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大山2

2012-08-10 20:48:09 | 日記

大山寺まで行かない事に決定したので、ちょっとお茶でも、という事で、田舎家という喫茶店、と言うか、ここは寿福院と言う元お寺。
店の中はちょっとした小物の販売もしている。
コーヒーも良かったが、手作りカルピスやデザート類はとても美味しい。

この建物、最初瓦葺だと思っていたが、よくよく見ると茅葺に鉄板の屋根を瓦の形で被せている。
最近は茅葺職人も減って、中々メンテ出来ないのと、消防法でうるさいのだという事。

庭には大きなお地蔵様がおられます。
そして右足が少し前に出ています。
これは夢や希望や目標に向かっている我々が、救いも求めた際に、いつでも駆けつけ手を差し伸べる為だそうです。

また、庭には小さなお地蔵様が3体おられます。
夢、幸、恋地蔵です。
このお地蔵様を見つける、というちょっとしたイベントです。
息子と2人一生懸命探していると、ご主人が、「まだ出してなかった」と言い、ご主人が隠している間にお茶して待ちました。
その後何とか探し出し、めでたく出立した次第です。


大山

2012-08-10 20:45:30 | 日記

翌8月5日は朝から大山、蒜山経由で帰ることにする。
と言うか、毎年そうである。
ただ、今年は念願だった大山寺と大神山神社へ行き、蒜山で焼きそばを食べるのが今回の目的。
の筈だったのだが、人に聞いた所、大山寺には駐車場から歩いて40分かかるという人がいた。
何人かに聞いたのだが、10分と言う人もいれば、30分と言う人もいる。
ましてや大神山神社はその倍かかると言われ、嫁や息子の猛反対に合ってしまった。
ましてや80の母も一緒である。
でも大山自然歴史館で聞いたら、10分から15分で大山寺まで歩けて、さらに15分で大神山神社まで歩けるとの事。
地図まで貰い、十分歩ける事が判明。
しかし後の祭りで既に嫁や子は歩かない方向で決まってしまった。
今回は断腸の思いで断念するが、いつか必ず行ってみせると心に誓う。
ここから下界を見ると、弓ヶ浜を挟んで、右が日本海、左が中海と良く分かる。


東八幡宮3

2012-08-10 14:24:39 | 日記

倉稲魂大神と埴安姫大神が祀られている。

倉稲魂大神は、『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオとカムオオイチヒメとの間に生まれ、大年神は兄としている。
『日本書紀』では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。
名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。
京都・伏見稲荷大社の主祭神になっていて、稲荷神として広く信仰されている。
別名をミケツカミという。キツネの古名である「ケツ」と混同し同一視されることがあるが、キツネの姿をしているのは稲荷神のお使いである。
『古事記』・『日本書紀』ともに名前が出て来るだけで事績の記述はない。
性別がわかるような記述もなく、男神とも女神ともされる。

埴安姫大神は、日本神話に登場する土の神である。
「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる。
神産みにおいてイザナギとイザナミの間に産れた諸神の一柱である。
『日本書紀』では埴安神と表記される。
『古事記』では、火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。
他に、神社の祭神で埴山彦神・埴山姫神の二神を祀るとするものもあり、これは埴安神と同一の神格であり、彦・姫の二神を一神の名として称したのが埴安神であるとされる。
地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある。

ただ、何故、こういう祀り方をしているのかな?


東八幡宮 (村社)

御祭神
 誉田別命(應神天皇)一座
 田心姫命(宇佐島坐大神)
 湍津姫命(宇佐島坐大神)一座
 市杵島姫命(宇佐島坐大神)
 氣長足姫命(神宮皇后)一座
鎮座の由来
 当社の縁起書に、高倉天皇御宇承安二壬辰年(西暦一一七二年)
 出雲国主悪七兵衛平景清の臣小畑権太夫実家母里郷を預かるにあたり、始めて平松に奉建立する。 慶安二年(西暦一六四九年)東母里古市と申す所え奉遷したと伝う。
 山号南光山旧社地に八幡原、神宮寺、宮谷と申す旧址あり。
 又現社地にも神宮寺址あり。
合 祀
御祭神 (明治四拾参年八月弐拾七日当社に合祀)
 菅原道眞神霊
  元、能義郡母里村大字東母里字古市に鎮座、狭井神社と称し、由緒不詳なれど寳永年間の奉勧請と伝える。
 大己貴命
  元、能義郡母里村大字東母里字蛇喰に鎮座、豊岡神社と称し、由緒不詳なれど寳永年間の奉勧請と伝える。
 伊弉册尊
 國常立尊
  元、能義郡母里村大字東母里字井戸に鎮座、客神社并合殿井戸神社と称し、由緒不詳。
  祭日 七月六日・十月十九日
 大山祇命
 素戔鳴尊
  元、能義郡母里村大字東母里字才ケ峠に鎮座、大山神社と称し、由緒不詳。
 大山祇命
 素戔鳴尊
  元、能義郡母里村大字東母里字御崎峠に鎮座、大山神社と称し、由緒不詳。
 大穴持命
  元、能義郡母里村大字東母里字古市に鎮座、青垣神社と称し、由緒不詳。
  祭日 四月三日・十月三日
 大己貴命
  元、能義郡母里村大字東母里字守合に鎮座、岩上神社と称し、由緒不詳。
  祭日 七月一日・十月七日
 倉稲魂命
 須佐男命
  元、能義郡母里村大字東母里字古市に鎮座、稲森神社并合祀園神社と称し、由緒不詳。
  祭日 十月二十日
境内神社
 若宮神社 御祭神 仁徳天皇
 武内神社 御祭神 武内宿禰 三社合殿
 高良神社 御祭神 高良玉垂命
 由緒
  若宮神・武内神・高良神共に、縁由により勧請崇敬される。
 荒神社 御祭神 素戔鳴尊
 由緒
  縁由勧請不詳。 日御崎神社 御祭神 大日霊尊
 由緒  縁由勧請不詳。
お祭り
大祭
 例祭 十月十五日 (前夜祭十月十四日)
  例祭当日祭・神幸祭・紐落祝祭・年賀祝祭
 祈年祭二月二十八日 新嘗祭十一月二十八日
小祭
 歳旦祭 正月元旦 火鑚神事・富籤(御縁起物頒布)
 元始祭 正月三旦
 節分祭 立春前夜 追儺行事(まめうち)
 夏祭 七月一日
 除夜祭 十二月三十一日
宝物
 ・縁起書 (総州佐倉府小史長澤無己純平撰・雲州後進則武知通筆・元禄五年壬申季夏望)
 ・文書 宗源宣旨 (元文三年二月二十三日)
 ・祝詞 (元文三年二月二十三日卜部兼雄郷)
 ・幣帛 (元文三年二月二十三日神祇官領卜部兼雄郷)
 ・社号額 (旧領主筆) ・金的大額 (松平直方奉納)
 ・最古棟札 文明十二年癸夘七月二十一日建立
  母里土佐守 藤重房 願主 林三郎左衛門 藤原長善并与次郎


東八幡宮2

2012-08-10 14:07:09 | 日記

この狛犬、ちょっと格好良いです。
注連縄も出雲っぽいです。


東八幡宮 (村社)

御祭神
 誉田別命(應神天皇)一座
 田心姫命(宇佐島坐大神)
 湍津姫命(宇佐島坐大神)一座
 市杵島姫命(宇佐島坐大神)
 氣長足姫命(神宮皇后)一座
鎮座の由来
 当社の縁起書に、高倉天皇御宇承安二壬辰年(西暦一一七二年)
 出雲国主悪七兵衛平景清の臣小畑権太夫実家母里郷を預かるにあたり、始めて平松に奉建立する。
 慶安二年(西暦一六四九年)東母里古市と申す所え奉遷したと伝う。
 山号南光山旧社地に八幡原、神宮寺、宮谷と申す旧址あり。
 又現社地にも神宮寺址あり。

東八幡宮

2012-08-10 13:54:36 | 日記

東母里の東八幡宮です。
2000年の鳥取西部地震で少し傾き、つっかえ棒をしていたが、修復されています。
実はうちの墓もその時に倒れて落ちてしまい、修復した経緯があります。

東西両八幡宮口碑伝承
東西両八幡宮に伝わる成立伝承

高倉天皇の御代、出雲国主悪七兵衛平景清広瀬にあり。
その臣小畑権太夫実家母里の郷司として亀遊山に城砦をかまえて居るに、承安2年壬辰(西暦1172年)小畑権太夫館より南方に当たって夜々怪光を放つものの有るを見て怪しみて、士卒を行かしめ真偽を糺さんとするに、現在神宮寺の少し下った所に大なる老松あり、その枝を窺うに、白羽造の箭一雙懸り、士卒これの造りは普通で唯光輝を見て持ち帰り、小畑権太夫実家に告げる、小畑権太夫は、即ち此の箭は武神八幡宮の神箭である、わが家武運長久の瑞兆であろうと喜び初め居宅に小社を建立祀ったが、やがて小畑権太夫は、心中に神威を恐れ、広く土地の人々に崇敬なさしめんと思い、箭の懸かかった松の近く浄地を撰び、八幡宮を建立して広く人々に参詣せしむることとした。
今に此の地を「宮の谷」と称し、宮の跡を「もと宮」と云って礎石を残す。
白羽の矢の懸かる松は平たく繁茂せる大樹にて俗に「平松」と称した松で、現在此の松の有った地域を平松と云う。
降って、慶安2年(西暦1649年)現在鎮座地南光山に奉遷したと伝えられるが、一説には今少し古い事であろう。
とにかく奉遷の際に南方に異光を認めし因みにより南光山としたのは明らかである。
後小松天皇應永年間、母里郷司に廣江氏来たり、廣江氏には3人の子有り、長子を治部少輔、次男を兵庫、末子を市弥と呼んだ。
屡合戦起こり、斉藤摂津守と戦闘のとき廣江氏の軍苦戦に陥り末子市弥は遂に闘死した、この上は神威を借りて敵を破るの外なしと治部、兵庫、相倶に中心八幡神に祈願したところ、俄に南光山に黒雲湧きおこり摂津守の陣を覆や黒雲変成して数百の白羽の箭となって陣を襲い廣江軍の奮闘とともに遂に勝利得た。
以後は前にまして八幡宮を崇敬するところとなった。
伝承には、この頃東八幡を現在の地に奉遷したとも言われる。

しかして後、次男兵庫は分家せしめ居砦を卯月遠檀原に構え、西母里を守る事となったが、然るに何故か此の後兄弟不和となり、兄治部少輔は弟兵庫に東八幡宮に参拝するを禁じたので、兵庫は、されば我も又建立せんとて、應永12年乙酉(西暦1405年)(又天授元年との説も有り)西八幡宮を建立した。
伝承には、初め卯月遠檀原の今日「社祉」と称する所に祀り、祭礼の節は、現在鎮座地御笠山に続く「御幸山」に神輿の行幸を行って遥かに東八幡宮に対抗したと言い、又一説に現在鎮座地に建立して常に垣をめぐらして、東母里の者達を詣でさせずと、今にその跡を「宮垣」と言えるはその証と言えるが、今は明らかに成しがたい。

 *三社託宣*
  三社とは、伊勢の皇大神宮・八幡神の八幡大菩薩・春日神の春日大明神のことであり、その託宣はそれぞれ正直・清浄・慈悲と言う三の徳目に因っている。
  鎌倉時代から室町期初めに成立、公家社会に後には武士に信仰されるのである。
  伊勢を正直、八幡神を清浄、春日神を慈悲とする思想。