ウィキぺディアの地図
上図:前1世紀、アシオイの所が下図の大夏(バクトラ)。
下図:1世紀、奄蔡国(阿蘭卿国)はアラル海の右に表記。
サマルカンドの君主
きょうは、サマルカンドの君主を考えますが、昭武姓の康(国姓)と混同する可能性が在ります。あくまでも、康居の後継の康国は、後からソグド洲へ入って来たのです。唐代にはサマルカンドのオアシス連合体ができました。
まずは、時系列で、経緯を先にあげます。
1アケメノス朝ペルシャには、前550~前529年のキュロスⅡ世の頃には、ソグド洲が既にあります。キュロスⅡ世は、女王トミュリスに、シル河に橋をかけるのをお止めなさいといわれた。結果として、キュロスは負死した。
2ギリシャ人の植民王国バクトリアは、シル河の彼方からきた「アシオイ、パシァ二、トハロィ、サカラウロィ」に滅ぼされた。(ストラボンの伝)
この時代は、バクトリア王国の前255年頃~前130年時代で、バクトリア王国をヒンドウクシュ山脈以南へ追いやった。
3アシアニは、トハラ人の支配者で、サカラウカエを征服した。(トログス・ポンペイウスの伝)アシアニはトハラ人の支配者とは、驚きです。サカラウカエは、不詳ですが、玄奘のいうトカラの旧領17国でしょう。
4史記では、月氏が大夏を撃ってこれを臣従させた。(司馬遷の伝)
この時代は、匈奴に追われた大月氏が、前129年頃にアム河の北に留まった時点以後の話です。史記大宛伝では、大月氏は、大宛の西2、3千里にあり、アム河の北に住む。その南は大夏、西は安息、北は康居という(張ケンの言)
5後漢書西域伝
大月氏が、大夏を五翕侯に分割、従えて約100年後、五翕族のひとつ貴霜翕侯がクシャン朝を築いた。
奄蔡国は、阿蘭聊国に改め、康居に属す地域を居(ふさ)いだ。(七海訳)
(七海注記)居は、壅(ふさ)ぐ意味で、古の奄蔡が領有していた康居の地を阿蘭卿国が壅閉したのです。粟特地域は奄蔡の領土であったのを顕在させたという意味です。
言い換えると、潜在主権者の奄蔡が隠れていました。
6三国志魏書本記
230年、大月氏王ヴァ―スデ-ヴァが、魏へ朝貢、金印を受ける。
7魏書西域伝粟特国・・・400年代
粟特国は葱嶺の西にある。古の奄蔡である。一には温那沙とも名づける。大澤(アラル海)に臨んでいて、康居の西北に在り、代都から16000里に在る。これ以前に匈奴(悦般)がその王(粟特)を殺して、その国を奪った。王で
ある忽倪(コッゲイ)までに、既に三世を経ている。
その国の商人(ソグド人)は、先に涼土(河西地方)に多く来て交易している。
(北魏は)姑蔵(北涼)を陥れると、すべて捕虜になった。高宗の治政前(452~465)の初期に、粟特国の王は使節を遣って、彼らを身請けしたいと願った。そこで、詔を発して、これを聞き許した。その後、この国から使節がきて朝献することはなかった。
注記、北魏が姑蔵(北涼)を陥れた年は、439年です。
温那沙とは、なんでしょうか。
アフラシャブ壁画(間野英二「中央アジア」の歴史から)
サマルカンドの君主ヴァルフマンへの表敬訪問が壁画に描かれている。
四羽の鳥の部分には、ソグド語で注記され、
「ウナシュのヴァルフマン王への四羽のガチョウ」と記載。
これは、第三壁画、7世紀中頃のもので、ソ連のV・A・リフシュッの解読です。贈り主は、テルルズの四日行程にあるチャガ-ニヤ-ン(現在のデナウ)の王でした。サマルカンドの南方にテルメズがある。
七海は、このウナシュは、漢釈で、温那沙と看做します。
よって、壁画の文字から、粟特国は温那沙と同じ国名と実証されました。
粟特国は、古の奄蔡である。・・・何時のことか。
奄蔡は、阿蘭、アスともいう。古くはオセット族ともいうが、アスは、アシアニに相当します。
したがって、前130年には、ソグド、バクトラの各洲は、奄蔡の領土でした。(上記2の史料)
さらに遡って、前529年、キュロスⅡ世の末、すでに、ソグド洲が在ります。
キュロスは、マサゲタイ女王の忠告「橋をかけるのをお止めなさい」を無視して、領域侵犯した。ソグド洲から外[北側]を侵して負けました。
前1世紀には、依然としてマサゲタイがアム・シル河に居り、アシアニは、バクトラに居ます。地図参照のこと。
玄奘の言うクンドウス(活国)あたりの旧トカラ領土17国は、遡るとアシアニにゆきつき、アシアニはトカラ人の支配者であった。(上記3の史料)
すると、前1世紀の地図では、アシオイは、大夏に居て、トカラを支配していた。つまり、親分はアシアニであり、貴霜(クシャン)は、アシアニの小分のトカラの可能性が大です。
(七海は、蓋を開けてビックリ)
阿蘭卿国
魏書の奄蔡国は、阿蘭卿国に改め、康居を壅閉して、康居に属する地域を支配した。奄蔡、阿蘭、アスは、影の覇者で、クシャンの貴霜翕族と想定可能です。古くは、カフカス南のアルメニアのオセット族に遡ります。所謂、眼の青いコーカソイドです。
奄蔡は、はやくから、トカラ人を楼蘭、クチャの植民地に就かせていたのです。楼蘭は、考古学で、前1500年に遡ります。
粟特国は、古の奄蔡。
前1世紀の地図では、大月氏が、前129年以降、アシオイの所に侵入し、大夏を撃って五翕族を従えていた。(上記4の史料)
その後、約100年を経て、貴霜翕侯が盛んになり、クシャン朝を築いた。
三国志魏書
230年、大月氏王ヴァ―スデ-ヴァ(波調)は、魏に朝貢し、金印を受ける。
この時以後、大月氏は衰退し、クチャや焉耆に移って行ったのではないか。
その後、キオ―ン族のギタ―ラ朝をへて、エフタルが制圧。エフタルの主体は、奄蔡でしょう。エフタルは、多民族国家でした。ここに、北匈奴:悦般が康居に隠れています。(訂正:ここに以降の文を削除。悦般は、エフタルのエリアの東に居る)
1クシャン朝(貴霜)
2ギターラ朝(寄陀羅)
(榎一雄は、エフタルがギターラを滅ぼしたという)
3エフタル朝(嚈噠、挹怛ともいう。インドでは白フン)
エフタルの時代
410年頃から西突厥とササン朝連合軍に敗れた年、567年頃でした。
701年頃、サマルカンド王デーワーシュティーチュが居た。このデ-ワは、ペルシャの神の義で、インドのデ-ヴァ(神)と対峙して、互いに善悪が逆になっていました。