書いてるうちに止まらなくなった?「ひとこと感想」その6。
長いメモが残っていた。
「意外なことに、ローマ市内の実在の刑務所内で、演劇実習!として司法精神病院の患者さんたち(受刑者)が演じている・・・といったことよりも、とにかくお芝居“ジュリアス・シーザー”として面白いモノを観たと思った。」
「私はこれほど生々しい“ジュリアス・シーザー”(byシェークスピア)を観たことがなかった気がする。この“生々しさ”は、シェークスピアがどうこうとか歴史劇(それもローマが舞台!)が云々とかいう前に、“権力(と正義?)をめぐる群像劇”として、今でもこのお芝居が正に“現役”であることを、目の前で見せてくれているから・・・そんなことも考えた」
「“人間”と“権力”と“欲望”についてこの演じ手たちは殆どプロ?で、もしそれらを日常として、身に染み込ませてこれまで生きてきたのだとしたら・・・素晴らしい演者たちで当然なのかも」
「面白いのは、獄中劇である“ジュリアス・シーザー”を演じている時はあれほど生き生きしている人たちが、映画の中の囚人を演じる場面に戻ると、案外素朴でたどたどしく?見えたこと(^^)。逆に言えば、それぞれがちゃんと二役を演じているということ。きっと、自分以外の(役柄としての?)囚人を演じるのは、ブルータス・キャシアス・アントニウスなんかを演じるより、ずっと難しいコトなんだろな~」
昔、イタリアでは誰しも美声で歌が上手いので、たまにいる下手なヒトが珍しがられて歌手になる・・・なあんてジョークを聞いたことがあるけれど、演技についても似たようなことが言われてたりして・・・とか(^^)。
映画のラスト・クレジットでは、出演した囚人たち(一応所謂“凶悪犯”と呼ばれそうな人が多かった)のその後が知らされる。いろんな人がいてよく覚えていないけれど、主役級の1人は(恩赦を受けて?)プロの俳優になったという。他の人たちも、それまでよりは事態が良い方に向ったり、少なくともそれまでより悪いことにはなっていなかったと思う。
「演劇実習」自体はその刑務所では毎年行われていて、囚人たちがさまざまな戯曲を練習し、映画と同じように、所内の劇場!で一般観客に披露されるのだという。なぜソンナコトを(志願を募って?)わざわざ囚人たちにさせるのか・・・ということは、映画を観ていてわかる気がした。
何より、かの「ジュリアス・シーザー」の登場人物を演じるのは、イタリアの人たちにとっては、私たち日本人が「赤穂浪士」や「曾根崎心中」、「白波五人男」(これは実際私の高校時代、文化祭の演目の1つだった)を演じるようなもの。最初はとっつきにくくても、やがては心地よく虚構を演じる時間が訪れる・・・そんな風なコトなのかもしれない。
巨匠と言われる作り手(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟)の手腕は勿論のこと、演じ手たちが上手だったのも、やっぱり当然のことだったのかも。
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