H司祭による女子児童に対する準強制わいせつの慰謝料請求裁判で、大阪高等裁判所で判決を不服として、H司祭が最高裁に上告したのですが、その上告が棄却され、不受理とされてから丸2年が経ちました。この時に、K主教は「冤罪」という言葉を使い、「最高裁に抗議する」とおっしゃったそうですね。地方裁判所の裁判の時も、高等裁判所の裁判の時も、一度も傍聴に行っていらっしゃらないそうですが、本当でしょうか。
事務所の資料で見たら、H司祭は小生よりも一つ年上、K主教主教は5つも下なのには驚きました。いい加減いい年をして、自らが犯した過ちを認めないというのもみっともない話ではありませんか?高裁の裁判記録報告を読むと、法廷で神学議論を裁判長にしたそうですが、何を考えていたのでしょう。訴えに対する誠実さが皆無ではないかと思います。裁判は、準強制わいせつを長年にわたって行っていたことが事実であるかどうかを裁いているというにの、神学議論をしても意味がありません。聖公会の司祭によくある権威主義的なものがそういうことをさせたのでしょうか。
小生にはそうは思えません。裁判記録に眼を通していないので、あの報告書から推測するしかないのですが、自らの犯した過ちを何とか覆い隠そうとしてのことだったのではないでしょうか。K主教はそうした現実を、傍聴に行かないということによって無視しています。裁判所は、法廷で証言されたことで判断します。控訴審では、被害者は事件の内容についてかなり細かく証言したようですね。そして、その証言に虚偽はないと判断しました。裁判官は、裁判のプロです。しかも高裁判事は裁判官の中でもプロ中のプロです。証言の真偽を見抜くことに関しては高い能力を持っています。判決は、請求されている慰謝料の満額、裁判費用は被告が全額支払うというものでしたが、準強制わいせつが原告が証言しているとおりに行われたと判断したからこの判決なのだろうと思います。しかも、3人の裁判官の全員一致による判決です。
誰が聞いても、準強制わいせつが行われたのは事実であると考えられるのに、H司祭が上告することを引き留めてもいません。
一般的な考え方からすれば、まったく信じられないことです。
そして、被害者が他にもいるということが判って、奈良県庁で謝罪の記者会見が行われました。あの記事については、いくつかの資料で確認していますが、小生はあの頃にこの事件を最初に耳にしました。被害者のPTSDが明らかになった直後、「一旦退職させたのにすぐ復職を認めた」にもかかわらず、「神学校教授、常置委員長の要職」をはずことなく「裁判に出廷させ」、「主教候補に」もなっています。(「 」内は「糾す会」のブログへの書き込みから引用)
理由は加害者の「事実無根」を信じたからだとしていますが、信じるに足りるだけの調査や聴聞が行われたのでしょうか。K主教の資質が問われて当然だろうと思います。先日、「FH司祭問題駁す」というブログに、「その時主教が仰った言葉は今も忘れることが出来ません。それはマタイ伝21節から26節までを引用されて説明されました。加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならないということでした。」という書き込みがありましたが(マタイ福音書5章21節~25節と思われます)、あの聖書の個所をこの事件にあてはめて、「加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならない」という発言は、どう考えてもおかしいのではないでしょうか。あの個所は、刑事事件の加害者と被害者を問題にしているのでしょうか。「教会で祈りを捧げてはならない」ということを命じるために、「和解」という言葉がでてくるあの個所を引用したのではないでしょうか。恐ろしいことです。本当に恐ろしいことです。長いキリスト教の中で、こうした権威が罷り通ると教会はいつも堕落してきました。
主教がこれではどうしようもありません。主教は教会の信仰の守護者ではないのですか?それとも、日本聖公会では、主教に按手された瞬間に超越的出来事が起こって、神学的思考が正確に出来る能力を神から与えられるとお考えなのでしょうか。恐ろしいことです。もしそうだとしたら、日本聖公会はアングリカン・コミュニオンから抜けるべきです。アングリカン・チャーチが中世ローマ・カトリック教会から離脱するためにどれだけの血と汗と涙が流されたのかをご存知ないとしか思えません。
最高裁の上告棄却・不受理から2年。日本聖公会はこの事件に対して、社会的責任をまったく感じていらっしゃいません。現職司祭による準強制わいせつ事件の被害者が教会を離れたということに関しても、主教会はまったく痛みを感じていないようです。H司祭はどこで何をしていらっしゃるのですか?まさかどこかの教会で聖餐式をしていませんよね。京都教区にも、司祭が常駐していない教会いくつもあるようですが、まさかそこで聖餐式を司式していないですよね。陪餐停止になっている司祭がサクラメントを執行できるということはあり得ませんよね。
事務所の資料で見たら、H司祭は小生よりも一つ年上、K主教主教は5つも下なのには驚きました。いい加減いい年をして、自らが犯した過ちを認めないというのもみっともない話ではありませんか?高裁の裁判記録報告を読むと、法廷で神学議論を裁判長にしたそうですが、何を考えていたのでしょう。訴えに対する誠実さが皆無ではないかと思います。裁判は、準強制わいせつを長年にわたって行っていたことが事実であるかどうかを裁いているというにの、神学議論をしても意味がありません。聖公会の司祭によくある権威主義的なものがそういうことをさせたのでしょうか。
小生にはそうは思えません。裁判記録に眼を通していないので、あの報告書から推測するしかないのですが、自らの犯した過ちを何とか覆い隠そうとしてのことだったのではないでしょうか。K主教はそうした現実を、傍聴に行かないということによって無視しています。裁判所は、法廷で証言されたことで判断します。控訴審では、被害者は事件の内容についてかなり細かく証言したようですね。そして、その証言に虚偽はないと判断しました。裁判官は、裁判のプロです。しかも高裁判事は裁判官の中でもプロ中のプロです。証言の真偽を見抜くことに関しては高い能力を持っています。判決は、請求されている慰謝料の満額、裁判費用は被告が全額支払うというものでしたが、準強制わいせつが原告が証言しているとおりに行われたと判断したからこの判決なのだろうと思います。しかも、3人の裁判官の全員一致による判決です。
誰が聞いても、準強制わいせつが行われたのは事実であると考えられるのに、H司祭が上告することを引き留めてもいません。
一般的な考え方からすれば、まったく信じられないことです。
そして、被害者が他にもいるということが判って、奈良県庁で謝罪の記者会見が行われました。あの記事については、いくつかの資料で確認していますが、小生はあの頃にこの事件を最初に耳にしました。被害者のPTSDが明らかになった直後、「一旦退職させたのにすぐ復職を認めた」にもかかわらず、「神学校教授、常置委員長の要職」をはずことなく「裁判に出廷させ」、「主教候補に」もなっています。(「 」内は「糾す会」のブログへの書き込みから引用)
理由は加害者の「事実無根」を信じたからだとしていますが、信じるに足りるだけの調査や聴聞が行われたのでしょうか。K主教の資質が問われて当然だろうと思います。先日、「FH司祭問題駁す」というブログに、「その時主教が仰った言葉は今も忘れることが出来ません。それはマタイ伝21節から26節までを引用されて説明されました。加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならないということでした。」という書き込みがありましたが(マタイ福音書5章21節~25節と思われます)、あの聖書の個所をこの事件にあてはめて、「加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならない」という発言は、どう考えてもおかしいのではないでしょうか。あの個所は、刑事事件の加害者と被害者を問題にしているのでしょうか。「教会で祈りを捧げてはならない」ということを命じるために、「和解」という言葉がでてくるあの個所を引用したのではないでしょうか。恐ろしいことです。本当に恐ろしいことです。長いキリスト教の中で、こうした権威が罷り通ると教会はいつも堕落してきました。
主教がこれではどうしようもありません。主教は教会の信仰の守護者ではないのですか?それとも、日本聖公会では、主教に按手された瞬間に超越的出来事が起こって、神学的思考が正確に出来る能力を神から与えられるとお考えなのでしょうか。恐ろしいことです。もしそうだとしたら、日本聖公会はアングリカン・コミュニオンから抜けるべきです。アングリカン・チャーチが中世ローマ・カトリック教会から離脱するためにどれだけの血と汗と涙が流されたのかをご存知ないとしか思えません。
最高裁の上告棄却・不受理から2年。日本聖公会はこの事件に対して、社会的責任をまったく感じていらっしゃいません。現職司祭による準強制わいせつ事件の被害者が教会を離れたということに関しても、主教会はまったく痛みを感じていないようです。H司祭はどこで何をしていらっしゃるのですか?まさかどこかの教会で聖餐式をしていませんよね。京都教区にも、司祭が常駐していない教会いくつもあるようですが、まさかそこで聖餐式を司式していないですよね。陪餐停止になっている司祭がサクラメントを執行できるということはあり得ませんよね。
これをしたら、彼らの「謝罪の記者会見」はまったく虚偽だったことになります。小生は、実例をいくつか知っていますが、H司祭の件とは内容が異なります。性犯罪者を司祭に戻すということは、あまりに理不尽です。
外には厳しく、中には徹底的の甘い聖公会らしいですね。余所者はすぐに追い出してしまいます。障害者に対しては実に冷たいところです。障害者の痛みなど、ほとんど判っていない主教や司祭もいますよ。そんな人たちだらか、H司祭を転籍させても何とも思わないかもしれませんね。それこそ、転籍して「復活祝賀会」をしそうですね。
主教にも後ろめたい人がいたりして・・・・大丈夫かなぁ。