読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

日曜日のテレビ アジアプレス 石丸次郎氏の北朝鮮最新事情

2008-09-25 03:24:02 | テレビ番組
 いやー、たまたま検索をしていてネット右翼系のブログにあたったら、またむちゃくちゃ言ってますね。まだ40代の若さだというのにこの年代の人が「天皇」だの「反日」だの、勝谷さんみたいに「教育勅語を復活せよ」などと口走るってのが私にはわけわからん。コメント欄も、メディアは「、在日、中国」に支配されているとかその類の暴言だらけ。こういうのがランキング上位ってことはIZAってのはよほど偏向してるってことだな。ところで、「民主党政権で日本経済が崩壊したさいは、古舘一郎氏には私財を一切合財、国庫におさめて欲しい。彼がやっているのは報道ではなくアジテート(扇動)・工作活動なのだから当然だ。」とおっしゃっているけども、一報道番組のキャスターの前に自民党の政治家(特に政権投げ出した総理2人とか)及び官僚、歴代日銀総裁の方々がまっ先に私財を国庫におさめるべきじゃないでしょうか。それから「定額減税」を強力に推進した公明党の政治家ももちろん。で、もし民主党が政権を取れなかった場合、日本経済が崩壊したさいはIZA周辺の人はぜひ私財をなげうって頂きたいものです。

 それにしても、古舘さんは「モンスター」とか「怨念」とか「呪い」とかいう類の気にかかる発言が多くて、「悪い宗教にでもはまってらっしゃるのでしょうか」と心配してた人もいたから気をつけた方がいいと思う。もちろんそこらへんは朝日新聞も同じで、この21世紀の世の中に、「呪い」だのって新聞やテレビがおおっぴらに言うことじゃねーだろーが!ノータリンめ!

 日曜日のテレビから

 21日(日曜日)の「報道2001」や「サンデープロジェクト」で北朝鮮の最新事情の映像が紹介されていた。アジアプレスの石丸次郎氏が北朝鮮の取材パートナーに依頼してビデオ撮影したもの。平壌の裏通りにたむろする浮浪児や家を失って野宿する家族たちなど、困窮する庶民の生々しい映像が衝撃的であった。市場は、まるで日本の戦後の闇市にそっくりで、一般の市民が日用品など自宅にあるものを切り売りしている状態であることがよくわかる。浮浪児は、竹で作ったピンセットみたいなもので人のポケットからお金を抜いたり食べ物をかっぱらったりして生きているようだ。それができない子はごみの山から残飯を漁って食べている。ゴミを食べた後吐いていた。お寺のお堂みたいなところで野宿している一家に「なぜここで寝泊まりしているのか」と取材者が尋ねると「借金のかたに家をとられたのだ」と答えていた。河原にそのようなホームレスの人々がたくさんいて、石丸氏は「服装がそれほどひどくないので、ごく最近、少なくとも今年の春以降にホームレスになった人々のようだ」と言っていた。今年の春、穀物価格が高騰したため、中国からのコメの支援がストップし、また中国の民間支援団体が北朝鮮に穀物を送ることを中国政府が禁止したのだ。さらに、ここで李英和氏が書いていたように、韓国の李明博大統領の「非核・開放・3000」に挑発されて腹を立てた北朝鮮は意地になって、韓国からのトウモロコシ5万トン支援を断っている(2008年6月30日の記事)。庶民の生活はますます困窮し、なんとか食いつなごうと家を売ったり借金のかたに取られたりした人たちが続出している状況らしい。
 
「論座」の記事から

 ここで、社会主義の国である北朝鮮で、国有財産であるはずの家を売り買いすることができるということにまず驚くべきなんだろう。論座8月号にちょうど石丸次郎氏の「市場経済の増殖で激変する北朝鮮 固定化した『北朝鮮モデル』を乗り越えよう」という記事が載っていた。
 北朝鮮では、土地は国家または、協同組合所有で、住宅もごく一部を除いて大部分は国家の所有である。朝鮮戦争後の50年代後半からベビーブームが起こって以来、北朝鮮ではずっと深刻な住宅難が続いてきた。特に都市部では、2世帯同居、一間をカーテンで仕切って2家族が使うということも珍しくなかったという。(中略)
 住宅問題が構造的に変化したのは、90年代の大飢饉が発端だった。食糧難にあえぐ人たちが、最後の手段として住宅を売ろうとする動きが現れたのだ。また、200万~300万(石丸推定)に及ぶ大量の餓死者の発生もあり、住宅の大量供給がにわかに発生した。これは生活に余裕のある人々にとっては、より広くて便利な場所に家を手に入れられるきっかけになり、住宅売買は一気に活性化した。

 食糧にしても、住宅にしても、国からの配給が滞っているため、闇市や住宅取引の仲介業(コガンクン)が自然発生的にできてなんとか市場がまわっている状態だし、給与もまともに支払われないので食べていくためにみんな内職をしている。
 例えば、盛んに行われているのは、縫製の仕事だ。今の北朝鮮は布地をほとんど生産できなくなっており、衣類は中国から既製品を輸入するか、布地を輸入して縫製加工する。衣類の商売人が、北朝鮮で縫い子を組織し、布地と糸を与え、一着あたりいくらかの加工賃で契約縫製されるのである。縫い子は人目につかぬよう家で縫製作業をするが、働けば働くほど収入が増えるので、家族総出で作業をしているケースも珍しくないという。

 これは私的雇用だ。職場に一定の金額を納めて暇をもらって商売をしたり、主婦や学生が私的に労働力を売っているという。
 教員たちも外で稼ぐ。既定の給料は日本円に換算すると100円前後にしかならない。これではとても食べていけないので、生徒にあれこれ持って来いとたかったり、放課後、家庭教師や私塾を開いて稼いだりしている。韓国の「教育ママ」は熱心さで有名だが、北朝鮮も負けていない。数学などの教科だけでなく、将来役に立つと見込んで、都市部では、子供に中国語、英語、コンピューターなどを学ばせることが珍しくなくなっている。教える側も、企業所などの空き部屋を借りて、教室を開くなど規模を大きくする。これも既存の教育制度、労働制度から外れているので、取り締まりの対象なのだが、教育に対する需要を国家が満たせていないために発生した現象で、止めようがなくなっているようだ。

 社会主義が崩壊しかけてるんじゃない?また、「情報の流通」という点でも大きな変化が起こっているという。5年ほど前から、韓国の映画やトレンディードラマが入ってきてブームになっているとか、って日本とおんなじじゃん。
 韓国の主要地上波放送は、衛星でも同時放送されていて、パラボラアンテナとチューナーさえあれば、中国東北部や日本でも視聴することができる。北朝鮮ではもちろんご法度で、決して直接は見ることができない。いったん中国を経由して入っていくのだ。中国には190万人にのぼる朝鮮族が居住しているが、この朝鮮族の間でも韓流ドラマは大人気である。ドラマは衛星放送でオンエアされた数日後には、違法にCDロムにコピーされ、市場に並ぶ。価格は新しいもので10元(約150円)、古いものだと1元(約15円)。この海賊版がさらに複製されて、国境の川・豆満江と鴨緑江を渡って北朝鮮に密輸されていくのだ。(中略)
 韓流ドラマは北朝鮮内の闇市場でよく売れた。儲かるのだから商売人たちは、新作をせっせとコピーしては密輸し、北朝鮮内に流通させた。もちろん、北朝鮮の警察当局は「不純録画撲滅」キャンペーンを繰り返し行って取り締まりをつよめた。しかし、いかんせん、取り締まる側の警察官たちも、韓流ドラマが見たいのである。このように、北朝鮮内部には人の好奇心に根ざした需要が「情報の闇市場」を生み出した。この力は、厳しい統制を乗り越えて、金正日政権がもっとも警戒していたはずの、韓国の映画を大量に流通させるという事態を生みだしたのである。

 おもしろい。韓国のドラマや映画、そして以前市場に出回っていた大量の支援物資によって、北朝鮮の人々の心に豊かな南へのあこがれが芽生えてはじめたと同時に、現状に対する不満が鬱積してきているというのだ。番組で紹介された中にも「金正日将軍ははやく死んでほしい」と言ってる人がいた。「以前は体制に誇りを持っていたが、北朝鮮がアジアの中で最も貧しい国だということを知ってショックを受けた。食っていけないのになぜ将軍様を尊敬しなくてはいけないのか」と言うのだ。(今頃知ったんかい!)北朝鮮の内部は私たちのステレオタイプな想像を越えて大きく変化してきている。石丸氏は今年「北朝鮮内部からの通信 リムジンガン」という雑誌を創刊したという。

 仮に将軍様が死んだとしても、北朝鮮が急激に変わることはないだろうというのが多くの評論家たちの見解だ。だけど思うに、韓国の「太陽政策」は効果がなかったと言う人がいるけど、こんなふうにじわじわと北朝鮮の人の心に効いてきているっていうことはやっぱり効果があったってことじゃないか?「変化率が大事」(宮台)なんで、アメとムチで粘り強く交渉しながら核放棄、市場開放という方向に導くためには経済制裁解除もしなきゃいけないと思う。拉致問題になると強硬派の意見が幅をきかせて「経済制裁解除断固反対」という人が多いけれども、あんな非常識な国と交渉するのに倫理道徳を説いたって効果がないのじゃないか。

 TVタックルで

 以前、TVタックルで三宅さんが他の発言者の言葉を遮って「北朝鮮は言語道断!早く返せ!」と言っていた回で、帳景子さんとか金慶珠さんとかが「日本が原理原則を言うのはわかるけども、実際問題としてそれでは交渉が進まない」と言ってるのはその通りだと思った。「拉致家族をいったん返すべきであった」という発言に対して三宅さんが激怒したのだ。それで私が思い出したのは、イタリアや南米では誘拐犯と交渉してくれる専門の交渉人がいるという話だ。昔ニューズウィークに載っていた。
 警察が無力で、下手をすると裏で犯人とグルになっている可能性もあるから頼れない。しかし、いくら金持ちでも何億という金額を工面するわけにはいかない。それで交渉人を間に立てて、身代金を支払い可能な額まで値切る。時には交渉に1年も2年もかかることがあるらしいが、その間人質が死なないように待遇の改善を要求する。拉致問題は国家の犯罪であるけども、北朝鮮はゴロつき誘拐犯の類と一緒で常識を説いても通じない。だったら専門家に任せてネゴシエーションをするしかないじゃないか。誘拐犯との交渉中に、相手の信用を裏切るようなことをしたらもはやそれ以降交渉は継続できない。それが「拉致家族一時帰国問題」であったのだと思う。国民の激怒の声に押されて結局長期的な問題解決よりも短期的な成果を優先してしまったのだと思う。小泉首相は。
 ネゴシエーターに不信感を抱いている誘拐犯の信頼を取り戻そうとしたら大変じゃないか?よっぽどの譲歩をしないと口もきいてもらえない。そもそも日本人自身がネゴシエーターを信頼して、全権を委任していたわけじゃないのだからどうしょうもない。(石原都知事の、爆弾仕掛けられても「あったりめえだ」発言もあったしね)

 加藤紘一氏の発言にまた「売国奴」といって怒る人がいるけども、「交渉を継続させるためには必要だった」と言ってるんで今の状況から見ればその通りだ。右翼の鈴木邦男さんも「たかじん」で加藤氏を擁護してボロカスに批判されたそうだ。(鈴木邦男をぶっとばせ!『ある「売国奴」の告白』
 「李英和さんとタッグを組んで、右翼と闘った!」って、鈴木さんが「右翼」って言う人たち、どんだけ右翼よ。「文句を言う人々が北朝鮮に行って対決し、取り戻してきたらいい。」って同感だ。三宅さんなんかは常々「老い先短い命だから」とおっしってるから「私が身代りになります」と申し出たら向こうは喜んで交換してくれるのじゃないかな。なんせ日本の政治評論家ですよ。それに勝谷さんはいつか、「10年にいっぺんくらい死にそうなところに行くといい」とおっしゃってたから北朝鮮に潜入してルポを書くといいと思う。「イラク生残記」よりも売れるんじゃないかな。

NHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」「果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦」

2008-09-21 18:11:33 | テレビ番組
 さっき「たかじん」を見ていたら、今日は総集編ということで過去の蔵出し放送だったんだけど、ここで言及した「ロスジェネ」の浅尾大輔さん出演の回には鴻池さんは出ていなかった。その後の方で度々見かけて腹を立てていたのでごっちゃになってた。オンエアリスト
 しかし、未公開部分で宮崎さんが「ミクロの話はよくわかるけど、マクロで見ていくと、非正規雇用が増加した背景には中国など安い賃金で製品を作ってるようなところと同じ価格で競争をしなくてはいけないっていうのがあるわけで、そのしわ寄せが来ている。じゃあ国際競争力を維持しながらどうやって雇用の問題も解決していくのか。」という問題を提起して、三宅さんとかが「やっぱり企業の利益ということだけを優先していたからこんな貧困問題が起きるので、国がかかわらないと」みたいなことを言って、志方さんが「組合がだめだ。おとなしすぎる。もっと『立て、万国の労働者!』みたいに声をあげなきゃ」と、立場が逆みたいなことを言って(いや、だから団結することもできないくらい孤立しててコミュニケーション能力ないんだけども)、わりとまっとうな回だったなあと思った。

カズオ・イシグロ「私たちが孤児だったころ」

 何ががっくりするかって、図書館で借りた本を読んでいるうちに、それが既に以前借りて読んだことのある本だったということに気づき、しかもそれにようやく気づいたのが半分近く読んだ後だったってときくらいがっくりすることはない。最近2冊立て続けにそういうのに当たって自分の記憶力にすっかり自信がなくなった。
 そのうちの一冊が「私たちが孤児だったころ」(ハヤカワ・ノヴェルズ)だけど、そもそもこの小説自体、人の記憶なんてあてにならないものだということを言っているのだ。皮肉なことだ。
 主人公は上海の租界で両親をなくし、イギリスの親戚に引き取られる。寄宿学校に入って、いつか両親の失踪の謎を解きたいと願っていた彼は探偵になることを志し、やがて社会的に成功する。それはいいのだけれど、学校時代の友人と再会して思い出話をしているとき、彼らと話が食い違うのだ。ささいな出来事もあるのだが、友人たちの主人公に対する印象が「孤立していた」「変わっていた」というのに対し、主人公本人はまったくそのような自覚がないのだ。「いや、自分は非常に注意深く周囲を観察し、言葉づかいから振る舞いまでそっくりまねて周囲に溶け込むようにしていたはずだし、感情の表出も極力おさえていたので決して目立つようなことはしていない。」と何度も言っている。私もそれにだまされて、「この友人は上流階級の鼻もちならないボンボンで、こいつから見たらこうなるんだろう」とか「この人は年を取って、昔のことは何でも自慢したがるんだろう」とか思っていたのだが、主人公が両親を捜しに上海に行って以降は奇妙なことばかり言うのでやっとおかしいと思い始める。
 戦争が始まって、日本軍が上海に攻め込んで来ているというのに彼は貧民街に自分の両親が監禁されているものと思い込み、戦闘の真っただ中に捜索に行こうとする。国民党軍と日本軍と共産軍が三つ巴の大混乱の中で、昔お隣に住んでいた幼馴染の日本人アキラを見つけ、「アキラ、アキラ、僕だよ。クリストファーだ!」と言って、日本兵の彼を助け出すのだが、はたしてそれは本当にアキラだったのか、それさえもよくわからない。憔悴しきってようやくホテルに帰ってきたら、市の役人がきて「ぜひ歓迎の記念式典に出席してくれ」とくどくど言う。こんな非常事態なのに。まるで不条理小説みたいな展開についに堪忍袋の緒が切れて私は6年前にここで読むのをやめたのだった、ということを、ここまで読んでやっと思い出した。なんなんだよ、これは!

 どーせ、両親が誘拐されたってのも何かの勘違いだろうと思って今回は最後まで読んだのだが、半分違ってて半分当たってた。つまり、父親は愛人を作って出奔したのだが、母親は本当に誘拐されていた。しかも、アヘン売買を手掛ける闇の組織が絡んでいた。何もかもが明らかになった後の哀れさときたら・・・。

 (ネタバレ)父親の働いていた貿易会社は中国にアヘンを売って儲けていた。衰退しきった清朝末期だから、政権にそれを取り締まる力もなく、アヘン中毒患者が急増して悲惨な状況であった。母親はそれに憤って、アヘン反対運動を組織した。そして中国のマフィアのボスをそれに引き込もうと働きかけたのだが逆に裏切られる結果となった。マフィアは確かにアヘンの荷を奪ってくれたが、それを自分で売り飛ばしてしまったのだ。莫大な利益を目の前にして「自国の民衆のため」などというきれいごとは通じなかった。激怒した母親に侮辱された仕返しにマフィアのボスは彼女をさらい、自分の妾にしてしまう。


「NHKスペシャル」

 そういえば、イギリスはアヘンを中国に輸出して侵略しようとしたんだった。ひどいじゃないか!と思っていたら、ちょうど新聞に日中戦争当時「アヘン王」と言われていた里見甫の手記が見つかったという記事が載っていてびっくりした。(朝日新聞8月16日このブログに記録が)そして翌日8月17日にはNHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」があってくわしく検証されていた。アヘン戦争後世論が高まり、人道的見地からアヘンを国際的に規制しようとする動きが主流であった中、日本は関東軍が暴走し、勢力拡大のための戦費としてアヘンを大量に占領国に流通させる。(ブログ「ささやかな思考の足跡」より)里見甫については、佐野真一「阿片王 満州の夜と霧」という本が詳しいようだ。(ブログ「首都圏リーシングと不動産活用のビジネス戦記」より)アヘン取引を一手に仕切っていた興亜院の総裁は内閣総理大臣(東條英機)であったけど、その他の人脈がすごい(ブログ「日々是生日」より)。実に衝撃的だった。こんな非道でみじめったらしい戦争で、それを一部の軍人が先導し、悲惨な結果を招いたのかと思うと情けなくてはらわたが煮えくりかえるようだ。

 「私たちが孤児だったころ」は、世界が猛烈な勢いで一方向に動いているときに、個人がそれに立ち向かってもなすすべがないということ、その無力さに対する悲しみを描いているのだと思う。戦闘による一般人の被害のひどさに衝撃を受けて、主人公が日本軍の将校に「ひどいことだ」と言うのだが、将校はまったく上の空で「ああ、そうですね。でも、これからもっとひどいことが起こりますよ」などと言う。実際にその後の世界はもっとひどいことが起こったわけだ。何もかもが手遅れになる前に、それを押し止めることも、母親を救い出すこともできなかったということに深い悲しみを抱きながら彼はのちにこの出来事を回想する。

 私がNHKスペシャルを見たのは深夜の再放送で、「果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦」もいっしょにやっていた。(ブログ「どこへ行く日本。」 この番組を取り上げた「赤旗」の記事がアップされている)いやー、レイテ戦は大岡昇平の「レイテ戦記」(中公文庫)に詳しいし、以前やっぱりNHKで特集番組があったけども、あらためてその悲惨さと軍部の無能さに涙が出た。部下を守ろうと無謀な切り込みを拒否した隊長は処刑されてしまうし、撤退が決まって、隣のセブ島に渡るのに船がないので1万余りの兵を海岸に残して行くのだ。「各自、自活しつつ抗戦せよ」とか言って。それでその残った兵士たちはジャングルの中で飢えと病気とゲリラの恐怖におびえながら迷走し、みんな死んでいったわけだ。(ウィキペディア「レイテ島の戦い」

 やっぱりNHKって教育的だなあと思う。右翼の人がいくら過去の戦争を正当化しようとしてもだめだ。どんなに悲惨でみじめでも、やっぱりこういう過去の歴史を直視して学ばなきゃ。櫻井よしこさんもそう言ってたじゃないか。で、「日本を恥じ、過去を否定するような歴史ばかり教える」ってのは間違いで、うちの県、日教組組織率高いけど、結構中立的に補助教材使ってABC包囲も南京事件も軍部の暴走も北方領土もシベリア抑留も全部教えてるし、かえってこういう日本のバカさ加減とか軍隊の非効率的状況とか無謀な戦略とか情報操作による国民の動員とかその結果が引き起こした悲惨な状況とかを教えた方が子供の将来のためになると思うな。むしろ、今の国際情勢を分析判断するのにも役に立つ。中国やロシアが今やってる侵略は帝国主義時代に列強がやってたのとおんなじことだ。「おまえらそれでひどい目にあったんじゃないか。同じことをやっているぞ。世界はそれを克服して国際協調の時代になったじゃないか。」と提示してやれると思うな。

たかじん

2008-05-05 22:44:19 | テレビ番組
 昨日の「たかじん」で、チベット問題について少し掘り下げた話が出てきた。ゲストがペマ・ギャルポ氏(ブログ)であった。

 中国がチベットを併合した理由の第一は、やはり豊富な水資源と多種多様な鉱物資源、及びメタンハイドレードなどのエネルギーの埋蔵量が中国一多い地域であるということらしい。次に人口増加に悩む本土から周辺に移住させるべき土地がほしかったということで、ペマさんによると中国国内の犯罪者2000万人がチベットに移住するという条件で恩赦を受けたという情報があるらしい。青蔵鉄道が開通し、人と物の行き来が盛んになって豊かになったかといえば全くそうではなく、中国側から人がどんどん入ってきて、チベットからは物資を収奪していくだけだ。また、未成年のチベット女性を中国側に就職させるという名目で連れてゆき、向こうで結婚させるという動きもある。つまり他民族との混血を進めてチベット民族を根絶やしにしてしまおうと目論んでいる。チベット語も学校で使えないし大学に行こうと思ったら北京語をマスターして中国本土に行くしかない。仮に中国で大学を出てチベットに帰って来たとしても、チベット人は公務員にはなれない。高い地位にもつけない。など、いろいろとひどい現状を解説された。

 中国共産党の支配下に入ってチベットの封建的農奴制度が廃止され、多くの農民が救われたとか、識字率が非常に低かったが近代的教育制度によって庶民の識字率が向上したなどどいう共産党のプロパガンダは嘘っぱちだ。都市部を除いてチベットの農民はもともと自給自足の半騎馬民族で、定期的に移住生活を送っていた。農奴制など存在しなかった。また、学校のかわりに寺院が教育機関として機能しており僧侶たちは皆読み書きができた。僧侶の数も非常に多かった。識字率などは誰がどうやって調べたのか、そのような報告書そのものが嘘っぱちだ。中国側のチベットに対する認識は1940年代のままだ。ということであった。

 なんだか、昔から続いてきた民族紛争の典型みたいな話だ。
 
 アイドル席のケイコ先生が「じゃあ、もし日本が中国に併合されたら、日本人も中国の一民族ってことになるんですか」と聞くとペマさんが「かつて、中国残留孤児のことを『ヤマト民族』と呼ぼうということになったのですが、私が『日本人のみなさん、おめでとうございます。日本人はついに中国の一民族になったのです』と書いたら、中国当局はすぐに撤回しました。」と言われた。私は、中国のやってることは確かにひどいし、ペマさんが「中国は毛沢東の亡霊に支配されている。もはや存在しない共産主義思想に操られている。」というのも、まあわかるんだけども、日本人が「きゃー、中国は怖い、危険だ、日本もいつか侵略されるに違いない」なんて恐怖に駆られてヒステリックに騒ぐのも危ないなあと思う。チベット問題について騒いでいるのが特定の政治傾向のある人たちばかりというのも嫌だな。とても同調できない。そういう人たちが騒げば騒ぐほど、政府は中国に対して強硬な意見を言いにくくなるだろう。また、「中国に侵略される危険性があるんだからアメリカとの同盟関係を強化するしかない」という人も多くなるだろう。なにより、大国中国が生き延びるために食糧やエネルギーなどの資源を、形振りかまわず獲得しようとしているのを「人権問題」で説得できるとは思えない。やはり、国際社会で協調して説得したり圧力をかけたりするしかない。すると中国がアフリカ諸国に経済援助を増やしているのは国連での味方を増やすためなのだろうな。なんと戦略的な国だ。日本もそれに対抗できるように賢くならなければならない。聖火リレーの応援をしていた中国人留学生たちも、ただ当局の支持に従ったってだけではなくて、自分の国がボロカスに言われて悲しいから出てきたと言ってたじゃないか。むやみと非難してナショナリズムを煽りたててもよい結果は生まないと思う。

 子供の頃に読んだ「クオレ物語」の中に愛国少年のエピソードが出てくる。(今思うと、あれはただの子どもの学校物語ではなくて、戦前のナショナリズムに基づいた問題ボロボロの小説だが。)船で外国に行くことになった身寄りのない少年が、母国イタリアの悪口を言った紳士たちにせっかくもらったお金をつっ返す話だ。「イタリア人は貧乏だ」「イタリアには泥棒が多い」「乞食も多い」「最低の国だ」全部本当じゃないか。本当だということは少年もわかっているが、自分の国の悪口を言われると我慢ができない。「そんな奴らにお金を恵んでもらったりするものか!」と金貨を投げ返すのだ。愛国心とはそういうものだ。たとえ自分の国が間違っていて、最低であっても、それでも愛する。悪口を言われると激昂してしまう。それは、どこの国でも同じだ。「ダーウィンの悪夢」で印象的だったのは、売春婦が「タンザニア、タンザニア、麗しの国よ」という歌をうれしそうに歌っていたことだ。

 「中国は帝国主義の危険な国」みたいに非難してもだめだ。脊髄反射的に同じような反応が返ってくるだけだ。とにかく、ダライ・ラマ師と中国当局が話し合いのテーブルにつくよう勧めて、粘り強い交渉をするのを国際社会が援護するしかないと思う。ペマ・ギャルポ氏もそのようにおっしゃっていた。


 全然関係ないんだけど、三宅先生は以前「秘書のお嬢さんがみんな調べてくれるからパソコンなんか触ったこともない」とおっしゃっていたのに、最近はどうもネットのブログなどを読んでいらっしゃるように思えるのは、まさかウェブページをそのまんま印刷してもらって読んでるのか?と思っていたら、昨日番組の中で「最近パソコンの使い方を教えてもらってハマっている」とおっしゃった。なるほど。宮台ブログなどもお読みになるとよいと思います(解説は宮崎哲弥さん)。字が細かいから一旦印刷して拡大コピーして寝る前に読むと2、3日してからじわっとわかってきます。

NHK「わたしが子どもだった頃」

2008-04-28 23:25:17 | テレビ番組
 昨夜、テレビをつけたら、姜尚中さんが出ていた。
 「わたしが子どもだった頃」という番組だ。こんなのやってたのか。太田光はどこにでも出てくる人だ。

 慣れない国で必死で働き、生活する在日の両親や周囲の人たちの愛情に包まれながらも、その職業や習慣の違いを恥じる気持ちもあって複雑な思いを抱いて過ごした姜さんの少年時代をドラマで再現していて、これがおもしろかった。
 姜さんのお母さんは母国の習慣を大切に守っていた人で、旧暦の暦に従って「何日は何々をする日」と、昔ながらの韓国の田舎の生活を忠実に再現していたという。幼くして亡くなった長男の法事には徹夜で御馳走を作って祭壇を設け、すごい巫女さんだと評判の下関のおばさんを呼んでお祓いをしてもらう。鉦と太鼓をじゃんじゃん鳴らして笹の小枝で家じゅうを祓った後、お母さんが出刃包丁を持って踊り、家族の体をなでるようにして祓い、玄関から包丁を放り投げる。その包丁の刃先が向いた方角で、その年の吉凶が占われるのだという。もしも凶と出たら儀式は継続され、場所を近所の祠に移してまたじゃんじゃんやるのだそうだ。姜さんは、友達に「あれはなんばしょっと?」と聞かれて恥ずかしくてうつむいてしまう。そら、けっこう大変な少年時代ですね。
 でも、私はお母さんが出刃包丁を持って踊っているのを見て、「ああ、姜さんが運がよかったのはこのせいだ!」と思った。だって、あれはナマハゲだよ。ほら、あれ、一年の間に体にくっついてしまった悪い気を刃物で剥ぎ取って捨てる、そういう儀式なのだ。一年の間にはいろんなものがくっついてしまうでしょ。貧乏神とか厄病神とか生き霊とか。そんな物騒なものでなくても、知らず知らずのうちに古くなって不要になったものもあるでしょ。そういうのを刃物で祓って取るのだ。

 と、いきなり(エセ)民俗学的なことを書いたのはこの間、人気妖怪漫画「もっけ(勿怪) 」を読んだからで、「もっけ(勿怪)2 」に「モクリコクリ」という妖怪が出てくるのだ。「モクリコクリ」とは「むくりこくる」つまり「剥く者」という意味で、妖怪たちの古くなった皮を剥いで、体をリフレッシュさせてやる職人みたいなもんらしい。このモクリコクリの大事な小刀がなくなってしまったので、主人公の静流(しずる)がいっしょに探してやる。お礼に皮剥ぎをするところを見せてもらうのだ。ちょっと絵としてはグロテスクだけども、妖怪たちは「ひょおおおっ、気持ちいいいィ!」なんて大喜びしている。剥ぐのは古い皮だけではなくて、いろいろなものが剥げるらしい。静流もしつこい風邪とか何か剥いでもらってすっきりするし、古くなって弱ってる梅の木はやっと花を咲かせる。多分、モクリコクリはよいことも悪いこともできるんだ。私も頭痛や肩こりや背後霊や皮下脂肪を剥いでもらいたい。古い皮をペロッと剝して新しい自分になれたらいいなあとこの漫画を読んでうらやましく思ったのだった。

 そしたら姜さんちの「出刃包丁の舞い」ですよ。やっぱ、昔のお母さんはすごいですよね。そういうのを昔の不合理なくだらない習わしだと私らは教えられ、排斥してきたけども、一見くだらなくて野蛮に見える習わしも、きっと何かの役には立っているような気がするのだ。あー、私もお祓いしてもらいたい・・・・。

 ところで番組の本筋は「姜さんの初恋」であった。小学生の頃、姜さんがほのかに思いを寄せてたが打ち解けることのないまま転校して行った美少女に、再会しようという流れになったので「えっ、」と思った。いけません、昔の美少女はそっとしておくべきです。もし、いらんもんをいっぱいくっつけていたらどーするんですか!と、ドキドキしながら見ていると、調査の結果その美少女は19歳のとき、交通事故でなくなっていたことがわかったという。姜さんはショックを受けていたが、「でも、これで永遠の乙女になってしまった」とも・・・。私はほっとした。あー、やっぱり美少女は不慮の事故とか肺病とか白血病でなくなるんだなあ。糖尿病とか腎臓結石とか犬に蹴られて石段を転がり落ちるとかいうことはないんだろうなあ。いいなあ。

 何でなくなってたことが判明したかといえば事故の新聞記事が見つかったからだが、そういえば戦後の新聞記事を全部検索できるサービスがあったよね。利用料がかなり高いらしいから個人ではよっぽどのことがないと利用しないだろうけどもNHKだったら当然使いますね。そういうの便利だと思う一方で、ネットの世界では匿名だと思い込んでいたものが、着々と個人情報をデータベースに蓄えられたり、楽々経歴を割り出されたりするのかと思うとちょっと嫌だな。怖いし。
 姜さんみたいに正直になれればいいんだけども。

NHKスペシャルを見て

2008-04-22 23:04:01 | テレビ番組
 ところで、昨日「NHKスペシャル 大返済時代 ~借金200兆円 始まった住民負担~ 」という特集を見た。

 NHKが独自に全国1800市区町村への調査を実施した結果、数年後、財政再建団体に転落しそうな自治体が何個だったか忘れたけどいっぱいあったのだそうだ。なぜ急に自治体の財政悪化が表面化してきたかというと、夕張市の破綻を受けて去年成立した「地方財政健全化法」成立に伴い、それまで「一般会計」に入れていなかった、上下水道や公立病院、交通機関といった公営事業の「特別会計」を一般会計に繰り入れたことで、「隠れ借金」が明るみに出てしまったのだ。
 
 「借金」と言ったって別に無茶苦茶な土地開発や箱モノを作ってできてしまったわけではない。上下水道や病院や市営バスなど市民の生活に欠かせないインフラ整備をする際の借金と、その運営のための赤字の累積なのだ。それらを一般会計に繰り入れた時点で、即危機的状況ということになってしまって、泡食った自治体は今、住民サービスの削減や税金、保険料補助の打ち切りなど財政再建に必死だ。ほら、現実の社会は「誰が悪い!」と名指しできるようなものではなく、各自がその時々に最適な行動をとった結果「合成の誤謬」として最悪の結果を招いてしまうことがあるのだ。宮台がよく「ダーヴィンの悪夢」を例に挙げてるやつ。

 番組では熊本県長洲町の例が出てきた。下水道事業による累積赤字が積もり積もって20億円にもなり、現在「緊急行財政行動計画」を策定しているという。前の町長が国の支援を受けて下水道の敷設工事を積極的に推進したことが赤字の原因だ。しかし、その頃は全国の下水道整備のモデル地域として賞賛され、下水道で浄化された水を利用して作られた金魚の館なんかユニークな施設と絶賛されて、国から賞ももらったとか・・・。
 
 現在の町長は給与40%カット。役場職員も給与カット。給食センター廃止。金魚の館休館。固定資産税など値上げetc。だって。

 気の毒なことだが次は我が身かとも思った。200兆円も借金があるのだ。もうどこもなりふり構っていられないだろう。これからどんどん負担は増えるだろうし、福祉の恩恵は減っていくだろう。番組では自衛策として隣の県に引っ越した人や、「世帯分離」をして医療費を抑える人などが出てきた。寝たきりの夫を抱えて年金で生活している人が月4万5千円の医療費って、あれは無理だと思った。こういうぎりぎりの人たちに対しては免除するとか負担を軽くするとかはできないのだろうか。このままだとセーフティーネットからこぼれ落ちて死んでしまう人たちが大量に出るのではないか?それから、番組に出てきたように、個人が自衛策として転居するとか生活していけなくなって生活保護を申請するとかいうことになれば却って自治体の財政が悪化する原因となってしまう。これも合成の誤謬というのではないか?地域格差のような事態が極限まで行きついてしまったらそこから建て直すのはむずかしいだろう。

 「下水道事業」については思ったことがある。この家を建てるとき浄化槽をどうするか、いろいろ本を読んで調べた。その中に、自分でヤクルトの容器をいっぱい使って合併浄化槽を自作した人のことが載っている本があった。確かその人は教育テレビにも出てたことがあるが、浄化槽の中でメダカを飼っていた。浄化槽管理士の資格も取得し、自分で管理しているそうだ。その人が言うに、「下水道事業は非常に財政負担が大きく効率が悪い。将来かならず自治体の財政悪化の原因になるはずだ。下水道よりも補助金を出して合併浄化槽を普及させた方がいい」ってことだった。私はその本を読んだので町から補助金をもらって合併浄化槽を作ったのだ。なにせ、このあたりの川は県内でも汚染度ワースト1だから。
 たしかに水はきれいになるかもしれないが、下水道って本管を通すのに自治体が莫大な費用をかけ、そこから個人の敷地につなげる工事も数十万から百数十万もかかって(これは自己負担)、さらに月々の使用料もとられるのに、結局大赤字です、税金をアップさせていただきますってことになったら何だよそれ!とみんな怒るよ。人口が密集した都市部はともかく、地方では合併浄化槽を義務化して補助金を出した方が結局安上がりだったんじゃないか?全国一律下水道を通す必要はないだろう。だれもそんなことを言わなかったのか?そこがどうも釈然としない。

 これからはみんな賢くなって地方自治体や国を監視していかないとダメだな。

 それからホームページにあんなことを書いているような自民党もダメだな。


 

二枚舌

2008-04-01 23:00:50 | テレビ番組
 月曜日のNHK知る楽「悲劇のロシア」はショスタコーヴィチだった。
 
 ドストエフスキー以後は、マヤコフスキー、ブルガーゴフ、エイゼンシテインと、ロシア革命以後の芸術家たちがスターリンの独裁体制下において、どのように権力と表現の狭間で葛藤したかということに焦点が置かれた講義だった。
 1932年、ソ連共産党中央委員会は文学を含む芸術の全領域において組織的活動を禁止し、党の支配下に置く決定をした。芸術活動をも社会主義体制の挙国一致的な宣伝に使おうとしたのだ。表現活動の自由が徐々に狭められていく中で国民的詩人のマヤコフスキーは自殺したし、劇作家のブルガーゴフは虎の尾を踏んで上演禁止、失意のうちに死んでしまう。彼らはみな天才的な才能があったからスターリンは利用できるだけは利用しようと紐をつけて放し飼いにしていたのだ。スターリンってのはつくづくおそろしい人だ。マヤコフスキーなんか本人は知らなかったが、友人も愛人もみな秘密警察のスパイだったということだ。
 
 ブルガーゴフは人気作家で、革命を揶揄した戯曲「トゥルビン家の日々」はスターリンも大好きだったらしい。しかし検閲が厳しくなるとアイロニーに満ちた彼の作品はすべて検閲に引っ掛かって上演禁止。薄氷を踏むような状況の中で、革命前の若きスターリンを描いた戯曲「バトゥーム」を劇場に依頼されて書く。(バトゥームはグルジアの都市でスターリンが大規模なストを組織して有名になった土地だ。)起死回生のチャンスだったはずだ。ところがこれも結局上演禁止。しかもスターリン直々の命令で。なぜか。問題は「ほくろ」だった。スターリンは若いころ何度もシベリア送りになっているがそのつどすぐに釈放されている。どうも革命前に帝政ロシア秘密警察の二重スパイだったのではないかと推測されている。もちろんそんなことは決して知られたくないから政権を握った後で徹底的に証拠を消したはずだが、ブルガーゴフは戯曲の中に、その証拠となる資料からの引用をちらりと忍ばせたのだった。決して誰にも知られたくないことを「知ってるからね」とウインクされたように感じてスターリンは激怒したに違いない。結果上演禁止。ブルガーゴフは事実に忠実であろうとしたために非常に危険なことをしてしまったわけだ。
 エイゼンシテインだってそうだ。スターリンの尊敬する「イワン雷帝」の映画制作を依頼され、第一部では依頼どおりの勇者を描いたが、第二部では大冒険。過去の殺戮の罪におののき「悔悟」するメランコリックな君主を描いた。どうやら大虐殺をしながら罪の意識を持たないスターリンを「啓蒙」してやろうという意図があったらしいのだがもちろん上映禁止でお蔵入り。「残酷さが足りない」という批判によって。スターリンには啓蒙は通じなかった。


 では、ショスタコーヴィチの場合どうだったか。彼もまた国家権力の抑圧と干渉に耐えながら生きざるを得なかった芸術家だ。その「闘い」の形式は「二枚舌」だという。テキストから
「二枚舌」とは、独裁権力のもとで芸術家としての良心を救いだす(「サバイバル」する)ための手法であり、より具体的には、作品の内部にみずからの真意をしまい込むための作業である。要するに本音と建前の巧みな使い分けをいうが、一歩進んで、作品内にさまざまな「仕掛け」を地雷のように埋め込んでいく場合もある。あるいは翻っていうなら、弱者である芸術家が、個人へのテロルすら厭わない独裁権力に対しての「プロテスト」の一形式と見ることもできる。ショスタコーヴィチの弟子の一人は、このようなサバイバルとプロテストの手法を、レーニンの著名な論文「一歩前進、二歩後退」をもじって、「一歩後退、二歩前進」と表現した。

ロシアでは「二枚舌」のことを「イソップの言語」というらしい。なるほど。
1936年、ある日突然「プラウダ」に国内外で評判だった彼のオペラ「ムツェンクス郡のマクベス夫人」に対して酷評が加えらた。震えあがったショスタコーヴィチは公開直前の交響曲の発表を中止し、新しい曲を作る。それまでの前衛的な作風を改めた、古典的で重厚な交響曲第五番「革命」だ。翌年の初演は大好評。彼は一気に栄光の頂点に昇りつめる。しかし、この曲にはある仕掛けがあるのだと亀山氏は言う。私でも知っている第四楽章、ここには八分音符のラの音が総計252回出てくる。そして「凱歌」モチーフの音階進行ADEF#。ショスタコーヴィチはあるインタビューで「ラ」音は「私だ」と言っている。古いロシア語ではアー(A)に「私」という意味があった。そしてADEF#、これはオペラ「カルメン」の中の「ハバネラ」の一節prends garde à toi!の音階ADEFが少し変えてあてられている。(私が好きになったら 用心しなさい!ってとこね。)これは「信じてはいけない」「危ないよ」という意味だそうだ。
 つまり。ショスタコーヴィチはこう言っている「私は、私は、私は・・・信じない!(社会主義を)」
 人々に絶賛された重厚、荘厳な交響曲の中で革命の熱気をさんざん歌い上げておいて「でも、私は信じない」って裏の方でつぶやいている・・・すごい。

 戦後ショスタコーヴィチは八年間、交響曲を書いていなかったが、スターリンがなくなった直後の1953年に交響曲第十番を発表している。この中にも暗号が埋め込まれているのだと亀山氏は言う。第四楽章の最後に繰り返される、レミドシ(DEsCH)の音型、これはD.Schostakowitschの最初の四文字だ。(SはEs=変ホ)つまり「私はここにいる」と言っている。スターリンの死後はじめて高らかに宣言されたショスタコーヴィチ自身の存在証明、そして芸術の「よみがえり」だっていうのだ。よほどうれしかったのだろうね。

 こうしてみるとロシアって国の歴史はほんとうに悲惨だ。亀山氏は最後に「ロシアの悲劇性」について話しておられた。
 ひとことで言って、ドストエフスキーにおける悲劇の本質とは、「傲慢」である。屈従の長い歴史のなかにあって、この地上ではない、どこかへ、という超越的な夢に狂おしいほど憧れた人々の悲劇である。「傲慢」は、民衆から遊離する、知政ある主人公たちの魂のうちにこそ宿った。ドストエフスキーは、その憧れを、なしうる限りの力でこの大地に引き戻そうと願っていたのである。
 同様に、スターリン独裁の時代を生きた芸術家たちにとって、悲劇はそれぞれに形を変えてあらわれる。ある場合には愛する者を失った真の悲しみと、そこから生まれる憎しみの悲劇であり、ある場合には粛清された人間に対する嘲笑と哄笑と、それゆえの人間性喪失の悲劇である。

でも、亀山氏がときどき指摘されていたように、このような悲劇は何もロシアに限ったことではないし、過ぎ去った過去のことと片づけられるようなものでもない。現代だって私たちは圧政に苦しんでいるわけでもないのに息苦しさを感じて「この世ではないどこか」に逃避しようとするし、リアルな感覚を失って安易に人を殺してしまったりする。また世の中には「不意の暴力」が満ちていて、それに傷つかないよう自分を守って生きていくことは大変だ。まさに「サバイバル」の技術が必要になってくる。「二枚舌」ね。なるほど。

 今うちの町は選挙の真っ最中だ。組織や地縁を使った動員と利益誘導を餌にした集票じゃなくて、マニフェストで勝負せんかい!と思うがしがらみがいっぱいあって複数候補の後援会に入り心にもない笑顔で手を振ったりしなきゃいけなくて憂鬱だったが、別に悩むほどのことでもないかという気がしてきた。

NHK「その時歴史が動いた」 ~水野広徳が残したメッセージ~

2008-03-04 15:43:28 | テレビ番組
 2月27日のNHK「その時歴史が動いた」で、大正から昭和にかけて軍縮、反戦を説いたジャーナリスト水野広徳がとりあげられていた。私は驚いた。なぜって、この人物はNHKドラマ「花へんろ」に出てきたことがあるのだが、私は原作の早坂暁の創作だと思っていたからだ。実在の人物だったのか。

 調べてみるとずいぶん有名な人のようだった。
 
 水野廣徳(みずの ひろのり)
 忘れられた反戦の軍人・水野広徳(PDFファイル)

 「花へんろ」の中では、富屋の嫁静子がやっている大正座で水野さんの講演会があり、刺客まがいの海軍将校が訪ねてきたり、暴漢に襲われたり、てんやわんやであったと記憶している。なぜそんな危険な講演会を大正座でしなければならないのかと夫に聞かれて静子が諄々と説明する場面があった。水野さんは第一次大戦後、ヨーロッパの視察旅行に行かれた際、その被害の甚大さに衝撃を受けた。そして「今度もし日本が戦争をすれば必ず負ける」ことを確信した。以前水野さんが書いた日露戦争の海戦記である大ベストセラー『此一戦』、そして日米戦争を想定した『次の一戦』において民衆の戦意を鼓舞し、軍拡を唱えてしまったことを後悔し、「軍縮と国際協調こそが日本の唯一生き延びる道である」ということを訴えるために『興亡の此一戦』を書いた。しかしこの本は発禁処分となった。少しでも多くの人に軍縮を訴えるために今命がけで全国を回って講演活動をしているのだというのだ。その時、軍艦の数の比較から日米の軍事力の圧倒的な差を説明していたと思うのだがよく憶えていない。

 私は驚いた。そういえば第一次大戦前には世界的に反戦気運が高まって軍縮のための国際会議が開かれたのであったなあ。高校時代に習ったきりだ。だけど軍部が大反対して、内閣の決定を「統帥権の干犯である」と決め付けたのだった。それに対して水野はこう書いている。
 軍部が統帥権をうんぬんして憲法の正文を無視せんとするは憲政の将来を厄たいならしむるの恐あり
昭和5(1930)年6月5日の朝日新聞に発表した「洋々会決議案」より抜粋。

このあたりの歴史を見ていて、やっぱり当時日米開戦を止めることができたのは天皇ただ一人であったのだろうなあと思った。だって、一般人はみんな「やめろ」なんて言ったら殺されるのだもの。戦争前に「統帥権」云々って脅しまくったのだからやはり責任が一番重いのは天皇だよ。戦争責任がないなんていうのは右翼のトリックだ。

 東京大空襲を予言したかのごとき文章もすごいと思うけど、敗戦後に書かれた文章もすごいと思う。「日本において最も緊急を要するものは、国民の頭の切り換えであります。まず、第一に神がかりの迷信を打破すること。すべての生きた人間を人間として取扱うこと、生きた人間を神として尊敬したりするところから、神がかりの迷信が生まれてきます」(9月27日付)

 こんなふうに冷静に世界情勢を見極めて、警告を発した人が戦前にいたというのは驚くべきことだと思った。そして、番組を見て日本史のおさらいになった。日本が大陸に進出したのは貧しかったからだ。当時の軍事費は国家予算の半分を占めていたそうだ。まるで北朝鮮かアフリカの軍事政権国家みたいじゃないか。乏しい予算をありったけ軍事力につぎ込んで他国に攻め入り、土地と資源を収奪して一等国の仲間入りをしようとしたのだ。もちろんそういうやり方が世界の主流だったわけだけども。軍部のクーデターなどで政治家を惨殺した将校らは、きっと本当に貧富の格差と政治の無能に憤っていたのだろうが、果たして長い目で見てその行動が日本のためになったかといえばまるで逆だったじゃないか。なぜこんな短絡的な行動しか取れなかったのか。ああ、腹減っていたら思考能力が低下するのね。減ってなくても最近は短絡的にしか考えられない人多いしね。世界的な不況と失業者の増大が列強を植民地主義に走らせ、貧困層が戦争を支持したという図式と、その結果が自国の破滅的な被害と植民地の人々の怨念を招いたということを決して忘れてはいけないと思った。大虐殺がなかったとかたわごとを言う奴は死にやがれ!

 そして、今私たちが考えなくてはいけないことは、たとえひもじくてもじっと我慢して生き延びるために最善の道は何かということを冷静に判断することだと思った。だってサブプライムローン問題ですよ。世界的不況と物価の高騰がまた起きるかもしれない。不平不満が右翼的な思想に結びつくと怖いことになる。


 番組のゲスト、静岡県立大学教授 前坂 俊之氏は「言論報道は社会の酸素であって、自由にものが言えない社会は活力を失い、いずれは窒息して滅んでしまう。水野のメッセージは現代に通じるものがある」と言っていた。公式サイトに詳しい情報があった。


 このあたりを見ていて、「えーっと、石原廣一郎ってだれだっけ?」と調べてみたら戦前の右翼かー。A級戦犯容疑者から復帰して廃棄物処理会社の社長に復帰。右翼はいいよねー。石原産業フェロシルト不法投棄事件っていうのもあったな。
 このブログの「国家の品格」批判がおもしろかった。

今日のたかじん

2008-03-02 23:36:47 | テレビ番組
 今日の「たかじん」で皇室の問題を取り上げていたのだが、ちょっと気になったことがあった。三宅さんが「羽毛田長官の発言は、皇室内部の問題を公に暴露したわけで、皇室を貶めるものだ。長官はあのようなことを発表するべきではなかった」というようなことを言って、それに対して辛坊さんが「まったく同じようなことをウェークアップで言ったら抗議の電話がじゃんじゃんかかってきた。左翼のようなことを言うなって。」と言ったこと。どこが左翼やねん!
 最近、2ちゃんねるなどネット上で雅子さんバッシングがすさまじいように感じていた。週刊誌などでも見出しだけでもうんざりするほどだ。読まないから何が問題になっているのか知らないけど、ときどきギョッとする。三宅さんが言いたいのは「開かれた皇室なんて戦後の皇室はイギリス王室を模範としてできるだけ国民の中に入っていこうとしたけども、あのイギリス王室はどうなったか。皇室だって、このままじゃあ国民の好奇の的になってぼろぼろにされてしまう。」ということらしい。

 えーと、このような議論をどこかで読んだような・・・と思いだしたのは、池田清彦氏が養老孟司・内田 樹『逆立ち日本論』について書いた書評
定義したくて仕方がないのに定義できない何ものかは、人に考えることを強い続け、ついにそれはブラックボックスのように畏怖すべき巨大な概念として、人々の頭に棲みつくようになる。

そこで聞いた話は、ラオスの中で一番高位の坊さんは、一般のラオス人とは接触をしないというものだった。接触をすれば、もしかしたら只のジイサンであることがバレてしまうかもしれない(もちろん、立派なジイサンには違いなかろうが)。ブラックボックスにしておかなければ、聖性が保たれないという知恵がここにはある。
 開かれた皇室などと言っていると、そのうち天皇制は崩壊するぞ、ということで養老と私の意見は一致した。

 いやー、私は天皇制が崩壊しても一向にかまわないけども、「権力の空白状態ができると、すさまじい混乱が起きる」という歴史的事実から、天皇制が崩壊した後変な新興宗教が乱立したり狂信的な国粋主義者が跋扈しそうな気もして嫌だから、まあ日本人の精神が天皇制なしでも大丈夫な日が来るまでは生き延びていてもらいたいと思う。

 で、右翼でも宮内庁長官の発言に自制を求める人と「いや、よく言った」という人といるみたいなのがおもしろい。「ウェークアップ」で抗議の電話したというのは多分ネット右翼のような人じゃないかと思う。この人たちは雅子さんをぼろくそにけなすだけではなくて、皇太子を廃嫡すべきだなんて主張しているようだ。(今日の三宅さん発言への言及

 いやー、おもしろいですね。きっと天皇制は民衆の支持によって浸食されて滅びていくのでしょう。すごく逆説的ですが。勝谷さんが「東宮は外務省に乗っ取られている」とか「福田さんが皇太子の北京五輪出席を後押ししている。皇室の政治利用だ」とか言っていたのもおもしろい。

 私は島田雅彦『無限カノン』三部作の「美しい魂」を読んだとき「あー、これはまずい」と思った。「外務省をやめて東宮の妃に」「外交でキャリアを生かしたい」等々、モデルそのまんまのヒロイン像だ。「内部から皇室を変えていきたい」だなんてものすごい危険なことを言わせている。しかも、主人公の永遠の恋人として神格化されちゃってて、もしこの小説を雅子さんがお読みになったらどれだけ不愉快な思いをされるだろうかとよけいな心配までしたものだ。その後、ニュースなどで「体調不良」が伝えられるようになったとき、「やっぱり」と思った。いいですか、どんな組織であっても「内部から変革するために入ります」と言う人間を喜んで受け入れるところがありますか。今の組織の在り方を否定しているわけですよ。そんな人はきっと死ぬまで嫌がらせを受けるに違いありません。本人ではなく、周囲が期待をかけているってだけでもですよ。たとえ皇太子が命がけで守ってもだめです。そんな伏魔殿みたいなところに行った人に過剰な期待をかけてどうしようってのか。

 私はめずらしく三宅さんや勝谷さんと意見が一致していたので感銘を受けた。ただ、決定的に違うのは雅子さんに関することで、私なんかはもうあの方の一挙手一投足に目くじらを立てて批判するのはやめるべきだと思う。それこそイギリスのパパラッチ並の下劣さだ。三ツ星レストランで食事したくらいで何が悪いのかと思う。日本であれだけプライバシーをほじくり返されて誹謗中傷されてる人が他にいるだろうか。おそろしいことだ。まるでイギリス王室の悲劇を思わせるような不吉な予感がする。

 たとえ、皇太子が「今後の皇室」について何か意見を持っていらっしゃったとしても、絶対におっしゃらないだろうと思う。だって殺されるもの。



 

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2008-02-27 13:58:55 | テレビ番組
 NHK「知るを楽しむ」「悲劇のロシア」
ついにカラマーゾフですよ。新訳の「カラマーゾフの兄弟」は50万部も売れているとテレビで言っていた。私も1巻を買って読んだが、すらすらと読めて嘘みたいだ。「キツネつき」などという言葉には少しぎょっとしたけど、ロシアでは「悪魔つき」とやらが普通にいるらしいからきっとそのことだと思う。2巻目を買おうとしたところ、どこに行っても品切れになっていて信じられないことだ。こんな暗い小説(しかも古典)を皆読むのか?番組では2ちゃんねるらしき掲示板が一瞬だけど出てきて、「現代的なテーマ」だとか「神の不在」だとか、まともにディスカッションされている様子だったのでびっくりだ。何がそんなに受けるのかと思ったが、一昨日の講義でやっとはっきりした。

 ドストエフスキーは時事ネタ大好きな人だったらしくて、「罪と罰」にしても「悪霊」にしても、実際に起きた事件が小説の着想となっているのだが「カラマーゾフの兄弟」も1866年におきた「カラコーゾフ事件」という最初の皇帝暗殺未遂事件が影響しているという。(このあたりが参考になる)この時代はテロが頻発し、ロシアが歴史的な大転換をしようとしていた時期であった。ドストエフスキーはこの激動の時代を小説に織り込もうとしていたのだ。私は知らなかった(または忘れていた)のだが、この小説は実は未完であって、第一部がこの「父殺しをめぐるミステリー」。続きの第二部がおそらく、「皇帝暗殺をめぐる物語」だったのだろうと亀山氏は言う。この小説はカラコーゾフをモデルにした暗殺者の生涯を描こうとしたものだ。

 「父殺し」の真犯人はスメルジャゴフだ。しかし、「殺してやる」と公言していたドミートリーはもとより、「神がいなければすべては許されるのだ」と無神論をスメルジャコフに吹き込んだイワンも、果たして無罪と言えるか。無意識に父の死を望みスメルジャコフをそそのかしたイワンにも罪はあるのではないか。そして、清純で信仰心の篤いアリョーシャすらも、イワンとの対話から、実は決して聖人ではないということを露呈してしまう。彼らはみな父殺しにかかわっていると言えるのだ。

 「ドストエフスキーが小説の中で描いた人間はすべて壊れかけている。そして、このグローバリゼーションの現代において、我々の脳もまた圧倒的な情報量の前で壊れかけている。今、ドストエフスキーが読まれるのはそのような壊れかけた私たちの心に訴えかけるからだ」と亀山氏は最後におっしゃった。そうか、たいへんよくわかる。と同時にちょっと思いだしたことがあったので、どうでもいいことだけど書いておこう。

「知るを楽しむ」のテキストでところどこ引っかかる言葉(「神か悪魔か」とか「進化する」とか)があって、気になっていたのだが、番組で「壊れている」とおっしゃったので思い出した。かつて雑誌「群像」2006年4月号に掲載された「暴力的な現在」(井口時男)という評論の中に「もののあはれ」の壊れ、またはロボットのリアリズムという章があった。ここで著者は、現代の少年犯罪が私たちをおびやかすのは、彼らに人間的な感情が欠如しているように見えるからだと言っている。
 彼らにはもう、憎悪や怨恨といった熱い情念もなければ、欲望も快楽もない(ようにみえる)。感情が死んでいて、ただ冷めた好奇心しかない(ようにみえる)。彼らはあたかも、見知らぬ生き物に対するように人間に対している(ようにみえる)。

市民社会を脅かすのは、少年犯罪の量ではなく突出したいくつかの質である。そこでは「もののあはれ」が壊れている。

 島田雅彦氏は朝日新聞2006年3月、最後の文芸時評でこの評論に言及して「もののあはれが壊れている」と書いていた。偶然であるけども 島田雅彦の小説に「君が壊れてしまう前に」というのがある。上記の写真で猫の背中のところに寝かしてあるクリーム色の本だ。(5、6年前の写真だからパソコンが古い)2年前私は文芸時評を読んだとき、「だって壊れでもしなきゃ生きていけないじゃないの」と思った記憶がある。なんせ新聞だって壊れてるような時代なんだから。
 もはや私たちはみな壊れているのかもしれない。生き延びるためには壊れざるを得ないのではないかと私は思う。だって、信じられないような事件が次から次へと起こるのですよ。情報を遮断し、感情を殺さなくては生きられません。で、さっき、島田雅彦氏の公式サイトをちらっと見たら、「あなただって壊れているじゃないか」と思った。これ、まともなサイトか?

 そのようなことを思い出して探してみたら、昨年の8月に行われた亀山郁夫氏と島田雅彦氏のトークセッションの広告記事が出てきた。(2007年9月14日朝日新聞 21世紀の視点で読み直す『カラマーゾフの兄弟』)おお、そのまんまじゃないか。「今、なぜ『カラマーゾフの兄弟』なのか」という問いに対して亀山氏はこう答えている。
 『カラマーゾフの兄弟』は運命に翻弄される芥子粒のような存在と、罪を犯す人間の巨大な精神世界の広がり、この対比を描いています。ここに、今を生きる我々、現代のグローバリゼーションと何か通底しているものを感じるのです。二つのアンバランスさ、世界の対立といったものが、19世紀後半のロシアの小説が生まれる二重性と非常に似ているんですね。そしてもう一つが金の問題です。グローバリゼーションの時代に特有の金銭感覚がドストエフスキーにはある。

それから「『カラマーゾフの兄弟』のどこがすごいのか」。第2巻に「ございます」大尉のスネギリョフ一家というのが出てきます。私は、この一家の物語がドストエフスキーの神髄だと考えるようになりました。それはひとことで「狂っている」ということです。とりわけ、このスネギリョフの奥様の(狂い方)が異常で、これを描けるドストエフスキーはすごい。先ほど、わからないところは砕いて翻訳したと言いましたが、この奥様のセリフだけは最後までわからなかった。内心、忸怩たるものがあります。しかし、ドストエフスキーの描く狂気をきちんと読み込んでいけば、現代の、どこか歯車がおかしくなってしまった人間の心のメカニズムをしっかりと捉えられるんじゃないかと思います。

うーん、「神がかり」とか「キツネ憑き」とか出てくるのにまだうわ手がいるというのか。私はすっかり記憶にないのだけど、また読みたいような、読みたくないような・・・・。

 最後の問いは、「ドストエフスキーのテーマとは何か」。「ヒュブリス(傲慢)」という言葉がありますが、「傲慢さを避けよ」というのがドストエフスキー作品のすべてのメッセージだと考えています。「傲慢」という言葉のもつ広がりは大変なもので、人間の悲劇はここから来ているというのがドストエフスキーの信念なんですね。

なるほど、今そのようにまとめて読むとわかりやすい。で、島田雅彦氏は書かれなかった第二部について推測している。
島田 修道院を出て俗界へ戻ったアリョーシャは、イエス・キリストと同じ方向へ進むのではないか、そしてキリストがテロリストになるというのは小説としては大変面白いのですが、若者を使って皇帝暗殺をやらせるとしたら、それはアリョーシャではなくイワンでしょうね。
 アリョーシャは鞭身派が逃げたシベリアへ行き、デルス・ウザーラのような極東の先住民族・少数民族の文化と融合したキリスト教を確立していく、なんていうのはいかがでしょう?アリョーシャはピュアで敬虔でありながらファナティックな面も持っていて、キリスト教より古い自然の神、大地の恵みのような文化に引かれる気がします。
亀山 それはありえます。おもしろい。アリョーシャにはヒステリーがあって、これが急激な信仰の転向に向かわせるということはありえます。
島田 それでアリョーシャの最後は決して崇高なものではなく、氷の裂け目にはまって死ぬとか、狂った女に刺し殺されて死ぬとかいったナンセンスなものがいい。キリストの死を利用した弟子たちに広められたキリスト教ではなく、イエスそのものへ回帰する原始キリスト教でありたいので。それに「なんでこんなところで死ぬの、そんなのありかよ~」と足元をすくわれるような徒労感に見舞われるのも、ドストエフスキーの小説の魅力の一つでしょうから。

 「狂った女に刺し殺される」とは物騒な。最近新聞に連載中の「徒然王子」でもなんかそんなような言葉がありましたな。
 たとえ結界で護られていても、都市はとても不安定で、ささいなきっかけでその微妙なバランスは崩れてしまう。一人の女のヒステリー、指導者の勘違い、ささやかな悪意、嫉妬、それだけでも都市の秩序と繁栄は崩れてしまう。都市の繁栄はそこに住む人の力で築き、護らなければならない。秩序の薄い膜をめくれば、そこには混沌がある。

「結界」かよ~。そーいうマジカルなのは「宿神」で堪能したからもういいです。なんで結界が女のヒステリーくらいで決壊するのかがわからないが、この方向から行くと、王子は「地の果て」に行って夢の中でだれかと交わって太古の神に導かれ、生命力を取り戻す・・・という展開かなあ。その前にヒステリックな女が出てきて「あなたの子どもが産みたいわ」とか言って結婚を迫るのかもしれない。(これはどの小説だったっけ)。島田雅彦氏はよほどそのような女の怖さが身に沁みているに違いない。
 とまたおちょくってしまったー!


 私が記憶しているのはゾシマ長老がなくなったとき、「腐臭」がしたというので皆が驚き、アリョーシャが信仰に揺らぎを感じたという部分だ。「死んだら腐敗するのは当然じゃないか!別に恥でもなんでもない」と私は逆に驚いたのだが、ゾシマ師は高徳の僧であったから、そのような人の死に際しては「芳香がして花びらが降る」とまでは言わないが、なんらかの奇跡のようなものが起きるのではないかと皆密かに期待したというのだ。この部分に関して、大学時代に聖書研究会で確かパウロの手紙か何かを読んでる時に先生がしみじみとおっしゃったことがある。「神の力の現れとして奇蹟を期待することは間違っているのよ。私にもそのようなものが起きて欲しいと思う気持ちはどこかにあるのだけれど、では奇跡が起きなければ神は存在しないかといえば決してそうではない。聖書には奇蹟の物語がたくさん載っているけど、それらは寓話として読むべきで、それが事実として起きたと解釈するべきではない。私はいつもオカルト的な方向に迷いそうになる度にこの『カラマーゾフの兄弟』を思い出すのよ。」
 どうも、ロシア正教には独特の考え方があるみたいで、私はアリョーシャがこんな無邪気な人たちばかりいる修道院から出て俗世に生きることの困難さを思って同情したものだ。

ドストエフスキー「悪霊」

2008-02-26 15:45:02 | テレビ番組
 買ってきた本の感想を書こうと思いながらなかなか読み切れないでいる。

 先週の「知るを楽しむ」悲劇のロシア第3回「神のまなざし」を奪う者を見ていて、「なぜ今ドストエフスキーなのか」、「ドストエフスキーの小説から私たちは何を読み取るべきか」ということについての亀山郁夫氏の考えがますますはっきりとわかったように思った。

 「悪霊」には、この小説が発表された当時、未発表であった一節があった。不道徳で反キリスト教的であると雑誌への掲載を拒否され、その後行方知れずになって50年後にやっと発見されたのだが、実はこの部分が最も重要な部分なのであるという。主人公スタヴローギンの「告白」を収めた章だ。ここでスタヴローギンは自分が今までに犯した5つの罪を告白しているのだが、その中に一つ重大な罪があった。アパートのおかみの娘を凌辱し、彼女の自殺を唯一止めることができる立場にいたにもかかわらず、黙って見届けたというのだ。(詳細は本を読んでくれ)「知る楽」テキストからの引用。
 主題は、徹底した「無関心」である。少女の死を予感しながら動くことなく、悲壮な覚悟とともに死に向かおうとする少女の内面にも同化せず、あたかも「神」であるかのごとき高みに立って、少女の死体をあるがままに、無関心に眺める。それは、他者の生命、他者の痛みに無関心ということの究極の姿である。「告白」のなかで彼は、さも勝ち誇ったかのように書いている。
「ついに、私は必要だったものを見きわめた・・・・・完全に確認したかったすべてのものを」
 スタブローギンが「必要だったもの」とは、何か。それは、もしかすると神ではなく、死の「全能性」を明らかにする最終的な「徴」ではなかったろうか。あるいは、もろもろの「復活」を葬り去る神の死という事態ではなかったろうか。またしても立ち現れるホルバイン・モチーフ――。スタヴローギンの目にとって、マトリョーシャの死こそは、神の不在の証(「神さまを殺してしまった」)だった。なぜなら、神はマトリョーシャに関心をもたず、彼女を救いだそうとしなかったし、そのとき、彼女を救いえたのはひとりスタブローギン自身だけだが、その彼も神の無関心をまねて、いっさい行動を起こすことはなかったからだ。

 この「無関心」ということを小説中で引用された「ヨハネの黙示録」の一節がこう表わしている。

 
 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(ヨハネ黙示録3・16)
 
 「なまぬるい」とは、神でもあり悪魔でもあり、みずからは何もせず、他者に無関心なスタヴローギンという人間の、いちばん本質を突いた定義なのである。

ふーん、私がこの引用文から思い出したのは、ペルーの元大統領、アルベルト・フジモリ氏が初めて里帰りした際に「ふるさとは温かくはなかったが、冷たくもなかった」と言った言葉だ。私はそのニュースを聞いた時に、「要するに無関心ってことじゃん」と思った記憶がある。私らにとって、ペルーという国は地球の裏側の国で、遠すぎて、熱狂的に大統領を歓迎するってところまではいかなかったわけだ。しかし、この他者に対する無関心という態度が、高度に情報化された社会の中で蔓延し、私たちの魂を蝕んでいると亀山氏は言う。アフリカでも、ラテンアメリカでも中東でもいいが、悲惨なニュースを見聞きしたとき、私たちは神の視点にたってこれらを俯瞰し「自分に関係ない」からとすぐに忘れようとする。少女が縊死するのを黙って見過ごし、それを物置小屋の板の隙間から覗き見るスタブローギンとなんら変わりはない。

「罪と罰」におけるラスコーリニコフは「神の立場に立とうとした」わけだが、まだそこには「神のまなざし」は出てこない。この「悪霊」においてはスタヴローギンにしても、革命家ピョートルにしても、この他者の痛みに対して無関心であるという点で数段「進化」している。(らしい)
 ドストエフスキーは「ネチャーエフ事件」と呼ばれた内ゲバ事件に怒りをおぼえてこの「悪霊」を執筆したのだという。革命という大義名分のためならば仲間を殺しても許されると考えた者たちの不敵さ、傲慢さに対する怒りがここに書かれている。この「悪霊」は、「浅間山荘事件」を引き起こした連合赤軍の学生が言及したことでも有名になったらしいのだが、私はそれを聞いて昔のことを思い出した。
 
 大学時代、宗教学の先生がおっしゃった。「目的のためならばどんな手段も許されるのか。」先生自身の学生時代は、大学紛争が終息しつつある時代で、内ゲバ事件も頻発していた。学内のある内ゲバ事件をきっかけに、神学部の学生たちで議論したのだそうだ。「高邁な目的のためならばこのような暴力行為は正当化されるのか」何度も議論したが、結果は「否」であったそうだ。「どんな目的のためであっても、人を殺したり傷つけたりすることは許されない。たとえどんなに迂遠であっても暴力によらない働きかけによって社会を変えていかなくてはならないし、また暴力によらず社会を変えていくことができる手段の残された社会にしていかなくてはならない」という結論に達したのだそうだ。「暴力は知らず知らずのうちに精神を荒廃させ、どんな高邁な目的をも変質させてしまう」というのだ。
 私はそれを聞いた時、何をおっしゃっているのかわからなかったのだが、今ウィキペディアで調べていて、レーニンがネチャーエフに心酔し、「悪霊」をけなしていたという情報が書かれていたのでなるほどと思った。内ゲバによって「粛清」を繰り返していった革命の結末がどれだけ悲惨な社会を築いたか歴史が証明しているではないか。

 しかし、私らの心の中にもスタヴローギンがいることは間違いない。スタヴローギンは「神の無関心」と「悪の蔓延」を確信し、自らそれを証明するために自殺するのだ。ああ、なんて陰々滅々たる小説だろう。

今朝のスパモニから

2008-02-21 12:05:38 | テレビ番組
 今朝テレビで、出雲市に建設が予定されている歌舞伎の上演施設「出雲歌舞伎阿国座」について市民が計画見直し要求の署名活動をしている(毎日新聞ニュース)ということが報じられていた。まったく唖然とするような建設計画だ。
 この施設、最初から年間の赤字が2000万と算定されていて、その赤字は市が補てんするというのだ。この施設によって観光収益が一億円以上増加するから「問題はない」と市長は言っているとか。客席800で、年間10回の歌舞伎公演を行う予定だって。たまーに出雲市に行くこともあるが、冬は天候が悪いし交通の便もよくない。まあ、こっちからは行かないだろうな。こんな計画(2ちゃんねるより)、予定通りにいくわけないだろーが!

 そもそも、出雲市には他に歌舞伎公演ができる大きな施設がある。23億かけて建てた市民会館(年間赤字900万)、38億円かけたビッグハート出雲(赤字900万)、42億円かけた文化プレイス(赤字950万)。いくら補助金が出るからってどんどん建ててたら、赤字が累積して行っていずれは二束三文で売られる運命だ。そもそも出雲市というのは標準財政規模が350億円という小さな自治体だ。それが、現在の地方債の総額が2100億円というから借金で首がまわらない状態だ。それなのに、まだ箱ものを造り続けようとしているというのが信じられない。市民の9割は建設に反対だそうだ。でも造るというのだ。よっぽど誰かの得になるのだろう。もう市長のリコールでもなんでもしてやめさせなくてはどうしょうもない。財政が厳しいからって公共サービスは削られるし、ゴミは有料化されるし、市民の懐には厳しい状況があるのに、この上借金を増やしていくのかと非難があるらしい。あたりまえだと思う。しかも、このばかげた施設建設のために、道路特定財源が使われるっていうのだ。私らにも無関係とは言えない。

 「阿国座」建設の費用42億円の内訳は、一般財源から3、5%(1億6千万円)合併特例債75、4%(31億円)まちづくり交付金20.5%(8億6千万円)で、この「まちづくり交付金」に道路特定財源が使われているのだそうだ。普通、道路特定財源というのは道路建設に使われるのだが、このように、周辺道路の整備という名目で支出されることもある。しかも、合併特例債とは平成の大合併の際のアメでこれは国が借金を返してくれるっていうことらしいのだ。
 って、それ、私らの税金から出るんじゃない?

 もう、最初から採算が取れないような建物ばっかり作るな!
 市長は財政破綻したときには責任を取るのか?間違えましたごめんなさいで済むと思うなよ!
 島根県にはときどき行くこともあるが、なんだか、しょっちゅう道路や施設を作ったりばかりしてるような気がする。竹下登元総理のおひざ元ですからね。箱もの政治から発想の転換ができないのでしょう。現在の島根第二区選出衆議院議員は竹下亘(自民党)です。

 ふるさと創生事業で平成3年に建てられた「仁摩サンドミュージアム」巨大砂時計と動く砂のオブジェがあります。いや、それだけなんで2度とは見に行きませんでしたな。きっとこれなんかも、いずれは閉鎖の憂き目に遭うのだろうなあ。

 やっぱり政権が変わらなきゃいけないとつくづく思う。

ドストエフスキー「白痴」

2008-02-13 01:37:47 | テレビ番組
 と言っても、私は「白痴」を読んでいない。

 昨日、HNK「知るを楽しむ」亀山郁夫 「悲劇のロシア」第二回「入口も出口もない物語~ドストエフスキー『白痴』」を見ていて思い出したのだけど、私は昔、たぶん大学生の頃「白痴」を図書館で借りたけれども読み終えていない。どうも、途中でなんだかブレーカーがパシャッと落ちるように脳が理解を停止してしまって、文字を読んでいても理解しない状態になったようだ。ナスターシャが死んだことは覚えている。なんでブレーカーが落ちたんだろうかと思いながら聞いていてわかった。危険過ぎるからだ。

 もうひとつ思い出した。前回取り上げられた「罪と罰」で、本筋とは関係なく唐突に出てきて妹ドーニャを口説き、拒絶されたために失望してピストル自殺した中年男(アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ)が、ドーニャを手篭めにしようと部屋に鍵をかけるシーンだ。ドーニャには、一応婚約者がいる。男は、何が何でもドーニャを手に入れたい。ドーニャは激怒している。目をらんらんと輝かせ、睨みつけ、「手を触れたら死にます」と言ったはずだ。激怒した顔も美しい。二人は二匹の獣のように向かい合い、見つめ合っている。そして、男は悟るのだ。決してこの娘を手に入れることはできないということを。だから彼女を帰した後で自殺した。(大昔の記憶なので違ってるかもしれない)

 「言語道断だ!」と、高校生の私は思った。なんでこんな危険なおっさんが出てくるのかわからないとも思った。今はかなりわかる。ああ、なんてかわいそうなおっさんだろう。それから売春婦ソーニャの父親。家族のために苦界に身を沈めた娘に飲み代をせびる情けない父親。彼が言う。「あの子の目がおそろしい。何も言わないが、あの澄んだ青い目に見つめられると・・・」そりゃー、おそろしかっただろうよ。

 今の私はどちらかというと、人生が思うにまかせず絶望してしょぼくれている人の方に共感できるのだ。

 だから、ナスターシャがムイシキンを選ばず、やけくそのようにロゴージンと出て行った気持ちもだいぶわかる。昔はわからなかったのだ。わかるはずがない。10万ルーブルを暖炉に投げ込むような気持は。10万ルーブルを差し出すのも燃やすのも狂気の部類だ。3人とも正常じゃない。これは常識的な恋愛の話ではない。狂気に近いような究極の愛の話なのだ。だからブレーカーが落ちたのだと思う。

 物語の構図を読み解く一つのカギとして、亀山氏は「模倣の欲望」ということをおっしゃった。ルネ・ジラールの「欲望の三角形」だ。ロゴージンはムイシキンの欲望を模倣してナスターシャを欲したのだというのだ。ムイシキンはほとんど信仰に近いほどの愛でナスターシャを欲していていた。その愛が強ければ強いほど、ロゴージンもナスターシャを欲望し、強引に奪い取ろうとする。ドストエフスキーの作品にはこのように愛する女性を奪われるといったストーリーが多いという。

 表象的に理解すればムイシキンは「神がかり(聖痴愚)」で病弱、キリスト的な風貌の人物であるし、ロゴージンは肉体派で粗野でマッチョ、と対照的だ。肉体派と純情派と、女がどちらを選ぶかという下世話な物語とも見える。しかし、それほど単純ではない。この二人はいずれも性的に不能であったのではないかと推測できる節があるという。ムイシキンは病弱のため「まったく女というものを知らない」というし、ロゴージンは、ロシア正教で異端であった「去勢派」の一家の出らしい。このセクトでは性的快楽をまったく否定するために、性器を切除するのだという。(!)さらにナスターシャにも過去の不運な経歴があり、この3人はみな「傷」を負っているという点で共通しているのだ。おそろしいことだ。ロゴージンのように強烈な欲望を持った人間が、不能であるにもかかわらず女性を完全に所有しようとした場合、考えられるのは、① 恋敵であるムイシキンを殺す。② 決して逃げないようにナスターシャを殺す。という二通りしか考えられない。しかし、ロゴージンはムイシキンと十字架を交換し、兄弟の契りを結んでしまったために①という選択肢はありえない。よって②のナスターシャを殺すという結末しかなかったのだという。

 自分が死ぬという選択肢はないんかい!と思ったが、それをやったのが「罪と罰」のアルカージイなんとかというおっさんだったのだ。きっと、それじゃあまりにもかわいそ過ぎたのでドストエフスキーは別な選択肢を選んでみたのに違いない。そもそも、自分が死んで、思い人と恋敵が幸せになることなんて絶対に許せなかったのだ、ロゴージンは。野蛮人だから。

 「緋文字」のナサナエル・ホーソーンに、「痣」という短編がある。妻の頬に天使の手形のような小さな痣があるのを苦にした男が、強力な美白薬を発明して見事に痣を消すことに成功する。しかし、妻は死んでしまう。男は、痣が消えさえすれば妻の美貌は完璧になると思ったのだが、そうではなくて、完璧な美はこの世に存在することを許されないから痣を持つことによってかろうじて存在していたのだった。という話だ。「白痴」の解釈を聞いていて、私はこの「完璧な美」という話を思い出した。きっと「完璧な愛」というものも地上には存在しえないもので、それは神のものではないかと思う。だから、あまりにも強すぎる愛は人を殺してしまうのだ。

 私はめまいがした。風邪をひいて気分も悪かったのだけど、話を聞いていてぞっと寒気がしてきた。私は複雑すぎる愛の話には拒絶反応があるのだった。たぶん、もう一度「白痴」にチャレンジしても、またブレーカーが落ちるに違いないと思う。

「デスノート」

2008-02-09 22:38:14 | テレビ番組
 昨日はテレビで実写版「デスノート」の第二部が放送されていた。私は「デスノート」をマンガでも読んだし、子どもがせがむので映画も見に行った。でも、これはちょっとひどいんじゃないかと思った。
 
 テレビで第一部が放映され、映画で第二部が封切られた後、家族で「デスノート」の是非について、また夜神月(ライト)の行為の是非について議論した。子どもは「ライトは法律では裁かれないひどい犯罪者を殺したのだから、それは許されると思う」と言う。私は反対した「確かに、法律の網をくぐり抜ける犯罪者がいるし、あるいは法律の課す量刑ではなんの反省もせずに再犯を繰り返すような危険な犯罪者もいる。だけど、個人にそれが裁けるかといえば、そんなことはできない。それは可能か不可能かではなくて、裁きを下す権利がないという意味だ。どんな個人でも、『自分の行為は正義だ』と思い込んで人の命を奪うようなことは許されない。そうした瞬間に『正義』はもはや『正義』ではなくなって、何か別なものになってしまうと思う。ほら、ライトだって、最初は犯罪者を殺してたのに、エルに扮してテレビに出た人を殺してしまったでしょ。あの瞬間にすでにライトの正義は別のものにすり替わっていると思う。『自分は神だ』と言ってるし、とてもじゃないけど危険すぎて許せるものじゃない。」と言うと「まるでテレビでライトを非難して殺された評論家みたいだ」と言われた。「そう、途中からキラを非難する人はみんな殺されるでしょ。きっとお母さんも殺されるよ。こんなふうに強大な権力で人の批判を封じるのを独裁制というんだよ。やっぱライトは独裁者だ。危険だ。早く捕まえなきゃ。」「もう死んだって!」

 その頃、「たかじん」で「デスノートが手に入ったら使うか」というお題が出たのだが、保守派の三宅先生が「使う」と言われたのには驚いた。例の山口県光市の母子殺害事件のように、少年法に引っかかって死刑にならないような犯罪者をこの手で殺してやりたい、と(興奮して)おっしゃるのだ。「デスノート」そのまんまですやん。 そのときも、家族で「自分だったら使うか」ということを話し合った。
 「うーん、使いたいような、使わないような・・・・」と子どもが言うので、「いやー、絶対使うよ。使っちゃうに決まってるでしょ。手元にあれば使っちゃうの。だから絶対そんなものを人間が持っちゃいけないのよ。」と言うと「じゃあ、お母さんは使わないのか?」と聞く。「うーん・・・・。お母さんなんか、個人的に恨みがある人をポイポイ殺して、あっという間にプロファイリングで正体を突き止められて御用になりそうだ。手元にあったら絶対使うに違いないから最初にルールを読んだ時点で焼き払うに違いない。そうでなければ、際限なく使ってすぐさま地獄行き・・・・」「地獄には行かないらしいよ。無限の虚無に・・・」「ふん、虚無なんてどこが怖いものか。一番怖いのは、この世で生き続けることだよ。やっぱ、マンガは底が浅いねえ。」「いや、ライトはめちゃくちゃ賢いと思う。あのトリックの複雑さはとてもまねできない。」「そうだ、そうだ。やっぱり賢くなきゃデスノートは持てないんだね。お母さんはイチ降りた。」「賢いかどうかの問題か?」「うーん、きっとね、人間は決して持ってはいけないものだと思うよ。」「そりゃあ、死神のノートだもんね。」

というような会話をしたのだった。
 昨日、第二部を途中まで見かけて、あんまり安易に、まるでチェスの駒のように人が動かされ、殺されるのでうんざりしてしまった。ここにあるのは複雑さを競うゲームのおもしろさだけで、もはや人を殺すことの是非とか葛藤とかそんなものはみじんもない。
 この映画で私らは「ラスコーリニコフがまたぎ越した一線」のはるか彼方を見ているのではないだろうか。そしてすでに私ら自身もそれをまたぎ越している途上ではないか。そんな不吉な不安を覚えたのだった。


 ここまで書いたところで、「罪と罰」からの流れで自分が何を言いたかったのかがわかってきた。「たかじん」でときどき田嶋陽子さんが言うのだが、「犯罪の厳罰化とか言う人ってよほど自分が犯罪を犯さないという自信があるのねえ。」というセリフに私も同感する。私などはいつ人を殺すかわからないと思っているから、やたらと量刑を重くされたり、家族のプライバシーが晒されて生きていけなくなったりしてはかなわないと思う。確かに光市の事件はひどいし被害者家族に同情を禁じ得ない。だけど、第三者は、決して被害者や加害者のどちらか一方に感情移入してはいけないと思う。犯罪を犯した人間を声高にののしって「死刑にしろ」と言えばすっとするかもしれないけども、本当は、第三者が考えなければならないのは、どのような処罰であれば社会の安定が保てるかということだ。たとえば自分が誤って罪を犯してしまったときに、あまりにも重すぎる刑を科されたら、何十年後かに社会に出たとき、どうなっているだろうか。また、自分の家族が犯罪を犯した時に、インターネットで居場所を晒されていじめられたり、嫌がらせをされたり、縁談が壊れたり、そんな目にあったとしたらどうだろうか。犯罪者の家族は、どれだけ心を痛めているだろうか。それは当然だと思って我慢するだろうか。私はつくづく恐ろしくなるのだ。自分が必死に真っ当に生きようと努力していても、いつ子供が罪を犯すかもしれない。

 いろいろ考えていると、怖くて生きているのが嫌になる。社会は落とし穴だらけに見える。若い人たちが怖くてとても子供など持てないと思うのはあたりまえだ。だから社会学者が言うように立場の入れ替え可能性を考えて刑罰を決めなくてはならないと思う。量刑を重くしても、衝動殺人などの場合には犯罪の抑止にはなりにくい。重罰化によって社会に安心感が広がるのではなく、逆の効果がある場合も考慮に入れなくてはならない。
 ラスコーリニコフのような「罪の自覚のない」犯罪が増えてきた。ということはすでに「罪と罰」でわかったように「罰」は効果がない。「罪の自覚がない」ということを問題にして、根本的なところを矯正するしかない。だが、現状はどうなっているのだろうか。「自分には人を殺す権利がある」と思うのは傲慢であるけども、やたらと「吊るせ、吊るせ」というのも同じような傲慢さであると思う。

NHK「知るを楽しむ」から 亀山郁夫「罪と罰」

2008-02-09 21:41:34 | テレビ番組
 また消えてしまったのだった・・・・・・トホホ

「アメリカン・ギャングスター」のように、現代的な解釈をすると過去の出来事がまるで違って見えてくるというような事例が最近あったような・・・と考えていて思い出したのは、2月4日放送のNHK「知るを楽しむ」で最近ドストエフスキーの新訳を出されたロシア文学者、亀山郁夫氏が「罪と罰」について解説した番組だった。ドストエフスキーが最近静かにブームになっているというような記事が2、3年も前から新聞に載っていたし、「文學界」に評論も載っていたが私にはそれがなぜなのかさっぱりわからなかった。この番組を見てやっとドストエフスキーの小説の現代性、じゃなくって普遍性がわかった。「罪と罰」のテーマは、「自分は人の命さえ奪う権利があると思い込んだ人間の傲慢さの悲劇」と「そのような人間に救済、そして復活はあるのか」ということだ。

 私が高校の頃「罪と罰」を読んだときには、あまりにも情けない大人たちに嫌悪感を覚えて腹が立った。業突張りの金貸しの老婆、売春婦の娘にたかるアル中の父親、主人公の妹ドーニャーを口説く女たらしの金持ち紳士、腹が立って、「どいつもこいつも死んじまえ!」と思った。ラスコーリニコフにしたって、決心して殺したのだからウジウジと悩んだり懺悔したりしないで、もっとこうスッパリと割り切れないものか・・・・。亀山郁夫氏はこの小説を「最後の童話」とおっしゃったが、私には登場人物の誰にもまったく共感などできない不可解な小説であった。またここに描かれていたロシアの貧しさと寒さと社会の抑圧感とは、その頃図書館の窓から見えていた冬の曇った空や自分の陰鬱な気分とぴったりと重なって、異常な息苦しさを感じさせるものだった。

 息苦しさを覚えたのも当然だ。番組ではラスコーリニコフが住んでいた屋根裏部屋のモデルとなった建物が出てきた。なんと!汚くて暗いのだろう。階段など、そのまんまホラー映画の舞台になりそうだ。ラスコーリニコフの屋根裏部屋を見て母親は「まるで棺桶みたいじゃないの」と言う。「棺桶みたいな部屋」とは、ドストエフスキーがこの小説を書く前に見て、強い印象を受けたという、ハンス・ホルバインの絵「死せるキリスト」のイメージが重ねられているのではないかと亀山氏は言う。このキリストは何という姿だろうか。グリューネヴァルトのキリスト磔刑図並みの陰惨さじゃないか。復活など、到底信じられないないほど痛めつけられたこのキリストの姿を、ドストエフスキーは、殺人を犯すラスコーリニコフの精神の病の深さに重ね合わせているのだという。棺桶のような狭い部屋に押し込められるなんてまるで悪夢に出てきそうだ。(実際私はそのような悪夢をよく見るのだけど。)

 そして、老婆の義理の妹で偶然早めに帰ってきたため殺されてしまったリザヴェータは、実はロシアでは「聖痴愚」と呼ばれる種類の人であるという。亀山氏は「神がかり」と訳している。ここらへんは、なんとなくわかるところだけども、ロシアでは、社会のルールや通念にとらわれず、ときどき常軌を逸した言動をする人を「神がかり」として敬ってきたという。リザヴェータはその「神がかり」であって、リザヴェータの聖書を受け継いでいるソーニャもまた売春婦ではあるが、清らかな魂を持ち、「聖なる者」の側の人間だ。罪の告白を受けて畏れおののくソーニャは「十字路に立って告白しなさい。そして大地に口づけをしなさい」という。ロシアではキリスト教伝来以前の昔から大地崇拝の信仰があって、母なる大地は神の象徴だ。だからソーニャは「神に許しを請いなさい」と言っているのだ。この小説は「神殺し」そして、「母殺し」の物語でもあるのだという。それにしてもロシアの「母」のイメージというのは、なんとおそろしいものか・・・。番組ではストーリーが簡潔に影絵(みたいなアニメーション)で描かれているのだが、それがちょっと古風で、怖くて、何かを思い出させるような不思議なインパクトがある。

 ラスコーリニコフはシベリア流刑になるが、罪を悔いているわけではない。罪の自覚のないものには罰も意味をなさないのだという。このような「罪の意識」の欠落した人間が救済されるのか、罪を悔いて一人の人間としてよみがえることができるのかということがテーマなのだ。おお、これぞ現代的なテーマだ。私らは最近「罪の意識のない犯罪」をしばしば見てはいないだろうか。そしてどのような刑罰が彼らにふさわしいかと議論してはいまいか。ラスコーリニコフはソーニャの献身によって復活への道を歩み出そうとする。現代のラスコーリニコフには何が必要なのだろうか。「罪の自覚を妨げているものは、人間の持つほとんど動物的ともいえる『傲慢さ』なのだ」と亀山氏は言う。では、私自身の中にそのような傲慢さがないと言い切れるだろうか。あるいは、最近の犯罪の厳罰化を声高に言う人たちの中に、あるいは、私たちの社会の中にそのような傲慢さがないと言えるだろうか。


 9.11の映像が出てくる。亀山郁夫氏は、ラスコーリニコフの殺人を「テロル」であると言う。9.11は確かにテロだった。しかし、大国が自らの正義を言い立てて罪のない多くの人々の命を奪うのもまた、テロではないだろうか。テロリストも、アメリカも「自分にはそうする権利がある」と思い込んで殺人を犯したラスコーリニコフと同じ罠に嵌ってはいないだろうか。

 最初に書いたことが全部消えちゃったのでがっくりきて本屋に行き、テキストを買ってきて読んだ。テレビには出てこないけどおもしろかった部分を抜き書きしてみよう。亀山郁夫氏がロシア文学の研究テーマの変遷について書いておられる部分だ。

 その後、興味は、ロシア・アヴァンギャルド芸術からさらにスターリン時代の文学や芸術に移った。私の関心は、強大な独裁権力のなかで芸術家(いや、創造的知識人)はいかにみずからの良心を留保するのか、という問いであった。そもそも、芸術家は他者を魅了しようというたくらみや野心において根本的に権力を志向している。そこで、時の権力者とのはげしい葛藤が生じることになる。しかし同時に、独裁権力のもとで芸術家は、多くの場合、上からの庇護を受けることなしに自立をめざすことは不可能である。この矛盾こそが、独裁体制下での芸術家の宿命ということになる。では、どのような意味で自立は可能となるのか。私がそこで突き当たったテーマこそ、「二枚舌」である。スターリン時代のすぐれた芸術家とは、表向きには権力を受け入れながら、テクストの深層に「本音」を隠すという技巧に卓越した人々であった。
 そして50代に入った私が、『罪と罰』にあれほどとりつかれ、『カラマーゾフの兄弟』にあれほど甚大な影響を受けた経験のもつ意味を、もう一度探りあててみたいと願ったとき、私のなかで、かつて「死刑宣告」を受けた経験のあるドストエフスキーと皇帝権力との対立という図式が浮かびあがってきたのは当然である。さらには、頻発するテロルの嵐のなかに生きるドストエフスキーの「二重性」ないし「二枚舌」についても深く思いをめぐらすことになった(『ドストエフスキー 謎とちから』参照のこと)。

 「あれほどとりつかれ」というのは亀山氏が初めて「罪と罰」を読んだ中学二年生の頃、深くラスコーリニコフに同化し、まるで本当に殺人を犯したかのような気持になったという経験を指している。

 小説の経験を通して読者が主人公に乗っ取られる、端的にラスコーリニコフに成り変わるという経験は、ひょっとすると、現実に人を殺すということと同じぐらいの意味の深さを持ちはじめてしまうのではなかろうか。(中略)

 かりに『罪と罰』という小説に、大きな犯罪抑止効果があるとしよう。
 この物語は、人を殺したり、あるいは人を殺すことによって、世界から切り離されることの孤独を、このうえない迫真性をもって教えてくれる。だから、『罪と罰』はできるだけ早く、若いうちに読んだほうがいい、と私は言いたい。
 しかしひるがえって、人間が人を殺さずに生きることが、『罪と罰』のような本を読む経験を通じてしか保証されないのだとしたら、われわれは何と恐ろしい瀬戸際を歩きつづけていることになるのか。ラスコーリニコフがまたぎ越した一線は、われわれとは無縁の遠い地平線ではない。それは恐ろしいほどの近さにある。逆にある意味で、かつて人を殺したことがあるという悪夢は、人間が人を殺さずに生きていくための一つの試練であり、それに耐えきることこそが人間の証しとはいえないだろうか。


 でも、私は思うのだけど、私がラスコーリニコフの恐れを理解できなかったのはきっともうすでに人としての善悪の価値判断がうすボケていたせいだろうけども、最近の子はもっとずっとずっと理解できないのじゃないかなあ。きっとこの小説を読んでも「世界から切り離されることの孤独」なんて理解できないと思うよ。なぜって、「デスノート」の流行を見ればわかる。

つづく

NHKスペシャルを見て

2008-02-01 16:23:55 | テレビ番組
 1月27(日)、28日(月)に放映されたNHKスペシャルを見て、たいへんショックを受けた。「日本とアメリカ」第1回 深まる日米同盟、 第2回 ジャパン・パッシング “日本離れ”との闘いだ。

 第1回では、まず先日のイージス艦「こんごう」による弾道ミサイル迎撃実験の成功を喜ぶ日米の軍事関係者の姿が出てくる。この技術で日本はほぼ全部アメリカに依存しているらしい。そして日米のレーダー情報は相互共有されているとか。アメリカは、世界中の海にイージス艦を派遣して、ミサイル防衛によって世界中を監視しようと目論んでいるらしい。(朝鮮日報のニュース「日本全域が米MDの傘の下に」)ぞっとした。今の自民党の政治家やアメリカの軍事関係者には「日米同盟堅持」「アメリカ主導の安全保障」という視点しかない。ははあ、日本はアメリカと地獄の底まで一緒に行くのか。アーミテージ元国務副長官が出てきて、「日本はもっと責任を負担してほしい」「行動が遅い」などと厳しい口調で言う。もしかして、アメリカのやり方は間違っていたんじゃないだろうかなどという反省はみじんもない。仮想敵国は中国らしい。これはダメだ。と思った。日本はもはや引き返しができないところまでアメリカに依存している。私はとても怖かった。かといってここで掌を返して「日本は自立します」なんて言ったら「裏切り者!」と、どれだけ怒りを買って復讐されるかわかったものではない。宮台なんかは、ずるずると際限なくアメリカのいうとおりに派兵して日本人の血が流されるのを防ぐために、憲法を改正して一定の歯止めを設けなくてはならないと言っているんだけど、どうだろうか?憲法改正はアメリカの要請でもあるから、下手にやると無謀な戦争に巻き込まれて、アメリカと共倒れになる可能性もある。そもそもアメリカ人が自分たちの思想信条を「絶対正しい」と信じて疑わないところが怖い。まるで新興宗教の勧誘みたいだ。

 どうすればいいのか。そもそも、NHKがこういう番組を制作したのはどういう意図があってのことか。あれじゃあ、「日米同盟を一層強化するしか日本の生き延びる道はない」と言ってるみたいなもんじゃないか。私たちがどれだけ「アメリカのやってることはひどい」と言っても何も変わりゃあしないんだ。


 第2回ではジャパンハンドと呼ばれる、アメリカから日本に投資する企業が取り上げられた。日本の金融市場の後進性と、規制緩和の遅れによって海外の投資家がどんどん日本から資金を引き揚げ、「ジャパンパッシング」ということが言われているが、その具体的な現状をACCJ(日本に進出した外国企業の商工会みたいな組織)の会頭、チャールズ・レイク氏に密着取材することで浮き彫りにしている。

 チャールズ・レイク氏は昨日の朝日新聞にも載っていた、確か「あらたにす」関連。(関係ないけど、もう「あらたにす」は失敗だっていう人が・・・・。やっぱり、はてな周辺の人は頭がいいですね。どうでもいいけど)

 チャールズ・レイク氏は言うのだ。「グローバリゼーションは止まらない。日本が鎖国しても、その分世界に遅れるだけだ。今立ち止まるとまた『失われた10年』を繰り返すだけ。グローバリゼーションにどう対応するのかという国家戦略を持たなくてはいけない。」「そこに留まるためには走りつづけなくてはいけないのだ。」「私たちが目指すのは『相利共生』。ゼロサムゲームではなく、WIN-WINの関係。規制緩和をすることで日本もアメリカもともに利益を得ること」。EPA(経済連携協定)の締結によって日米両国に1500億ドルの経済効果があるという。なんか「不思議の国のアリス」の言葉とか、WIN-WINとか、いかにも商工会議所の人らしい言い回しだ。きっと日経新聞読んでるような人はシンパシーを感じるに違いない。番組では医療審査体制の見直し会議が取り上げられていた。すごいですねNHKは。こういう会議を中から取材できるんだ。審査に時間がかかりすぎるため医薬品や医療器具の承認が欧米より1、2世代遅れているということは、たとえば「たかじん」の特集で出演した現場の医者が言っていたことだ。
 
 番組では医療機器メーカーの人が、「審査体制があまりに煩雑で許可に時間がかかる。しかもちょっとの訂正にも20万くらいの申請料がかかってメーカー側のコスト負担が大きすぎる」と文句を言っていた。そりゃあまあ変えなきゃいけない。アメリカは、1993年の日米経済摩擦の時、日本の改革勢力と手を結ぶことで規制緩和を実現することが有効であると学習したのだ。グローバルに展開している日本の企業に働きかけて、内圧によって規制を緩和し、市場を公開していこうという戦略に転換したらしい。ACCVJが今やっていることもその線だ。

 しかし、ちょっと待て。日本は国民皆保険の下、すべての国民が一定水準の医療を受けられることを目指してきたのだ。アメリカみたいに、金持ちは世界最高レベルの医療を無制限に受けられるが、貧乏人は無保険で、指が切れてもくっつけることもできないような国ではないのだ。すべての国民が高水準の医療を受けられるというのは理想だろうが、国の医療費負担が大変なことになるだろう。そのうち医療費も値上がりして、国民健康保険の保険料も上がるに違いない。それでもかまわないっていうのならいいが、私はやだな。きっと医療の格差につながるに違いないし。私なんか別に長生きしなくてもいいと思っているので、できるだけ負担少なく、苦痛なく、死にそうになったときには安らかに死ねればそれで十分だ。別に最先端の治療を、何が何でも受けたいとか思わない。そういう人もいていいと思うんだが。

 ともかく、思ったのは、このままだと「ジャパンパッシング」だけでなく、アメリカのいいように利用されてしまうなあってことだ。レイク氏には悪いけど、あの人がどう考えようと、バブル崩壊後にアメリカの投資ファンドが来てやったような悪どいことを、日本人は決して忘れやしない。アメリカの住宅バブルだって、「危ない、危ない」って散々指摘されたのにそれを否定してきたくせに。(昨日、「神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド2 アメリカン・ディストピア―21世紀の戦争とジャーナリズム」を読んでいたら、もう2003年頃にそれを指摘していた)サブプライムローン問題対策の共同基金構想だなんて、「ばか言うんじゃない!」ってところだろう。言えないらしいが。それにつけても、国の進むべき方向を国民に示して、戦略的な外交ができる政治家が欲しいもんだ。