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伊射奈岐神社 謎の石

2013-06-22 19:56:52 | 日記

境内に神武天皇礼拝所があります。
そしてその向かい側に大きな石があります。
まるで古墳の様な形状です。
その中にごみが積まれてます。
この神社、天神山古墳の境内にありますが、まさか石室の石ではないでしょうね?


伊射奈岐神社3

2013-06-22 19:34:27 | 日記

境内に稲荷神社があります。
宇迦之御魂命、大田命、大宮比売命が祀られています。

宇迦之御魂命は別称の稲荷神のほうが馴染みがあるのではないだろうか。
今日では一般に商工業方面に霊威を発揮する神として信仰されている。
しかし、名前に「稲」とつくように、もともとは五穀と養蚕を司る穀物神、農耕神で、稲の生産、豊穣を守護する神として崇められた。
その稲荷神を祀る稲荷社の祭神とされるのが宇迦之御魂神である。
別称:稲荷神、宇賀御魂命、倉稲魂命、大物忌神
性別:♂
系譜:素盞鳴尊の子、秦氏の氏神
神格:穀霊神、農耕神、商工業神

大田命
猿田彦神の子孫、興玉神の別称、あるいは猿田彦神の別名とする説もある。
垂仁天皇の御代、伊勢に到着した倭姫命に、五十鈴川上を天照大御神の鎮座の地であると教示し土地を献じ、五十鈴川上の地主神であり、宇治土公の祖。

大宮比売命
『古語拾遺』によると、太玉命の御子神。
『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、神籬を建てて祀った八神の中に一柱。
後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。
『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。
大宮売神とは、心が和楽していっさいの憂いや苦悩がなくなるよう、霊魂を平らかにする神。
同時に、宮殿の守護をなし、君臣の和合をもたらす神。


伊射奈岐神社2

2013-06-22 18:49:51 | 日記

※創建由緒
国道脇に掲げる由緒によれば、
「大和平野の東部、天神山古墳を境内として鎮まるイザナギ・イザナミの由緒は、社記が天文年間(1532--55)に焼失したため創建年代・規模等は詳しくないが、崇神天皇の御代に崇祭されたものである。・・・
伊勢神宮とほとんど同時期に創建された最も古い神社であり、日本武尊が東国征伐の出陣に際して当神社に戦勝祈願をして伊勢へ出立したことも、当初から大和朝廷の崇敬が厚かったことを物語っている」とあるが、これは伝承と解すべきであろう。
しかし、清和天皇・貞観元年(859)正月27日条に記す諸神への神階昇叙記録のなかに、“伊射奈岐神、従五位下から従五位上へ昇叙”とあり、9世紀以前から実在したことは確かといえる。
当社は、創建当初から現在地にあったのではなく、由緒に「鎌倉から室町にかけての兵乱により衰退したが、寛永18年(1641・江戸前期)に2代目柳本藩主が3町ほど東(柳本町山田北側の台地)からこの地に移され本殿を造営・・・」とあるように、古くは、現在地の東約500m、伝崇神陵後円部に接する櫛山古墳の北側にある地尊池の西側(大字山田小字ノゾキ)にあったという。
柳本古墳群のまっただ中にあったことになる。
現在地への遷座時期について、由緒は江戸前期というが、室町中期頃には現在地に移されていたともいわれ、はっきりしない。
当社は、今、伊射奈岐神社と称しているが、大乗院寺社雑事記(室町後期の興福寺・春日大社関係の雑記録)・後奈良天皇綸旨(1555)などの古文書、あるいは境内の石燈籠などには、“天神”・“楊本ノ天満”・“楊本天満宮”・“天満大自在天神”・“天満宮”などとあって、伊射奈岐神社の社名はない。
現在地への遷座以前はいざ知らず、中・近世の頃には天満宮と称していたが、維新後の明治6年(1873)、村社に格付けされたとき伊射奈岐神社と称するようになったのではないか、という。

確かに牛の石像があるし、燈篭には天満宮とありますね。
ただ牛の角が2本とも折られているのが気になるところです。

伊射奈岐神社

2013-06-22 18:38:12 | 日記

崇神天皇陵の向かいにある神社です。

延喜式神名帳に、『大和国城上郡 伊射奈岐神社』とある式内社。
奈良盆地東部を南北に走る国道169号線、柳本交差点のすぐ南、道路脇の天神山古墳に接した西側に鎮座する。
道路をはさんだ東に伝崇神天皇陵(行燈山古墳)がある。
道路西側の鳥居を入ると、古墳前方部に沿う形で参道が西へ延び、その先に社殿が、天神山古墳後円部を背にして西面して建つ。
社殿正面、西の参道先に大鳥居が立つ。
天神山古墳は、山辺古墳群に属する前方後円墳(全長113m・後円部径55m・高7m前方部幅50m)で、行燈山古墳(伝崇神天皇陵)の陪塚的古墳という。
近年の国道改修工事により東側半分が削られ、今、道路沿いに西半分が残っている。
埋葬施設は竪穴式石室で、長大なコウヤマキ製の割竹形木棺(片)かあり、4世紀後半頃の築造と推定されている。