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世尊寺2

2013-11-14 22:50:57 | 日記

当寺は、31代用明天皇2年(587)勅願によって、聖徳太子が建立された寺院であり、第7番の霊場になっています。
当寺は比蘇寺(吉野寺)と呼ばれ、法興寺(飛鳥寺)、四天王寺、法隆寺と共に四大寺院の一つでありました。
現在の太子堂(法王殿)には、太子十六歳孝養像を安置しています。
古代最大の内乱「壬申の乱」は、天智10年(671)10月17日、大海人皇子は、兄・天智天皇の病が重くなり、皇位を譲る旨の打診を受けたとき、それを固辞、辞退し、僧形となって10月19日に一行は、(草壁、大津、高市各皇子他20名ぐらいと考えられる)近江大津宮を出発し、宇治、明日香から吉野に入っている。
最初、当山に入寺、本尊前にて、歴代天皇、近親者の弔い、兄天皇の病気平癒、自身の身の在り方等について祈願されたと思われます。
その後、吉野離宮(宮滝)に入られました。
奈良時代には、唐の高僧、道遷が隠遁しており、神叡も20年にわたって籠り、仏門の奥義に通じ、自然智を感得したと言われています。
密教の根本道場になっていました。
平安時代には、現光寺と呼ばれ、56代清和天皇、59代宇多上皇が行幸され、関白藤原道長、空海、役行者も金峰山入峰の折、参詣されたことが古文書で明らかであります。
鎌倉時代に入り、弘安2年(1279)金峰山より、春豪聖人が当寺に住し、堂塔再興に勤め、その後、叡尊の留錫により西大寺末の真言律宗となって法灯がよみがえったのであります。
また、延元2年(1337)春、後醍醐天皇が小野文観を先達にして行幸され「栗天奉寺」と命名され、勅願寺となったのです。
しかしながら、平安末期から鎌倉、室町にかけて武家政治の台頭と共に社会情勢の激変と、吉野という僻遠の地にあって当寺が無住荒廃の一途を辿り、比蘇寺、吉野寺、現光寺、栗天奉寺、世尊寺と寺名の変遷が興亡盛衰の跡を物語っています。
江戸時代に入り、荒廃ぶりを憤慨した朴道秀拙和尚がその復興を念じて入寺。
続いて宝暦元年(1751)開山、雲門即道禅師(大阪、大道寺)を迎え、伽藍を整備縮小して、霊鷲山・世尊寺と改めています。
尚、太子が御父用明天皇の為に建立された東塔は、文禄3年秀吉によって伏見城へ、更に慶長6年家康によって大津、三井寺へ寄進され、現存しています。
西塔は推古天皇が夫の帝、敏達天皇の供養のために建立されましたが、戦乱のため焼失しています。
この他に、太子お手植えの桜、俳人芭蕉の句碑は静かなたたずまいを見せています。
因みに、寺域2万3千平方メートルは昭和2年4月8日付けで「史跡・比曽寺跡」として、国の指定を受け今日に及んでいます。


世尊寺

2013-11-14 22:39:39 | 日記

前から気になっていた世尊寺に参ります。
ここも今回の目的の1つです。
いつも横は通っていたのですが、やっと参る事が出来ました。
時間は13時17分。

聖徳太子創建 第7番 霊場
史跡比曽寺跡
曹洞宗霊鷲山 世尊寺
当山は、吉野寺、比蘇寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれ、聖徳太子が建立したとされています。
日本書紀や同寺に残っている瓦や伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたと推測されています。
当寺、吉野地方で大変栄えた寺院の一つでした。
しかし、相次ぐ戦乱による焼失や、時勢の変革により現在残っている建物は後世に建てられたものです。
県文化財に指定されている太子堂には「太子 十六才の孝養像」が安置されています。


神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑

2013-11-14 22:25:54 | 日記

今回の目的の1つ、神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑です。
前回来た時に漏れてました。
今回はリベンジです。
これて良かったです。

神武天皇の御親祭
神武天皇長随彦と戦うに当り、高倉山にて夢訓を得て、椎根津彦等に命じて天香山の土を取ってこらし、丹生川上に於て神祇を敬祭せらしめた。
この御親祭こそ戦勝祈願の極めて重大なる祭典であった。
日本書紀 是に天皇甚に悦びたまひて、乃ち此の埴を以て、八十平瓮、天手抉八十枚、厳瓮を造作りたまひて、而して丹生川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ。
即ち彼の菟田川の朝原に於て、譬へば水沫の如くに咒著くる所あり。
天皇又因 りて祈ひて曰く、吾れ今当に八十平瓮を以て水無しにして飴を造るべし。
飴成らば、則ち吾れ必ず鋒刃の威を假らずして、坐ながら天下を平けむ。
乃ち飴を造りたまふ。
飴即ち自らに成りぬ。
又祈ひて曰く、吾れ今当に厳瓮を以て丹生の川に沈めむ。
如し魚大小と無く、悉く酔ひて流れむこと、譬へば猶葉の浮くが如くならば、吾れ必ず能く此の国を定めてむ。
如し其れ璽らずば、終して成る所無けむとのたまひて、乃ち厳瓮を川に沈めたまふ。
其の口下に向けり。
頃ありて、魚皆浮きで水のまにまに。
時に椎根津彦見て奏す。
天皇大に喜びたまひて、乃ち丹生の川上の五百箇真坂樹を抜取にして、以て諸神を祭ひたまふ。
此れより始めて厳瓮の置有り。
時に道臣命に勅すらく、今高皇産靈尊を以て朕れ親ら顕斎を作さむ。
汝を用て斎主と為て、授くる厳媛の号を以てせむ。
而して其の置ける埴瓮を名づけて厳瓮と為し、又火の名をば厳香来雷と為し、水の名をば厳罔象女と為し粮の名をば厳稲魂女と為し薪の名をば厳山雷と為し、草の名をば厳野雷と為したまふ。
とあり。
斯くて天皇は熱烈な祈願を籠められた。
神霊の光助にて皇軍の士気大に振興し、先は国見丘にて兄磯城を破り長随彦を平定して橿原の宮で即位をなした。
厳瓮を川に沈めて酔魚の浮流により勝利を知らしめた瑞徴は、明治大帝の叡慮によって即位の大典に採用され大正昭和の御即位に際し紫宸殿南庭の萬歳旙上部に厳瓮と魚の浮出を繍飾してその瑞兆を記念せられた。因みに浮き出た魚は魚偏に占うと書く鮎である。
昭和十六年六月二十五日“皇紀2600年”を奉祝して“神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑”が建立されたのは、丹生川上が実に肇国発祥の地、皇室守護の神霊が鎮ります処からでもあります。