眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

「死に後れる」ということ ・・・・・ 『最後の忠臣蔵』

2011-03-04 18:30:02 | 映画・本

(この記事は映画の結末に触れています。未見の方はご注意下さい。)

討ち入りから切腹に至る「忠臣蔵」の本筋とは別の、「もうひとつの忠臣蔵」を描いた映画と聞いて、本筋にすら疎い私だけれど、「とにかくあの、討ち入り前に姿を消したとかいう人と、討ち入りの後で結果の伝令に選ばれた?人の話みたい・・・。」ということで、物珍しさに釣られて単純な好奇心から観にいった。

ストーリーを少し書くと、「伝令に選ばれた」人(寺坂吉右衛門)は「生き延びて後世に真実を伝え、遺族を援助せよ。」との、「姿を消した」人(瀬尾孫左衛門)は「生まれてくる子どもを守ってやってほしい。」との、主内蔵助からの直接の命を各々受けていた。

二人はそれぞれの使命を、16年かかって必死で果たす。

お互いが元々無二の友という間柄だったにも関わらず、忘れ形見である可音の存在を秘するために、どれほど責められようと孫左衞門は真実を明かさない。やがて豪商の嫡男に見初められた可音は、迷いの後とうとう嫁ぐことを承諾。その輿入れを見届けた孫左衛門は、漸く自分の「使命」が終わったのを知る・・・。映画はその間の人々の迷い、苦しみ、ささやかな喜びを、なんと文楽の「曽根崎心中」!を引き合いに、丁寧に描いていく。

「もうひとつの忠臣蔵」としては、この輿入れの行列の場面までが、主要な部分ということになるのかもしれない。けれど、この映画で私にとって最も鮮烈だったのは、その先、孫左衛門の最後の選択だった。

可音を見届けた後、孫左衛門は16年の間世を忍んでの生活を助けてくれたゆう(元夕霧太夫)の元へ最後の挨拶に出向く。来訪を予期していたゆうは準備を整え、長年孫左衛門に抱いていた思いを告げ、この先は自分と一緒に生きて欲しいと懇願する。

私はこの時、孫左衛門は彼女の思いを受け入れないと、当然のように思った。それは「歌舞伎」というのはそういうものだ・・・という風な気持ちからではなかった。(大体、私は歌舞伎の何たるかも知らない。)ただ、駕籠から降りた白無垢の可音を見つめる孫左衛門の表情や、急に影が薄くなったかのように頼りなげになった風情を見て、「ああこの人は、不可能かとも思えた困難な仕事を、漸く終えることができたんだ。この後は当然、元居た場所に戻っていくんだな・・・。」とでもいうような安堵とも悲しみともつかぬ思いが、私の中にも満ちてきたのだ。

この人は、あの時主と共に討ち入って、その後は共に切腹して果てるべき人だった。本人は既に自分の道をそういうものと思い定めていたのだ。だから、去る間際もそう言って主の元を離れた。使命を果たした暁には、本来の自分の場所(つまり主の元)に戻ってくるのが当然で、それ以外の道はそもそもあり得なかった・・・。

「曾根崎心中」の中に、「後れまいぞ」という言葉があったと思う。自分一人だけ死に損なってはいけない・・・と思う対象が、「恋」かはたまた主君への「忠義」かでは、随分違う(そもそも同列に並べるようなものじゃない)と私などは思うけれど、それでも「死に後れまい。私のあるべき場所はあの方の傍。あの方と共に道を行くことが、自分という人間のすべてなのだ。」という思いの堅固さは、理屈抜きに私の中にも存在するものなのだ・・・と、私は孫左右衞門の最期を見ながら初めて気づいたのだと思う。この時の驚き(と納得)を、なんと表現したらいいかわからない。

ここからは、映画とは無関係の話になる。

以前にも書いたことだけれど、私の父方の伯父で、終戦直後に戦地で自殺した人がいる。その理由を父に訊いたとき、父は「戦争で死ぬことが、自分の唯一の役目だと思って生きてきた。戦争が終わり、自分はもう生きている必要生が無くなった。だから死のうと思ったんだよ。」。そして、「あの時は、もうひとりの兄も自分も、ああ先を越された・・・と思った。」とつけ加えた。

私はその時の父との会話がきっかけで、「洗脳」やそのための教育といった事柄について、折に触れて考えるようになった。私には、伯父が「教育による洗脳」の被害者のように見えたのだと思う。それでも、そんなにも極端なことをそんなにも単純に信じてしまえることが、私には正直不可解だった。どんなに「教育」が騒がしくても、「ソンナコト言ってもなあ・・・」と思った人が当時も大勢いた筈だと。

ところが今回この映画を観て、私は自分の中にも既に、そういった「洗脳」をたやすく受け入れてしまいそうな資質が出来上がってしまっているのを痛感させられたのだと思う。伯父の死は、教育だの洗脳だのといった「単純な話」では確かになかったのだ。当たり前というなら本当に当たり前のことなのだけれど、伯父たちも、父も、そしておそらく私自身も、「"果たすべき役割"が終わったと思った時、そのまま死を選ぶ」ような思想を受け入れやすい素地のある人間だったのだ・・・と。

「忠臣蔵」からエライところへ話が行ってしまった。でも、この映画の孫左衛門の最後の選択を、全く疑わなかった自分に、私は本当にショックを受けたのだ。

私もいつか「映画は映画。」で「歌舞伎は歌舞伎。」と、ごく自然に思える観客になるんだろうか。でも、そうなったら映画のことを書く必要はなくなるのかも・・・などと、ぼんやり考えながら家に帰ったのを思い出す。

 

 


「"洗脳"という嵐」
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/1f0c7d43f797f65592d0c290766546c7

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2 コメント

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報告とお礼に参上しました。 (間借り人ヤマ)
2011-03-12 20:34:37
ムーマさん、こんにちは。
報告とお礼に参上する前に御訪問いただき恐縮です。

拙サイトの掲示板での返信にも書いたように
「後れまいぞ」への考察を非常に興味深く拝読しました。
ムーマさんの感想のほうが本来というか、
実に真っ当な気がします。
どうもありがとうございました。
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巨大地震が・・・ (ムーマ)
2011-03-13 15:40:36
>ヤマさ~ん、ようこそ~。

「実に真っ当」なあんて言っていただくとハズカシイです。
どうもありがとうございます(ぺこり)。

全然関係ない話なんですが、この2日間、巨大地震の映像がチラついて
眼もアタマもソッチに行きっぱなしになってます。
被災された方々や救援・支援に奔走している方々のことを思うと、なんだか涙が出そうになります。

自分の中で、「被災地の現実(映像)」と「自分の現実(リアル)」と
それに「(日常であったはずの)さまざまな映画の現実(映像)」がバラバラに存在しているようで
これまで通りに暮らしていていいのかなあ・・・などと思ったりもします。

そんな時なので、ヤマさんが褒めて下さった?のは
余計に嬉しかったです。
どうもありがとうございました。
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