日本聖公会京都教区は審判廷の申立を却下したが、その理由は誰が聞いてもおかしいと思うだろう。「補正命令書において求めている『いつ』、『どこで』、『だれに』『何をしたか』という事実が明記されておらず、補正されているとは判断できません。」と審判長であるK主教以下3名の審判員の連署されている文書に記しているが、道化なのだろうか。いつ、どこで、だれに、何をしたかということは、K主教や常置委員会は既に知っているところだ。去年の京都教区の教区会で配布された文書にしっかりとそれが記されている。ただし、被害者を守るために、被害者を特定できるような文面はないが、しかし、少なくともK主教と常置委員会は、被害者がどこの誰であるかを知っているし、K主教はその被害者に面会していることは、K主教自身が書いた文書から明らかなことだ。
また、同時に被害者の家族の代理人から審判廷が申し立てられているが、それに関する「補正文書」は、その代理人のホームページで明らかにされている。「●●●●」となっているところは、当然被害者の氏名であろうと思われるが、これに関しては裁判記録で明らかにされているにもかかわらず、代理人はあえてこうしているのであろう。当然、被害者の人権を守るためであることは言うまでもない。ところが、先に出されていた審判廷申立に対する却下文書を読んでいると、被害者の氏名が明らかになっていないということが却下理由としてあげられている。ちょっと待てよ。被害者の人権を守るために、被害者の名前を公表していないK主教が何をいまさら被害者を特定しろと言えるのか。審判長自身は、あの仮名で書かれていた被害者に会っていることは、今まで経緯から明らかなことだ。
京都教区ははじめから却下するつもりだったのではないのか。申立人が被害者の氏名を知っているはずはないという確信があったからこそ、氏名を明らかにしろという補正命令を出したのではないのか。何故なら、被害者の氏名だけでなく、被害者に関するあらゆる情報が京都教区自身によって秘匿されていたのだから、申立人が知る由もないことは、京都教区のK主教は判っていただろう。そう考えれば、京都教区ははじめから却下できると確信してあの補正命令を出したということになるが、それでは、被害者を守るといいながら、実は加害者を擁護していることにならないだろうか。むしろ、俺の周囲にいる人間は皆、その点に大きな疑問を持っている。
あの民事訴訟を起こした被害者以外の被害者の方々は、氏名を公表しないで欲しいと要望しているのであろう。ある意味では当然のことだ。わいせつ事件では、被害者の方が弱い立場に立たされてしまうのが、今の日本の情況だからだ。世の中にはおかしなことを平気で口にするのがいるからなのだが、京都教区はそれを利用して、加害者を擁護しているのではないのか。少なくとも、結果としてそういうことになっていはしないだろうか。このままでは、日本聖公会京都教区は歴史に大きな汚点を残すことになるだろう。既に、この問題に関してはジャーナリズムが幾度となく報道しているし、これからも報道するだろう。そして、人々の目にとまり、記憶される。オキナワの問題での発言力が弱められるのは必至だろう。女性差別問題に関する発言が弱められるのも必至だ。性的虐待事案に関しては、被害者の出廷や氏名が明らかにされなくても、その性的虐待行為を証明できれば、審判廷を開けるはずだし、そうしなければ被害者はいつまで経っても心が癒されることはない。そして、加害者が安穏に暮らしていくことが出来てしまう。そうなると、あの審判廷申立を却下したことは、加害者のためにはなっても、まったく被害者のためにはなっていないことは明らかだろう。