いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

日本聖公会の体質

2008-09-03 | Weblog
 昨夜、久しぶりに鞍馬天狗と電話で長話をした。どうしても気になることがあったからなのだが、「子供の頃に片親になった人は司祭になれない」と口にした聖職がいたのは事実だそうだ。ただし、録音していないから証拠はない。しかし、そう聞かされて、彼は何人かの聖職にそのことを質問しているから、それを覚えている方がいらっしゃるかもしれない。その人が彼にそう言った時、その人は彼の母親が、彼が子供の時にガンで亡くなっていることを知ってのことだった。ただ、彼が女性司祭按手に関して、否定的な考え方をしていたからだったのだとすれば、最早、その聖職は神学を放棄しているとしか言いようがない。

 日本の中に、こうした発想が根深く残っているのは事実だろう。それを口にした人の年齢から考えると、戦前のことではなさそうだが、戦前のことを誰かから聞いた可能性もある。そして、彼が質問した聖職はすべて、そうした考え方があることをご存じなかったという。しかし、その聖職が口にしたということは、その人が勝手に作り話をしたのでなければ、日本聖公会には、法憲法規以外に「暗黙の了解」をもった不文律が存在しているのだろう。実に恐ろしいことだ。

 年輩の信徒の方々にも質問したそうだが、そうしたことを知っていた方は皆無だったという。勿論その方々は、彼の生い立ちを知ってはいない。しかし、そうした方々の口からも「片親」という言葉が出てきたそうだ。普段から、日本聖公会の教会が、こうした考え方が持っている社会的意味を考えること怠ってきたからだろう。あるいは、こうしたことに関する敏感な感性を聖職者が培ってこかなかったからのように思える。そうした意味では、京都教区の女児への性的虐待にも同じことが言える。女児への性的虐待行為が長年にわたって継続的に行われていたということを既に京都教区は認めているにも拘わらず、彼らはそれに対して積極的な懲戒の道を模索していない。それだけではない。京都教区の信徒の中から、そうした京都教区のあり方について批判の声が激しく湧き起こって来ないのは、一体何故なのだろう。

 教会が中世的な支配構造を保っているのだろうか。だから、教皇無謬説を否定しておきながら、主教が天皇のように崇められてしまっているのだろうか。常置委員会は枢密院なのだろうか。日本聖公会の中にも、天皇制を批判している司祭がいることは自分も知っている。片方で天皇制を批判しながら、片方で主教が明治体制下の天皇のような権力を持っているのだとすれば、そこには大きな矛盾が起きていることは明白である。その矛盾を矛盾として問題にすることがなければ、どちらかが単なるポーズでしかないということになる。日本聖公会の体質が、こうしたことに典型的に表れているように見える。