高校時代、受験のために始めた和声なる音楽理論はとにかく退屈だった。規則、規則でそれに違反すると「禁則」と怒られ、そのうち音楽を作るというよりもむしろ、地雷を踏まないように最終地点に到達することばかり考えるようになった。はっきりいって、「紙上戦争ゲーム」の何が勉強になるのか「意味不明」だった時期が長かった。
そのためか、和声を教えてくれていた先生もほとんど呆れはて、私の楽譜を見るや否や、ピアノを弾くどころか、「禁則」を指摘する赤いラインだらけにして、「出直してこい」と怒り心頭で私を追い出す始末だった。ある日、先生に「君、弦楽四重奏を聞いたことはあるかい?」と尋ねられた。もちろん、そんなものはBGM以外で真面目に聞いたことはなかった。「ない」と答えると、彼はそのとき、曲を聴きながらこれを読むようにと、モーツァルトのポケットスコアを貸してくれた。「これでできなきゃ破門」という最後通告だったのかもしれない。
私はたいして興味もなかったが、日比谷図書館からレコードを借りて弦楽四重奏なるものを聞いた。ところが、不思議なことに私はその日から和声に夢中になってしまった。和声が規則でなく、リアルに「音楽」であることを始めて知ったからである。次々とスコアーを買って曲を聴くようになり、その後、あれだけ嫌だった中野の和声の先生の家に行くのが楽しみになって、不思議と不出来な私がなんとか這い上がってきている姿をみた先生も私をやっと「生徒」として扱ってくれるようになったのだろうか(少なくても門前払いはなくなった)、彼から学んだ三年間、いろいろな話をしてくれるようになった。そんな会話の中から彼が和声にいかに魅了されているのかを垣間見た。そして、そういう先生に私はすっかり魅了されたのだった。
ある意味、先生の創作の方向性は、当時の私にはなかなか理解できなかった。今さら古典的な和声にもとづいて作品を作る意味があるのかどうか私には理解しづらかった。というのは当時の私は「今日の音楽」のようなコンサートに夢中になっていて、和声を真剣に学ぶものの、それは「過去の遺物」くらいにしか考えていなかったからである。
あの頃から30年近くたって、最近その先生のヴァイオリン協奏曲と弦楽四重奏のCDを二枚手に入れた。聴いてみると、それは全く現代音楽とよばれる音楽の正反対に存在するような「和声」によってつくられた究極の古典的な作品なのだ。しかし、今だから思えるのだ。これがいかに勇気のある行動だったのかということを。あるいは先生にとっては、それは至極当然な創作行為であったのかもしれない。先生がどこまでも古典的な和声を愛し、2002年に亡くなる人生の最後まで自分の書きたい曲を、社会に迎合することなく書き続けたことに感銘すら覚えてしまうのだ。結局、私は和声とは異なる音楽の世界に進んだが、こうして今なお音楽の世界で生きていることを先生に自慢できないことが残念でならない。どうして会いたいと思ったとき、人はもう私の前にはいないのだろう・・・。
そのためか、和声を教えてくれていた先生もほとんど呆れはて、私の楽譜を見るや否や、ピアノを弾くどころか、「禁則」を指摘する赤いラインだらけにして、「出直してこい」と怒り心頭で私を追い出す始末だった。ある日、先生に「君、弦楽四重奏を聞いたことはあるかい?」と尋ねられた。もちろん、そんなものはBGM以外で真面目に聞いたことはなかった。「ない」と答えると、彼はそのとき、曲を聴きながらこれを読むようにと、モーツァルトのポケットスコアを貸してくれた。「これでできなきゃ破門」という最後通告だったのかもしれない。
私はたいして興味もなかったが、日比谷図書館からレコードを借りて弦楽四重奏なるものを聞いた。ところが、不思議なことに私はその日から和声に夢中になってしまった。和声が規則でなく、リアルに「音楽」であることを始めて知ったからである。次々とスコアーを買って曲を聴くようになり、その後、あれだけ嫌だった中野の和声の先生の家に行くのが楽しみになって、不思議と不出来な私がなんとか這い上がってきている姿をみた先生も私をやっと「生徒」として扱ってくれるようになったのだろうか(少なくても門前払いはなくなった)、彼から学んだ三年間、いろいろな話をしてくれるようになった。そんな会話の中から彼が和声にいかに魅了されているのかを垣間見た。そして、そういう先生に私はすっかり魅了されたのだった。
ある意味、先生の創作の方向性は、当時の私にはなかなか理解できなかった。今さら古典的な和声にもとづいて作品を作る意味があるのかどうか私には理解しづらかった。というのは当時の私は「今日の音楽」のようなコンサートに夢中になっていて、和声を真剣に学ぶものの、それは「過去の遺物」くらいにしか考えていなかったからである。
あの頃から30年近くたって、最近その先生のヴァイオリン協奏曲と弦楽四重奏のCDを二枚手に入れた。聴いてみると、それは全く現代音楽とよばれる音楽の正反対に存在するような「和声」によってつくられた究極の古典的な作品なのだ。しかし、今だから思えるのだ。これがいかに勇気のある行動だったのかということを。あるいは先生にとっては、それは至極当然な創作行為であったのかもしれない。先生がどこまでも古典的な和声を愛し、2002年に亡くなる人生の最後まで自分の書きたい曲を、社会に迎合することなく書き続けたことに感銘すら覚えてしまうのだ。結局、私は和声とは異なる音楽の世界に進んだが、こうして今なお音楽の世界で生きていることを先生に自慢できないことが残念でならない。どうして会いたいと思ったとき、人はもう私の前にはいないのだろう・・・。