佐野松原の西端、祓川の近くにある熊野九十九王子の一つ。
承元四年(1210)の『修明門院御幸記』には、『次有佐野昼御御養事、次参二御王子一」とあり、佐野で昼食のあと、王子社に参拝している。
文明五年(1473)の『九十九王子記』にも「佐野々王子」と見える。
少なくとも、熊野詣が盛んであった鎌倉前期にはその存在が知られる。
後には那智大社の末社となったようで、境内の森は周囲二四〇間(約432メートル)もあり、「若一王子の森」と呼ばれていたという。
明治四十四年十月二十六日、佐野宇山田にある天御中主神社に合祀され廃絶となっているが、海辺の王子社として貴重な史跡である。
平成三年一月五日
建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇に随行して、熊野参詣をした藤原定家は、日記に「この道また王子数多御座す」と記して、この付近の王子社名を載せていません。
承元四年(1210)五月、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資は、阿須賀(あすか)・高蔵・佐野・一乃野の王子社を日記に記録しており、このころ新宮~那智間に四王子社があったことがわかります。
『紀伊続風土記』には、近世には那智山の境内末社となり、その後、社が廃絶して「若一王子森」といわれたと記していますが、その他の記録では、王子川の祓所を佐野王子としています。
ここにあった社が、明治時代に若一王子神社となりましたが、神社合祀で天御中主神社神社に合祀され、現在は石碑が建つのみです。
なお、熊野参詣の折は、佐野の浜で拾った小石を衣の袖に入れ、那智山の社壇に奉納する習慣があったと伝えられています。
佐野王子跡の石碑の近くには尼将軍供養塔やお地蔵さんなど、神武天皇聖績狭野顕彰碑があります。
尼将軍供養塔とは、北条政子(源頼朝の妻)が我が子を供養するために建立したと伝わる供養塔です。
北条政子は頼朝没後、出家。
2人の子(頼家と実朝)を暗殺された後は京の摂関家から藤原頼経(当時2歳)を迎えて将軍とし、その後見として幕政の事実上の実権を握り、尼将軍と呼ばれました。
『吾妻鏡』に見える北条政子の熊野参詣は、承元2年(1208年)と建保6年(1218年)の2度。
元久元年(1204年)に頼家は暗殺され、建保7年(1219年)に実朝は暗殺されました。