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吉野離宮碑

2013-11-12 23:44:51 | 日記

吉野離宮については吉野町宮滝に於いて、先住民族の遺物が発見され、昭和10年12月に史跡として指定されてより宮滝説を信じる人多き中で、日本書紀に明記せされている応神天皇19年の行幸より聖武天皇天平8年の最後の行幸に至るまで、実に448年の長きに及び、柿本人麻呂、山辺赤人、大伴旅人等の歌人、吉田宜等懐風藻中の詩人等の高邁にして純真なる詞華をみるにつけ、此の丹生川上の神域こそ吉野離宮であると疑わず、郷土が生んだ偉大なる森口奈良吉翁は数々の考証を加えて、吉野離宮丹生川上説を唱え、そしてこの丹生川上説に賛意と支持力説をされた人に名著「万葉地理考」を著された元奈良女高師教授から駒澤大学教授に転ぜられた豊田八十代翁、大著「万葉集新考」を著された、元宮中顧 問官井上通泰博士、文芸評論家として著名な保田與重郎等が居られる。

井上通泰博士は、昭和4年6月10日親しく丹生川上の吉野離宮跡を視察せられ、丹生川の河鹿の声を聞いて

離宮の行幸のたびに珍しと蛙の声を聞こしめしけむ

とお歌いになった。

現在神社境内には、昭和41年10月18日に東吉野村郷土史蹟顕彰会にて「吉野離宮址」の顕彰碑が建立され、其の裏面には次の通り記されています。
萬葉の歌に多く詠まれ又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は雄略天皇が御獵なされた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。
この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため朝な夕な競ふて渡った。
今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる。


丹生川上神社中社2

2013-11-12 23:34:39 | 日記

当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。
祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。
763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。
しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。
明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。
蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。
そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。
本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。


大滝ダム5

2013-11-12 23:00:44 | 日記

学べる防災ステーションが見える。
そこへは数回訪れています。
今もやっているかも知れないが、下の入口は閉鎖しているし、上からも関係者以外は入れない様ガードされている。
この施設は中々面白く、大雨体験が出来、伊勢湾台風や、それ以上等の数パターンの雨体験が出来ます。
若干衣服が濡れるので、夏場がお勧めです。
施設には灯りが点いているので、やっているのかも知れません。