なをぞの徒然草

2008年7月高齢(38歳)&2011年7月超高齢(42歳)で出産、二人娘に翻弄される育児の日々をボヤいてます。

海のチカラが影響するのは

2004-10-18 23:53:51 | Weblog
季節の代わり目は本当に体調を崩しがち。ということでご多分にもれず風邪を引いてしまいました。ついてないです。

前のブログに書きましたが、私のバイオリズムはどうも海に関連しているようです。海に近いと調子がいい、ちょっと離れた生活を送るとどどーん、と下がる‥この現象をある知り合いの方に聞いてみました。“確かに影響はあるかもね”という返事。

やっぱりなあ、と思ってその時は納得したんです。でも今日、そのいただいたメールをもう一度読み返してみて少しだけ解釈が違う事にハタと気付きました。それまでの私の解釈は“海の何らかのチカラが私に影響している”でした。でもその知り合いの方の返事は実は“私が、他の人と接するときに何かしらの影響がある”というものでした。似てるけど少し違うのです。海からチカラを与えられて“どっこらしょ”と動き出すのではなくて私が自発的に動くときに何かしらの影響があるということでした。私が動き出さない限り何も変わらないのです。最も、バイオリズムが低いときはあまり動きたくないものです。だから変わらないのですね。変わらないのは海からのチカラが足りないせいではない。やっぱり結局は自分なのです。

先日読んだ本の中で、作者の人がある占い師の人に“恋愛にきく媚薬がある”といわれて“何?何?”って身を乗り出して聞くというくだりがあります。この媚薬、実は“お水をたくさん飲むこと”…もちろん自分がです。誰かにのませてふりむかせるのではなく、自分の体の中をキレイにしましょう、ということなんですね。やっぱりこれも“ヨソのチカラをそのまま使う”のではなく“多少お手伝いしてもらって自分のチカラをつけて自分から行動しましょう”ということなんだと思います。

自分がうまくいかないとき、やたらと人のせいにする人がいます。人をうらやましがるばかりの人もいます。言葉って言霊っていうくらいだから言った瞬間からチカラをもつはずです。自分のチカラを他の人にばらまいてばかりいたらもったいない。羨ましがる前に自分が何かできるか考えてそれを口にしてみたら、どこかで見守ってくれている何かしらのチカラが助けてくれると思います。

食わず嫌い その1

2004-10-14 23:57:45 | Weblog
先日 前の会社で庶務をしていた女性からメールをもらいました。
彼女の上司は頭も良くない上、同族会社の2世社長の犬なので社長の縁故で仕事をしなくてもよい女性1名を入れるためリストラを社長から命じられ、一番手近で自分に媚を売らないというだけで彼女に白羽の矢を立てたのでした。人事部長でありながら労働基準法にもろに違反するような方法で自己都合退職に追い込んだのです。

 彼女は今は日系企業で派遣で働いていますが 同じ会社では英語ができるし仕事もテキパキとやっているように見えたので外資系の会社で働けばのびのびと働けると思い私はさりげなく私が今働いている会社のことを話し、“あのような理不尽な差別もないしいいよ”とすすめてみました。ところが彼女の返答は“外資系は怖そう”でした。“私は言われた仕事をカンペキにこなす自信はあるけど、自分で決めて仕事をするなんてできない”のだそうです。あんなに痛い目にあったのにもかかわらず、それでも誰かから指示されるだけの仕事がいいそうです。もったいないな。喰わず嫌いしなきゃいいのに。

対して私は日本企業の食わず嫌いでした。特に派遣の女性はこちらの方が多いのではないでしょうか。一度外資系で1人あたりのスペースが広く隣席の人の顔が見えないプライバシー重視のオフィスを経験してしまったら確かに仕切りのない向かい合わせのオフィスは相当きついし その前の会社(外資系)で私より先に辞めた友人がとある日系に就職をした時にランチの誘いを1回だけ断ったら“XXさん(友人)って前は外資系だったんだよね。私達と雰囲気違うと思った”とお局に言われた逸話?を聞いてますます喰わず嫌いに拍車がかかったのですが、大手日本企業でお茶くみをしたりすることもなくノビノビとそしてのんびりと働いている友人もいるし、人間関係に苦労した過去の苦い記憶から“日系のほうがガツガツすることなくみんなでのんびり仕事できるかも”“喰わず嫌いはいけない”と決心して就職したらどうしようもない渋柿に大当たりしたのでした。

仕事に限らず私は知らない事は勉強したいし、行った事のない場所には行ってみたいし、会った事のない人には会ってみたいし、挑戦できることにはどんどん挑戦したいと思っています。誰でも子供のときってそうだったと思います。つまり私はコドモっぽいんですね。いつから人は“面倒なことは避けたい”“自分のわかる世界の中だけで生活したい”と思うようになるのでしょう。いつから自分の世界の面積を広げることを恐れるようになるんでしょう?狭い自分の世界の中だけでいくら愚痴を言っても、壁の外側の人には聞こえない。すぐ目の前に答えが転がっているのに、自分の世界の外側にまるであのベルリンの壁のような壁を築いて壁の向こう側はたった数メートル先なのに全く違う世界であることに気付かないのです。何だかとてももったいない気がします。

これを読んでいてくれている方が、もし行き詰まりを感じていたら何でも良いから喰わず嫌いしていることをやってみて下さい。世界を広げてみて下さい。食べてみて渋柿だったらすぐ食べるのをやめればいいのですから。簡単なのは新しいお稽古事をすることですが、今やっている仕事にプラスして新しいことに挑戦してみるのもいいと思います。そうするとふっと自分の周りの空気が流れ出すのを感じるはずです。喰わず嫌いの食べ物を食べてみる。それはもしかしたら、ハマるほど好物になるかもしれません。



自由は地に足がついていない?

2004-10-13 00:08:17 | Weblog
実家に帰ると、母がよく“マンションでも買ったら”といいます。こんな有期契約の仕事をしていていつ無職になるかわからないのに何千万の借金も負いたくないのと、いつかテレビで“今の2,30代が定年になった頃には、人口が減って借家や賃貸アパートも空室が増えるので年金生活だからといって貸さないということはなくなるから無理に借金して家を買うのは損になる”というのを見た“ような気がする”というご都合解釈と やっぱりマンションを買う=一生独身?!イメージがあるのとで二の足をというのか頭から買う気がない状態でここまできてしまいました。決してそれは褒められることではないのはハナから承知です。

以前、留学をした時すでに今の部屋を借りていたのですが、考えた末と大家さんと相談して借りたまま渡米しました。その間の管理費は免除してもらったのですが当然家賃自体は事前に払いました。留学から帰国しおそらく派遣で働くことになるだろうが都心の方が仕事も多い、派遣では交通費のでない会社が多い、ということをすでに予測はしていたので都心まで交通費がベラボウにかかる郊外の実家より都心に近いほうがいいし新たに探すより今住んでいる部屋を継続する方を選んだのでしたが、実家にいればかからない痛い出費です。

私には昔ほどではありませんが、今でも少し“いつかは日本以外のところで生活できたらなあ”という願望があります。何故かお付き合いしている人も同じ願望があります。そこらへんは似た者同士なのかもしれません。
しかし母に言わせると“地に足がついていない”のだそうです。“あまり土地に縛られたくない”と思い(といいつつ同じ部屋にずっと住んでるけど)“家を買う”という行為に二の足を踏んでしまうのでした。借金をし安住の地を得るのは代わりにどこにでも行けるという自由を手放す事になるのではないかと思っています。ずっと何世代も住んでいる家であれば借金はないけれど、でも税金等々は払わないといけないわけだし、出費ゼロというわけにはいきません。

でもね。
人は“鳥のように自由になりたい”というけれど、よく考えたら渡り鳥だって飛ぶ場所=生活の範囲は決まっています。去年日本にきたタンチョウ鶴が今年はアメリカで来年はヨーロッパに行くということはありません。住む場所を固定しないで世界中フラフラするのは、自由かもしれないけどでもそれって単に根無し草ってことですよね。それってほんとに自由なのかな。弥生時代から一定の場所に住むという遺伝子が延々と受け継がれた日本人としてはちょっと不安にもなります。もしかしたら今は“最後は実家がある”という意識がどこかにあるせいかのかもしれません。もしその“最後の切り札”がなくなっても私は自由でいたいと思うのか。すごく考えたけど結論はでませんでした。


続“ありがとう”

2004-10-09 21:40:32 | Weblog
先日、電車に乗っていたらおばあちゃん、お母さん、5歳くらいの女の子の3世代が乗ってきた。電車はやや混んでて残り1,2席しか空いていない。

わずかに残ってる席にまずおばあちゃんが座った。隣近所は全く空いていないのでお母さんと孫はおばあちゃんの前に立つ。女の子は座りたそうな顔をしたけどぐずるでもなく立っていた。ふと、おばあちゃんの隣の席の人が気をきかせたのか女の子に席を譲った。えらいなあ。私ならそれくらい大きくなった子供にはゆずらんぞ。

おばあちゃん、“すみません”って譲った人に1回だけ言った後 女の子に何回も“あなたって本当悪い子ね、悪い子ね”と言っていた。おばあちゃん、ちょっとそれは違うんでないか?女の子は決して泣き叫んだわけではないのに。なぜ“譲ってくれてありがとう、って言いなさい”じゃないんだろう?そういう言い方ではコドモは決して席を譲り合う事を良い事とは、思わなくなっちゃうんじゃないかなあ…。そしてそういうコドモが大きくなって自分の目の前にご年配や、障害のある人や、コドモを抱っこした人がきても全く譲らなくなってしまわないかな。余所の子だけどちょっと心配してしまった。

悪いことをしたら謝る。でも良い事をしたらやっぱりお礼を言った方がお互い気分がいいと思う。関西の文化で私が好きなのはこちらがしたことに“腹が立ったらその場ですぐ文句を言い、良かったらちゃんとお礼をいう”文化だ。以前サービス業をしていたとき、こちらのミスにこっぴどく怒ったけど、でもそれでスッキリしてその後は“ありがとう”“お世話さま”とちゃんと声をかけてくれた。コメントカードに無記名で“○Xという名札をつけた従業員の対応が悪かった”とか書くよりよほど気持ちがいいと思う。

“席の譲り合い”といえば これも先日、ある始発駅から電車に乗った。座りたかったので2台ほど見送り、席に座ってちょうど目の前に大学生くらいのちょっとワルそうなワカモノがケータイで延々と話をしている。あまり緊急の用事でもなさそうだし、あんまり電車の中でケータイは良くないと思うけどな。マナーがないやつ。そう思っていたのは多分私だけではないと思うけど 最近のワカモノの逆ギレの話もよく聞くし誰も注意しなかった。

発車数分前、もう立っている人も結構いる状態でおばあちゃんが乗ってきた。あちゃちゃ…と思った人は私だけではないだろう。“お願い、私の前に立たないで”とも。おばあちゃんは 私の前もワカモノの前も通過していった。下を向いていたワカモノ、ふと目を上げると数メートル先をおばあちゃんが歩いている。なんと間髪入れずに立ち上がり、ケータイで話をしたまま通過していったおばあちゃんを走って追っかけ“あそこの席座ってください”と譲っていた。えらいなあ。驚いた。もっとも彼は譲った後ドア付近で立ったまま電車が発車しても延々と話を続けていた。

彼の風貌から考えていろいろあったのかもしれないけど、彼のお母さんはきっと“やさしさ”をちゃんと教えたのだと思う。彼なら もし理由がもっと明確にわかっていてケータイが近くにあることで本当に困ってしまう人がいたらすぐ止めてくれそうな気がする。ミテクレで判断してごめん。あなたのような人が増えてくれるといいな。“ありがとう”もやさしさの延長で受ける言葉だよね。彼のようなワカモノがいい人を見つけてきちんとコドモにそのやさしさを受け継いでくれるよう祈りたい。


海のチカラ

2004-10-07 23:39:56 | Weblog
会社で台湾のお土産の何かの種に塩をまぶしたものを一山机の上に置き パソコンを凝視しながらほとんど無意識状態でかっぱえびせんのように、ハムスターのようにひたすら食べたあと、夕食にムショウに食べたくなってラーメンを食べたらオデコのニキビは悪化するわ、胃を壊して会社を休む羽目になるわ、散々な目にあいました。はっきりいって我ながら大バカです。

以前のブログに“私は海の近くのほうが生き易い”と書きましたが、こう思ったきっかけはある日なんとなく自分の人生を小学生辺りから振り返ってふと思い出したことです。私は母の実家である関西の海のすぐ近くの病院で生まれています。生まれてすぐに関東にきましたが小学生の時に海に近い街からちょっと内陸に入った街に引っ越しすると それから中学校3年まで何故か人間関係がうまくいきませんでした。その時はというか最近までそれは単に学校が合わなかったのだと思っていました。その後高校に進学した時、同じ県内ですがかなり海に近い市の学校に行くようになると、まるで今までのドロドロが嘘のようにうまく流れ出したのです。その後同じ敷地内の大学に行き就職しましたが、その時もほとんど無意識的に海に近い場所が職場でした。そのうち英語に興味がでて勉強するようになり、転職をして外資で海外とやりとりする仕事になり落ち着きかけた頃、出世欲だけで社内公募に応募してまぐれで受かり異動したけど、うまくいかずに退職。その後内陸の地方都市を本社とする会社に入りましたが、どうしてもあわず数ヶ月で辞めてまた外資に戻り落ち着いた生活をやっと取り戻しました。

こうやって自分のバイオリズムを思い返すと必ずといっていいほど“海”がでてきます。悪いときは海から離れた場所で、内側を向いた生活をしていた時です。

海の近くにいくと風を感じることが多いはずです。風が強いくらいだから きっと空気も流れが早くて、それが私にはあっているのでしょう。だから直感的に空気がよくいうと落ち着いていて悪くいうと停滞している場所は合わなかったのだと思います。あとは、ちょっとスピリチュアルだけど生まれたときから海のチカラを感じて生きてきて、そのチカラが届きづらい場所は運気が落ちてしまうのではないかと勝手に思っています。

これは誰にも当てはまるとは思いません。私にはあわなくてたった1泊の滞在で一秒でも早く東京に戻りたいと思ったあの街で幸せに暮らしている人もたくさんいるのですから。でも、私には風水のようにこれから生きる上でちょっと参考にはなるかなと思います。転職をするとき、住む場所を決める時・・等々。

時間があったら寝る前でもいいから自分の人生を思い返して1つキーワードが見つけると、これからの人生の参考になるかもしれません。結構、おもしろいよ。ほんと。



家相

2004-10-04 23:44:35 | Weblog
私の住んでいるアパートは、部屋数が少ない事もあってイマドキ家賃は振り込みでなく棟続きの大家さんちに毎月持参です。アパートというより下宿のようなところで大家さんも下宿のおばちゃんらしく、1ヶ月に1回くらいは顔をあわせてちゃんと様子を伺う、というのもあるのだろうと思います。

私の部屋の隣は、やたらと住人が変わります。ひどいと1年で2,3人変わることもあります。下宿のようでも一応アパートですから入室の際は敷金礼金各2ヶ月分は払っているわけで…。大家さんにとっては私みたいに5年以上も居座る店子よりちょくちょく変わった方が儲かるのでいいはずですが、すごい狭い部屋に何人も泊めてドンちゃん騒ぎをする人、夜中にステレオの音がやたらとうるさい人、常識の範囲以上に自分の部屋も共通スペースも汚く使う人、大家さん自身が海外駐在していたこともあって偏見がないため留学生も結構いますがお国の調味料を山のように持ってきてそのニオイで部屋の中が充満、“風が入らない”と網戸全開にして“ゴキちゃんウェルカム状態”にしてしまう人と結構“こまったちゃん”にあたる率も何故か高い部屋で“次にどんな人がくるかと思うと心配で”といっています。

ところが私が借りている部屋は私より前の住人達も最低でも4年!らしくてだいたい長期。“家相でもいいのかしら”という話をしていました。ちょっとうれしくなって実家の母に連絡。“私の部屋は家相がいいみたいよー”っていったら、“住人を離さない家相なんじゃないの?”というコメント。つまりこの部屋にいる限り縁遠いってこと?なるほどそういう解釈もあるのか…。




コップに半分の水。

2004-10-04 00:12:38 | Weblog
それほど 自己啓発本を読んでいるわけではないのですが よく見かける内容で“コップに半分の水”があります。半分の水が“まだ、半分ある”と思うのか、“あと半分しかない”と思うのか…とよく聞くネタです。自分が今持っていることや状態。仕事、家族、住む家、友人、恋人を“これだけしか持っていない私は不幸だ”と思うのか、“あれもこれも無いけど、今ある分だけで幸せ”と思うのか。

私はずっと前者だったように思います。今でも時々前者だった時の自分が顔をだします。不思議とそれはマナを聞かずに異動願いをだしたり、転職するといった行動を起すときに必ずそうなります。“今の私はこんな仕事で満足するような人間じゃない”“私がこんな目に合うなんておかしい”と思うときです。何というか、“あくせくしている”ときです。そしてそれは雪だるま式に悪い事が重なっていくのです。

本当にベタな話ですが、そういう考えを断ち切ることができたのは ハワイに行ったことがきっかけだったように思います。“今あるものをある分だけ”という昔からのハワイの教えもさることながら 立ち止まってもいいんだ、とわかったから。人間は泳がないと死んでしまうということはないんだから カラ回りして自滅しそうになったら立ち止まって今自分にあるものをもう一度確認してそれに感謝しなくちゃ。行く前に“留学したら良い事がある”“外国に行ったらよくなる”って思い込んでたけど、そんなことないってことも。ハワイにいても日本にいても私は私でいればいいんだってこと。留学してたときも親のお金で超高級コンドミニアムに住み、何年も留学できる子をうらやむということもなく帰ってきました。それは資金不足というのが本当のところだけどハワイが“コイツは今はこれで十分”って判断したのだと思うようにしています。そしていつか必要があれば何らかのきっかけで行く事になるのだろうと思います。

今あるものを大切にして生きていこう、と思ってまもまく同窓会がありました。30代も大分超えると女性は既婚者が格段に多くなります。その時も出席者の半分以上は既婚者でした。結婚もしていなければ、子供のいない自分、なんか一人前じゃないみたいで嫌だなあって思いながら参加したのですが その時に言われた一言でスッとそんな考えは消えました。“○×(私の名前)は全部もっててうらやましい”‥そうか。仕事を持ってるとはいっても派遣だし、人気路線沿線とはいっても狭い部屋で1人暮らしをしている私も見方をかえれば良く見えるのか。無いものを悲観してたけどそうじゃないんだね。だったら今、好きな仕事があって、夜は週に2回学校に通って、時にはきのおけない友人達とご飯を楽しむ私はこれでいいんだよね。普通よりはすっかり遅くなっちゃったけど、時期がきたら結婚も子供もできるんだろうな。やりたいことはもう十分できたから、その時には“私はこんな家で子供と閉じこもってるような人間じゃない”“家に縛られてやりたいことが何もできない”とか思ったりしないでしっかり子育てができるような気がします。






“ありがとう”という言葉

2004-10-01 22:11:42 | Weblog
川原亜矢子さんが、某イトーヨー○ドーのCMで“ありがとう”って何回いったかチェックしているのがありますよね。

日本人はとかく“すみません”って言ってしまうけど“すみません”より“ありがとう”って言われた方が私は気分がいいので、自分でも極力“ありがとう”“ありがとうございます”“サンキュー”“メルシー”(?)という言葉を使うようにしています。決して日本の文化が悪くてアメリカの文化がすべていいとはいえないけど、何でも“ありがとう”をいう英語文化はとてもいいと思います。してもらう前から“ご協力どうもありがとう”“ご理解に感謝します”って英語の定番ですよね。
“申し訳ありませんが、ご協力お願い致します”と果たしてどちらが言われて“んじゃあ、協力してあげようかな”って気になるでしょうか?
そういえば、先日地下鉄の駅のトイレに入ったら“いつもきれいに使ってくれてありがとう!”と英語の直訳のような張り紙があって笑ってしまいました。けど“トイレはきれいに使いましょう”よりやっぱり気分よくありません?

今の会社に来る前にちょっとだけいた日本の会社で お茶くみにすごい抵抗を感じ、反抗し、ヒンシュクをかったわけですが 実は今の会社も外資系ですが コーヒーメーカーのセットや夕方の後片付け、お昼に当番でお留守番をするのは女性だけです。男性の平均年齢が比較的高いということもあるのですが・・。けど、前の会社のように抵抗がないのです。すんなり納得してやってます。何でだろう、って思いました。前は営業として働いていて今はアシスタントということもあるのですが、それだけじゃない。そこで思いついたのは、“ありがとう”でした。外国人スタッフはもちろん、日本人でもたまたま私がコーヒーをセッティングしてる時に現れたりすると、“いつもありがとね”って声をかけてくれます。誰か自分で淹れたのか、コーヒー豆を交換しないで異常に薄いコーヒーを作ってたり、水の量を間違えてえらい濃かったりというのもあります。

給湯室のお仕事は女性がやって当たり前、という風潮の前の会社は当然ながらそんな言葉はありません。ヒマな人がコーヒーを入れに行って残り少ないと、遠くで目の色を変えてエクセルと格闘している女性社員をよびに来るのです。“コーヒーがもうないんだけど”‥“ありがとう”どころか、“悪いんだけどさ‥”すらなし。ちゃんと常備できていないお前が悪い!くらいのいきおいです。
朝、自分の机を拭いてもらうのも当たり前、自分が飲んだ湯飲み茶碗を洗ってもらうのも当たり前。
宅配便の配達が来た時にサインするのも、自分宛にきているのに遠くの女性を呼びにきたりします。自分がサインすればいいだけの話なのに。
日本は、“言わなくてもお互い理解できている”と思っている人が多民族国家の欧米より倍以上多いそうです。でも、いつのまにか“言わなくても感謝している”というのが“やってもらって当たり前”になってしまっているヒトビトが多いように思います。
“庶務業務は、オンナがやって当たり前”
“責任の重そうな仕事はオトコがやって当たり前”
“ウチに帰ったら、風呂もご飯もそろってて当たり前”
“ダンナがお金を稼いできて当たり前”
今当たり前と思ってること、果たして本当にそれは“当たり前”?

“当たり前”と思ってることに たった一言“ありがとう”て言うだけで
ずいぶん、やってる方は気分が変わると思うんですけど。私って単純なのでしょうか?