
先日完成した、杉本さなえさんの本「AGEHA」について
ちょっとだけ余計なことを書きますので「AGEHA」を
読もうと思っている方は、読まない方がいいかもしれません。
これから書くことは個人的な解釈なので
ほんとは「AGEHA」と関係のないことなのですが
これから書くことは個人的な解釈なので
ほんとは「AGEHA」と関係のないことなのですが
余計なこと、という意味では間違いなさそうです。
書くかどうかずいぶん迷いましたが、やっぱり書いておきます。
ご了承ください。
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自分には、父と母がいて、
その父と母にもそれぞれに両親がいる。
ぼくからしたら、祖父母ということになる。
祖父母までは、ぼくも馴染みがあるし、感情が湧く。
でも、その祖父母の両親のことは知らない。
そのまた両親のことも、そのまた両親のことも。
彼らのことは、一般的に「先祖」と呼ぶ。
だけど、会ったこともないし馴染みもないので
その人(個人)に対しての感情も湧かないというか、湧きようがない。
100年遡っても、1000年遡っても、もっと遡っても
間違いなく、ぼくには先祖が居る(居た)。
不思議なもので、見たことも聞いたことも会ったこともないのに、断言できる。
ここに、自分が居るから。
時を遡ったその世界では、戦いや争いの中で
亡くなった人もいるかもしれないし、
天災で大変な思いをした人もいるかもしれない。
もちろん、それだけでなくいいこともいっぱいあったと思う。
あらゆる時代のたくさんの時間の中で、
たくさんの人たちの喜びや悲しみがあったはずで、
たくさんの人たちが心を動かしてきた。
けど、ぼくはそれを何も知らない。
知らないけど、いまここに居る。
いつの頃からか(たしか20代半ばくらいだったような)
こんな当たり前のことが、ぼくの安心になった。
深いことや難しいことを考えなくても掘り下げなくても大丈夫で
信じるとか信じないとかも不要で、見たこともないし
なんの情報もないのに「絶対に居た」ということが断言できて、
全ての人に等しく存在する。
主義や思想や勉強や教養や知識や信仰や才能も必要ないことが
自分にはありがたかった。(これらを否定しているわけではないです)
なんにも考えなくてもなんにも知らなくても、ただただそういうこと
っていう事実はいろんな意味で一人であることを楽にしてくれた。
(「人類皆兄弟」みたいなことを言いたいわけでも
血縁などの話でもなくて、自分のルーツを掘り下げたいわけでもない)
人間関係を感情的なつながりで考えると、
精神的に孤独になったり楽しくなったりしてしまう。
生きる上で、それは良くも悪くも必要なのだけども、
それだけだとあまりに自分次第すぎるので、
この社会を生きるには自分という個体にプレッシャーがありすぎた。
だから、それ以外にもう一つ感情的ではない部分で自分が成立する必要があった。
それを成立させてくれたのが、冒頭に書いた自分が生まれる前の知らない世界。
自分は自分なんだけども、自分という存在は自分だけで成り立たないし、
自分の性格や性質や、やってきたことだけでは成り立たない。
なんにも知らない世界なのに、その名残がぼくにはある。
感情やら思いを軽く超えていってくれて、自分ではどうにもならない部分が
誰にでも存在することが、健全かつ無責任でよかった。
一人という単位が一個体を数えるための切り離された数字ではなくなり
立体的な一人になる感じがしてホッとした。
ここまで書いてみて怪しい話になってないか心配ではあるけど
躊躇わずこのまま進めてみようと思う。
こういうことは、本を読んだり誰かの影響(人為的な影響)を
受けたわけでもなく、生きていく中で自然発生してきたことなので
誰かに理解されたいとか誰かに伝えたい、というものでもなかった。
書くかどうかずいぶん迷いましたが、やっぱり書いておきます。
ご了承ください。
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自分には、父と母がいて、
その父と母にもそれぞれに両親がいる。
ぼくからしたら、祖父母ということになる。
祖父母までは、ぼくも馴染みがあるし、感情が湧く。
でも、その祖父母の両親のことは知らない。
そのまた両親のことも、そのまた両親のことも。
彼らのことは、一般的に「先祖」と呼ぶ。
だけど、会ったこともないし馴染みもないので
その人(個人)に対しての感情も湧かないというか、湧きようがない。
100年遡っても、1000年遡っても、もっと遡っても
間違いなく、ぼくには先祖が居る(居た)。
不思議なもので、見たことも聞いたことも会ったこともないのに、断言できる。
ここに、自分が居るから。
時を遡ったその世界では、戦いや争いの中で
亡くなった人もいるかもしれないし、
天災で大変な思いをした人もいるかもしれない。
もちろん、それだけでなくいいこともいっぱいあったと思う。
あらゆる時代のたくさんの時間の中で、
たくさんの人たちの喜びや悲しみがあったはずで、
たくさんの人たちが心を動かしてきた。
けど、ぼくはそれを何も知らない。
知らないけど、いまここに居る。
いつの頃からか(たしか20代半ばくらいだったような)
こんな当たり前のことが、ぼくの安心になった。
深いことや難しいことを考えなくても掘り下げなくても大丈夫で
信じるとか信じないとかも不要で、見たこともないし
なんの情報もないのに「絶対に居た」ということが断言できて、
全ての人に等しく存在する。
主義や思想や勉強や教養や知識や信仰や才能も必要ないことが
自分にはありがたかった。(これらを否定しているわけではないです)
なんにも考えなくてもなんにも知らなくても、ただただそういうこと
っていう事実はいろんな意味で一人であることを楽にしてくれた。
(「人類皆兄弟」みたいなことを言いたいわけでも
血縁などの話でもなくて、自分のルーツを掘り下げたいわけでもない)
人間関係を感情的なつながりで考えると、
精神的に孤独になったり楽しくなったりしてしまう。
生きる上で、それは良くも悪くも必要なのだけども、
それだけだとあまりに自分次第すぎるので、
この社会を生きるには自分という個体にプレッシャーがありすぎた。
だから、それ以外にもう一つ感情的ではない部分で自分が成立する必要があった。
それを成立させてくれたのが、冒頭に書いた自分が生まれる前の知らない世界。
自分は自分なんだけども、自分という存在は自分だけで成り立たないし、
自分の性格や性質や、やってきたことだけでは成り立たない。
なんにも知らない世界なのに、その名残がぼくにはある。
感情やら思いを軽く超えていってくれて、自分ではどうにもならない部分が
誰にでも存在することが、健全かつ無責任でよかった。
一人という単位が一個体を数えるための切り離された数字ではなくなり
立体的な一人になる感じがしてホッとした。
ここまで書いてみて怪しい話になってないか心配ではあるけど
躊躇わずこのまま進めてみようと思う。
こういうことは、本を読んだり誰かの影響(人為的な影響)を
受けたわけでもなく、生きていく中で自然発生してきたことなので
誰かに理解されたいとか誰かに伝えたい、というものでもなかった。
だから、言語化もできなかったし、今も文章を書いていて、
いまいちしっくりこない感じはある。
だから、AGEHAと出会ったときはびっくりした。
あくまでも個人的な解釈にすぎないけれど、
だから、AGEHAと出会ったときはびっくりした。
あくまでも個人的な解釈にすぎないけれど、
AGEHAにはこんなことが描かれているように見えたから。
可視化できるなんて思ってなかったのに出会ってしまった、みたいな。
可視化できるなんて思ってなかったのに出会ってしまった、みたいな。
ぼくのこと、あなたのことが書かれてるように思えた。
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見当はずれかもしれないし、自分勝手な文章なので
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見当はずれかもしれないし、自分勝手な文章なので
書くことは相当迷ったけど、AGEHAを本の形で残したことの意味を考えたら
なんだか大丈夫な気がしています。
たぶん、相当わがままなことだと思いますが、どうかお許しください。
たぶん、相当わがままなことだと思いますが、どうかお許しください。
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◉AGEHA