券税制見直しを主張している。
 このような株価対策もバブル後、しばしば用いられてきた。どれだけ政策として効果があるかわからないのに、税制をゆがめ、かつ高所得層に減税の恩典がいく金持ち優遇となる欠陥がある。
 このように税制上短期的な視点でかつ政策的にあまり有効でないこの種のバラマキ減税を取るべきでない。もっと中長期的な視点から少子高齢化の元、社会保障の財源を公平に確保できるような税制改革を抜本的に行うべきである。(安曇野)

 簡潔に言うと、
 9月7日(日)「耕論」「混迷の政治」から劇作家・評論家 山崎 正和さん 「虚のテーマで偽の対決」「劇場型でなく調整型を」
 「もっとも重要なのは『高福祉・高負担』か『低福祉・低負担』かを選択すること。これを正面から国民に問いかけた政府は世界にありません。相当しんどいことになるから。しかし避けられない。日本社会の根本の問題だ」
 「今の日本人は身の丈に合わない生活、過剰な生活をしている。全員で生活水準を少し、たとえば1割ほど下げたらどうか。株による荒稼ぎを少し制限したり、物作りに専念できるようにしたり、あるいは地産地消を広げ意図的にグローバル化を一部ストップさせたり。これこそ本当の『保守主義』なのだが。でも実際に打ち出したら、その政党は勝てないでしょうね。」

早稲田大教授 榊原 英資さん 「抜本改革には政権交代」「党と政府二重構造崩せ」
 「与党を入れ替えるだけではなく、システムそのものを変える必要がある。小泉構造改革は偽物だった。世の中、特に公的セクターの仕組みを抜本的に変えないと、永田町と霞が関の関係、中央と地方の関係を変えねばならない」
 「小沢さんがやろうとしてるのは革命ですよ。自民党とはまったく違う。民主党は、それを国民にわかるように訴える必要がある。今度は本物の構造改革をやるというメッセージを発信すれば、国内だけでなく世界からも注目される」


 私としては、だれでもいいけど、とりあえずこの文章を理解できる人というのを最低ラインにもって来ておきたいんで、麻生さんは「新聞は読まない。見るだけ」とか言ってたからパス!

デモクラシー・ナウ!

2008-05-07 23:46:21 | Weblog
 「論座」6月号に、アメリカの非営利・独立報道番組「デモクラシー・ナウ!」が取り上げられていた。大手メディアがバックにある資本に配慮して決して報道できないようなニュースを、現場から、当事者の視点で報道するという画期的なメディアだ。全米650局以上で放送されているほか、世界各地にも配信されている。日本語版サイトもある。
 このような、主要メディアが伝えないような情報を取り上げる自由な草の根のメディアがいかに重要か、「論座」6月号の新連載「デモクラシー通信 ①G8への課題―極貧国の債務救済にたかるハゲタカファンド」中野真紀子を読んで愕然として悟った。以下のような内容だ。(抜粋)

 2005年、G8(主要国首脳会議)は最貧国の債務を合計550億ドル(約6兆円)削減する合意を交わした。アフリカ14カ国を含む貧困途上国18カ国への債務が全額削減、その他20カ国については条件付きで削減が検討されることになった。
 しかし、「ジュビリー・サウス」という市民団体は債務削減のための諸条件が債務国にさらなる構造調整を要求し、結果的に先進国経済への隷属を永続化させるとして「無条件での全面的な債務帳消し」を求める声明を出した。そもそもこうした重債務に正当性はあるのか?

 エコノミック・ヒットマンで開発援助の裏側を暴き全米ベストセラーになったジョン・パーキンス(国際経済コンサルタント企業の元主任エコノミスト)は、アメリカ帝国がいかに貧困国を欺いて富を巻き上げてきたかを語る。
「まずは、国際企業が欲しがる資源を持つ第三世界の国に狙いをつけ、世界銀行や関連組織から巨額の融資を受けさせます。金を受け取るのはその国ではなく、インフラを建設する米企業です。電力網や工業団地やハイウエーなどは富裕層にはありがたい投資ですが、貧民には縁がありません。電力は使えず、工業団地で働くスキルもないのですから。でも、彼らと国全体が、莫大な借金を負うのです。そんな巨額の債務を、国は返済できません。やがてヒットマンが戻ってきて、指導者たちにささやくのです、『金が返せないなら、お前の肉1ポンドで、支払ってもらおう』と」(パーキンス)
 世界銀行の融資を受ければ飛躍的な経済成長が可能になるとだまし、意図的に返済不能な巨額の借入をさせる。しかし、とうてい返済できず、世銀の指導により社会福祉や民生への支出が大幅に切り詰められ、天然資源が収奪される。つまり、エコノミック・ヒットマンは、グローバリゼーションの原動力となってきた合衆国の企業利益中心の政治(コーポレートクラシー)の世界支配戦略を、経済面で推進する役割を担うわけだ。

 なーるほど、資源豊かな国ほど貧乏になり、開発がまったくその国の役にたってないというのはよくある話だ。しかも、もっとひどい収奪が起こっているというのだ。この貧困国の債務免除を食い物にするハゲタカファンドがあるっていうのだ。BBCの「ニュースナイト」で、このハゲタカファンドのやり口が暴露された。
 米国人が所有するハガタカ企業ドニゴール・インターナショナルは、300万ドル強で買い叩いたザンビア債権――元の融資額1500万ドルが買収時には額面3千万ドルの債務に膨れ上がっていた――をもとに、元金と利子、それに手数料を合わせた額と称して5500万ドルもの返済を求め、ザンビア政府を訴えた。おまけに政治家に利益を還元し、それが問題の解決を遅らせている。というのは、ドニゴール社がザンビアの債権を300万ドルで買い叩いたわずか数日後に、ザンビア政府は1500万ドルの支払いに同意したのだが、これは当時のチルバ大統領が、慈善団体への寄付を装った巨額の賄賂をドニゴールから受け取っていたためだと言われているのだ。

 この「ニュースナイト」の内容が「デモクラシー・ナウ!」で放送されたため、それを聞いた下院議員二人がブッシュ大統領に陳情し、対策を迫ったが大統領の反応は鈍かった。当然だ。ブッシュと共和党へのニューヨーク最大の献金者ポール・シンガーははアメリカ最大のハゲタカファンドの経営者だから。


 ハゲタカファンドが吸い取り、アメリカの現政権を支えているのは本来は最貧国の国民の教育や医療や社会保障に使われるべきお金だ。いくらアフリカ諸国の債務削減をしても、援助金の約半分がハゲタカに吸い取られてしまうのだ。もちろん、日本の援助も(その大半は私たちの郵貯や汗と涙の税金から出ている)。こんなことはアメリカの主要メディアはどこも報じない。もちろん日本のメディアも。

 国際通貨基金(IMF)と世銀の調査では、07年中に債務帳消しの恩恵を受けた24カ国のうち11カ国が、「ハゲタカファンド」の餌食になったとされている。昨年、ドイツで行われたハイリゲンダム・サミットでは、ハゲタカファンドの問題が取り上げられたものの、有効な対策は何もとられず、今年の北海道・洞爺湖サミットに課題を残している。


 みんな、アメリカの金持ちの掌の上で踊ってるだけじゃん。チベット問題にしたって、アメリカやフランスがなんでこんなに騒ぐのかいぶかしく思っていたけど、要するに政治家と結託した大資本の思惑が背後にあるんだろう。「マスコミに載らない海外記事」より。反中の人はアメリカに毟られるのは一向にかまわないのか?うかうかしていると、政治的に利用されるだけ利用されて、ふと気がついたらみんな極貧状態ってことにもなりかねない。きっと中国か、アメリカかという二者択一ではないんだ。グローバリゼーションの中でいかに食い物にされないで生き残るかという問題なんだ。
 って、これ、全部「神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド2 アメリカン・ディストピア」に書いてあったし。
 

聖火リレーは

2008-04-27 18:44:51 | Weblog
つつがなく終わったようでめでたいことです。

 昨日の中継は欽ちゃんが何か投げつけられたあたりしか見ていないのですが、今朝のワイドショーを見ると、大勢の人たちがチベットや中国の国旗を持って元気にアピールしているシーンが特集してあって感動しました。いやー、日本はまだまだ大丈夫だね。これだけ多くの人たちが遙か遠い小国の人たちに同情して大国中国に抗議活動をするんだもの。昔はねー、アジア、アフリカの人権侵害とか少数民族の軍事弾圧とかっていうとアムネスティや左翼系市民団体しか動かなくって、YWCAでの講演会や写真展もほんっと人が少なかったんだけど、今回はネットを見て「自分も何かしなくっちゃ」とチベット国旗を買ってわざわざ長野まで行った人がたくさんいたわけでしょ。頼もしい!これを機会にぜひ「チベット死者の書」なども読んで、チベット仏教についての知識も深めてほしいです。昔はそういうの、ニューエイジ系の人しか興味を持ってなかったんですよねー。スピリチュアルにハマってる人とか。それから、中国は最近アフリカ方面で資源の採掘権を次々と手に入れているそうだから、ぜひアフリカの貧困国の現状にも興味を向けて、現地の人のために資源の乱開発や環境破壊と戦ってほしいです。そういうのは石油のためにイラクを空爆したアメリカやチェチェンに侵攻したロシアなんかでも同様の事情ですから、今回これだけ活躍された若い人たちはこれからも出番が多いでしょう。まあ、言ってみれば国が生き延びるために他国を併合して経済ブロックを作り、資源を収奪するなんてのは過去の日本がやりかけていたことと同じで、そういう侵略が民族独立運動の高まりや国際的批判を生むなんてことは過去にすでに日本が経験して懲りていることなんですよね。
 いやー、イラク空爆の抗議デモの時はネット上でバカにする人が多かったんで、シラケ世代の私でさえ「これでええんか?」と心配になりましたが大丈夫のようですね。若い人たちはまだまだ元気がいい。中国の帝国主義化を防ぐため、このノリでこれからも続けてください。

 また、中国の若い人たちも今回がんばってエネルギーを発散させたようで、よいことです。「台湾とチベットは中国のもの!」だなんて「アホか!」と一瞬思いましたが、よく考えてみると、民主化要求デモなんかすれば即逮捕されてしまうのだから、当局の逆鱗にふれないような名目をやっと見つけ、これ幸いと張り切ったのでしょう。中国からの留学生は世界中に大勢いるようだから、いろいろな国の政治体制や思想を学んで帰国して頂きたいです。きっと民主化要求や経済格差、環境破壊、当局の抑圧に抗議するデモも、実行する心理的ハードルが低くなったのじゃないでしょうか。

 テレビで、中国人留学生と「フリーチベット」の日本人青年が新幹線で隣の席に乗り合わせて長野に来たと言っていたのを聞いて思わず笑い、国際交流が活発になるのはいいことだと思いました。自分の姿を外から見るとどう見えるかということを知り、価値観を相対化してみることが大事ですから。

 これだけ盛り上がっているんですが、私はスポーツにはほとんど興味がないんできっとオリンピック中継もろくに見ないうちに終わってしまうと思うなあ。

自民党のホームページって・・・

2008-04-22 22:27:04 | Weblog
 先日、Yahoo!みんなの政治に辿り着いて、民主党議員のホームページをふむふむと見た後福田総理の公式サイトを見ようとしたら消えていた。そういえば停止したとニュースで言っていた気がする。それで自民党のサイトを見たところ、びっくりした。
「政策パンフレット」のところだ。
「あきれた社会保険庁の実態」
はっきり見えてきました。わたしたちの「敵」の姿が。

 わたしたちの「敵」の姿がはっきり見えてきました。いまこそ、混み合う受付で私たちを無視した、自分たちのことしか考えない組織に、メスを入れるときです。

 わあ!「敵はこいつだ!」とフィンガーポインティングして袋叩きにすることでみんなの不満を解消するってバカのすることだと思っていた。「悪いのは公務員」なんて政権与党が言うことか?いや、政治家が言うことか?「悪いのは日教組だ!」ってTVタックルでときどきハマコーが咆えるのはバカだからと思っていたけど、「悪いのは公務員」「組合」「日教組」「だから世の中がめちゃめちゃになった」なんて言って自民党支持者は納得するのだろうか。「あきれた教育現場の実態」って、なんて稚拙な文章だろう。「日教組=民主党」って違うと思うが。「教育格差を広げる日教組=民主党」って頭の中どうなってるの?『日教組による、良心的校長への常軌を逸した「いじめ」。』ああ、こんなふうに日教組批判のネタとして石川先生が使われるなんてなあ。そうじゃないんだが。「あきれた官公労の実態」大阪市職員の「とどまることを知らない職員への厚遇ぶり」?「健康保険組合への事業主負担分」とかって普通じゃないですか?

 これに対して、大阪市の職員が加入する7つの労働組合で作る、「大阪市労働組合連合会(大阪市労連)」は、「労使交渉の結果、市側の責任で制度確立・運用されてきたものであり、適法な交渉に基づくものだ」と反論、これらの待遇の正当性を訴えています。

 って、ふつうじゃないですか?何十年にも及ぶ組合の待遇改善要求に沿って出来た制度で、バブル崩壊後は民間給与や待遇面が悪化してきたから今過剰に厚遇されてるように見えるだけで。「こういうご時世だから歳出削減のために公務員給与もカットが必要だ。」と説得して実行すればいいだけの話で、民主党がどうこうって何でもかんでも陰謀みたいにえげつない理論で反民主党キャンペーンに結びつけるのって、・・・・この下品さは・・・・そうだ、2ちゃんねるだな。いやー、最近はワイドショーもやってるけど。
 「イラク人道復興支援Q&A(その1)」って中身違ってるよ!

 自民党がここまでなりふりかまわず恥ずかしいキャンペーンをしていたなんて知らなかった。ここまでアホだったのか。いやー、自民党支持者がすごく右翼化しているように思っていたけどまるで右翼の街宣車並だ。こんな強引で単純なネガティブキャンペーンに溜飲を下げたり納得したりするのか。国民は?

 今起こってることは、戦後自民党主導で作り上げてきた社会のシステムが、世界情勢や社会構造の変化によっていろんな分野でうまく回らなくなってきているってことだ。「世界に類を見ない少子高齢化社会の到来で医療費の国庫負担が増大し続けて、このままでは医療保険制度が破綻をきたしてしまうので、今まで比較的優遇されてきた高齢者にも応分の負担を負ってもらいますよ。将来世代の負担を少しでも軽くするために」とかっていうのならいいのだ。「悪いのは組合の怠慢とその背後にいる民主党だ!」ってなにさ、それ。へー、組合に入っていない管理職とかは悪くないの?社会保険庁のシステムがうまくいっていないことにずっと何も気づかなかったんだ~。システムの末端にいる人が全部悪いの~?組合の陰謀で隠ぺいされてたんだ~。民主党の議員に教えてもらってよかったねー。

 「悪いのはビン・ラディン!」とか「悪の枢軸」とか言うよりも数段恥ずかしいと思う。

「論座」5月号

2008-04-07 10:49:15 | Weblog
 なんだかおもしろそうな気がして「論座」を買いに行ったのだけどなかなか見つからなかった。まさか売り切れているはずはないから入荷していないのかときょろきょろしていたところ眼の前にちゃんとあった。棚に3冊も並べてあったのに見えなかったのだ。なぜ見えなかったのかといえば、このポップなカラーが原因だ。これ論壇誌の色じゃないんじゃないの?じゃあ、何の色かといえば、リサとガスパールのエコバッグの色だ。私が欲しいのはベージュの方。これから月替わりでポップな色のグラデーションにしていくのか?ちょっとなあと思いながらバックナンバーを見ていたら「なんじゃこりゃー!」というダサい表紙ばっかりで笑ってしまった。ピンクはまあいいですよ。このレトロな版画はなに?「それがどーした!!」文芸春秋そっくりこの表紙の説明間違ってるね「世界の地下鉄」(女性のおしりだ)。2007年6月号は私がちょうどフラミンゴのガーデンオブジェを買った直後に出たからびっくりした。きっとこの頃フラミンゴが流行っていたんだろう。

 それはともかく巻頭の特集は「ゼロ年代の言論」ということで、ミニコミ的な雑誌が論壇のあたらしい表現媒体として次々と出てきているという現状をいろんな人が書いているけど、まあそれは私には関係ないし全然わからないんでどうぞ若い人はがんばってやってください。私は「論座を一生懸命読んでるようなバカ中年」(宇野常寛「PLANETS」編集長)ですし。
 その宇野常寛氏は、既存の論壇誌は右も左も「免罪符商法」という。
「大半の読者は知的好奇心を満たすためではなく、自分を慰撫するために批評を消費しています。」
「まさにゼロかイチか、俺たちを肯定してくれるのかくれないのか、くれないなら敵だ、という非常に短絡的な読み方が支配的になっています。」
「論壇の世界ですら、それぞれが自分の所属する文化圏に閉じこもり、他の文化圏には干渉しない、そのほうがノイズも少ないし幸せだからという『島宇宙化』が進んでいるじゃないですか。『WiLL』や『正論』の読者と、『論座』の読者とは、争いにすらならないぐらい離れている。」

 その離れているという件に関して東浩紀氏も座談会の中で言っていた。「ハブ&ショート 閉塞を打ち破り、地図を描きかえるのだ!」
 ちょっと別の視点で話をつなげます。論壇の役割について本質的に考えると、たとえば、南京大虐殺があったかどうかなんてもう議論してもしょうがないと思っているんです。あえて誤解されそうな例を出しますが。
 というのも、今の現状を考えると、そこでの現実的な解は、南京虐殺があると思っている人とないと思っている人がいて、それぞれが勝手に生きている。それを前提としたうえで、では日本という国家の外交問題をどう組み立てるか、という話でしかないと思う。あっちが正しいこっちが正しい、と論争をやっても解答は出ない。
佐々木 出ないというか、解答はいくつもあり得るということでしょう。
 真実はひとつです。ちなみに、僕自身はあったと考えています。ただ、その真実には論争では到達できない。南京を掘って何十万人もの人骨が出てくればはっきりするけど、それぐらいの現実がないと論争は収束しない。なぜそうなるかというと、ひとことで言うと、いまはネットがあるからです。「南京、日本、正義」と検索すれば大量に「日本が正しかった」というサイトが出てきて、逆に「南京、日本、悪かった」と入れれば逆のサイトが出てくる。そのそれぞれが、大量の情報を独自の視点で解釈して整合的な言説を組み上げている。こういう状況ではもはや、解釈の多様性があるものについては、それを無理に収束させないまま放置して、共通のコンセンサスを作るためには物理的な現実に依拠するしかない。
 さきほどの労働問題にしても、月に何百時間も働いているのに給料は数万円だとか、ホームレスがバタバタ死んでいるとか、とりあえずは、だれもが直観的にわかるであろう単純な現実に依拠するしかない。年収とは無関係に資本体制下の労働には独特のキツさがあり、それこそが現代社会の問題なのだとかいう複雑で繊細な問題設定で始めてしまうと、いまや人によって感性や解釈がバラバラで――たとえばなにが「自業自得」でなにが「同情すべきこと」なのかの基準がバラバラで――、しかもその差異がすぐネットによって拡大されてしまうから、重要なコンセンサスが採れなくなってしまう。だから、戦術的にやめましょうということです。

 東氏は「思想地図」という思想誌をNHK出版から出す予定だという。意識しているのは「論座」だそうだ。
 最近の「論座」は、新しい論客をかなり掬っています。逆に言うと、思想誌が機能不全を起こしているんです。ただ「論座」は月刊の論壇誌であって、抽象的な議論をするには不向きです。例えば哲学者の萱野さんがガチに国家論を書いたりはできない。だから、若い論客が抽象的なことを書ける雑誌を、もうひとつ作らないといけないだろうと考えました。
 もっと具体的に言うと、「論座」の赤木智弘さん(「『丸山眞男』をひっぱたきたい」)というか、赤木さんをめぐって昨年起きた現象も意識しています。僕は、赤木さんの出現は重要だと思いますが、それ以上のものは感じない。この10年か15年、日本の言論界は現場が大切だと言い続けてきて、その結果ある種の視野狭窄が生じているのではないか。赤木さんが急に論壇のヒーローになってしまった背景には、当事者性を持った言葉に対してみんなが無防備になっていて、私的な怨嗟や要求と、共同で解決するべき社会問題を混同してしまっているということがあるように思います。
今、本当に必要なのは、赤木氏の実感を公的な言説へと変換する、新しい解釈枠だと思います。「思想地図」は空理空論をあそぶ雑誌ではなくて、肝心の現実を捉えるためにこそ、実はあるていど抽象的な視点が必要なのではないか、という問題意識から始まっています。

ほーほー、それならよくわかる。赤木さん個人を非難したり共感したりしたって仕方がないんで、こういう問題があってそれを解決するためには経済や社会や福祉のしくみのどこをどう変えていけばいのかということをひとつひとつピックアップして議論していかなきゃいけないわけで、「戦争?とんでもねー」という感情的な対応をしてはいけなかったのだ。


 このあたりの対談は私に関係ねーところだったが、他におもしろい記事がいくつかあった。長らく中断していた「中吊り倶楽部 宮崎哲弥&川端幹人の週刊時評」が復活していた。
川端さんは「日本もこれからは北欧型の社会だ!」と言うんだけど宮崎さんは懐疑的だ。
川端 でも真面目な話、ウォールマート経済がクラッシュして、米国型の競争社会が限界にきてるんだから、日本もこれからは米国追従をやめて北欧型の社会を目指してもいいんじゃないの。『週刊東洋経済』(1月12日号)も特集してたけど、北欧諸国は高福祉と平等を確保しながら、一人あたりのGDPがすごく高い。この10年で2倍前後上昇し、5カ国とも世界トップ20に入っている。要するに格差なき経済成長を現実にしているわけですよ。
宮崎 なんだ、何を言い出すかと思ったら、社民主義者の好きな北欧メルヘン話か。
川端 あれ、以外に反応悪いね。北欧諸国はインフレターゲットも採用してるし、宮崎さんの掲げる金融ケインズ主義福祉社会に近いんじゃないの。
宮崎 うん、かなり共通している部分はある。できればそうしたい。でも、日本であんな高負担・高福祉社会をつくるのは無理。だって人口が違うし、公共に対する考え方が全然違う。北欧諸国は、国民が公共に貢献するという考え方が徹底されている、だから、ほとんどの国に徴兵制がある。これって川端さんの大嫌いな国家のために個人を犠牲にする社会だよ、いいの?
川端 高福祉社会をつくるからって、別に徴兵制までマネしなくてもいいじゃん。
宮崎 問題は徴兵制だけじゃないの。消費税率25%といった高負担は、公共のために国民全員で負担するという合意があってはじめて可能になる。日本にそんなもんある?消費税をたかだか3%か5%上げようとしただけで、大騒ぎになる国なんだよ。
川端 それはいくら負担してもきちんとした福祉が見込めないからでしょ。しかも、行政の透明度が高い北欧に比べ、日本は不正や税金の無駄遣いが横行している。
宮崎 そう、もう一つの問題はまさにその透明性なんだよ。国民に高負担を納得させるためには、絶対に行政が透明性を確保しなきゃいけないんだけど、それを実行的にするには、日本の人口規模は大きすぎる。しかも、大阪府を見ているとよくわかるけど、この国の行政には澱のような、有象無象のシガラミがまとわりついているからね。だから、道路特定財源一つも状況に合わせて制度改革できず、変えるとなると人死にが出るほどの大騒動になるわけでしょう。本当に北欧的な政策をやるんだったら、シガラミを一瞬にしてリセットしてしまうような機動性が必要なんですよ。もう一度、敗戦を経験しないと無理では・・・・。

 
 先日NHKの「クローズアップ現代」を見ていてびっくりしたのは、最近の企業はグローバル競争に勝つために、製品開発に必要な人材を世界中から調達していて、私らが移民の受け入れ是か非かとか日本国内の雇用がどうこうとか言っている間にそんな議論はほっぽってはるか先を疾走していたじゃないかってことだった。(クローズアップ現代 4月1日、2日グローバル競争時代 揺れる“技術立国”【1】【2】)もはや日本国内で優秀な人材を確保することが困難と見て、中国やベトナムやインドなどから技術者をスカウトする。しかも外国の技術系大学に研究資金や資材を提供したり、産学協同の研究開発をすることによって有望な技術者を自社に囲い込もうと躍起になっているという。「この製品を作れる人材はどこにいるのか、世界中から探して調達する」、また「現地生産する製品をその国に合ったものにするために現地で設計者を採用する」という状態。
 こんな状態がどんどん進行していくと産業の空洞化どころか雇用の空洞化が進んで何の能力もないものはどんどん給料がディスカウントされていくだろうよ。「私らこれからどうなるの?」と、とても不安になった。左翼も右翼ももう、みみっちいイデオロギー対立している場合じゃないんじゃないか?グローバル化は止めようにも止まらないだろうし、日本全体がじり貧になっていく中で目を覆うような貧困を防ぐためにはどうしたらいいのか考えなきゃいけないと思う。あー、中国はけしからんとか戦争しろとかはなしね。 


 「論座」には他におもしろい記事がいくつかあったし、「靖国」の監督、李纓氏と崔洋一氏の対談もあったが疲れたからおわり。
(これって感想じゃないか)

「イラク戦争、2兆ドルの悪夢」

2008-03-22 15:19:00 | Weblog
 先日の朝日新聞に、ニューヨーク・タイムズのコラムからの引用があった。
 海外の提携紙から コラムニスト ボブ・ハーバート「イラク戦争、2兆ドルの悪夢」(3月4日付) 
 前半を引用してみる。
 
イラク戦争の最終的なコストは、数千億ドル程度では収まらない。2兆ドルか、それ以上という驚異的な額が納税者にのしかかる。だが、こうした出費がもたらす結果について語られることは、ほとんどない。まるで米経済をむしばむガンのようだ。
 米議会の上下両院合同経済委員会は先日、イラク戦争の費用について公聴会を開き、参考人としてノーベル賞受賞の経済学者ジェゼフ・スティグリッツ氏、投資信託ゴールドマン・サックスのロバート・ホーマッツ副会長らが呼ばれた。スティグリッツ氏は、戦費総額は3兆ドルに達すると信じている人物である。
 両者が語ったのは、多額の戦費がつぎ込まれる陰で、失われた機会の数々だ。スティグリッツ氏は「この戦費の一部でもあれば、社会保障制度を今半世紀以上にわたって健全に維持できた」と語った。ホーマッツ氏は同委員会の試算を引用した。1日の戦費があれば、低所得層の子ども5万8千人を1年間、就学援助プログラムに登録でき、あるいは低収入の学生16万人に年間の奨学金を提供でき、もしくは国境警備隊員1万1千人か警察官1万4千人に1年間給与を払えた、というのだ。

 それだけではない。帰還兵の医療費や障害給付など目に見えないところで、今後莫大なコストが継続的にかかるだろうと予測されている。そして、ブッシュ政権はこの戦費に関する情報ができるだけ表に出ないように隠し続けているというのだ。

 ついでに昨日の「貧困大国アメリカ」(岩波新書)の補足。
 イラク戦争のせいで経費が削られ、ひどい目にあった例で有名なのはあのハリケーン・カトリーナの被害。老朽化した堤防が決壊してニューオリンズ市内は大洪水に見舞われたが、その対応の遅れの原因は、連邦緊急事態管理庁(FEMA)のが予算が大幅に削減され、組織が縮小、多くの業務が民間委託された結果だった。災害対策のような、国民の命にかかわる部分は、決して功利主義に走ったり民間委託をしてはいけなかったのにそれをやってしまった。結果があのような大被害につながったわけだ。しかも、避難民の多くは被災以来職を失い、家を再建する力もなく、治安の悪さと公共サービスの低下などから帰る見込みもたっていない。それで家を手放す人が後を絶たず、そのような地域が地均しされて高級コンドミニアムやショッピングモールが建てられているとか。「やっと、(貧困者の住む地域が)片付いた。我々ができなかったことを、神が代わりにやってくださったのだ」だってさ。

 また、しわ寄せを受けている一つが奨学金制度だ。アメリカでは大学に行くために本人が奨学金を借りたり借金したりするのが普通であるが、返済不要な奨学金の枠が狭くなったため学生がクレジット破産する例が増えているという。
 アメリカ国内の若年層における平均カード借金額は4000ドルにのぼるが、その原因の一つが政府による成績優秀な者に返済不要な学資を提供する奨学金制度の予算カットだ。
 たとえばアメリカの代表的な連邦奨学金制度であるペル奨学金は、25年前には学生たちの学費の77%を占めていたが、2005年には平均で40%に低下している。これは二期にわたるブッシュ政権下で、アメリカ教育省が同奨学金の受給資格枠を縮めたことが原因だ。その結果、全米で10万人が受給資格を失い、120万人が受給額を削減されている。また、政府は奨学金以外では一般の金融機関が行う学資ローンに利子のみ補助しているが、2005年12月にアメリカ上院は連邦予算調整のためだといって学生支援計画予算から140億ドルの削減を、加えて下院が教育補助関連予算90億ドルの削減をそれぞれ提案し可決されたために、全米の学資ローン利用者の借金には新たに5800ドルが上乗せされた。

 ああ、目を覆いたくなるようなひどさだ。教育が唯一未来を切り開く手段と歯をくいしばって、借金を背負いながらなんとか大学を卒業しても、過去のようによい職に就けるわけではない。低収入、借金地獄のワーキングプアだ。イラク戦争の影響はこれからも長い間アメリカ社会を蝕んでいくに違いない。

 上記コラムニストの3月11付コラム Sharing the Pain.

 貧困層ばっかりにしわ寄せが行って、生存権を脅かされるほどひどい状況というのはまったく間違ってると思う。