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吉野離宮については吉野町宮滝に於いて、先住民族の遺物が発見され、昭和10年12月に史跡として指定されてより宮滝説を信じる人多き中で、日本書紀に明記せされている応神天皇19年の行幸より聖武天皇天平8年の最後の行幸に至るまで、実に448年の長きに及び、柿本人麻呂、山辺赤人、大伴旅人等の歌人、吉田宜等懐風藻中の詩人等の高邁にして純真なる詞華をみるにつけ、此の丹生川上の神域こそ吉野離宮であると疑わず、郷土が生んだ偉大なる森口奈良吉翁は数々の考証を加えて、吉野離宮丹生川上説を唱え、そしてこの丹生川上説に賛意と支持力説をされた人に名著「万葉地理考」を著された元奈良女高師教授から駒澤大学教授に転ぜられた豊田八十代翁、大著「万葉集新考」を著された、元宮中顧 問官井上通泰博士、文芸評論家として著名な保田與重郎等が居られる。
井上通泰博士は、昭和4年6月10日親しく丹生川上の吉野離宮跡を視察せられ、丹生川の河鹿の声を聞いて
離宮の行幸のたびに珍しと蛙の声を聞こしめしけむ
とお歌いになった。
現在神社境内には、昭和41年10月18日に東吉野村郷土史蹟顕彰会にて「吉野離宮址」の顕彰碑が建立され、其の裏面には次の通り記されています。
萬葉の歌に多く詠まれ又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は雄略天皇が御獵なされた小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。
この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため朝な夕な競ふて渡った。
今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる。