ハタチ前後というのは、人生においてもっとも凶暴でありもっとも情熱的でありもっとも妄想的でありもっとも純粋でありもっとも非力ながらしかしもっとも可能性を宿らせた年齢である。

僕の7年ほど前を思い起こすと、犬式(当時はDogggystyle)は既に存在していて、それはスリーピースのパンクバンドで今のメンバーはまだ誰もいなかった。ドラマーなんてドロツドロツとバスドラの連打が圧倒的に早いスカコアぽい奴だったりした。そいつの希望でハイスタのマキシマムオーバードライブなんかをカバーしたりもしていたっけ。

無謀なまでの自信があって、それに突き動かされて今の人生に至った。

あの頃の自分は今にもまして大馬鹿のおおうつけで、いつだって「かぶいて」やろうとしていた。グレるってのとはまたちょっと違う、「歌舞く」感じだ。グレて逸れて行くんじゃなくて、最後の一本の歯が抜け落ちるまででもこのクソ大人どもに噛み付いたまんまぶら下がってやろうとしていた。必ず思い知らせてやると、思っていた。

社会はなんがしか間違いに満ちていると感じていたが、具体的にそれが何なのかはよく掴めなかった。プロレタリアートに憧れて肉体労働にロマンスを見出して、高給取りの親が払う大学の授業料を多少無駄にした。僕は日給を受け取ったらそれでおしまいだったが、親方は一生その埃まみれの泥臭い仕事を生業とするわけだが、こういう人たちが社会の血液なのだと感じた。会社のオフィスで高いところからたまに恐る恐る現実をつまんでみては分かった気になり、自分たちは安全で賃金の高いスノコの上から降りようとしない人々よりも、大学に行く機会に出遭わなかっただけで極めて優秀で手先の器用な職人タイプの誠実な人々はなんでお金を得られないのかが不思議だった。

収入は、世の中に対する貢献度や本質的な役割の価値によらず、どれだけ金に執着したかという事が左右するのだと、なんとなく把握したのはその後数年してからだ。一般的に言って、狡猾はサヴァイブの必須条件だ。



この頃に聴いた音楽は、一生頭を離れないだろう。


この年頃の人々に俺の話を聴いてもらいたいと最近思う事が多い。
あくまで僕の経験則から言っているだけで、当然人の心の年齢はそれぞれに誤差があるのは百も承知である。

ただ、ハタチ前後というのはいつの時代でも変革の実行者となる可能性をもつ年代であり、社会に毒しきっていない「反発力」をもつ年代であると考える。咀嚼力のかけらを身につけ始めて、自己や周りの環境への「疑い」も抱き始めている。
そして体力があって、途方もない期待感が人生を覆っている。
まだまだ未知の楽しみがたくさんあることだけ分かっていて、音楽や芸術や知識の大海に漕ぎ出していく。

この漕ぎ出しの頃の鋭すぎる感性を捉えた音楽は、一生耳を離れない。



今日は埼玉・北浦和のKYARAという小さな箱でライブをしてきた。
イベントを主催したウジカワ君は20歳で、とても誠実で情熱に満ちた青年だった。「対バン」した他のバンドもみんな若くて、うちらメンバーみんな「眩しい」ってな感じでみとれてしまったくらいだ。
でもってそういう事を感じ出すのが27歳くらいなんだなとも、感じた。

彼らの中から将来プロになるものが現れるかどうかとか、そういう話はどうでもよくて、今日最高に熱い演奏を(ほとんどがステージの真上にある楽屋で聴いたのだが)して輝いているような現在のその状態が、極めて素晴らしい人生の収穫であるとつくづく思った。

街の小箱には、そういったものが詰まっていて、犬式が高円寺のGEARなんかでライブしてた頃もそれはそれは最高の演奏会だったことを思い出した。


歳を重ねるのは素晴らしい。いろんなことがどんどん見えてくる。
しかしながら、若いってのも素晴らしい。
今日は力をたくさんもらいました。
ありがとう。浦和の若い衆。


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