女には、「娼妓」か「母」の二つのタイプしかない。
『青年』の大村は、ワイニンゲルという厭世思想家の
女性観を引合いに出し、純一と問答している。
「なる程。そこで恋愛はどうなるのですか。
母の型の女を対象にしては恋愛の満足は出来ないでしょうし、
娼妓の型の女を対象にしたら、それは堕落ではないでしょうか。」
「そうです。
だから恋愛の希望を前途に持っているという君なんぞの為めには、
ワイニンゲルの論は残酷を極めているのです。
女には恋愛というようなものはない。
娼妓の型には色欲がある。
母の型には繁殖の欲があるに過ぎない。
恋愛の対象というものは、凡て男子の構成した幻影だというのです。」
(「」内の引用は、森鴎外『青年』。改行は随時筆者。)
もし、恋愛の起源が、男による幻影の産物にあるとするならば、
女を「娼妓」と「母」に型分けするのも、男性が女性に課した幻影ではなかろうか。
『雁』に登場する妾のお玉は、
岡田という医学生に一方的な恋心を抱く。
お玉は、高利貸しの末造の囲いモノである。
彼女の恋心は秘され、抑圧されざるを得ない。
末造は、お玉が日増しに美しくなっていると感じるが、
一方のお玉の心中には、自堕落なものが芽生え始める。
それは「娼妓」の型の色欲に通じていく。
末造はお玉の色香に翻弄されることに「愉快な刺激」を感じ、
彼女の自堕落さに「情欲をあおられ」魅せられていく。
カネがカネを生んで金儲けに夢中になるように、
末造は自分で当てたお玉という鉱脈の、欲望の坑道を掘り進んでいく。
末造は自分の得た金銭と女に、欲望を織り込んでいくことに、
自身もそこに投企して、カネと色のシステムに解体していく。
お玉を「娼妓」の型に嵌め込んだのは、末造であるが、
「素直な小娘で」しかなかったお玉は、やがて、
「世間の女が多くの男に触れた後にわずかにかちうる冷静な心」にまで至る。
このお玉の、心の出来上がり方は、「貨幣」(金銭)的である。
末造という貨幣の運動は、お玉に形態転写される。
金貸しの末造が多くの手へ金を貸しては回収し、
貸金と集金とが彼の思考や性格の型となり、
金銭で媒介された彼の対他意識は自意識となる。
財貨が末造を価値付けたように、
お玉も末造の情欲の全てを自分へと回収することで、
自分を価値付け、医学生への抑圧せざるを得なかった
恋情の貸倒れのような代価を、貸借バランスをとるような
冷静な心持を以って、末造から利息付で巻き上げることになるであろう。
次のような末造の言葉は、『阿部一族』の弥一右衛門とも通底する。
「おれには目上も目下もない。
おれに金をもうけさせてくれるものの前に這いつくばう。
そうでないやつは、だれでもかれでも 一切いるもいないも同じ事だ。」
弥一右衛門が、武家社会のからくり人形ならば、
末造は、資本制社会のからくり人形であり、
お玉も、男社会の色欲のからくり人形である。
これは、人間の主体性の論議とは関係ない。
弥一右衛門も末造もお玉も、各々が主体的である。
人間社会のメカニズムに対し、どのように自覚的であるかの問題である。
人気blogランキングへ
にほんブログ村 気まま
『青年』の大村は、ワイニンゲルという厭世思想家の
女性観を引合いに出し、純一と問答している。
「なる程。そこで恋愛はどうなるのですか。
母の型の女を対象にしては恋愛の満足は出来ないでしょうし、
娼妓の型の女を対象にしたら、それは堕落ではないでしょうか。」
「そうです。
だから恋愛の希望を前途に持っているという君なんぞの為めには、
ワイニンゲルの論は残酷を極めているのです。
女には恋愛というようなものはない。
娼妓の型には色欲がある。
母の型には繁殖の欲があるに過ぎない。
恋愛の対象というものは、凡て男子の構成した幻影だというのです。」
(「」内の引用は、森鴎外『青年』。改行は随時筆者。)
もし、恋愛の起源が、男による幻影の産物にあるとするならば、
女を「娼妓」と「母」に型分けするのも、男性が女性に課した幻影ではなかろうか。
『雁』に登場する妾のお玉は、
岡田という医学生に一方的な恋心を抱く。
お玉は、高利貸しの末造の囲いモノである。
彼女の恋心は秘され、抑圧されざるを得ない。
末造は、お玉が日増しに美しくなっていると感じるが、
一方のお玉の心中には、自堕落なものが芽生え始める。
それは「娼妓」の型の色欲に通じていく。
末造はお玉の色香に翻弄されることに「愉快な刺激」を感じ、
彼女の自堕落さに「情欲をあおられ」魅せられていく。
カネがカネを生んで金儲けに夢中になるように、
末造は自分で当てたお玉という鉱脈の、欲望の坑道を掘り進んでいく。
末造は自分の得た金銭と女に、欲望を織り込んでいくことに、
自身もそこに投企して、カネと色のシステムに解体していく。
お玉を「娼妓」の型に嵌め込んだのは、末造であるが、
「素直な小娘で」しかなかったお玉は、やがて、
「世間の女が多くの男に触れた後にわずかにかちうる冷静な心」にまで至る。
このお玉の、心の出来上がり方は、「貨幣」(金銭)的である。
末造という貨幣の運動は、お玉に形態転写される。
金貸しの末造が多くの手へ金を貸しては回収し、
貸金と集金とが彼の思考や性格の型となり、
金銭で媒介された彼の対他意識は自意識となる。
財貨が末造を価値付けたように、
お玉も末造の情欲の全てを自分へと回収することで、
自分を価値付け、医学生への抑圧せざるを得なかった
恋情の貸倒れのような代価を、貸借バランスをとるような
冷静な心持を以って、末造から利息付で巻き上げることになるであろう。
次のような末造の言葉は、『阿部一族』の弥一右衛門とも通底する。
「おれには目上も目下もない。
おれに金をもうけさせてくれるものの前に這いつくばう。
そうでないやつは、だれでもかれでも 一切いるもいないも同じ事だ。」
弥一右衛門が、武家社会のからくり人形ならば、
末造は、資本制社会のからくり人形であり、
お玉も、男社会の色欲のからくり人形である。
これは、人間の主体性の論議とは関係ない。
弥一右衛門も末造もお玉も、各々が主体的である。
人間社会のメカニズムに対し、どのように自覚的であるかの問題である。
人気blogランキングへ
にほんブログ村 気まま