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「うちなーぐち」は方言なんかじゃない!

2011-08-17 00:24:37 | 言語
(何の花でしょうか?)

公開フォーラム「しまくとうばは今…」(2011/09/03・新報ホール)

の基調講演をなされる宮良信詳教授の論稿が添付されてきた。「うちなーぐち万歳」の舞台公演のパンフレットに収録される貴重な草稿である。宮良先生の草稿の一部をご紹介したい。是非多くの皆さまと9月3日に画期的な時代の到来・転換期の現在の沖縄の言語について熱く語り合いたい!(意外と時代の感性についていけない方々は、身近にいる大学教授さんという事もありえるのです!)

     「うちなーぐち」は方言なんかじゃない

                          宮良信詳

  琉球方言という呼び名がありますが、その呼び名は沖縄方言、宮古方言、八重山方言、与那国方言のほかに奄美方言をも含む方言群を指すことばです。この見方は日本の方言学に基づくものです。県内ではその呼び方はかなり深く浸透していて、ほとんどの県民がその呼び方になじんでいるかのようにも見えます。はたして、その見方には問題はないのでしょうか。
 まず、その見方によると、「うちなーぐち」とは沖縄方言のことです。沖縄方言というのは日本語の中には多くの方言があり、そのなかの方言の1つとして主張されています。別の言い方をすると、日本国内で話されている言語には日本語とアイヌ語があり、アイヌ語を除くと地域のことばはすべて日本語の方言として日本語の枠内に入ってくるという見方です。もしそうであれば、かつて琉球王国を支配していた国王が遣っていたことばというのはいったい何だったのか、それも日本語の一方言でしかなかったとでも言うのでしょうか。薩摩藩主の島津公が鹿児島弁を遣っていたのと同様に、琉球の国王が遣っていたことばが日本語の一方言であれば、琉球王国はもはや独立した国とは言えなくなります。琉球王国というのは幻でしかなく、実は日本国の一部であり、薩摩藩などと同列に扱われることになってしまいます。結局は、沖縄方言という見方からは、琉球王国の存在を否定することになるので、東アジアから東南アジアに至る広がりを交易によって築き上げた琉球王国時代の歴史的事実に完全に目をつぶっています。14世紀から16世紀にかけては、海外との交易を通して外来文化がもたらされて、琉球独自の文化を育んだ時代といわれていますので、琉球が歩んで来た歴史と矛盾しています。

 そのような矛盾の発端は廃藩置県後の言語政策や言語教育にあります。皆様のご存知のように、1872年に琉球王国が廃止されて琉球藩が置かれ、1879年の廃藩置県により天皇制をしく日本の行政区画の中に無理やり組み込まれて沖縄県として再出発しました。そのことはあくまでも政治的な問題です。政治体制と言語体系は別ものなので、廃藩置県が施行されたからといって琉球列島の伝統的な言語までも日本語の一部になることにはならないはずです。琉球王国が日本の政治体制の中にむりやり押し込められたように、琉球の伝統的なことばまでも琉球方言、沖縄方言、宮古方言、八重山方言として、日本語の中にむりやり押し込められてしまいました。琉球王国時代を通して琉球列島で話されてきた伝統的な言語を廃藩置県という政治的変革の後から、いきなり日本語の方言だと呼び始めたことには大きな疑問を差し挟まざるを得ません。しかも、このような非合理的な呼び名の成立に関する疑問は、共通語(標準語)励行という国家政策を強力に推進するなかで、学問の分野では日本の方言学会がそれを後押しするなかで、すっかり影を潜めてしまいました。現在では、何の疑問を差し挟むこともなく、琉球方言、沖縄方言という呼び名をいつの間にか県民が受け入れてしまっています。悲しむべき現実です。

 琉球方言、沖縄方言という呼び名に対して、別の次元からの見方が出来るのかもしれません。廃藩置県により沖縄県を認めたのだから、琉球方言や沖縄方言も認めてしまってもいいのではないのか、という見方ですが、そういうわけにはいきません。言語にはそれが描く独特の精神世界があり、そこには祖先が歩んで来た暮らしに基づくものの見方や考え方が息づいており、それが文化の基層となって我々のアイデンテイテイーを形成するからです。このように、言語と文化は切っても切れない関係にあり、伝統的に継承してきた文化は伝統的に継承してきた言語なくしては花開くことはありません。琉球列島において伝統的に継承されてきた言語が日本語の傘の下にある方言であれば、琉球の文化も日本の文化の一部であることになります。琉球の言語が日本語とは別の独立した言語であれば、琉球の文化は本土日本の文化とは対立する独特の文化ということになります。琉球の文化は、琉球王朝の華やいだ文化遺産における芸能や工芸を取り出してみても、人々の生活習慣や年間行事などにみられるものの見方考え方からみても、本土日本の文化との違いは明らかだと思われます。そのような意味でも、やはり琉球方言や沖縄方言という見方を認めるわけにはいきません。

 このような言語や文化の対立の構図は、遺伝学の分野からも支持されています。最近のゲノム人類学の研究では、DNAに含まれる遺伝子情報から琉球人と本土日本人との違いが判明されています。沖縄タイムス文芸欄に今年6月8日から10日までの3回連続で掲載されましたが、東大の木村亮介准教授によると、琉球人は、台湾先住民や中国からの影響が非常に少なく、本土日本人ほどは朝鮮半島からの影響を受けておらず、それでも両者は最も近縁な集団であるということです。つまり、木村氏は「琉球人」と「本土日本人」という対立が遺伝学的に証明されると説いています。

 それでは、琉球の諸言語の中から、沖縄語(うちなーぐち)を取り出してさらに考察を進めたいと思います。これから以降は「うちなーぐち」には沖縄語という漢字を当てて話を進めることにします。沖縄語が描く精神世界においても、「やまとう」は本土日本、「やまとうんちゅ」は本土日本人、「やまとうぐち」は日本語としてはっきりと位置づけられています。それと同時に、「うちなー」と「やまとう」に関しては、一方が他方を包含する関係ではなく、両者は対立する概念として認識されています。同様に,「うちなーんちゅ」は「やまとうんちゅ」ではないとして、はっきり区別されています。つまり、「やまとう」と「うちなー」、「やまとうんちゅ」と「うちなーんちゅ」という対立概念は、沖縄語が創り出す精神世界における認識そのものであります。「やまとう」と「うちなー」の区別は琉球王国の歴史が証明するところでありますし、「やまとうんちゅ」と「うちなーんちゅ」の区別は遺伝子情報に基づく客観的根拠とも符合しています。それと関連して、「うちなーぐち」という概念にしても、「やまとうぐち」とは対立関係にあることになります。

 さらに、沖縄語において、本土日本を「やまとう」、中国を「とー」と呼んでいますが、そのことについても考察してみることにします。

 古代文学者の神野志隆光という東大教授が講談社現代新書『「日本」とは何か---国号の意味と歴史』(2005)で「日本」という呼び名について問題にしています。8世紀という時代における国家としての古代観を綴った『古事記』には「日本」という呼び名はまったく出て来ないと述べています。「日本」という国名は、中国の国家が8世紀に編纂した歴史書の『唐書』にはじめて現われ、7世紀の隋との関係までは「倭国」が国名であったということです。ここでの「倭」という漢字は『魏志倭人伝』における「倭人」の「倭」です。「倭」は、後に「大和」となりましたが、平城京すなわち現在の奈良に遷都し710年から784年まで70年余り続いた奈良朝の頃のことです。「日本」という呼び名は大宝元年、すなわち701年に制定された大宝律令の規定のなかにはじめてあらわれたということです。そういう事実に基づく限り、「日本」「日本人」「日本語」が一般的に遣われるようになったのはおそらく奈良時代を過ぎてからだと思われます。その当時の中国は618年から907年まで続いた「唐」の時代でした。現在の沖縄語における本土日本を指す「やまとう」や、中国を指す「とー」は8世紀頃の両国の呼び名なので、奈良時代を直接映し出していると言えます。

 「やまとう」という呼び名が奈良時代を反映しているとする見方は、語彙統計学におけるこれまでの研究成果と矛盾するものではありません。1960年の服部四郎博士の研究「「言語年代学」即ち「語彙統計学」の方法について」では首里方言が奈良朝上古語よりも古い時代の日本語から分裂したと分析しています。さらに、1992年の名嘉真三成『琉球方言の古層』や1994年の安本美典「日本語の起源」における研究でも、琉球方言と日本語の分裂時期を1,700年ほど前としています。沖縄は、630年から始まり894年に廃止されるまで続いた遣唐使の中継地として利用されることがあったとすると、遣唐使のことを「やまとう」から訪れた「やまとうんちゅ」として呼んでいたことでしょう。平安時代に入ってからは遣唐使の派遣はおよそ100年間しか続かなかったことを考えると、遣唐使の廃止後は本土日本との表立った交流はしばらく途絶えたと考えられますので、「日本」という呼び名が沖縄語に反映されることはなかったと推測されます。

 それで、沖縄語における「やまとう」と「うちなー」、「やまとうんちゅ」と「うちなーんちゅ」、「やまとうぐち」と「うちなーぐち」の対立の構図は、中国を表わす「とー」、中国人を表わす「とーんちゅ」、中国語を表わす「とーぬ くち」と同様、8世紀にはすでに成立していたものとみなすことが出来ます。そのような呼び名とその概念が現在に至るまで沖縄語の世界では息づいていて、およそ1,300年も続いていると考えることができます。そのような見方考え方に立てば、沖縄語ではどうして本土日本を「やまとう」と言い、中国を「とー」と言うかという謎に対して、1つの答えを提示することができます。

 日本語ができる話者の中には、東北弁を聞いても理解できない人が多い。北の東北弁話者と南の鹿児島弁話者との間では相互理解がまったく成立しません。しかし、日本語のどの方言にしても、隣接する地域同士は原則として相互理解が可能という関係がみられ、隣接する方言同士のつながりは連鎖の連続体としてとらえることができます。そのような連鎖の連続体が鹿児島より南に行けばぷっつり途切れるので、そこに日本語圏の境界があり、日本語圏と琉球諸語との境界線を引くことが出来ます。沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語との間にも、そのような連鎖の連続体の途切れがみられるということで、それぞれ異なる言語とみなすことができます。その連鎖の連続体の途切れはイタリア語とフランス語との間や、あるいはドイツ語とオランダ語との間にはないと聞いています。イタリアとフランスの国境沿いの地域同士は相互理解が成立し、ドイツとオランダの国境沿いの地域同士も相互理解が成立することから、2つの言語同士の区分けは政治的な判断によるもので、言語的な判断に基づくものではないことが判ります。

 沖縄を取り巻く最近の国際情況もここで提示している見方を後押ししてくれています。ユネスコは,2009年2月21日の「国際母語の日」に、世界危機言語地図をオンラインで発表しました。そのなかでは、「うちなーぐち」をはじめ奄美、宮古、八重山、与那国の伝統的なことばが日本における危機言語として扱われ、日本語から独立した別個の言語として認知されています。この発表はこれまでの常識をくつがえす画期的なことです。日本国内で使用されている言語として、これまで日本語とアイヌ語があげられていましたが、さらに6つの琉球諸語と八丈語が加えられました。この発表は日本国内において使用されている言語の姿を一変させるものなので、その発表が意味するところは極めて重要です。また、前年の2008年10月30日にも、国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会は「アイヌ民族と琉球民族の子どもたちが民族の言語、文化について充分習得できるような機会を与え、通常の教育課程の中にアイヌや琉球の文化に関する教育も導入すべきだ」と日本政府に対して勧告しています。

 このように、様々な事柄が提示できるにもかかわらず、それでもなお琉球方言、沖縄方言という見方が県内では依然として根強いのはどうしたことでしょうか。この「方言」という見方は、琉球王国の歴史的考察と矛盾し、琉球列島において伝統的に受け継がれて来た言語の実態に注視することなく、沖縄語の精神世界において認識されている「やまとう」と「うちなー」、「やまとうんちゅ」と「うちなーんちゅ」、「やまとうぐち」と「うちなーぐち」の対立関係も説明できなくて、遺伝子情報に基づく琉球人と本土日本人の区別とも一致していません。さらに、国連やユネスコの見解とも対立しています。これだけの充分な根拠と理由があるにもかかわらず、その呼び名から脱却できないのは県民意識に問題があると言わざるを得ません。「うちなーぐち」をはじめとする「しまくとうば」に対する「恥辱(汚い、恥ずかしい)」という評価を過去に植え付けられたことから、沖縄県民の心はそれに支配されたままで、いまだにそこから抜け出ることができないでいます。県民意識の脱植民地化を図るためにも、「しまくとうば」に対する正しい認識を持っていただきたいと思います。今後は、国連人権委員会からの正当な勧告をありがたく受け止め、日本語とは異なる琉球諸語の存在を正しく認識し、琉球諸語本来の言語的地位と危機的状況を回復することに努め、さらに琉球芸能をはじめとする伝統的文化遺産を正しく位置づけ、国連勧告を日本政府に再度突きつける権利を主張すべきだと思われます。

 琉球列島において伝統的に受け継がれてきた言語を研究する際にも、これまでは日本語学のなかで琉球方言研究として行なわれて来ました。今後は、日本語学からは脱却し、新たな研究目標と新たな研究課題をもった琉球諸語の研究をもくろんだ琉球語学という学問を構築するために「琉球継承言語会」という研究会を今年3月に私たちは発ち上げました。

 くり返しますが、沖縄県民は琉球列島の多様性に富む言語とそれを基層する多様な文化に誇りと自信をもって、改めて自分たちの伝統的な言語と文化を再認識し、いかなる理由があるにせよその継承発展に向けたこれまでの努力が至らなかったことを深く反省し、今後は言語復興にむけてより一層一致団結する必要があるのではと思います。


参照文献:
 服部四郎(1954)「「言語年代学」即ち「語彙統計学」の方法について」『言語
   研究』26/27, 29-77. 
 神野志隆光(2005)現代新書1776『「日本」とは何か---国号の意味と歴史』
   東京:講談社
 名嘉真三成(1992)『琉球方言の古層』東京:第一書房
 安本美典(1994)「日本語の起源」『日本語論』2(11),12-35. 東京:山本書房


宮良信詳(みやら・しんしょう)
 1946年石垣市生まれ
 琉大教授
 琉球継承言語会会長
 日本英語学会評議員 
 那覇市文化協会うちなーぐち部会長
 NPO沖縄語普及協議会顧問
 

参考:
ジャポニック語族の言語系統図
                   江戸方言
            日本語派 …→ 近世日本語
                           上方方言

ジャポニック語族                     奄美語
                   北琉球諸語
                            沖縄語
            琉球語派
                            宮古語
                   南琉球諸語     八重山語
                            与那国語



(ううくいの夜の満月!明日は明日の夢が走る)

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