ネット逍遥をしていると、興味深い提言に遭遇した。1974年に当時芸団協専務理事が提言したことを実現する可能性はないのだろうか?首里に三間四方の組踊劇場を建築する夢を持ちたい。あの能楽堂のように自然な光と風が漂う空間が再現されるべきなのである。それは現在の国立劇場おきなわの多目的ホールではない!息苦しい劇場ではなく、自然の呼吸が呼吸として観衆にも実演家にも感じられる空間である。わたしをそれを望む。現在の「国立劇場おきなわ」の歪み/Xの劇場に未来は微笑まないのではなかろうか?その多目的劇場はそれでいいと思う。額縁舞台で歌舞伎も沖縄芝居も上演できる。花道もあり紗幕も回り舞台もある。それを存分に生かす舞台がありえる。戦前の沖縄芝居劇場の雰囲気を出せるかどうかなのだけれど、劇場との距離感を埋める何らかの工夫がありえるのかもしれない。それは固定化した組踊劇場の創立によって可能性が開かれるのかもしれないーー?!
【芸団協が沖縄芸能界のために先ずもってなすべきことは何だろう?それは「那覇の街中に、三間四方の舞台の建設を!」という運動を、国や県に対し強力に展開していくことだと思う。今日まで沖縄芸能の伝承がとだえずに済んだのは、新聞社や興行主や文化人、大衆の力によるものであった。文化行政の貧困が問われなければならない】と久松氏は提言している!
こんな方がいたのですね!
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遺すべきもの
久松保夫(本稿執筆当時・芸団協専務理事)
1974年4月3日。この日、沖縄芸能史に新たな一ページが加えられた。
若夏の海に臨む会場には、組踊の重要無形文化財保持者、宮城能造・島袋光裕の両師をはじめ、琉球舞踊、琉球古典音楽、沖縄演劇の各流各派の人々114名が集い、「沖縄芸能実演家の会」を設立した。その意義はきわめて大きい。それは"実演家の権利"にめざめた〈沖縄芸能人の、沖縄芸能人による、沖縄芸能人のための組織〉の静かな発足であった。
楽聖湛水親方・劇聖玉城朝薫以来三百年。輝かしい伝統の技芸を今日まで継承しつづけたこれら各ジャンルの人々が、それぞれ永い苦闘の歴史を噛みしめあいながら「相互の交流と研修の実施による芸能活動の推進」「実演家の活動条件の改善と地位の向上」を柱とする会則を全会一致採択したとき、陪席していた私はまぶたの熱くなるのを禁じ得なかった。
そして、初代会長に選任された島袋光晴氏の「全日本の芸能人との連帯を固めこの会をより力あるものとするため、芸団協への加入を決議したい」との提案に応える満場の拍手を、私は粛然たる思いで聞いた。・・・・・復帰後2年、今日ここに芸能界の一体化はようやくにして成ったのである。沖縄芸能が加わることにより芸団協は名実ともに日本のすべての専門芸能家団体を網羅する法人となる(45団体、傘下の実演家総数35,500名)。
顧みれば、芸団協草創期の主な財源は沖縄へ本土のNHK番組を提供するについての包括的許諾料、年間750万円が基であった。私たちはその金を活用しながら著作権法の改正に取組み、実演家の権利を確立。放送事業者等と基本協定や契約を締結、芸能界の秩序づくりを進めてきた。
しかし、沖縄は復帰の日まで明治32年の旧法のもとにおかれ、復帰後も運用面では実質的なおくれが目立つ。地方格差は速やかに、解消されなければならない。
さし当り、沖縄の諸君にも「芸能人年金」は利用してもらいたいし、いずれ沖縄でも「実態調査」を行ない科学的データをもとに対策を協議できる日がくるであろう。
だが、芸団協が沖縄芸能界のために先ずもってなすべきことは何だろう?それは「那覇の街中に、三間四方の舞台の建設を!」という運動を、国や県に対し強力に展開していくことだと思う。今日まで沖縄芸能の伝承がとだえずに済んだのは、新聞社や興行主や文化人、大衆の力によるものであった。文化行政の貧困が問われなければならない。
芸団協が「沖縄芸能文化の、保存と助成」を政府に要望したのは昭和46年10月、総理官邸での芸術文化団体代表者懇談会の席上においてであった。文化庁は早速沖縄関係費を計上、その後も努力を重ねてくれてはいるが“沖縄古典芸能専用劇場”の建設までは考えていない。
しかし、私は本年1月の国立小劇場公演を見学し、2月、4月と那覇の大小の劇場へ足を運び、また流舞道場で目の当り至芸に接するに及んで「これは喫緊の大事である」との感を強く抱かされた。古典の伝承は人間国宝を指定し、その処遇を若干厚くすること(本年は一人年額25万円増)や、伝承者の養成補助金を僅かばかし増やすこと(全国で478万円増)で済む問題ではない。
NHKが1月31日、2月1日、代々木の大ホールで催した人間国宝鑑賞会はあのような途方もない空間では、もはや“能”が能ではなくなることを実証した。沖縄古典芸能の場合は国立小劇場でも大きすぎるのである。マイクロフォンやナイロンの絃を古典の舞台からなくなそう。なまの本物の芸は、人間国宝の先生方がご健在のうちに、実尺の舞台で観客の前で、実地に後継者に伝承されるべきものなのである。(特に沖縄では戦争の犠牲で50歳代の後継者に乏しい。長老たちと若い世代の芸質に断層が感じられる)芸は生きものなのだ。
さらに、放送局には沖縄演劇の時間をもっともっと増やしてほしいとお願いしたい。民放で週1時間(それも舞台中継が多い)、NHKでたった30分の郷土芸能の時間では、本土復帰は、沖縄芸能人にとって仇となったといわねばなるまい。三浦朱門氏も小野NHK会長に「なぜもっと沖縄芸能などを全国中継しないのですか」と問うていた。文化関係者・政治家は超党派で、このことを真剣に考えてもらいたい。
「本ものの芸に発表の場を!」これはただに沖縄芸能人の悲願であるばかりではない。本土の芸能界にも、この声は強い。社団法人たる芸団協は、とかく陽の当らぬ場所におかれがちな、これら日本の貴い文化遺産の保存と継承、発展のために総力をあげて取組んで行かねばならぬときであると考える。
新年度においてこれを具体化したい。
(機関誌「芸団協」 1974・4・20)
追記(代表研究員 棚野正士)
久松保夫は芸能研究家として“沖縄芸能”に早くから注目し、組織人としては、沖縄の実演家の組織化を提唱して、“沖縄芸能実演家の会”発足を芸団協の立場から促進した。その結果、沖縄芸能実演家の会(会長島袋光晴)は1974年4月4日に設立され、同日付で芸団協に入会した。なお、2005年4月8日、同実演家の会とは別に、“沖縄県芸能関連協議会”(沖芸連)(現会長照喜名朝一。2007年10月現在:会員30団体、個人273名)が設立され(芸団協入会2005年4月8日)、沖縄の芸能実演家のネットワークは更に広がり、一層強固なものになっている。
又、久松保夫は芸団協専務理事として、芸団協主催公演を提唱し、1975年第一回主催公演「道成寺のさまざま」を行った。この公演は歴史に残る名企画、名舞台であった。「道成寺のさまざま」を観た中村歌右衛門は、特に沖縄の「組踊り」に感動し、同年1月16日に急逝した坂東三津五郎会長の跡を受けて会長就任を久松から要請されていたが、その会長に就く決意をしたと言われている(中村歌右衛門は1975年5月23日芸団協会長に就任)。
参考に、第一回主催公演「道成寺のさまざま」の演目を下記に記す。
芸団協主催公演第1回
道成寺のさまざま
(国立劇場小劇場)
1975年2月19日(水)17:00 Aプログラム
スライド構成「道成寺縁起絵巻」
薩摩琵琶「道成寺」
能「道成寺」
文楽「日高川入相花王」
1975年2月20日(木)12:00/17:00 Bプログラム
スライド構成「道成寺縁起絵巻」
壬生狂言「道成寺」
組踊「道成寺」沖縄芸能実演家の会◦玉城節子、金城美枝子、真喜志康忠、武富良規、島袋久玄、島袋光晴、金城千津子、安富祖竹久、島袋正雄、宮城文、嘉数世勳、島袋光史
黒川能