眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

ショウコさんの戦争 ・・・・・ 『紙屋悦子の青春』 

2010-08-24 09:45:31 | 人の記憶

ショウコさんは82歳になった。

長い間故郷を離れていても、ショウコさんは生粋の薩摩女性(「さつまおごじょ」と言うんだそうな)だ。ショウコさんの中には、娘の頃鹿児島で暮らした日々が今も生きているのが見える。


ショウコさんは早くに両親を亡くしている。

お母さんはショウコさんの弟さんが生まれて間もなく、腎結核で亡くなった。その後抗生剤が手に入るようになった時、町医者だったお父さんは「これがあれば死なずに済んだのに・・・」と何度も口にしたという。

けれどそのお父さんも、終戦の年の春、やはり結核で亡くなった。


ショウコさんは3人兄弟の長女で、1つ歳下の妹と、歳の離れた弟と、父親の妹である独身の叔母さんと共に鹿児島空襲を経験し、お父さんの生家のある国分(ショウコさん曰く「花は霧島、タバコは~っていうの知らない? あのコクブ。」)に疎開したりしながら、戦中戦後の混乱の時期を生き延びた。

当時は亡くなった母親の妹に当たる人が義母になっていたが、この人も病身で「労働」に類することはさせられず、女学校を卒業したショウコさんは父方の叔母さんと一緒に畑を作り、サツマイモ(「鹿児島じゃ唐芋・カライモっていうのよ。」)の収穫の時なども、女手で代わる代わる大八車を引いたという。

「○○○○(ショウコさんの旧姓)の女衆は、男よりよう働くって言われたんよ。」と、後にその叔母さんから聞いたことがある。

ショウコさん自身は、そういったことを口にしなかった。(自慢に聞こえそうなことは一切、私はショウコさんの口から聞いたことがない。)

私が何度か繰り返し聞いたのは、もう少し違うこと・・・あの「戦争」当時の情景そのものだけだ。


ショウコさんは言う。

「空襲の時も、うちには爆弾というか、ああいったものは落ちなかったの。帰ってみたら、ガラスは全部割れてたけどね。」

ショウコさんが当時住んでいた「加治屋町」は鹿児島市の中心部で、「昔はセゴどん(西郷隆盛)と大久保どん(大久保利通)が一緒にご飯食べてたりしたとこ」だった。

「でも、ほんの数軒向こう、同じ町内のそこかしこがやられてたわね。うちみたいに何ともないとこと、もうめちゃくちゃなとことが、1軒ごとに違うというか。近くに落ちたか落ちなかったか、それでもう・・・大違い。」

「うちはガラス以外は何ともなかった。天井なんかから、その瞬間に落ちてくるのかしらね。埃で真っ白になってたけど。」


「でもねえ・・・。」

ショウコさんは、一瞬黙る。

「B29って言うの? あれはほんとに大きいのよ。もう、もの凄く大きいの。田舎(国分)の方にいる時にも空襲があって、叔母さんと一緒に逃げたんだけど・・・」

ショウコさんの眼が大きくなる。

「私たちの上を追いかけてきたのかと思ったら、全然爆弾なんて落とさなくて・・・。」

「何のことはない、図体が大きいから方向転換するためにも距離が要るんで、田舎の上空の方にまで来たみたいに見えただけ。ぐ~んって向きを変えて、飛んで行っちゃった。・・・なんだかこっちをバカにしてるみたいに。」

ショウコさんはちょっと悔しそうだった。


「近所の知り合いのおじさんに後から聞いたんだけど、おじさんは汽車に乗ってて機銃掃射っていうの?あれに遭って、もう急いで降りて、物陰に隠れるようにして伏せたんですって。」

「そしたら見てる前で、汽車の窓を狙ってダダダダダーッて撃っていったって。隠れようとしてる人が見つかると、ほんとに上手に狙い撃ちされたって。」

「あっち(米軍)の人たちも、面白がってやってるようにしか思えなかったって。」

そして最後にひとこと、こう付け加えた。

「あの人たち(米兵)もイヤなことがいっぱいあって、ストレスみたいなものがあったんでしょうね。戦争してるんだから。」



昭和3年生まれのショウコさんは、女学校を卒業した後、本当は医者になりたかったのだという。

「鹿児島では昔から『都会に出る』っていうと、大体東京のことなのよ。明治維新の時に、沢山の人があっちへ行ったんでしょうね。」

「でもね、東京に住んでた親戚がみんな、疎開というか、戦争で田舎に戻ってきてしまってたでしょ? 医専とかに進学しようにも、つてが無くなってて、かといって若い娘を1人で見ず知らずの都会に出すわけにもいかないから・・・。」


その後、おそらくはその親戚筋の紹介か何かで、ショウコさんは結婚したのだと思う。

相手も当然鹿児島の人だったが、数年後、ショウコさんの母方の親戚の依頼で岡山での仕事に就くことになり、ショウコさんもその後50年以上岡山で暮らしてきた。


私はショウコさんの言葉に"なまり"が全く感じられないのが不思議で、ある時尋ねてみると、意外な返事が返ってきた。

「丁度私が小学生の頃に、『標準語』を学校できちんと教えようっていう教育方針になったんでしょうね。とにかく学校で習ったの。」

鹿児島のおばあさんたちが、薩摩弁でお互い話しているのを傍で聞いていても、文字通り『ひと言も解らない』のを経験していた私は、つい「バイリンガルですね。」と言うと、ショウコさんはちょっと小首を傾げてから、あっさり「そうね。」と頷いた。ショウコさんもそういうおばあさんたちとの会話でだけは、異国語のような薩摩弁を当然のように口にしていた。


ショウコさんよりずっと年上だった叔母さんも、私と話す時はきれいな標準語だった。口数の多い人ではなく、考え考え話す風情が落ち着いた大人という感じで、私は好感を持った。

だから余計にかもしれない。叔母さんが晩年、白内障の手術のために入院したときの話は、今も強く印象に残っている。


叔母さんは言った。

「入院してみたら、女学校の時の同級生もたまたま同じ眼科に入院してたの。」

「もう嬉しくて。入院中は病室でよくお喋りしたのよ。」

懐かしいお友だちに会えて良かったですねと私が言うと、叔母さんは首を横に振った。

「もちろん懐かしいんだけど、何より言葉が一緒でしょ。もう、何も考えずに話せるのが本当に嬉しくて、楽しくて。」

ショウコさんより上の世代の人にとっては、標準語は外国語そのものだったのかもしれない。


その叔母さんは生涯独身で、ミルクも無い時代に、生後4ヶ月で母親を亡くしたショウコさんの弟を必死で育て、その後も「人の世話ばかりして」生きた人だった。



今は叔母さんも、長く連れ添ったご主人も既に亡く、ショウコさん自身もうおばあさんと呼ばれるに相応しい歳になっている。

それでも私は、初めて会ってから30年の間に、折にふれてショウコさんが語った「戦争中の話」が忘れられない。


お茶の好きなショウコさんが知覧茶を手にした時、必ずといっていいほど口にした言葉。

「お茶も有名なんだけど、知覧からは昔、飛行機が飛んだのよ、特攻とかいって・・・。」


或いは、ショウコさんのご主人の妹さんの話。

仕事で「南方」の支社に転勤した夫と一緒に現地で暮らし、戦争が始まった際、一足先に内地に帰っていなさいという言葉に「文字通り後ろ髪を引かれる思いで」飛行場で別れたきり、妹さんは未亡人になってしまったという。

そもそもショウコさんのご主人自身、2歳下のたった1人の弟さんは戦死している。



そんな話を聞きながら、昭和3年生まれのショウコさんには、物心つく頃から既に、身の回りにはいつも戦争の気配があったのだろう・・・と、私はいつも感じていた。

だからもっと早くこうして書いておけば、聞いたことをより多く、もう少し正確に?書くことが出来たはずなのに・・・私は、そうはしなかった。


ショウコさんは、(たとえ空襲で焼け出されたのでなくても)あの時代を生き、あの戦争の直接の被害を受けた1人だと私は思う。だからこそ、次の世代の私などに、あれほどいろいろなことを話してくれたのだと。

けれど私は私で、両親が戦争で被った精神的な傷に巻き込まれて育ったためだろうか、ショウコさんから聞いたことを文字にする気に、今までどうしてもなれないでいた。


だから、ショウコさんから聞いた時は、あれほど鮮烈!に感じた数々の記憶も、今では朧気にしか思い出せないものが多い。時間は、ショウコさんにも私にも平等に、同じ速度で過ぎていったのだから、当然と言えば正に当然のことだ。


でも今、私はショウコさんに悪いことをしてしまった気がしている。



『紙屋悦子の青春』という映画を、何年か前に観た。

昭和20年の鹿児島を舞台に、慎ましく暮らすある若い女性の日常を描いた作品だけれど、映画の序盤から私は、当時のショウコさんの姿を想像せずにはいられなかった。

映画のヒロイン悦子は両親が既に亡く、優しく頼りになる兄と、女学校の元同級生である仲良しの兄嫁と、3人で暮らしている。

薩摩隼人と言う言葉のイメージを変えるような兄の柔らかい優しさと、作り手のユーモアを交えた穏やかで気品のある語り口から、私は心のどこかで終始、ショウコさんの日常もこうあってほしかった・・・とでもいったような思いに駆られたのかもしれない。


考えてみると、私はショウコさんのお父さんが亡くなる時の話を聞いたことがない。それでも昭和20年の5月という言葉を微かに覚えているので、その記憶が正しければ、鹿児島空襲(6月17日)の直前だったことになる。

けれど私には、淡々と「戦争中」(ショウコさんは「戦時中」という言葉を使わない)に見聞きしたことを語るショウコさんの表情からは、父親を亡くした直後、見舞われた空襲の中を逃げ惑う17歳の少女の姿は、どうしても想像できないのだ。

父方の叔母さんと、若い新しいお母さんと、妹弟と一緒に、それでも笑顔の見える日常がショウコさんにもあった筈だと、自分で自分に言い聞かせながら、私は『紙屋悦子の青春』を見ていたような気がする。この映画の作り手は、ショウコさんより2歳年下なだけの、当時は鹿児島に近い場所に暮らしていた人なのだから・・・などと。


鹿児島の空襲についても、今回初めて少し調べてみた。

鹿児島市以外の県内の各所にも執拗に空襲は繰り返され、それは昭和20年の春から夏にかけてに集中しているという。米軍側の資料からは、沖縄戦の支援を目的に九州の各航空基地を攻撃するために展開された作戦のかなりの部分が、鹿児島県内を目標にしていたらしい数字もある。

私はショウコさんから聞いた「空襲」という言葉には、私の想像も及ばない回数、爆撃機の数があるのを知って、今頃になって愕然とした。(ショウコさんが「田舎」と言っていた国分も航空基地があったため、実際には10回以上も空襲の標的にされていた。)



この夏も、ショウコさんに会う機会があった。

ショウコさんは食事の際、隣に坐った孫のひとり(20代の友人)に、やはりいつとはなしに戦争中の話をし始めていた。

向かい側に坐っていた私には、話の内容は判らなかった。

けれどショウコさんの横顔には、以前私自身が聞いていた時には気づかなかった、ほとんど童女が一生懸命訴えているような一途さが感じられたのだと思う。

そして、うんうんと頷きながら聞いている孫の顔に浮かぶ、傷まし気な表情と対で見るともなしに見ている中に、私の中に「今書き留めておかないと、この思いは本当に私の中から消えてしまう」という危機感のようなものが生まれたのかもしれない。


ショウコさんの戦争には終りがないような気がする。

「戦争」は、一度それが起きてしまったら終戦を迎えようが、その後何十年も時が過ぎようが、(おそらくは勝ち負けという結果すら問わず)「終りがない」ものなのだとつくづく思う。



こんな支離滅裂の文章でも、書くことが出来て本当に良かった。長年持ち越している夏の宿題を1つだけ片付けることが出来たみたいで、ちょっぴり肩が軽くなったような気がしている。











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戦争の話 (お茶屋)
2010-10-13 19:34:11
小学生の甥に日本はアメリカと戦争していたというと、うそぉ~と言う感じでした(さもありなん)。
私が小学生の頃は、複数の学校の先生が空襲や腹ぺこだった体験談をしてくれたし、今でも両親から聴き出すことはできるのですが、ショウコさんのように問わず語りに話してくれる人はいません。
そのうえ、自分が聴いたことを甥たちに話せるかというと、自分の体験じゃないから話せてもインパクトは弱いだろうと思います。だから、体験者の生の声や姿を録画してyoutubeで公開するなんて話はとてもありがたいことだと思います。
もちろん、ムーマさんのように記録することはとても大事で、同じような思いから自分のブログに書いたこともあります。
それと同時に、普段は反戦平和を願う人たちであっても、マスコミに踊らされて、冷静さを欠いた世論が形成されると、何かのきっかけで火を噴きかねないということを認識して、いかにマスコミに踊らされないようにするか(対マスコミ防衛術)を会得しなければならないと思います。書き込みが固くなっちゃってスミマセン。

「それでも笑顔の見える日常がショウコさんにもあった筈だと」・・・そういう思い、とてもよくわかります。
戦争中の青春も暗いばかりじゃないことが描かれていた『紙屋悦子の青春』。これもありがたい作品でしたね。
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「戦争」の残すモノ (ムーマ)
2010-10-14 14:08:14
お茶屋さん、感想書いて下さってありがとうございます。「固い」コメント大歓迎です。

お茶屋さんの(前の?)ブログで読んだご家族の「戦争の話」、今も覚えています。(夏はそういうことを考える機会にしている・・・とも言っておられましたね。)
お茶屋さんの文章は、いつも「戦争を起こしてはならない」「群衆の1人として、戦争への流れに加担してはいけない」といった、「これから」に対する姿勢を、私に強く感じさせました。

でも、私の場合は、「いかにマスコミ操作に踊らされないようにするか・・・」といった、「現在」や「近い将来」についての自分の考え、姿勢といったものは、記事の中には入っていないのだと、お茶屋さんの書き込みを読んで、今回改めて感じました。

私は、ごく個人的な覚え書きとしてこのブログを始めました。
薄れていく自分の記憶を、(将来の自分のために?)今のうちに書いておきたい・・・ただそれだけのことで、眼はただ「過去」を見ているだけだったと思います。

そして、今もそれは全く変わっていないんだなあ・・・と。

ただ、そんな私の周囲にあった「過去」の風景の中で、なぜか「戦争」は圧倒的な影響力を持っていた・・・私の年齢(昭和29年生まれ)としては、そういった「戦争」の影は、やや奇妙なことかもしれません。

私の両親でさえ、戦争、戦場を実際に体験したというよりは、戦時教育、いわゆる「銃後の守り」に翻弄された人たちのように見え、さらにその次世代である戦後生まれの私の人生に、そこまで「戦争」が影を落とすこと自体、不思議と言えば不思議な話です。

けれど現実として、「戦争」は私の人生の基調の部分にしっかり食い込んでしまっていて、何を思いだしてもそこに影を落としている・・・そういう存在なのです。

例えば「ショウコさん」は夫の母に当る人ですが、彼女のことを思う時、一番最初に浮かぶのは「戦争の話」を語る際の横顔、口調なんですね。
亡くなった父や伯父についても、やはりそう。

近しい人たちの思い出が「戦争」抜きにはあり得ないっていうのは、一体どういうことなんだろうか・・・私にあるのは、そこまでだけなのだと思います。

私にとって「戦争」は、自分では何の体験もないのに「客観的」な存在ではないのかもしれません。(記事の中で、私が「両親が戦争で被った精神的な傷に巻き込まれて育った」と書いたのは、そういったことを指しています。)

・・・長々とヤヤコシイことを書きました。
私はただ、お茶屋さんのように「客観的」に「戦争」を見られる、感じられる(だから考えられる)ことが、ちょっと眩しかった?のだと思います。

「戦争の話」は私を、濃い霧の中に放り込みます。
ボンヤリとした何かに取り憑かれてしまったような状態になるというか。

でも、以前『靖国』が上映された頃に、いつか感想を書きますとどこかで約束したような記憶があるので、性懲りもなくまた書くかもしれません(笑)。

読んで下さって、書き込んで下さって、本当にありがとうございました。(私も「現在」「未来」に少しは繋がることを、いつか書けるようになるといいなあ・・・。)
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ちょっとだけ感想を (はにわ)
2010-11-01 14:59:42
ムーマさんの話は、「戦争」について語ったものが多いなあと
ずっと思っていました。よほどのお年かしら、と思うような切実さ・・。ブログを読み進む内に、「よほどのお年の方」ではなく
戦争体験を肌で感じるような環境におられのだ、と納得しました。
余談ですが、ペット・美食・旅行の華やかなブログが多いなか、ここのストイックさは、価値があるなあって、思っています。
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昔話ばっかりで・・・ (ムーマ)
2010-11-02 13:33:50
はにわさん、ようこそ~。

>戦争体験を肌で感じるような環境・・・

そうですね・・・結局そういうことだったんだと、はにわさんのコメント読んで改めて思いました。

感受性の柔らかな時期に「戦争」というものに出会ってしまった人間(例えば私の両親)は、次の世代にそれを引き継がせてしまうことがある・・・それくらい、「戦争」の傷跡は長く影響を残すのだと。

なんだか腑に落ちるというか、納得がいった感じがします。

本人はストイックからほど遠い人間にもかかわらず、ブログだけは自分でもガリガリに痩せた隠者風やな~と思っております(笑)。
ナマケモノで、全然変わり映えしないまま・・・なのに、褒めて下さって本当に嬉しいデス。

どうもありがとうございました。
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