※創建由緒
国道脇に掲げる由緒によれば、
「大和平野の東部、天神山古墳を境内として鎮まるイザナギ・イザナミの由緒は、社記が天文年間(1532--55)に焼失したため創建年代・規模等は詳しくないが、崇神天皇の御代に崇祭されたものである。・・・
伊勢神宮とほとんど同時期に創建された最も古い神社であり、日本武尊が東国征伐の出陣に際して当神社に戦勝祈願をして伊勢へ出立したことも、当初から大和朝廷の崇敬が厚かったことを物語っている」とあるが、これは伝承と解すべきであろう。
しかし、清和天皇・貞観元年(859)正月27日条に記す諸神への神階昇叙記録のなかに、“伊射奈岐神、従五位下から従五位上へ昇叙”とあり、9世紀以前から実在したことは確かといえる。
当社は、創建当初から現在地にあったのではなく、由緒に「鎌倉から室町にかけての兵乱により衰退したが、寛永18年(1641・江戸前期)に2代目柳本藩主が3町ほど東(柳本町山田北側の台地)からこの地に移され本殿を造営・・・」とあるように、古くは、現在地の東約500m、伝崇神陵後円部に接する櫛山古墳の北側にある地尊池の西側(大字山田小字ノゾキ)にあったという。
柳本古墳群のまっただ中にあったことになる。
現在地への遷座時期について、由緒は江戸前期というが、室町中期頃には現在地に移されていたともいわれ、はっきりしない。
当社は、今、伊射奈岐神社と称しているが、大乗院寺社雑事記(室町後期の興福寺・春日大社関係の雑記録)・後奈良天皇綸旨(1555)などの古文書、あるいは境内の石燈籠などには、“天神”・“楊本ノ天満”・“楊本天満宮”・“天満大自在天神”・“天満宮”などとあって、伊射奈岐神社の社名はない。
現在地への遷座以前はいざ知らず、中・近世の頃には天満宮と称していたが、維新後の明治6年(1873)、村社に格付けされたとき伊射奈岐神社と称するようになったのではないか、という。
確かに牛の石像があるし、燈篭には天満宮とありますね。
ただ牛の角が2本とも折られているのが気になるところです。
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