手持ちのマンガ本を整理していた。ほとんどがブックオフで買ったか、
ヤフオクで落札した中古本である。読み終わっているので、古本屋に持
ち込もうかと思うが、レンタルのシールが貼ってあるものは、売れるの
だろうか?
ブックオフに寄ったついでに、レジにいた若い店員さんに訊いてみた。
レンタル落ちの本は引き取ってくれるのですか? いえ、レンタル落ち
は買い取れないんですよ‥。と、横で書棚を整理していた先輩格っぽい
中年店員がジロッとこちらを向き、口を挟んできた。いや、引き取りは
出来ますよ、と。
レジの店員は「エッ、エエ‥?」と狼狽えている。先輩格店員は、レン
タル落ちは値段が付けられないので、買い取りは出来ないという。どう
やら、買い取りと引き取りでは、言葉の意味が違うようである。つまり
買い取れないが、(処分が面倒な品など)無料なら引き取るという意味ら
しい。
このやり取り、私が最初からレンタル落ちのマンガ本は買い取ってくれ
ますかと訊けばよかったのだが、レジ店員は私の意を汲んで応えてくれ
ている。一方の先輩店員は「正しい」言葉遣いで店の方針を伝えてはい
るが、態度も横柄で無愛想だった。素人客の言葉遣いの勘違いに寛容さ
がない。客あしらいとしては下手で不親切、不愉快にも感じた。
(もしかしたら、本を売りたいヒトは、「お客さま」ではないのかな?)
どうして、当店では買取は出来ませんが、お客様さえ宜しければ無料で
お引き取りすることはしていますとか、説明を混じえて言えないのだろ
うか? 近頃、物売り商売等をしている街場では、相手の様子に無頓着
で、自分の使う言葉(その意味)だけで押してくるような話振りをするヒ
ト、逆に相手から何かを問われると、杓子定規な受け応えしか出来ない
20代~40代が増えた気がする。
そんなことを考えていたら、昔新聞の投書欄にあった話を思い出した。
ある中年女性が、郵便局の窓口で、年賀状ありますか?と尋ねると、若
い男性局員が、年賀状はありませんと応えたという。女性は窓口の内側
に積んである様子を見て、そこにあるじゃないですか!と文句をいうと
コレは年賀はがきであって、年賀状は売っていませんと言われたという。
局員の日本語の使い方は「正しい」。でも相手が年賀ハガキを買いに来
た客くらいは場面からも判るはずである。これは単に役所風な杓子定規
である。近年私が感じている、自分の言葉を一方的に押し付けてくるよ
うな類、「相手を見ていないコミュニケーション」「対話者不在のコミ
ュニケーション」とは様子が異なる。
話は換わるが、今朝のこと。玄関の呼び鈴が鳴り出てみたら、若者が箱
を持って立っていた。果物の訪問販売だという。私が要らないと断ると
「ありあと、ございあす!」みたいな口調の挨拶をして立ち去っていっ
た。買わないというのに、どうして「ありがとう」が辞去する言葉なの
か? 別れの挨拶なら「お忙しい処、どうもお邪魔しました」とかにな
らないのか?
これも私が言いたい「対話者不在のコミュニケーション」の一種である。
対人関係に不慣れでボキャブラリーが貧困というより、場面やら相手と
の関係性とかTPOとか、そんな対他者の関係性を無視した、一方通行
な言葉の使い方で状況を横切っては、自己完結しているのである。
二十年以上前に出現し今尚耳にする「~~じゃあーないですか!」とい
う同意・同調を過度に押し付けるような促し言葉がある。大して親しく
もない間柄でも、決め付けた言い回しで距離を縮めてくるので、困惑す
るしやや不愉快でもある。繋がり欲求の現れなのかもしれないが、オレ
とお前とは違う人間だろ、一緒にするな、とでも言いたくなる。
コンビニ・ブックオフや居酒屋等、主にチェーン展開している店舗では、
機械のように「いらっしゃいませ、こんにちは」を連呼している。そう
言うように、仕事がマニュアル化されているのであろう。
この「挨拶」が最も典型的な「対話者不在のコミュニケーション」であ
る。いやこれはコミュニケーションではなく、掛け声なのだろうが、掛
け声のように一方通行で自己完結したものに、街場の対人コミュニケー
ションが変質していると言いたいのである。これでは誰と話をしていて
も相手に差異もなく一緒である。
ヤンキー系の若者言葉に、「あ、ざースッ!(ありがとうございます)」
とか「サァーせん! (すみません)」というのがある。省略的擬似音声
の挨拶言葉は、相手にキチンと向き合った謝意とか侘びという実は全く
ない。これらは、単なる音声記号か、勢いに任せた掛け声である。
自分サイドにある言葉だか「掛け声」或いは音声記号、それに歩調を合
わせ呼応してくれることを、一方的に強要だかお願いしてくるような、
セールスのような厚かましさが見え透く、そんな対話感覚が日常で濃く
なってはいないだろうか。
そのお願いが通じないと、コイツは話すべき相手じゃないと、その先は
もう、意思疎通の営みをバッサリ切ってしまう。このような対話・対人
関係のあり方は、眼の前に実在する相手を意識しない、電話で話をして
いるような「通話(メール)」の感覚を、リアルな人間関係の方に被せて
いるように感じる。
対人関係の相手とは、個別に現実を生きている生身の人間なのである。
相手とは常に「異者」である。それを少しも考えない、馴れ合おうとす
る甘ったれたコミュニケーション感覚こそ、やや大げさに言えば、日本
人の国際化の盲点だとも思う。そんなノリと調子ばかりに任せた、対話
者不在の押し付けで自己完結したコミュニケーションの感覚が、若年か
ら中高年層まで蔓延しているようで、不快かつ気掛かりである。
ヤフオクで落札した中古本である。読み終わっているので、古本屋に持
ち込もうかと思うが、レンタルのシールが貼ってあるものは、売れるの
だろうか?
ブックオフに寄ったついでに、レジにいた若い店員さんに訊いてみた。
レンタル落ちの本は引き取ってくれるのですか? いえ、レンタル落ち
は買い取れないんですよ‥。と、横で書棚を整理していた先輩格っぽい
中年店員がジロッとこちらを向き、口を挟んできた。いや、引き取りは
出来ますよ、と。
レジの店員は「エッ、エエ‥?」と狼狽えている。先輩格店員は、レン
タル落ちは値段が付けられないので、買い取りは出来ないという。どう
やら、買い取りと引き取りでは、言葉の意味が違うようである。つまり
買い取れないが、(処分が面倒な品など)無料なら引き取るという意味ら
しい。
このやり取り、私が最初からレンタル落ちのマンガ本は買い取ってくれ
ますかと訊けばよかったのだが、レジ店員は私の意を汲んで応えてくれ
ている。一方の先輩店員は「正しい」言葉遣いで店の方針を伝えてはい
るが、態度も横柄で無愛想だった。素人客の言葉遣いの勘違いに寛容さ
がない。客あしらいとしては下手で不親切、不愉快にも感じた。
(もしかしたら、本を売りたいヒトは、「お客さま」ではないのかな?)
どうして、当店では買取は出来ませんが、お客様さえ宜しければ無料で
お引き取りすることはしていますとか、説明を混じえて言えないのだろ
うか? 近頃、物売り商売等をしている街場では、相手の様子に無頓着
で、自分の使う言葉(その意味)だけで押してくるような話振りをするヒ
ト、逆に相手から何かを問われると、杓子定規な受け応えしか出来ない
20代~40代が増えた気がする。
そんなことを考えていたら、昔新聞の投書欄にあった話を思い出した。
ある中年女性が、郵便局の窓口で、年賀状ありますか?と尋ねると、若
い男性局員が、年賀状はありませんと応えたという。女性は窓口の内側
に積んである様子を見て、そこにあるじゃないですか!と文句をいうと
コレは年賀はがきであって、年賀状は売っていませんと言われたという。
局員の日本語の使い方は「正しい」。でも相手が年賀ハガキを買いに来
た客くらいは場面からも判るはずである。これは単に役所風な杓子定規
である。近年私が感じている、自分の言葉を一方的に押し付けてくるよ
うな類、「相手を見ていないコミュニケーション」「対話者不在のコミ
ュニケーション」とは様子が異なる。
話は換わるが、今朝のこと。玄関の呼び鈴が鳴り出てみたら、若者が箱
を持って立っていた。果物の訪問販売だという。私が要らないと断ると
「ありあと、ございあす!」みたいな口調の挨拶をして立ち去っていっ
た。買わないというのに、どうして「ありがとう」が辞去する言葉なの
か? 別れの挨拶なら「お忙しい処、どうもお邪魔しました」とかにな
らないのか?
これも私が言いたい「対話者不在のコミュニケーション」の一種である。
対人関係に不慣れでボキャブラリーが貧困というより、場面やら相手と
の関係性とかTPOとか、そんな対他者の関係性を無視した、一方通行
な言葉の使い方で状況を横切っては、自己完結しているのである。
二十年以上前に出現し今尚耳にする「~~じゃあーないですか!」とい
う同意・同調を過度に押し付けるような促し言葉がある。大して親しく
もない間柄でも、決め付けた言い回しで距離を縮めてくるので、困惑す
るしやや不愉快でもある。繋がり欲求の現れなのかもしれないが、オレ
とお前とは違う人間だろ、一緒にするな、とでも言いたくなる。
コンビニ・ブックオフや居酒屋等、主にチェーン展開している店舗では、
機械のように「いらっしゃいませ、こんにちは」を連呼している。そう
言うように、仕事がマニュアル化されているのであろう。
この「挨拶」が最も典型的な「対話者不在のコミュニケーション」であ
る。いやこれはコミュニケーションではなく、掛け声なのだろうが、掛
け声のように一方通行で自己完結したものに、街場の対人コミュニケー
ションが変質していると言いたいのである。これでは誰と話をしていて
も相手に差異もなく一緒である。
ヤンキー系の若者言葉に、「あ、ざースッ!(ありがとうございます)」
とか「サァーせん! (すみません)」というのがある。省略的擬似音声
の挨拶言葉は、相手にキチンと向き合った謝意とか侘びという実は全く
ない。これらは、単なる音声記号か、勢いに任せた掛け声である。
自分サイドにある言葉だか「掛け声」或いは音声記号、それに歩調を合
わせ呼応してくれることを、一方的に強要だかお願いしてくるような、
セールスのような厚かましさが見え透く、そんな対話感覚が日常で濃く
なってはいないだろうか。
そのお願いが通じないと、コイツは話すべき相手じゃないと、その先は
もう、意思疎通の営みをバッサリ切ってしまう。このような対話・対人
関係のあり方は、眼の前に実在する相手を意識しない、電話で話をして
いるような「通話(メール)」の感覚を、リアルな人間関係の方に被せて
いるように感じる。
対人関係の相手とは、個別に現実を生きている生身の人間なのである。
相手とは常に「異者」である。それを少しも考えない、馴れ合おうとす
る甘ったれたコミュニケーション感覚こそ、やや大げさに言えば、日本
人の国際化の盲点だとも思う。そんなノリと調子ばかりに任せた、対話
者不在の押し付けで自己完結したコミュニケーションの感覚が、若年か
ら中高年層まで蔓延しているようで、不快かつ気掛かりである。