眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

 低空飛行で文字から音へ ・・・・・ 「地に埋もれて」 (あさのあつこ著)

2006-09-07 13:19:06 | その他
このところ、本が全く読めない。エネルギーがあまりに足りないと、内容が全く把握できなくなって眼が文字を追うこと自体困難になったりするけれど、今回はそうではなくて、ただ単に「忙しすぎる」のだと思う。

この一年半ほどは、自主上映の映画を観に行く回数が増え、その片方ではこういう文章を書くようにもなり、スローにしかコトが運べない私にとっては、時間は足りなくなる一方だ。子どもがある程度の年齢になってからは、平均二年に一度は繰り返していた引っ越しが無くなったこともあって、仕事もしていない私は、自分が「時間だけはある人間」だと勝手に思い込んでいたので、自分で招いた事態とはいえ、なんだか・・・困惑している。昔に比べたら、自分がはるかに元気になりつつある所為で起きていることなので、喜ぶべきなのかもしれないとは思うのだけれど。それに、この程度の忙しさで「忙しすぎる」なんて言ったら、聞いた人が呆れるだろうとも。が、しかし、私には私なりの事情が無いわけでもないのだ。

過去に抱えていた様々な問題が整理されていくに従って、私は生きていることが少しずつ楽になってきたけれど、色々な「症状」は消えても、「うつ」の問題だけは残ったままになっている。何かに「依存」するというのは厄介なもので、一つが片付きかけると別の形で問題が出てくるのに自分でもつくづく嫌気がさしていたのを思えば、「エネルギーが切れかける」くらい大したことではないような気もするけれど、それでも「生活するのに必要なだけの精神的エネルギーが供給されない状態」というのは、一生活人としては困ることが多い。

ただ、私は「何も出来なくなる」状態に、普通の人よりは慣れているかもしれない。私だけでなく家族も、私が自分の部屋から出てこなくなったり寝込んでしまったりすることに、慣れているように見える。一応主婦の立場にいる私抜きでも、なんとか日々の生活が回っていくように皆が協力するという暗黙の了解のようなものが、家族の間に出来てしまっているのを感じたりもする。

秋から冬にかけては、エネルギーレベルも全体的な体調自体も低下し易いので、その時期には家から出なくても暮らせるような工夫もする。最近は年齢的なものもあってか、低気圧が近づいてくると、自分が明らかにガタガタになるのがワカル。台風や集中豪雨ともなると、風速や雨量と同じくらいその「低気圧ぶり」が問題で、その行方、移動速度や向かう方向に個人的関心を持つ。

食料品や日用雑貨は、一年を通じて宅配に頼っているし、それ以外にも、とにかくキャンセルしにくいような約束はしないこと、電話に出られない時は相手にそう言って断ること、それで続かない人間関係はそこまでのものとして諦めること、そもそもなるべく予定は立てずにその時出来ることを大事にすること等々、いつの間にか習慣になってしまった「やや非常識」な私の常識が、今の私の日常を支えている。私が総てにスローな生活をしているのは、必要に迫られ、なるべくしてなった結果なのだ。

それなのに一昨年の秋、自分のそういう秋冬の状態が解っていながら、ふと「部屋から出られなくても出来るような一人の作業で、しかも何か気が晴れるようなコトがないだろうか・・・」と思ったのがきっかけで、その時募集していた「音訳者養成講座」に応募してしまった。10月から2月にかけて週1回の講義を受けなければならないという規定で、しかも2回休んだら受講資格を失うなどという、どう考えても自分には無理な代物に、あの時なぜ手を出してしまったのだろう。「魔が差した」というのはああいうのを言うんだ・・・と、後からつくづく思ったけれど。

まあ、無理なら無理でいいや・・・と自分に言い聞かせて行き始めた講座は、私の予想以上にハードなもので、「ボランティアとは言っても、真剣に取り組めない人は今すぐ止めてくださった方が良いです。」などと言われると、「私なんて、さっさと止めた方が世のためヒトのためかも・・・」などと、ウツっぽい頭は半ば本気で考えたりした。

「音訳」というのは、本やその他の印刷物を、視力障害のある人が「耳から聞ける」状態にすることを指している。活字を点字にするのが「点訳」で、音に変換するのが「音訳」だそうで、かつては「朗読奉仕」などとも言ったらしい。ボランティア・グループの名前には「朗読奉仕者友の会」などという言葉も付いている。私は「朗読」にも「奉仕」にもあまり興味は無かった。ただ、「声を出して何かを読む」ことが、シオレテイル時期の自分にとっては悪くない作業のような気がしただけだったと思う。実際には、「点字図書館が購入する本の中から随時自分で選んで、貸与されているデッキでテープに吹き込む」のが主な仕事だった。

もっとも、「録音」を開始出来るようになるまでには、まず「読めない文字」が無くなるまで調べることが必要になる。本によっては、この「調査」に相当な時間が掛かる。ルビがふってある本はとても助かるし、小説のようなフィクションは固有名詞が少ないので、読み方を確認する作業も少なくて済むと言われた。(それでも時代小説や凝った作りのファンタジーになると、どう読んだらいいのかワカラナイ言葉が沢山出て来そうだった。)ノンフィクション関係だと、固有名詞の嵐にホンロウされている気分になってくる。ものを読む際、人の眼は案外「音」としては認識せずに、表意文字である漢字を意味だけ捉えて読んでいるものなのだということを、再認識させられる。そこに、挿絵や写真、表にグラフ・・・などとなってくると、「武器防具無しのレベル1」には一歩も動けない状態になるだろうと思い、今のところはそういう素材には近寄れない状態だ。

それでも、最近はPCの検索機能のお蔭で「調査」は格段に楽になったと思うので、文句は言えない。問題はその後。なんとか「録音」に取りかかれるようになって、窓を閉め切り、セミや工事や救急車や選挙、場所によっては右翼や「ワラビモチ~」その他にも何とか対処して、些細な雑音やトチリの度に録音し直し・・・などとやっていると、この「音訳」という作業全体から感じられる「エネルギー効率の悪さ」がほとほとイヤになってくる。テープの利用者はこんなこと気にも留めないだろうなというような細かいコトに、どうしてこれほど神経を尖らせなければならないのだろうと、エネルギー不足の私などは不思議でたまらなくなる。

几帳面というか、ある種「強迫的」な作業に耐えられるヒトでないと、この「音訳」には向かないらしいということは、一冊仕上がるまでに嫌というほど判った。それなのに、今のところ私はまだこのメンドクサイ世界から出て行く気にはなれずにいる。市の税金を使って無料で4ヶ月もの講座を受けさせてもらったので、せめて何冊か仕上げてから止めようと思ったのもあるけれど、本当はもっと違う理由もありそうな気がしている。

「音訳という作業は、私の内面世界には全く関わってこない。」

養成講座の同期生や研修会で出会う「先輩」との人間関係も、あくまで「外界」での付き合いになる。私にとっては、そう言う関係、付き合い方というのは、実はかなり珍しい。夫の転職の度に繰り返した引っ越し、子どもが二人とも小学校の早い段階で学校を止めてしまったことなど、地域ともPTAとも殆ど無縁の私は、所謂「何かを介しての浅い付き合い」は今となると無くなってしまっているのだ。そのこと自体は「うつ」のためにはプラスなのだけれど、「普通に暮らしている」人達の世界との接点があるのもいいかもしれない・・・と、この歳になって、私もどこかで感じ始めたのかも知れない。

という訳で、ボヤキながらも最近テープにしたのが、「地に埋もれて」という小説だった。携帯サイトに連載されたという、いかにも若い人向きの、小説と言うよりは非常に良くできた映画の脚本、少女マンガの原作を思わせるようなこの作品を、私は音訳作業の必要上、少なくとも5回は読んだことになる。(私は、映画もマンガも本と同じくらい大事に思っているので、貶しているのではなく、読んだ後そういう風に感じるというだけのことだ。)

読み方に自信が持てない言葉を一つ一つ、辞書やPCで調べる作業というのは、私の場合、何だか美しい絵をわざわざジグソーパズルのようにバラバラにして、それをモタモタと再度組み合わせているような感じなので、きっと落っこちて私の頭の中に小さなカケラが残ってしまったのだろう。「地に埋もれて」の中に出てくる、恐らくは「人外の者」である美しい少年が女主人公に向かって言った言葉が、頭から離れなくなってしまった。

「死んでから、忘れられてしまう人は可哀想だ・・・」

ふと思った。「私は昔から、亡くなった人のことを忘れるということが、実は解らない人間だったのかもしれない・・・。」私にとってはごく当たり前のことなので、これまで特に意識したことはなかった。そもそも、子どもの頃、見たものを殆どすべてと言っていいほど記憶してしまう自分に気がついて以来、私はその事が本質的な意味で自分のプラスになった経験が無いような気がしている。自分が現実の中ではあまり「役に立たない」人間らしいという事にも、早くから気付いていたため、余計に「忘れない」ことなど大したことではないと思ってきた。

ところがこの小説では、「亡くなった人を忘れない」ことを、とても重要なこととして扱ってくれているのである。

私が先日このブログに書いた「ルノアールの少女」という文章は、私がこの「地に埋もれて」という小説に、「音訳」作業の素材などという身も蓋もないくらい現実的な形で出会っていなかったら、もっと違った書かれ方をしたのかもしれないと、書き上げた後になって初めて気がついた。


当時は、あの女の子の死を知っても、私はそれを自分の退院と何らかの関係があったのではないか・・・などとは思わなかった。自分自身、そういう不遜なことを考えるような状態にもなかった。しかし歳月を経た今となると、私がたったの2ヶ月で退院し、また病棟でひとりに戻ったような気持ちに彼女がもしもなったのだとしたら、全く無関係だったとは言い切れないものがあるのを感じる。当時の私は淡々と受け止めたけれど、今の私にはそれはやはり辛いことだ。

その後、例えば「不登校」関係の親同士の話の中で、私は彼女のことを口にしたことが何度かあった。大抵は、彼女に似た立場の女の子を持った親御さんに対して、親から見える現実と子どもの側から見える現実とのギャップを説明するためだったけれど、どういう話し方をしても、彼女があまりにも「可哀想な女の子」とだけ聞こえてしまうことも、わたしには悲しかった。私の知っている彼女は、当然と言えば当然のことながら、「悲惨な目にあった可哀想な子ども」がそのすべてではなかったから。

「地に埋もれて」という小説は、先にも書いたように、私にとっては、もしもマンガか映画として眼にしていたら忘れられない印象を残しただろう・・・というような作品だった。けれど小説として一度読んだだけだったら、そこまで私の記憶には残らなかっただろうと思う。

ところが、作業の必要に迫られて、つまり本来の自分の欲求からではなしにああも何度も読み返した結果、突然私の中に「私に見えたままの彼女を書き残したい」という思いが湧き上がってきたらしい。どういう風に書いたらいいのか判らなくて、これまでそっと仕舞ってあった彼女との風景が、ひとつひとつはっきりと目の前に浮かんで来た。

今となると、あの「ルノワールの少女」は私の中にしかいない。ルノワール作の実物の絵を探し出したとしても、それは既に全く別物だろうという予感がする。私は、まだ私が記憶の中で会えるうちに、一度だけでも彼女を「写真」に撮っておきたくなったのだと思う。「忘れるということを知らない」筈の人だった私の記憶も、すこしずつ薄れてきていると最近は感じ始めている。当時、会って話をする度に私の前に姿を現した、あの夢見るような瞳をした「ルノワールの少女」のままの彼女を。

しかし・・・結局の所、上手く撮れたかどうかは判らない。私の書いたあの「ルノアールの少女」が、私の記憶にあるような明るさを感じさせてくれているのか、自分ではよく判らないのだ。もしも、それでもずいぶん暗い話に見えるのだとしたら、私は彼女に申し訳なく思う。けれど、私としてはあれで精一杯だろうということも、現実の彼女は一瞬で理解してくれそうな人だった・・・。


「私の内面世界には全く関わってこない」筈だった「音訳」は、思いもよらなかった影響を私に与えたことになる。「外界」から「内面」へのルートも、もしかしたらその逆も、私などには想像もつかない所を通って築かれるものなのかも知れないと、少し謙虚になった私は漸く思い始めている。


という訳で、私は今「地に埋もれて」のテープが、校正担当者から戻ってくるのを待っている。恐らくは、修正箇所の指摘が山のように書き込まれた書類と共に。(そしてまた、次の日から私のボヤキが始まるのだろう。)





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5 コメント

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福音 (お茶屋)
2006-09-09 07:55:24
ボランティア好きじゃないけど、朗読ボランティアはやってみたいと思ったことがありました。大変そうなので、実際はやりませんでしたが。

先々母が寝たきりになっても楽しめるように、本でもよんじゃるかと思っているのですが、実際はそうもいかないだろうと予測していたところ、ムーマさんの書込みで、「そうかテープを借りればいいのだ!」と福音を得た感じ(笑)。

セミの声が交じっていてもいいのになあ。でも、車の音は嫌。わがままでスミマセン。
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私も借りて聴くつもり! (ムーマ)
2006-09-09 16:25:24
どうぞどうぞ、ずーっと先の事だと思いますが、その時は借りてやって下さい(本気!)。



私も、自分が読めなくなったら、借りて聴きたいと思ってます。(年を取る楽しみが増えた感じ。私はともかく、本当に皆さん上手なんですよ~。)



セミくらいは、微かなら構わないのかも。利用者の方から「犬の声が・・・」っていう話を聞いたこともあります。実は慣れるに従って、私も「取り直し」を避ける気分になりつつあります。(いいよね~)
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あ、でも・・・ (ムーマ)
2006-09-10 07:54:23
所謂「音訳図書」、つまりボランティアが録音したテープっていうのは点字図書館の管轄で、「視力障害」のある人でないと貸し出ししないかも。



私が年取ったら借りて聴こうと思っているのは、普通の図書館にある、プロの方が読んで市販されてる(多分)ようなテープのことなんです。



実は、私も他の人の「音訳」が聴きたくて(一体どういう風に読めばいいのかワカラナイもんで)、借りる方法がないものかと相談しましたがダメでした。「私はともかく、皆さん上手なんですよ~」というのは、勇をふるって?(ほんとは泣く泣く)初心者のくせに、他の人の「校正」を引き受けたから。著作権の関係で、音訳図書を一般人が聴く方法は、目下の所はそれだけなのだそうです。(あ~不便)



前回のコメントで、紛らわしい事書いちゃってゴメンナサイ。(高齢者の場合とか、借りられるような規定もありそうな気がしたので・・・でも、まだ確認はしてません。)
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凄い (イエローフロッグフィッシュ)
2011-09-07 20:49:34
ム~マさん貴方は、良いものに出会われたように思います。さすが、アンテナ高いですね。確かに大変であろ~と・・・・感心色々な角度から自分の記憶が、どれぐらい修正され自分の都合のいいように成っているのかと、思うこのごろ、死んだ人を、忘れない自信がありません。忘れないけど、良いように変えていることを知り謙虚になろうと、私も思っています。でも聴いてみたいなあ~どんなのかしら。
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早々にリタイヤしました(汗)。 (ムーマ)
2011-09-08 01:42:00
>イエローフロッグフィッシュさ~ん

実は「音訳」は本を4冊テープに吹き込んだだけでやめてしまいました。
自宅での作業の難しさもあるんですが、人間関係の難しさもあって・・・。

その後はしばらく、視覚障害のある方のリクエストに応じて、その場で実際に読み上げる(リーディング・マシンの代わりですね)「対面読書」をさせてもらったりしました。
でもそれも、最近は体力的に追いつかなくて「長期休業」状態です。

でも、「読む」より「聞く」方がラク・・・って、特に最近、私自身も思うようになってきました。
視力障害という程じゃあなくても、強度近視と年相応の老眼だと、本を長時間没頭して読むのは難しくなって・・・「聞く」方の環境がこの先整備されていくといいなあって思っているところです。

「人の記憶」については、「いいこと」だけが残ればいいや・・・って思うようになりました。
忘れること(人)もあるだろうし、自分の都合の良いように作り変えたりもするだろうけど、どうせそのうちまた「向こう側」で会うこともあるだろうから、その時謝ればいいよねって(笑)。。
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