富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(14)

2012年08月06日 09時04分05秒 | 昔話
14 善得寺(考)其の場所(6)
善得寺は草創の一次期を天寧庵として、須津の地に
8年を経過、「香語」の如くさらに西へ移転した。
大壇越上杉憲顯・禅助の意による良地を択んでの
移転であり、大勲策禅師を開山として名を福王寺とした。
臨済宗建長寺派に多い名であり、宗風の敷衍と言える。
これは又上杉の勢力を富士川の東岸まで広げた事
と他ならない。
応安3年の移転であり、場所は勢子の西とのみ記されている。
今まで一汎的に現在の福応寺の場所と考えられていたが、異
論を持ちたい。
勢子の西とは勢子村の西部か或いは勢子
(瀬古の地名の異字とし)の西との考えがあるが、
此処では瀬古の西と考え現在の地名「水の上」
辺と考える。
ただし現在の福応寺の付近で無く、福応寺の東の
「八軒村」呼ばれる地域と考える。これは現在の
福応寺の付近は岡であり、水利無く、八軒村と
呼ばれるの辺のみに水利が在り寺が
建てられたとの考えである。現在はこの辺には水利無く、
此処一帯は曾比奈熔岩流の地域で水の湧くところは無い
との由である。然しながら二中の北に大木の続く
窪地が続いており、水気を感ずるため尚勉強したい。

富士南麓の湧水地の変遷も勉強したい。
地図および窪地の写真を示す。






現在の八軒村(通称)の地の写真である。



現在の福応寺は、寺伝に依れば正徳2年(1712)
古岸和尚の開山とされている。由緒書には上杉憲顕を開基、
大勲策禅師を開山始祖としている。寛保3年(1734)
の火災で堂宇・資料はすべて失はれ不詳とされている。
福王寺は更に拡大され寺市場に移り、名も善得寺と
改められた。此処に善得寺城を築城するに当たり、
北廓(私称)の場所に鬼門鎮護として、善得寺の院外
塔頭の福王院を置いたと考える。福王院は善得寺と
共に衰微したが、古岸和尚が建長寺派依り妙心寺派に
改め福応寺と再興したと考える

現在の福応寺は北と東を大きな崖で区切られている。
これは善得寺城を築城する時此処を北廓(私称)の要害
とし北の大空壕に繋ぐと考えた。





善得寺城は今まで連郭式山城として、善得寺城と称する
図が一汎的にされているが、これは興国寺城の図とする
方々が在り、自分もこれに同調し、善得寺城は梯郭式
平城と考え後記したい。
以上にて「善得寺の位置」に就いての稿を終え、
以降伽藍等更には外伝善得寺城等に進めたい。
第一次   天寧寺   須津小県
 第二次   福王寺   今泉水の上
 第三次   善得寺   今泉寺市場     北條に依る焼き打ち灰燼
 第四次   善得寺   今泉瀬古      武田に依る焼き打ち灰燼
 第五次   善徳寺   今泉寺市場延寿堂  廃寺に依り法雲寺に合併