ルカ福音書9章51節~56
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう
決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行っ
て、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しか
し、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指し
て進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、
「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょ
うか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、
一行は別の村に行った。
わたしたちの周囲には、様々な宗教があります。あるいは、同じ仏教であっても、その教えや戒律が異なっているものがあります。神道と一般的に考えられるものになると、無数にその信仰や習慣があります。むかし、面白い4コマ漫画を見たことがあります。おそらくカトリック教会だと思うのですが、通りすがりの男の人が教会の壁に向かって用を足してしまうので神父様が困っていらっしゃいます。そこで、神父様は一つひらめきました。
壁に鳥居の印を書きました。すると、そこで用を足そうとした男の人が慌てて身繕いをしてそこから立ち去ってしまうというものです。人間の現実をつぶさに描いているように見えました。
前掲の聖書の個所は、エルサレムへ向かっていこうとする主イエス一行がサマリアの村で遭遇したことです。マタイ福音書10章5節で主イエスは「サマリア人の町に入ってはならない」とおっしゃっています。ルカ福音書17章11節では「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」と記されいます。
福音書が記された時には既に、主イエスの歩かれた道に関する伝承が様々に変化していたのかもしれません。ヨハネ福音書では、明らかにサマリアを通過している記事が出てきます。この個所はその一つですが、
サマリアはエルサレムから分裂し、サマリア五書と呼ばれる聖書を作り上げ、神ヤーウェ以外の神々に犠牲を捧げていました。エルサレムを正統とすれば、サマリアは明らかに異端です。
日本のキリスト教会の中では、キリスト教の教派同士の間に大きな誤解と偏見による対立が起きてきました。他教派の神学を知ろうともしないのです。そして、ご自分が生まれ育った教派の中だけに正しいものがあると考えてきました。
「共同聖餐」においてさえ、「一致のために陪餐させてあげてるんだ」という意識が見えたり、他教派の聖職の方々をまるで異教徒のように扱うことさえあります。
ある町で、三つの異なった教派が月に一度合同礼拝をしているそうです。そして、聖餐式を必ずしているそうですが、それぞれ他の教会の聖餐式でも、御聖体を「アーメン」といって受けていながら、しかし、別の場面になると、その教会が属している教区では同じ他教派の聖職位を認めないということがありました。片方で、他教派の牧師の聖餐を「アーメン」といって受けることを許しておきながら、別のところでは聖職位をまったく認めないという、実にちぐはぐなことが行われています。
「『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼし
ましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そ
して、一行は別の村に行った。(55節・56節)
ここには、主イエスが何とおっしゃって戒められたのか記されていません。もしかすると、人間的な想いを越えて、もっともっと高いところから人間の現実を見ていらっしゃるのかもしれません。ヤコブもヨハネも、少なくともあの金曜日、エルサレムから逃げ出してしまっているのです。主が十字架にお架かりになり給うた時に、その場から逃げ出してしまっているのです。
他の教派の批判をする前に、わたしたちは自分自身の内側を改め続けなければならないのではないでしょうか。そして、他の教派よりも自らの教派が上位にあるなどと決して思わないことが、あの主の十字架への信仰なのではないでしょうか。
あの金曜日、十字架に架けられている主イエスへの信仰を告白したのは、横に立てられた十字架に架けられていた罪人だけでした。
主なる神よ
あなたの御子主イエス・キリストを心から受け容れることが出来る知恵と力と信仰をお与え下さい。
主イエス・キリストの御名によって、アーメン。