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大滝ダム3

2013-11-11 22:24:08 | 日記

大滝ダムが計画発表された当時、川上村では同じ地域に3ヶ所のダム計画が進められるという特異的な状況であった。
既に1954年より大迫ダムの建設が開始されていたが、大滝ダムの他に奈良県営水力発電事業の一環として大迫ダム上流の川上村入之波地点に「入之波ダム計画」が進められていた。
「入之波ダム計画」は後に大迫ダムに発電目的を加えることで計画中止となったが、大滝ダムについては村の中心部、399戸が完全に水没する他関連移転を含めると475世帯が移転を余儀無くされる。
既に大迫ダムで151世帯が水没する上、これ以上のダム建設は村の存亡に関わるとして計画発表と同時に村を挙げての猛烈な反対運動が巻き起こった。
この時期は全国で激しいダム建設反対運動が巻き起こっていた。
福島県では田子倉ダム(只見川)で「田子倉ダム補償事件」に代表される補償金額を巡る激しい攻防、九州では松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)建設を巡る日本のダムの歴史に残る反対運動・蜂の巣城紛争が起こり、「九地建代執行水中乱闘事件」のような流血沙汰に発展していた。
そして大滝ダムでも地権者団体との交渉が持たれたが、完全な平行線を辿っていた。
更に1967年(昭和42年)5月11日には大迫ダム予定地左岸で地滑りが発生し、安全性の観点からもダム建設は不適当として住民は反対の意思をより固くした。
その上紀の川の漁業権を持つ吉野漁業協同組合・川上村漁業協同組合も猛然とダム建設に反対し、補償交渉は決裂に等しい状況に陥る。
1974年(昭和49年)、大迫ダムは完成したが大滝ダムの補償交渉は全く暗礁に乗り上げた。
この頃東日本では利根川水系吾妻川に計画されている八ッ場ダムを巡る群馬県吾妻郡長野原町の官民一体となった反対運動が展開され、大滝ダムと同じ状況が展開されていた。
この事から、一向に事態が進展しないダム事業の代名詞として『東の八ッ場、西の大滝』という言葉が関係者の間に広まっていった(なお、大滝ダム着工後は川辺川ダム(川辺川)がその後釜となっている)。
遂に建設省は補償交渉における団体交渉を諦め、異例とも言える水没者一人一人との個別交渉へと方針を転換した。
さらに同年7月20日、蜂の巣城紛争を教訓に施行された水源地域対策特別措置法(水特法)の対象ダムとなり、特に大滝ダムは水没世帯数が多い事から補償金額の嵩上げ・移転時金利優遇などといったより厚い水没地域対策を講じる事が可能な「水特法9条等指定ダム」に指定された。
因みに同日に9条指定されたダムとしては他に浅瀬石川ダム(浅瀬石川)・御所ダム(雫石川)・川治ダム(鬼怒川)・手取川ダム(手取川)・竜門ダム(迫間川)・川辺川ダムがあるが、川辺川ダムを除き何れも大滝ダムより早く完成している。
その後次第に補償に応じる住民が現れたが、個別交渉ゆえに事業は更に長期化した。
止むを得ず土地収用法に基づく土地収用が行われた例もあったが、最終的には1996年(平成8年)頃までには概ね妥結するに至った。
地域振興事業としては国道169号の整備を始め国道に沿った川上村官庁街の整備、村営ホテルや温泉宿泊施設の整備を行った。
更に二十二社の一つとして平安時代中期に創建された由緒ある丹生川上神社上社が水没する事もあり、1998年(平成10年)に高台に遷座する作業が行われた。
ところが移転後の跡地から遺跡が発見され、3年間に亘る発掘調査が行われた。
この宮の平遺跡は縄文時代早期の大規模集落跡であり、この地は古代から人の住まう土地である事も判明した。
日本の長期化ダム事業の代表例として、長い年月を掛けた補償は終了し1996年よりダム本体工事に取り掛かることとなったが、ここに漕ぎ着けるまで実に34年の月日が過ぎ去っていた。


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