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久久比神社3

2016-04-22 22:41:48 | 日記
久久比神社は延喜神名式に記される但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、もと 胸形(宗像)大明神と称され、木の神 久久能智命を奉祀した式内社であるが、神 社の創立年代は詳らかではない。
一説には多紀理比売命・天湯河板拳命を祀ると言 われる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の 三社がある。
本殿は墨書によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知ら れ、三間社流造り・杮葺の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代 中期の代表的様式を示している。
社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に 秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻 されている。
さらに斗・肘木・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、 その道の推賞のまとである。
久久比神社の鎮座する下宮は 昔より鵠(くくい:コウノトリの 古称)村と言われていたように、 古来より国の特別天然記念物 「コウノトリ」が数多く大空を 舞っていた地域であり、日本書紀に よれば天湯河拳命がこの地で 「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。

創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡二十一座の内、小社に列している古社である。
垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年三十歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。
天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。
命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。
古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六の氏神として崇敬を集めている。

久久比神社2

2016-04-22 21:40:16 | 日記
久久比神社、兵庫県豊岡市下宮にある神社である。式内社、旧社格は村社。 全国で唯一コウノトリにゆかりのある神社である。
祭神は久久能智神。
本殿は三間社流造、こけら葺き。
室町時代、永正4年(1507年)の建立で、国の重要文化財に指定されている。
日本書紀によれば垂仁天皇の御宇二十三年冬十月朔、天皇が誉津別皇子をともない大殿の前に立ち給う時、鵠が大空を鳴き渡った。
その時、皇子が「これは何物ぞ」とお問いになったので、天皇は大いに喜び給い左右の臣に「誰か能くこの鳥を捕らえて献らむ」と詔せられた。
天湯河板挙が「臣、必ず捕らえて献らむ」と奏し、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国で捕らえたといい、あるいは但馬国で捕らえたともいう。
十一月朔、天湯河板挙はめでたくこの鵠を献上したのである。
時に皇子は三十歳であったが、いまだ物言い給わず、あたかも児の泣くが如き声のみで、この日初めて人並みの言葉を発せられたのである。
これほどに鵠は霊鳥なのでその棲家の地を久久比と呼びなし、その後この地に宮を建て、木の神「久久能智神」を奉斎した。
これが久久比神社の始まりであった。
さりながら、その頃豊岡盆地は「黄沼前海」と称して、まったくの入海、下宮の地はその入江の汀であった。
又そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもろう処、神自ら鎮まり座す景勝の地であった。
われらの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久久能智神」を奉斎し、木の御神徳の宏大に帰依したのも宜なる哉である。