いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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最高責任者の責任

2007-08-19 | Weblog

 最高裁の上告棄却・不受理が決定されて、高裁の判決が確定した直後に、その判決に対して「冤罪だ」と高地主教は発言したことは、様々な情報を総合して考えると間違いなさそうだが、だとしたらここには途轍もなく大きな問題があります。「冤罪」という言葉を『広辞苑』では、「無実の罪。ぬれぎぬ。」と説明しています。つまり、高地主教は、高裁が事実であるということを明らかにしていることをすべて否定していることになるわけですが、「FH司祭問題を駁す」というブログに「糾す会」が書いているように、高地主教は「裁判の傍聴もせず、裁判記録の閲覧もしていない」のが事実であるとすれば、あまりにも非常識であると言わざるを得ません。

 これが日本聖公会が持っている「権威主義」の表れてあるとしたら、まさに法治国家としての日本の社会に対する挑戦であるとしか思えません。高裁がどのように考えているのかということをまったく知らずに、「冤罪」という言葉を使っています。同時に、裁判記録に残されている被害者の証言については、それを一切知ることなく全面的に否定されていることは、被害者が日本聖公会京都教区の信徒であるということからして、牧会という視点からも大きな間違いを犯しているとしか思えません。
 教区内の信徒はすべて、主教の「羊」だというのが日本聖公会の教会論であると思われます。ですから、「堅信礼」は主教自身が執行しているのではないでしょうか。実に不可思議なことだと、どなたもがお考えになるのではないでしょうか。それとも、高地主教は、ご自身が手にしている司牧杖は司祭や執事に対するものであって、信徒に対するものではないとお考えなのでしょうか。

 この夏の間、特に昨日までの一週間、東京は猛暑でした。お陰で私も体調を悪くしてしまいましたし、友人も東京で熱射病に苦しんでいるようですが、秋になったら裁判記録を閲覧しに行くことにしました。既に、有志の方によって報告されているように、裁判記録には事件の実態が赤裸々に記されているようです。裁判を傍聴することもなく、その後、裁判記録を閲覧することもしていない高地主教は、本当に司牧者賭しての自覚がおありなのでしょうか。一般的に言われている「社会的・道義的責任」ということをどうお考えなのでしょうか。
 民事裁判を提訴した被害者以外の被害者は、この事件に関しては黙っていて欲しいと思っていて、教会の名前さえ判って欲しくないと思っているということを理由に、この事件の解決をすべてご自分に任せて欲しいとおっしゃっているそうですが、これにも司牧者としての大きな間違いがあると思えます。それは、そう発言することによって、複数の被害者の間に明らかな差別を行っているからです。民事裁判を起こした被害者は法廷の証言台に立つという勇気と痛みを背負われた方であるにもかかわらず、そのことをまったく無視してしまっていらっしゃるのですから、他の被害者との間に差を認めていることは間違いありません。
 日本聖公会には、信徒の中にもヒエラルヒー(ハイアラキー)があるのでしょうか。その根拠は、年齢ですか?信徒になってからの年数ですか?何代目のクリスチャンかということですか?それとも社会的地位ですか?年収の差ですか?学歴ですか?それとも男か女かの相異ですか?

 日本聖公会を外から拝見していると、ものすごく不思議な教派に見えます。
 これだけの重大な問題を抱えていながら、問題はすべて解決されているかのように思っている方がいらっしゃったり、正式な審判の場では、一切このことが議論されていないにも関わらず、この事件は解決しているかのようにお考えになっている方がいらっしゃるようですね。今日、礼拝の後で教会の仲間とこのことを少し話をしてきました。犯罪を犯罪として認識していらっしゃらないことが一番の問題だろうというのが、大方の意見でした。
 皆さんはどのようにお考えでしょうか。とりあえず「糾す会」がこの事件に対する京都教区の対応に対して問題提起しなければ、この問題はお蔵入りされてしまって、被害者とそのご家族は絶望と苦悩の日々を送り続けられていたであろうことは、誰にも想像できることだと思います。だとすれば、いまだに加害者である司祭に正式な謝罪をさせていない教区の最高責任者には、大きな責任があるのではないでしょうか。