久久比神社は延喜神名式に記される但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、もと 胸形(宗像)大明神と称され、木の神 久久能智命を奉祀した式内社であるが、神 社の創立年代は詳らかではない。
一説には多紀理比売命・天湯河板拳命を祀ると言 われる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の 三社がある。
本殿は墨書によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知ら れ、三間社流造り・杮葺の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代 中期の代表的様式を示している。
社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に 秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻 されている。
さらに斗・肘木・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、 その道の推賞のまとである。
久久比神社の鎮座する下宮は 昔より鵠(くくい:コウノトリの 古称)村と言われていたように、 古来より国の特別天然記念物 「コウノトリ」が数多く大空を 舞っていた地域であり、日本書紀に よれば天湯河拳命がこの地で 「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。
創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡二十一座の内、小社に列している古社である。
垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年三十歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。
天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。
命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。
古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六の氏神として崇敬を集めている。
一説には多紀理比売命・天湯河板拳命を祀ると言 われる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の 三社がある。
本殿は墨書によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知ら れ、三間社流造り・杮葺の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代 中期の代表的様式を示している。
社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に 秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻 されている。
さらに斗・肘木・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、 その道の推賞のまとである。
久久比神社の鎮座する下宮は 昔より鵠(くくい:コウノトリの 古称)村と言われていたように、 古来より国の特別天然記念物 「コウノトリ」が数多く大空を 舞っていた地域であり、日本書紀に よれば天湯河拳命がこの地で 「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。
創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡二十一座の内、小社に列している古社である。
垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年三十歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。
天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。
命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。
古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六の氏神として崇敬を集めている。