先週から授業でバリのガムラン・アンクルンを教えている。本来はその予定ではなかったのだが、ジャワのガムランの講師の都合で、私が授業をすることになったのだった。
私の学部時代、最初に民族音楽学の教員の家で始めたガムランがこのガムラン・アンクルンだったし、その大学の授業でバリのガムランを導入するために大学が準備した楽器もガムラン・アンクルンだった。そういう意味で四枚の鍵板を持つこの楽器に対してはかなりの思い入れがある。
学部の四年のときだったと思うのだが、なぜか大学の芸術祭に当時のバリ州知事でさまざまな文化政策を推進したことで知られる故イダ・バグス・マントラ氏がやってきて、私達のガムラン演奏を聴いたのだった。その時、マントラ氏が語ってくれたことでただ一つ覚えていることは、「それにしても君たちはアンクルンが上手だ」と褒めてくれたことである。人間、褒められたことはそう簡単に忘れないもので、今なおあの嬉しさは記憶の中に刻まれている。
私にとってはある意味、ガムラン・アンクルンは、バリと関わり続けてきた人生の原点なのだ。そのせいだろうか、本来の予定よりも急遽、一コマ授業を多くやらなければならなくなってしまったにも関わらず、楽器を持って学生と向かい合うのが今、楽しくてしかたがないのだ。でも、これって研究やデスクワークからの逃避だったりしてね。
私の学部時代、最初に民族音楽学の教員の家で始めたガムランがこのガムラン・アンクルンだったし、その大学の授業でバリのガムランを導入するために大学が準備した楽器もガムラン・アンクルンだった。そういう意味で四枚の鍵板を持つこの楽器に対してはかなりの思い入れがある。
学部の四年のときだったと思うのだが、なぜか大学の芸術祭に当時のバリ州知事でさまざまな文化政策を推進したことで知られる故イダ・バグス・マントラ氏がやってきて、私達のガムラン演奏を聴いたのだった。その時、マントラ氏が語ってくれたことでただ一つ覚えていることは、「それにしても君たちはアンクルンが上手だ」と褒めてくれたことである。人間、褒められたことはそう簡単に忘れないもので、今なおあの嬉しさは記憶の中に刻まれている。
私にとってはある意味、ガムラン・アンクルンは、バリと関わり続けてきた人生の原点なのだ。そのせいだろうか、本来の予定よりも急遽、一コマ授業を多くやらなければならなくなってしまったにも関わらず、楽器を持って学生と向かい合うのが今、楽しくてしかたがないのだ。でも、これって研究やデスクワークからの逃避だったりしてね。