富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉に昔話(17)外伝 善得寺城(3)その形

2012年08月24日 16時20分30秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(17)外伝善得寺城(3)其の形 

  思はずの一憩、院中よりの送稿も壱興。
  始めたばかりの稿続けたい。

善得寺城の形として連郭式山城の形はとり得
ないことを先記した。
場所は城山を中心とする梯郭式平城と考える時、
既に住宅が密集している為、何か地形的に城を
推定することが無いかと考えた。

等高線図を見たとき、明らかに差の見える窪地
の連続を発見した。本国寺の前より虎口を通り
北のk理髪店までの幅20m程の1m程度の
窪地である。これは大手門を含む西の大空壕の
跡と私見した。道路を造る時埋めきれなかった
名残の窪地ではないだろうか。
西空堀(私称)を考える時に東泉院の谷と福応寺
の前の谷が結ばれ平地化されているが、西空堀と
直交する北空堀(私称)が在った場所と考えられる。
これに出丸と考える東泉院と北廓と考えられる
福応寺の部分更に大空堀と東の沼南の川に囲まれた
本廓に依り善得寺城の姿が見えてくる。



本廓の中には、家康が北条征伐後、此の地より
善得寺御殿への道(後の今泉往還)を造って
いるが、不思議の曲折を為している。これは
掻き上げ式で為した空堀を埋めての曲折であり
三の丸・二の丸・本丸・水廓(私称)が
考えられ図示した。





城の築城には四神相応の理が在り此の地は
それに適っている。北に富士山、西に根方街道、
南に和田川、東に「ガマ」(沼地帯)の配置
は当に果っている。出丸と本廓で根方街道を
扼している。根方街道は古くよりの主要地方道
であり、城の配置に意味が在ったかもしれない。
富士川の渡船場「日吉」依り根方街道として、
北行し鎌倉古道に達する古道が見える。

以上の構想に依り各所の写真・所見等記して見たい。
先ず本国寺前で大西堀の南端の写真である。和田川
は現在此処で南下し元の富士川の本流の位置に流れ
役目を変えた。雁がね堤に依る加島五千石の誕生
である。城の南の要害であった川の役は終え、
今泉郷地への灌漑は用成さなくなり、僅かに
田宿川の源流とのみ残るようになった。
此の時に別記する予定だが、中村三郎衛門
(清岩寺開基)が多大の財力・労力を掛けて
本国寺より堰枠(現在の地名となっているが
水位調節装置)まで水路を開設し、「新川」
と呼ばれている。顕彰碑が建てられている。









此処から北の虎口(大手門)の土橋までは水濠で以降の大西空堀に接続する。
この部分の東に星一(渡井呉服屋)が在り、西に日野屋と言ふ酒屋が在り共に勢を競って
いた。桑海の変である。