このたびの大雪は東京では45年ぶりだそうだ。当時、東京に住んでいた私は、45年前の大雪を鮮明に覚えている。それは私が名古屋の大学(今の母校)を受験した日、1969年3月4日だったからだ。
受験のときには名古屋の上前津という中心街の旅館に泊まった。3人相部屋の受験宿で、いまのように受験生がホテルの個室をとるという贅沢なことはなかった。旅館の食事も30人くらいの受験生が広間で一緒に食べた。みな同じ大学の医学部の受験生だった。その宿が大学の紹介だったからだ。
私は緊張でほとんど食事が食べられなかった。それを見て別の受験生が「おまえ食べないのか?じゃあもらっていいか?」と私の分まで食べた。この時点で私は「負けているな」と思った。
受験生たちはみな明るく、「この大学は俺は滑り止めだ」とか「俺はIQが160ある」とか大きなことを言っていた。中にはエロ本をもってきて、「おまえも見ろよ」と勧めてくれる受験生もいた。私は気押されて大人しくしていた。
なにせその年は大学紛争が激しく、東大と東京教育大(筑波大の前身)が入学試験をとりやめたので、受験界は大混乱になっていた。私たちは最後のベビーブーマーで受験生総数が現在の1・7倍くらいいた。それなのに医学部の総定員は4,000名で現在の半分。ベビーブーマーは、他の世代が知らない激烈な競争にさらされてきたのだ。
2日目の最後の試験は数学だっただろうか?試験がすべて済んで、ああ終わったと思ったが、解放感はなかった。ちょうどそのとき、名古屋では雪が舞いはじめた。雪もよいの中を私は東京への帰路についた。
帰りの新幹線内で私は一所懸命試験の検算をしていた。それを見た隣りの席のおじさんが「受験に行ってきたのかね?」話しかけてきて、車内販売のプリンをおごってくれた。
東京駅に着くと、雪は一層激しくなっていた。自宅の横の急坂は凍り付いていて、下るのが一苦労だった。その坂でスキーを楽しんでいる人がいた。それが45年前の東京の大雪に他ならない。
で、その大学に入学してみると、同じ受験宿に泊まった連中は、なんと一人もいなかった。
受験のときには名古屋の上前津という中心街の旅館に泊まった。3人相部屋の受験宿で、いまのように受験生がホテルの個室をとるという贅沢なことはなかった。旅館の食事も30人くらいの受験生が広間で一緒に食べた。みな同じ大学の医学部の受験生だった。その宿が大学の紹介だったからだ。
私は緊張でほとんど食事が食べられなかった。それを見て別の受験生が「おまえ食べないのか?じゃあもらっていいか?」と私の分まで食べた。この時点で私は「負けているな」と思った。
受験生たちはみな明るく、「この大学は俺は滑り止めだ」とか「俺はIQが160ある」とか大きなことを言っていた。中にはエロ本をもってきて、「おまえも見ろよ」と勧めてくれる受験生もいた。私は気押されて大人しくしていた。
なにせその年は大学紛争が激しく、東大と東京教育大(筑波大の前身)が入学試験をとりやめたので、受験界は大混乱になっていた。私たちは最後のベビーブーマーで受験生総数が現在の1・7倍くらいいた。それなのに医学部の総定員は4,000名で現在の半分。ベビーブーマーは、他の世代が知らない激烈な競争にさらされてきたのだ。
2日目の最後の試験は数学だっただろうか?試験がすべて済んで、ああ終わったと思ったが、解放感はなかった。ちょうどそのとき、名古屋では雪が舞いはじめた。雪もよいの中を私は東京への帰路についた。
帰りの新幹線内で私は一所懸命試験の検算をしていた。それを見た隣りの席のおじさんが「受験に行ってきたのかね?」話しかけてきて、車内販売のプリンをおごってくれた。
東京駅に着くと、雪は一層激しくなっていた。自宅の横の急坂は凍り付いていて、下るのが一苦労だった。その坂でスキーを楽しんでいる人がいた。それが45年前の東京の大雪に他ならない。
で、その大学に入学してみると、同じ受験宿に泊まった連中は、なんと一人もいなかった。
前の年に大学に入ったものの、大学紛争で授業がなくなり、おまけに入試も中止になって、当分は一年生のままだなぁ、なんて暢気にしながら、自主授業と称してフランス語で「異邦人」を読む会などをしていました。
その雪の日は、大学の裏門を出た所にあった「三叉路」という喫茶店でストーブにあたりながら、ボタン雪の降り続く外を眺めていました。当時は雪が降ると、どの車もチェーンをつけていました。チェーンが道に擦れてシャンシャンと音を立てながら車が走り去る、その音と映像を今でも覚えています。BGMはなぜか歌謡曲でした。いしだあゆみの大ヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」。懐かしいメロディーと歌声が、大雪で静かになった道路のチェーンの音と共に蘇ります。
上の娘の成人式のあった16年前の1月15日も、彼女が伴侶を私たちに紹介した去年の成人の日も、大雪の降る日でした。大雪の日の思い出は、なぜか静かで美しい記憶になって残るものですね。
あの日、東京に帰ってから、また受験勉強をしました。まだ2期校がありましたから。
今年落ちたら医学部は諦めようと思っていました。
けっきょく受かったから、あの日の雪はほろ苦い思い出として残っていますが、落ちていたら、きっと思い出すのもいやでしょう。
Hda さんを初め、さっさと大学に行ってしまった人が沢山いるのに、今年も落ちたら自分はなんという莫迦なのだろうかと考えました。
予備校に行ったら3浪4浪がごろごろいるので、こうはなりたくないと恐怖感に似たものを覚えたものです。
私もこれで落ちたらと思うと絶望的になっていました。
私は西川さんの成績を予備校の順位表で追跡していました。よくできるなぁ、と思い、負けないように努力しました。あの1年間ほど頑張ったことはありません。
受験は資格試験ではないから、どれだけやれば、それでよいということがありません。
それなのに、落ちても誰にも文句は言えない。その経験から(すでにご覧の)次の記事を書きました。
http://blog.goo.ne.jp/nakazato-hitoshi/e/9f9cbb6fe9610a84818a0cb3c3b4ebeb