読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

田口ランディ「生きる意味を教えてください」

2008-03-25 11:20:55 | 本の感想
 先日、中沢新一・波多野一郎「イカの哲学」(集英社新書)を読んだのだが、「ああ、これはマズイ」と思った。どこがどうマズイのか、うまく言えないのだが、これじゃあ誤解されるばかりで全然説得力がないと思う。私はライアル・ワトソンの本を何冊か読んでいるから「イカから世界平和へ」という発想はピンとくる。こんなのだ。

ライアル・ワトソン「未知の贈りもの」 (ちくま文庫) 巻末の解説 「地球存亡の危機をのりこえるために」 高橋 巌 から

冒頭から読者は思いもかけぬような問いかけを受ける。はじめてこの島に漂着した夜、海中にからだから光を発しているイカの大群を見て、ワトソンはこう問いかけるのだ。イカの目には虹彩、焦点調節可能なレンズ、色やパターンを識別できる敏感な細胞をもつ網膜などが備わっている。一体、これ程までの情報量をイカはどうするのだろうか。その複雑眼球は莫大な情報量を提供ぢてくれるはずなのに、それを処理する脳はあまりにも原始的なのだ。まるで高価な望遠レンズを靴のあき箱にとりつけたような、気ちがいじみた組み合わせになっている。答えはひとつしかない。海洋観察において、イカにまさるカメラ台があるだろうかイカは俊敏、迅速、しかも神出鬼没。昼も夜もあらゆる深さに、あらゆる水温に、世界の海のどの部分にも、何十億といる。それらは眼に見えない高次の生命存在のための感覚器官として存在させられているのではないだろうか。
 読者は本書全体を通じて、この奇妙な問いの答えを見出す作業に参加させられる。次第に明らかになってくるのは、この高次の生命存在が著者自身でもあれば、読者自身でもあり、そしてその背景にあってわれわれを支えている「地球(ガイア)」でもあるということである。地球というすばらしいシステムの中で、真に魅力的で衝撃的なことは、われわれ一人ひとりの中に「イカ的なもの」がある、ということだ、と著者は語る。「われわれは地球の目であり、耳であり、われわれの考えることは地球的思考である。」(42頁)


 イカの高性能すぎる眼はイカ自身のために存在するのではなくて、「ガイア」という高次の生命存在の感覚器官の一部なのであり、私たちはみなその「ガイア」を構成する生命集合体なのではないか、という発想だ。私は昔ユングの本を読んで感動したものであるし、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の自主上映に協力したクチでもあるので、このような考え方はわかるし中沢新一氏が「イカから世界平和を考えた」早世の哲学者波多野一郎氏の著書にぴんときたのもわかる。だけどもこれはマズイ。アブナイ。第一、言葉が通じないだろう。戦争を起こしたい人を説得するにはポール・ボースト著、山形浩生訳 「戦争の経済学」みたいに「結局はすごく損になる」って言わなきゃだめだろう。・・・って、検索をしていたらこの本の批判もあった。(nandaブログより  「戦争はなぜ起こるか?」  「戦争の経済学」

 

 戦争がなぜ起きるかという問題はさておき、昨日、田口ランディの対談集「生きる意味を教えてください」(バジリコ)を読んでいたら、宮台真司との対談の中で田口さんが憲法九条擁護論の在り方にすごく違和感を感じると言っている部分があって、「ああ、これだな」と思った。つまり、宮台真司が「なぜ悪いのか」と解説していて、それが私の「マズイ」を理論的に説明してるみたいなのだ。
田口 だけど、世界は一つだとか、すべては繋がっているという言葉がなんとなく今の時代はかつての左翼思想と妙な結びつき方をしているように思えます。思想的に破綻したものの断片がスピリチュアルに流れこんでいる・・・・みたいな。なんか怖いんだけど、その延長線上にとても心情的に憲法九条は永遠に守らなければいけないとか、第九条を世界中の憲法にしようとか、すごくそういうことを言う人々が出てくる。「広告批評」という雑誌が憲法改正問題で著名人にアンケートをとったときに、改憲派というのがなんと数人しかいなかったんですよ。100人にアンケートをとって回答率が80人くらいで。

私も消極的な改憲派なんです。だからあたしを含めて改憲派だったのは、しりあがり寿さんと私と橋爪大三郎さんともうひとりくらいなんですよ。あとの人々は、吉本隆明さんも含めてみんな憲法九条は大事だからという考え方なんですね。私はもちろん憲法九条を守ろうという人々のなかにもものすごくグラデーションがあるとは思いますよ。ただ、ある種の人々の意見をずっと読んでいくと、そこに「イマジン」が聞こえてくるんですよ、ジョン・レノンが。それとこの問題とがいっしょくたに語られてしまう気味悪さというのがあって、何かわからないんだけれども、この問題ってニルヴァーナの世界とつながってる気がしているわけです。

宮台 なるほど。田口さんの指摘される「九条擁護」と「スピリチュアルなもの」の結びつきは今後顕在化するでしょう。ランディさんのおっしゃった、現実的なものとスピリチュアルなものとが結びつく危険については、1940年代にドイツのヘルムート・プレスナーという思想家が「ロマン主義の陥穽」という形で指摘しました。ドイツのナチズムがいかにして立ち上がったのかという疑問に対する答えとして述べられています。ただし検閲を恐れてプレナーはナチズムのナの字も用いていませんがね。
 プレナーの答えは、ドイツの初期ロマン派が後期ロマン派へと短絡されてプロセスの延長線上にナチズムが出てきたというものです。

これは「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書)が出る前の対談だ。
 ロマン派的感受性とは、たとえば、峻厳なる山並とか荒れ狂う海原であるとかに、〈社会〉を超えた〈世界〉を見出すような感受性だ。私たちは神が特定の対象(シャーマンだったり自然現象だったり)を依り代にして「降臨」するという考え方になじみがあるが、ロマン派的感受性では降臨するのは「世界を超えた神」ではなく「世界という全体性」であるというのだ。なぜこのような考え方がドイツで起こったかというと、政治的混乱のせいでキリスト教会が世俗の権力に靡くほかなく腐敗堕落してしまったため、人々がキリスト教的なものへの期待を抱けなくなり、宗教の代わりのものを求めた結果だという。
宮台 プレナーは、社会を生きる人々の大半に宗教への志向があり、それを受けとめる宗教が存在しないと、ロマン派的感受性―「峻厳なる山並」や「荒れ狂う海原」が〈社会〉を超えた〈世界〉を示すという類―が生まれるとします。そこは〈世界〉が、我々のアクセスを拒む全体性として―不可能なものとして―想像される。だから「峻厳」であり「怒濤」です。これが初期ロマン派的感受性です。これが短絡されて「ドイツ民族」「アーリア第三帝国」「ヒトラー」が崇高だといった形で、単なる内在に過ぎないものを全体であるかのように想像する作法が拡がります。アクセスできる内在として―可能なものとして―全体を想像する頽落した作法が拡がります。こうした頽落形態が、ナチスにつながる後期ロマン派的な感受性です。


 支えるものと支えられるものとの関係が崩れ、あらゆるものが正統性を欠いた恣意的な事実性として現れるのが、近代成熟期=ポストモダンです。「何か全体的なものに資するべくアレがありコレがある」とは思えなくなる社会です。だからポストモダンは超越系にとって辛い時代です。戦後、大東亜共栄圏がダメになり、天皇陛下もダメになりました。昨今では日本国民であることの意味も分らない。愛国を騙る政治家も安倍晋三のようなクソだらけ。いったい自分たちの全体性に対する志向を何に向けたらいいんだ。そう考えると、三島由紀夫や石原慎太郎ならずとも超越系は苛立たざるを得ません。
 そこで、行き場を失った全体性への志向=超越的志向が、憲法九条や平和主義に向かう。本当は「祈り」の対象にしてはいけない政治的形象を「祈り」の対象にしてしまう。その意味で「受け皿の不在ゆえに頓挫した超越的志向を誤射する」というプレナーのロマン主義的感受性の規定が当てはまります。だからランディさんのおっしゃる「スピリチュアルと憲法九条との結合」は不思議じゃない。旧枢軸国と言われた所では、急速な近代化を達成するために後期ロマン派的な疑似超越の形象を利用した後、敗戦によって疑似超越の形象が除去されて、超越的志向が行き場を失う急性アノミーが襲ったのです。この急性アノミーが、日本では非現実的平和主義や全体主義的左翼運動をもたらしました。


長いので一休み。


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