読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

NHK「わたしが子どもだった頃」

2008-04-28 23:25:17 | テレビ番組
 昨夜、テレビをつけたら、姜尚中さんが出ていた。
 「わたしが子どもだった頃」という番組だ。こんなのやってたのか。太田光はどこにでも出てくる人だ。

 慣れない国で必死で働き、生活する在日の両親や周囲の人たちの愛情に包まれながらも、その職業や習慣の違いを恥じる気持ちもあって複雑な思いを抱いて過ごした姜さんの少年時代をドラマで再現していて、これがおもしろかった。
 姜さんのお母さんは母国の習慣を大切に守っていた人で、旧暦の暦に従って「何日は何々をする日」と、昔ながらの韓国の田舎の生活を忠実に再現していたという。幼くして亡くなった長男の法事には徹夜で御馳走を作って祭壇を設け、すごい巫女さんだと評判の下関のおばさんを呼んでお祓いをしてもらう。鉦と太鼓をじゃんじゃん鳴らして笹の小枝で家じゅうを祓った後、お母さんが出刃包丁を持って踊り、家族の体をなでるようにして祓い、玄関から包丁を放り投げる。その包丁の刃先が向いた方角で、その年の吉凶が占われるのだという。もしも凶と出たら儀式は継続され、場所を近所の祠に移してまたじゃんじゃんやるのだそうだ。姜さんは、友達に「あれはなんばしょっと?」と聞かれて恥ずかしくてうつむいてしまう。そら、けっこう大変な少年時代ですね。
 でも、私はお母さんが出刃包丁を持って踊っているのを見て、「ああ、姜さんが運がよかったのはこのせいだ!」と思った。だって、あれはナマハゲだよ。ほら、あれ、一年の間に体にくっついてしまった悪い気を刃物で剥ぎ取って捨てる、そういう儀式なのだ。一年の間にはいろんなものがくっついてしまうでしょ。貧乏神とか厄病神とか生き霊とか。そんな物騒なものでなくても、知らず知らずのうちに古くなって不要になったものもあるでしょ。そういうのを刃物で祓って取るのだ。

 と、いきなり(エセ)民俗学的なことを書いたのはこの間、人気妖怪漫画「もっけ(勿怪) 」を読んだからで、「もっけ(勿怪)2 」に「モクリコクリ」という妖怪が出てくるのだ。「モクリコクリ」とは「むくりこくる」つまり「剥く者」という意味で、妖怪たちの古くなった皮を剥いで、体をリフレッシュさせてやる職人みたいなもんらしい。このモクリコクリの大事な小刀がなくなってしまったので、主人公の静流(しずる)がいっしょに探してやる。お礼に皮剥ぎをするところを見せてもらうのだ。ちょっと絵としてはグロテスクだけども、妖怪たちは「ひょおおおっ、気持ちいいいィ!」なんて大喜びしている。剥ぐのは古い皮だけではなくて、いろいろなものが剥げるらしい。静流もしつこい風邪とか何か剥いでもらってすっきりするし、古くなって弱ってる梅の木はやっと花を咲かせる。多分、モクリコクリはよいことも悪いこともできるんだ。私も頭痛や肩こりや背後霊や皮下脂肪を剥いでもらいたい。古い皮をペロッと剝して新しい自分になれたらいいなあとこの漫画を読んでうらやましく思ったのだった。

 そしたら姜さんちの「出刃包丁の舞い」ですよ。やっぱ、昔のお母さんはすごいですよね。そういうのを昔の不合理なくだらない習わしだと私らは教えられ、排斥してきたけども、一見くだらなくて野蛮に見える習わしも、きっと何かの役には立っているような気がするのだ。あー、私もお祓いしてもらいたい・・・・。

 ところで番組の本筋は「姜さんの初恋」であった。小学生の頃、姜さんがほのかに思いを寄せてたが打ち解けることのないまま転校して行った美少女に、再会しようという流れになったので「えっ、」と思った。いけません、昔の美少女はそっとしておくべきです。もし、いらんもんをいっぱいくっつけていたらどーするんですか!と、ドキドキしながら見ていると、調査の結果その美少女は19歳のとき、交通事故でなくなっていたことがわかったという。姜さんはショックを受けていたが、「でも、これで永遠の乙女になってしまった」とも・・・。私はほっとした。あー、やっぱり美少女は不慮の事故とか肺病とか白血病でなくなるんだなあ。糖尿病とか腎臓結石とか犬に蹴られて石段を転がり落ちるとかいうことはないんだろうなあ。いいなあ。

 何でなくなってたことが判明したかといえば事故の新聞記事が見つかったからだが、そういえば戦後の新聞記事を全部検索できるサービスがあったよね。利用料がかなり高いらしいから個人ではよっぽどのことがないと利用しないだろうけどもNHKだったら当然使いますね。そういうの便利だと思う一方で、ネットの世界では匿名だと思い込んでいたものが、着々と個人情報をデータベースに蓄えられたり、楽々経歴を割り出されたりするのかと思うとちょっと嫌だな。怖いし。
 姜さんみたいに正直になれればいいんだけども。

ソフィア・コッポラ監督「ヴァージン・スーサイズ」

2008-04-28 00:24:24 | 映画
 近所に旧作DVD、ビデオ一律99円というレンタルショップがあるのを見つけた。TSUTAYAはビデオのみ100円で、DVDはキャンペーンのときしか安くならないんだけど、そこは毎日99円で、キャンペーンの日は新作も一日レンタルが99円になるらしい。激安なのでこの際ゴッソリ借りてきた。
 中に以前から見たいと思っていた「ヴァージン・スーサイズ」があった。私はジェフリー・ユージェニデス の小説「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」を10数年前に読んだときは全然理解できなかったのだけど、映画ならわかるかなと思ったのだ。そしたらわかった。やっぱり映像の力はすごい。

 なぜ五人姉妹はみんな自殺してしまったのか?小説を読んでも全然わからなかったけど、映画ではちゃんと最初の方に答えが出てくる。近所のおばさんがひとこと言うのだ。「閉塞感よ」
 どこがどう閉塞しているのか。自殺未遂をした末娘のセシリアのために両親がパーティーを開くシーンがある。厳格な彼らはこのようなパーティーを開くのははじめてだ。部屋の飾り付けはへたくそでおざなり。父親は少年たちに延々と飛行機の話をしているし母親も愛想が悪い。だけど少年たちは美少女ぞろいの姉妹たちにおよばれしたのでもう舞い上がっている。セシリアは不機嫌そうに椅子に座り、何かを待っている。そこに来たのは悪趣味な服を着たピエロっぽい男の子だ。へんな歌を歌って男の子たちの笑い物になっている。それがセシリアのお相手として呼ばれたらしい。彼女の表情が変わる。たった3秒だ。階段を駆け上がって次の瞬間ベランダから飛び降りる。

 あの3秒の間に彼女は悟ったのと思う。待っていてもこの先の人生ですばらしいことなんか決してないってことを。「輝かしい人生が待っていたのに」と大人たちは言うが、そんなのうそっぱちだ。映像で見ると当時の服装や習慣がすごくヘンテコに見えるんだけど、それを差し引いてもみんな変だ。姉妹がじゃなくて、両親や、近所の人や、テレビのキャスター、神父さんも。男の子ときたらスーツにネクタイを締めて来るし、パーティーで「このあいだの試験どうだった?」「ぼくはイェールに行くんだ。パパもイェールだったから」なんて話しかしないし、近所の人たちは遠巻きにして昼下がりにポーカーをやりながらうわさ話に興じているし、学校には有色人種が一人もいない。ウイルス感染のせいで楡の木はつぎつぎと枯れていくし、湖は工場排水で汚染されて悪臭を放つ。自動車産業は斜陽化しつつあり、古きよき時代は過ぎ去ろうとしている。
 ラックスのボーイフレンドが来ているのに母親が間にどっかり座りこんで「サハラの野生動物」なんていうテレビ番組を見ているのだ。めちゃめちゃおかしい。あの時代って、こんなに抑圧的だったの?息が詰まりそうだ。私だって死んでしまう。だいたい、木が枯れてしまうような世界では生きていけない。

 セシリアが無残な死に方をした後、母親はより厳しく娘たちを監視するようになり、家はだんだん荒廃してくる。父親はまるで何かにおびえるように人とコミュニケーションをするのを避けている。最後はもう学校にも行くことを禁じて家に軟禁するのだが、常軌を逸していると思う。母親は何から娘たちを守ろうとしていたのか?だいたい5人も娘がいるのに、社会から引き離して閉じ込めておけばなんとかなると思っているのが間違いだ。外の世界は危険で、腐って、悪臭を放っている。それは確かなことだ。だけどそれでも出してやらなくてはいけない。人生で何一つよいことはないかもしれない。それでも、たとえ最悪の人生であったとしても、それを自分で経験させてやらなくてはいけない。殺されてしまうかもしれない。それでも出してやらなくてはいけない。自分の人生を歩ませるために。
 なぜ5人も娘がいるのにわからないんだろう。結局、母親は自分のために生きていないのだ。父親だってそうだ。問題を直視することを恐れてあさってのことばかり言っている。

 5人姉妹がすごくきれいできらきらしていて魅力的だった。映像が美しく、ガーリーというらしいキッチュでキュートでセクシーな小物たちがもうよだれが出るほどかわいかった。そして、このアンニュイな閉塞感と疎外感は何だったっけと考えていたらそうそう、あの「ロスト・イン・トランスレーション」じゃないか。さすがソフィア・コッポラ監督。ラックス役のキルスティン・ダンストは「マリー・アントワネット」で主演していた。とってもキュート。

聖火リレーは

2008-04-27 18:44:51 | Weblog
つつがなく終わったようでめでたいことです。

 昨日の中継は欽ちゃんが何か投げつけられたあたりしか見ていないのですが、今朝のワイドショーを見ると、大勢の人たちがチベットや中国の国旗を持って元気にアピールしているシーンが特集してあって感動しました。いやー、日本はまだまだ大丈夫だね。これだけ多くの人たちが遙か遠い小国の人たちに同情して大国中国に抗議活動をするんだもの。昔はねー、アジア、アフリカの人権侵害とか少数民族の軍事弾圧とかっていうとアムネスティや左翼系市民団体しか動かなくって、YWCAでの講演会や写真展もほんっと人が少なかったんだけど、今回はネットを見て「自分も何かしなくっちゃ」とチベット国旗を買ってわざわざ長野まで行った人がたくさんいたわけでしょ。頼もしい!これを機会にぜひ「チベット死者の書」なども読んで、チベット仏教についての知識も深めてほしいです。昔はそういうの、ニューエイジ系の人しか興味を持ってなかったんですよねー。スピリチュアルにハマってる人とか。それから、中国は最近アフリカ方面で資源の採掘権を次々と手に入れているそうだから、ぜひアフリカの貧困国の現状にも興味を向けて、現地の人のために資源の乱開発や環境破壊と戦ってほしいです。そういうのは石油のためにイラクを空爆したアメリカやチェチェンに侵攻したロシアなんかでも同様の事情ですから、今回これだけ活躍された若い人たちはこれからも出番が多いでしょう。まあ、言ってみれば国が生き延びるために他国を併合して経済ブロックを作り、資源を収奪するなんてのは過去の日本がやりかけていたことと同じで、そういう侵略が民族独立運動の高まりや国際的批判を生むなんてことは過去にすでに日本が経験して懲りていることなんですよね。
 いやー、イラク空爆の抗議デモの時はネット上でバカにする人が多かったんで、シラケ世代の私でさえ「これでええんか?」と心配になりましたが大丈夫のようですね。若い人たちはまだまだ元気がいい。中国の帝国主義化を防ぐため、このノリでこれからも続けてください。

 また、中国の若い人たちも今回がんばってエネルギーを発散させたようで、よいことです。「台湾とチベットは中国のもの!」だなんて「アホか!」と一瞬思いましたが、よく考えてみると、民主化要求デモなんかすれば即逮捕されてしまうのだから、当局の逆鱗にふれないような名目をやっと見つけ、これ幸いと張り切ったのでしょう。中国からの留学生は世界中に大勢いるようだから、いろいろな国の政治体制や思想を学んで帰国して頂きたいです。きっと民主化要求や経済格差、環境破壊、当局の抑圧に抗議するデモも、実行する心理的ハードルが低くなったのじゃないでしょうか。

 テレビで、中国人留学生と「フリーチベット」の日本人青年が新幹線で隣の席に乗り合わせて長野に来たと言っていたのを聞いて思わず笑い、国際交流が活発になるのはいいことだと思いました。自分の姿を外から見るとどう見えるかということを知り、価値観を相対化してみることが大事ですから。

 これだけ盛り上がっているんですが、私はスポーツにはほとんど興味がないんできっとオリンピック中継もろくに見ないうちに終わってしまうと思うなあ。

NHKスペシャルを見て

2008-04-22 23:04:01 | テレビ番組
 ところで、昨日「NHKスペシャル 大返済時代 ~借金200兆円 始まった住民負担~ 」という特集を見た。

 NHKが独自に全国1800市区町村への調査を実施した結果、数年後、財政再建団体に転落しそうな自治体が何個だったか忘れたけどいっぱいあったのだそうだ。なぜ急に自治体の財政悪化が表面化してきたかというと、夕張市の破綻を受けて去年成立した「地方財政健全化法」成立に伴い、それまで「一般会計」に入れていなかった、上下水道や公立病院、交通機関といった公営事業の「特別会計」を一般会計に繰り入れたことで、「隠れ借金」が明るみに出てしまったのだ。
 
 「借金」と言ったって別に無茶苦茶な土地開発や箱モノを作ってできてしまったわけではない。上下水道や病院や市営バスなど市民の生活に欠かせないインフラ整備をする際の借金と、その運営のための赤字の累積なのだ。それらを一般会計に繰り入れた時点で、即危機的状況ということになってしまって、泡食った自治体は今、住民サービスの削減や税金、保険料補助の打ち切りなど財政再建に必死だ。ほら、現実の社会は「誰が悪い!」と名指しできるようなものではなく、各自がその時々に最適な行動をとった結果「合成の誤謬」として最悪の結果を招いてしまうことがあるのだ。宮台がよく「ダーヴィンの悪夢」を例に挙げてるやつ。

 番組では熊本県長洲町の例が出てきた。下水道事業による累積赤字が積もり積もって20億円にもなり、現在「緊急行財政行動計画」を策定しているという。前の町長が国の支援を受けて下水道の敷設工事を積極的に推進したことが赤字の原因だ。しかし、その頃は全国の下水道整備のモデル地域として賞賛され、下水道で浄化された水を利用して作られた金魚の館なんかユニークな施設と絶賛されて、国から賞ももらったとか・・・。
 
 現在の町長は給与40%カット。役場職員も給与カット。給食センター廃止。金魚の館休館。固定資産税など値上げetc。だって。

 気の毒なことだが次は我が身かとも思った。200兆円も借金があるのだ。もうどこもなりふり構っていられないだろう。これからどんどん負担は増えるだろうし、福祉の恩恵は減っていくだろう。番組では自衛策として隣の県に引っ越した人や、「世帯分離」をして医療費を抑える人などが出てきた。寝たきりの夫を抱えて年金で生活している人が月4万5千円の医療費って、あれは無理だと思った。こういうぎりぎりの人たちに対しては免除するとか負担を軽くするとかはできないのだろうか。このままだとセーフティーネットからこぼれ落ちて死んでしまう人たちが大量に出るのではないか?それから、番組に出てきたように、個人が自衛策として転居するとか生活していけなくなって生活保護を申請するとかいうことになれば却って自治体の財政が悪化する原因となってしまう。これも合成の誤謬というのではないか?地域格差のような事態が極限まで行きついてしまったらそこから建て直すのはむずかしいだろう。

 「下水道事業」については思ったことがある。この家を建てるとき浄化槽をどうするか、いろいろ本を読んで調べた。その中に、自分でヤクルトの容器をいっぱい使って合併浄化槽を自作した人のことが載っている本があった。確かその人は教育テレビにも出てたことがあるが、浄化槽の中でメダカを飼っていた。浄化槽管理士の資格も取得し、自分で管理しているそうだ。その人が言うに、「下水道事業は非常に財政負担が大きく効率が悪い。将来かならず自治体の財政悪化の原因になるはずだ。下水道よりも補助金を出して合併浄化槽を普及させた方がいい」ってことだった。私はその本を読んだので町から補助金をもらって合併浄化槽を作ったのだ。なにせ、このあたりの川は県内でも汚染度ワースト1だから。
 たしかに水はきれいになるかもしれないが、下水道って本管を通すのに自治体が莫大な費用をかけ、そこから個人の敷地につなげる工事も数十万から百数十万もかかって(これは自己負担)、さらに月々の使用料もとられるのに、結局大赤字です、税金をアップさせていただきますってことになったら何だよそれ!とみんな怒るよ。人口が密集した都市部はともかく、地方では合併浄化槽を義務化して補助金を出した方が結局安上がりだったんじゃないか?全国一律下水道を通す必要はないだろう。だれもそんなことを言わなかったのか?そこがどうも釈然としない。

 これからはみんな賢くなって地方自治体や国を監視していかないとダメだな。

 それからホームページにあんなことを書いているような自民党もダメだな。


 

自民党のホームページって・・・

2008-04-22 22:27:04 | Weblog
 先日、Yahoo!みんなの政治に辿り着いて、民主党議員のホームページをふむふむと見た後福田総理の公式サイトを見ようとしたら消えていた。そういえば停止したとニュースで言っていた気がする。それで自民党のサイトを見たところ、びっくりした。
「政策パンフレット」のところだ。
「あきれた社会保険庁の実態」
はっきり見えてきました。わたしたちの「敵」の姿が。

 わたしたちの「敵」の姿がはっきり見えてきました。いまこそ、混み合う受付で私たちを無視した、自分たちのことしか考えない組織に、メスを入れるときです。

 わあ!「敵はこいつだ!」とフィンガーポインティングして袋叩きにすることでみんなの不満を解消するってバカのすることだと思っていた。「悪いのは公務員」なんて政権与党が言うことか?いや、政治家が言うことか?「悪いのは日教組だ!」ってTVタックルでときどきハマコーが咆えるのはバカだからと思っていたけど、「悪いのは公務員」「組合」「日教組」「だから世の中がめちゃめちゃになった」なんて言って自民党支持者は納得するのだろうか。「あきれた教育現場の実態」って、なんて稚拙な文章だろう。「日教組=民主党」って違うと思うが。「教育格差を広げる日教組=民主党」って頭の中どうなってるの?『日教組による、良心的校長への常軌を逸した「いじめ」。』ああ、こんなふうに日教組批判のネタとして石川先生が使われるなんてなあ。そうじゃないんだが。「あきれた官公労の実態」大阪市職員の「とどまることを知らない職員への厚遇ぶり」?「健康保険組合への事業主負担分」とかって普通じゃないですか?

 これに対して、大阪市の職員が加入する7つの労働組合で作る、「大阪市労働組合連合会(大阪市労連)」は、「労使交渉の結果、市側の責任で制度確立・運用されてきたものであり、適法な交渉に基づくものだ」と反論、これらの待遇の正当性を訴えています。

 って、ふつうじゃないですか?何十年にも及ぶ組合の待遇改善要求に沿って出来た制度で、バブル崩壊後は民間給与や待遇面が悪化してきたから今過剰に厚遇されてるように見えるだけで。「こういうご時世だから歳出削減のために公務員給与もカットが必要だ。」と説得して実行すればいいだけの話で、民主党がどうこうって何でもかんでも陰謀みたいにえげつない理論で反民主党キャンペーンに結びつけるのって、・・・・この下品さは・・・・そうだ、2ちゃんねるだな。いやー、最近はワイドショーもやってるけど。
 「イラク人道復興支援Q&A(その1)」って中身違ってるよ!

 自民党がここまでなりふりかまわず恥ずかしいキャンペーンをしていたなんて知らなかった。ここまでアホだったのか。いやー、自民党支持者がすごく右翼化しているように思っていたけどまるで右翼の街宣車並だ。こんな強引で単純なネガティブキャンペーンに溜飲を下げたり納得したりするのか。国民は?

 今起こってることは、戦後自民党主導で作り上げてきた社会のシステムが、世界情勢や社会構造の変化によっていろんな分野でうまく回らなくなってきているってことだ。「世界に類を見ない少子高齢化社会の到来で医療費の国庫負担が増大し続けて、このままでは医療保険制度が破綻をきたしてしまうので、今まで比較的優遇されてきた高齢者にも応分の負担を負ってもらいますよ。将来世代の負担を少しでも軽くするために」とかっていうのならいいのだ。「悪いのは組合の怠慢とその背後にいる民主党だ!」ってなにさ、それ。へー、組合に入っていない管理職とかは悪くないの?社会保険庁のシステムがうまくいっていないことにずっと何も気づかなかったんだ~。システムの末端にいる人が全部悪いの~?組合の陰謀で隠ぺいされてたんだ~。民主党の議員に教えてもらってよかったねー。

 「悪いのはビン・ラディン!」とか「悪の枢軸」とか言うよりも数段恥ずかしいと思う。

映画「大いなる陰謀」

2008-04-20 13:01:27 | 映画
 まず、最初に原題を見たとき「どういう意味?」と思った。“Lions for Lambs”
公式サイトにタイトルの説明が載っている。第一次大戦中、ドイツ軍の兵士たちがイギリス軍兵士たちの勇敢さを称える詩を作ったという。その詩の中で「このような(愚鈍な)羊たちに率いられたこのような(勇敢な)ライオンを、私はほかに見たことがない」と言っている。つまり作戦の指示を出す人間が愚かであるため、兵士がどんなに勇敢であってもバタバタと死んでゆくと、優秀な兵士たちの無益で悲劇的な死を悼んでいるのだ。

 この言葉を使ったのは、共和党の若手上院議員アーヴィングだった。記者に特ダネを与えると言って独占会見をするのだが、私は最初何をいっているのかさっぱりわからなかった。独善的でまわりくどい言い方だったが強調していたのはこういうことだ。「この戦争を始めたのは間違いだった。しかし、今やめることはできない。アメリカが手を引けばイラクとアフガニスタンは大混乱し、虐殺がおこるだろう。そして何年か後に我々は再び廃墟となった国に侵攻せざるを得なくなり、その際の代償は現在の数十倍か数百倍ともなるだろう。9.11によってわれわれは恐怖にとらわれ、判断を誤った。そしてメディアは政治を後押しした。今政府は間違いを認める。アメリカの威信は地に落ち、屈辱にさいなまれている。この戦争は速やかに終わらせなくてはならない。そのための画期的な作戦がすでに始動している。戦争を終わらせるために重要なこの作戦を国民に支持してもらうためにメディアは協力すべきだ。それが、『風見鶏』となって戦争を支持したメディアの責任だ。」

 途中まで私は「なるほど」と思ったのだ。アメリカが今即座に撤退すればアフガニスタンもイラクも大混乱するに決まっている。アメリカの傀儡と見られている政権は崩壊し、政治家は皆殺しにされるだろう。その「少人数で大きな効果が得られる」画期的な作戦ってなに?と思っちゃう。その「作戦」によってアフガニスタンの山岳地帯に「監視拠点」を築くため派遣される兵士たちが映しだされる。司令官が言う。「イランのイスラム原理主義者がアフガニスタンに集結してイラクに入るという情報がある。イランは核兵器を持ち、北朝鮮にも技術供与している『テロ支援国家』だ。そこでこの山の上に要塞を築き、上からテロリストたちを監視する。この山は現在安全だ。」

 アーヴィングと会見していたジャーナリストのロスが「それは確かなことか」と問う。「1300年の宗教対立を乗り越えて、シーア派とスンニ派が手を結ぶの?」アーヴィングは「確かだ」と言い切る。攻撃を仕掛けるのではなく、外交的努力や他にすることがあるでしょうと言われても「そんなことで解決するはずがない」と強い口調で言う。「この超大国アメリカが前近代的な部族戦士にいいようにやられてしまっている。こんな屈辱的なことはない。この戦争はなんとしてでも終わらせなくてはいけない。そのためには手段を選ばない。」そして「あなたはテロとの戦いに勝ちたいと思うだろう?答えはイエス or ノーだ。イエス or ノー?」と迫るのだ。ははあ。これ、ブッシュ大統領がやったトリックだ。「テロとの戦い」という誰も反対できない、しかも中身がよくわからない言葉を作って、「これに賛成か、反対か?」と迫るのだ。そりゃーみんな「イエス」というしかない。だけど細かい選択肢を全部なくしておいて、単純な二者択一の設問で戦争に賛成させるってのはトリックだ。ほら、宮台がよく言ってるじゃない「二項対立図式に気をつけろ」って。

 ロスが言うのだ。「私たちの局は、石鹸や電球を作っている会社に買収された。なにも変わらないと思ったけど違っていた。それまで報道主体だった局内が視聴率や広告収入にふりまわされて思うように番組が作れなくなっていった。ジャーナリストにも確かに責任はある。」だけども局に帰ってアーヴィングのうさんくささを暴いてやるというロスを上司が止めるのだ。「そんなことをすれば首になる。きみは24時間介護が必要な母親を抱えているだろう。その年で雇ってくれる局はどこにもないよ。」それでもやるという彼女に、自分が握りつぶすという。そういうことだ。メディアは視聴者の意向を無視して報道できない。視聴率の低下は広告収入の減少につながり存続そのものが危うくなってしまう。ジャーナリストは会社の意向を無視できない。生活がかかっているから。「アーヴィングは『手段を選ばない』と言った。核を使うつもりなのよ。私たちが注意深く情報をつなぎ合わせることを怠ったからこの被害を招いた。同じ失敗をしてはいけない」とロスは言ったが、結局報道されたのは「新しい作戦が決行される」ということだけだった。そして作戦は失敗し、大学教授の優秀な教え子だった二人の兵士が壮絶な死を遂げる。ライオンとはこの優秀な兵士たちのことで愚かな羊は次期大統領候補と目されているアーヴィングのことだった。

 ロスが帰る途中、延々と続く墓地の映像が出てくる。アーヴィングは「自分が遺族に言えることは、息子さんは国のために貢献したのですということだけだ」と言う。ははあ、たとえどんなに無意味な戦争であったとしても「犬死に」だなんて政治家は口が裂けてもいえないからな。戦死者を讃美するっていうのは靖国なんかとおんなじ構造だ。たとえそこにどんな宗教的な意味があろうと、権力者が真面目な若者の命を利用し、戦争を合理化するための手段になっているってとこはアメリカも変わらない。

 私は、このような映画がつくられたことはまあ評価できると思う。現在の政権を批判し、「気をつけろ。だまされるな」と警告すると同時に、メディアは『風見鶏』だから本当の情報は出てこないと暴き立てるような映画がこんな豪華キャストで作られるってのが進歩かなと思う。だけどもすごい閉塞感も感じる。権力の監視役であるべきはずのメディアがもはや商業主義に犯されて役に立たなくなっているとか、政治学を学ぶ学生が無力感を感じて目先の享楽にとらわれているとか、「お国の役に立ちたい」と思う真面目な青年たちが軍隊に志願し、無謀な作戦で犬死にしてしまうとか。何より、アメリカが今「この戦争をどう終結させるかわからないんだ」と心底困惑しているのがよくわかる。どうするのか。もう「国家の威信」とかなんとか言ってる場合じゃないだろう。国際社会の協力を仰いで被害を最小限に食い止めるための策を講じなくてはいけないはずだ。そのためにはやっぱり共和党じゃだめだな、みたいな結論にいくので、若くハンサムだけど中身はタカ派で愚かで見栄っ張りで隠れ人種差別主義者のアーヴィングみたいな共和党候補が現実にはいなくてほんとよかったと映画見た人はみんな思うだろうな。で、戦争続行か撤退かっていう二者択一じゃなくてできるだけ選択肢を広げてくれる大統領候補はっていうと多分オバマさんだろなと私でも思った。

映画「ブラックサイト」

2008-04-19 02:21:10 | 映画
 娘がこれを見たいけど一人では怖くて見られないというので一緒について行ったのだけど、なんだかつまらなかった。
 何がつまらなかったのかと言えば、いかにも残忍な殺し方ではあるが、最終的には犯行動機がはっきりして、殺された人たちがみな犯人にとって殺すべき理由があったというところ。

 最初は殺し方のあまりの残酷さに目を覆った。もしも自分が拉致されてランプの熱に焼き殺されたり、硫酸で体を徐々に溶かされたりしたらと思うと身の毛がよだち、早く犯人を捕まえてくれと手に汗を握った。けれども、犯人の正体がはっきりして犯行動機が明らかになったときには、思わず同情してしまった。
 ネタばれ父親の自殺の映像が全国ネットのニュースで流れ、ネット上で悲惨な映像を収集する人たちのお宝映像になり、遺品がネットオークションで売られたりすれば誰だってひどいショックを受けてしまう。しかも一旦個人に収集されてしまった映像は決してとり返すことができないのだ。きっと世界中にばらまかれて何十年も好奇の的になるのだろう。遺族にとっては耐えがたいことだ。犯人の青年はたまたまネットスキルが高く、そのような事情を正確に知ることができて、おそらくハッキングの技術もあったからどうすることもできない状況によけいに傷ついたのだと思う。どんなに怒り、抗議し、最善を尽くしても、「人の好奇心」は無限に増殖してきりがなく、ネットの巨大な海の中ではなす術がないという状況に、とうとうキレてしまったのだ。「お前たちがかつて父の死を見世物として消費したように、この悲惨な殺人をお前たち自身の参加によって遂行し、好奇心の残酷さを自覚するがいい」というわけだ。あんなに頭がいいんだもの、殺すだけなら関連性がわからないように巧妙に殺すことだってできたはずだが、彼はただの復讐では気が済まなかったのだ。そうではなく、彼がしたかったことは「この社会はこんなに醜い」ということを白日の下に晒して嘲笑することだ。それならば、私は関係者を殺すのではなく、無差別殺人をすればよかったのにと思う。だって一番怖いのは「何の理由も必然性もなく、理不尽にも苦痛この上ない殺され方をする」ってことじゃないか。そしてそれこそが、このネット社会で起こりうる危険性だ。いつ誰が被害に遭うかもしれない。しかも、自分自身が軽い気持ちで加害者になってしまっているかもしれない。そのような危うさの上に現代の私たちは生きているはずだ。だから被害者が犯人にとって殺人の合理的な理由になってしまっていてはおもしろくないのだ。

 私がちょっとびっくりしたのは、最初の方でFBIのサイバー犯罪捜査官がネット監視をして犯罪者が特定されるまでの素早さだ。ネット犯罪者を特定する際にほんの数秒で情報の発信元が突き止められ、そのパソコンの無線LANを不正使用している可能性のある近所の家の主、その所在、パソコンの使用履歴があっというまに顔写真付きで画面に表示されてしまう。警察が到着するまでに数十分。実際にそんな捜査官がいて、あんなふうにすばやく身元が判明するものなのか?いや、そうじゃないだろうが、ネット上の情報が集積されて個人情報が特定の機関によって一瞬にして照合されるような時代はすぐそこまで来ているのだろうな。私はそのことの方が怖かった。犯罪取り締まりのためならばそれは許されると皆思うだろうが、その情報を権力に関わる者が悪用しないという保証はどこにもない。見方を変えるとまるで別のものが見えてくるではないか。

 たとえば、最近新聞やテレビを見ていると、このパソコンの情報が少し前から漏れているということがわかるが、私はそれに対してもはやどういう対策も取ることはできない。(いや、パソコンの情報だけではないけれども)対策どころか、洗いざらい収集され、集積された個人情報の所在を突き止めることも、それを取り消すこともできない。もはやなすすべがないといったところだ。きっと取り締まる法律もないのだろう。私たちはみなそのような世界に生きているということを、この「ブラックサイト」という映画はあらためて確認させてくれた。それに思い至れば、この犯人に対する見方も少し変わってくる。もちろん同情はできないが、ネット上でヤバイ写真が漏れてしまった人(たとえばまんこバァー!の人とか)だったら「私だってやってみたい」と思ったかもしれない。時間とお金と頭脳が足りないからそういう選択肢がないだけで、低俗週刊誌の記者を火あぶりにするとか、まとめサイトの製作者のチンコを切り落とすとか・・・。おもしろそう。だって、この世界はこんなに腐れ切っていてナンデモアリなのだ。(新聞に執筆する人がネットのうわさ話に基づいて記事を書いたりするくらい)

 ということで、私はFBIの女性捜査官が頭をズタボロにされなかったことにはほっとしたが「チッ、なんだ、犯人が射殺されて終わりかよ」と少し残念に思ったことも事実だ。犯人の青年は捕まって死刑になることを覚悟していたのだから射殺されても別に無念とも思わなかっただろう。そして、ネットの現状は野放しのまま。だってそれは人間の「知りたい」「見たい」という欲望によって成り立っているのだから、押し留めることなんかできはしない。あの青年はどうすればよかったのだろうか。
 
 私は、邪悪さに邪悪さで対抗してはいけないと思う。彼は父親の映像を追いかけまわした揚句に人の邪悪さに毒されて狂気に陥った。そんなことをしてはいけなかったのだ。情報を一切遮断し、他人に心を侵食されないように守らなくてはいけなかったのだと思う。彼らはそのうち自分たちの毒が体に回って死に絶えるさ。それまでひっそりと待っていればいいのだ。そう思うよ。

 って、これって敗北主義か。たぶん正解は、邪悪さを中和するための対抗サイトを作るってことなんだろうな。父親の人柄を偲ぶ、悲しみと慈愛に満ちた追悼サイトを立ち上げる。興味本位の卑劣な書き込みに対しては地道に抗議し削除依頼を出し続ける。ああ、たいへんそう。私なんかはすぐにキレて、「こんな世界は滅びてしまえ!」と思ってしまうけどな。

宮台ブログを読んで

2008-04-12 14:26:28 | 日記
 最近がっくりきたのは、山代巴「連帯の探究 民話を生む人々」(未来社)を読んでいたときのこと、山代さんがずっとかかわってきた農協婦人部の下部組織で生活改善や読書会勉強会などしているグループの文集に、選挙運動で自分の意に反した活動をしなくてはいけないという苦境を延々と綴った人の話があって、「なんじゃこら、40年も昔から全然変わってないじゃないか!」と思ったこと。その頃は「部落推薦」というものがあって(あー、これ被差別のことじゃないからね)わがから出た候補者は必ず応援しなくてはいけないんで農協婦人部の部長などという地位にある人なら選挙カーに乗り込んで声を張り上げ、演説会で心にもない応援演説をして票集めをしなくてはならなかった。けど、その人は実際は共産党候補に投票したらしい。華々しい応援をうけた部落推薦候補はドン尻当選で、選挙事務所が閑散としていた共産党候補がトップ当選という予想外の結果に溜飲を下げたそうだが、そのころから「二枚舌」使っていても選挙の現状は全然進歩していないじゃないかと私は思った。このあたりで「町内会推薦」が取りやめになったのはつい5、6年前で、その時の町内会役員会にたまたま出ていたが、町内会長がこの度は別の候補を応援するから「わしは困る」と言い、班長の人たちも「職場推薦の人を応援しなきゃいけないので町内会から後援会に入れと回覧を回されても困る」と不満が出てきて取りやめになった。それまで回覧で後援会の入会書を回していたらしい。私は町内会組織を使って選挙活動をしていたのかとびっくりした。近隣では未だにやってるところもある。

 先日の市議会議員選挙で「マニフェストで勝負せえ」と思ったが実際にはネット上にマニフェストを書いている人はほんの数人だけだった。ほとんどが現職市会議員、旧町会議員、公明党推薦、共産党推薦で、組織と地盤頼みの人ばっかりだ。つまり組合なり町内会なり宗教団体なりが推薦したら何も考えずに投票するのねえみんな。投票率もひどく低かった。40年前に自我に目覚めて密かに反乱をしていた女性たちはどうなったのか。結局そういうやり方ではだめだったんだな。


 たまたまPTAの関係で「人権平和資料館」の検索をしていたら(自称)保守ブログが引っ掛かってきて「抗議先」電話番号などと書いてある。福山大空襲の資料や「の歴史と解放のあゆみ」ってどこが悪いの?リンク先のどこが悪い?とか解放同盟とか言うとすぐにエセ団体の恐喝や利権の問題と絡めて脊髄反射的に「悪の集団」と罵倒するんだな。こういうIZAに多い右翼ブロガーってなんで歴史的な経緯をスッポリと抜かして「これこれは反社会的」と決め付けるんだろう。そういう批判はものすごく不毛だと思うが、そういう2ちゃんねる的右翼が増える一方なのはどうすればいいのかとも思う。チベット問題に関しても、中国叩きの口実として利用しているだけじゃないか。聖火リレーを妨害したところでそれで中国政府が方向転換するわけじゃないだろう。余計態度を硬化させて日本に対する心証も悪くなるだけだ。昨日地元FMラジオを聴いていたら番組に寄せられた意見も「聖火リレーの妨害には反対だ。オリンピックとチベット問題を一緒にすることは間違っている。」というものばかりだった。多分過激な意見はふるい落とされたんだろうけど、「一般市民はわりと冷静なんだな」と少し安心した。

でもじゃあ、この問題に関して実効性のある働きかけとはなんだろうと考えていたところ、宮台ブログにこの問題に関して記述があった。メディア報道において多元的視野が失われており、それが世論の反応をステレオタイオプなものにしてしまって、問題の本質を取り逃がす結果になっているということの例として「道路特定財源」「チベット問題」「大連立問題」が取り上げられている。

「道路特定財源を一般財源化して地方に配分しても、地方はそれを適正に使う能力がない」と先日、例の「合併しない宣言」の根本元町長が朝日新聞に書いていた。宮台は「一般財源化ではなく、道路整備、環境対策、安全システム整備、交通遺児対策、高速料金無料化などに幅広く使えるようにする」という案を提案している。これならすっきりして納得しやすいと思う。

「チベット問題」に関しては、中国はチベットの水と鉱物資源が目当てであって、チベット仏教が経済発展のために山を掘削したりダムをつくったりということを許さないから迫害をしているのであって、中国13億国民が生き延びるためにいわば「確信犯的に」弾圧しているわけだから倫理的批判は通用しないと言っている。そんなきれい事の批判はハナから「折込済み」なのだ。「大善のために小悪をなすを憚るなかれ」。これはかつて日本が「欧米列強の植民地化から大東亜を守るため」「侵略」したり、独裁者から善良なイラク国民を救済するためアメリカが「侵略」したりしたのと同じスタンスだ。では、このように国家目的や統合目的によって合理化された行動にかろうじて有効な反論の方法はというと「そのような手段の方法がかえって国家目的や統治目的の完遂を妨げる」ことを納得させることだという。歴史的に見てそういう方法はあとあと禍根を残し、決して引き合わないと中国に教えるのだ。その点、日本にはそのような歴史的経験があるからそれを語ることができる。なるほどそういうアプローチの仕方があるか。逆に言うと日本国内でアイヌ民族の迫害や差別の歴史を嘲笑するような人たちに他国の少数民族迫害を非難する資格はないだろうと思う。

 ところで、上記の文章「一国を自壊に導くテレポリティクスの悪夢」2008-4-11投稿を読んだのは昨夜であるのだけど、今見ると見当たらないのは消されているのですか?引用してもよかったのだろうか。私は最近目が疲れるので印刷してから読んでいるんだけどそれもいいんだろうか。
(気になるのでタイトルで検索してみたらやっぱり消えていた。何がいけなかったのかな?言及してもよかったのかな?)


 それから和田中学の藤原和博元校長との対談抜粋と藤原先生のファインランド調査報告を読んで、やっぱり教育かーと思った。ちゃんと実践のノウハウを公開してるじゃないか。先日、子どもの中学の校長先生が、学校の抱える問題をいろいろお話しされたんだけど、これから団塊世代の大量退職が始まると10年後にはベテランが減って、新米教師が4割を占めるようになるとか。今から新任教師をサポートする体制をとっておかないと公立の学校は教育崩壊を起こす。地域や保護者の協力も欠かせないとのこと。この「学校支援本部」ってのは有効な手段だと思うけど、うちのPTA活動を見ていて実際はなかなかむずかしいだろうなあとも思う。前の経験では提案したことがことごとく反対され、誰が責任をとるのかとか言われた。私の姉は、図書館のデータベース化をしろと校長に言われてボランティアを募ったところ、パソコン操作などまったくできない老人会の人たちばかりが来て、指導に時間がかかって仕事は進まず、死にそうになったと言っていた。「人権」っていうと子育てとこころの話になってしまうし、「情報リテラシー」なんていうと全然わかんなくてみんな沈黙してしまう。どうするかなあ。

「論座」5月号

2008-04-07 10:49:15 | Weblog
 なんだかおもしろそうな気がして「論座」を買いに行ったのだけどなかなか見つからなかった。まさか売り切れているはずはないから入荷していないのかときょろきょろしていたところ眼の前にちゃんとあった。棚に3冊も並べてあったのに見えなかったのだ。なぜ見えなかったのかといえば、このポップなカラーが原因だ。これ論壇誌の色じゃないんじゃないの?じゃあ、何の色かといえば、リサとガスパールのエコバッグの色だ。私が欲しいのはベージュの方。これから月替わりでポップな色のグラデーションにしていくのか?ちょっとなあと思いながらバックナンバーを見ていたら「なんじゃこりゃー!」というダサい表紙ばっかりで笑ってしまった。ピンクはまあいいですよ。このレトロな版画はなに?「それがどーした!!」文芸春秋そっくりこの表紙の説明間違ってるね「世界の地下鉄」(女性のおしりだ)。2007年6月号は私がちょうどフラミンゴのガーデンオブジェを買った直後に出たからびっくりした。きっとこの頃フラミンゴが流行っていたんだろう。

 それはともかく巻頭の特集は「ゼロ年代の言論」ということで、ミニコミ的な雑誌が論壇のあたらしい表現媒体として次々と出てきているという現状をいろんな人が書いているけど、まあそれは私には関係ないし全然わからないんでどうぞ若い人はがんばってやってください。私は「論座を一生懸命読んでるようなバカ中年」(宇野常寛「PLANETS」編集長)ですし。
 その宇野常寛氏は、既存の論壇誌は右も左も「免罪符商法」という。
「大半の読者は知的好奇心を満たすためではなく、自分を慰撫するために批評を消費しています。」
「まさにゼロかイチか、俺たちを肯定してくれるのかくれないのか、くれないなら敵だ、という非常に短絡的な読み方が支配的になっています。」
「論壇の世界ですら、それぞれが自分の所属する文化圏に閉じこもり、他の文化圏には干渉しない、そのほうがノイズも少ないし幸せだからという『島宇宙化』が進んでいるじゃないですか。『WiLL』や『正論』の読者と、『論座』の読者とは、争いにすらならないぐらい離れている。」

 その離れているという件に関して東浩紀氏も座談会の中で言っていた。「ハブ&ショート 閉塞を打ち破り、地図を描きかえるのだ!」
 ちょっと別の視点で話をつなげます。論壇の役割について本質的に考えると、たとえば、南京大虐殺があったかどうかなんてもう議論してもしょうがないと思っているんです。あえて誤解されそうな例を出しますが。
 というのも、今の現状を考えると、そこでの現実的な解は、南京虐殺があると思っている人とないと思っている人がいて、それぞれが勝手に生きている。それを前提としたうえで、では日本という国家の外交問題をどう組み立てるか、という話でしかないと思う。あっちが正しいこっちが正しい、と論争をやっても解答は出ない。
佐々木 出ないというか、解答はいくつもあり得るということでしょう。
 真実はひとつです。ちなみに、僕自身はあったと考えています。ただ、その真実には論争では到達できない。南京を掘って何十万人もの人骨が出てくればはっきりするけど、それぐらいの現実がないと論争は収束しない。なぜそうなるかというと、ひとことで言うと、いまはネットがあるからです。「南京、日本、正義」と検索すれば大量に「日本が正しかった」というサイトが出てきて、逆に「南京、日本、悪かった」と入れれば逆のサイトが出てくる。そのそれぞれが、大量の情報を独自の視点で解釈して整合的な言説を組み上げている。こういう状況ではもはや、解釈の多様性があるものについては、それを無理に収束させないまま放置して、共通のコンセンサスを作るためには物理的な現実に依拠するしかない。
 さきほどの労働問題にしても、月に何百時間も働いているのに給料は数万円だとか、ホームレスがバタバタ死んでいるとか、とりあえずは、だれもが直観的にわかるであろう単純な現実に依拠するしかない。年収とは無関係に資本体制下の労働には独特のキツさがあり、それこそが現代社会の問題なのだとかいう複雑で繊細な問題設定で始めてしまうと、いまや人によって感性や解釈がバラバラで――たとえばなにが「自業自得」でなにが「同情すべきこと」なのかの基準がバラバラで――、しかもその差異がすぐネットによって拡大されてしまうから、重要なコンセンサスが採れなくなってしまう。だから、戦術的にやめましょうということです。

 東氏は「思想地図」という思想誌をNHK出版から出す予定だという。意識しているのは「論座」だそうだ。
 最近の「論座」は、新しい論客をかなり掬っています。逆に言うと、思想誌が機能不全を起こしているんです。ただ「論座」は月刊の論壇誌であって、抽象的な議論をするには不向きです。例えば哲学者の萱野さんがガチに国家論を書いたりはできない。だから、若い論客が抽象的なことを書ける雑誌を、もうひとつ作らないといけないだろうと考えました。
 もっと具体的に言うと、「論座」の赤木智弘さん(「『丸山眞男』をひっぱたきたい」)というか、赤木さんをめぐって昨年起きた現象も意識しています。僕は、赤木さんの出現は重要だと思いますが、それ以上のものは感じない。この10年か15年、日本の言論界は現場が大切だと言い続けてきて、その結果ある種の視野狭窄が生じているのではないか。赤木さんが急に論壇のヒーローになってしまった背景には、当事者性を持った言葉に対してみんなが無防備になっていて、私的な怨嗟や要求と、共同で解決するべき社会問題を混同してしまっているということがあるように思います。
今、本当に必要なのは、赤木氏の実感を公的な言説へと変換する、新しい解釈枠だと思います。「思想地図」は空理空論をあそぶ雑誌ではなくて、肝心の現実を捉えるためにこそ、実はあるていど抽象的な視点が必要なのではないか、という問題意識から始まっています。

ほーほー、それならよくわかる。赤木さん個人を非難したり共感したりしたって仕方がないんで、こういう問題があってそれを解決するためには経済や社会や福祉のしくみのどこをどう変えていけばいのかということをひとつひとつピックアップして議論していかなきゃいけないわけで、「戦争?とんでもねー」という感情的な対応をしてはいけなかったのだ。


 このあたりの対談は私に関係ねーところだったが、他におもしろい記事がいくつかあった。長らく中断していた「中吊り倶楽部 宮崎哲弥&川端幹人の週刊時評」が復活していた。
川端さんは「日本もこれからは北欧型の社会だ!」と言うんだけど宮崎さんは懐疑的だ。
川端 でも真面目な話、ウォールマート経済がクラッシュして、米国型の競争社会が限界にきてるんだから、日本もこれからは米国追従をやめて北欧型の社会を目指してもいいんじゃないの。『週刊東洋経済』(1月12日号)も特集してたけど、北欧諸国は高福祉と平等を確保しながら、一人あたりのGDPがすごく高い。この10年で2倍前後上昇し、5カ国とも世界トップ20に入っている。要するに格差なき経済成長を現実にしているわけですよ。
宮崎 なんだ、何を言い出すかと思ったら、社民主義者の好きな北欧メルヘン話か。
川端 あれ、以外に反応悪いね。北欧諸国はインフレターゲットも採用してるし、宮崎さんの掲げる金融ケインズ主義福祉社会に近いんじゃないの。
宮崎 うん、かなり共通している部分はある。できればそうしたい。でも、日本であんな高負担・高福祉社会をつくるのは無理。だって人口が違うし、公共に対する考え方が全然違う。北欧諸国は、国民が公共に貢献するという考え方が徹底されている、だから、ほとんどの国に徴兵制がある。これって川端さんの大嫌いな国家のために個人を犠牲にする社会だよ、いいの?
川端 高福祉社会をつくるからって、別に徴兵制までマネしなくてもいいじゃん。
宮崎 問題は徴兵制だけじゃないの。消費税率25%といった高負担は、公共のために国民全員で負担するという合意があってはじめて可能になる。日本にそんなもんある?消費税をたかだか3%か5%上げようとしただけで、大騒ぎになる国なんだよ。
川端 それはいくら負担してもきちんとした福祉が見込めないからでしょ。しかも、行政の透明度が高い北欧に比べ、日本は不正や税金の無駄遣いが横行している。
宮崎 そう、もう一つの問題はまさにその透明性なんだよ。国民に高負担を納得させるためには、絶対に行政が透明性を確保しなきゃいけないんだけど、それを実行的にするには、日本の人口規模は大きすぎる。しかも、大阪府を見ているとよくわかるけど、この国の行政には澱のような、有象無象のシガラミがまとわりついているからね。だから、道路特定財源一つも状況に合わせて制度改革できず、変えるとなると人死にが出るほどの大騒動になるわけでしょう。本当に北欧的な政策をやるんだったら、シガラミを一瞬にしてリセットしてしまうような機動性が必要なんですよ。もう一度、敗戦を経験しないと無理では・・・・。

 
 先日NHKの「クローズアップ現代」を見ていてびっくりしたのは、最近の企業はグローバル競争に勝つために、製品開発に必要な人材を世界中から調達していて、私らが移民の受け入れ是か非かとか日本国内の雇用がどうこうとか言っている間にそんな議論はほっぽってはるか先を疾走していたじゃないかってことだった。(クローズアップ現代 4月1日、2日グローバル競争時代 揺れる“技術立国”【1】【2】)もはや日本国内で優秀な人材を確保することが困難と見て、中国やベトナムやインドなどから技術者をスカウトする。しかも外国の技術系大学に研究資金や資材を提供したり、産学協同の研究開発をすることによって有望な技術者を自社に囲い込もうと躍起になっているという。「この製品を作れる人材はどこにいるのか、世界中から探して調達する」、また「現地生産する製品をその国に合ったものにするために現地で設計者を採用する」という状態。
 こんな状態がどんどん進行していくと産業の空洞化どころか雇用の空洞化が進んで何の能力もないものはどんどん給料がディスカウントされていくだろうよ。「私らこれからどうなるの?」と、とても不安になった。左翼も右翼ももう、みみっちいイデオロギー対立している場合じゃないんじゃないか?グローバル化は止めようにも止まらないだろうし、日本全体がじり貧になっていく中で目を覆うような貧困を防ぐためにはどうしたらいいのか考えなきゃいけないと思う。あー、中国はけしからんとか戦争しろとかはなしね。 


 「論座」には他におもしろい記事がいくつかあったし、「靖国」の監督、李纓氏と崔洋一氏の対談もあったが疲れたからおわり。
(これって感想じゃないか)

靖国とか

2008-04-07 02:00:44 | 日記
 最近思ったことをまとめて書いておこう。

 ネット検索してて見つけた佐藤優氏のコラムだが、「うっへー、むちゃくちゃ右翼じゃん!」みたいな文章満載だった。「沖縄県民との歴史認識の差異」なんか読むと佐藤氏が最近言う「危機意識」みたいなものがわかるんだけど、それで国家の分裂、弱体化を防ぐために「南朝精神に帰ろう」とか言われてもなー。
 南朝精神に帰れ(中) より
 皇統によって、権威が保たれている。いかなる権力者も、究極的な権威を獲得することはできないというのが日本の伝統である。ここから、権力をもつ者は、皇統に照らして、自らが権力を乱用していないか、日本の伝統に照らして、自ら の政治的行為が恥ずかしくないかどうかの基準にするのである。「何を時代錯誤な。そんな神懸かりの発想を政治に持ち込むのは危険だ」という批判がでてくるのは承知の上だ。しかし、あえて言うが「神懸かり」を政治に持ち込むことが重要なのである。皇統こそが超越性を担保する。

 いやいや「神がかり」と政治が結びつくことで今まで散々ひどい目にあってきたんじゃなかったか。宮台なんかは「権威」と「権力」ははっきり分けて、天皇は極力表に出ないで神事に専念して頂くことで神聖さを守るべきということを言っていた(はず)。「神聖なるもの」はまあ人間にとって必要なのだろう。だけど世俗の権力をそれで担保するみたいなのは絶対だめだ。結局は専制政治になってしまう。

 そりゃあ、最近いろいろとニュースを聞いていてもこの埋めがたい思想的な溝はなんだ!と思うことが多い。映画「靖国」の上映中止問題とかね。だからって「皇統思想」とか「大和魂」による日本人の意識統一が必要とか言われるとうへー、と思う。できるもんならやってみろってんだ。

 朝日新聞に載ってた「靖国」上映中止の圧力をかけたという人のブログ(草莽の記 杉田謙一)なんだかこの傾向の人はみんなステレオタイプですね。反中国 反北朝鮮 南京大虐殺はなかった 拉致被害者家族支援 在日外国人参政権反対 チベット問題抗議。で、ちょっと中国に友好的な政治家だと反日とか売国とかっていうんだ。私がわからないのは、なんで戦時中、無差別爆撃によって多くの一般市民を焼き殺し、原爆を落として大虐殺したアメリカの責任を云々するというのではなくて大東亜戦争は正しかった、南京大虐殺はなかった、という方向に行ったり過去の植民地からの強制連行を認めないで拉致問題に激怒したりするのかってことだ。アメリカは相当ダブルスタンダードだけども、こういう2ちゃんねる的な右翼もまったくのダブルスタンダードだ。も一つわからないのは、なんでアメリカは日本の首相がA級戦犯の祀られた靖国に参拝することに不快を表明しないんだろうか。あんな潔癖なキリスト教原理主義者がいるような国が。これもダブルスタンダードなのか。たとえば人体実験の資料を提供する代わりに戦犯としての追及を免れるみたいに利用価値があるからまあ目をつぶっておこうってことなのか?きっと中国を仮想的国にした軍事防衛網を世界中に張り巡らせるために日本の右翼は思想宣伝的な利用価値があるという判断に違いない。そして、この人たちの主張を読んでいて思うのは、やっぱりこれは歴史的な資料とか通説とかの問題ではなくて精神的な問題じゃないかってことだ。たとえば、ベトナム帰還兵が「侵略戦争に加担した」と言われてプライドを傷つけられ、さまざまな問題を引き起こしたみたいに精神的な救済が必要な問題じゃないかと思う。それで、私なんかは、もう左翼は「言論の自由に対する弾圧」とかって過剰反応するんじゃなくて淡々と「合理的に」対応すべきだと思う。暴力を振るわれたとか街宣車が出て営業妨害されたとかいうのは法律的に訴えるべきだが「ご意見を伺いたい」って来られたらビビったりせずにちゃんと意見を言えばいいのだ。ほら、上記の人のブログのコメント欄でも一水会の鈴木邦男さんが「言論には言論で」と講演で言ってたって書いてあるじゃないですか。一般庶民を脅し上げて言うことをきかせるのはヤクザであって真正右翼じゃないはずだ。杉田さんも塾の先生らしいからまさかドスを振り回したり暴言を吐いたりはしないだろうし。

 昔、広島で市民団体主催の反戦平和集会があったとき、右翼の街宣車が来て、自衛隊の夏服みたいなのを着た眼光鋭い人が「この集会の主旨を伺いたい」と来たことがあった。主催者の日本キリスト教団の牧師さんが、自分の生い立ち(海軍士官学校のエリート候補生だった)からはじめて延々と平和への思いを語り、「私たちはきっと国を愛する心という部分で共感できる部分が多いはずだ」と言うと「いや、相当意見は違っているがまあ、あなたが主催するのならいいでしょう」とそれ以来妨害はまったくなかった。牧師さんは「やっぱり右翼の人は話がわかる」と言っていたが、そうか?集会がしょぼかったから妨害するまでもないと思われたんだとみんな言っていたけど。
 もひとつ、昔うちの実家の近くで国会議員の選挙にからんで街宣車は出るわ(出ずっぱり)怪文書はバラまかれるわの騒ぎがあったことがあったがこれなんかは利害関係がはっきりしていてわかりやすかったなあ。交通渋滞でえらい迷惑をしたので「バカヤロー」と言ってやろうと車の窓から顔を出したが、街宣車を運転しているのは落ち目のホストそっくりなしょぼくれたおっさんで「言われたとおりにやってるだけです」みたいなうつろな目で遠くを見ていたのでガックリした。その後しばらくして迷惑防止条例ができたんだったっけ。あんなのは恥さらしだと思った。

 それで、私は「靖国」を見たいかっていったら、ちょっとテレビに出てた限りでは軍服を着た若者がうじゃうじゃいたり、軍歌を流したりしてるみたいで胸糞が悪いので見たくない。慰霊の場所で、多くが戦争で悲惨な死に方をした人を悼むのになんでそんなコスプレみたいなことをしなきゃいけないのか。そりゃあ外国人から見たら異様な光景だろう。日本人から見ても異様だ。だけど、軍服を着て鉢巻をして歌ったり刀を振り回したりしたい人がいるんならそういうことができるところを確保しておかなきゃいけないと思う。もう右翼のサンクチュアリとしてそっとしておくのだ。「ガイアツ」をかけるとよけいひどくなると思う。むしろ、危ないのはあそこがなんちゃって右翼もはいりこめなくなるほど清潔で神聖な場所になることかもしれない。

今野敏「果断(隠蔽捜査2)」

2008-04-05 12:40:39 | 本の感想
 最近いろいろな本を読んで思うこともあったけど、一晩たつとみんな忘れてしまっている。やっぱりささいなことでもすぐに書き留めていた方がいいのだろうか。

 今野敏「果断」(新潮社)は「隠蔽捜査」の続きだ。前作の主人公、竜崎伸也が家族の不祥事による左遷人事で大森署の署長になっている。あいかわらすの変人ぶりで、公園落成式の祝賀パーティーも、地域PTAとの懇親会も「20人以上が出席する立食パーティー」ではないからと断ってしまう。「国家公務員倫理規程」によって、接待や金品の授受はもちろん、20人以上が出席する立食パーティー以外は出席を禁止されているからだ。そんなのを杓子定規に守ってる人いるのか?署長室のドアは開けたままにしておくし、立て籠もり事件が発生すれば現場に出て行く。本庁に縄張りを侵害されてふてくされた署員に対して 「ここはノウハウのある本庁のSIT(捜査一課特殊班)に任せる」と明言してその指揮下に入れる。ケチな縄張り意識よりも事件解決のために最善の方法を優先するのだ。
 そのような竜崎に対してまったく対照的な管理職も出てくる。緊急配備の犯人をこの管内で取り逃がし、本庁の捜査官が捕まえたということに腹を立てた方面本部の管理官が「面子を潰された」と怒鳴りこんでくる。竜崎は「誰が捕まえたって同じでしょう」「ここに怒鳴り込んでくる暇があったら、実行犯の残りの一人を発見することに努めたほうがいいのではありませんか」と正論を言う。原理原則を大事にするのだ。しかしその管理官は激怒、「全員を講堂に集めろ」と言う。「たるみきった大森署員全員に活を入れてやる」などと言うのだ。ああ、眼に浮かぶようだ。

 講堂に署員全員を集めて説教なんかしても成果が出るはずがない。むしろ仕事が中断して混乱を来たすし、現場の警察官は「こんなバカに怒鳴られる筋合いはない」とやる気をなくしてしまうに違いない。こんな中間管理職の官僚主義や過剰な精神主義のせいで組織がダメになってしまうのだと竜崎はがっくりしてこの管理官を、「幼なじみ」の伊丹刑事部長(キャリア)に追っ払ってもらう。このあたりの描写がなんだか「この紋どころが目に入らぬか!」という水戸黄門のノリで、ある種の優越感を読者に持たせるのがこの本の好評の原因かなあと思う。なんせ東大法学部出のキャリア官僚(階級は警視長)ですよ。あの管理官みたいに失敗の原因を分析したり反省して後につなげるのではなく「おまえが全部悪い」と部下に責任をなすりつけて感情的に怒鳴り散らし、それを「教育」と勘違いしているバカな中間管理職はそこいら中にいるんできっと身につまされる人も多いと思う。自分の仕事の本質を忘れて組織内でいかにうまくやっていくかということだけを考えているような人が組織をダメにするのだ。そして部下たちもこういう理不尽なことを強いられて反抗もできなければ事なかれ主義に陥ってしまうのは当然だ。きっと警察の隠蔽体質というのもそういうところからきているに違いない。
 
「犯罪は日々変化している。外国人の犯罪も増えているし、犯罪が若年化し、これまで日本では考えられなかったような犯罪に出っくわすこともある。テロの脅威も増していくだろう。警察がこれまでと同じでいいはずがない。犯罪が変わるのなら、警察も変わらなければならない。手強い犯罪に対する一番の武器は合理性だと、私は信じている。」
 
 「そうだ。原理原則を大切にすることだ。上の者の顔色をうかがうことが大切なんじゃない」

偉い!こういう人に官僚として出世してもらいたいと思うが、きっと実際には何かあったときにはスケープゴートにされて隅に追いやられてしまうんだろうなあ。

 実際、立て籠もり現場にSATが突入、犯人が死亡したときに弾切れであったことがマスコミに漏れて竜崎は窮地に立たされる。「丸腰」の人間を射殺したということで人権上問題だと非難されたのだ。
 竜崎はそのようなマスコミに対しても厳しい。言論の自由なんてただのお題目で、実際には他社を抜いて特ダネをものにして売ることしか考えてない。要するにただの商業主義だと思っている。しかし、なにか問題が起きたときに世間は「生贄」を必要とし、それを扇動するのがマスコミだ。それに対して警察の組織内では責任のなすりあいをする。
 捜査や取り締まりはきれい事では済まない。違法すれすれの捜査をしなければならないこともあれば、警察官同士、見てみぬふりをすることもある。
 ぎりぎりのところで仕事をしているからだ。そして、警察はマスコミとの接点が多いのでボロが出やすい。
 それを書き立てることが、権力に対抗することだと勘違いしているのだ。本来ならば、政治家や政治をチェックするべきなのだが、政治部の記者などは、いかに与党の議員や閣僚と親しく口をきけるかということに感心している。政局を書くことが仕事であり、つまりは政治の楽屋話ばかり探しているのだ。
 本当の権力には媚びへつらい、地道に働く公務員のあら探しをやる。それが今の新聞だ。

ほうほう、かなり頭にきていらっしゃるようです。私なんかいつも思うのは事件や事故があったとき、トップが責任とって辞めて、「はい禊が済んだ」みたいなのはなんなんだろうってことだ。問題の解決には全然なっていない。第一、本当にそのトップに責任があったのかどうか定かではない。そうやって問題の本質が明らかにならないままに組織だけが温存されて、むしろ有能で良心的な人材がはじき出されるのじゃないかって思うのだ。この小説では結局事件がひっくりかえってうまく終結した(しかも真相を突き止めたのは前作でも出てきた不良はみだし刑事)けど、実際にはこんなにうまくいくことって滅多とないよなあと思う。まあそりゃ娯楽小説ですからね。

 こういう竜崎みたいなタイプのヒーローってわりと珍しいかな。いやいやこれは「踊る大捜査線」に出てくる室井管理官のタイプだ。あのドラマの魅力の一つに、まるでロボットみたいな冷たくて知性的な警察官僚が、青島刑事の毒気、もとい情熱に当てられてだんだん人間的な感情を表すようになってくるってとこじゃないかな。こういうのって、こういうのって、なんか最近の言葉にあったような・・・・そうだ、確か「ツンデレ」というのだ。
 で、思い出したのはこれ。VOICE 「KY総理」のキャラ分析(1)/斎藤 環(精神科医)。最近のYAHOO!ってサービスいいのねー。
 福田首相は「ツンデレ執事」キャラなのか~。それでわかった。「たかじん」で福田さんと太田(述正)さんの写真が並んでからかわれていたのは、冷笑的な口癖が似てるからだ。ひねくれ者と言われてたけど。
 斎藤環氏は福田さんは「かなり萌キャラ」だと言っている。私もわりと根拠なく好感をもっていて、このあいだテレビで取り上げられたバレンタインとホワイトデーの記者とのやり取りなんか無条件に笑った。ホワイトデーを知らなくっても一向にかまいません。
 それで、私が思うに、太田さんはこのキャラ立ちを大いに利用すべきだと思う。いつもダークスーツに地味なネクタイをして沈着冷静でていねいな言葉遣い、ごく稀にのみ感情をあらわにしてキュートな振る舞いをすればきっとテレビ受けして女性ファンも増えるのではなかろうか。もっともそれで太田さんの意見が理解されて同調者が増えるかどうかはわからないけども。

二枚舌

2008-04-01 23:00:50 | テレビ番組
 月曜日のNHK知る楽「悲劇のロシア」はショスタコーヴィチだった。
 
 ドストエフスキー以後は、マヤコフスキー、ブルガーゴフ、エイゼンシテインと、ロシア革命以後の芸術家たちがスターリンの独裁体制下において、どのように権力と表現の狭間で葛藤したかということに焦点が置かれた講義だった。
 1932年、ソ連共産党中央委員会は文学を含む芸術の全領域において組織的活動を禁止し、党の支配下に置く決定をした。芸術活動をも社会主義体制の挙国一致的な宣伝に使おうとしたのだ。表現活動の自由が徐々に狭められていく中で国民的詩人のマヤコフスキーは自殺したし、劇作家のブルガーゴフは虎の尾を踏んで上演禁止、失意のうちに死んでしまう。彼らはみな天才的な才能があったからスターリンは利用できるだけは利用しようと紐をつけて放し飼いにしていたのだ。スターリンってのはつくづくおそろしい人だ。マヤコフスキーなんか本人は知らなかったが、友人も愛人もみな秘密警察のスパイだったということだ。
 
 ブルガーゴフは人気作家で、革命を揶揄した戯曲「トゥルビン家の日々」はスターリンも大好きだったらしい。しかし検閲が厳しくなるとアイロニーに満ちた彼の作品はすべて検閲に引っ掛かって上演禁止。薄氷を踏むような状況の中で、革命前の若きスターリンを描いた戯曲「バトゥーム」を劇場に依頼されて書く。(バトゥームはグルジアの都市でスターリンが大規模なストを組織して有名になった土地だ。)起死回生のチャンスだったはずだ。ところがこれも結局上演禁止。しかもスターリン直々の命令で。なぜか。問題は「ほくろ」だった。スターリンは若いころ何度もシベリア送りになっているがそのつどすぐに釈放されている。どうも革命前に帝政ロシア秘密警察の二重スパイだったのではないかと推測されている。もちろんそんなことは決して知られたくないから政権を握った後で徹底的に証拠を消したはずだが、ブルガーゴフは戯曲の中に、その証拠となる資料からの引用をちらりと忍ばせたのだった。決して誰にも知られたくないことを「知ってるからね」とウインクされたように感じてスターリンは激怒したに違いない。結果上演禁止。ブルガーゴフは事実に忠実であろうとしたために非常に危険なことをしてしまったわけだ。
 エイゼンシテインだってそうだ。スターリンの尊敬する「イワン雷帝」の映画制作を依頼され、第一部では依頼どおりの勇者を描いたが、第二部では大冒険。過去の殺戮の罪におののき「悔悟」するメランコリックな君主を描いた。どうやら大虐殺をしながら罪の意識を持たないスターリンを「啓蒙」してやろうという意図があったらしいのだがもちろん上映禁止でお蔵入り。「残酷さが足りない」という批判によって。スターリンには啓蒙は通じなかった。


 では、ショスタコーヴィチの場合どうだったか。彼もまた国家権力の抑圧と干渉に耐えながら生きざるを得なかった芸術家だ。その「闘い」の形式は「二枚舌」だという。テキストから
「二枚舌」とは、独裁権力のもとで芸術家としての良心を救いだす(「サバイバル」する)ための手法であり、より具体的には、作品の内部にみずからの真意をしまい込むための作業である。要するに本音と建前の巧みな使い分けをいうが、一歩進んで、作品内にさまざまな「仕掛け」を地雷のように埋め込んでいく場合もある。あるいは翻っていうなら、弱者である芸術家が、個人へのテロルすら厭わない独裁権力に対しての「プロテスト」の一形式と見ることもできる。ショスタコーヴィチの弟子の一人は、このようなサバイバルとプロテストの手法を、レーニンの著名な論文「一歩前進、二歩後退」をもじって、「一歩後退、二歩前進」と表現した。

ロシアでは「二枚舌」のことを「イソップの言語」というらしい。なるほど。
1936年、ある日突然「プラウダ」に国内外で評判だった彼のオペラ「ムツェンクス郡のマクベス夫人」に対して酷評が加えらた。震えあがったショスタコーヴィチは公開直前の交響曲の発表を中止し、新しい曲を作る。それまでの前衛的な作風を改めた、古典的で重厚な交響曲第五番「革命」だ。翌年の初演は大好評。彼は一気に栄光の頂点に昇りつめる。しかし、この曲にはある仕掛けがあるのだと亀山氏は言う。私でも知っている第四楽章、ここには八分音符のラの音が総計252回出てくる。そして「凱歌」モチーフの音階進行ADEF#。ショスタコーヴィチはあるインタビューで「ラ」音は「私だ」と言っている。古いロシア語ではアー(A)に「私」という意味があった。そしてADEF#、これはオペラ「カルメン」の中の「ハバネラ」の一節prends garde à toi!の音階ADEFが少し変えてあてられている。(私が好きになったら 用心しなさい!ってとこね。)これは「信じてはいけない」「危ないよ」という意味だそうだ。
 つまり。ショスタコーヴィチはこう言っている「私は、私は、私は・・・信じない!(社会主義を)」
 人々に絶賛された重厚、荘厳な交響曲の中で革命の熱気をさんざん歌い上げておいて「でも、私は信じない」って裏の方でつぶやいている・・・すごい。

 戦後ショスタコーヴィチは八年間、交響曲を書いていなかったが、スターリンがなくなった直後の1953年に交響曲第十番を発表している。この中にも暗号が埋め込まれているのだと亀山氏は言う。第四楽章の最後に繰り返される、レミドシ(DEsCH)の音型、これはD.Schostakowitschの最初の四文字だ。(SはEs=変ホ)つまり「私はここにいる」と言っている。スターリンの死後はじめて高らかに宣言されたショスタコーヴィチ自身の存在証明、そして芸術の「よみがえり」だっていうのだ。よほどうれしかったのだろうね。

 こうしてみるとロシアって国の歴史はほんとうに悲惨だ。亀山氏は最後に「ロシアの悲劇性」について話しておられた。
 ひとことで言って、ドストエフスキーにおける悲劇の本質とは、「傲慢」である。屈従の長い歴史のなかにあって、この地上ではない、どこかへ、という超越的な夢に狂おしいほど憧れた人々の悲劇である。「傲慢」は、民衆から遊離する、知政ある主人公たちの魂のうちにこそ宿った。ドストエフスキーは、その憧れを、なしうる限りの力でこの大地に引き戻そうと願っていたのである。
 同様に、スターリン独裁の時代を生きた芸術家たちにとって、悲劇はそれぞれに形を変えてあらわれる。ある場合には愛する者を失った真の悲しみと、そこから生まれる憎しみの悲劇であり、ある場合には粛清された人間に対する嘲笑と哄笑と、それゆえの人間性喪失の悲劇である。

でも、亀山氏がときどき指摘されていたように、このような悲劇は何もロシアに限ったことではないし、過ぎ去った過去のことと片づけられるようなものでもない。現代だって私たちは圧政に苦しんでいるわけでもないのに息苦しさを感じて「この世ではないどこか」に逃避しようとするし、リアルな感覚を失って安易に人を殺してしまったりする。また世の中には「不意の暴力」が満ちていて、それに傷つかないよう自分を守って生きていくことは大変だ。まさに「サバイバル」の技術が必要になってくる。「二枚舌」ね。なるほど。

 今うちの町は選挙の真っ最中だ。組織や地縁を使った動員と利益誘導を餌にした集票じゃなくて、マニフェストで勝負せんかい!と思うがしがらみがいっぱいあって複数候補の後援会に入り心にもない笑顔で手を振ったりしなきゃいけなくて憂鬱だったが、別に悩むほどのことでもないかという気がしてきた。