富士市今泉の昔話(17)外伝善得寺城(3)其の形
思はずの一憩、院中よりの送稿も壱興。
始めたばかりの稿続けたい。
善得寺城の形として連郭式山城の形はとり得
ないことを先記した。
場所は城山を中心とする梯郭式平城と考える時、
既に住宅が密集している為、何か地形的に城を
推定することが無いかと考えた。
等高線図を見たとき、明らかに差の見える窪地
の連続を発見した。本国寺の前より虎口を通り
北のk理髪店までの幅20m程の1m程度の
窪地である。これは大手門を含む西の大空壕の
跡と私見した。道路を造る時埋めきれなかった
名残の窪地ではないだろうか。
西空堀(私称)を考える時に東泉院の谷と福応寺
の前の谷が結ばれ平地化されているが、西空堀と
直交する北空堀(私称)が在った場所と考えられる。
これに出丸と考える東泉院と北廓と考えられる
福応寺の部分更に大空堀と東の沼南の川に囲まれた
本廓に依り善得寺城の姿が見えてくる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/8d/14a84e3b4650f46d8ff31082eab879bf.jpg)
本廓の中には、家康が北条征伐後、此の地より
善得寺御殿への道(後の今泉往還)を造って
いるが、不思議の曲折を為している。これは
掻き上げ式で為した空堀を埋めての曲折であり
三の丸・二の丸・本丸・水廓(私称)が
考えられ図示した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/1b/c39537da23aaaed500f3122efdb0cb99.jpg)
城の築城には四神相応の理が在り此の地は
それに適っている。北に富士山、西に根方街道、
南に和田川、東に「ガマ」(沼地帯)の配置
は当に果っている。出丸と本廓で根方街道を
扼している。根方街道は古くよりの主要地方道
であり、城の配置に意味が在ったかもしれない。
富士川の渡船場「日吉」依り根方街道として、
北行し鎌倉古道に達する古道が見える。
以上の構想に依り各所の写真・所見等記して見たい。
先ず本国寺前で大西堀の南端の写真である。和田川
は現在此処で南下し元の富士川の本流の位置に流れ
役目を変えた。雁がね堤に依る加島五千石の誕生
である。城の南の要害であった川の役は終え、
今泉郷地への灌漑は用成さなくなり、僅かに
田宿川の源流とのみ残るようになった。
此の時に別記する予定だが、中村三郎衛門
(清岩寺開基)が多大の財力・労力を掛けて
本国寺より堰枠(現在の地名となっているが
水位調節装置)まで水路を開設し、「新川」
と呼ばれている。顕彰碑が建てられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/91/4f83ddaf278bd87189a48490c52654af.jpg)
此処から北の虎口(大手門)の土橋までは水濠で以降の大西空堀に接続する。
この部分の東に星一(渡井呉服屋)が在り、西に日野屋と言ふ酒屋が在り共に勢を競って
いた。桑海の変である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/df/0cbd248d1d2e03c2f2e40d96a5e90bd0.jpg)
思はずの一憩、院中よりの送稿も壱興。
始めたばかりの稿続けたい。
善得寺城の形として連郭式山城の形はとり得
ないことを先記した。
場所は城山を中心とする梯郭式平城と考える時、
既に住宅が密集している為、何か地形的に城を
推定することが無いかと考えた。
等高線図を見たとき、明らかに差の見える窪地
の連続を発見した。本国寺の前より虎口を通り
北のk理髪店までの幅20m程の1m程度の
窪地である。これは大手門を含む西の大空壕の
跡と私見した。道路を造る時埋めきれなかった
名残の窪地ではないだろうか。
西空堀(私称)を考える時に東泉院の谷と福応寺
の前の谷が結ばれ平地化されているが、西空堀と
直交する北空堀(私称)が在った場所と考えられる。
これに出丸と考える東泉院と北廓と考えられる
福応寺の部分更に大空堀と東の沼南の川に囲まれた
本廓に依り善得寺城の姿が見えてくる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/8d/14a84e3b4650f46d8ff31082eab879bf.jpg)
本廓の中には、家康が北条征伐後、此の地より
善得寺御殿への道(後の今泉往還)を造って
いるが、不思議の曲折を為している。これは
掻き上げ式で為した空堀を埋めての曲折であり
三の丸・二の丸・本丸・水廓(私称)が
考えられ図示した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/1b/c39537da23aaaed500f3122efdb0cb99.jpg)
城の築城には四神相応の理が在り此の地は
それに適っている。北に富士山、西に根方街道、
南に和田川、東に「ガマ」(沼地帯)の配置
は当に果っている。出丸と本廓で根方街道を
扼している。根方街道は古くよりの主要地方道
であり、城の配置に意味が在ったかもしれない。
富士川の渡船場「日吉」依り根方街道として、
北行し鎌倉古道に達する古道が見える。
以上の構想に依り各所の写真・所見等記して見たい。
先ず本国寺前で大西堀の南端の写真である。和田川
は現在此処で南下し元の富士川の本流の位置に流れ
役目を変えた。雁がね堤に依る加島五千石の誕生
である。城の南の要害であった川の役は終え、
今泉郷地への灌漑は用成さなくなり、僅かに
田宿川の源流とのみ残るようになった。
此の時に別記する予定だが、中村三郎衛門
(清岩寺開基)が多大の財力・労力を掛けて
本国寺より堰枠(現在の地名となっているが
水位調節装置)まで水路を開設し、「新川」
と呼ばれている。顕彰碑が建てられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/91/4f83ddaf278bd87189a48490c52654af.jpg)
此処から北の虎口(大手門)の土橋までは水濠で以降の大西空堀に接続する。
この部分の東に星一(渡井呉服屋)が在り、西に日野屋と言ふ酒屋が在り共に勢を競って
いた。桑海の変である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/df/0cbd248d1d2e03c2f2e40d96a5e90bd0.jpg)