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神武天皇聖蹟狭野顕彰碑

2014-04-26 13:23:56 | 日記

【神武東征】神武天皇が名草戸畔を誅した後、狭野を越えて、熊野神邑に至り、天磐盾に登った。

男水門で兄・彦五瀬命が崩御された後、さらに二人の兄神を失いながらも、神武天皇一行は熊野へと到着された。
『日本書紀』には、「狭野」を越えて熊野に到着されたと記されており、これが現在の新宮市佐野のことを指しているのではないかと伝えられている。

当碑は熊野古道・佐野王子跡の石碑近くにあり、周辺には尼将軍の供養碑などもある。

そういえば雄水門顕彰碑は大阪の泉南ですが、泉佐野のすぐ近くです。

そこで兄君が負傷した可能性もあり、そこも佐野なんですよね。



佐野王子跡

2014-04-26 12:49:05 | 日記

佐野松原の西端、祓川の近くにある熊野九十九王子の一つ。
承元四年(1210)の『修明門院御幸記』には、『次有佐野昼御御養事、次参二御王子一」とあり、佐野で昼食のあと、王子社に参拝している。
文明五年(1473)の『九十九王子記』にも「佐野々王子」と見える。
少なくとも、熊野詣が盛んであった鎌倉前期にはその存在が知られる。
後には那智大社の末社となったようで、境内の森は周囲二四〇間(約432メートル)もあり、「若一王子の森」と呼ばれていたという。
明治四十四年十月二十六日、佐野宇山田にある天御中主神社に合祀され廃絶となっているが、海辺の王子社として貴重な史跡である。
平成三年一月五日

建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇に随行して、熊野参詣をした藤原定家は、日記に「この道また王子数多御座す」と記して、この付近の王子社名を載せていません。
承元四年(1210)五月、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資は、阿須賀(あすか)・高蔵・佐野・一乃野の王子社を日記に記録しており、このころ新宮~那智間に四王子社があったことがわかります。
『紀伊続風土記』には、近世には那智山の境内末社となり、その後、社が廃絶して「若一王子森」といわれたと記していますが、その他の記録では、王子川の祓所を佐野王子としています。
ここにあった社が、明治時代に若一王子神社となりましたが、神社合祀で天御中主神社神社に合祀され、現在は石碑が建つのみです。
なお、熊野参詣の折は、佐野の浜で拾った小石を衣の袖に入れ、那智山の社壇に奉納する習慣があったと伝えられています。

佐野王子跡の石碑の近くには尼将軍供養塔やお地蔵さんなど、神武天皇聖績狭野顕彰碑があります。

尼将軍供養塔とは、北条政子(源頼朝の妻)が我が子を供養するために建立したと伝わる供養塔です。
北条政子は頼朝没後、出家。
2人の子(頼家と実朝)を暗殺された後は京の摂関家から藤原頼経(当時2歳)を迎えて将軍とし、その後見として幕政の事実上の実権を握り、尼将軍と呼ばれました。

『吾妻鏡』に見える北条政子の熊野参詣は、承元2年(1208年)と建保6年(1218年)の2度。
元久元年(1204年)に頼家は暗殺され、建保7年(1219年)に実朝は暗殺されました。

神武天皇聖蹟狭野顕彰碑へ

2014-04-26 12:28:01 | 日記

今回の最大の目的、神武天皇聖蹟狭野顕彰碑を目指して12時32分に新宮の佐野に到着。
ここにはケーズデンキやシネマ、オートバックス、ホームセンターその他諸々が集まっている。
その駐車場の隣に小さな森が残されていて、そこが神武天皇聖蹟狭野顕彰碑と佐野王子跡になっている。

橋杭岩

2014-04-26 09:24:05 | 日記

橋杭岩の食堂で昼食のマグロ丼を食べようと11時37分に寄る。
1年前来た時に工事をしていた道の駅が出来上がっていた。
奥の食堂へ行くと今度はこっちが工事中。
道の駅には食堂はなく、カウンター販売のみ。
仕方がないので後にする。
因みにここの売店にもメデューサの目のストラップを売っていた。
やはりクオリティーが高い分値段も高かった。