富士市を中心の郷土史

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富士市今泉の昔話(15)善得寺城

2012年08月09日 08時52分04秒 | 昔話
15 外伝 善得寺城(1)其の場所

善得寺城は今川範政が此の地を領した時にそ
の拠点として築城を始めとしている。其の
場所に関しては明示した図は無いが、古文書・
地形・地名等に推定しうるものが在るため、
まとめて私見を述べて見たい。応永24年
(1417)の築城である。

古文書に「和田川を濠とし荻の原の地に」
とある。富士川の本流が在るに抱はらず、
平流していた和田川の名にしているのは、
和田川の水量が多く壕となし得る状況
だったと思はれる。又荻の原の地として
いるが、現在この地に荻の原の名は無く、
さらに北の一色の地に名が残っている。
当時は上荻の原村と下荻の原村が在り名
は北にのみ残り、下には残っていない。
然し東泉院の記に荻の原の名が在り、
場所としては現在の富士市上和田の場所
としてよいと考える。

東泉院の資料に御殿地の図があり、徳川家康
の御殿の位置を図示している。(駿国雑志所載)
図を示すが此れには幾つかの興味の点が在る。
注記に下記が在る。
城は虎口の石積みより15間の地に城山、
一町の地に城跡。
家康の御殿は石積みより10町の地に。
今泉往還は同様に此処より発し家康の御殿後、
吹上の大宮道を北上し鎌倉古道に達している。
これは日吉より北上していた根方街道が此の
往還を経て鎌倉古道に至る道に変わったと
思はれる。此の往還が上和田の地で何故に
大きく曲折しているのか、私見したい

虎口(こぐち)とは城の大手門等を守るため,
設ける石積みの囲みであり色々の形が在る。
虎口(ここう)と読むと戦場での危険の場所・
時を言い虎口を脱すると言って危険を逃れる
時の慣用語である。虎口は其の役の為、外側
は狭く内側大手門側は広くなっており、今に
残る形は城の形を残している。石積みは昔の
物で無く時代は新らしいが。





此の地に城を感じさせる幾つかの地名が在る。
上和田区の城山。
上和田区の鍛冶屋瀬古。城に今の島田市より
刀鍛冶島田氏を移住させたと言われている。
武具を準備するための城に必要地名と
言はれている。

此の地の東に武家屋敷を考えさせる地名が在る。
立小路・向小路・西小路・曽我小路である。
義元は善得寺を瀬古の地に新設する時、揚げ水
(戦国時代城の為に遠方より高みに水を供給する
設備で大中寺に記が在る)として中島よりの
水利を造ったが、此の時末端を十王子神社の
高みまでサイフォンし、これよりこの武家屋敷の
地域まで流下させている。これは別記した。
武家屋敷と私見する向小路の写真を示す。
十字路の左は立小路、右は川戸道である。



善得寺城は以上の様に今泉上和田の地に在り、
規模はたんに東泉院の場所だけでなく、
上和田一帯の広さと考え、私見を進めたい。
























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