いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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なぜK主教は主教で居続けられるのか

2007-07-28 | Weblog
 最高裁判所の上告棄却・不受理が決定した後、「冤罪だ!」と大声で叫んでいた主教は、他にも被害者がいたことが明らかになって、「謝罪の記者会見」を開いたにもかかわらず、原田文雄司祭の裁判に関する裁判記録を閲覧することもなく、被害者やそのご家族に誠実な対応をとることもしてこなかった。これは紛れもない事実だ。にもかかわらず、日本聖公会はこの一連の過ちについて、沈黙し続けている。沈黙は看過に等しいということをまったく理解できないでいるのかもしれない。
 実に愚かなことだ。

 女子児童に対する準強制わいせつ事件が、どれくらい恐ろしい事件であるかということを日本聖公会は知らないのだろうか。知らないはずはない。新聞やテレビでも今まで散々論じられてきたことだ。そして、何よりも大きな問題は、事件の被害者は少なくとも5人いるということだ。この5人もいるということが何を意味しているのか、常識のある人々ならば誰でもすぐに気が付くだろう。「私は被害者です」ということを申し出た人だけで5人だということだ。言い換えれば、本当の被害者の数は、原田文雄司祭と神様しか知らない。

 こうした事件とその後の経緯をすべて知っているはずのK主教が、未だに問題解決の鍵を握っているということ自体、実におかしなことだ。社会保険庁の長官が居座り続けているよりももっと破廉恥なことであるとしかいいようがない。多くの女性の魂が深く傷つけられたという事実を、K主教はどうして直視しようとしないのだろう。あるいは、直視しないK主教を主教会はなぜ看過しているのだろう。

 本来であれば、主教会の責任において審判廷を開き、明確で福音に適った審判をすべきであるにもかかわらず、日本聖公会は沈黙を続けている。主教も司祭も執事もだ。この沈黙は、日本聖公会というカルト集団を護るためではあっても、被害者とその家族を守るものでないことは誰にでも判ることだ。

 何故、K主教は教区主教で居続けられるのか。
 審判廷を開かない主教会は何を考えているのだろう。審判廷という近代的法制度による裁判を理解できているのだろうか。そもそも「近代法治国家はイギリスのマグナ・カルタに始まる」と言っているのは、アングリカンの人々ではないのか。私は不思議でならない。「アングリカン・コミュニオンの一員」ということを声高らかに宣言し、ランベス会議に主教たちが出席しているにもかかわらず、国内における行動や思考は、まるで中世封建制度そのものではないのか。「アンシャン・レジーム」という言葉と共に教科書に載っている絵には、王と貴族と僧が農民を踏みつけている姿が描かれているが、今の日本聖公会は正にあの姿ではないのか。裁判を一度も傍聴に行かず、裁判記録を読むこともなく、被害者が納得する形で謝罪することもない主教、そして準強制わいせつを問われ、それが認定された司祭が被害者に謝罪していない現実を看過している教区。
  世界の聖公会は、これをどのように判断するだろう。