読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「イーグル・アイ」

2008-11-15 05:21:44 | 映画
 アメリカ映画を見ていると、映画のストーリーとは別に、ささいな一シーンでびっくりすることがある。たとえば「ブラックサイト」のサイバー犯罪取り締まりの素早さ。あるいはJ・ボーンシリーズでのエシュロン。あんなふうにメールや携帯の音声を国家機関に盗聴され、特定の言葉を拾い上げられていたらと思うとぞっとする。「テロ」とか「アホのブッシュ」くらい誰でも言いそうじゃないか。
 
 「ボーン」は、そのような権限を持つ機関の内部に、それを悪用する機密性の高い殺人組織ができてしまったら・・・という怖さだったが、「イーグル・アイ」は、人間ではなくシステム自体が意思を持って暴走してしまったらどうなるかという話で、こちらの方が怖かった。私たちは普段、「監視は嫌だけど、テロや犯罪を防止するためだったら仕方ないんじゃないの」と漠然と思っている。政治家や治安関係者もきっと「個人のプライバシーよりも国家の安全の方が優先する」と思っているに違いない。だけど、テロ防止のための監視システムが非常に賢くて、『テロが頻発する現在の状況を引き起こしたのは、私の警告を無視して身元の曖昧な容疑者をミサイルで村ごと吹っ飛ばす決定を下した大統領以下の現政権であって、テロを根絶するためには現政権を排除しなくてはならない』と判断したら・・・。

 ネタバレ!
 アメリカでは合衆国憲法で「武装する権利」が認められている。それは何も猟銃を所持して鴨や鹿を撃ち殺す権利が保障されているってことではなくて、政府が人民を虐げる圧政を行った場合には民兵を組織して政府軍と戦ってもよいってことを言っているのだ。その憲法の修正条項を盾に取って軍の巨大コンピュータシステムが、テロの最大の脅威と見なした現大統領以下の閣僚をみんな殺してしまおうと目論む。携帯、ファックス、無人のクレーンや信号、電光掲示板、空港の荷物検査装置などありとあらゆるデジタル制御機器を思うがままに動かして人を誘導し、殺人を実行させるのだ。「これはマズイ!」と思っただろうか、政治家の皆さんは。

 だけども、私はふと「これ、必ずしも間違ってないんじゃないの?」と思った。イラクだけでいったい何人の犠牲者が出たことか。そしてテロの激化で世界中でどれだけの犠牲者が出ていることか。テロの根源は憎悪の連鎖を発生させる「テロとの戦い」そのものにあるに違いない。かくも緻密なシステムがあって、そのシステムが「やめとけ」と言っているのに警告を無視して葬儀の真っ最中の人々を吹っ飛ばすような大統領には死んでもらった方がいいと思う。

 もちろん善良な主人公はそのようには考えないので、必死に体を張って暗殺を阻止しようとする。そしてよくある結末だけども「私たちは安全を保とうとして逆に大きなリスクを負った。」「けれども、このシステムを廃止することは考えていない。」となるのだ。
 すべての情報が一か所に集積されるようなシステムがあるってことがいかに怖いか、そして、いくらよくできたテロ対策システムでもそれを運営する者がアホだったら却って危険性が増してしまうとか、システムが原則を貫徹した結果人間の方が殺される可能性もあるとか、そういうことをわからせてくれる映画だった。

 それからこの映画を観ながら思い出していたのは、オバマ氏が大統領に当選したと決まった日のことだった。私はテレビを見ながら子供に、「アメリカはね、他に選択肢がないんだよ。」と言った。マケインだろうと誰だろうと共和党候補が引き続き大統領になったとしたら、世界中が落胆してアメリカを見放していただろうから。「それでね、あとはオバマさんが殺されないように守らなきゃいけないの。殺したら、元々大統領にならなかったときよりもひどいことになるの。」と言ったのだった。なんて危ない橋だろう。だけど他に選択肢はない。考えてみるがいい。他の候補者は、みんなこのシステムに暗殺されそうな人ばかりじゃないか。

 うーん、いくつかの映画評で「2001年宇宙の旅」の影響が指摘されているけども、たとえば「このままいくと地球は環境破壊で滅びてしまうから、人間を皆殺しにして地球を生かす」という発想もありうるな。
 それって地球が静止する日の予告に出てきたっけ。まだ公開されてないけど。

映画「純喫茶磯辺」

2008-10-28 23:03:43 | 映画
 「純喫茶磯辺」公式サイト
 なんだか観た後で無性にドラ焼きが食べたくなった。ラストで素子がパクついてた顔よりも大きなドラ焼き、あれはすごい。いくらお腹がすいていてもあんなものを平然と公園のベンチに座って食べるのは尋常じゃない。私なら買おうという気にもなれない(パチンコの景品かもしれないけど、それにしても見ただけでお腹いっぱい)。あれは素子の飢えの象徴じゃないかな。焼き鳥屋で、裕次郎に「私なんてダメです。ほんといい加減なやつなんです」と、ずっと言い続けるシーンを見ていて、「あれ、これどっかで見たような・・・」と思った。田口ランディの「被爆のマリア」(文芸春秋)に出てくる謝ってばかりの主人公にそっくりだ。こういうかんじ。
「アタシ、だらしないですから」
「ほらほら、すぐ人の言葉を肯定しちゃう。それがまさにアダルト・チルドレンだなあ」
「それって、どういうことですか?アダルト・チルドレンって」
「まあ、わかりやすく言うと、生きがたい人ですね」
わたしがそうなの?
「大人になっても傷ついた子供の心を抱えて生きている人のことですよ。幼児期に受けた心的外傷、つまりトラウマによって、生きがたさを感じている。佐藤さんも、子供の頃に辛い思いをしたんじゃないですか?親から虐待を受けたとか、そういう経験があるんじゃないですか」

人の誘いを断れないとか、誰とでも寝てしまうとか、恋人がことごとく暴力男だったとか、外面をよくしようとしてなんでも人に合わせてしまうとか、自己評価が低いせいで、他人から理不尽な仕打ちを受けても抵抗できないのだ。むしろ自分からトラブルを引き寄せてしまうようなところがある。美人なのに、美人らしく振舞おうとせず喫茶店の変な制服は着てしまうし、変態のお客に腕を触りまくられても抵抗しない。ドでかいドラ焼きを外でむしゃむしゃ食べるのもそういう尋常じゃなさを表してるのかなと思った。

 ところで、娘の咲子が母親のアパートで食べてたのはフォーク使ってたから生ドラ(餡に生クリーム練り込んであるの)みたいだと思ってたら、やっぱりそうだった。「純喫茶磯辺」とコラボだそうだ。さっそく翌日地元の虎屋に走って生ドラを買って食べたことは言うまでもない。


 最初はなんというロクデナシ親父かとあきれた。宮迫博之は「蛇イチゴ」の詐欺師といい、ロクデナシ男をやらせると抜群だ。冒頭のやる気なさそうな点呼や、ファミレスの食事シーン、素子を口説くニヤケぶり、優柔不断ないい加減さがにじみ出ていて目を覆いたくなる。「こんな親だと子供は苦労するだろうなあ」と咲子につくづく同情した。この男のダメさ加減が結晶したのが「純喫茶磯辺」なんだから、もうこの店はどうしょうもない。すべてのものがちぐはぐ過ぎる。ストーリーそっちのけで考えてたんだけど、ゼブラ柄のテーブルクロスに合わせるには内装は白を基調としてモノトーンのアイテム、従業員の制服は白と黒ならかろうじてOKか。ギンガムチェックのクロスに合わせるにはパイン材のテーブルやカントリー調のカップボード、メニューに天然酵母の焼きたてパンや手作りパイを入れる。70年代風の悪趣味な柄ののれんをどうしても使いたいんだったら薄いピンクやライムグリーンを効果的に入れて白の面積を多くした内装にしてくれ。だけど、それらはみんな外壁の色と合ってないではないか。レンガタイルの外観及び店名と合わせるのだったら、「煎りたて本格珈琲とジャズの店」とか「懐かしの昭和(インベーダーゲームあります)」とかにしなきゃ。で、倉敷の古道具屋にわんさかとあるようなビクターの犬とかブリキのおもちゃを置く。(あ、入口に犬の置物はあったっけ)大黒(か何か)の置物はまあ許すけど、額入り小判のレプリカはNG。ミラーボールは言語道断。毛皮に至っては、喫茶店で何考えてんだ!コノヤローもの。
 
 だから、この店は流行るはずがない。ありえんのだ。すんなり入れる人はよほど不注意な人か、頭が変な人だ。だから最初のお客がヤーさんだったのだ。
 それを素子のコスプレの力で変な人ばかりを引きつけてきているのだからいずれ何かが起こるのは当たり前だった。

 だけども、見ているうちにこう、あまりにちぐはぐで怪しげなお客ばかりが集まってきてるので、なんだかこれはこれでかまわないんじゃないかという気がしてきた。だいたいこのような変な人たちは、この店がなければ一体どこにたむろすればいいのか。考えてみれば私だって、最近のスタバみたいな店は落ち着かない。いや、落ち着かないように作られているのだ。回転率を上げるために。商店街の隙間にこういう変な店があって、変なお客ばかりが入ってきて、それなりに繁盛するのはいいことじゃないか。そう思ってダメ親父としっかり者の娘をもう一度見ると、咲子がグレたりしないでここまでちゃんと育つことができたのはやっぱりダメなりに父親が全力で体を張って頑張ってきたからだという気がしてきた。そもそも親が立派だからって幸せだとは限らないじゃないか。あそこまで親がダメだと逆に自立心がついて将来についても堅実な職業を選ぶかもしれない。母親に「大人だって恋をしたいのよ」とか「私も年下のいい人ができたから、あんまりここに来ないようにして。あんたはあんたでお父さんとうまくやんなさい」などと薄情なことを言われても、「うん」と頷くのだ。健気だなあ。まだ高校生なのに。素子と再開し、仰天のその後を聞かされてもあまり立ち入らずあっさりと別れる。素子が自分のために嘘をついたということをちゃんとわかった上で、彼女の危なさに立ち入らないという距離の取り方にこの子の健全さを感じさせる。今はそういう健全さが大事なのだと思う。

 そして、ラストのシーン。あいかわらずダラダラしたしゃべり方をする父親と一緒に商店街を帰る咲子を見ながら、「ああ、人生ってしょぼいなあ」と思った。しょぼくって、ままならない。だけどそれはそれでまあいいや。
 まあいいや、と思うと、素子の豪快なドラ焼きの食べっぷりもまあいいかと思えてきた。ドラ焼きがあったらとりあえず食う。でっかいドラ焼きだったらひたすら食う。それでいいんじゃないか。

映画「百万円と苦虫女」

2008-10-03 15:57:19 | 映画
 タナダユキ監督「百万円と苦虫女」(公式サイト)。なかなかよい映画でした。

 主人公の鈴子は不器用で世渡り下手で、こういう女の子が旅をしながら成長していくとか、住み着いた先でだんだんと馴染んで明るくなってくるとか、そういう種類の映画が私は好きなんだけど、これはちょっと一味違っている。どこが違っているかっていうと部屋がいつまでたっても殺風景で、引っ越すときには未練なくみーんな捨てて、またトランク一つで出ていっちゃう。私はたとえば、今村昌平監督の「うなぎ」で、刑務所から出所して理髪店を開いた主人公のところに訳あり女が転がり込んできて、彼女が手伝ううちに古くてうす汚いお店がだんだんレトロでポップな色合いになってくるようなシーンが大好きなんだけど、この映画では部屋はあんまり変わらない。変わる間もなく、百万円貯まったらすぐに引っ越してしまう。そして家財道具っていえば唯一、つぎはぎだけどキュートな手作りカーテンだけを持ち歩いている。このカーテンはいい。

 鈴子は行く先々でやっかいなことに巻き込まれる。ああ、なんて不器用なんだろ。かわいそうなくらいだ。桃農家の長男が言うように、もっと自分の意見を最初からちゃんと言わないからそんなことになるのだ。そもそも同居人とトラブルになった事件だって、最初から言葉で怒りを表現してればよかったのだ。こんなかんじ?
 「なんでネコ捨てるのよ!ネコ、死んじゃったじゃないの!」
 「うるせー!イライラしてたんだよ!」
 「イライラしてたら、人のもん勝手に捨てるわけ?あんたの荷物も捨てるからね!」
 「なに言ってんだよこいつ!ギャーギャーうるせーよ!」
 「ネコ返せ!ネコの命返せ!」 バシ!
 「何すんだよ、このバカ女!」 パーン!
 「よ、よくも殴ったわね!・・・殺してやるー!」グサッ!
あ、ヤバイ。傷害事件になっちゃった。

 つまり、こういうドロドロの人間関係が苦手なんだな。でも、ネコを捨てられたからって相手の荷物を全部捨てるってあんまり短絡的過ぎる。で、今思い出したんだけど、私が秋葉原の事件の犯人のことでどうしても解せなかったのは、数日前に仕事着が見当たらなくて騒いだっていう件。もし、つなぎがなくなっていたら「僕のつなぎ知らない?知らない?」って聞いて回ればいいと思うのだ。更衣室が狭いとロッカーを共有しなくちゃいけないことがあって、結構トラブルになるから、あらかじめ共有者とルールを決めておかなくてはいけない。シフトがずれてて会えなかったらメモを残すとか。あと、おんなじもんだから人が間違えて着てしまうこともよくあるし、クリーニングの業者の手違いってこともある。そういう管理の責任者がいるはずで、まずその人に言うべきだ。で、もしそれが何かの嫌がらせだったり、ほんとに辞めろってことだったら(そうじゃなかったようだけど)人事の担当者とか、自分の派遣会社とかに『困ります』と訴える。もしダメだったらもっと上の管理部長とか、工場長とかに直訴するのだ。いくらでも段階はあったはずだ。『悔しい、暴れてやる』っていうのはその後でもよかったのではないか?そこまで考えていつも、「そーかー、そういうコミュニケーションの訓練を受けてないんだ。」と思ってまたよくわからなくなるが、私だって人のことは言えたものではなくって、ネットの世界のコミュニケーションとなるとさっぱりダメだ。トラブルが起こっても誰にどう相談すればいいかわからなくて途方に暮れる。たぶんそんな状態なんだろう。この映画も、きっとそういう人との係わりの苦手な子が否応なしに対人関係のトラブルに巻き込まれて、少しずつ成長していく姿を描いているのだと思った。

 問題は主人公の方にあるばかりじゃない。
 ネコ云々の前に、そもそもなんでこんな男と同居しなきゃいけなくなったかっていうと、調子のいい女友達の口車に乗せられたわけで、考えているうちに、むしろその子の方が常識が欠けててアブナイ人に思えてくる。だけど今の世の中にはそういう非常識で厚かましい人の方が多くて、鈴子はそういう人たちにうまく対応できないだけなんだ。事情も知らないのにひどい噂を立てる近所の人たちや、同窓会で笑い物にしてやろうとする高校時代の同級生や、名前も聞いてないのに「君と僕ってソウルメイト。」などと無理やりナンパしようとする海の男や、村起こしのために嫌がる鈴子を「桃娘」に仕立てようとする村の人たちや、行くとこ行くとこ、利己的な人たちばかりが目につく。そして、鈴子の弟のようにいじめられ続けた末にとうとう我慢ができなくなってキレると、一方的に悪者にされてしまうのだ。見ているうちに私は、「未熟なのは鈴子ばかりじゃないよなあ、むしろ鈴子を通して見えてくる周りの人たちも相当ひどい。」と思うようになった。特に村の人たちに集会所で責められているシーンには、何がなんでも同調を迫る田舎のいやらしさ(及び排他性)みたいなものを感じた。・・・これ、普通なんだろうけどやっぱりおかしい。嫌だな。

 それに反して恋人になった中島君はさわやか青年だった。最初、「あ、鈴子と同じ呼吸の人だ」と思った。好意を持っていることは明らかなのに、とても気を使っておずおずと少しずつ近づいてくる。なんて慎重でやさしい青年なんだろう。と、思っていたから、付き合い始めた後に「お金貸して」って言ったときには衝撃を受けた。「おい、中島、お前もか!!」そしてしばらくは、頭の中が自分の過去の経験に照らしたダメ男のパターン分析でいっぱいになり、映画そっちのけだった。鈴子に完全に感情移入しちゃってるから、問い詰めるシーンでも切なくて胸が痛んだ。中島君は私の中では完全に自己チュー男になってしまっていた。それだけに本当のことがわかったときには再び衝撃を受け、自分の心の狭さを恥じた。こんな不器用な似た者同士はそうたくさんはいないから、お互い別れるにはもったいない、とドキドキしながら見ていたが、よくある映画の結末とは違ってすれ違ってしまうのだ。「ぼくは逃げない。」という弟の手紙を読んで、そのような強さが欠けているということに気づいたのになんでまた出ていくんだろう。まだまだ鈴子には経験が足りないっていうことなのか。それはそれでよいのかもしれない。

 続きがあれば見たいような映画だった。

新藤兼人監督「花は散れども」

2008-09-30 17:17:08 | 映画
 95歳の監督が昔を懐かしんで作った映画。「花は散れども」、あーあ。 
 新藤監督が2、3年前に日経新聞「私の履歴書」に回顧録を書いていらっしゃったときには、ひょっとしてもうすぐお亡くなりになるのではないかと思ったものだ。「私の履歴書」を書いてすぐに亡くなる著名人が結構多いからだ。極貧の中病没した母を懐かしみ、恩師を懐かしみ、結核で夭逝した最初の奥さんを懐かしみ、そして自分に人生を捧げてくれた乙羽信子を懐かしんで、最後は「最近はお母さんのことをよく思い出す。お母さんに会いたい。」などとめそめそと書いていらっしゃったので私はあきれた。まあ、未だお元気のようなのでめでたいことだ。

 思い出したのは黒澤明監督の晩年の作品「まあだだよ」。これは内田百と教え子たちの心温まるエピソードを描いた映画だが、「随筆で読むならともかく、映画にしちゃいかんよ」と私は思った。百はドイツ語教師時代のことも少しは書いているけども、とてもよい先生とは思えない。海軍だか陸軍だかの士官学校で椅子に座って生徒に教科書を読ませているうちに眠ってしまって、はっと気付くと、生徒たちが自分を見つめたままシーンと静まり返っていることがよくあって、『いったいどれだけの時間が空白だったのだろう、ここの生徒たちは礼儀正しいから声をかけたりはしないのだ』などと書いている。さらに法政大学の教授時代には毎夜学生たちと飲んだくれて高歌放吟、近所の墓地から卒塔婆を引っこ抜いてきたりとむちゃくちゃなことをしていて、今だったらきっと「あきれた大学教授!」と週刊誌が書き立てるに違いない。それでも教え子たちが慕って集まり、宴会を開いたり、何事かあれば馳せ参じてきて、先生を助けるために奔走したのだ。これは人徳ってばかりじゃない。そういう時代だったんだ。

 「花は散れども」でもそう思った。あれはまあ、いい先生だったかもしれないけど常識の範囲内だ。修学旅行で映画のロケ現場で大暴れしたりすれば、ふつうは懲戒処分でしょ。昔はスルーだ。普通の先生でも戦前だったら「いい先生」で、「たてまえ」が「たてまえ」として通用し、言葉には一字千金の重みがあり、やさしい女の先生だったらみんな「二十四の瞳」になってしまうのだ。実際はほとんど何もしていない。実家が没落した主人公が中学に入れるようはからってくれるわけでもないし、縁談を世話してくれるわけでもないし、戦争を経て不幸になった教え子たちを助けてくれるわけでもない。それでも「いい先生」なんだ。そういう時代なのだ。みんな貧乏で、そこでしか生きていけない。先生だって共働きのくせにずっと下宿住まいで、小さな家を持てたのはやっと退職してから。それも実家から田んぼ一枚相続し、それを売ったお金で買ったのだ。そこでしか生きていけないし、他に比較の対象もないから先生の言葉は絶対で、それを信じるしかないのだ。個人の能力とかほぼ関係なく、普通の人なら誰でも先生になれば(容易になれる)「いい先生」として生徒の人生に足跡を残せる時代だったのだ。

 それを「昔はよかった」みたいな脈絡で今の教師に要求するのは的外れだ。時代が違う。情報量が違う。社会の複雑さが違う。それを「昔のように」戻したいなら、北朝鮮のように鎖国をすればいい。出国を禁止して。

 だから、まあこの手の映画は老監督の回顧録として記録的な価値はあるかもしれないけど、それだけのものだ。「今の教育に対してどうこう」なんていう批評は的外れだ。


 ところで、私の父は師範学校を出て中学の教師を定年まで勤めた人だ。私は小さかった頃、父は体育の先生だとばかり思っていた。なぜなら父の学校に連れて行ってもらって運動場で遊んでいたら、生徒たちがわーっと出てきて「体育の先生の子供だ」と言ったからだ。
 ところが、小学校に上がって念のために確認してみると、「今は国語を教えている」という。それでずっと国語の教師だとばかり思っていたら、高校の同級生で父の教え子という人が「社会の先生だった」と言う。混乱して確認してみると「もともとは社会科の免許しか持ってなかった」って言うのだ。「国語の免許は取ったかどうか覚えていない」らしい。
 数年前、近所のトレーニングジムでエアロバイクを漕ぎながら隣の年配の人と話をしていたら、なんとその人も父の教え子だということが判明したが「美術の先生だった」と言う。あんまり解せないので実家に帰った折に確認してみたら、「そういえば一年だけ美術を教えたことがある。その時の生徒だろう」と言う。「どうしても教員の都合がつかなくて、校長に頼まれていやいや音楽を教えたこともあった」そうだ。「ピアノなんか弾けないのに、どうしたの?」と聞くと「ピアノのうまい生徒に弾かせたり、指揮をさせて歌って、あとはレコード鑑賞をしていた」ということだ。それでも授業が成り立っていて、昔の教え子はみんな「いい先生だった」と言っているらしい。ちなみに教科の無免がなくても教えなきゃいけないみたいなのは僻地にはよくあることで、私の大学時代の同級生は赴任するなり「国語と体育と家庭科を持たされている」と言っていた。その人は病気になってまもなく辞めた。「無免許許教員が教えなくてもよいように教員配置を増やしてくれ」というのは日教組が何年も要求して実現したことだったはずだ。

 私の父なんかは、学校を出るなり瀬戸内海の小島の中学に赴任し、そこで毎日授業が終わると生徒に舟を出させて暗くなるまで釣りをし、保護者が野菜を持って来てくれるので宿直室で魚をさばいて鍋にし、連日近所の人と酒盛りをしていたらしい。「天国だった」と言っているが、今だったら懲戒免職だろう。父は偏屈でおこりっぽくて今ならさしずめ「暴力教師」だ。なのに昔の教え子は懐かしんで家を訪ねてくる。昔は非行もない、学級崩壊もない、偏差値もない。生徒と釣りをして遊んでいても「教育」になったのだ。

 父の教師人生が暗転したのは、市の中心部の大きな中学に転勤してからだ。当時は校内暴力が吹き荒れていた。「たてまえ」が通用しなくなっていた。これは別に日教組のせいじゃないだろ。毎日夜の12時近くに帰宅して、暗ーい顔でご飯を食べ、寝ている間も大声で寝言を言ったり、がばっと起き上がって「おお、あれをしとかんといかん」と言ってまたパタッと倒れて寝たりしていた。警察からしょっちゅう「生徒を補導した」という類の電話がかかるので夜中でも出て行くし、家族よりも警察とのコミュニケーションの方が緊密であった。

 おととしだったか、実家に帰ると父が藤原正彦「国家の品格」を読んでいて「これはいい本だ。」というので「バカいうんじゃねえ!」と私は怒った。典型的な質の悪いナショナリズムの本じゃないか。みのもんたの「朝ズバ!」で中山元国交大臣が薩摩藩の「郷中教育」について言及していた。ふーん、そういうのを理想とするなら、自民党政権が代々やってきた農村社会の破壊をもとどおり修復して、階級制を復活し、国を鎖国して情報遮断するんですね。

「シリアナ」つづき

2008-09-27 22:36:20 | 映画
 今度こそほんとに「シリアナ」

 これは夏ごろ観たDVDで、2005年の映画だ。ジョージ・クルーニーが翌年のアカデミー賞で最優秀助演男優賞を受賞している。しかしよくまあ、こんなわかりにくい筋立ての映画がアメリカで作れたものだと思った。主役級の実力派俳優(ジョージ・クルーニー、マット・デーモン。ジェフリー・ライト)、存在感あふれる大物役者(クリス・クーパー、ウイリアム・ハート、クリストファー・プラマー)らが次から次へと出てくる贅沢さ。しかも3つのストーリーが同時並列的に進行していて、だれが主人公だかわからない。見ているときには、いったい今何が起こっているのかもよくわからない。だれも明快な解説をしてくれない。不親切だ。そして、最初に出てきたCIA工作員ボブ(ジョージ・クルーニー)は、最後ミサイルで吹っ飛ばされて死んでしまうのだ。それはないだろう!
 このわかりにくさは、わざとそうしたのかと疑っていたらやはりそうだった。この映画の元になったのは元CIA工作員が実際の体験を書いた本だ。
 元CIA工作員ロバート・ベアが語る映画『シリアナ』の真実(月刊PLAYBOY 2006年3月号)

 簡潔にいうとこういうことだ。シリアナという(架空の)中東の国がある。石油を産出して莫大な利益を得ているが、その利益のほとんどを王族が独占しており、国民には還元されていない。他に産業らしい産業もなく、国民は貧しく失業率も高い。首長の長男ナシール王子はスイスのエネルギーアナリスト(マット・デイモン)と知り合い、社会改革の必要性を吹き込まれる。そこで天然ガスの採掘権を中国企業に発注し、また政治の民主化を進めようとするのだがそれは一族との軋轢を生む。そしてそのことはそれまで採掘権を一手に握っていたアメリカの石油メジャーにとっても都合の悪いことであったので、彼らはナシールを排し、現状維持派の弟を王位継承者として擁立しようと働きかける。CIA工作員ボブはナシール王子の暗殺を命じられるが失敗する。自分の受けた指令に疑問を持ったボブはどこからその指示が出ているのかを探り始める。そして、石油産業と政治家との癒着、正義とはほど遠い利権のための暗殺という真実を知り、ショックを受ける。彼はゲームの駒として動くことを拒否してナシール王子に警告しようとするが王子一家の車もろとも爆破されてしまう。

これでだいぶすっきりしてくる。

 エゴむき出しのアメリカの中東政策ってものがよくわかるじゃないか。映画でCLI(イラン自由化委員会)なるものが出てくる。「中東の女性たちは虐げられている。」などと言ってイランの民主化を推進しようとしているらしいが、実際にはメンバーは石油産業で利益を得ている政財界の大物ばかりだ。ボブが会議で腹を立て、「アメリカのやり方に民衆の反発が高まっていて非常に危険な状況だ」と報告しても「そんなはずはない」と一蹴する。なぜアメリカがイラク戦争を起こしたか、なぜ9.11が起きたか、映像で見せられると「やっぱりそうだったのか」ってよくわかる。こんなアメリカのえげつなさを抉るような映画がよく作れたものだと思った。そして一流の俳優がこぞってこの映画に出たがったっていうことは、やっぱり「テロとの戦い」という欺瞞にみんな気づいているんだな。あー、少なくとも都市部のインテリ層は。

 問題は、CIAがこのような陰謀に利用され、どこから出ているかわからないような危険な指令を受けた工作員が誘拐や暗殺や拷問をしていて、それで世界が変わってしまっているということの恐ろしさだ。上記ロバート・ベアの本を読むとCIAがとんでもない組織だってことがよくわかる。そしてアメリカの標榜する正義とか民主主義って奴が実はアメリカの都合のよいように世界を利用するためのものに過ぎないってことも。

 だからアメリカは北朝鮮との交渉にあんまり熱心じゃないんだな。だって石油も天然資源も出ない貧乏な国だもん。テポドン飛ばしてもアメリカには届かないしね。じゃあどうするかって、やっぱり日本はアメリカへの依存度を徐々になくしていって、東アジア地域で経済や安全保障の協力体制を築いていくしかないんだろうけど、その目的への道のりは遠そうだなあ。

映画DVD「シリアナ」

2008-09-26 16:02:22 | 映画
 先日、現在公開中の映画「ウォンテッド」(You Tube予告編)を見た。派手なアクション(殺人シーン)が多くてなかなか楽しかった。
 暗殺を目的とする「機織り職人」の秘密結社?ターゲットの名前が織物の布目に暗号であらわれてくる?そんなもん信じるなよ!“Fate”(運命)ってなにさ!誰が陰で操っているかわかったもんじゃない。見ているうちに「ああ、これってあれだ」という気がしてきた。ほら、「ボーン・アイデンティティー」三部作とかあの類の、「社会的秩序を守るために超法規的行動も許される秘密の組織を作ったところ、その内部のトップにいる奴が私利私欲のためにその組織の鉄砲玉を使って悪いことをする」というパターン。しかも他のセクションからは見えないのでその不正はだれにも知られない。「どうもおかしい」と思った鉄砲玉が独自行動をしてその不正を突き止める、ってやつ。
 ただし、この映画は甘いと思う。リーダーの不正をメンバーの前で暴いたところ、逆に殺されそうになるがその時、「自分の命より、組織より、“Fate”の正統性の方が大切だ」と考える一人がいてメンバーを自分ごと皆殺しにしてくれる。結局、わけのわからん“Fate”とやらはそのまんまじゃないか。主人公はそれに従って生き残ったリーダーを殺し、おそらく正統な後継者として後を継ぐのだろう。それでいいのか?


 「ボーン・アイデンティティー」シリーズは、「ほんとうの自分探し」の物語じゃなくて、記憶が書き換えられていることは事実として、書き換えられる前の「ほんとうの自分」ではなく、上書きされた情報を持つ新たな自分の内発性に従うしかないじゃないかという「トータル・リコール」のテーマを踏襲しているように思った・・・けど、そう単純でもないか(宮台ブログ「大ヒット映画に対する出鱈目な批評の横行に文句が言いたい!」)。どこかに“Fate”(天の目)があって、それに従えばいいっていうのじゃなくて、記憶の書き換えによって人は容易に殺人マシーンになるし、どこにも正統性はないし、しかもそれを「自ら志願した」という事実によって免責もされないってことが大事なのか。
 さらに、そのような状況は何もCIAとかに入ってなくても、「現代社会を生き抜くためには欲望の制御が大事だ」みたいなことを考えてる私なんかにも言えることで、それ自体が「被制御の産物」だ・・・って?まったく救いがない話だ。もっとも、欲望の制御ってったって自己啓発セミナーにも行かないし禅寺にこもるわけでもない私は意思の力だけじゃ実現不可能だけど。
 10数年前に友人たちの間で自己啓発セミナーがはやって、私も青年会議所主催の公開講座(1日限定)に行ったことがあった。心理学の交流分析的手法を使ってて、あれはあれでいいんじゃないかと思ったけど、ネットワークビジネスっぽいところがイヤでセミナーには行ってない。友人の中には発奮して起業した人もいたけど、2、3か月たつとモティベーションが落ちると言ってあれこれハシゴした人もいる(最後に「モティベーションが落ちない」って感激してたのがヒーリング系の「前世療法」ってやつだった。そこに行くのか)。

 先日NHKスペシャル(「戦場 心の傷(1)兵士はどう戦わされてきたか 」「戦場 心の傷(2)ママはイラクへ行った」を見たが、このような、兵士を「戦闘マシーン」にするための訓練によってイラクからの帰還兵たちが社会に適応できなくて苦しんでいる状況が報告されていた。「兵士から人間らしい感情を奪い、条件反射的に殺人ができる」訓練プログラムは年々進化して殺人も精度も増してきているらしいけど、戦場から帰った兵士の心のケアをし、日常生活に適応できるようにするプログラムというものはまだまだ未発達で、実施状況も不十分のようなのだ。社会的にトラブルを起こす人はわずかだけれども、帰還兵の半数近くが何らかの心の問題を抱えてケアを必要としているらしい。こういった問題は自助努力では解決できないので、精神的な治療法がもっと深められなくてはならないし、帰還兵の「戦闘解除プログラム」みたいなものが確立されなくちゃいけないと思う。けれども、人間の心って、そんなにプログラムひとつで「戦闘モード」「日常モード」と切り換えることができるんだろうか?2度も3度も召集されてる人はどうなるんだろう。危険じゃないか?

 あるいは、戦闘的でなくては生きていけない社会に適応するために、自己啓発セミナーに参加して「戦闘モード」に書き換え、みなで経済活動に邁進したとして、その結果が9・11であり、「ダーウィンの悪夢」であり、地球環境の破壊であるとしたらどうすればいいのだろう。「ボーン・アルティメイタム」も結局は悪の大元がいて、そいつを通報して捕まえれば一件落着だけども、現実にはそんなに単純じゃない。誰が悪いやつかなんて、はっきりしない。いや、悪いやつなんてほんとはいないのだ。みんなが現状に適応しようとした結果がこうなのだ。

 とりあえず言えることは、「ただでさえ秘密性の高い組織の中に、さらに特別な組織を作って超法規的行動をとらせるようなことはしてはいけない」ってことだろうな。誰に責任があるかわからないような複雑な組織とか、もしもトップが悪いやつだったらとんでもないことになってしまうノーチェックの組織とかは変えなくちゃいけない、と。アメリカ映画で最近その手の教訓を示唆するようなのが目立つように感じるのはやっぱり「今のアメリカは危険な状態だ。このような教訓を忘れるな」と繰り返し警告することが必要だと思っている人がいるのかなと最近思う。

あ、「シリアナ」にたどり着いていない。
つづく・・・

映画「大統領暗殺」

2008-09-18 22:40:01 | 映画
 ウイルスとの格闘
 息子が「フリーのゲームソフトを落としたらウイルスの警告が出るようになってしまった。」と言う。警告が出ても、ブロックしたということだからと心配していなかったのだが、昨日見るとタスクに見慣れないアイコンがいて、やたらと警告を発する。消しても消しても立ちあがってくるので、やっとおかしいと気づいた。このセキュリティー警告を発するソフトそのものがウイルスなのだ。
 警告の一文を検索すると、シマンテックのサイトがヒットした。複数の偽の警告を出してセキュリティーソフトのバージョンアップ版を買うよう誘導する。もちろんそんなものはインチキで、お金をだまし取ろうとしているのだ。

 パソコンのセキュリティーソフトとスパイウェア駆除ソフトでスキャンして、書き換えられたレジストリも削除したが、「システムの復元」機能を切ってなかったため、敵はゾンビのように再び蘇り、けたたましい警報を発し続ける。
 ヨレヨレになりながら再度検索すると、よく似た症状で困っている人を発見。「教えて!goo」 回答にあった駆除ツールをダウンロードしてセーフモードで起動してやっと解決した。ほぼ半日がかりの格闘であった。

新聞の見出し
 一昨日の記事を書きながら、朴正煕大統領の暗殺事件も思い出していた。と言っても、あの頃はまだ子供で政治や世情にはまったく興味はなかったのだが、あの日ふと新聞を見ると、「朴正煕韓国大統領暗殺」という禍々しい真黒な見出しが第一面トップに載っていたのでとても驚いた。「見出し」にだ。そんなものはそれまで見たこともなかったのだ。「これ、何?この見出し。変じゃない?」と父に聞いたところ、「これは、天皇の崩御や国家元首の死去の際に使われる見出しだ」と言ったのでその新聞は記念に取っておいた。次の「崩御」見出しはいつだろうかと思っていたら、一年もたたないうちに大平総理がぽっくりと亡くなり、再び見ることができた。その新聞も保存しておいたので、今も実家のどこかにあるはずだ。
 ウィキペディアにも書いてあるけど、大平総理が亡くなった際には自民党に同情票が集まり総選挙で大勝したんで、「こんなことで同情票を入れるなんて、日本人はバカだ!」と父が怒っていたのを覚えている。だから最近思うんだけど、自民党は麻生さんか誰かが、脳溢血かなにかでぽっくり死ぬようなことがあったらきっと選挙で持ち直すんじゃないかな?これがほんとの起死回生、って・・・。あー、でも福田さんじゃだめだろうな。

 「大統領の暗殺」
 ウィキペディアを読みながら、朴大統領は金銭的には潔癖な人であったらしいし、朝鮮戦争、南北の分断、冷戦、ベトナム戦争という厳しい世界情勢の中で疲弊した国を立て直すには強権的な手腕も必要であったかもしれないとも思ったが、それにしたって独裁的手法、言論弾圧や人権侵害、権力への固執はやっぱり典型的な独裁者で、決して許されるものではない。「光州5・18」を見ている時も、自分がもしあの時代に韓国に生きていたら、ほぼ100%民主化運動に参加しただろうと思った。正しい情報が入ってこないからきっと「軍事独裁より、共産主義体制の方がなんぼかましだ」と、もしかしたら北に亡命して、そして餓死していたかもしれない。

 それにしても、独裁者を暗殺してもすぐさま揺り戻しがきて、まるでそっくりな軍事独裁政権がゾンビのように蘇ってくるというのはなぜだろう。やっぱり、社会が成熟していないってことなのだろうか。そして「暗殺」という政権転覆の手法は役に立たないってことなんだろうか。
 ということを考えさせてくれたのが、ブッシュ大統領暗殺をシミュレーションした「大統領暗殺」というDVDだ。「光州5・18」の後に借りて見た。

 テレビの「ケネディー大統領暗殺」の検証番組さながらに、周辺の人物の証言で構成されていて、ものすごくリアリティーがあった。セキュリティーのSPとか演説の原稿を書く女性とかが、あの時ああだった、こうだった、大統領は私にこう言ってくれたみたいなことを事細かに証言するのだ。まるでブッシュ大統領が歴代大統領の中でも断トツのすばらしい人物みたいじゃないか。そしてイラク戦争に反対する過激な市民団体のリーダーとデモ隊の映像も出てくる。悪役みたいに憎たらしい。悲劇的暗殺シーンがニュース映像のように流れ、広報担当の女性が涙をこらえながら「大統領夫人と一緒にお祈りしました」なんて言う。
 やがて何人かの容疑者がつかまり、狙撃犯がいたとされるビルで働いているアラブ系の技術者がもっとも怪しいと決めつけられる。その男の妻の証言から、それは間違いであると私たちにはわかるのだが、男がテロリストグループの軍事訓練に参加したことがあるという経歴が明らかになって、もう何をどう弁解しても「イスラム原理主義テロリスト」というレッテルが貼り付けられて容疑は深まるばかり。要するに世論にわかりやすい「テロ」という図式にぴったりはまるので、この人物を犯人に仕立てあげたいのだ。
 実際は、現場近くにいた別の人物が事件直後に自殺し、暗殺をほのめかす遺書を書いていたのだが、その事実は誰も注目しない。その人物は退役軍人で、息子の一人をイラクでなくし、「ブッシュがアメリカをだめにした」と恨んでいたそうだ。これはマズいだろうな。
 悲壮感に満ちた荘厳な国葬が執り行われ、ブッシュは英雄に祭り上げられる。テロリストにされてしまった容疑者の妻は最後に言うのだ。「犯人は考えなかったのでしょうか。自分の行為がどういう結果を引き起こすか。自分の息子や妻のことを、ちらっとでも考えなかったのでしょうか。私はそれを聞きたい。」

 おお、これはなんと教育的な映画だろうか。国をボロボロにするダメ指導者がいたとして、政権を変えたいと暗殺なんかしてしまったら、かえって逆効果だってことがよくわかるではないか。きっとさ、ブッシュが暗殺された後も同情票が集まってまたおんなじような共和党の大統領が出てくるに違いない。「だから、どんなに憎たらしくても、絶対に暗殺はしちゃダメよ。きっちり最後まで生かして責任を取らせましょ。」と言っているのだ。すごいブラックユーモア。楽しいね。商業的なアメリカ映画はだめだけど、こういうのが作れるってところはすばらしいと思う。(某圧力で公開劇場数が予定の5分の1以下に減ってしまったそうだけども)

宮崎駿監督「崖の上のポニョ」

2008-09-08 23:57:01 | 映画
 「崖の上のポニョ」公式サイト 
夏休みに中3の息子と見に行ったら、座席は超満員だった。しかも半分くらいは小学生以下の子たちだったので息子が「この映画って、もしかしてチビッ子向けなのか?」と居心地悪そうにしていた。いやいや、大人が見ても十分楽しめる奥の深い作品だったよ。帰ってきたら無性にハムが食べたくなったので2、3日はハムたっぷりのサンドイッチや厚切りハムのせチキンラーメンばかり食べていて、だからこの映画には日本ハムとか日清食品が協賛するべきだと思った。

 みんなポニョがかわいいというけれども、私はかわいいのと怖いのと半々くらいだった。だってポニョのせいで津波が起こって町が水没してしまったのだ。被害総額何千億円だろう。あそこがたとえば鞆だとしたら福山市内のどのあたりまで水がくるだろうか。きっとお城の北側や東側の山を除いてみんな床下浸水してしまうだろう。そんなことより、人工衛星が次々に墜落して、月が地球の引力に引かれて接近しつつあるのだ。地球存亡の危機ではないか。それを心配しておろおろしているのがポニョの父親である藤本だけだというのがおかしい。私が一番おもしろいと思ったのがこの藤本さんだ。

 この人は人間の世界に愛想を尽かして、苦労の末めでたく魔法使いになれたという興味深い経歴の持ち主だ。ポニョが「ハム~!」と言うと「何、ハム?あんな危険なものを!」と目を剥く。大丈夫、リサさんは抜かりなさそうだからきっと生協の発色剤・保存料・人工調味料無添加のハムだったと思うよ。

 彼はなんだか怪しげな「命の水」みたいなものを精製している。それがポニョのせいであふれ出てしまったら、見たこともないような太古の海中生物が泳ぐ海に変わってしまう。きっと汚染された陸上の世界に見切りをつけて海中を甦らせようとしていたのだろう。すごい技術だ。なのにポニョは「ポニョ、閉じ込めた。悪い魔法使い」と言う。ああ、子供のことを案じてやったことがまるで理解されないのだ。

 そこで私は宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」を思い出す。試写会の時に宮崎駿監督が途中でロビーに出てきて、不機嫌な顔で「見ていられない」「私は父親として見てるんですよ」とおっしゃったのをテレビの「『ゲド戦記』製作記」みたいな番組で見た記憶がある。あっ、そうか、「ゲド戦記」は「世界の均衡が崩れて」虚無がはびこり、息子が父を殺すのだ。「ポニョ」の方は子供が世界の均衡を壊してしまって、父があたふたと走りまわる話なのだ。子供のためを思って、追いかければ追いかけるほど子供は父親を憎んで逃げ回る。

 その点、母親はおおらかなもんだ。「あの子の自由にさせましょう」という。「でも、もし受け入れられなかったらポニョは泡になってしまうじゃないか」とあわてる藤本さんに「あら、私たちはもともと海の泡から生まれてきたのよ」なんて軽く言う。きっとこのグランマンマーレは、月が地球に激突して人類が滅びてしまっても「あら、私たち生き物はみんなもともとは海の泡から生まれてきたのよ。もう一度最初からやり直せばいいじゃないの」なんて言うのだろう。そう言われればそうなんだよなあ、と私はひとりで想像して納得してしまっていた。だけども、世界が水没してしまったら、私はとてもサバイバルできそうにないし、第一泳げないから最初に溺れ死ぬに違いない。

 今年は集中豪雨が多かったからなんだか映画の水没シーンをたびたび思い出してしまった。

押井守監督 「スカイ・クロラ」

2008-09-06 23:04:42 | 映画
 最近、何を考えていたときだったか忘れてしまったけど、「戦争をしたい人は、そういう人同士でどこか空の彼方とか砂漠のど真ん中とかで殺し合いをしてほしい。もお、一般人の頭の上に爆弾を落としたり、女子供を殺したりするのはやめてくれよ。」と思っていたら、「スカイ・クロラ」はまさにそのようなシチュエーションの映画であった。

 公式サイトの予告編で語られているけれども、戦うのは「キルドレ」という「永遠の子供」たちだ。彼らは美しい。感情や欲望をあらわにすることはほとんどなく、性格は純粋で、思考は単純明快即物的。ただ「飛びたい」がために飛ぶのだ。いつか戦闘機が撃墜されて自分が死ぬことを知っているが、それを恐れたり悲しんだりはしない。殺し合いをするという実感もなく飛んで撃ち合う。映画の冒頭に空のシーンがたっぷりと出てくる。すい込まれそうに澄んでいて、雲が流れる様子がとても美しい。彼らは地上では生きられない。大人の世界ではとても適応できないだろう。だから飛ぶ。飛ぶために生きている。飛べなくなったらとても生きていけない。

 最初は「思春期の姿のまま永遠に生き続けるだなんて、うらやましいことだ」と思った。だけど実際はとんでもないことだった。戦争を請け負っている二大企業は、戦闘技術を受け継がせるために戦死したパイロットを何度でもよみがえらせるらしい。どうやってかわからないが、クローンとか電脳情報のダビングとか、そんな高度な技術があるのだろう。名前と顔形は違っているのに受け継がれる癖やときどき起きるデジャヴ。薄々みんな気づいている。なによ、これって地獄じゃない!
 何度も何度も戦って死に、何度も何度も始める。

 沈着冷静な草薙水素(スイト)が上司に食ってかかるシーンがある。本部がわざと敵機襲来警報を遅らせ、こちらに被害を出させようとしたときだ。エースパイロットである函南優一が赴任してきたため戦況に偏りが生じ、ゲームとしておもしろくないのでそんなことをしたらしい。パイロットはただのゲームの駒か。「かけがえのない命」とか「平和の大切さ」とか、そんな言葉は大人の世界ではただの欺瞞にすぎない。水素はこう言う。
 「戦争はどんな時代でも完全に消滅したことはない。それは、人間にとって、その現実味がいつでも重要だったから。同じ時代に、今もどこかで誰かが戦っている、という現実感が、人間社会のシステムには不可欠な要素だから。そして、それは絶対に嘘では作れない。戦争がどんなものなのか、歴史の教科書に載っている昔話だけでは不十分なのよ。本当に死んでいく人間がいて、それが報道されて、その悲惨さを見せつけなければ、平和を維持していけない、平和の意味さえ認識できなくなる。・・・・・空の上で殺し合いをしなければ生きていることを実感できない私たちのようにね」

 (この台詞を引用したいがためにパンフレットを買った。)
 いかにも押井監督らしいセリフだと思う。実際、原作にはこんなセリフは載ってない。原作のシリーズ前半は草薙水素の物語で、エースパイロットとして飛んでいた頃の彼女の心象風景がよくわかるのだが、その透明感のある純粋さに圧倒される。空に溶け込むような硬質の美しさだ。だけどうらやましいと思うと同時に、「こんなじゃあ絶対、一般人と一緒に社会で生きていくことはできないだろうなあ」とも思った。適当に嘘を言ったり、人の機嫌を取ったり、愛想笑いをしたり、偉い人にヘコヘコしたり、それって人間関係をうまくやっていくために仕方がないんだよ。一々あなたみたいに「腐っている」とか「ドロドロだ」とかって嫌悪感を覚えていたら生きていけないんだって。まあ、そういうことができないから「永遠の子供」なんだけどもね。

 これってだれかに似てるなあと考えていたら、やっと辿り着いた5冊目の「スカイ・クロラ」の各章に、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」の引用があって思い出した。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だ。なるほど押井監督好みだ。草薙水素って名前だって、ユーイチの前任者ジンロウの名前だって、押井作品にちなんでいるじゃないか。きっとこの作品は原作の森博嗣から押井監督へのひそかなラブ・コールだったに違いない。
 だけども映画の映像は、驚くほど細部まで作り込んであって、こんなリアリティーのある映像は押井監督くらいしかできなかっただろうとも思う。
(原作は映画みたいにすっきりしてなくて謎が謎をよんで終わっちゃうんで、ぜひ次の「スカイ・イクリプス」を買わなくっちゃ。)

 原作と映画とのもうひとつの違いは最後のシーンだ。水素はユーイチを殺さず、ユーイチはこう言い残して、無敵のパイロット(ティーチャー=大人)に戦いを挑んで行く。
 
 「それでも・・・・昨日と今日は違う。今日と明日もきっと違うだろう。いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない。」
 
これが押井監督からのメッセージだ。
 映画を見ながら私は、キルドレのように何度も生き返って同じような生を繰り返すなんて無間地獄のようだと思ったけど、考えてみれば人間はみんな何度も生まれ変わって同じような生を繰り返しているのではないかとも思った。(島田雅彦「徒然王子」の影響?)だったら何も彼らだけが悲惨なのではなく、人間はみんな悲惨なのだ。あのパイのお店の前に腰かけて毎日毎日何かを待っている老人のように。だからこれは現代の「生きている実感のない」若者たちだけじゃなくて、生きることに疲れたすべての人へのメッセージなのだと思う。

 そうなのかもしれないなあと思った。エンディングの後にふろくがついている。ユーイチの後に新しく赴任してきたパイロットが水素に挨拶をするシーンだ。空は青く空気は澄んで緑は美しい。その美しさは胸に沁み入るようだ。人生はそんなに悪くないかもしれないと思えてきた。

 そして、2日ばかりたって、北京オリンピックの開会式当日、ロシアがグルジアに侵攻したというニュースが入ってきてがっくりきた。デジャヴ・・・・。ライス国務長官の批難声明もなんだかデジャヴであった。
 やっぱり無限地獄かもしれない。



映画「ノーカントリー」

2008-05-05 17:15:04 | 映画
 今年見た映画の中で一番おもしろかった。公式サイト
 大金を奪った男を追う殺し屋が、意味もなく人を殺しまくる。いや、「意味もなく」というのは間違いだ。彼の中では合理的な理由があるらしい。宮台ブログに書いてあった。やっぱり彼は「脱社会的存在」って奴だ。雑貨屋の店主が「テキサスから来たのかい?車が雨にぬれていた」と言うと「何でそんなことを聞くのだ」と怪しむ。普通の人間だったら「ああ、そうだ。親戚の家を訪ねる途中さ」とか嘘八百でも適当に言えるが、彼には言えない。店主がやり取りに異様さを感じて「もう店を閉めるところだ」と言うと「なぜ?まだ明るい。いつもは何時に閉める」と聞く。このへんのやり取りのちぐはぐさから彼が普通の会話ができないということがわかる。殺し屋はこの店主を殺すかどうかコインを投げて決めさせる。「このコインと一緒に旅をしてきた」と彼は言う。自分の人生もコインを投げたときの表裏と同じように偶然によって今に至っているのに過ぎないし、人の生き死にも偶然の産物に過ぎないと考えているのだ。だから人を殺すのに罪悪感はない。

 田口ランディの小説によく「言葉を音として聞く」というシーンが出てくる。普通、言葉には意味が不随しているが、主人公たちにはそれが理解できないことがよくあるらしい。なぜなら人は心とはまったく裏腹のことを言うことがあるし、言葉の示す意味とはまるで逆の意味合いを持つ調子で喋ったり、振る舞ったりすることも多いからだ。普通私たちは言葉の裏にある意味を無意識のうちに読み取って適当に会話しているが、彼らにはそれができない。額面通りの意味を読み取ることしかできないので混乱してしまうのだ。たとえば「もう店を閉める」と言われれば「おまえは迷惑だから早く出て行ってくれ」という意味があるのだがそれが読み取れない。ただ、行為の異常さとしてしか認識できない。田口ランディの小説では、人とのコミュニケーションがうまくできないような育ち方をした主人公たちが、そのような混乱から身を守るために「言葉から意味を削ぎ取って、音として聞く」という行為をする。すると、言葉の持つ意味そのものではなく、別な意味合いが見えてくることがあるらしい。私は「ノーカントリー」の殺し屋も、コミュニケーション不全による不利益を避けるために自分なりのルールをこしらえて、それに忠実に従っているだけだと思う。だから、人から見てどんなに無意味な殺しであろうと、それは彼にとって合理的なのだ。「自分の身元を詮索する人間は殺す」。私たちから見ると、何も雑貨屋のおじさんを殺す必要はないように思えるが、モス(大金持ち逃げ男)が別の殺し屋に居所を突き止められたのは、女房の母親が空港で親切にカバンを持ってくれた紳士に気安く話したからだということを思うと、人に安易に個人情報を漏らすことがどれだけ危険な結果を招くかわかったものじゃないのだ。殺し屋は、ジェイソン・ボーンみたいに訓練を受けているわけでもなく、人一倍他人の感情を読み取ることが苦手なので、自分の決めたルール通りに危険な人物をしらみつぶしに殺していくしか生きる道がないのだと思う。

 異様といえば、麻薬取引のゴタゴタによって放置された大金を奪って逃げる主人公モスも相当異様だ。ベトナム戦争に二度従軍した経験があるらしい。しかしいくら異様と言っても殺し屋ほどじゃない。メキシコで出血多量で倒れたら、メキシコ人に「病院に連れていってくれ」と頼むし、病院からパジャマのまま抜け出して国境検問所で「アメリカに行きたいのだ」なんて押し問答する。そしたらなんとなくうまくいってしまうところが不思議だが、実に人間的だ。いくら無謀なことをしていても、彼はまだ社会から逸脱はしておらず、基本的に他人を信頼しているのだ。誰も信じず、通ったあとに死体の山を築いていく殺し屋とは大違いだ。

 手に汗握りながら映画を見ていて、ふと「もし私が大金を手に入れたらどうやって逃げる」ということを考えたが、そもそも「大金を手に入れる」というシチュエーションには絶対ならないということにすぐに気がついた。
 たとえば、狩の途中負傷した犬を見つけたら、→「ワンちゃん、おいで、おいで、こわくないよ」などと言いながら夜までかかって犬を追いかけまわす。そして動物病院に連れて行った後で「あれ、ところでなんで犬がけがしてたんだろう」と不思議に思う。
 仮に、犬を通り過ぎて銃撃戦現場を発見したとしたら、→遠くからその光景を見ただけでビビッて保安官に電話する。
 仮に、現場まで行ったとして、生存者を発見したら、→「しっかりしろ、死ぬなよ!」と言いながらその車(麻薬を満載)を運転して病院に直行。男の「家族」に電話して来てもらう。(そのあとで、「あれ、まずかったっけ?」とちらっと疑う)
 仮に、大金を抱えたまま死んでる男を発見したとしたら、→札束を見ただけで気が動転して警察に届ける。
 仮に、万難を排して勇気を奮い起し大金を手に入れたとしたら、→発信機に気づかずそのまんま銀行に預けようとして御用・・・。
 どこをどうやっても、私が大金を手にして逃げるというシチュエーションには辿りつかないことがわかった。ちょっと残念だ。

映画「マグノリア」

2008-05-01 18:28:51 | 映画
 ポール・トーマス・アンダーソン監督「マグノリア」(1999年)
 宮台真司がよく「制御不可能な偶発事によって、自己完結した〈社会〉の中に不意に名状しがたい〈世界〉が闖入してくる」(「絶望 断念 福音 映画」メディアファクトリー)ことの映画における例として取り上げる、「降り注ぐカエル」を見たいと思ったのでこのビデオを借りてきた。まだ見ていなかったのだ。

 しょっぱなからトム・クルーズが、テレビ伝道師みたいにわけのわからないことをわめいていてげんなりする。腰を振りながら「女をモノにするのは簡単だ」みたいなことを卑猥な表現でいろいろに言うのだ。「コックを崇めよ!」「オー!」とか。この自信たっぷりなカリスマ伝道師ぶりはついこの間見たあれだ。「大いなる陰謀」に出てくる若手上院議員。そうか、トム・クルーズは「マグノリア」で詐欺師の喋り方を習得したのか。
 映画では複数の物語が同時進行していく。マルチスレッド形式というらしい。瀕死の大富豪とその若い妻。テレビの人気クイズ番組の名司会者とその娘。娘に思いを寄せる善良な警官。クイズ番組の常連である天才少年とその父。そのクイズ番組で過去にチャンピオンだったが今は全くのダメ人間で職場を解雇された男。最初はまるで無関係に思えた人間関係だが、33年間も続いているというそのクイズ番組が共通項だ。大富豪はこのクイズ番組の企画者として名前が出てくるし、セックス教の教祖は、昔大富豪が前妻とともに捨てた息子であった。ガンで余命いくばくもない名司会者は、実は昔娘を性的に虐待したことがあり、娘はそのせいでドラッグに溺れて人生を台無しにしてしまっている。天才クイズ少年は学校にもいかずひたすら図書館で勉強して、父親に高額の賞金を稼がせている。そのような天才少年のなれの果てが、電気店を解雇されたダメ男。彼は両親に食い物にされ、雷に打たれてバカになってからは何もかもうまくいかず、今では借金まみれ。

 私はクイズ番組が大嫌いだ。特に「ファイナルアンサー?」なんていうのが虫唾が走るほど嫌いなのだけど、子どもが見たがるのでいつも喧嘩になっていた。あんなものを見て知識や教養が増えると思ったら大間違いだ。なんで嫌なのかうまく言えなかったのだけど、「マグノリア」にそのヒントが出てきた。天才クイズ少年が質問に答えて「カルメン」のハバネラをきれいなボーイソプラノで歌うのだ。そのあと音楽は継続して、善良な警官と彼が恋した娘とのデートシーンにつながる。そうだ、まったくトリヴィアルな知識には、「カルメン」を見ながらこの歌を聞いた時に喚起された感情や、人生で誘惑したりされたりしたときのときめきなどは、まるで含まれてない。そんな知識をいくら持っていても社会で生きていくのにあまり役に立たないことは、解雇された勤め先からお金を強奪しようとするダメ男をみればわかる。子どもを学校にも行かせないで賞金を獲得することだけに目の色を変えている父親は何考えているんだ。とんでもない奴だ。

 きっとみんなをつなげているこのクイズ番組は、人間の真っ当な生き方をダメにしてしまうものを象徴しているんだと思う。だからほら、ハバネラで言っているじゃないか。“prends garde à toi!”(気をつけろ!)

 ところであのカエルはどうだったかといえば、私はアマガエルかと思っていたところがバカでかいウシガエルだったのでびっくりした。そのでかいカエルが、すごい速度で大量に雨あられと降ってくるのだ。車のフロントガラスに当たってバスッ、バスッ!と不気味な音を立てながらはらわたを飛び散らせ、血と粘液でそこらじゅうを汚し、家の窓ガラスをぶち破って飛び込んでくる。そりゃあみんな悲鳴をあげるわ。
 魚やいろいろなものが空から降ってきた事件は過去にもいろいろある。竜巻に巻き込まれて上空に運ばれたものが落ちてくるのだ。それこそトリビア的知識で何例か挙げることもできる。だけども、実際にその光景を見た人は肝を潰すだろうし、キリスト教圏では即座にヨハネの黙示録を想起するだろうと思う。特にこの映画では最初に「偶然の一致」が起こった事件を出してきて、そのような「ありえないこと」が、なんらかの意味を持っているということを示唆しているから、当然カエルは何かの予兆なのだ。宮台は、このカエルを「黙示録」ではなく「福音」であると言っている。たしかに、「ありえないもの」を見てしまった後で、道に迷ってしまっていたような彼らは誠実になり、自分の本当の気持ちを直視するようになる。カエルは、神の裁きと破壊の象徴ではなく、見失っていた大事なものを取り戻し、新しい自分を再構築するための契機となった。

 だけども、私は思うんだけど、ちょっとはお仕置きもしてるじゃないの。あの、「虐待は誤解だ」とか「覚えてない」とか最後まで言い逃れをしていた司会者のまさにピストルを持つ手の上に落ちてくるとか、後悔して金を返しに戻ったダメ男の顔を直撃して雨どいから落下させ、歯をへし折るとか(歯の矯正のために金を盗んだのに)。きっと、裁きも福音も天にとっては同じことなんだと思うな。だって、元天才少年のダメ男は雷に打たれてアホになり、アホになることによって強欲な両親から解放されたわけだ。だから、雷もカエルも実は同じだ。雷によって人生が狂い、カエルによってそれが正常になったと思うのは間違いだ。

 雷が気になるのは、実は私にも経験があるからだ。打たれたわけではないが、雷が教えてくれたことがある。
 二年ほど前、夜庭に出ていたらいきなり閃光が走り、一瞬外が昼間のごとく明るくなった。何事かと思っていたら再び閃光が走り、雷鳴が聞こえた。そしてそれが私に、「お前は監視されている」ということを警告してくれた。
 まさか、そんなことはありえないと思っていたが、視覚的にも聴覚的にも誰かに監視されているということがそれから毎日のように新聞に載るようになったので、ただの被害妄想ではないということがわかった。今は載らない。私が脅したのでやめたらしい。監視の方はいつでもOKよ状態のままだ。
 そんなことがあったので私は、「神」とは言わないが、私たちを見ている何かの存在を少しは信じるようになった。この世には特別なパワーを持つ存在があって、その目は世界の隅々まであまねく感知していて、私らは何ひとつ隠し事などできないのだと思う。そして私は予知能力とか霊感とかテレパシーとかそういうものは一切ないが、どうも何かを読み取るかすかな力はあるらしいのだ。それが何かはわからないが。「マグノリア」のカエルと同様、それは「天罰」と「福音」の両方の意味合いを持っているように思える。あの時の雷はわたしにとって、「警告(悪いニュース)」であったと同時に「お前を監視する彼らも監視されている」という私にとってのよいニュースでもあった。みんな平等に監視されてるんだからいいじゃん。カエルはみなに平等に降り注ぐのだ。まさにそのことが福音だ。

ソフィア・コッポラ監督「ヴァージン・スーサイズ」

2008-04-28 00:24:24 | 映画
 近所に旧作DVD、ビデオ一律99円というレンタルショップがあるのを見つけた。TSUTAYAはビデオのみ100円で、DVDはキャンペーンのときしか安くならないんだけど、そこは毎日99円で、キャンペーンの日は新作も一日レンタルが99円になるらしい。激安なのでこの際ゴッソリ借りてきた。
 中に以前から見たいと思っていた「ヴァージン・スーサイズ」があった。私はジェフリー・ユージェニデス の小説「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」を10数年前に読んだときは全然理解できなかったのだけど、映画ならわかるかなと思ったのだ。そしたらわかった。やっぱり映像の力はすごい。

 なぜ五人姉妹はみんな自殺してしまったのか?小説を読んでも全然わからなかったけど、映画ではちゃんと最初の方に答えが出てくる。近所のおばさんがひとこと言うのだ。「閉塞感よ」
 どこがどう閉塞しているのか。自殺未遂をした末娘のセシリアのために両親がパーティーを開くシーンがある。厳格な彼らはこのようなパーティーを開くのははじめてだ。部屋の飾り付けはへたくそでおざなり。父親は少年たちに延々と飛行機の話をしているし母親も愛想が悪い。だけど少年たちは美少女ぞろいの姉妹たちにおよばれしたのでもう舞い上がっている。セシリアは不機嫌そうに椅子に座り、何かを待っている。そこに来たのは悪趣味な服を着たピエロっぽい男の子だ。へんな歌を歌って男の子たちの笑い物になっている。それがセシリアのお相手として呼ばれたらしい。彼女の表情が変わる。たった3秒だ。階段を駆け上がって次の瞬間ベランダから飛び降りる。

 あの3秒の間に彼女は悟ったのと思う。待っていてもこの先の人生ですばらしいことなんか決してないってことを。「輝かしい人生が待っていたのに」と大人たちは言うが、そんなのうそっぱちだ。映像で見ると当時の服装や習慣がすごくヘンテコに見えるんだけど、それを差し引いてもみんな変だ。姉妹がじゃなくて、両親や、近所の人や、テレビのキャスター、神父さんも。男の子ときたらスーツにネクタイを締めて来るし、パーティーで「このあいだの試験どうだった?」「ぼくはイェールに行くんだ。パパもイェールだったから」なんて話しかしないし、近所の人たちは遠巻きにして昼下がりにポーカーをやりながらうわさ話に興じているし、学校には有色人種が一人もいない。ウイルス感染のせいで楡の木はつぎつぎと枯れていくし、湖は工場排水で汚染されて悪臭を放つ。自動車産業は斜陽化しつつあり、古きよき時代は過ぎ去ろうとしている。
 ラックスのボーイフレンドが来ているのに母親が間にどっかり座りこんで「サハラの野生動物」なんていうテレビ番組を見ているのだ。めちゃめちゃおかしい。あの時代って、こんなに抑圧的だったの?息が詰まりそうだ。私だって死んでしまう。だいたい、木が枯れてしまうような世界では生きていけない。

 セシリアが無残な死に方をした後、母親はより厳しく娘たちを監視するようになり、家はだんだん荒廃してくる。父親はまるで何かにおびえるように人とコミュニケーションをするのを避けている。最後はもう学校にも行くことを禁じて家に軟禁するのだが、常軌を逸していると思う。母親は何から娘たちを守ろうとしていたのか?だいたい5人も娘がいるのに、社会から引き離して閉じ込めておけばなんとかなると思っているのが間違いだ。外の世界は危険で、腐って、悪臭を放っている。それは確かなことだ。だけどそれでも出してやらなくてはいけない。人生で何一つよいことはないかもしれない。それでも、たとえ最悪の人生であったとしても、それを自分で経験させてやらなくてはいけない。殺されてしまうかもしれない。それでも出してやらなくてはいけない。自分の人生を歩ませるために。
 なぜ5人も娘がいるのにわからないんだろう。結局、母親は自分のために生きていないのだ。父親だってそうだ。問題を直視することを恐れてあさってのことばかり言っている。

 5人姉妹がすごくきれいできらきらしていて魅力的だった。映像が美しく、ガーリーというらしいキッチュでキュートでセクシーな小物たちがもうよだれが出るほどかわいかった。そして、このアンニュイな閉塞感と疎外感は何だったっけと考えていたらそうそう、あの「ロスト・イン・トランスレーション」じゃないか。さすがソフィア・コッポラ監督。ラックス役のキルスティン・ダンストは「マリー・アントワネット」で主演していた。とってもキュート。

映画「大いなる陰謀」

2008-04-20 13:01:27 | 映画
 まず、最初に原題を見たとき「どういう意味?」と思った。“Lions for Lambs”
公式サイトにタイトルの説明が載っている。第一次大戦中、ドイツ軍の兵士たちがイギリス軍兵士たちの勇敢さを称える詩を作ったという。その詩の中で「このような(愚鈍な)羊たちに率いられたこのような(勇敢な)ライオンを、私はほかに見たことがない」と言っている。つまり作戦の指示を出す人間が愚かであるため、兵士がどんなに勇敢であってもバタバタと死んでゆくと、優秀な兵士たちの無益で悲劇的な死を悼んでいるのだ。

 この言葉を使ったのは、共和党の若手上院議員アーヴィングだった。記者に特ダネを与えると言って独占会見をするのだが、私は最初何をいっているのかさっぱりわからなかった。独善的でまわりくどい言い方だったが強調していたのはこういうことだ。「この戦争を始めたのは間違いだった。しかし、今やめることはできない。アメリカが手を引けばイラクとアフガニスタンは大混乱し、虐殺がおこるだろう。そして何年か後に我々は再び廃墟となった国に侵攻せざるを得なくなり、その際の代償は現在の数十倍か数百倍ともなるだろう。9.11によってわれわれは恐怖にとらわれ、判断を誤った。そしてメディアは政治を後押しした。今政府は間違いを認める。アメリカの威信は地に落ち、屈辱にさいなまれている。この戦争は速やかに終わらせなくてはならない。そのための画期的な作戦がすでに始動している。戦争を終わらせるために重要なこの作戦を国民に支持してもらうためにメディアは協力すべきだ。それが、『風見鶏』となって戦争を支持したメディアの責任だ。」

 途中まで私は「なるほど」と思ったのだ。アメリカが今即座に撤退すればアフガニスタンもイラクも大混乱するに決まっている。アメリカの傀儡と見られている政権は崩壊し、政治家は皆殺しにされるだろう。その「少人数で大きな効果が得られる」画期的な作戦ってなに?と思っちゃう。その「作戦」によってアフガニスタンの山岳地帯に「監視拠点」を築くため派遣される兵士たちが映しだされる。司令官が言う。「イランのイスラム原理主義者がアフガニスタンに集結してイラクに入るという情報がある。イランは核兵器を持ち、北朝鮮にも技術供与している『テロ支援国家』だ。そこでこの山の上に要塞を築き、上からテロリストたちを監視する。この山は現在安全だ。」

 アーヴィングと会見していたジャーナリストのロスが「それは確かなことか」と問う。「1300年の宗教対立を乗り越えて、シーア派とスンニ派が手を結ぶの?」アーヴィングは「確かだ」と言い切る。攻撃を仕掛けるのではなく、外交的努力や他にすることがあるでしょうと言われても「そんなことで解決するはずがない」と強い口調で言う。「この超大国アメリカが前近代的な部族戦士にいいようにやられてしまっている。こんな屈辱的なことはない。この戦争はなんとしてでも終わらせなくてはいけない。そのためには手段を選ばない。」そして「あなたはテロとの戦いに勝ちたいと思うだろう?答えはイエス or ノーだ。イエス or ノー?」と迫るのだ。ははあ。これ、ブッシュ大統領がやったトリックだ。「テロとの戦い」という誰も反対できない、しかも中身がよくわからない言葉を作って、「これに賛成か、反対か?」と迫るのだ。そりゃーみんな「イエス」というしかない。だけど細かい選択肢を全部なくしておいて、単純な二者択一の設問で戦争に賛成させるってのはトリックだ。ほら、宮台がよく言ってるじゃない「二項対立図式に気をつけろ」って。

 ロスが言うのだ。「私たちの局は、石鹸や電球を作っている会社に買収された。なにも変わらないと思ったけど違っていた。それまで報道主体だった局内が視聴率や広告収入にふりまわされて思うように番組が作れなくなっていった。ジャーナリストにも確かに責任はある。」だけども局に帰ってアーヴィングのうさんくささを暴いてやるというロスを上司が止めるのだ。「そんなことをすれば首になる。きみは24時間介護が必要な母親を抱えているだろう。その年で雇ってくれる局はどこにもないよ。」それでもやるという彼女に、自分が握りつぶすという。そういうことだ。メディアは視聴者の意向を無視して報道できない。視聴率の低下は広告収入の減少につながり存続そのものが危うくなってしまう。ジャーナリストは会社の意向を無視できない。生活がかかっているから。「アーヴィングは『手段を選ばない』と言った。核を使うつもりなのよ。私たちが注意深く情報をつなぎ合わせることを怠ったからこの被害を招いた。同じ失敗をしてはいけない」とロスは言ったが、結局報道されたのは「新しい作戦が決行される」ということだけだった。そして作戦は失敗し、大学教授の優秀な教え子だった二人の兵士が壮絶な死を遂げる。ライオンとはこの優秀な兵士たちのことで愚かな羊は次期大統領候補と目されているアーヴィングのことだった。

 ロスが帰る途中、延々と続く墓地の映像が出てくる。アーヴィングは「自分が遺族に言えることは、息子さんは国のために貢献したのですということだけだ」と言う。ははあ、たとえどんなに無意味な戦争であったとしても「犬死に」だなんて政治家は口が裂けてもいえないからな。戦死者を讃美するっていうのは靖国なんかとおんなじ構造だ。たとえそこにどんな宗教的な意味があろうと、権力者が真面目な若者の命を利用し、戦争を合理化するための手段になっているってとこはアメリカも変わらない。

 私は、このような映画がつくられたことはまあ評価できると思う。現在の政権を批判し、「気をつけろ。だまされるな」と警告すると同時に、メディアは『風見鶏』だから本当の情報は出てこないと暴き立てるような映画がこんな豪華キャストで作られるってのが進歩かなと思う。だけどもすごい閉塞感も感じる。権力の監視役であるべきはずのメディアがもはや商業主義に犯されて役に立たなくなっているとか、政治学を学ぶ学生が無力感を感じて目先の享楽にとらわれているとか、「お国の役に立ちたい」と思う真面目な青年たちが軍隊に志願し、無謀な作戦で犬死にしてしまうとか。何より、アメリカが今「この戦争をどう終結させるかわからないんだ」と心底困惑しているのがよくわかる。どうするのか。もう「国家の威信」とかなんとか言ってる場合じゃないだろう。国際社会の協力を仰いで被害を最小限に食い止めるための策を講じなくてはいけないはずだ。そのためにはやっぱり共和党じゃだめだな、みたいな結論にいくので、若くハンサムだけど中身はタカ派で愚かで見栄っ張りで隠れ人種差別主義者のアーヴィングみたいな共和党候補が現実にはいなくてほんとよかったと映画見た人はみんな思うだろうな。で、戦争続行か撤退かっていう二者択一じゃなくてできるだけ選択肢を広げてくれる大統領候補はっていうと多分オバマさんだろなと私でも思った。

映画「ブラックサイト」

2008-04-19 02:21:10 | 映画
 娘がこれを見たいけど一人では怖くて見られないというので一緒について行ったのだけど、なんだかつまらなかった。
 何がつまらなかったのかと言えば、いかにも残忍な殺し方ではあるが、最終的には犯行動機がはっきりして、殺された人たちがみな犯人にとって殺すべき理由があったというところ。

 最初は殺し方のあまりの残酷さに目を覆った。もしも自分が拉致されてランプの熱に焼き殺されたり、硫酸で体を徐々に溶かされたりしたらと思うと身の毛がよだち、早く犯人を捕まえてくれと手に汗を握った。けれども、犯人の正体がはっきりして犯行動機が明らかになったときには、思わず同情してしまった。
 ネタばれ父親の自殺の映像が全国ネットのニュースで流れ、ネット上で悲惨な映像を収集する人たちのお宝映像になり、遺品がネットオークションで売られたりすれば誰だってひどいショックを受けてしまう。しかも一旦個人に収集されてしまった映像は決してとり返すことができないのだ。きっと世界中にばらまかれて何十年も好奇の的になるのだろう。遺族にとっては耐えがたいことだ。犯人の青年はたまたまネットスキルが高く、そのような事情を正確に知ることができて、おそらくハッキングの技術もあったからどうすることもできない状況によけいに傷ついたのだと思う。どんなに怒り、抗議し、最善を尽くしても、「人の好奇心」は無限に増殖してきりがなく、ネットの巨大な海の中ではなす術がないという状況に、とうとうキレてしまったのだ。「お前たちがかつて父の死を見世物として消費したように、この悲惨な殺人をお前たち自身の参加によって遂行し、好奇心の残酷さを自覚するがいい」というわけだ。あんなに頭がいいんだもの、殺すだけなら関連性がわからないように巧妙に殺すことだってできたはずだが、彼はただの復讐では気が済まなかったのだ。そうではなく、彼がしたかったことは「この社会はこんなに醜い」ということを白日の下に晒して嘲笑することだ。それならば、私は関係者を殺すのではなく、無差別殺人をすればよかったのにと思う。だって一番怖いのは「何の理由も必然性もなく、理不尽にも苦痛この上ない殺され方をする」ってことじゃないか。そしてそれこそが、このネット社会で起こりうる危険性だ。いつ誰が被害に遭うかもしれない。しかも、自分自身が軽い気持ちで加害者になってしまっているかもしれない。そのような危うさの上に現代の私たちは生きているはずだ。だから被害者が犯人にとって殺人の合理的な理由になってしまっていてはおもしろくないのだ。

 私がちょっとびっくりしたのは、最初の方でFBIのサイバー犯罪捜査官がネット監視をして犯罪者が特定されるまでの素早さだ。ネット犯罪者を特定する際にほんの数秒で情報の発信元が突き止められ、そのパソコンの無線LANを不正使用している可能性のある近所の家の主、その所在、パソコンの使用履歴があっというまに顔写真付きで画面に表示されてしまう。警察が到着するまでに数十分。実際にそんな捜査官がいて、あんなふうにすばやく身元が判明するものなのか?いや、そうじゃないだろうが、ネット上の情報が集積されて個人情報が特定の機関によって一瞬にして照合されるような時代はすぐそこまで来ているのだろうな。私はそのことの方が怖かった。犯罪取り締まりのためならばそれは許されると皆思うだろうが、その情報を権力に関わる者が悪用しないという保証はどこにもない。見方を変えるとまるで別のものが見えてくるではないか。

 たとえば、最近新聞やテレビを見ていると、このパソコンの情報が少し前から漏れているということがわかるが、私はそれに対してもはやどういう対策も取ることはできない。(いや、パソコンの情報だけではないけれども)対策どころか、洗いざらい収集され、集積された個人情報の所在を突き止めることも、それを取り消すこともできない。もはやなすすべがないといったところだ。きっと取り締まる法律もないのだろう。私たちはみなそのような世界に生きているということを、この「ブラックサイト」という映画はあらためて確認させてくれた。それに思い至れば、この犯人に対する見方も少し変わってくる。もちろん同情はできないが、ネット上でヤバイ写真が漏れてしまった人(たとえばまんこバァー!の人とか)だったら「私だってやってみたい」と思ったかもしれない。時間とお金と頭脳が足りないからそういう選択肢がないだけで、低俗週刊誌の記者を火あぶりにするとか、まとめサイトの製作者のチンコを切り落とすとか・・・。おもしろそう。だって、この世界はこんなに腐れ切っていてナンデモアリなのだ。(新聞に執筆する人がネットのうわさ話に基づいて記事を書いたりするくらい)

 ということで、私はFBIの女性捜査官が頭をズタボロにされなかったことにはほっとしたが「チッ、なんだ、犯人が射殺されて終わりかよ」と少し残念に思ったことも事実だ。犯人の青年は捕まって死刑になることを覚悟していたのだから射殺されても別に無念とも思わなかっただろう。そして、ネットの現状は野放しのまま。だってそれは人間の「知りたい」「見たい」という欲望によって成り立っているのだから、押し留めることなんかできはしない。あの青年はどうすればよかったのだろうか。
 
 私は、邪悪さに邪悪さで対抗してはいけないと思う。彼は父親の映像を追いかけまわした揚句に人の邪悪さに毒されて狂気に陥った。そんなことをしてはいけなかったのだ。情報を一切遮断し、他人に心を侵食されないように守らなくてはいけなかったのだと思う。彼らはそのうち自分たちの毒が体に回って死に絶えるさ。それまでひっそりと待っていればいいのだ。そう思うよ。

 って、これって敗北主義か。たぶん正解は、邪悪さを中和するための対抗サイトを作るってことなんだろうな。父親の人柄を偲ぶ、悲しみと慈愛に満ちた追悼サイトを立ち上げる。興味本位の卑劣な書き込みに対しては地道に抗議し削除依頼を出し続ける。ああ、たいへんそう。私なんかはすぐにキレて、「こんな世界は滅びてしまえ!」と思ってしまうけどな。

奥田瑛二監督「長い散歩」

2008-03-16 23:31:27 | 映画
 「尾道に映画館をつくる会」の会員になっている。尾道はわりと映画で有名な土地であるにもかかわらず、現在は映画館が一館もない。映画館を復活させようと市民団体が発足したのだけど苦戦している。まだ募金目標額の半分(1000万)くらいしか集まっていない上に、今年映写機などの機材が火事で焼けてしまうという不幸に見舞われて今春開館の予定が延期になったらしい。


 だけど今日は、「長い散歩」の上映会&奥田瑛二監督のトークショーが開催され、招待券で行ってきた。こういう映画はうちのあたりではミニシアターでほんの1、2週間上映するかしないかなので私は去年見逃していた。見れてよかった。ほんとに感動的で上映中会場のあちこちで泣いている人がいた。私もハンカチでごしごしやったから、おしろいがほとんどはげ落ちてしまった。
 さっちゃん役の子がすごく自然でかわいくていじらしくて、今思い出しても涙が出る。天使の羽根はあの子にとって唯一、幸福だった時の記憶の象徴で、過酷な現実から身を守るものであったのだと思う。一方、家族とうまく接することができず孤独な老後を送ることになった松太郎にとっても、さちの姿はかつて自分の娘を「天使」と思いながらそれを素直に伝えることができなかったという悔恨を思い出させるものだ。だからさちを、自分と家族の唯一幸福な記憶の場所につれて行こうとしたのだ。親の愛に恵まれない子供に「ほんとうにおまえを大事に思っている」ということを伝えるために。
 この映画に出てくる人は、だれもかれも程度の差はあっても傷つき、疲れている。さちを虐待していた母親だって最初からああいう状態だったわけではない。愛情に飢え、男に裏切られ続けたために疲れてしまったのだ。幸福だった記憶がないからストレスに耐えられなくて虐待してしまう。子供を殴るのは自分を殴るのといっしょだ。自分自身の人生を放棄しているのだと思った。アフリカからの帰国子女で学校になじめなくて引きこもりだったというワタル青年も、表面は軽くいろいろなことをしゃべっているがときどき底知れない孤独感をのぞかせる。きっと最初から死に場所を求めて旅をしていたに違いない。ほんとうに死んでしまうなんて・・・・。なぜどっと涙が出てくるのかと思ったら彼の顔は私の悲しい記憶をめちゃめちゃかきたてるのだった。

 トークショーでは奥田監督の映画づくりに賭ける自信とこだわりを聞けた。そもそも演技派俳優である奥田氏が映画監督になったのは、映画「もっとしなやかに、もっとしたたかに」「海と毒薬」「千利休」など、人間の心の葛藤を深く掘り下げた芸術性の高い作品で主役を演じる一方で「男女7人夏物語」「金曜日の妻たち」などTVのトレンディー恋愛ドラマでも有名になってキャーキャー騒がれ、その二つの役柄の間で自我が引き裂かれてめちゃめちゃになってしまった時期があって、「自分ってなんだろう?」と悩んだのがそもそものきっかけとか。酒や女に溺れて家庭が崩壊の危機に瀕したというそのあたりの事情は、奥様の安藤和津さんが新聞か何かに書いておられたような記憶がある。
 また、役者というのは全身全霊でその役になりきるため、その役が終わるとエネルギーを出し切って抜けがらになってしまう。とてもそのまま日常に戻れないから「飲む、打つ、買う」で逸脱してやっと我に返ることができる、そういうマゾみたいなところがあるから自分にはほんとは向いていない職業(!)なんだそうで、逆に監督という仕事は役者の才能やエネルギーを全部吸血鬼のようにチューチュー吸い取れる。こっちの方が楽で向いている。つまりサド、だそうです。ほんとかよ!
 「長い散歩」の主演緒形拳さんと、最初演技に解釈の違いがあったのだけど、「じゃあ、奥田さんやってみてよ」と言われて、さちが虐待される物音を隣の部屋で聞きつけて外へ出るシーンを自分でやって見せたら、「わかった」と一言。あとは全くスムースに撮影が進んだということだ。



 奥田瑛二監督の映画で今までに見たのは「るにん」だ(DVDでだけど)。これはなんと救いのない映画だろうかと思った。「当人勝手次第に渡世すべきこと」が唯一の掟である流人の島だが、何年かおきの飢饉で遅かれ早かれ死んでしまうのだ。一か八かで島抜けをしても外は決して楽園ではない。どこにも出口がないという閉塞感。ちょうど私もその頃「どこにも出口がない」という閉塞感を日々感じていた頃なのでDVDを見ながらオイオイ泣いてしまった。

 唯一笑えたのは、ご禁制の地図を作ったために流罪になったという近藤富蔵役が作家の島田雅彦氏で、これがめちゃめちゃ真面目なのだ。たとえば、女郎にハマってしまって醜態をさらすとか、飢えてヨロヨロしていたとしたら完全に映画の世界に同化しているのだが、徹頭徹尾端正な学者風なので却ってリアルでおかしかった。だって、「なすびの懸賞生活」で丸裸で踊っていたあのなすびがへらへらして出てるし、あの松坂慶子さんの卒倒しそうなほどエロチックなシーン満載だし、もう勃たないのに性に執着する老人とか、女を(干し魚で)買うことのできない男のための陰間とか、もう煩悩にまみれた地獄のような世界で真面目で端正というのは却って冗談みたいでおかしかった。

 忘れていた。奥田監督は下関で閉館した映画館を引き取って支配人をされているのだそうだ。映画館経営までされるに至った経緯や、市民から広く浅く資金援助をもらう秘策などもお話になった。維持費が年間1000万以上かかるとかで、その3分の1を下関市民が支援しているそうだ。尾道でもそういうのがやれるといいなあ。もうアメリカ映画は飽きたし、シネコンがあっても、かかってる映画はわりと貧弱だと最近気がついてきてがっかりだ。大手が掛けないようないい映画を上映してくれたら電車賃払っても見に行こうと思う。
 代表にはがんばってほしい。とりあえずまた献金しよう。